長男が紙で中将棋の駒を自作し始めた。
しばらく前から将棋に興味を持っているのだけど、その興味は「将棋と類似のゲーム」にも向いている。
家にも象棋はあるし、チェスならパソコンで遊べるソフトもある。
でも、誰に似たのかマイナーなものを面白がる性格のようで、「家にある」ようなものでは面白くない。
最近では、「中将棋を遊んでみたい」と言っていたのだけど、どうもルールに不明な点があったようだ。
それを、図書室で中将棋について詳しく書かれた本を見つけ、ついに駒の自作を始めた、という次第。
話は急に変わるが、将棋って、「ウォーシミュレーション」の一種だ。
個性のあるユニットを動かし、それぞれの得意を活かし、欠点をほかの駒で補う形で戦う。
いわゆるウォーシミュレーション…パソコンでは現代大戦略とか懐かしいのだけど、そういうゲームではユニットごとの「強さ」もある。
隣接したマスで戦闘状態となり、サイコロと強さの勘案によって戦闘の勝敗を決する。
でも、将棋ではユニットの強さは存在せず、個性は「移動範囲」のみだ。
ウォーシミュレーションでは、1ターン(片方が戦略を考える期間)で、すべてのユニットが行動できる。
でも、将棋では1ターンに1ユニットの移動のみだ。
将棋が単純すぎるとか、ウォーシミュレーションがリアルだと言っているのではない。
どちらもシミュレーションにすぎず、リアル…現実には程遠い。
シミュレーションで大切なのは、現実のモデル化であり、モデル化に必要なのは、計算可能な範囲の複雑さの中で、最大限に現実を模倣することだ。
「気軽に」楽しむゲームとしてのシミュレーションとしては、計算可能な複雑さが低いため、将棋はうまくモデル化できている。
ウォーシミュレーションはコンピューター以前からボードゲームとして存在していたが、複雑すぎてマニアでないと遊ばなかった。
パソコンの普及により、計算可能な複雑さが上がったために一般に楽しまれるようになったに過ぎない。
さて、話を中将棋に戻す。
中将棋は、今ではほとんど遊ばれていない将棋の一種だ。
チェス(の元となったゲーム)が中国を通じて日本に入ってきて将棋となった。
その後、日本で改良されて「大将棋」というものが作られる。
この大将棋、記録に残ってはいるが、本当に遊ばれたかどうかすら怪しまれていたそうだ。
現代では「どうも本当に遊んだらしい」と考えられているが、怪しまれるほど複雑怪奇。
普通の将棋(本将棋と呼ばれる)は、縦横9マスの全81マス、双方8種類・20駒を使って戦う。
これに対し、大将棋は縦横15マスの全225マス、双方29種類・65駒を使って戦う。
規模…つまり、計算可能な複雑さが全然違う。同じ将棋という名前が付いてはいるが、大将棋はまるでウォーシミュレーションのようだ。
それがゆえに、考案されてもしばらくして廃れてしまったようだ。
そして、大将棋を少し整理し、簡略化した「中将棋」が普及する。
江戸時代には、将棋の強いものには幕府から給与が出ていた。
これが「ウォーシミュレーション」だから、太平の世においても武士の勝負勘を養うのに有用とされていたのだろう。
しかし、江戸時代が終わるとこうした給料も無くなり、急激に将棋が衰退する。
中将棋もその時に、事実上なくなっている。
(一部の愛好家が「文化を失くしてはならない」と頑張ったため、現代にもルールなどが伝わっている)
さて、幕府の庇護が無くなったから中将棋が無くなった、というのであれば、なぜその時に本将棋は無くならなかったのだろう?
本将棋は、先に書いた「計算可能な複雑さ」と「現実のモデル化」のバランスが、一番とれていたからではないのだろうか?
