目次
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2017-01-08 プログラマーの技術力
2017-01-14 WaveRunner
2017-01-15 あの頃のインターネット
2017-01-20 1996年のそのほかのゲーム
2017-01-27 ザ・ハウス・オブ・ザ・デッド
2017-10-10 オーラ写真倶楽部
2017-10-11 オーラ占いの企画
2017-10-12 オーラのプログラム分担
2017-10-16 オーラ撮影の仕組み
2017-10-19 オーラ占い・よもやま話
2017-10-24 さん付け運動実施中
2017-11-01 千客万来
2017-11-02 引っ越し作業
2017-11-16 ST-V 開発環境
2017-12-23 ポケベル早押しPiポパ
2017-12-29 1997年のその他のゲーム
2018-01-23 サターンポリゴンのゆがみ
2018-01-29 テクニカルサポート
2018-02-01 ネットワーク管理
2018-02-02 機材管理
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Twitter で「コピペで済ますプログラマ」という話題を見かけました。
プログラムが書けないプログラマ、でもあります。
冗談みたいだけど、本当にそういう人はいます。
本とかネットとか、いろんな場所で「例示」されたプログラムを持ってきて、組み合わせて目的のものを作り上げてしまうのね。
昔から「読み書き算盤」と言われます。まず読めないとどうしようもないけど、「書く」というのは読むことの延長ではなく、違うレベル。
プログラムも同じで、「読める」…意味が分かることと自分で書けることは違います。
コピペプログラマは、読めるから組み合わせることもできるけど、書けないのです。
とはいえ、それがダメだというのではない。
最初は意味も分からず写経するのが大切だし、意味が分かってきたら真似して作ることが大切。
でも、その段階でプロになってしまうと、ちょっと問題が出てきます。
「業界記」として書いている一連のシリーズでは、あまりネガティブなことは書かないようにしています。
でも、今回はこうした話を書いてみます。
プログラム課としてはかなり年長の「ベテラン社員」がいました。
一度一緒に仕事をしたこともあります。年長なので、その時のメインプログラマでした。…肩書上は。
でも、実際にはコピペプログラマ。自分では書けず、過去のプログラムの切り張りでプログラムを作ります。
ゲーム作成って「そのゲーム独特の」処理も多いのね。コピペでは済まない。
そうした部分は、部下のプログラマに任せます。
メインプログラマは全体を統括するのが仕事で、実際のプログラムは他の人に任せてもいい。
ここでは、実際にほとんどを組んだ人を「事実上のメインプログラマ」と呼びましょう。
この、事実上のメインプログラマが作っていて、どう処理してよいかわからない部分がありました。
ハードウェアに密接に関係するパラメーターを決定しないといけない部分で、仕様書を繰り返し読んでもどのようなパラメーターが求められているかわからないのね。
ある程度の試行錯誤が必要でした。
しかし、事実上のメインが試行錯誤を始めてしまうと、進捗が止まってしまいます。
そこで、「肩書上のメインプログラマ」がその部分を担当しました。
ベテラン社員で顔が利きますから、他の部署に行って必要な処理をしている他のプログラムを見つけ出し、該当部分をもらってきます。
あとは、プログラムの流れを見て該当処理をしていると思われる部分を、丸ごとコピペ。
そのままでは動かなかったので、変数の形式などを試行錯誤しながら「それらしく」合わせます。
これで完成。
プログラムの内容は理解していないので、本当に正しいのかわかりません。
でも、必要としている変数の値の範囲では「それらしく」動いているのだからいいんじゃないかな。
「事実上のメインプログラマ」が、後学のために処理の内容など尋ねたのですが、「切り張りしただけだからわかんねぇ」とのこと。
何やってるのかわからないで、よくちゃんと動くプログラム作れますね…と、変な感心をしていました。
この人と同期の、また別の人の話。
同期なので当然ベテラン社員なのだけど、一応自分でプログラムはできました。
でも、ちょっと論理性が怪しい。
「読み書き算盤」でいえば、算盤の部分ができていない感じ。
その人が、ST-V の導入初期に「3Dプログラムの勉強会をしよう」と提案しました。
ST-V は3Dを扱えるハードだったけど、3D経験者はまだあまりいませんでした。
そこで、3Dの基礎概念くらいは全員が知っている必要がある、と考えたようです。
ここら辺は、ベテランらしい面倒見のよい部分です。
特に反対など出るわけもなく、会議室で第1回の勉強会が行われました。
ここでは「ゲームを作る上での」概念が大切。
だから、回転行列とかを教えるのではない。そんなものはライブラリを使えば済む話。
2Dなら表示したい座標を指定すればよかったけど、3Dだとカメラ座標とキャラクタ座標があって~ とかそういう話。
話がキャラクターの動きになった時、「回転はX、Y、Zの軸を中心に行われるけど、どの順番で回しても一緒」と先輩社員。
え、それ違いますよ。回転順序は重要、と僕が指摘したのですが、「お前、3Dわかってないなぁ。あとで説明してやるから席に来い」と言われます。
で、一通りの説明終了後に、先輩が実際の動きを実演してみせるというので、興味のある人は先輩の席の周りに集まります。
まず、「回転順序は関係ない」ことが実演されます。
3Dのモデリングソフトを起動し、回転を実演します。
X軸を回してからY軸を回せばこういう形で、Y軸を回してからX軸を回しても同じ形に…なりません。
焦って何度か同じ操作を繰り返す先輩社員。でも、同じになるわけないです。3Dでは回転順序は重要ですから。
本当は他にもいろいろ実演しながら説明する予定だったのだけど、なんとなくここで会がお開きになってしまいました。
勉強会も、続けてやる予定だった2回目は行われませんでした。
だって、みんなの前で「教える」と息巻いていた人が、基本部分すら理解していないとわかってしまったのだから。
みんなの前で誤りを指摘して恥をかかせた形になってしまったので、この先輩社員には後まで恨まれていたような気がします。
セガは大手会社だったから、プログラマーの技術力も高かったんでしょう?
