目次
2024-08-31 【訃報】アンドリュー・グリンバーグ
2024-02-29 シーモア・パパート 誕生日(1928)
2024-01-05 【訃報】ニクラウス・ヴィルト
2022-03-17 【訃報】近藤淳さん
2021-12-09 【訃報】上村雅之さん
2020-04-15 【訃報】ジョン・ホートン・コンウェイ氏
2019-03-29 村井純 誕生日(1955)
2019-03-19 ジャングルウォーズ2 発売日(1993)
2019-03-18 COMPET CS-10A 発表日(1964)
2019-03-13 デヴィッド・カトラー誕生日(1942)
2019-02-25 2D-APT II 発表 (1959)
2019-02-21 ファミリーベーシック V3(1985) ディスクシステム(1986)の発売日
2019-02-19 「蓄音機」特許の成立日(1878)
2017-07-12 ジョージ・イーストマン 誕生日(1854)
2017-04-19 地図の日
2017-04-14 フィル・カッツ 命日(2000)
2017-03-31 西角友宏さん 誕生日(1944)
2017-03-28 X68000 発売日 (1987)
2017-03-22 2つの特許の出願日(1971)
2017-03-16 タネンバウム教授(1944) ストールマン(1953) 誕生日
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8月30日、アンドリュー・グリンバーグ(Andrew Greenberg)が亡くなられたそうです。
BASIC で、Wizardry のプロトタイプを作成した人。
これを元に、ロバート・ウッドヘッド(Robert Woodhead)が Pascal で書き直したのが市販版になります。
それぞれ、名前を逆さ読みした ワードナ (Werdna) とトレボー (Trebor) として有名。
トレボーは Wizardry に登場する王様の名前、ワードナは最後のボスの魔法使いの名前ですね。
Wizardry についてはいろいろと語りたいこともあるのですが…
訃報を知ったのが夜なので、日付が変わる前に記録として、この内容だけで投稿しておきます。
別年同日の日記
15年 DOSBoxで日本語表示・JP106キーボード・UBASIC
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今日は珍しい「うるう日」。
LOGO 言語の設計者、シーモア・パパートの誕生日です。
…以前書いているのですが、間違えて 3/1 に書いてしまったので、リンク張っときます。
4年に一度のチャンスなので。
別年同日の日記
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Pascal 言語の開発者、ニクラウス・ヴィルト氏が1月1日に亡くなったそうです。
過去に氏の誕生日記事として、Pascal の話など書いています。
設計の良い言語でした。
言語構造が美しいので多くの人が将来普及するだろう、と考えていたのですが、美しさというのは「勝手なことがしにくい」ことでもあります。
Pascal と同じ祖先をもちながら、言語の作りが緩く、暴走させることすら自由にできる C 言語の方が普及し、いまに至ります。
この日記は、訃報を知ったので記録のために記したのみです。
別年同日の日記
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近藤淳さん、3月11日に亡くなった、と昨日公表されました。
いつも、わざわざ訃報を取り上げたりするのは、コンピューター関連の人であることが多いです。
でも、今回はそうではなくて、個人的な思い入れ。
金属を十分に冷やすと、電気抵抗がゼロになる場合があります。これを「超電導」と呼びます。
一般的には、冷やせば冷やすほど抵抗は小さくなります。
しかし、一部の金属では、ある程度以上冷えた場合に、抵抗が大きくなります。
この現象が、なぜ起こるのかわからなかった。
この現象を、極小の世界の粒子の挙動として理論的に説明し、解明したのが近藤さんです。
このため、この現象は「近藤効果」と呼ばれており、この現象が起きる合金を「近藤合金」と呼びます。
自分の過去がばれてしまいますが、僕が大学在学中に、学んでいたキャンパスで教授をやってました。
もっとも、別の学部だったため、僕とは直接の関係はありません。
当時から近藤さん…以降は学生当時の気分で近藤先生と書きますが、先生はノーベル賞候補とされていました。
同じキャンパスにノーベル賞候補がいる、というのは、学生の間でも話題なっていました。
僕が大学に入学したのが、1990年。近藤先生が赴任したのも同年です。
学部が違うと言ってもそれほど大きくない大学でしたから、学部を超えて、先生同士の飲み会などはあります。
行動力のある奴が、その飲み会に潜り込み、近藤先生から直接話を聞いてきました。
それで、近藤効果がどのようなものであるかを知りました。
当時は、高温超電導が発見され (1986年) 、しかし、なぜ高い温度で超電導になるのか、十分に解明できていませんでした。
だから、ここにも近藤効果は関係があるかもしれない、というので、すごい理論を打ち立てた人なのだなぁ、と思った覚えがあります。
ただ、同時に近藤先生自身は、ノーベル賞をもらえるとは思ってない、とも。
近藤効果の研究が凄いことは事実で、他の多くの研究から引用され、下敷きとなっています。
そのため、確かに以前はノーベル賞候補と考えられていました。
しかし、近藤効果でも謎の残る部分の研究から、新たな学問が芽生え、その理論を打ち立てた人が 1982 年に物理学賞を受賞しています。
また、高温超電導でも、その発見者が 1987 年に物理学賞を受賞しています。
普通、一つの分野から2回表彰されることはありません。
なので、近藤先生は、自分は表彰されることは無いだろう、と考えていたのです。
以前は、ノーベル賞の発表時期には、マスコミの人が大勢、近藤先生の自宅に集まっていたそうです。
しかし、この時点(1990年)では、そうした人も来なくなり、ただ昔なじみの新聞記者が、必ず来てくれたそうです。
受賞の知らせが来ることは無いだろう、と思っていてもお互い口には出さず、電話のそばで、酒を酌み交わしながらおしゃべりを楽しんでいる。
近藤先生はそう言っていたそうです。
しかし、近年では技術の進歩により、ナノテクノロジー…量子力学の世界での技術が実用化されています。
そうした世界では、やはり近藤効果の理解がまだ重要なのだそうです。
再び近藤先生の研究を引用する研究も増え、ノーベル賞の有力候補、とされるようになっていたのだとか。
同じキャンパスにいた、というだけの縁ですが、ご冥福をお祈りします。
別年同日の日記
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ファミコンの開発者、上村雅之さんが亡くなったそうだ(12月6日)。
…と書いたところで、僕は氏のことをほとんど何も知らない。
名前は聞いたことがある、という程度だが、多分名前だけ聞いても誰だかわからず、「ファミコンの」という接頭語がつけば思い出すレベル。
自分の記事の中で思い出すのは、世界初のテレビゲーム機について書いた文章の中の、ODYSSEY (1972) の項目の、最後のリンク。
一番良く思い出すのがリンクっていうのはどうなのか、と思うのだが、今見に行ったらリンク切れになっていたので、waybackmachine につなぎなおした。
まぁ、読んでみて欲しい。
上村氏が、ファミコン以前に「光線銃」というおもちゃを任天堂で作成したこと。
その光線銃が良くできていたので、世界初の家庭用テレビゲーム機とされる ODYSSEY の周辺機器としての「光線銃」作成のオファーがきたこと。
ここで、任天堂は「テレビゲーム」というものを知り、のちに自分たちで作ろうとすること…
そう。テレビゲームよりも前に流行した「光線銃」から、ファミコンまでに一つながりの歴史があるのだ。
ファミコンにも光線銃発売されていたけど、あの周辺機器は「出して当然」のものだった。
ファミコンについては、大好きなので、これまた別の記事を2つも…3つかもしれない…まぁ、ともかく書いている。
ひとえに、非常にバランス感覚の良い機械だったと思う。
おもちゃとして、安いけど十分な機能を持つように作り込まれている。
開発したころの話は、任天堂の過去記事だけど社長が訊くに詳しい。
これもまた楽しいので読んでみて。
というわけで、「偉大な方が亡くなった」という認識はあるのだけど、僕が詳しくないのでほとんどメモのような記事です。申し訳ありません。
別年同日の日記
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数学者の、ジョン・ホートン・コンウェイ氏が、11日に新型コロナウィルスによる合併症で亡くなったそうです。
…さて、僕は氏のことをほとんど知りません。
それでもここで取り上げるのは、「ライフゲイム」の考案者だからです。
あえてライフゲイムと書くのは、日本に最初に紹介した本が「ライフゲイムの宇宙」というタイトルだったため。
まぁ、一般的には「ライフゲーム」です。
ただ、英語で The Game of LIFE といえば、一般には「人生ゲーム」のこと。
そのため、「コンウェイのライフゲーム」とも呼ばれます。
で、そのライフゲームが何なのかといえば、「生物群をシミュレートする初期の方法」であり、「セルラーオートマトンの初期のもの」です。
非常に単純なルールで、生物群の存在をシミュレートします。
ここでグダグダルール書いたりしても面白くないので、興味持った人は自分で調べてください。
ルールは単純なのですが、非常に広い範囲…理想的には、無限の広さを持った盤面の、1マス1マスにそのルールを適用する必要があります。
1回適用すると「1世代」と呼ばれ、最低100世代くらい繰り返すと面白みが出てきます。
とすると、無限の広さは無理なので 100x100 の盤面だとして、同じ操作を 1000000 (百万)回くらい繰り返す必要があります。
人間が手動でやるのは、とてもじゃないが無理。
でも、ルールは単純なので、初期の… 1960~70年代くらいのコンピューターを使い、研究されました。
特に中心的に研究していたのが、ビル・ゴスパー。
当時 MIT の学生で、自由に使えた PDP-6 でライフゲイムの研究を行っていました。
ここらへん、時々僕が名著として挙げる「ハッカーズ」の中に、1節丸ごと使って様子が描かれています。
彼は、コンウェイ自身が「存在しそうだけど見つけられない」という、「永久に増え続けるパターン」を見つけ出そうと一生懸命になり…ついに見つけ出し、コンウェイの懸けた懸賞金 50ドルを勝ち取ります。
今でもライフゲームの研究者はいて、続々と新発見が報告されたりしています。
単純ですが、非常に奥深い世界です。
全然関係ない話題なのだけど、昔、私鉄の自動券売機の表示画面でライフゲームが動いているのを見たことがあります。
当時は今とは違い、細かな LED 表示のディスプレイだったのですが、長い間同じ表示を出し続けていると、点灯時間が長い LED から寿命が尽きてしまいます。
なので、誰もいないときは表示を消すと良いのですが、消してしまうと電源が入っていないようにも見えます。
そこで、「動いている」ことを示しつつ、常にランダムに動き続ける模様として、ライフゲームが使われたようなのです。
人感センサーがついていて、近づくと普通の表示に戻るようになっていました。
ライフゲームに類似なものを、セルラーオートマトンと呼びます。
「マス目に区切った世界に対し、一定のルールを適用し続ける」ものです。
「セルラー」の語源は、生物の細胞、セル。
実際、生物の細胞は同じような仕組みで動いているかもしれない…という研究報告もあります。
ヒョウ柄とか、トラ柄とか、キリンの柄とか、熱帯魚の柄とか。
あれ、遺伝子で柄が指定されているわけではないです。「偶然」で出来上がっている。
でも、この偶然の指定は、遺伝で決まっている。
その偶然の指定が、どうもセルラーオートマトンのルールみたいになっているようなのです。
ライフゲームのルールをちょっと変えて適用してやると、いろいろな動物の柄に似たものが浮かび上がってきたりします。
こうした研究も、コンウェイのライフゲームの研究の上に成り立っているものです。
セルラーオートマトン自体は、マス目に区切った世界にルールを適用し続けるものなのですが、ここから派生して「人工生命」という研究も生まれました。
コンウェイのライフゲームは、非常に単純なルールを適用するだけで、生物の「ようにみえる」状況を生み出すものでした。
でも、もう少しちゃんと「生命らしい」ものを作ってみたら?