一番バランスが良い、というのを現代的に言い直すならば「ゲーム性が高かった」ということだ。
もっと簡潔にいえば「面白かった」の一言に尽きる。
面白いゲームだけが生き残り、そうでないものは淘汰される。
非常にわかりやすい話だ。
これ、今でも同じことが繰り返されている。
新しいタイプのゲームジャンルが確立すると、真似をする会社(フォロアー)が急激に現れ、差別化のために複雑さを増していく。
最初のうちは「より面白くなっていく」こともあるけど、ある地点を超えると、複雑さを増やすことがマイナス要因になっていく。
でも、差別化のために複雑さは加えられ続け、最期にはユーザーが離れ、そのジャンルが終焉する。
終焉するとは言っても、「一番面白かった」もの…最終形よりもはるかに単純だった時代のものは残り、後世に伝えられていく。
こう書いただけで、「あぁ、あれのことか」と想像してしまう人も多いと思う。
いや、ここで書いた「あれ」とは、僕が特定の何かを示唆しているという意味ではない。勘ぐらないでいい。
ただ、世の中すべてのゲームジャンルで同じ構造が見られるので、枚挙にいとまがなく、誰だって自分の好きなジャンルで例を挙げられるだろうということなのだ。
以前書いたけど、僕は「悪魔城ドラキュラ」というファミコンのゲームが好きだった。
スーパーマリオなどの横スクロールジャンプアクションに属するのだけど、ホラータッチの独特の世界観と、「ムチ」という特殊な攻撃方法が差別化要素となっていた。
このゲームは大ヒットしたので続編が作られる。
しかし、この続編が…好きな人もいたと思うので申し訳ないのだけど、僕にとっては余計なものだった。
どんどん新要素が付け加えられ、僕にとってはどうでもよいゲームになっていく。
X68k で、初代がリメイクされ、これは素晴らしい出来だった。もちろん「新しい要素」は加えられているのだけど、初代の良さを「邪魔しない」追加方法だった。
つまりは、初代は良かったけどそれ以降はつまらないと思っている人が、僕以外にもいたということだ。
「後世に残したい単純なもの」としてリメイクがなされたのだと思っている。
同じように、ROGUE も好きだが、NetHack や Angband は別に好きではない。
でも、風来のシレンは好きかな。ドラキュラにおけるリメイク、のような位置づけ。
スーパーマリオもたくさん続編があるけど初代が好き。
「夢工場ドキドキパニック」(のちのスーパーマリオUSA)も好きだけど、これは関係のない話か。
ミスタードリラーも初代が好き。
コラムスは、リメイクである97が好き。
初代も捨てがたいが、それ以外は別に好きではない。
複雑さを増す要因は2つある。
1つは、いわゆる中二病。「俺の考えたやつのほうがおもしろいぜー」って追加要素を入れるのだけど、いたずらに複雑化させるだけで、実は面白くない。
面白くない、と書いたけど、大抵入れたときには「おぉ、本当に面白れーじゃん」と周囲が受け入れる。
それは、既存のゲームに飽き始めているから。新しい要素が入れば何でも面白く感じる、というだけ。
このルール、実は面白くないんじゃない? と気づくのはかなり時間がたってからで、その時には周囲全員が遊んでいるルールを「今更戻そう」なんて誰も言い出せず、複雑なルールが残り続ける。
時々、思い切ってルールを単純化することで面白さを演出する、という試みをする人が出ることもある。
将棋においては、近年の「どうぶつしょうぎ」が良い試みだった。3*4マス、各自4種類・4駒で戦うのだけど、ちゃんと将棋として成立していた。
ゲームではないけど、SNSの世界では、思い切った簡略化を行ったのが Twitter だった。
でも、これは簡略化しすぎで、後で少しづつ機能を追加している。簡略化された世界観に合わず、ちぐはぐな拡張も見受けられる。
簡略化したいのか複雑化したいのかわからない態度に、日本以外では急速にユーザー離れが進んだそうだ。
逆に、いろんなSNSを分析し、問題点をすべて解消しようとして複雑怪奇な仕組みを作ったのが Google+ だ。
確かに問題は解消されているのだけど、複雑すぎる。複雑さを乗り越えてまで使いたいと思う人が少なく、ユーザーが少ない。