と人に言われることがあります。
でも、ここに例を挙げたように、そんなことはありません。
初歩的なことでもできない人は結構多かった。
「技術力」は個人のものなので、大手だからと言って高いことはない。
でも、大手だと「層」の厚さはありました。多くの個性が集まっているのね。
コピペしかできなくても、顔が広くて必要なプログラムを確実に見つけてくる、というのも大切な個性。
3D勉強会を開いた人だって、3Dは理解していなかったけど、2Dゲームでは有名なものを何本も手掛けた方です。
もっと大切だったのは、プログラマー以外の「テストプレイ要員」が豊富にいたことのように思います。
中小企業だと、余計な人員を雇う余裕はないので、全員がゲームの作成にかかわっていて「デバッグプレイ」まで手が回らないことも多いのです。
でも、人員に余裕があれば、ひたすら遊んでバグを出すこともできる。
バグっていうのは見つからないと除去できないもので、見つけ出すことが何よりも大切です。
結局、個人の技術力は高くなくても、大手の総合力で「製品につぎ込まれた技術力」は高く見えるのね。
まぁ、人数が多いと平均値から離れている人も出てくるわけで、とてつもなく高い技術力の人もいましたけどね。
そちらの話は、またそのうち書く機会もあると思います。
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別年同日の日記
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WaveRunner は、1996年の秋に発売になったはず。
Model2 で作られた、マリンジェット…もしくジェットスキー、水上バイク、パーソナルウォータークラフト(PWC) などと呼ばれる、海の上を走る小型船舶のレースゲームです。
念のため書いておくと、水上バイクは日本でよく使われる一般名称で、PWC は英語圏でよく使われる一般名称。
マリンジェットはヤマハの商標、ジェットスキーはカワサキの商標です。
そして、WaveRunner というのは、ヤマハが発売しているマリンジェットの機種名。
というわけで、ヤマハに許可を得て実機を登場させた、水上バイクのゲームなわけです。
https://www.gamesdatabase.org/から引用
マリンジェット、WaveRunner なのに、広告チラシ下部の英文では jet ski って書いてある。
わかってないとしか思えない。
たしか1996年の春ごろ、部署内でアイディアコンテストをやる、と企画課の課長が発表しました。
企画は当然アイディアを考えるのが仕事なのだけど、企画以外でも「こんなゲームを作りたい」というようなアイディアを誰しも持っているもの。
でも、そうしたアイディアは埋もれがちなので、みんなに課題として提出してもらって、いいアイディアのものをゲーム化したい、という趣旨でした。
しかし、漠然と「考えて」と言っても、アイディア出しに慣れていない人には難しいだろうから、と、方向性が示されます。
レースゲームとすること。
他にないようなアイディアを入れること。
普通の車のレースゲームはたくさん出ているので、目を引くような変わった操作性が欲しいこと。
この方向性で、各自1つは企画書を提出して、とのことでした。
僕もアイディアを出しはしたのだけど、それはまぁいいんだ。
しばらくして、良いアイディアだと皆の前で発表されたものがあって、そこで「あぁ、最初から出来レースだったのか」と気が付いた。
出来レースといっても、受賞者が決まっていたという意味ではないのね。
ただ、あらかじめ上層部が考えているアイディアがあって、それに沿うアイディアが出てきたところで掬いとる、というだけだった。
マリンジェットを使ったレースゲーム、というアイディアを、何人かが提出したそうで、それらのアイディアが良かった、と褒められます。
これから夏だからタイムリーだし、水上の挙動というのはお客様も慣れていないので新鮮な感じがする…などなど。
僕としては、選出理由を聞いていて、まるっきり白けてしまいました。
この頃、水上バイクがちょっと流行の兆しを見ていました。
テレビのバラエティなんか見てても、「これから流行する新しいマリンスポーツ」的な感じでよく出てた。
今調べてみたら、水上バイク自体の歴史は古いのですが、流行し始めたのはカワサキの Jet ski 以降なのね。
というのも、他の会社は「一人載りのモーターボート」として考えているのに、カワサキは「引っ張ってもらわないでできる水上スキー」と考えていたから。
他社が乗り物を作っているのに、カワサキはスポーツギアを作った、ということでしょうか。似て非なるもの。
これで、1980年代の中ごろにアメリカで流行し始めます。ヤマハが参入したのもこの頃。
1990年ごろにはブームが起きて、これをきっかけに 1990年代半ばから次々と「規制」が作られます。
規制しないといけないほどの大ブームになったという事ね。
その流行が日本に数年遅れで入ってきていたようで、それが先に書いたテレビ番組などの例になります。
たしか、この年の春のショーでも、海外のゲーム会社が、3D視点の水上バイクのレースゲームを出展していました。
つまり、話題になっているし、他社が作っているから、うちも同じようなの作ろう。
ただそれだけのことだし、それを「アイディア」とは言いません。
別に他社の真似が悪いわけではないです。
以前も書いたけど、全く新機軸のゲーム、っていうのは、実は受け入れられない。
どこかで見た、という既視感と、それなのに新しい、という新規性の両立が大切です。
