最近「アルプスの少女ハイジ」のアニメを子供とみている。
超有名な話だけど、実は見るの初めて。
この中に、「ロッテンマイヤーさん」と「クララのおばあさま」という登場人物がいる。
ロッテンマイヤーさんは憎まれ役に描かれているのだけど、悪人ではない。
ハイジは、19世紀のドイツで書かれた「現代劇」だ。今となっては時代劇だろう。
時代劇というのは、その時代のことを知らないと、登場人物の心情が理解できない場合がある。
ロッテンマイヤーさんのやっていることは「現代的に見て」理解しがたい部分があるのだけど、実は当時のドイツとしてはごく普通のことをやっているだけ。
彼女は悪人ではなく、「教育係」としての責任を果たそうとする、ごく普通の女性なのだ。
とはいっても、「アニメの」ハイジは、1970年代の日本で作られたものでもある。
僕は原作を読んでいるわけではなく、アニメ版を見て話をしているので、1970年代の日本の空気も反映されているのかな、と思っている。
でもね。実は、1970年代の日本と 19世紀末のドイツはつながっている。
アニメのハイジが名作と呼ばれたのは、もちろんクリエイターが良かったこともあるのだけど、19世紀末のドイツと、1970年代の日本が似た空気を持っていたせいでもある。
ロッテンマイヤーさんがクララやハイジに対して行っている教育は、当時のドイツでは「良い教育方法」とされていたものだ。
ロッテンマイヤーさんは、クララと同学年で一緒に勉強をできる頭の良い「学友」を探していた。
そこに、ハイジのおばさんがハイジを騙して連れていく。年齢も違うし、ハイジは学校にも行っていなかったのに。
ハイジのおばさんの行動の是非はさておき(これも彼女なりのやさしさではあったのだ)、ロッテンマイヤーさんにとっては、ハイジは想定とは違う、「いらない子」だ。
でも、ほおりだしたりはしない。クララがハイジを気に入ってしまったから、という事情はあるのだけど、理由はともかく自分のもとに来た子供を、立派な淑女に育て上げようと彼女は頑張っている。
じゃぁ、彼女の考える「立派な淑女」とは、どのようなものだろう。
ここには当時のドイツ人の「立派な大人」像が反映されている。
厳格で、寡黙で、易きに流されず、快楽にふけらず、我慢強く、目上の者の命令には従い、順序立てて物を考える論理性を持つ。
…当時のドイツ人じゃないから多少間違えているかもしれないけど、大体こんな感じ。
ようは「堅物」こそが良い人物像とされたし、ロッテンマイヤーさんはそんな堅物を目指しているのがよくわかる。
(彼女自身、生き物が苦手で逃げ出したりするので我慢強くはない。でも、そういう人物を目指している)
彼女はハイジのことを「アーデルハイド」と呼ぶのだけど、これはハイジの本名だ。
後半の「ハイド」が変化して、愛称である「ハイディ」になる。
(日本語では「ィ」という表記は本来なかったので、一番近い音は「ハイジ」となる。)
愛称というのは、言いにくい名前に変わって使われる「言い易い名前」だ。
だから、この名前で呼ぶのは「易きに流れる」ことになる。そんなことをしていたら立派な淑女にはなれない。
だから、彼女は「アーデルハイド」と呼ぶし、クララにも、ハイジ自身にも、「アーデルハイド」と呼ぶように言っている。
(実際のところ、彼女以外は誰も本名では呼ばないのだけど)
ハイジは学校に行っていなかったので、文字を読むこともできない。
クララの家庭教師に、一緒にハイジも教えてもらうように頼むときに、家庭教師はクララと同じ内容を教えつつ、ハイジが付いてこれるようにわかり易く噛み砕いた内容も教える、という方法を提案する。
でも、ロッテンマイヤーさんはこれを許さない。
順序立てて物事を考える論理性を養うためには、わかってもいない内容を「途中から」教えるのは害悪だからだ。
アルファベットから順に覚えさせないといけない、と、ABC(あーべーせー)から教えるように依頼する。
ハイジは毎日あーべーせーをやるのだけど、文字が何に使われるのかもわかっていないし、勉強に身が入らず、一向に覚えない。
クララは病弱なので昼寝の時間がある。