マス目にルールを適用するのではなく、生命としてふるまうプログラムを作って、いろいろな研究をするのが「人工生命」の分野です。
遺伝的アルゴリズムとか、人工生命分野から生まれた発想で、今では別の分野でも使われます。
「少しづつ違ったランダムパラメーターを用意して、それらどうしを戦わせ、優れたものだけ残していく。
残った者同士のパラメーターをかけ合わせたり、ランダムに突然変異を入れたりしながら、さらに強いものを残す。
最終的には最強のパラメーターが出来上がる」
という考えかた。
例えば、2000年を過ぎたころから、急にチェスや将棋、囲碁の AI が強くなってきたのは、この考え方を取り入れたためです。
まぁ、僕はこうした世界は「好き」ではあるのですが、研究者ではないので薄っぺらな知識しか持っていません。
亡くなったコンウェイ氏の業績としては、ライフゲイムなんてのは「ほんの僅かな手遊び」みたいなもので、非常に偉大な数学者だったようです。
でも、そちらについても僕はちっとも理解していませんので、紹介できません。
しかし、ライフゲイムだけでも、上に書いたように後に続く様々な研究の礎となっているわけです。
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別年同日の日記
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今日、3月29日は、村井純 氏の誕生日(1955)
すごい人だ、というのはずいぶん以前から知っていたのですが、いまだにその程度の認識から抜け出していません。
インタビュー記事拾い読みしたりとか、その程度の知識しかなくて、ご本人が書かれた書籍などはほとんど読んでません。
そんな状態で、あまり偉そうな紹介はできない。
ふんわりとした概要だけ示して、あとは各種記事にリンクして丸投げします。申し訳ありません。
村井純 氏は、日本のインターネットを黎明期から支え、今も第一線で活躍する方です。
「日本のインターネットの父」と呼ばれることも多いです。ご本人はこの呼び方嫌いだそうですが。
生み出したわけではなく、ただアメリカにあったものを紹介したわけでもなく、「世界と一緒に作り上げてきた」。
しかしまぁ、生みの父ではなくても、育ての父か…町ぐるみで子供を育てる、「近所の親父さん」くらいの役割は果たしていると思います。
まだ貧弱な技術でしかなかった時代から、正しい方向に長年かけて育て上げてきた。
ある程度育ったら、口を出しすぎずに見守り、おかしなことになりそうな時には強い意見を出してきました。
海外では、「インターネットサムライ」とも呼ばれています。
今年の2月には、フランスから、フランスの最高勲章であるレジオン・ドヌールを与えられています。
これは「日本の」だけでなく、世界のインターネットを育ててきた功績から。
IPv6 の実装には、日本の技術者が多くかかわっています。
実際の開発とは違いますが、全体を指揮したのは村井氏でした。
日本の最初の「インターネット接続」は、慶應義塾大学の大学院生であり、東京工業大学総合情報処理センター助手でもあった村井純氏が、2つの大学間を「勝手に」接続したことに始まります。
1984年9月のことだそうです。電話回線を使用して、300bps のモデムで接続し、uucp 運用したそうです。
接続理由は、個人的な都合で、データのやり取りができると便利だったから。
uucp って、メールとかのデータを、時々まとめてやり取りする形式ね。
インターネットといっても、今みたいな「常時接続」ではありません。
決まった時間になると自動的に電話をかけて、その時点で溜まっているデータを双方で交換して、終わったら電話を切るの。
ところで、1984年9月ということは、まだ「電電公社」の時代です。
1985年4月には NTT に組織変更し、通信自由化されるのですが、この時に「電話機」も自由に交換することが可能になります。
それまでは、電話機と電話線は電電公社が「貸し出している」もので、勝手な改造は許されませんでした。
…何が言いたいかというと、モデムを接続するのが違法な時代でした。
大学に相談せずに勝手にやった、とのことですが、相談しても認めるわけにいかないのがわかりきっています。
この「ネットワーク」について、いろいろなところで話したところ、東大の教授から「3地点はないとネットワークとは呼べない」との指摘を受けます。
そこで、1か月後の10月には東京大学が参加。
大学間を接続するネットワークなので、Japan University NETwork…JUNET と呼ばれました。
この後、さらに多くの大学・研究機関が参加していきます。
10年後の 1994年に「役割を終えた」として JUNET は解散しますが、最盛期には 600以上の組織が参加していたそうです。
JUNET は「日本最初のインターネット」なので、いろいろなものが生み出されています。
その一つが、日本語をコンピューターで扱うための文字コード体系。
JUNET 以前に、JIS 漢字自体は制定されています(1978)。
しかし、これは「文字の形(グリフ)と、それを示す数値(コードポイント)のセット」を示したものにすぎません。
JIS 漢字のコードポイントは巧妙で、「区」と「点」の2つから作られています。
そして、区・点ともに、1~94の数値になっています。
この「1~94」という数値は、ASCII コードで印刷可能な文字数、94文字に由来します。
印刷可能「ではない」部分は、コンピュータープログラムが、内部動作のために使用しているかもしれません。
しかし、印刷可能な文字部分であれば、その文字を別の文字に差し替えても、動作に支障はないでしょう。
つまり、JIS漢字は、ASCII との互換性を最大限に考えたうえで作られているのです。
とはいえ、ここまでは「互換性を考えています」というだけの話。
実際に、コンピューターで使えるようにする必要があります。
また、ASCII の文字と同じ場所を使う…ということは、ASCII とは同時に使えないことを意味します。
1つの文章内に日本語と英語を一緒に書けないのです。
それでは不便すぎますから、解決する必要があります。
これを定めたのが、当時 JUNET コードと呼ばれ、のちには国際標準の ISO-2022-JP として定められた文字コード体系です。
ASCII には、もともと「ASCII から脱出する方法」が用意されていました。
これを応用して、ASCII から「脱出」してJIS漢字にしたり、JIS 漢字からまた「脱出」して ASCII に戻ったりします。
今でも、メールなどでこの文字コード体系が使われることがあります。
1985年、JUNET で縁のあった慶應義塾・東京工業大学・東京大学間で、WIDE 研究会が発足します。
インターネット接続に関する研究会でした。
WIDE 研究会は、1988年には WIDE プロジェクトへと発展します。
WIDE は Widely Integrated Distributed Environment の略…ということになってますが、略称の頭に WIDE って入ってますね。
直訳すれば「広域統合分散環境」。統合されつつも、分散された環境…つまり、今のインターネットでできるようなことを研究する、というプロジェクトです。
このプロジェクトは現在も続いています。
JUNET は、大学間を接続して情報交換を行うためのネットワークでした。
それに対し、WIDE はそうした環境を研究し、必要であれば新たな提案をしていくためのプロジェクトです。
密接な関係にはありましたが、目的は明確に違っていました。
1985年には、JUNET と、アメリカの USENET が相互接続します。
USENET は、UNIX のユーザーグループである USENIX が主体となって開始された、インターネット上の情報交換ネットワークでした。
これをベースとして、のちに汎用化された netnews に発展しています。
#USENET は uucp 運用だったが、netnews は nntp 運用。内容については基本的に引き継がれた。
この時は、国際電電(現在の KDDI)を巻き込んだプロジェクトでした。
アメリカまで「電話線で」接続すると、国際電話料金がかかります。
しかし、国際電電を仲間に引き入れたことで、「接続実験」として無料で接続ができたのです。
ところで、このころまで日本のドメインは .junet でした。
しかし、アメリカと相互接続するようになると、ドメインを「公式に」定める必要が出てきます。
そこで、アメリカのドメイン管理団体である IANA から、村井氏個人が委任される形で、.jp が作成されます。
#IANA も、事実上は個人運営。Jon Postel氏が管理していました。
しかし、.junet から .jp への移行は 1989 年頃でした。
1989 年には、アメリカと専用線で接続しています。
このころには、国内でも専用線…電話線を使用した uucp ではなく、現在のような常時接続が始まっていました。
とはいえ、まだ専用線は高価で、大きな組織でないと使えませんでしたが。
国内でのネットワークは、実験的なものとして国も参加した一大プロジェクトでした。
これをアメリカともつなげよう…となった時、国内の各所から反対の声が上がりました。
インターネットも、まだ一般化しておらず、誤解の多い時代です。
もともとは国防総省の研究から始まったネットワークで、軍の機密情報などにもつながっているのに、日本から接続したら国際問題になるのではないか?
それが、反対の主な理由でした。
#国防総省は ARPA-NET の研究に資金は出していますが、軍事用には専用の回線 (MIL-NET)を作っていました。
これに関しても、村井氏が個人でアメリカ側の担当者から「日本の接続を歓迎する」という直筆メモをもらってきて、周囲を説得したのだそうです。
1992年、IIJ (インターネット・イニシアチブ・ジャパン)が設立されます。
JUNET / WIDE は、大学間のネットワークでした。
「大学の」費用で維持され、「研究目的」の使用しか認められません。
そのままでは、自由なインターネットの普及は望めません。
そこで、WIDE とは別のネットワーク網を作り出し、自由な目的で使用できるインターネットを作り出すことが目的でした。
もちろん、村井氏も創設メンバーに名を連ねています。
実際、IIJ 設立後、急速にインターネットは普及し始めます。
1997年、WIDE プロジェクトで、m.root-servers.net の運用が始まります。
これは、DNS ルートサーバーと呼ばれる、非常に重要なサーバ。
本当は日本には「J」が割り当てられる予定だったそうです。Japan だから。
しかし、J をアメリカの組織が運用することになり、じゃぁ別のサーバーを…となった時に「村井に任せるから M で」と M が割り当てられたのだとか。
DNSルートサーバーは、全世界で、A~M の13個しかありません。
DNSルートサーバーの情報もまた、DNS で配布されます。
DNS の技術的な話で、この情報は 512byte に収める必要があります。
そして、512byte では13個しか収まらないのです。
もっとも、非常に重要なものだから、1つのアドレスを複数のマシンで受け持っていて、「13台」ではないのですけど。
10個はアメリカ。ほかに、日本とスウェーデンとオランダに1個づつあります。
日本の M は、東京と大阪、ソウル、パリ、サンフランシスコに実際のサーバーがあるのだそうです。
それぞれの拠点でも複数台あるのですが、重要なものだからこそ、詳細は明かされていません。
1998 年には、WIDE の下位組織として、KAME Project が活動を開始します。
同時期に、USAGI Project も作られました。
現在、多くのインターネット接続は IPv4 と呼ばれる規格で行われています。
しかし、1991 年の時点で「このままでは近いうちに問題が起きる」ことがわかっていました。
そこで、次世代(Next Generation) の規格として IPng の策定が開始されます。
これはのちに IPv6 と名を変え…策定中の仕様案も、途中で大幅に変わったりしながら、1998年にやっと仕様が決定します。
しかし、仕様だけあっても意味がりません。
すぐに…というか、仕様がほぼ固まった時点で、前倒しで実際に動くプログラムの作成(実装)が開始されます。
BSD 系の UNIX に実装を行ったのが、KAME Project でした。
当時は、Linux 人気が出始めたところで、まだ BSD の方が「信頼性がある」と考えられていました。
これが「世界初の IPv6 実装」となり、Linux への移植が行われます。これが USAGI プロジェクトです。
2000年代にはいると、急速にインターネットが普及し、村井氏の仕事も「周辺環境整備」から、今後の在り方の研究に変わっていったようです。
しかし、今でも活動は続いています。
昨年の例でいえば、漫画の海賊版をダウンロード配布させるサイトが社会問題となりました。
政府がそうしたサイトの「ブロッキング」(DNS 等を細工し、到達できないようにする)を正当化する法律を作ろうとしました。
これに対し、WIDE プロジェクトが反対。
「インターネット上の海賊版対策に関する検討会議」が行われ、村井氏は座長も務めています。
まだ、インターネットを正しい方向に導くために、精力的に活動中です。
#ここでは深入りはしませんが、当の「保護対象」である漫画家協会がこの法案に反対したこともあり、提出断念となっています。
インターネットの、本当に黎明期から現在に至るまで、多くの影響を与え続けていることがわかると思います。
そうした功績もあり、今年の頭には、冒頭に書いた通り、レジオン・ドヌールも受勲。
まだ存命のかたですので、近年の活動などについてはインタビュー記事などを読んでもらった方が良いかと思います。
NTT DATA 2017/7/21
CiP協議会 2017/9/20
INTERNET Watch 2017/11/30
Wired 2018/12/11
日経ビジネス 2019/1/14
2020.2.20 追記
大学教授職を定年退職だそうで、最終講義を書き起こししてくださった方がいます。
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別年同日の日記
申し訳ありませんが、現在意見投稿をできない状態にしています。 |
今日、3月19日は、スーパーファミコン用ゲーム、「ジャングルウォーズ2」の発売日(1993)
普段は個別のゲームの発売日なんて取り上げないのですが、今日はちょっと特別。
僕がアルバイトでお手伝いして、スタッフロールに名前を入れてもらったゲームなので。
市販の…広く一般流通したゲームに名前を入れてもらったのは、初めてでした。
#これより前に、個人作成した X68k 用ソフト、「コメット」を全国販売してもらっているのだけど。
もっとも、雑用レベルで「お手伝いした」だけなんですけど。
スタッフロールでは、サブプログラマ扱いで入れてもらっていたはず。
そして、当時(というか今でも)僕はスーパーファミコンを持っていないので、せっかく名前を入れてもらったのに遊んだことがありません。
大ヒットゲームではありませんが、遊んだ人が口をそろえて「いいゲームだった」という程度には、良作だったようです。
せっかくなので裏話。
伝聞ばかりで申し訳ないけど、当時アルバイトしていただけなので深いことはわかりません。
マップデータとか、とても ROM に入りきらない広いもので、圧縮して入れてあるそうですよ。
メインプログラマの人が、ハフマン符号使って圧縮している、と言っていました。
ハフマン符号を使うと、任意の位置のマップデータをすぐに取り出すのは難しいわけですが、マップ全体データを荒く区切って、「代表的な位置」を示すポインタを持っている、と言っていたと思います。
任意の位置のマップデータが欲しい場合、近い位置のポインタから展開を始めて、目的のデータを取得します。
…ポインタがかなりの数になって、データは圧縮したけどそれほどメモリ効率は良くない、と言っていた気がします。
このゲームの BGM 、ジャングルっぽい雰囲気で、打楽器を中心とした音楽になっています。
最初は、打楽器をサンプリングして、それで音楽を作ろうとした…のですが、打楽器ってホワイトノイズに近い周波数成分のものが多くて、音階を出そうとしても出ない。
そこで、低いベースの音と打楽器の音を重ねることで、打楽器っぽいまま音階が出るようにしたのではなかったかな。
メインプログラマーの人は、もともと音楽好きが転じてサウンドプログラマーもやっていた人で、この「音作り」もメインプログラマーの手によるものだったはずです。
その音を使って楽曲を作るのは、別の人に任せていましたけど。
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別年同日の日記
申し訳ありませんが、現在意見投稿をできない状態にしています。 |
今日、3月18日は、COMPET CS-10A の発表日(1964)
世界初の、オールトランジスタ計算機です。
開発は早川電機工業。現在のシャープです。
当時は、まだタイガー計算機が当たり前に使われていた時代。
モーターで歯車を回すタイガー計算機もありましたが、「電気計算機」と言えばそんな感じ。
しかし、今回の話の主役である CS-10A の少し前に、歯車を使わない、純粋な電気計算機が登場しています。
樫尾製作所(現在のカシオ計算機)製の、カシオ 14-A でした(1957)。
なので、「電気」計算機ではありますが、「電子」計算機ではありません。
物理的な動作が伴うのです。
とはいえ、歯車よりは、はるかに高速。
サイズも、机ほどの大きさがありました。
というか、わざと机型にしてあり、書類などを上に置いて事務を行うようになっています。
この後も、カシオは次々と計算機を開発します。
タイプライタと連動し、計算結果を表として出力できる機械(TUC 1961)や、計算手順を交換可能な専用歯車としてプログラムできる機械(AL-1 1962)など、日本の計算機業界をリードします。