つまりは、真似をしつつ新しいものを入れるのが大切。
今探しても、その海外のゲームが見当たらないのだけど、たしか拡大縮小スプライトで作られた3Dゲームだった。
アウトランとか、パワードリフトとか、そういう感じの画面構成なのね。
時代的に「一昔前」の作りだったのだけど、水上バイクというアイディアは悪くなかった。
じゃぁ、3Dの技術で作り直したらイケるんじゃないか、ってこと。
でも、「アイディアコンテスト」として、これを評価するのは筋が悪い。
「他社にないようなアイディア」という課題だったのに、思いっきり真似です。
さらに、すでに春なのに「これから夏だし」はあり得ない。
ゲーム開発は6か月くらいかかるんです。
もう、この選定の時点で悪い予感しかしませんでした。
…はい、あたりです。
その年の秋は、セガの WaveRunner を含め、4種類も水上バイクのレースゲームが出たんです。
うち一つは家庭用だけど。
特徴的なのは、セガだけがヤマハのマリンジェットをゲーム化し、他の会社はカワサキのジェットスキーだという事。
先に書いたように、水上バイクブームはカワサキのジェットスキーによってもたらされたものだから、そちらにするのが当然と言えば当然。
ゲーム自体はよくできていました。
基本的には、インディ 500 のチームが引き続きレースゲームを作った、という形なのかな。
何作も作っているので、ノウハウは持っている。
ひいき目かもしれないけど、アーケード3機種の中では、WaveRunner が一番人気出たんじゃないかな。
でも、お客さんからすると「似たようなゲームがいっぱい」という状況にはなるよね。
人気が分散してしまい、大ヒットとはなりませんでした。
別年同日の日記
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ふと気づくと、このサイト「魔法使いの森」も、いつの間にか20年を超えていた。
最初に書いた記事はファミリーBASICで、1996年の10月1日に公開していたようだ。
僕がこのサイトを作り始めたきっかけは、セガ社内での「流行」があったからだった。
なので、個人的なことなのだけど、業界記タグで書いてみよう。
以前に書いたことがあるのだけど、パソコン通信は、1991年に始めたと思う。
電話事業の民営化でパソコン通信が可能となったのが 1985年。
高校の頃読んでいた MSX マガジンでも、パソコン通信の記事とかがずいぶん出ていた。
1991年だとすでにブームもひと段落して、機材が手ごろに購入できるようになってきた。
そこで、「すっかり出遅れた」と思いながら始めたのだった。
1994年には WWW が普及し始め、「ホームページ」が続々作られ始める。
それまでは、インターネットに接続しようと思うと、大学などの研究機関同士のネットワークに参加するしかなかった。
同じ 1994 年には IIJ が接続サービスを開始。
でも、まだ非常に高くて、個人が使うようなものではなかった。
1996年頃になると、個人でも使える接続サービスが増えて、競争で値段が下がってくる。
でも、やっぱり僕はパソコン通信で十分で、インターネットには接続していなかった。
大学の卒業研究が「ハイパーテキストによる執筆環境」だったので、 WWW に興味はあった。
セガの社内は、当時まだ 10Mbps だったのだけど、Ethernet で接続されていた。
社外にも接続されていたのだけど、使用するには許可が必要だった。
でもある日、当時セガが作成していた「ホームページ」(当時は WEB サイトのことをそう呼んでいた)が、社内から見られるようになっているのを知った。
セガ公式とはいえ、情報はわずかで、ほとんどがファン同士の交流掲示板だった。
そして、社内で見られるのは深夜 0 時時点のスナップショット。
掲示板の話題は最新ではないし、こちらからは発信できない。
でも、WWW を体験してみるには十分だった。
ホームページは社内の情報部署が作っていたようなのだけど、その部署の人が「個人ホームページ」もサーバーに置いているのを知った。
こちらは非常に個人的なことしか書いてなかったし、当時の個人ホームページらしい、自分の趣味の紹介を書いてあるだけ。
ほとんど更新されなかったけど、時々見に行っていた。
そして、さらに全く違う部署の人も、「個人ホームページ」を公開していることがあると知った。
その人のマシンの IP アドレス直打ちで接続しないといけないし、案内はどこにもない。
でも、出来の良いページを作っている人の IP アドレスは口コミで広まっていた。
そんな社内で人気の WEB ページの一つが、どこかの部署のデザイナーさんが作っていたページだった。
当時の Mac … OS 8 には OS 標準で httpd 機能があって、ページを公開できたのを利用して作られていた。
個人のマシンで直接公開しているので、その人が勤務中しか見られない。
週一回更新されていて、デザイナーさんらしく「扉絵」を 3D CG で描いていた。
毎回ゲームをテーマにしたイラストで、主人公キャラが必ずミッフィーちゃんになっている。
まず、この CG の出来が良かった。
簡単なつくりだけど、ちゃんとそのゲーム「らしさ」を出していたし、主人公をミッフィーちゃんにしてもちゃんと成立するような図柄にデフォルメしてある。
それを、毎週描いているというクオリティの高さ。
もっとも、ページ内は、非常に短い4コーナーだけ。
写真主体で、ちょっと文章がついていただけじゃなかったかな。