ハイジは、この時間は自室で自習するように求められた。
「自由時間」ではなくて、自習時間だ。でも、ハイジは部屋に閉じ込められて遊び相手もいない、というような状況で面白くない。
ロッテンマイヤーさんにとっては、我慢することを覚える、勉強の遅れを自ら取り戻す機会を与える、大切な学習だと考えている節がある。
#ハイジは我慢することを全く知らない、多動症ぎみのところがある。
だからこそ、ロッテンマイヤーさんは「我慢する」ことを教えたい。
ロッテンマイヤーさんはハイジのために良かれと思ってやっているのだけど、効果が上がらない。
効果が上がらないので、この方向での「教育」がエスカレートしていく。
ここに現れるのがクララのおばあさま。
雇い主(クララの父)の母上なので、ロッテンマイヤーさんは意見はするが逆らえない。
#目上の者の命令に従うのは、彼女の考える立派な淑女の条件だ。
おばあさまは、まずはクララの昼寝時間の間、自分がハイジを預かると言い出す。
そこで何か勉強を教えるのかと思えば、いわゆる「ぐりこ」を家の中の階段でやって遊び始める。
ロッテンマイヤーさんは遊んでいると思って怒るし、ハイジも一緒に遊んでいるつもりなのだけど、おばあさまは明らかに「教育」としてこれをやっている。
「ぐりこ」をやっているシーンは2回出てくるのだけど、1度目は初めて遊んでいるシーン。
ハイジは常に5歩ずつ歩いていて、おばあさまはすごく後ろから大声でジャンケンをしている。
ずっと時間が後になり、2回目のシーン。
ハイジが先に来ているのだけど、おばあさまは2歩づつ着実に追い上げ、ついにハイジを抜く。
ここで、ハイジとルールの再確認をしている。
ジャンケンで勝ったら、勝ったときの手がグーなら1、チョキなら2、パーなら5歩進める。
おばあさまは、これでハイジに「数の概念」を教えていたようだ。
そしてここで「勝ったら」というのが重要であることを教えている。
パーなら5歩、というのが得だと考えてパーばかり出していると、相手はチョキを出すようになる。
…と言って、意味を理解したハイジを見て、おばあさまは次のジャンケンでパーを出し、颯爽とハイジを引き離す。
ハイジに、相手が出す手がわかれば裏読みされる、ということを教えた。
ハイジは、これを聞いて裏を読み返そうと考え、自分がパーばかり出すからおばあさまはチョキを出すのだ、ならば自分はグーを出せば勝てる、と戦略を切り替える。
しかし、おばあさまは今話をきいたハイジが行動を変えることを予測し、グーを出すだろうと考えパーを出したのだ。
単純とはいえ、ゲームにおける心理戦というのは奥が深い。
おばあさまは容赦なくハイジをそこに叩き込んだのだ。
ここにきて、「勝たせて楽しみを教える」という方法から、「本気でぶつかることで、悔しがらせて考えさせる」方法に切り替えている。
おばあさまはハイジに優しいのだけど、甘やかしていては、本当の力は育たない。
そんなこともちゃんと理解して教育を行っている。
もう一つ、おばあさまはハイジに初めて会ったとき、お土産として童話の本を渡す。
どうも、読みやすい短いお話がたくさん入った、全集のようだ。
ハイジが「字が読めない」と言ったら、この本はたくさん絵が入っているから、絵を見ているだけでも話がわかる、と答えている。
そして、この日は夜ベッドで読み聞かせをやってあげた。
次の描写は、多分1週間くらいたっているのだろう。
ハイジは「毎日同じお話を読んでもらっていたので、内容を覚えてしまった」と言っているので。
内容を覚えてしまったハイジは、たどたどしいが物語が読めるようになっている。
実は、「読んでいる」のではなくて、おばあさまの言葉を思い出しながら、書かれている語句と対応が付いていることを「確認」しているのだけど。
途中でお話を忘れると、絵を見て思い出し、そこから単語を類推している。
本当にわからないときはクララに聞いて教えてもらう。
こうやって、興味を持ち始めたらあっという間に字が読めるようになってしまった。
「あーべーせー」から順に覚えていく、というのは当時の教育方法としては標準的なのだけど、ハイジはこれでは覚えられなかった。