1963 年、イギリスで「アニタマーク8 (Anita mark8)」という計算機が登場します。
物理動作を伴うリレーではなく、純粋に電気の流れのみで計算を行える真空管式の計算機でした。
特筆すべきはその大きさで、机の上に置けるサイズでした。電子卓上計算機、現在でいう「電卓」です。
#もっとも、当時から電卓と呼ばれていたわけではありません。
日本でも数社が、この計算機を購入し、分解して構造を調べたそうです。
そして、翌年のビジネスショーでは、いくつもの電卓が「発表」されます。
まず、ビジネスショーの前に新聞紙上で発表したのが、早川電機とソニー。
共に、1964年の 3月 18日でした。
シャープは開発中の5号機、「MD-5」を発表しています。
ただし、シャープはまだ開発中で、他社がビジネスショーで電卓を発表するという噂を聞いて、牽制のために新聞発表しただけでした。
今日の話の主役、CS-10A は、開発は終わり、量産段階に入っていました。
実際、夏には発売されています。日本初の電卓であると同時に、世界初のオールトランジスタ電卓でした。
そのほか、キャノンカメラ(現在のキャノン)は、キャノーラ 130を発表しています。
カメラのレンズ設計は、非常に計算の多い作業です。
日本初のコンピューターである、FUJIC も、富士写真フィルムが社内で使用するために開発したものでした。
キャノーラ 130も、社内向けの開発で、開発自体は前年の夏には終わっていました。
しかし、社内用に使うための開発で、市販の意思はありませんでした。
それを、「電機メーカーがこぞって電卓を発表するらしい」という噂を聞きつけ、同時発表になったものです。
大井電気は、アレフゼロ 101 を発表しています。
パラメトロンを使った電卓でした。
パラメトロンは、日本人後藤英一さんの発明による、計算可能な電子素子です。
トランジスタよりもはるかに安く作れ、安定性も高かったため、一時期は国産コンピューターに多く採用されていました。
しかし、急に高性能化するトランジスタに追いつけず、コンピューターでもすぐに使われなくなります。
計算機も同じで、アレフゼロはあまり受け入れられずに消えていきます。
シャープ、ソニー、キャノン、大井電気と、4社から一斉に電卓が発表されたのが、1964年でした。
後に言われる「電卓戦争」が緩やかに始まった年です。
シャープの CS-10A は、この4社の開発のきっかけとなった「アニタマーク8」によく似ています。
キーは、1桁ごとに 0~9 が並んでいます。
10桁の入力が可能なので、数字だけでキーが 100個も並んでいるのです。
他の4社は、テンキー入力でした。
カシオが開発した入力方式で…つまり、今の電卓と同じ形式です。
出力は、キャノン以外はニキシー管でした。
ガラス管にフィラメントを封入した真空管の一種ですが、フィラメントを数字型に成型してあり、10本のフィラメントが入っているために数字1桁を表示できます。
ニキシー管は、真空管なので高い電圧を必要とします。
結果として、消費電力が大きいのが欠点でした。
そこで、キャノンは、アクリル板に横から光を当てて数字を表示する、という方式を採用しています。
アクリル板に、点描するようにくぼみを空けて、数字を描きます。これを 0~9まで重ねて配置します。
アクリル板に横から光を当てると、光は板の表面で反射し、中に閉じ込められるように進みます。
しかし、くぼみからは光が漏れ、正面からは光っているように見えるのです。
光学メーカーである、キャノンならではの発想でした。
さて、4社の発表を受け、「計算機の覇者」であったカシオも、社内的にトランジスタ計算機を試作していることを、慌てて開示します。
開発中でまともに動かない機械ではあったものの、その後開発に力を入れ、翌年には正式な発表にこぎつけます。
さらに、日本計算機(後のビジコン)からも、1966年にビジコン 161 が発表になります。
さらに、ソニーが MD-5 を改良し、SOBAX ICC-5500 として発売したのは、1967年でした。
この6社で、激しい争いが繰り広げられることになり、日本の電卓はあっという間に高性能・低価格化していきます。
最初の CS-10A は、53万5千円でした。
当時は会社の部長決済では、50万円までの買い物ができるのが普通だったそうで、50万円を切るのが目標額でした。
実際には目標額を達成できなかったわけですが、何かと理由をつけて1割引きにすれば部長決済で購入してもらえる、というぎりぎりの値段だったようです。
#ちなみに、当時の自動車もこの程度の金額だったそうです。
ちなみに、カシオの 14-A は、48万5千円。
この時すでに「古い機械」になっていますが、まだ販売は続いていたようです。
シャープの値段は、高速・小型なのだから高くても売れる、という強気の設定でもあります。
先に書いたように、カシオが翌年に発表した電卓は、38万円でした。
さらに、ビジコンは29万8千円。
急に値段が下がりすぎたため、「ダンピングではないか」と疑われ、業界他社からいろいろな圧力がかかったようです。
ここに、電卓戦争が本格化します。
ソニー、大井電気、キャノンは、激しい競争になったため、早々に撤退しました。
この後、電卓の性能競争の中で、計算回路を効率よく作るアイディアが次々出され、ついには世界初の「CPU」のアイディアにまでこぎつけます。
そう、CPU は、日本の電卓戦争が生み出したものなのです。
この話は以前に書いていますので、興味があればお読みください。
別年同日の日記
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今日3月13日は、デヴィッド・カトラーの誕生日(1942)。
伝説級の OS 開発者です。
かなりの変人らしいです。
彼のことを知るには「闘うプログラマー」を読むのが一番良いようなのですが、恥ずかしながら読んでおりません。
なので、彼自身については語れるほどの知識を持っておりません。
とはいえ、せっかくなので、ネット上で知りえる程度の話を、僕の得意な技術方面を中心として、まとめておきます。
まず、彼が手掛けた最初の OS から。
DEC で PDP-11 用の、RSX-11M というリアルタイム OS を開発したそうです。
…DEC PDP-11 から説明したほうがよさそうです。
DEC は PDP シリーズという「ミニコンピューター」を作っていました。
当時、コンピューターと言えば UNIVAC 。そして、IBM。
特に IBM は、プログラムや操作を行う「オペレーター」の派遣とセットで販売しており、コンピューターは自分で扱うものではありませんでした。
それを、あえて「自分でプログラムしてよいコンピューター」として販売したのが、PDP-1 に始まる PDP シリーズです。
ところが、PDP シリーズは、開発開始順に番号がつけられています。
それとは別に、大きく分けて3系統のシリーズがあります。
つまり、数字とシリーズに関連性がなく、非常にわかりにくいです。
PDP-1 は、18bit コンピューターでした。
18bit って、今見るとすごく中途半端に見えますが、当時は UNIVAC も IBM も 36bit で、安くするためにその半分サイズにしたものです。
PDP-7 は、最初の UNIX が作られたことで有名な機械ですが、18bit のシリーズでした。
そして、このシリーズの最後は PDP-15 。
他に、12bit と 36bit のシリーズがあるのですが、突然変異のように一台だけ、16bit の機械があります。
それが、PDP-11 。最終的に、PDP の中で一番売れた機種です。
PDP-11 は、それまでの開発経験をもとに、使いやすくなるように1から再設計を行ったマシンです。
このため、CPU の命令などが非常にわかりやすく、以降の多くの CPU のお手本となりました。
当初 PDP-7 で作られた UNIX も、のちに PDP-11 に移植され、大きく発展しています。
さて、PDP-15 で、RSX-15 というリアルタイム OS が作られます。
…リアルタイム OS 、というのも聞きなれない人も多いと思います。
普段使われている、Windows や Mac OS X 、Linux などは、複数のプログラムを同時に動かせます。
これは、1つのプログラムを少し実行したら、途中結果を保存して別のプログラムを少し動かして…という操作を、行っています。
CPU が十分に速ければ、同時に複数のプログラムが動いているように見えますが、基本的には、1つのプログラムから見れば「一定時間ごとに処理のタイミングが来る」ようになっています。
しかし、世の中には、わずかな遅れも許されないような処理内容もあります。
たとえば、コンピューターにセンサーをつなぎ、何かの状態を監視しているとしましょう。
この監視内容に基づき処理を行う必要があるのですが、「処理」に時間がかかったとしても、監視をおろそかにしてはなりません。
しかし、その「監視」よりも重要な作業もあり、非常停止キーが押された場合には、速やかに停止状態に移行しなくてはならない…など。
こうした場合には、Windows のような「一定時間ごとに順番に処理する」やり方では問題が出ます。
プログラムごとに、どの処理がより優先されるか、絶対に間に合わせないといけない「締め切り時間」などを指示する仕組みを作り、OS はこうした情報を基にプログラムに処理時間を割り当てます。
こうした OS を、リアルタイム OS と呼びます。
さて、その RSX-15 を、大ヒットマシンである PDP-11 に移植したものが、RSX-11 です。
RSX-11 は、派生バージョンが多数作られています。
まず、最初は紙テープからロードして使用される、RSX-11A。
シングルユーザーの OS でした。
これを拡張し、ディスクにアクセス可能とした B。
さらに、単にアクセス可能なだけでなく、ディスクから起動し、ディスクを前提とした D。
D は、マルチユーザーの OS に変化しています。複数人数が同時にコンピューターを使えるのです。
ところで、PDP-11 はアドレスも 16bit で、64Kbyte のメモリ空間しか持ちません。
当時としては複雑なディスク装置を扱う機能を持ちながら、複数人数が同時にアプリケーションを実行できる、という OS を、64Kbyte のメモリで実現していたことに驚きます。
#注:PDP-11 は大ヒットマシンで、改良版も多数作られました。
このため、のちには 4Mbyte のメモリを搭載する機械もあります。
しかし、当時はメモリの値段が高く、実際に販売された PDP-11 には、搭載可能なメモリ量の半分しか搭載していない、32Kbyte しかないマシンが多数ありました。
RSX-11D を、32Kbyte でも動作させる…半ば無謀ともいえる派生バージョンが、RSX-11M です。
カトラーは、この RSX-11M の開発を指揮しています。
RSX-11M は開発に成功しました。1974 年に最初のバージョンがリリースされています。
D と同じ機能を持ち、より小さなメモリで動作するのですから、これ以降 D は使われなくなります。
M は、RSX-11 の中心バージョンとなり、1993年まで バージョンアップが続けられています。
僕は残念ながら PDP-11 を触ったことはなく、当然 RSX-11 のバージョンごとの違いも知らないのですが、Wikipedia によれば「洗練された半自動オーバーレイシステムを使用している」そうです。
オーバーレイというのは、プログラムを実行する際に、同時に実行される必要のない個別処理にプログラムを分割し、現在必要なプログラムだけをメモリに置く方法です。
こうすることで非常に小さなメモリでプログラムを動かせるのだけど、その処理の必要上、ディスクのようなランダムアクセスメディアが必要になります。
おそらくは RSX-11A から持っている機能ではなく、せいぜい D、おそらくはメモリが不足した M からつけられた機能なのでしょう。
普通は、オーバーレイするプログラムを作成する際には、プログラマがプログラムを分割し、小さなモジュール構成にして、複雑なメモリ管理をしながら作る必要があります。
しかし、「半自動」というのは、分割までやっておけば、メモリ管理などはシステムがやってくれた、ということのようです。
これは、プログラムコンパイル時に行われたようで、複雑なプログラムになると、オーバーレイの生成処理だけで数時間から数日かかったそうです。
…この「数日」も、おそらくは最大限に複雑なプログラム、OS そのものを生成するときなんじゃないかと思います。
OS そのものもオーバーレイしながら動作したのでしょう。
#注:頻繁にディスクアクセスするようでは、真のリアルタイムにはならない。
本当にリアルタイム性が必要な時は、機能はサブセットだが完全にメモリに収まり、ディスクアクセスを行わない RSX-11S が使われた。
ところで、途中で書きましたが、PDP-11 には UNIX も作られていました。
この UNIX は AT&T ベル研究所によるもので、のちにカリフォルニア大学バークレー校によって拡張されています。
(いわゆる Syetem V と BSD)
これに対し、DEC が公式に「移植」した、Ultrix-11 という UNIX もあります。
さらに DEC 公式として、先に書いた RSX-11M もありますが、「世界初のマルチタスク OS」である、MIT の TSS に由来する、RSTS-11 もありました。
「マルチユーザーなんていらない」人向けに、RT-11 という、これも公式の OS があります。
さらに、MUMPS という OS をやはり公式に移植した、DSM-11 もあります。
公式 OS だけでも、5つあるのです。
これに加えて、PDP-11 は大ヒットマシンだったため、先に書いた UNIX をはじめとする多数の OS が作られていました。
もちろん、OS 毎に、その上で動かせるアプリケーションも異なります。
使いやすくするためには、統一した、決定版の OS が必要でした。
PDP-11 は、その後 VAX-11 という名称で 32bit 版が作られています。
初期のシリーズは、PDP-11 とも互換性を保っていました。
ここに、ふたたびカトラーが、RSX-11M を基とした OS を作っています。
VMS と名付けられています。Virtual Memory System の略で、仮想記憶を採用した OS であることを意味しています。
#仮想記憶の概念自体は、VMS 以前から存在している。
UNIX もこの後 PDP-11 から VAX-11 に移植され、仮想記憶に対応した。
仮想記憶とは、単純にいえば、ソフトウェアで頑張ってメモリを節約していた「オーバーレイ」を、ハードウェアの支援で行おう、というものです。
ハードが面倒を見てくれるので、ソフトウェアを作る人は実際の搭載メモリを気にする必要はなくなります。
とはいえ、実際の搭載メモリを超えてしまうと、メモリをディスクにスワップし始め、速度が低下します。
VMS 自体は、ちゃんと RSX-11M の後継として、小さなメモリで動作するように工夫して作られていました。
「OS の決定版」として、UNIX よりも多くの機能を作り込んでありましたし、みんなが使うはずでした。
しかし、先に書いたように、VAX-11 にはすぐに UNIX が移植されています。
そして、UNIX の人気はより高まっていくのです。
先に、PDP-11 が多くの CPU のお手本となった、と書きました。
そのころの CPU は、今でいう CISC と呼ばれるものです。
プログラマーがアセンブラでプログラムを組みやすいように、豊富な命令がそろっています。
しかし、命令を大胆に減らす代わりに、高速な命令実行を可能とする新アーキテクチャ、RISC が台頭します。
DEC でも、RISC CPU を使った新マシンの開発に着手しました。
カトラーは、このプロジェクト全体を指揮しました。
RISC を使ったハードウェア開発と、そのマシンに合わせた新しい OS です。
RISC の高速性を活かし、UNIX とも VMS とも互換性のある、新しい OS となる予定でした。
当時パソコンでは Mac が GUI という概念を提示しており、GUI を中心とした操作にする…という考えもあったようです。
一説には、「VMS を進めたもの」という意味で、WNT という名称で呼ばれていた、とも言われています。
(VMS の文字を、それぞれアルファベット順で1つすすめると、WNT になる)
しかし、DEC は会社として「保険」をかけていました。
RISC マシンプロジェクトは、同時に3つが進められており、途中で判断して、一番よさそうなものだけを残したのです。
カトラーの率いたプロジェクトは、途中で中止となります。
失敗プロジェクトを率いた責任者に、その後の仕事は用意されていませんでした。
仕事を失ったカトラーに、マイクロソフトから引き抜きのオファーが来ました。
カトラーはマイクロソフトに移籍します。
この際、彼のチームメンバーの何名かは、彼を慕ってついていきました。
マイクロソフトは、彼に 32bit 版の Windows の作成を依頼しました。
当時広く使われていた Intel の 486 プロセッサではなく、MIPS,Alpha,PowerPC,i860 などの RISC CPU 向けに作ります。
しかし、のちに方針を転換し、従来の 16bit DOS、Windows と互換性を確保し、Intelの x86 にも対応させることになりました。
ここで、DEC で中止した OS の計画が再び動き出します。
UNIX 、VMS との互換性は不要ですが、DOS、Windows との互換性を持たせた、GUI OS です。
複数の OS と互換性を持った OS 、というのは、このころすでに実績がありました。