先に書いたけど、この頃のホームページって、自分の趣味を紹介したりするのが普通。
その紹介も「プログラムと料理が趣味です」とか書いてある程度で、詳細に踏み込まない人が多かった。
それを、毎週短い記事とはいえ、趣味丸出しで情報を発信している。
これが、会ったこともない人なのに性格がわかって面白い。
僕もこういうページを作ってみたい、と思い始めた。
幸い、パソコン通信環境はある。あとはプロバイダに申し込めばインターネット接続できる。
プロバイダへの申し込みを進めると同時に、どんなページを作ろうか考え、記事を書き始めた。
やっぱりページは4コーナーで構成して、自分が趣味丸出しにできるものにしよう。
作成期間は、確か 2週間くらい。
「Old Good Computer」「社会の歯車」「男の料理(現在「簡単料理の作り方」に改題)」「森の生活」の4コーナーで構成される「魔法使いの森」はこうして公開された。
当初は真似をして毎週更新していたのだけど、だんだん記事が長くなり、書くのが辛くなって毎週更新はやめた。
(今はほぼほったらかしで、申し訳ないと思っている)
先に書いた、デザイナーさんが作っていたページに、告知が出た。
せっかく作っているのだから、インターネットで公開します。URL が添えられていた。
そして、しばらく後には、社内ページは閉鎖されて、インターネット公開のみとなった。
それまでは作者さんに連絡する手段がなかったのだけど、ネット公開になって連絡できるようになり、しばらく仲良くしていただいた。
その後、ベンチャービジネスに参加するためセガを辞める、と聞いた。
そしてさらに後、作成していたソフトが完成したと、ご自身のページで公表していたと思う。
ピンク色のクマのぬいぐるみがメールを運ぶ、不思議なメーラーソフトだった。
ポストペットの公開は1997年 1月だったそうで、20周年のお祝い記事を読んで、上記のことを思い出した。
当サイトが参考にしたページは「ナミ通」。
ポストペットのキャラクターデザイナーである、真鍋奈見江さんが作成していた。
WEB ページ作成時も参考にさせてもらったし、ポストペットの成功は「うまくやったなぁ」と、正直羨ましかった。
僕も何か自分の力でやってみたかったけど、そのために会社を辞めて独立するというのは、なかなかできるものではない。
僕も後でセガを辞めて独立したのだけど、こうした成功者に触れていたことは後押しになったように思う。
#直接的にはやはり同じ部署で独立した、同期の女性デザイナーの成功のほうが大きかったと思うのだけど。
こちらの話はまたそのうち書きます。
まぁ、そんなわけでポストペット 20周年おめでとうございます。
今は交流はないのだけど、その当時仲良くしていただいた者として…そして、会社経営者として、20年会社を維持したことはすごいと思うのです。
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別年同日の日記
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20年たったら書く、というつもりで書いているけど、そろそろ「語ることが何もない」ゲームが増えています。
新人の頃は、雑用仕事でいろんなチームに駆り出されたし、部内テストプレイ筐体で遊ぶこともありました。
しかし、この頃になると中堅社員になっていて、雑用はやらないし、忙しくて部内ロケテスト台でも遊ばないことが多いのね。
先に書いた WaveRunner も、「アイディアコンテスト」のことは覚えているのだけど、自分で遊んだ覚えがほとんどない。
▼SEGA SKI SUPER G
96年末…冬シーズンに発売されたと思います。
スキーゲームね。ストックを支えに、足を動かすことで操作します。
よく覚えていないのだけど、冬に部内の有志でスキーに行った覚えがあります。
セガは羽田が近いので、会社の仮眠室で泊まらせてもらって、翌朝羽田からの始発便で(チケットが安いので)北海道に行きました。
AM1研では、お金を積み立てての「社員旅行」もあったのだけど、このスキーはそれとは違う、有志の集まりでした。
社員旅行だと、積み立てもするけど会社から補助が出るので、それなりに豪華旅行だった。
でも、このときは有志だけの貧乏旅行(笑)
たぶんそれが 95年~96年の冬シーズンだったと思うので、その時から企画の片鱗があって、取材を兼ねていたのかもしれません。
たしか、冬発売なのでコラムス 97 と同じ頃が締め切りだったと思うんですよ。
夜、ほとんど人のいない部署内で、企画やってた人と会話していたのを覚えている。
その人、いつも夜になると「さらっとトマト」飲んでてね。当時発売されたばかりのジュースだった。
その日も飲んでたので「好きですねー」って言ったら、「だって、すごくおいしいよー」とか、そんな他愛もない会話。
だからどうしたということではなくて、その程度しか記憶に残ってないのです。
▼ダイナマイトベースボール
以前に僕も在籍した「ファイナルアーチ」という野球ゲームを作ったチームがあります。
ファイナルアーチは、決して人気が出たソフトではないのだけど、ゲームセンターにとって「必要なソフト」と考えられました。
野球ゲームって、外回りの営業サラリーマンとかにウケがいいのね。
で、ST-V ではなく Model2 で作ったのが本作。
特徴として、アナログな「バットスイッチ」というのがあります。
90度ほど回転する棒なのだけど、引っ張って離すと、バネの力で元の位置まで戻ります。
これで、野球盤のようにバットを「振る」ことができて、スイングの力も調整できます。