文字が何のためにあるのか理解していなかったからだ。
ロッテンマイヤーさんは「順番に覚える」ことを重視していたのだけど、おばあさまは順序を多少変えても、理解を進めることを重視した。
ところで、19世紀ドイツの文化は、開国したばかりの日本に強い影響を与えている。
開国した日本は、欧米列強に並ばなくてはならない、と強い危機感を抱いた。
日本が「近くの大国」だと思っていた中国(当時は清)は、アヘン戦争でイギリスに負けていたからだ。
政府は欧米の社会制度を子細に検討し、ドイツをお手本とすることに決める。
皇帝を頂点とする体制が、天皇を頂点とする体制と類似性があったこともあるし、ドイツ人の勤勉さが日本人と似ていたこともある。
ドイツ人の考える「立派な大人」の像は、日本人の考える「立派な大人」像と非常に似ている。
「雨にもまけず、風にもまけず…」と非常に近い。
ドイツの影響を受けてそうなった、というのではなく、江戸時代からそうだった。
だから、似ているドイツの体制が新政府の参考にされたし、教育制度にも色濃く影を落とした。
戦前の日本の教育制度は、寺子屋制度の名残と、ドイツ式の教育方法を混ぜたようなものだ。
大戦でアメリカに負けてから、アメリカ式の教育方法を取り入れようともしているのだけど、こういう習慣は急に変えられるものではない。
アニメ版の「ハイジ」が作られた 1970年代は、教育ブームが過熱したころでもある。
(1970年代後半には「受験戦争」という言葉も作られている)
アメリカ式の学習方法を導入しようという動きはあっても、そんなことは一部の人が思っているだけの状況で、戦前の教育方法が強化される形になってしまった。
つまりは、ロッテンマイヤーさん式に、常に勉強を強いて、自由を与えない方式。
勉強時間が増やせるだけでなく、忍耐強さも身につくので将来良い大人になる。
当時はそう信じられていたし、当時そう教え込まれた人は今でも信じている。
もちろんそれに対する反発もあり、この方式を取る人は「教育ママ」もしくは、怪獣になぞらえて「教育ママゴン」などと揶揄された。
ハイジのアニメ版はそんな時代に差し掛かるころに投入されたので、わが身に重ねる人もいただろう。
「名作」というのは、そうした時代の空気に寄り添うことによって生まれる。
おばあさまのように「楽しみながら考える力を身につけさせていく」というやり方は、アメリカでよく用いられる教育方法だ。
別にアメリカ発祥、というわけでもなくて、頭のいい人は昔から実践していたと思う。
ただ、アメリカでは公的教育でもこの方法が受け入れられているので、ここではアメリカ式と呼ばせてもらう。
#アメリカは多様性の国で、ドイツ式の教育方法を取っていないわけではない。学校ごとの自由裁量だ。
実情としてどの程度の割合なのかは、僕自身がそれほど詳しくないので知らない。
アメリカ式では、教師は「教える」立場ではない。
子供が自ら考えるのを促し、考えに行き詰って相談しに来た時に、正しい道に戻してやる立場だ。
クララのおばあさまは、ハイジと「ぐりこ」をやって遊びながら、数の概念と相手の立場に立って考える、ということを教えた。
童話集を繰り返し読み聞かせ、暗記させたうえで「後は自主性に任せる」ことで、ハイジは文字を覚えた。
どちらも、「教える」という立場ではなく、自発的に気づくように仕向けたのだ。
ただ、おばあさまはどうもこのやり方の限界を知っているようだ。
ハイジには教育をしているのだけど、すでに勉強が進んでいるクララに対しては、特に何もしようとしていない。
アメリカ式の教育方法は「自分で考える」ことを覚えさせるのにはいいのだけど、知識を授けるのには適していない。
そして、正しい知識を持たずに考えだけを先行させると、道を踏み外していることも気づかずに、間違ったゴールにたどり着いてしまう。
でも、ドイツ式だと、ハイジのような…勉強についていけない「落ちこぼれ」を生み出しやすい。
また、知識だけ詰め込まれても、その使い道が全く理解できず、「考える」ことができない大人も生み出す。