IBM は、DOS / Windows / UNIX / MacOS などのソフトをすべて動かせる「Workplace OS」の作成を表明し、実際に DOS / Windows だけに限定した形で完成させ、OS/2 という商品名で発売していました。
その仕組みは、マイクロカーネルという概念にあります。
従来の OS は、全体に必要な機能を考え、すべてを一体として設計されていました。
しかし、マイクロカーネルでは、OS は「各種機能の連絡方法」だけを用意し、あとはすべて別プログラムとしてしまうのです。
普通の OS なら絶対必要な、メモリ管理・プロセス管理・ディスク管理なども、OS 周辺の別プログラムとして用意されます。
このやり方だと、各種 OS との互換を取る際も、既存部分と違う部分だけを少しだけ作ればよいことになります。
流用できる部分は流用し、API (呼び出し方)の問題だけならそれを用意し、根本的に違う部分はそこだけ新たに作り…
当時の Windows は、ディスク管理を中心とした DOS の上に、プロセス管理やメモリ管理、グラフィックライブラリなどを積み重ねた形で作られていました。
もともと、DOS の機能が貧弱だったため、上に乗せた部分が肥大化しすぎ、非常に不安定になっていました。
それを、マイクロカーネルの手法を使うことで互換性は確保しつつ、安定性も高め、さらに先進的な機能まで準備したのです。
完成した OS は、Windows NT と名付けられました。NT は New Technology (先進機能)の略。
しかし、VMS を一歩進めた WNT でもあります。
互換機能はありますが、当初は十分な確認が行われていませんでした。
そこで、サーバー用途として NT を売りつつ、互換性を高めていきます。
2000 年発売の Windows 2000 で、デスクトップ用としても NT が導入されます。
とはいえ、この時は DOS ベースの Windows Me も発売されています。
そして、2001 年の Windows XP で、デスクトップも完全に NT 系列となります。
以降、今でも Windows は NT 系列です。
現在、Windows は 64bit 化され、16bit の DOS / Windows との互換性は失われています。
しかし、32bit Windows との互換性は相変わらず保たれていますし、新たに Linux との互換性が確保されています。
これも、当初からマイクロカーネルの設計が良かったからできたこと。
64bit 化の際には、デヴィッド・カトラーは、自分で 64bit のコードを書いていたそうです。
もう上に立って指揮するだけでいいような身分なのに、プログラムを書くことが楽しいのですね。
2008年ごろには、Windows Azure に参加していたようですし、2013年ごろには、Xbox One に参加していたようです。
現在かかわっているプロジェクト名などは明らかにされていませんが、77歳の今も現役で、マイクロソフトで働いているようです。
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今日、2月25日は、2D-APT II が発表された日です (1959)。
…まぁ、普通は「2D-APT II って何?」ってなりますよね。
知名度の高いものではない。でも、コンピューターの歴史の中では、大きな一歩なのです。
APT は Automatically Programmed Tool の略。
翻訳すれば「自動プログラム装置」です。
ごく初期のプログラム言語、それもいわゆる「高級言語」でしたが、プログラム対象はコンピューターではありませんでした。
コンピューターの歴史では、当初から「計算する機械」の仕組みは深く検討されてきました。
その一方で、計算する装置さえでき上れば、その装置に計算手順を教えるのは…まぁ、何とかなるだろう、程度に考えられていました。
この見通しが甘いものである、と認識されたのは、ENIAC が作られたときです。
諸説ありますが、「最初のコンピューター」ですね。
実際、理論上はどんな計算にでも対応できるように作ったはずなのですが、それを実際に「計算させる」ための手順がわからないのです。
その時は、数学が得意な女性が 6人集められ、彼女たちが必死になって計算手順を編み出しました。
この経験から、次に作られるコンピューターでは、もう少しプログラムのしやすさが考慮されます。
時代が過ぎるにしたがってプログラムしやすさは増していき…
といっても、「アセンブリ言語」でプログラムを作れば、「アセンブラ」が自動的に機械語に翻訳してくれる、というレベルには達しました。
そのころにはまだ、サブルーチンとか、スタックという概念がないんですけどね。
アセンブラがあっても、今のアセンブラよりも使いづらく、プログラムを組むのは大変な苦労でした。
計算機を販売しても、そのプログラムが作れないのでは話になりません。
計算機は高性能なのだから、計算機が自分自身をプログラムすればいい、というアイディアが出されたりもしました。
これは「自動プログラム」と呼ばれ、果たしてそんなことが可能なのか、議論となります。
議論に終止符を打ったのは、IBM が発表した FORTRAN 言語でした。
アセンブラではなく、「人間にわかりやすい、数式と、英語に近い言語」で計算の手順を示すと、自動的にコンピューターが実行可能なコードを作り出してくれる、というものでした。
さて、今日の話題、APT は、FORTRAN と似たような初期の言語です。
ただし、FORTRAN が「コンピューターの実行コード」を作り出すのに対し、APT は「工作機械の制御コード」を作り出します。
ここでの「工作機械」は NCMM と呼ばれる装置で、MIT で作成されたものでした。
制御コードデータを紙テープにパンチし、読み込ませることで形状を作り出します。
しかし、この形状データが人間には扱いにくいのです。機械を制御するための、数値の列ですから。
APT が作り出すのは、この制御コードデータの紙テープでした。
しかし、これがあれば金属を加工し、設計通りの形状を作り出すことが可能でした。
つまり、現在の 3Dプリンタの元祖です。
ただし、現在の3Dプリンタを使用する際は、普通はディスプレイ上で3Dモデルをモデリングします。
プログラムではありません。
当時は、コンピューターに接続されているのは「テレタイプ」が普通で、ディスプレイ上で…という概念が存在しませんでした。
プログラムで形状を示すのは、そのためです。
ただ、大きな問題が一つあり、2次元の図形は数式で表現することが可能なのですが、3次元形状を数式で表現することが、非常に難しいのです。
2D-APT II というのはそのための「暫定的な名前」で、まだ2D形状しか扱えないことを意味します。
工作機械は3D形状の削りだしも可能なので、なんとか3D形状をプログラムする方法を模索している途中段階でした。
この後、APT の研究は「コンピューター上で設計図を描くと、それがそのまま機械で加工される」というものに変わっていきます。
実は、「ディスプレイを使って絵を描く」というプログラム…サザーランドのスケッチパッド自体が、この研究の一環として生まれています。
以降は、とにかく示された方法論を、少しでも扱いやすくしようとする改良の歴史です。
NCMM は、さらに扱いやすい CNC になり、先に書いたように設計図から直接、加工が行えるようになっていきます。
現在では、素材を工夫することで、机の上に乗るような小さな機械でも出力が可能です。
APT の話は、過去に詳細を書いていますので興味のある方はそちらもお読みください。
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今日、2月21日は、ファミリーコンピューター向け周辺機器、ファミリーベーシック V3 (1985) と、ディスクシステム (1986) の発売日。
ファミコンのソフトは山ほどあるので、いちいちその発売日を「今日は何の日」で扱おうとは思わないのですが、V3 は思い入れがあるので別格です。
もっとも、本来ならいきなり V3 ではなく、ファミリーベーシックの発売日 (1984/6/21) を取り上げるべきですね…。
いろいろ探したのですが、2月21日にいいネタが見当たらなかっただけでもあります。
ディスクは、たまたま同日だったので一緒に紹介。
まぁ、あとでファミベと絡めた話もしますが。
一応、取り上げたからには語りましょう。
この WEB サイトの、一番最初に作られたページが「ファミリーベーシック」の紹介だったのですが。
ファミリーコンピューター自体、1983年の発売なので、今となっては「生まれる前に流行したんでしょ?」という認識の人も多いでしょう。
任天堂は、今でも Switch でファミコンのゲームを配信していたり、ファミコンミニ作ったりしていますが、まぁ、昔遊んだ人の思い出補正がなければ、今更遊ぶほどのものでもありません。
当時は、「RAM」がまだ非常に高価だったんですよ…
ファミコンは、4Kbyte の SRAM を搭載しています。
SRAM と DRAM では、SRAM の方が高価なのですが、「安くしたい」はずのファミコンは、なぜか SRAM を使用している。
おそらく、ここで SRAM を使用することで、周辺回路を減らせるので、全体としてはむしろ安くなったんでしょうね。
DRAM は、安い代わりに「しばらくすると記憶した内容を忘れてしまう」 RAM で、時々読み出して書き込む、リフレッシュという動作が必要でした。
そして、この動作は、CPU のメモリアクセスとぶつからないように処理する必要がありました。
なので、リフレッシュ動作を行う周辺回路を作らないといけないことを考えると、高価な SRAM を使った方が安い場合もあったのです。
とはいえ、当時のライバルである、セガ SG-1000 とか、ソード M5 とか、MSX とかは、DRAM を使用していました。
これは、どういうことかというと、CPU に Z80 を使用していたから。
Z80 は、DRAM リフレッシュ回路を内蔵しているのです。
ファミコンの CPU は 6502 (のカスタム品)で、こちらはリフレッシュ回路を持ちません。
さて、4Kbyte の SRAM の内、半分の 2Kbyte は画面表示用の VRAM。
すると、残りは 2Kbyte ですが、CPU である 6502 の「決まりごと」により、256byte はスタック用。
そして、256byte は、計算の途中結果などを保持するワーク用。
先に、2Kbyte の VRAM と書きましたが、これは BG 用です。
スプライト用のメモリは、画面表示用の LSI 側に内蔵されていました。
とはいえ、これは「今表示している」分のメモリ。
ゲームを作るときというのは、今表示している画面用のメモリとは別に、「次に表示する」ためのメモリを用意するのが普通です。
そして、そのメモリは用意されていません。
なので、通常の RAM 上に、次画面スプライト配置用のメモリ確保が必須でした。
このために、256byte 必要です。
都合、2Kbyte のメモリの内、256byte * 3 は使用用途が決まっています。
自由に使えるメモリは、1280byte しかありません。
# 1Kbyte = 1024byte です。
たったこれだけのメモリの中で、あれだけ多彩なゲーム世界を作り上げていたのです。
称賛に値します。
…と、ファミコンの話ではなく、ファミリーベーシックの話でした。
この、たった 1280byte しか存在しないメモリの中で、BASIC のプログラムを記憶し、変数を記憶し、動作させることができるのか? といえば、当然できません。
そのため、ファミリーベーシックでは、カートリッジの中に 2Kbyte の SRAM を搭載していました。
でも、これが全然足りない。
…というか、微妙な線で、ゲームを作ろうと思うと「それらしい」形にはなるのですが、作るのが面白くなってきたころにメモリオーバー。
もっとも、そうなったら仕方なく次のゲームを作り始めるしかないので、必然的にたくさんのゲームを作ることになります。
(プログラムが得意な子であれば)
僕の場合、これでずいぶん作り散らかして、プログラムの基礎を学べたように思います。
さて、標準の BASIC カートリッジは、まず、発売時についていた V1 。バージョン1ですね。
ゲームのプログラムと別に、背景をデザインすることができました。
先に、ファミコン本体に 2Kbyte の VRAM を持っている、と書きましたが、画面は半分の 1Kbyte で構成できるようになっています。
もう一画面は、「裏画面」。
ベーシックでプログラム中、当たり前なのですが、プログラムリストの表示に画面を使います。
しかし、2画面あるので、その間も「デザインした背景」は置いてあるのです。
そして、命令一発で、あらかじめデザインした背景を画面に表示できます。
裏画面から表画面にコピーする命令なのですね。
プログラムは 2Kbyte しか作れなくても、1Kbyte 分の画面を瞬時に表示できる機能があるのです。
これで、ちょっと華やかな見た目のゲームを作れました。
でも、この背景、ただの背景なんですね。
迷路を作ってゲームの中に活かしたりはできません。
そこで、改良されたのが V2 。背景に何が書かれているか調べる、という、たった1命令が追加されています。
たった1命令ですが、作れるゲームの幅がずっと広がりました。
この後、V2.1A というのもあるのですが、これはバグを修正したバージョンだそうです。
僕は、ファミリーベーシックは発売してすぐに買ったので、V1 カートリッジを持っていたのですが、後で V2 の存在を知って任天堂に電話したところ、片道送料負担のみで交換してもらえました。
これで入手したカートリッジは、2.1A でした。
そして、「別売り」になった、V3 の登場です。
ファミリーベーシックには、親しんでもらうために、ベーシック以外にも音楽演奏やバイオリズム占いの機能がありました。
これらのプログラムをなくし、空いたメモリに SRAM を増設しています。
それまでの 2Kbyte から、一気に倍の 4Kbyte へ。
先にか聞いた通り、当時はまだ SRAM は高価でした。
V3 は、カートリッジだけで 9800円しました。
#ファミコン本体が 14800円、ファミリーベーシックも 14800円でした。
RAM が増えただけでなく、命令も増えています。
特に、プログラム「作成」を支援してくれる命令が増えたのはありがたいものでした。
(それまでは、デバッガも、まともなエディタもなしにプログラムを作っているようなものでした)
…でも、4Kbyte なんて、すぐに「少ない」と思うようになる程度のメモリなんですけどね。
当時でも、MSX は 32Kbyte 使えましたから。
#もっとも、セガのゲーム機用にも BASIC はあって、こちらは最低 512byte だった。
4Kbyte を狭いなんて言うと、セガユーザーに怒られてしまう。
さて、「4Kbyte が狭い」と感じていたら、翌年にはディスクシステムが登場します。
ディスクシステムのカートリッジ内には、32+8Kbyte の RAM を持っています。
これをディスクのデータで書き換えながら動作する仕組み。
32Kbyte はプログラム用で、8Kbyte は画像用ですね。
ファミリーベーシックでは、キャラクタは ROM で、書き換えられませんでした。
しかし、ディスクでは当然のことながら、キャラクタも書き換えてゲームを作れます。
そして、ファミリーベーシックとディスクシステムを駆使して、「ディスクベーシック」を作ってしまった人がいるのですね。
当時の雑誌(バックアップ活用テクニック)に掲載されていました。
ファミリーベーシックで小さな簡単なプログラムを作ります。
このプログラムは、ベーシックのシステムプログラム(ROM)領域を、カセットテープに保存します。
#当時は、カセットテープにデータを保存するのは普通で、ファミリーベーシックにもその機能がありました。
次いで、ディスク用の「トンカチエディター」(非ライセンス商品ですが、市販品)を使います。
これは、ディスクシステムに読み込ませて「ディスク内容を好きなように書き換えられる」プログラム。
普通はゲーム改造して遊ぶのに使うのですが、16進数を延々と入力し、小さなプログラムを作ります。
これは、カセットテープからデータを読み込み、ディスクに書き込むためのプログラム。
つまり、先にカセットテープに保存したベーシックのシステムを、ディスクに書き込むわけです。
これで、「ディスクシステム上で動くファミリーベーシック」が出来上がります。
ここから、さらに改造を加えます。
メモリ内容は BASIC でも書き換えられるので、ここからはファミリーベーシックで改造できます。
(トンカチエディタは、ファミコンのジョイパッドで 16進入力を行うので、とにかく使いづらいものでした)
たしか、プログラムで使えるメモリを 16Kbyte 程度に増やしたうえで、最終的に、ディスクにセーブ・ロードできるベーシックになっていました。
(ただし、セーブ・ロードできるプログラムは1つだけ)
さらに、この BASIC ではキャラクタ ROM の書き換えも行えます。
これ、ハードウェア改造なしで、ソフトだけで全部できてしまう、というのがすごいところ。
あこがれたなぁ。欲しかった。
でも、トンカチエディターをこれだけのために買う気はしなかったし、やりませんでした。
改造ベーシックでゲーム作っても、ベーマガに投稿できないしね。
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今日、2月19日はエジソンによる「蓄音機」特許の成立日。
米国特許番号は US200521A。google で、その全文を読むことができます。
#テキストは、特許を OCR したもので、誤字脱字などもある。
添付画像に元となった特許書面があるのだが、全部は公開されていないようだ。
さて、特許のタイトルは「フォノグラフ、または喋る機械の改良」です。
…最初の蓄音機のはずなのに、改良?