ファイナルアーチって、「サヨナラ打」の意味でつけられたのだけど、わかりにくかった。
和製英語だし、一部の野球ファンはそういう言い方をするけど、一般的な用語ではないのね。
「ダイナマイト」ってつけろというのは、営業側からのリクエストだったと思います。
「ダイナマイト刑事」のヒットがあったので、同じ部署が作ったゲーム、として売り込みやすいという判断。
ダイナマイトベースボール、この後シリーズ化されて毎年バージョンアップ版が発売されます。
AM1研では、基本的にゲームごとに人員が集められ、作成が終わると解散していました。
だから「チーム」って考え方はあまりないのだけど、この「チーム」は、The J League 1994、ファイナルアーチ、ダイナマイトベースボールとスポーツゲームを作り続けていました。
特にプログラマーが、かな。企画やデザインは、ゲームごとに違っていた気がします。
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別年同日の日記
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1997年、とされていることが多いので、僕もそのつもりでいました。
でも、どうやら 1996年中だった様子なので、慌てて文章書いています(笑)
Wikipedia の英語版だと、96年9月13日国内リリース、となっているのだけど、これは日付的に、秋のショーに展示しただけではないかな…
でも、タイトル画面には (c)1996 とあるので、年内に正式リリースまでこぎつけたのだろう。
(1997年発売になれば、1996,1997 と併記される)
で、英語版を 1997年に出して、国内より海外で人気が出たゲームなので、1997年発売とされやすい様子。
ワンサガンの際に書きましたが、1991年頃からガンシューティングゲームのブームが起き、セガでも AM2 研が「バーチャコップ」(1994)を出しています。
ポリゴンボードを使用したガンシューティングゲームとして話題にはなったのですが、この当時 MODEL2 はまだ非常に高価で、ゲームセンターが資金回収できるほどのヒットだったのかというと微妙な所。
しかし、その後 MODEL2 のコストも下がり、1996年の初旬に AM3 研が「ガンブレード N.Y.」を発売。
2研と 3研がポリゴンでガンシュー作ったのだから、1研でもなんか作りなさい、と上層部から指令が出ます。
ガンシューティングは、日本よりもアメリカで人気があります。
実際に銃が身近な国だからね。作るのであれば、アメリカでウケるものを作らないといけない。
ところが、アメリカではゲームを作る際に。日本よりも細かな「レーティング」が定められていました。
これが厳しくて、特に「銃」に関しては使わせまいとする。
銃が身近だからこそ、子供が銃をかっこいいと思うような表現はダメなのです。
このレーティングは、今でもあるのだけど、当時とは基準も違います。
というのも、何か問題があるとすぐに基準が変更されるため。
だから、まず筐体についている銃が本物っぽいのはダメ。
水色とかピンク色とか、一目でおもちゃだとわかる安っぽいつくりにする必要があります。
1992年に「モータルコンバット」という格闘ゲームがアメリカで発売され、大ヒットしました。
このゲームが、実写の取り込みで、勝つと相手の首を刎ねて血しぶきが飛んだり、心臓を抉り出して血しぶきが飛んだりする。
これが問題となり、「血の表現」はNGとなりました。
そのため、バーチャコップでも、相手は悪人…人なのに、銃で撃っても血が出ません。
血が出るのはNGだから、そういう表現を無くしたのね。
でも、そのバーチャコップが問題になります。
ポリゴンを使用した「リアルな表現」で、人に銃を向けるゲームだということ自体が問題視されたのです。
レーティングの基準が改正され、「人に銃を向ける」がNGとなりました。
ガンブレード N.Y. は、敵が「アンドロイド」となっています。
マシンガンで撃っても簡単には倒せない。撃ち続ける必要がある。もちろん血も出ない。
マシンガンで撃たれ続けていても動ける人なんていないですから、明らかに人ではない。
「人に銃を向けてはならない」という基準に対して問題はありません。
…すぐに基準が変えられ、「人型のもの」はNGになりました。
そしたら、確か海外のメーカーが、イルカを狙うシューティングゲーム出したのではなかったかな。
イルカを調教して体当たり兵器とする…という研究が過去になされたのは事実で、それをテーマとしたガンシューティングゲーム。
これが残酷だ、と問題になり、「人型のものや、生物に銃を向けてはならない」とまた基準が変わるのです。
さて、ゲームとしてみた場合、一発では敵が死なずに「何発か撃ち込まないといけない」というのは、いいルールです。
狙いを定めるうえでも、前の着弾点を見て調整できるからね。
何より、一発では倒せないというのは緊張感と、倒せたときの安堵感を生みます。
ガンブレード N.Y. では、そういう部分を中心にゲームを組み立てています。
バーチャコップでは、警察対悪人、という設定での「銃撃戦」を描いています。
ここで問題となるのが、相手が銃を撃ったとしたら、こちらは「避ける」なんてできない、ということ。
そこで、相手がゆっくり動き、動きが完成すると撃ってくる、という形で「時間制限」を意識させています。
ゲームとしては良いのだけど、ちょっと違和感のある部分でもあります。
さて、新しいゲームを作るとしたら、どうすればよいか?