話を戻して、複雑さを増すもう一つの要因は、商業上必要な差別化だ。
根本からゲームを練り直してオリジナルを作るのが、一番の差別化になる。
でも、全くのオリジナルは、売れるかどうかもわからない。商売としてはギャンブルで、実はよくない。
それよりは、流行したゲームの後追いをしたほうがいい。
「本家」ほど売れないとしても、そこそこの需要は見込める。うまくいけば本家のユーザーをごっそりいただけるかもしれない。
こう考えると、元となるゲームをほぼ模倣しつつ、新しい要素を一つだけ付け加える、というのが最良の戦略とわかる。
これが、商業的なゲーム作成における、一番上手な差別化の方法だ。
数多くのフォロアーのゲームのうち、ヒットが出ると、またそのフォロアーが出る。
繰り返すうちに、ひとつづつ付け加えられた要素が重なり合い、複雑さの度合いを増す。
「ディフェンダー」を真似して「スクランブル」が作られ、それを真似して「ゼビウス」が作られ、「グラディウス」「R-TYPE」と続き…という流れだな。
その陰に、消えていったフォロアーが山ほどある。
「フォロアー」は何も他社ばかりではない。続編を作るのだってフォローのうちだ。
これは伝聞なので間違いもあるかもしれないが、「ミスタードリラー」は、発売前にかなりいろいろ実験をしたそうだ。
その結果、一度複雑さを十分に増し、それらの複雑さを排除し、一番面白いバランスになるところを見つけて発売、という方法をとっている。
そして、面白かったから大ヒット。大ヒットしたゲームの常として、続編が求められた。
すでに「これ以上複雑にするとつまらなくなる」境界を見極めているのに、続編で差別化を行わなくてはならない。
スタッフは反発したが、会社命令で作らなくてはならない。
企画書に「スーパーミスタードリラー2ダッシュターボZ」とかってタイトルを書いたらしい。もう、これ以上続編が作れないように。
この名前は許可されず、「ミスタードリラー2」という普通の名前になり、シリーズは続くのだけどどんどんつまらなくなっていった。
これ、会社が悪いとかスタッフがかわいそうという話ではないよ。
商業主義、資本主義では、スタッフが望んでいなくても「ファンが望む限り」続編を作らないといけないのだ。
ひどいのは会社ではなく、ファン。
続編を出さないと「続編ないのですか」と言い続け、続編を作ると「つまらなくなった」と酷評する。
でも、それは悪いことではなく、ファンの権利だ。ファンがお金を出すことで会社は潤うのだから。
これが資本主義の仕組みだから仕方がない。
そもそも、作られたゲームの多くは、ファンもつかずに消えていく。
ファンがついて続編を望まれるだけ幸せだというものだ。
2018.4.18 追記
上の話、書いた通り「伝聞」で聞いただけでした。
現実はちょっと違うようで、ドリラーシリーズのプロデューサーさんがツイートしていたので、リンクしておきます。
(引用許可は取っていないのでリンクのみ)
2の時じゃなくて、G(3作目)の時の話だって。
名前も、長いのではなく「Z」ってつけただけだって。
(でも、これ以上続編は作らないつもりで名前決めたら却下された、というのは事実)
話は急に変わる。
ここは個人的な思いなのだけど、「複雑さ」にも2種類あると思っている。
ルールの複雑さと、状況の複雑さだ。
状況が複雑になると、判断しなくてはならないことが増える。
でも、ルールが複雑になると、判断が面倒になる。
ゲームの面白さは、多数の選択肢から判断を行い、その結果が判定されること…にある。
だから、状況の複雑さが増すのは、ゲームの面白さを増すうえで有用だ。
ただし上限はある。
人間の把握能力を超えるほど複雑だと、判断基準が失われて「運任せ」つまり判断の放棄につながる。
ルールを複雑にすれば、間違いなく状況は複雑になる。
でも、ルールが複雑になると、判断するときに考慮しないといけないことが増えて、面倒になる。
こちらも、最終的には判断の放棄につながる。
一番の上策は、ルールは単純明快にもかかわらず、状況が十分に複雑な状況を作り出すことだ。
ただし、そのようなルールを組み立てることは非常に難しい。
「状況判断」という言葉から連想しやすく、パズルゲームを例にとろう。