どうも、細かな部品単位の特許は先に申請していたようで、この特許書面の中にも「何月何日に提出した書類に詳細がある」という記述が多いです。
そして、それらを組み合わせ、「蓄音機」という新しい機械として示したのがこの特許。
蓄音機というものが未知の装置ですから、ここでは「喋る機械」としています。
フォノグラフ (Phonograph) 、というのは、エジソンが名付けた装置名です。
蓄音機の発明の前に、当時存在していた2つの発明品を紹介しておきましょう。
まず、1800年代の前半には、電気の研究が急速に進んでいます。
1800年にボルタが電池を発明。1820年ごろには電流と磁気の関係性が明らかにされ、1825年には電磁石が発明されています。
1827年には「オームの法則」で有名なオームが、電気回路の数学的解析を発表。
1832年には、電信機が発明されますが、伝達距離には限度がありました。
1835年には、リレー装置が発明され、電信機の伝達距離の制限がなくなります。
そして、1836年。
モールスが「モールス信号」式の電信機を発明します。
1850年代前半には、モールス電信網は全米に張り巡らされていました。
同じころ、「フォノートグラフ」(phonautograph)という、音声を記録する装置が発明されます。
1857年に開発されたもので、科学的な研究のために、音の波を図形として記録するための装置でした。
名前も、音 (phon) を、自動的に (auto) 図形 (graph) として記録する、ということに由来します。
この装置は、研究のための道具なので、「記録」だけで、再生装置はありません。
ここで、誰もが同じことを考えました。
フォノートグラフのような仕組みを使って、音を電気信号に変えて、モールス信号のように遠隔地に送れないだろうか?
これが、「電話」の開発につながります。
電話機の発明に力を注いだのは、主に3人でした。
まずは、音声生理学者であった、グラハム・ベル。
最終的な「発明者」です。
彼の母は聴覚障碍者でした。
しかし、全く聞こえないわけではなく、工夫をした話し方をすれば言葉を伝えられます。
そのことから、ベルは音声学に興味を持ったようです。
子供のころには、人の声帯を模したゴム膜と、喉を模した管を組み合わせて「ママ」と喋る装置を作っています。
こうした興味が高じて、遠隔地に人の声を伝える装置を作ろうとしたようですが、彼自身は技術者ではないため、多くの人に支えられて発明を行っています。
#ちなみに、ヘレンケラーにサリバン先生を紹介したのは、グラハム・ベル。
サリバン先生は、同じく聴覚障碍者のための活動をしていた、ベルの父の教え子でした。
もう一人は、イライシャ・グレイ。
彼自身が発明者・技術者で、ベルの強力なライバルでした。
ベルは、主にグレイが研究している内容をどこからともなく知り、同様の研究を始める…という形で電話機を作り上げたようです。
ただ、グレイはベルを支えた技術者たちほどの技術はなかったようで、基本的な着想はよいものの、なかなか完成には至らなかったようです。
最後の一人は、トーマス・エジソン。
有名な発明王です。
ベルの電話機は、仮に完成した段階で特許を取っていますが、実用には程遠いものでした。
そこで、エジソンはベルの電話機を改良し、改良特許を取ります。
たとえ発明者がベルだとしても、最初の「実用品」を作り上げて普及させれば、商売としては十分なのです。
ところで、当時のアメリカの特許について説明しておきましょう。
当時のアメリカの特許は、「先発明主義」で、書類を出すのが遅くとも、先に発明している証拠があれば、そちらに特許が与えられます。
そして、まだ発明品が完成していない段階でも、近いうちに完成する見込みがある際には、「予告記載」というものを特許庁に出すことができます。
これは、先にアイディアを出していたことを、公に認めてもらうための方法です。
つまり、「先に発明している証拠」として有用な方法なのです。
エジソンは、ベルよりも先に実用になる電話機を作り上げ、特許を取得しました。
しかし、これと同様の特許を「予告記載」していた人がいました。
彼の名は、エミール・ベルリナー。
ベルにあこがれて、ベルが開発した電話機を独自に改良をしていたのです。
ベルは、ベルリナーを技術者として雇い入れます。
そして、エジソンとベル(とベルリナー)のどちらが先に電話を完成させたのか、裁判で争うのです。
電話の発明裁判では、最終的に、エジソンは負けました。
エジソンによれば「訴訟なんかやっているより、次の発明をしたかったので譲った」そうですが、これはどうも悔し紛れの言葉。
しかし、エジソンはこの時点で、「音声」を機械的に扱う方法を十分熟知していました。
電話という音声機械の競争に負けた彼は、すぐに別の音声機械を発明します。
それが、音を記録する装置、「蓄音機」でした。
最初に書いた通り、1878年に特許を取っています。
エジソンの蓄音機(フォノグラフ)は、金属管に巻き付けた錫箔に傷をつけて音を録音するものでした。
錫は非常に柔らかい金属で、爪で傷をつけられるほどです。
その錫箔を針で押して凹ませ、溝の深さ(縦方向記録)によって空気の振動を記録します。
しかし、凹ませる、という方式上、微妙な振動は記録できませんでした。
さらに、錫はありふれた金属ではありますが、金属箔は決して安くありません。
それだけでなく、薄い錫箔では、十数回も再生を繰り返すと、破れてしまうのです。
結果として、蓄音機の音は悪く、記録メディアは高く、壊れやすく、実用性のほとんどないものでした。
「喋る機械」として話題にはなりますが、とても商売にはならないもの。
エジソン自身、すぐに興味を失ってしまいます。
エジソンの蓄音機の特許書面には、筒以外の「記録媒体」の可能性についても言及しています。
#特許書面に、容易に予想される改良方式をあらかじめ書いておくのは普通のことです。
こうしておかないと、特許とは微妙に異なる方式を採用することで、特許を回避できてしまいます。
エジソンは、ここで「円盤状の記録媒体に、螺旋状に溝をつけて記録を行う」という方式を提唱しています。
しかも、音を記録した円盤を石膏で型取りし、大量生産する可能性にまで言及しているのです。
実際、蓄音機の開発初期には円盤状も実験していたようです。
しかし、技術的な難易度が高かったようで、完成したのは円筒に記録する方式でした。
円盤に螺旋状に記録する、というのは、のちに登場するレコードと同じものです。
そのため、エジソンはレコードを予期していたにもかかわらず、自分では作ることができなかった…というように言われます。
でも、円盤に記録する音楽メディアというのは、当時流行していて、それほど珍しいものではありませんでした。
「ディスクオルゴール」です。
オルゴールは、17世紀に初期のものが作られ始めました。
18世紀には、円筒にピンを埋め込んだ形…今でもよく見るオルゴールと同じ形式で普及しますが、この方式は大量生産に向きません。
18世紀の末に蒸気機関が発明され、蒸気機関による「金属プレス機」が開発されます。
金属の板を強い力で押さえつけ、曲げたり、穴をあけたりする機械でした。
オルゴールは、穴の開いた金属ディスクを使って演奏する「ディスクオルゴール」に変化します。
金属ディスクは別売りもされ、流行歌などを楽しむこともできました。
#穴を使って演奏するオルゴールの技術については、オルガニート参照。
19世紀の前半、蓄音機が作られたころには、ディスクオルゴールはありふれた娯楽製品になっていました。
家庭で買うには少し高価なものでしたが、酒場や遊技場で目にする、ありふれたものでした。
エジソンが特許書類に「ディスク型」を書き、さらには大量生産の方法まで示唆しているのは、これを踏まえてのことです。
決して、未来に登場するレコードを予期していたのではありません。
さて、エジソンが興味を失った「蓄音機」ですが、改良を開始したのは、電話でもライバルだった、ベルたちでした。
ベルは、電話の発明により、フランス政府よりボルタ賞(電池を発明した、ボルタにちなんだ、電気関係で業績を上げた人に与えられる国際賞)を授与されていました。
その賞金をもとに基金を用意し、「ボルタ研究所」を設立します。
ボルタ研究所は、聴覚障碍者のための情報を集約するための施設でした。
…先に書いた話を思い出してください。ベルの母は聴覚障碍者で、そこからベルは音声学に興味を持ったのです。
そして、ベルはボルタ研究所で、音声を扱う機械の研究を始めます。
その一つが、蓄音機の改良でした。
金属管に巻き付けた錫箔の代わりに、ボール紙の筒に蝋を塗ったもので代用します。
この蝋を、「凹ます」のではなく、「削る」ことで細かな振動まで記録することが可能になりました。
エジソンは、深さ方向に振動を記録しました。
しかし、ベルたちは、横方向に、ジグザグの溝を刻むことで音を記録するようにしました。
ベルたちの蓄音機は、「グラフォフォン」という名前がついています。
#Graphophone … Graph-o-phone 「音の図形」を意味します。
エジソンの Phonograph を意識した名称なのでしょう。
ベルたちは、自分たちの行った改良をエジソンに見せ、一緒に商売ができないものかと考えました。
しかし、改良された機械を見たエジソンは…協力を拒み、再び独自に蓄音機の改良を始めます。
エジソンは、ボール紙に蝋を塗るのではなく、完全に蝋で作った筒を使う方法に辿り着きました。
記録方法は相変わらず縦方向なのですが、商売をするうえで「この蝋管を共通メディアとする」ことだけは、ベルたちと合意します。
こうして、記録メディアは共通で購入しやすいながらも、記録方式の違う二つの蓄音機が発売されます。
この蝋管では、2分間の記録が可能でした。
音の力で「削れる」ほどに柔らかい蝋管は、再生時にも少しづつ削れてしまい、数十回の再生にしか耐えられませんでした。
しかし、のちには素材が改良され、繰り返し再生に強くなります。
安価だが録音はできず、再生専用の蓄音機も発売され、当然のことながら、録音済みの蝋管も発売されるようになります。
初期の記録済み蝋管は、何台もの蓄音機を並べ、演者がその前で喋ったのを一斉に録音したようです。
同時に数本しか作れないので、大量生産のためには、演者は何度も同じ演技を繰り返す必要があります。
のちには、蝋管を大量複製する技術が確立し、安価に記録済み蝋管を販売することができるようになりました。
…とはいえ、先に書いたように記録時間は2分間。
こんなに短い時間では、音楽をゆっくり楽しむというほどの録音もできず、用途は限られていました。
ベルがエジソンと電話の特許を争ったとき、最後の決め手となったのは「ベルリナー」という技師が行った発明でした。
ベルリナーは、ベルと一緒に蓄音機の改良を行っていましたが、独自のアイディアを試すために蓄音機(グラフォフォン)の完成前に独立しています。
そして、彼は蝋管蓄音機ではない、新しい蓄音機を発表します。
ベルと同じく、振幅として音を記録する方式ですが、記録メディアは筒ではなく、「円盤」…後に言う、レコードでした。
エジソンが最初の特許から「円盤」を記録メディアとする可能性に触れていたにもかかわらず、採用しなかったのは、録音が難しかったためです。
蝋管では、最初から最後まで、メディアに対して同じ速度で針が動きます。
しかし、円盤に螺旋状に記録を行うと、外側では針の移動速度が速く、内側では遅くなります。
再生するときは、針が溝に従って動きますし、針は軽い力でメディアに触れていればよいだけなので、それほど問題は出ません。
しかし、何も溝がない録音時に、針を正確に動かしながら、削れるほどの力で針を押し当てていくのは難しいのです。
ベルリナーは、蓄音機から「録音」の機能をなくすことでこれに対応しました。
新しい方式なので、当初は蝋管よりも出来が悪く、おもちゃとしての販売から始まったようです。
しかし、録音機能がないことで蝋管蓄音機よりも安く、録音済みメディアもプレス機による大量生産ができるため安く、徐々に売れていきます。
当初は円盤のサイズは5インチで、2分間の記録が可能でした。
のちに、10インチで4分間、12インチで6分間というものも出てきました。
ベルリナーの蓄音機には、「グラモフォン」という名前がついています。
#Gramophone … gram はギリシア語で「書く」という意味があり、graph と同じ語源です。
もちろん、Phonograph や Graphophone を意識した名前でしょう。
ベルリナーの円盤式の最大の強みは、プレス機による大量生産でした。
溝の「深さ」は問題ではないため、円盤が薄くてもよく、プレスしやすいのです。
録音時は、亜鉛の板に蝋を塗り、その蝋を削る形で記録を行いました。
録音が終わったら、酸をかけて「エッチング」します。
エッチングは中世から印刷に使われていた技術で、特に珍しいものではありません。
蝋がないところだけ亜鉛が酸で溶かされ、溝を作ります。
この「金属板」を型取りし、凹凸を逆にした型を作ります。
最後に、型に樹脂を押し付けて、製品となる円盤を作ります。
初期のころには、エボナイト(超硬質ゴム)が使われていたようです。
エボナイトは、型取りする段階では柔らかいのですが、そのあと蒸して加熱すると固くなります。
現代にもある…というか、すでに見たことない人も多そうですが、LP レコードなどは、ベルリナーが開発したものが形を変えて残ってきたものです。
当初の蓄音機は、溝をなぞる針の動きで薄膜を動かし、直接空気の揺れを作り出していました。
しかし、すぐに針の動きを電気的に読み取り、増幅してスピーカーを駆動する方式に変化します。
さらに、溝の両側の「淵」を使い、左右の音を同時に記録するステレオへと進化します。
ステレオのレコード盤は溝の太さが複雑に変化することになりますが、古いモノラルプレイヤーでも再生することはできます。
なかなか巧妙な方法です。
その後、音楽の記録はデジタル化され、CD が作られています。
デジタル化されてはいますが、レコードと同じように凹凸で情報を記録しているためプレスで生産可能、螺旋状に記録された円盤媒体です。
CD はデジタル記録だったため、コンピューターと相性が良く、音楽以外でも幅広く使われました。
しかし、今回は「蓄音機」の話なので、CD についてはまたの機会に譲ります。
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別年同日の日記