生物ではなく、人型ともいえず、一発では倒せないようなイメージのあるもので、銃で撃つ敵としてふさわしいもの…
相手は銃などを持たず、動きがある程度ゆっくりであるのが自然なものが良いです。
ここで「ゾンビ」という案が浮上してきました。
いろんな条件を満たしていますし、何よりもアメリカ人はゾンビ大好きですから。
#当初は「幽霊」を考えていたそうなのですが、幽霊に銃でダメージ与えるというのも変ですから…
ただ、ゾンビも「人型」だということを懸念する人もいました。
銃による殺人が度々問題になるアメリカで、子供が遊ぶゲームだからこそ、節度を持った使い方がなされないといけない。
レーティングの規制は、そうした背景で作られたものです。
ここでまた、「ゾンビは死んでいるから生物じゃない」とか言い出すのは、趣旨を理解していないのではないか?
しかし、ゲームはゾンビを敵として作ることになりました。この頃の通称は「ゾンビガン」じゃなかったかな。
レーティングにかかるかどうかはわかりませんが、できるだけ人と違う異形のものとして描くしかないでしょう。
#アメリカのゲームのレーティングは、仮に引っかかってもゲームセンターに置けないわけではない。
ただ、第三者の審査でレーティングが定められ、内容によってはアドバタイズ画面で警告を出さなくてはならない。
ゾンビが出てくる時点で「ホラー」なので、恐怖心を煽るための血の表現なども必須。
しかし、ここは先に書いたように「血はNG」でもあるので、色を変えられるようになっています。
緑色なら血ではない、という、これも逃げ口上ですな。
#国内では特に規制がなかったので「赤」で発売されましたが、これには怖すぎるという苦情もあったようです。
設定で色が変えられるようになっていたため、後期の出荷分は工場で緑色に設定されたようです。
全体的なイメージは、サイコスリラー映画の「セブン」の影響を受けてます。
企画者が「このイメージで」と、ビデオを借りてきてみんなで鑑賞会をやったらしい。
チーム全員でイメージを共有してから作成に入ったため、ゲームの印象をまとめ上げるのに成功してます。
#イメージを伝えるためにビデオを見せる…ということ自体は良く行われます。
でも、一シーンを参考にする程度で、「雰囲気を出すために」と、映画丸ごと一本をみんなで見る、というのは珍しかった。
そういえば、謎の事故や病気が相次いだのもこの作品だった気が…
いや、偶然レベルなのだけど、スタッフの車がもらい事故したり、急病で入院してしまったり。
ゾンビのゲームなんか作ってるから祟りじゃないか、って誰かが言い出して、いや、ゾンビは霊と違って祟らんだろうとか言いながら、チーム全員で神社に行ってお祓いしてもらったはず。
そういうのを信じているかどうかじゃなくて、誰かが気にし始めるとチームの士気にかかわるので、念のためやっておくか、というような意味合い。
…と、知っているのはこの程度。
プロジェクト始まってすぐの頃のこういう話は聞いていたのだけど、後は気が付いたら「完成間近」だった。
僕の方もコラムスで忙しかったのかな?
完成何度かテストプレイをやった記憶はあるな。
結構難しいゲームなのだけど、繰り返し遊んでいたのでそれなりに上手になっていた。
そういえば、発売後に部署の先輩が「横浜のゲーセンでクリアしたら、見てた女の子に大うけで仲良くなれた」って喜んでたっけ。
このゲームはヒットして注目度が高かったし、その先輩もテストプレイ繰り返していたからすっかり上手になっていたのね。役得。
当初の狙い通り、日本もさることながら、アメリカやイギリスで大ヒットになりました。
その後、確かイギリスのゲーム雑誌がチームに取材して、雑誌が送られてきたのね。
その雑誌では、タイトルが長すぎるので、独自の略称をつけていました。
本来のタイトルは The House of The Dead 。部署内では「デッド」(語尾上げ)って呼んでました。
海外での一般的な呼称は HOD 。長いから The は省略した上で、頭文字を取っているのですね。
でも、その雑誌は The HOT-D という略称にしていました。
この略称かっこいいな、って企画の人が喜んでました。
その後シリーズ展開するにつれ、半ば公式に HOD が使われるようになったので、The HOT-D って呼んでた人はいないんじゃないかな。
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別年同日の日記
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1997年の秋のゲームショーに、オーラ写真倶楽部が出展されました。
…たしか出展されたと思うのだけど、あまり覚えてません。
リリースがこの頃なのは確かなのだけど。
#右上にある「オーラ写真倶楽部」のロゴ画像、クリックしてもらえるとチラシ全体を見ることができます。
オーラ写真倶楽部は、「手相占いちょっとみせて」の続編(?)にあたります。
以前に、オムロンから「手相を取るユニットが作れるので、一緒にゲームを作りましょう」というお誘いがあり、手相占いを作りました。
これが大好評。占いゲームとしては異例の出荷台数になりました。
その後「顔の特徴も抽出できるから、人相作りましょう」と言われたものの、こちらはオムロン側の技術不足で中断。
で、今度は「オーラとれるからオーラ占い作りましょう」ということなのですが、オーラって…怪しすぎますね。
その前に、この頃の占いブームの話を書きましょう。
1991年から始まる不景気を、バブル崩壊と呼びます。
この時期、急に先行きが不安になり、誰もが今後に不安を持っていました。
その社会的な心理状態を背景に、ちょっとした「占いブーム」が起こります。
テレビでは、「それいけ!!ココロジー」という心理学番組が大人気となりました。
心理学、といってもかなり怪しいもので、ほぼ占いの一種。
ココロジーは後にセガの別部署から占いゲームとして発売されました。
これはヒットしましたし、僕が以前作った手相占いもほぼ同時期。
占いゲームに人気がある時期でした。
街にも占い館がたくさんありました。
そして、そうした占い館で1995年頃から人気が出始めた占いに「オーラ占い」がありました。
「オーラ」という概念自体は、18世紀ごろからあるそうです。
ただ、その頃は生命感あふれる、不思議と心が落ち着くような場所に「オーラがある」とされた程度。
19世紀に急激に科学が発達し、生物の体の仕組みなどが次々と解明されていきます。
すると誰もが疑問に思うのは、「生命と非生命の違いはどこにあるのか」ということ。
生命の仕組みがわかって、模倣できるようになってきたのに、それは生命にならないのです。
物質は器にすぎず、生命とは何か別のエネルギーのようなものではないのか?