1960~1980年代に詰め込み教育を受けた大人は、今の日本を支える年代になっている。
しかし、「詰め込まれた知識」と同じ状況には適応できるけど、新しい状況には適応できない世代だ。
職場でパソコンを活用しようとしたら「手書きでやれ」「電卓でやれ」なんて言い出すのはこの世代だろう。
自分が詰め込まれてないものは理解できないし、理解しようとも思わない。
しまいには、考える力を重視し、詰め込むことをやめた世代を「ゆとり」だなんて揶揄し始める。
考えることができないから、考える力を持った世代、というのがどういうものかも考えられない。
まぁ、僕もその世代に属しているので、揶揄されて迷惑している世代には、代表してお詫び申し上げる。
詰め込み教育の弊害世代、と考えてくれ。僕らの世代もまた、教育の方法の被害者なのだ。
#ついでに言えば「毒親」と言われるのだってこの世代だ。
時代の流れや、想定しない(習っていない)状況への理解力が乏しいのが根本部分にあるように思う。
さて、先ほどからロッテンマイヤーさんを「ドイツ式の教育方法」と書いているのだけど、最初に書いた通りこのお話は 19世紀のものだ。
今のドイツは、こんな古臭い方法はとっていない。アメリカ式と大体同じらしい。
#もちろん、文化を反映して多少の違いはあるだろう。
知識はもちろん重要だ。先に書いたように、正しい知識を持っていないと、迷走して誤ったゴールへ向かってしまう。
だけれども、現代は知識を得るのが簡単な時代でもある。
得た知識が正しいかどうかの検証方法…多くの情報を比べて「自分で考える」ことを理解していれば、知識を詰め込む必要は、それほどない。
現代では、知識よりも考えることのほうが重視されているのだ。
そこで、日本でも4年後をめどに、アメリカ式の教育方法に切り替えるべく準備を進めている。
先に書いた通り、徐々にアメリカ式を取り入れては来ているのよ。
ゆとり教育だって、「詰め込みをやめて自分で考える」教育だった。
これは成功していて、上の世代よりも考える力を持っている人が増えている。
データにもちゃんと出ている。
でも、そのゆとり教育だって、先生は先生だったのね。
ロッテンマイヤーさんに「優しくしてね」って頼んでいるだけで、おばあさまではなかった。
でも、4年後をめどに、ロッテンマイヤーさんをおばあさまに変えようとしている。
大きな転換点になると思うのだけど、多分そのことを理解する大人は少ないだろう。
(先に書いたけど、今の大人は「新しい状況に対応できない、詰め込み教育の弊害世代」だ)
一番障壁になりそうなのが、先生の意識が変えられるかどうかだと思う。
ロッテンマイヤーさんをおばあさまに変えたい、と言ったって、先生を全員解雇して別の人になんかできないのだ。
最後にハイジの話に戻るけど、「ロッテンマイヤーさんとクララのおばあさま」のように、2人の人物が対照構造になっていることが、このお話の中には非常に多いように思う。
幼く人懐こいハイジと、老齢で人嫌いなおじいさん。
見るものすべてが新鮮で喜びにあふれているハイジと、目が見えずに悲観的なペーターのおばあさん。
ハイジ自身は快活で聡明な女の子で、最初の友達であるペーターは内気で考えるのが苦手な男の子。
ハイジは山でしか暮らしたことが無く、クララは家からほとんど出たことが無い。
全てが対照的になっている。「普通の人」はあまり出てこなくて、極端な人物が多い。
でも、そこに善悪はない。誰もがいい人で、ただ両極端に位置しているだけ。
いつの時代でも通用する普遍的な構造だから長く愛されているのだろう。
ロッテンマイヤーさんだって、ハイジのことを思っているから厳しく躾をして、立派な淑女にしようとしたのだ。
やりすぎていたのは事実なのだろうけど。
詰め込み教育の弊害世代から言わせてもらうと、教育も完全に「おばあさま」モードに切り替えるのではなく、ロッテンマイヤーさんにも活躍の機会を残してほしい。
結局、「やりすぎ」は問題を生じるのだから。
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