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今日は、ジョージ・イーストマンの誕生日(1854)
写真で有名なコダック社…正確には、イーストマン・コダック社の創業者です。
写真は、19世紀の序盤…1826年に発明されています。
最初は、撮影に8時間もかかるものでした。
しかし10年ほどで撮影時間は 10~20分ほどに短縮されます。
ただし、この方法は「左右が反転してしまう」「高価」などの問題がありました。
さらに 15年ほど…1851年には、左右が正しく記録され、安価で、わずか15秒で撮影でき、しかも何枚でも複製が可能という方法が発明されます。
この方法の欠点は、撮影時にガラスに「薬品」を塗り、これが乾くまでに撮影・現像・定着などの作業を行わなくてはならないこと。
薬品の専門知識が必要ですし、写真館での撮影ならともかく、屋外での撮影にはたくさんの荷物を運ばなくてはなりませんでした。
そして、この方法からもたったの 20年で…1871年に、あらかじめ薬品を塗って乾かしたガラス板を使用する「写真乾板」が発明されます。
乾板の製造、撮影、現像が、遠く離れた場所でできるようになります。
「カメラ」自体はそれまでのものが使え、撮影のためのガラス板を変えればよいだけだったため、「写真乾板」は、あっという間に普及します。
ジョージ・イーストマンは、写真乾板の大量生産方法で特許を取得し、1880年に工場を設立しています。
翌年には会社組織化し、「イーストマン乾板会社」を設立。
1885年には、それまでガラスに塗るのが当たり前だった薬剤を、紙に塗って巻き取った「ロールフィルム」の製造を開始します。
エジソンとの共同研究によるもので、開発中だった「映画」での使用を想定していました。
後々までカメラ用フィルムとして使用される 35mm という幅は、このときに決定しています。
(この映画を見る機械、「キネトスコープ」は1891年に公開。その前に撮影機が完成しているようだが、一般公開したものではないので完成年不明)
そして、1888年。
イーストマンは、この「ロールフィルム」を使った新しい商売を始めます。
小型のカメラの中に、ロールフィルムがセットされた状態で売っています。
これで、100枚の写真が撮影できます。
フィルムが終わったら、カメラと 10ドルを現像所に送ると、すべての写真をプリントし、新しいフィルムを装填して返送されてきます。
これ以前は、カメラというのは専門知識が無くては扱えないものでした。
フィルムは光に弱く、取り出し・装填には間違えてはならない手順がありました。
そして、当時のカメラは、写真1枚ごとにフィルムを入れ替えていました。
また、フィルムの現像・プリントなども専門知識が必要でした。
これを、「100枚連続でとれる」ようにして、手間を無くしたのです。
そして、複雑な取り出し・現像は専門家に任せる、というサービスをセットで売ったのです。
それまで専門家しか撮れなかった写真を、一般に開放したと言えます。
このときのキャッチフレーズが「You press the button, we do the rest」。
意訳すると「ボタンを押すだけ。後は我々にお任せを」という感じかな。
このときに、カメラのブランドとして新しく作ったのが「Kodak」という単語です。
イーストマンが好きなアルファベットが K で、「K で始まり、K で終わる、短くて力強い音の言葉」として作り出した造語で、意味はありません。
ところで、フィルムを使い切ったらカメラごと現像所へ…って、1980年代後半に流行した「レンズ付きフィルム」と同じ感覚です。
レンズ付きフィルムは「新しい物」に思えたのですが、100年前に同じような商売があったのですね。
翌年、1889年には、フィルムを紙ではなく、透明なセルロイドで作成するようになります。
先にキネトスコープの話を書きましたが、実際のキネトスコープでは、こちらのセルロイドフィルムを使用しています。
セルロイドは、紙と同じように植物由来のシートです。
紙は物理的に繊維をほぐし、形を変えたものですが、セルロイドは科学的に溶かして生成します。
そのため、紙よりも表面が滑らかで、薬剤を均一に塗ることができますし、透明なので光を透過するという利点もあります。
#ガラス乾板では、光を透過させることで写真の複製を行いました。
同じことができるようになったわけです。
問題点もいろいろあり、後にセルロイドは使われなくなるのですが、それはまた別の話。
1890年には、イーストマンは「折り畳みカメラ」を発売します。
カメラはその構造上、光を通さない頑丈な箱である必要がありますが、折り畳み式にしてポケットに入るようにしたものです。
高価なものだったようですが、気軽に使えることからヒット商品となります。
これで「コダック」の名前が知れ渡り、1892年には社名を「イーストマン・コダック」に変更。
ところで、1897年に、有名な小説「ドラキュラ」が刊行されています。
序盤で、ドラキュラ伯爵からロンドンにある邸宅を買いたい、という依頼を受けた主人公弁護士が、ペンシルバニアに行って伯爵と話をするシーンがあります。
ここで、遠い異国の邸宅の様子を詳しく聞きたいという伯爵に、主人公が
I have taken with my kodak views of it from various points.
いろいろな場所からの眺めを、私のコダックで取って来ましたよ。
と答えるのです。
当時、「コダック」が、カメラと同じ意味で使われていたことがよくわかります。
#作者のブラム・ストーカーは新し物好きだったようで、ドラキュラの中には、当時の最新の発明が次々出てくる。
多くの人の日記を繋ぎ合わせる形で話は進行するのだけど、タイプライター(1890年頃から普及)や、蓄音機(1877年発明)で日記を記録する人々がいる。
電話機も出てくるが、これも 1890年代に普及。
「最新で科学的な世相」の中に、「中世から生きている化け物」が紛れ込む、という筋立てが当時の人には恐ろしかったのだと思うけど、今読むと全部古臭くてカッコいい。
実業家としては成功を収めたイーストマンですが、その生涯はあまり幸せそうではありません。
13歳の時に父が病死。16歳の時には、2番目の姉が病死。
イーストマンは、高校を中退して働き始め、コダック社の成功に至ります。
苦労しながら自分を育ててくれた母に孝行したい、と多くの贈り物をしたようですが、母は高価な贈り物を受け取ろうとはしなかったようです。
苦労したからこそ、子供が自分への贈り物にお金を使うよりも、自分のために使ってほしかったのかもしれません。
そして、1907年の母の死。
晩年は病気を患っており、少し動くと痛がり、車椅子生活だったようです。
結婚もしておらず、親族のいないイーストマンは、慈善活動にお金を使うようになります。
大学や病院などに多額の寄付を繰り返し、彼や、彼の母の名前を付けた施設がたくさん作られています。
1930年頃から背骨の病気を患います。立つことも歩くのも痛く、何もできない日々。
おそらくは母と同じ病気です。
そして、1932年 3月 14日に、ピストル自殺。
遺書にはただ短く、こう書かれていました。
To my Friends, My work is done. Why wait?
友へ、仕事は終わった。なぜ待つ?
待つ…何を待つ?
おそらくは、痛みを耐えながら迫りくる死を…でしょうね。
苦痛しかなく、その先に待つのが死であれば、待たずに今すぐ…ということなのでしょう。
彼は「仕事は終わった」と言葉を残しました。
確かに、十分すぎるほどの仕事を…世の中を大きく変えています。
カメラを作ったのは彼ではありませんが、カメラを誰でも使える道具にし、普及させたのは彼でした。
20世紀は「映像の世紀」「情報化時代」などと呼ばれます。
カメラは、遠い異国のニュースであっても、危険な戦争の前線の話であっても、文章よりも雄弁に情報を伝えてきました。
そして今も、情報機器…スマホなどの重要な機能として、カメラが組み込まれています。
この世の中は、ジョージ・イーストマンによって生み出されたのです。
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申し訳ありませんが、現在意見投稿をできない状態にしています。 【あきよし】 誤字指摘ありがとうございます。無粋なんかではなく、ありがたいですよ :-) できるだけ読み返して推敲もしているのですが、趣味に使う時間も限られるもので、誤字脱字・そもそもの情報の勘違いも多いです。 (2017-07-26 09:15:13)【セイ】 更新いつも楽しみにしています。無粋ではありますが誤字指摘です。「広告を中退して」→「高校を中退して」 (2017-07-13 11:28:42) |
今日は地図の日。
伊能忠敬が測量事業を開始した日、とされています(1800)。
…されています、というのは、本当は旧暦(寛政暦)の4月19日だから。
しかも、この年は閏年で、4月が2回あった。「閏四月十九日」が測量開始の日ですね。
現代で言うと、6月11日。
しかも、この日は「江戸の自宅を出発」した日で、船で蝦夷地まで向かっています。
本当に蝦夷での測量を開始したのは5月29日で、現代で言うと7月20日。
でも、そんな細かいことを言うとややこしいので、とりあえずは4月19日測量開始、で良いかと思います。
以前に書いたのだけど、僕は小学生の時に「尊敬する人物」と聞かれて、伊能忠敬の名を挙げています。
お父さんとか、王貞治選手とか言う子が多かったのだけど、それはなんか違うと思ったから。
家にあった偉人伝(一人2~3ページの漫画で主な業績を紹介してあるだけ)の中から見繕って、この人はすごいと思って書いた程度。
でも、一度「尊敬する」と言ってしまったら、ちゃんと知っておかないといけない気になった。
少しづつ調べて、大学くらいの時にやっと業績を正しく理解できるようになりました。
伊能忠敬は、「結果的に」地図製作者なのですが、彼自身の興味としては「暦」にありました。
カレンダーですね。
江戸時代の暦は、カレンダーとしての実用性だけでなく、それ自体がエンターテインメントでした。
日々の運勢が書かれていたり、寺社での祭りなどのイベントや、月食などの珍しい天文現象まで予測されていました。
江戸時代は天文学が大きく進んだ時期で、暦を作るための「歴法」も何度か改定されています。
中国から「暦」が伝わってから 800年ほどは、そのまま中国の歴法が使われていました。
しかし、800年もの間に実際の天文現象と暦の間にずれが見られるようになります。
そこで、これを改定させたのが渋川春海。江戸初期の話です。
800年も続いたものを改定するのだから一大事業でした。
しかし、これで「正確な暦」の重要性が認識されると、より正確な暦を目指して工夫されるようになります。
結局、江戸時代 200年の間に4回の暦の改定がありました。
忠敬が測量の旅に出発した、という4月19日は、寛政暦によるもの。
一般に「旧暦」と呼ばれるのは天保暦ですが、それほど大きく違うわけではありません。
日本の暦は、月の満ち欠けを元としたものです。
月が出ない、新月の日が朔日(1日)。満月が15日。
暦を持っていなくても、夜の月を見れば日付がわかる。誰にでもわかりやすい方法ですし、だからこそ 30日の単位を「月」と呼びます。
現代のカレンダーは「シンプル」ですが、「月」という語源からはすでに離れています。
十五夜は 15日の夜ではない。
しかし、旧暦は、その定め方は複雑ですが、「1ヵ月」が非常にわかりやすいです。
それでいて、実は現代のグレゴリオ暦よりも、1年の長さが正確です。
(地球の1年は365.24219日。
これに対し、グレゴリオ暦の1年は 365.2425日、天保歴は365.24223日)
旧暦では、1ヵ月は29日か30日です。1年は354日程度。
これでは実際の1年と誤差が大きいですから、4年に一度程度、「閏月」を入れて調整します。
このときは、1年が13月になります。
この、閏月をどのタイミングで入れるかも、誰が計算しても同じ結果になるように計算方法が決められています。
冒頭で書きましたが、伊能忠敬が測量の旅に出たのは、閏四月でした。四月の次に、もう一度四月を繰り返します。
一般に旧暦と新暦は1か月くらい違うとされるのですが、これによって2か月くらい違っている。
四月だから「春に出発」と思いきや、梅雨のさなかです。
実際、蝦夷への船旅は、梅雨頃に特有の気象現象によって長引いています。
#冒頭に書いた新暦と旧暦の対応は、暦の改定も考慮して作られたページを参考にさせてもらいました。
暦を作る上では、天文現象をよく知る必要がありました。
そして、天文現象をよく知るには、一番身近な天体…地球のことをよく知る必要がありました。
遠くにある星は、遠いからこそよくわかりません。
しかし、近くにある地球は、今度は近すぎて全体を観察できません。
実際、地球の正確な大きさもよくわかっていませんでした。
そして、地球の大きさを知ることが、暦法を改良する上で必要とされていたのです。
伊能忠敬の興味は、ここにありました。地球の大きさを知りたい。
でも、江戸時代は何をするにも幕府の許可が必要でした。
地球の大きさを測りたい、なんて常人に理解できないことを言い出したところで、許可はおりません。
そこで一計を案じました。
蝦夷からの外敵に備えるため、蝦夷の地図を作りたい。
幕府に対して、そう申請したのです。
当時、蝦夷はまだよくわかっていなかったので、地図を作るというのは大義名分となります。
そして、地球全体の大きさを推察するためには、大きな場所を測ったほうが良いのです。
地球のサイズを測るのに一番良い方法は、緯度1度の長さを測ることと考えられました。
緯度とは、北極と南極をまっすぐに結ぶ線、「子午線」に対して、地球の中心からの角度のこと。
赤道は0度、北極・南極は90度になります。
北半球では、夜になれば「北極星」を観測できます。
北極星は、ほぼ動きません。
#実際には多少動きますが、この動きも時代とともに変わり、江戸時代は現代よりも動きませんでした。
この北極星がどこに見えるか、正確な角度を出します。
北極の上にあるのですから、北極では天頂、90度の角度に見えるはずです。
逆に、赤道では水平線に重なる、0度になるはずです。
ということは、90度から北極星の角度を引いたものが、観測地点での緯度となります。
これで、地球上の「緯度」はわかります。
あとは、地上の距離を測定すればいいだけ…?