20世紀の前半には、科学的に「生命エネルギー」の研究が行われました。
ここで、仮想的な生命エネルギーが「オーラ」と名付けられます。
これが生命のエネルギーであれば、病気の人はオーラが変調したりするでしょう。
何とかしてオーラを捉えることができれば、病気の診断に役立つかもしれません。
科学的な研究には、それなりの理由がありました。
やがて、オーラが見える、と自称する人が現れます。
…本人が見えるというのだから、僕としては何も言いません。
否定も肯定もできない。
霊が見えるという霊能力者や、異星人と交信できるというコンタクティと同じです。
そういう人々によれば、オーラは病気の診断どころか、感情によっても変化し、本人が気づいていない願望なども反映するのです。
これを使い、将来の状況を改善するためのカウンセリング…いわゆる「占い」が可能となります。
さらには、オーラを撮影することができるカメラ、というのが現れます。
これにより、誰もがオーラを目にすることになりました。やはりオーラは実在したのです。科学の勝利。
…えぇっと、詳しい説明はしないことにします。
オーラ写真の占いゲーム機の話ですから、あえてこれ以上は踏み込まない。
ここでは、オーラは撮影できるんだ、ということで話を止めておきます。
気になる人は「キルリアン写真」をキーワードに調べてみてね。
ともかく、「オーラは常人には見えないが、写真には写せる」とされるようになりました。
話を少し戻して、1995年頃に街の占い館で流行し始めた、オーラ写真は「キルリアン写真」とは違う仕組みで撮影されていました。
しかしまぁ、オーラが写るのです。かがくのちからってすげー!
金を払うとまずオーラ写真の撮影があります。
この写真を見ながら、オーラの色や意味などを説明し、占いが行われます。
これが街で流行っていたオーラ占い。
じゃぁ、これをゲーム機でもやってみよう、というのがオムロンの持ち込んだ企画でした。
街のオーラ占いの写真機と同じような仕組みで…いや、医療器具のオムロンですから、もっと詳細な形でオーラを捉えることができます。
手相占いでも協力をいただいた占い師、ステラ薫子さんに連絡をしたところ、オーラ占いならできます、とのことでした。
そこで、オムロンが読み取ったオーラデータを元に、どのように占いを行うか、アルゴリズムと結果文章をセットでお願いすることになりました。
「オーラ占いゲームを作る」と、チームが編成されて僕のところまで話が届いたのは、以上のお膳立てが全部整った後になります。
オーラを撮影する、と言っても仕組みが気になる人が多そうだけど、種明かしは後日。
先に書いてしまったら面白くないもの (^^;
2021.9.19 追記
当時の占いブームを示す資料があったので、別記事に書き起こしました。
関連ページ
別年同日の日記
申し訳ありませんが、現在意見投稿をできない状態にしています。 |
オーラ写真倶楽部の話の続きです。
手相の人気で作られた「続編」なので、同じチーム編成が求められたようなのですが…
手相の時のメインプログラマも、企画者もすでに退社していました。
メインプログラムは、手相の時のメインプログラマと仲の良かった先輩がやることになりました。
仲が良かった、というだけで「なんかわかるだろ」という関係者扱い。
ゲームについて確固とした考え方を持っている人で、コラムス97を作っている時に「処理落ちは許さん」と言ったのはこの人。
その先輩と僕の二人がプログラマ。後の話ですが、僕の同期が追加されて3人になります。
手相のグラフィックをやった人は、メインもサブも、まだいました。
でも、こちらはオーラ写真には関与せず。なぜかは知りませんが、単に別のプロジェクトにかかわっていて忙しかったんじゃないかな。
結局、女性の先輩一人でほぼ絵を描いていたはずです。
この人、仕事が大好きで…というか、会社の近くに一人暮らしだったので、家に帰るのが「寂しかった」ようで、夜遅くまで働いていました。
女性は深夜残業が認められなかったので、夜11時には帰るのですが、よく「男の人は残業できてずるい」と言っていました。
デザインは、ほかにもデザイン課長が手伝っていたり、スポットでいろいろな人が入った気もするけど、よく覚えていません。
そして、企画は2年目の新入社員。
普通、2年目ならまだ他の人のサポートをしながら仕事を覚える時期ですが、彼はいきなり実践投入されたわけです。
しかも、人気があって続編を望まれたゲーム。かなりのプレッシャーだったようです。
オーラの制作過程を語る上では、企画者の彼のことをもう少し書いたほうがよさそうです。
彼はセガに入社はしましたが、それほどゲーム好きだったわけではありません。