多くの人が知る名作パズル「倉庫番」は、ルールの設定が巧妙だった。だから名作だと言われるのだけど。
画面上には、たった5つのキャラクター。
「自分」と、荷物、壁、空地、そして「置き場所」。
自分を動かし、荷物を押すことができる。そして、すべての荷物を置き場所に収めれば成功。
壁は押せない。そして、荷物はその向こうが空地でないと押せない。
ルールはたったこれだけだが、非常に多彩な面構成が作り出せ、パズルとしてよくできていた。
「チューチューロケット」もよくできていると感心したな。
画面内には猫とネズミがいる。
いずれも直進し、壁にぶつかると右折する。
すべてのネズミを「ロケット」に誘導し、脱出させる。
猫がネズミ、またはロケットに触れれば失敗。
ユーザーは、事前に「矢印パネル」を置くことができる。
このパネルの数は限られているが、猫・ネズミを矢印方向に誘導する。
基本ルールはこれだけ。(細かなルールがもう少しある)
でも、倉庫番と同じように非常に多彩な面構成が作り出せた。
パズルとして、逆に「ルール設定が複雑すぎる」と思ったゲームもある。
ワリオの森。過去にどう複雑すぎるのか説明しているので、詳しくはそちらを見てもらおう。
複雑怪奇なルールで、ルールに従ってパズルを解く、ということ自体が困難。
面白くないのか、といえばそんなことはない。面白かった。
でも、良いゲームだとは思わなかった。
状況判断はパズルに限らない。
アクションゲームだって、ルールが複雑怪奇であるよりも、単純明快なほうがいい。
その中で、瞬時の状況判断を楽しめるように、複雑な状況を作り出すようにするのだ。
スーパーマリオなんかは、ヒップアタックとか空中での回転(ジャンプ時間延長)とか、複雑な操作が増えすぎて面白さを落としてしまっている、と思う。
もちろんそうした操作による操作の多様性で面白さを作り出している部分があるのは認める。
でも、初代スーパーマリオだって十分に面白い。単純明快な良さというのは存在する。
操作方法を増やした、というのは、複雑さを上げる方法としてはあまり上手な方法ではなかったと思うのだ。
シューティングゲームなんかでは、パワーアップ方法とかが「複雑なルール」を作り出す中心になっている。
敵にぶつかったらダメで、敵を撃てば撃破できる、という単純さは変わらない。
そもそも、シューティングは単純な爽快さが求められているものも多く、いたずらにルールを複雑化することはできない。
とはいえ、ルールの中の些細な部分…「画面上に同時に表示できる敵弾数」とかが、技術の進歩により飛躍的に増えた。
これだけで、弾除けの状況判断がずっと複雑になり、面白さが変わってきた。
いわゆる「弾幕シューティング」の誕生だな。
こういうのは、複雑にするうえで上手な処理方法だったと思う。
対人対戦、というのも、上手な方法だった。
元々 CPU 対戦ができるようなゲームなら、ルールは全くそのままで、ただ CPU ではなく人と遊べるようにするだけ。
でも、人はコンピュータープログラムに比べて、ずっと複雑だ。
これだけで状況は限りなく複雑になる。
話がだらだらと長くなったので、最初に戻して締めくくろう。
ゲームを面白くするためには、状況をより複雑にし、「判断の選択肢」が増えると良い。
そのために、大将棋・中将棋では盤面を広げ、駒の種類・数を増やした。
でも、これによりルールが複雑化しすぎ、遊ぶ際に面倒が多くなって、廃れたのだと思っている。
本将棋(いわゆる将棋)だって、元となるゲームからルールは拡張されている。
しかし、盤面はそれほど広げていないし、駒の種類もそれほど増えていない。
でも、たった一つだけ、他のどのゲームにもない独自ルール拡張がある。
それが「持ち駒」だ。相手から奪った駒を、自分の駒として戦場に投入できる。
この「持ち駒」が大発明で、ルールとしては単純であるにもかかわらず、状況判断を非常に複雑なものにしている。
結果として、大将棋・中将棋よりも面白さを獲得し、最終的に生き残ったのだろう。
ルールの追加方法としては、かなり上手な処理だったと思う。
ゲームに追加アイディアを入れる際の、理想的なお手本である。
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