いや、それでは、同じ緯度でも「斜めに」長さを測ってしまうかもしれません。
正確に子午線に沿って図らなくては、距離を誤ります。
実のところ、緯度は比較的簡単に測れますが、経度を測るほうがずっと難しいのです。
経度を測るには、星の位置を使います。
星は、1日の間でもずれていきます。
地球が1日で1回転している(自転)ためで、1周は360度。
現在の時法では、1時間は1日を24等分したものなので、1時間のずれは 360/24 = 15度。
4分で1度ずれることになります。
さらに、毎日同じ時間に星を観測したとしても少しづつ位置がずれていきます。
これは、地球が太陽の周りをまわっているためです。
地球はおよそ 365日で太陽の周りを1周します(公転)が、1周は 360度。
だから、1日のずれはおよそ1度。
同じ個所で数日にわたって観測を行ったら、ここで説明したとおりのずれが起こります。
では、「移動しながら」観測を行ったらどうでしょう?
前日の観測とは、上に書いたものとはまた別の「ずれ」が加わるはずです。
そのずれは、つまり観測地点の経度が変化したことによるずれです。
このずれを正確に測定することにより、2点間の経度の差を求めることができます。
ただ、ここでまた別の問題が生じます。
上に書いた「ずれ」は、地球の動きに起因するものです。
これを正確に測定しようと思えば、地球の動きを正確に知るための道具…
つまりは、正確な時計が必要になるのです。
これは、当時の技術的な限界でした。
伊能忠敬の日本全図は、緯度はかなり正確なのですが、経度に関してはずれがあります。
しかし、星の南中時刻を利用して経度を測定する努力はしています。
ずれがないように複雑な方法で「糸」張り巡らせ、そのうち高さの違う2本が、正確に南北を向くように(子午線に沿うように)します。
この2本が重なるように下から覗くと、星の正確な「南中」位置の目安となります。
蝦夷地の計測は、実際に日本全体の計測を行う前の「試験」と位置付けられました。
試験的なものなので、使用してよい機材も限られ、精度を上げるのに限界がありました。
そして、伊能忠敬が「やりたい」と幕府に願い出て許可を得たもので、幕府は許可とわずかな資金を出しただけです。
忠敬はほぼ私財をなげうって計測を行い、およそ70両、現在の価値にして1200万円ほどを使ったようです。
1800年 10月には計測を終えて帰り、11月は地図製作に取り掛かります。
年内にはすべてをまとめ上げ…子午線1度は「二十七里余」と出ました。
「余」というのがまた微妙ですが、仮に 27.3里 だとしましょう。
1里は約 4km…より正確には、約 3.93km とされます。(もともとそれほど正確な単位ではありません)
1度がこの長さですから、地球1周の長さは 27.3*3.93*360 = 38624km 程度です。
実は、ほぼ同じことを、1年前にフランスが行っています。
ヨーロッパ各国で統一されていなかった「長さの単位」を統一しよう、と呼び掛けて始まったもので、ヨーロッパの国々で計測を行い、赤道から北極までの長さを算出しました。
そして、この 1000万分の1を「メートル」とします。1799年のことでした。
言い換えれば、赤道から北極までが 1000万メートル…1万 km です。
これは地球一周の 1/4 ですから、1周は 40000km になります。
伊能忠敬の計測値は、 4% 程誤差があります。
しかし、この業績が認められ、さらに全国の計測が許可されます。
最終的に忠敬の出した子午線1度の長さは、28.2里。
地球一周の長さは 39897km です。わずか 0.3% の誤差しかありません。
ちなみに、地球は当時考えられていたような「球」ではなく、遠心力のために赤道付近が膨れていますし、大陸と海の重さの違いで、北半球がつぶれています。
フランスの計測した場所と、忠敬の計測した場所では、子午線1度の長さが違う、ということですね。
では、現代日本の測定ではどうなのか?
これは、忠敬の子午線1度は、0.2% 程度の誤差しかないのだそうです。
伊能忠敬が暦に興味を持ち、勉強を始めたのは、老いて隠居してからです。
人生何歳からでも何かを始めるのには遅くない。
成し遂げたことの偉大さもさることながら、この姿勢が素晴らしいと思います。
僕の尊敬する人物の一人です。
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今日は、フィル・カッツの命日(2000)
Phillip Walter Katz。
彼は自分の作ったソフトに、名前の頭文字を取って PKZIP と名付けました。
今でも使われる、拡張子 ZIP の圧縮ファイルのフォーマットを決めたソフトです。
詳しい話は、誕生日記事で書いています。
興味を持たれましたら、そちらをお読みください。
この日記は、ただ命日の日付を記録する目的です。
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今日は、西角友宏さんの誕生日(1944)
名前はあまり有名ではありませんが、作り出したものは多くの人が知っている。
スペースインベーダーの開発者です。
過去に世界最初のゲームについて書いていますが、まぁ、多くの人が世界最初のゲームは PONG だと考えています。
これは商業用として最初にヒットし、ゲーム業界を作り出した作品。
でも、その前に同じ作者による、「COMPUTER SPACE」というゲームがあります。
PDP-1 で遊ばれていた「SPACE WAR!」を業務用にしたもの。
…なのですが、もちろん業務用にするためにルールは違いますし、最大の違いは、SAPCE WAR! がプログラムで作られていたのに対し、COMPUTER SPACE は回路で作られているということ。
当時、コンピューターはまだ非常に高価でしたし、プログラムを解釈して処理できる機械を作ろうとしたら大変でした。
だから、安くするためには回路で組まないといけなかったのです。
PONG も回路ですし、その後の多くのゲームも回路で作られています。
しかし、タイトーから発売されたスペースインベーダーは CPU 8080 を利用して作られ、回路では実現できないような複雑な内容を持っていました。
そのために大ヒットしますし、同じように「プログラムされた」ゲームが大量に作られ、ゲーム業界を作り出すことになります。
#ソフトウェアで作られた初の業務用機、ということではない。
インベーダー以前に日本でもヒットした「サーカス」(風船割ゲーム)も 6502 を使用している。
ただ、サーカスは絵がきれいになり、遊びに幅は出たものの、ブロック崩しの亜流に過ぎない。
インベーダーは、ブロック崩しのブロックが動いたら面白いのではないか、というアイディアから着想されたそうです。
ブロック崩しは、ただでさえ狙うのが難しいゲーム。
動いたらとても狙ってられないので、直接「撃つ」ことにします。
ということは、ボールがないのだから、「落としたらダメ」にはできない。
そこで、敵からも反撃があるようにします。
このままだと戦争ゲームになってしまい、なんだか血なまぐさい。
当時スターウォーズが流行していたので、宇宙戦争ということにします。
これで大体インベーダーゲームの骨子の出来上がり。
非常に論理的に組み立てられていますが、「全く新しいゲーム」を感じさせてくれました。
プログラムで作られたゲームとしては最初期のものなので、バグも多いです。
ミサイルがインベーダーの「下」ではなく、「2つ下」から出てしまうため、密着するとやられない。
いわゆる「名古屋撃ち」です。
インベーダーは左右に動きますが、右に進むときは、左に進むときよりもわずかに速いです。
これもバグだったそうですが、微妙な速度の緩急により、ゲームを単調ではなくしていました。
ビットマップの画面にキャラクターを描き、動かすときには消す必要があります。
でも、インベーダーは左右にしか動かないのだから、左右の余白を大きくしておけば、新しく「描く」時に、以前のものも消してくれる。
…はずでしたが、一番大きな 10点インベーダーが、上に書いたバグにより、最高速で右に進むと軌跡を残しました。
いわゆる「レインボー」。
バグかもしれませんが、すべてがいい方向に動きました。
他社からも真似をしたゲームが多数発売されましたが、バグをとってしまったゲームは「つまらない」と言われてしまう始末。
PONG のコピー基盤でアメリカのゲーム業界が形成されたように、日本ではインベーダーのコピー基盤でゲーム業界が形成されます。
コピーというより「パチモン」と言ったほうがいいかな。
まるっきりコピーする、いわゆる「デッドコピー」ではないです。
(デッドコピーもありましたが)
任天堂も、セガも、コナミも、アイレムもニチブツも、インベーダーのコピーを作っています。
もちろん、今でも残るメーカーは「真似」だけで終わらずに、その後オリジナル作品などを作って生き残ってきたのですが。
インベーダー以前のゲーム機は、遊園地や、デパート屋上スペースや、映画館や、喫茶店などに置かれるようなものでした。
でも、インベーダーの大ヒットで、インベーダーだけをたくさん並べたお店、いわゆる「インベーダーハウス」が乱立します。
ブームの終焉と共に無くなった店も多いですが、これらの一部が「ゲームセンター」として生き残っていきます。
メーカー側、店舗側、どちらもインベーダーの出現で大きく変わったのです。
インベーダーが日本のゲーム業界を形成した、と言ってよいかと思います。
西角友宏さん個人については、実のところ僕はそれほど知りません。
まだ精力的に活動しておられる方で、実際にあって話をしたような人の記事も、ネットを探せばたくさん見つかります。
インベーダーが大ヒットしてしまったがゆえに、「アフターサービス」で、インベーダー基盤の交換用ソフトをしばらく作っていた…なんて話もあります。
他社製品ではスプライトが使えるようになったりする中ですから、羨ましくもあったようです。
でも、制約の中で作ったゲームは大ヒットとはいかずとも、よく考えられた面白いゲームだったと聞いたことがあります。
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今日は X68000 発売日(1987)
ちょうど 30 年だ、というので記録しておきます。
X68k については、もう 20年前に言いたいこと言っているので、いまさら言うことは何もないです。
公開してから気づいた。
2年前にも X68k の発売日書いてるじゃないか…
鳥頭にもほどがある。
公開当日の内の追記。
シャープ公式の人のツイート。
当時は「この日」から全国一斉発売!という製品も多くなくX68000もその一つなのですが、いくつかの社内資料から「3/28」を誕生日としました。というわけで
— シャープ製品 (@SHARP_ProductS) March 28, 2017
30年前の今日3/28に、シャープからX68000発売。 #私とX68 で皆さんの思い出/写真共有してください。 pic.twitter.com/Kd2KVu4AYb
20年前に書いた僕の記事では、「春発売」と書いている。
当時の記憶では、発売日が明確になってはいなかったからだ。
2年前の日記は、公式に「3/28」となっていたのでその日に書いた。
僕が知らなかっただけで、ちゃんと発売日設定があったのかな、と思って。
しかし、上のツイートで疑問が解消した。
どうやら、今日が発売日、と明確に定まるわけではないようだ。
後日追記 2017.4.7
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1971年の今日、アメリカで2つの特許が出願されています。
まずは、米国特許番号 3,728,480。
「Television gaming and training apparatus」
テレビ受像機による、ゲーム・訓練装置
出願者は、ラルフ・ベア。
彼が、テレビ受像機を、放送を見る以外に使えないか? というアイディアを思い付き、ゲーム機の研究を行ったのが、1967~1968年。
最終的に「Brown BOX」としてまとまります。
これを量産品として販売した Odyssey は 1972年。
発売前に特許を出願したようです。まぁ、普通の判断。
世界で最初のテレビゲームの一つですが、詳細は上のリンク先をお読みください。
もうひとつは、米国特許番号 3,842,194。
「Information records and recording/playback systems therefor」
情報保持、記録/再生のためのシステム
出願者は、RCA の研究者であった、ジョン・クレメンス。
「静電容量ディスク」の特許です。
今では聞きなれない方式ですが、一時期非常に注目され、テレビゲームとも縁が深いです。
1959年には、RCA のトーマス・スタンレーによって「静電容量ディスク」のアイディアが考案されていたそうです。
これは、普通のレコード盤にビデオ信号を記録する、というもの。
レコードは、音…つまり、空気の揺らぎを、レコードの「溝」の揺らぎとして記録します。
しかし、ビデオ信号は音よりももっと周波数の高い「光」の波であり、この方式では記録できません。
光と電気・磁気信号は近いものなので、せめて電気・磁気で信号を記録できれば…というところ。
実際、ビデオテープなどは磁気を使いますし、DVD などはレーザー光線を使い、光で記録を行います。
#DVD は前段階として、デジタルによる信号圧縮も行われているので単純ではないですが。
静電容量ディスクは、レコードのような「ビニール樹脂」が、静電気を溜めやすい性質を利用したものです。
小さな穴を作り、そこに「静電気」を溜めようとすると、穴のサイズによって溜められる量が変わります。
この「静電容量」を信号として取り出せれば、電気的な記録が可能です。
物理的な溝の揺らぎで記録するよりも、高密度で、高速に読み出せる記録が可能でした。
1964 年には RCA で本格的に研究が始まり、1971 年までに技術を確立し、特許が出願されたのです。
アメリカでは、RCA から CED(Capacitance Electronic Disc :電気容量ディスク、の意味)として発売されています。
日本では、この方式をさらに改良した、VHD(Video High Density Disc :高密度ビデオディスク)として 1981年に発売されました。
ちなみに、根本的な部分の改良なので、CED との互換性はありません。
CED では、レコードのように1本のらせん状の溝があり、その溝に従う形で信号記録のための穴があけられていました。
しかし、VHD には溝がありません。完全に平らなディスク上に穴があけられ、読み出し針は自由に動くことができます。
これによって、ランダムアクセス…頭出しが可能なことが VHD の特徴でした。
また、溝がないことから「針が溝を削る」こともなく、摩耗しにくい…ともされましたが、それでも物理的な接触はあるため摩耗します。
ところで、CED/VHD のライバル規格として、レーザーディスク (LD) があります。
フィリップス/MCA が企画したもので、日本ではパイオニア1社のみが製造していました。
こちらは 1978年にはアメリカで発売、1980年に日本で発売しています。
名前の通り、レーザーで読み取ります。接触しないので摩耗はなく、ランダムアクセスも可能です。
ただし、記録時間は LD が30分、VHD が1時間でした。
LD は「両面ディスク」を発売し、1枚で1時間として欠点をカバーしましたが、途中で裏返すという手間が増えます。
(のちに記録方式を拡張し、片面1時間にも対応。)
レーザーという「新技術」を使っていたため、機械が高価なのも普及を妨げていました。
しかし…ここからが、今日の本題。
1983 年、「ドラゴンズレア」が発表となります。
世界初の、レーザーディスクを使用したテレビゲームでした。
まだゼビウスが「最も美しい」テレビゲームだった時代に、ディズニー風のセルアニメで遊ぶゲームは、まさに異次元のものでした。
LD の機械が高価でも、業務用として売れない値段ではありません。
例え 30分しか記録できなくても、業務用ゲームのプレイ時間としては十分です。
そして、すぐに再生画面が切り替えられる、というランダムアクセス性を活かし、操作に成功すればアニメが続き、失敗すればすぐに「やられた」画面を表示するようになっていました。
LD の欠点をカバーし、長所を伸ばす形で応用したゲームにより、LD の存在感を示したのです。
ドラゴンズレアは大ヒットゲームとなり、日本でも、サンダーストーム(DATA EAST)、タイムギャル(TAITO)、バッドランズ(KONAMI)などなど、多数の LD ゲームが発売されます。
#アストロンベルト(SEGA)は微妙な所。
ドラゴンズレア以前から開発されていた一方、背景を LD に任せただけの普通のシューティングゲームだから。
そして、これらの「家庭用」は、主に VHD で発売されました。
LD よりも VHD のほうが、本体価格が安くて普及していましたから。
#もちろん、LD でも出ましたけど。
ただし、ゲームで遊ぶにはそれなりの設備が必要になります。
主に、テレビとの親和性が重視されたパソコンだった、シャープの X1 と、VHD の開発元であるビクターも製造していた MSX 用にソフトが発売され、パソコンから制御できる機能を持った VHD プレイヤーも必要でした。
参考:VHD サンダーストーム
ランダムアクセスと言っても、読み取りヘッダの移動時間は物理的に必要です。
LD や VHD のゲームでは、特殊なフォーマットで記録を行うことで、こうした「移動時間」を最小にしています。
確か、当時のベーマガで、この技術を説明していました。
VHD は普通らせん状に1本にデータが記録されているのだけど、この「らせん」を2本にする、というもの。
通常映像のすぐ横の溝に、「失敗した時の分岐先」を用意することで、ヘッダの移動時間を最小化するのです。
これ、昔の「ひもを引くとランダムにしゃべる人形」…トイストーリーのウッディみたいなおもちゃで使われていた技術と似ています。
…って書いて判る人はほとんどいないでしょうね (^^;;
ウッディみたいなおもちゃは、中に非常に小さなレコードが入っています。
レコードには普通溝が1本ですが、4つの溝が刻まれていて、ひもを引いてバネを巻いたときに、たまたま針が落ちたところの音声が再生されます。
VHD ゲームは「オリジナルソフト」も多少はあったのですが、VHD ゲームを作るのは手間がかかるため、ほとんどは業務用の移植でした。
ただ、ビクターもパソコンとセットにできる VHD プレイヤー、なんて高価なものを売った以上はソフト供給の責任があるわけで、いろいろ変わり種も発売していました。
ゼビウスの背景が延々と流れるだけのディスク、というのがあったのを覚えています。
通常そんな画面が出るわけはないので、ゼビウスのソフトを書き換えて、わざわざ専用に収録したものだったそうです。
当時、ゼビウスは「移植不可能」と言われていましたが、最大の問題が背景のスクロールでした。
当時のパソコンにはスクロールのハードウェアなんてなかったため、すべてのドットをソフトウェアで書き換える必要があったのです。
ここに、ゼビウスの背景 VHD を垂れ流して、ゲームに関係するキャラクターだけ書けばよいとしたらどうでしょう?
きっとそんなソフトが発売されるに違いない、と思ったのですが…
…出るわけありませんでしたね。
パソコンだけでも高価だった時代、特殊な VHD本体と接続キット、さらにゼビウスの背景 VHD まで買った人しか遊べないゲーム、なんて需要あるわけありませんし。
LD ゲームは、画面はきれいかもしれませんが、その特性上「自由に動く」ようなことは出来ず、画面の指示に従ってタイミングよく操作を行うだけの、覚えるだけのゲームでした。
そのため、あっという間にジャンル自体が廃れます。
1984~1985 のわずかな期間に、ほとんどのゲームが発売されたのではないかな。
ちょっと特殊な所では、1990 年のギャラクシアン3。
あまり LD ゲームとはされません。
セガの「アストロンベルト」と同じで、背景が LD で、その上にキャラクターを重ねて3Dシューティングゲームを行う。
ただ、7年もたっているので技術は格段に上がっていて、背景とキャラクターの間に違和感を感じません。
1990年の、いわゆる「花の万博」で披露されたもので、28人が 360度スクリーンで同時に遊ぶという、大規模なものです。
後に6人で遊べるバージョンが作られ、ゲームセンターに置かれました。
…といっても、これも非常に高価で、置かれた店は限られていましたけど。
(大学の近くにあったので、仲間と一緒に遊びに行きました)
こんな大型機で、しかも LD なんて特殊なものを使っているので、保存しておくのも大変なようです。
2010年に大規模な「LD エミュレーション」を作成するプロジェクトが行われています。
LDプレイヤーが入手困難になっているので、全動画を PC に取り込み、LD 制御信号を解釈するプログラムを作ることで、PC に LD プレイヤーの代わりをさせる、というものでした。
これは、「アーケードゲーム博物館計画」さんの所有物で、年に数回開放しています。
そのタイミングで倉庫に行けば遊ぶことができるそうです。
僕も、昨年秋に友達と遊びに行ってみようと計画していたのですが、残念ながら昨年秋の開放は中止になってしまいました。
#今回「静電容量ディスク」の話のはずが、すっかり脱線してしまいました。
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今日は、アンドリュー・タネンバウム教授(1944)と、リチャード・ストールマン(1953)の誕生日。
この二人が同じ誕生日、というのはすごい偶然だと思います。
タネンバウム教授は、MINIX の設計者。
MIT の卒業生で、カリフォルニア大学バークレー校で博士号を得ています。
その後、オランダのアムステルダム自由大学で計算機科学の教授を行っています。
この過程で、学生にコンピューターOSの仕組みを教える教材として、MINIX を設計。1987年に完成させます。
UNIX は、そもそもミニコンピューター(と書くと小さそうですが、パソコン=マイクロコンピューターより巨大なもの)で動くOSでした。
MINIX は、その機能を厳選し、IBM-PC で動くようにしたOSです。
MIT のハッカー風土を知り、バークレー校のBSDを知っている教授が作った、誰でも使える UNIX でした。
と言っても、MINIX は機能を限定した UNIX です。
MINIX でOSの仕組みを学んだリーヌス・トーバルズが、後に「ハイエンドな」IBM-PC で動く、フルセットの UNIX を作ります。
これが現在の Linux 。
ただし、Linux はOSの一番重要な部分、「カーネル」だけです。
周辺ソフトなどを整え、OSとして使えるようにするには、別のソフト群が必要でした。
話は変わって、リチャード・ストールマン。RMS とも呼ばれます。(ミドルネームは「マシュー」)
ストールマンも MIT の学生でした。ただし、卒業はせず、中退。
MIT のハッカー文化が消えつつあるときの学生で、書籍「ハッカーズ」の中では、最後の章でやっと登場します。
ハッカー最後の生き残りとして。
ハッカーの倫理は、当時のブームであった「ヒッピー文化」に深く根差しています。
誰かが作ったものは、皆で共有されるべき。すべてを公開し、秘密を無くすべき。
金もうけのために働き、稼ぎを自分一人の財産にする、なんていうのは、最も忌むべきことでした。
しかし、学生の時はそのような理想を口にしても、社会人になれば金もうけのために働く必要があります。
ハッカーたちの多くは、MIT 内の「AI研究所」に所属し、政府の助成金で研究をするモラトリアムを送っていましたが、その助成金すらも制限があります。
そして、みな自分たちの技術や知恵を「商品」として、商売をし始めるのです。
特に決定的だったのが、先日も書いた「Lispマシン」でした。
AI研究所では Lisp マシンを開発しましたが、この商品化のために Symbolics 社が作られます。
そして、「金儲けは許さない」とした一派と分裂。
許さないとした一派もLMI (Lisp Machine Inc) という会社を作り、結局は Lisp マシンで商売を始めるのです。
これが、ハッカー文化の終焉でした。
ストールマンはハッカー文化の中心となった人達よりも若く、このどちらの行動も許せませんでした。
…まだ若かったのですね。
そこで MIT を飛び出し、「すべてのコンピューターソフトをフリー(自由、無料)にする」という活動を始めます。
これが GNU 活動。
UNIX の複製品を作り、無料で配布することが当初の目的でした。
OS自体を作るのはなかなか難しいことです。
そこで、GNU は「周辺ソフト」から活動を開始します。
UNIX の標準コマンドは、すべて GNU 製品として用意しました。
一般的な標準コマンドよりも性能が良く、機能が多く、ソースコードも配布され、改造も自由で、無料です。
ソースコードは「Cコンパイラ」で処理すると、コマンドとして使える「実行ファイル」が出来上がります。
このCコンパイラも、GNU 製品で用意しました。
ソースコードの作成には、テキストエディタが必要です。
実は、ストールマンは GNU 活動を始める前から、Emacs というエディタを作っていました。
これも GNU 製品として使えるようにします。
UNIX 上では、OSは「カーネル」の部分と、ユーザーが操作を行う「シェル」の部分に分かれます。
このシェルも、従来より高性能なものを作成しました。
とにかく、UNIX のありとあらゆるソフトを無料で使えるように。
ただ、周辺ソフトは全部そろえられても、カーネルだけは作れません。
カーネルというのは、ハードウェアに密着し、その違いを隠す部分です。
上に書いたようなソフトは、そうした「違いが隠された」上で動作するものなので、OSが整っていれば、ある意味どこででも動作します。
しかし、OSのカーネルは、マシンごとに作成しなくてはならず、手間もかかるし泥沼の作業になりやすいのです。
さて、ここで先ほどタネンバウム教授のところで出てきた話に繋がります。
タネンバウム教授の MINIX で勉強したリーヌスが、Linux という新しい UNIX 準拠のOSを作りました。
ただし、カーネルだけで、周辺部分が一切ありません。
ストールマンは、UNIX 準拠のOSを用意しようとして、周辺一式を揃えました。
しかし、カーネルの部分がありません。
この二つを組み合わせれば、UNIX として使えるようになるわけです。
実際、現在の Linux は組み合わせた状態で「配布」されています。
ストールマンとしては、リーヌスの名前を付けた「Linux」という名前でこのセットが呼ばれることを、快く思っていないようです。
GNU/Linux と呼んでほしい、と呼び掛けていますが、あまりこの呼び方をする人はいません。
リーヌスとしては、Linux を GNU のライセンスに従って配布することにしています。
だから、ここでも GNU 製品と呼んでも差し支えないことになる。
もっとも、GNU の考え方も一枚岩ではなくて、GPL の解釈だって、リーヌスとストールマンで違います。
ここら辺、GNU に関してはいろいろな話があるのですが、長くなるのでまたの機会に。
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