まぁ、遊んだりはしたようですが、「おもちゃ会社」としてのセガに入社を希望していたのです。
後にセガのおもちゃ部署は「セガ・トイズ」として独立会社になるのですが、当時はまだおもちゃ部署。
アンパンマンとミッフィーちゃん、そして幼児向けコンピューター「ピコ」が主力商品でした。
彼の席は、面白そうな新発売おもちゃだらけでした。
当時入手困難だった「白いたまごっち」を自慢されたこともありますし、おもちゃの範疇には「ネオジウム磁石」なども含まれます。
ネオジウム磁石って、小さくてもすごく強力なやつね。
今時100円ショップでも売っていますが、当時は発売されたばかりで、小さなものが数千円しました。
これを「すごく強力ですよ」ってゲーム筐体に貼りつけたら、あまりに強力で取れなくなったことなど思い出します。
小さいから引っ張ろうにも持つ場所が無くてね。最後にはちゃんと取れましたけど。
とにかく、彼の興味はおもちゃに向いていました。
それは、ゲームにはあまり興味が無いということでもあります。
彼自身、ゲーム部署を希望していたわけではないのです。
ただ、おもちゃ部署が非常に小さく、希望していても配属されなかっただけで。
企画者を任されたからには、ゲーム全体の作成指示を出さなくてはなりません。
でも、彼はゲームを作った経験はなかったし、世の中のゲームもそれほど深く見てはいない。
もちろん、ゲームで遊んだことくらいはありますけど、作るつもりでは見ていないのです。
だから、指示が常にチグハグ。
占いゲームですが、ST-V で作ることになったので「3Dの演出を前面に押し出す」と彼は決めました。
占いのジャンルを決めるだけでも、ジャンルを描いたパネルを輪に並べて、斜め上から見下ろす雰囲気で…
と、3Dでやろうとする。
でも、「3Dで」と指示を出しておきながら、彼の頭の中のイメージは2Dなのです。
輪っかがあれば、そこに均等にジャンルのパネルが並び、今選択していない項目でもそれなりに読めるつもりでいる。
実際には、パースが効いているために後ろの方に小さくなったパネルがごちゃっと集まり、視認性が悪いです。
実際にできてから、想像とのギャップに苦しみ、「やっぱり2Dで動かして、後ろに下がった時だけ少し表示を小さくすることで、3Dっぽくごまかせませんかね?」とか言い出します。
大体指示通りに作ってみても、今度はあたりまえだけど3D感が足りないと言い出す。
彼自身の中で「3D」が何かはっきりしていないのです。
なんとなくのイメージしかないから、出来上がったものも、なんとなくピンボケにしか思えない。
新人の遠慮もあったのだと思いますが、押しが弱いのも問題でした。
どうもこれは良くない、という状況になっても、はっきりとダメ出しをできないのです。
グラフィックも同じでした。
先に全体に3Dで、とは言いましたが、ST-Vの性能ではそれほど綺麗な3D画像は出せません。
そこで、キャラクターは3Dで作ったものをプリレンダリングしてスプライト表示、となるのですが、ここでも指示が安定しません。
#3Dをプリレンダリングしてスプライト表示…
簡単に言えば、モデルは3Dで作るけど、最終的には2Dの画像にして表示、ということです。
カメラアングルもアニメ内容も決まっているのであれば、リアルタイム演算よりむしろ綺麗に表示できます。
彼は最初に、キャラクターとして「猫のダヤン」を使おうと考えました。
オーラという怪しげな世界の雰囲気と合いそうだと思ったから。
一応版権使えないか打診したようですが、無理でした。
でも、「じゃぁ、それっぽい雰囲気の別の絵で」となります。
これが…ダヤンってあまりにも独特の絵柄過ぎて、それらしい雰囲気を出せばダヤンそのものになってしまうし、離れようとすれば全然違うものになってしまうのです。
じゃぁ、いっそ諦めて別の方向を模索すればいいのだけど、彼はそうしません。
こちらでも、彼が新人であること、ゲーム作成慣れしていないので明確なイメージを出せないこと、などがマイナス要因として働いています。
なんか彼の仕事にダメだしばかりしているようですが、作るからには良いゲームにしたいのはみんな一緒です。
彼が不慣れであれば、チーム一丸となって彼をサポートしよう、という話は出ていました。
先輩だからと遠慮することはない。自分が一度出した指示でも、出来上がったものを見て想像と違ったら、思い切ってやり直して構わない。
彼に対してみんながそう言っていました。
でも、多分そういうことではなかったのね。
今考えると、ゲーム作成慣れしていない、「引き出しの少なさ」が一番の問題だったのでしょう。
アイディアを没にするとしたら、別のアイディアを出さないといけません。
でも、彼にはこの「アイディアの引き出し」が少なかった。一つのアイディアに固執し、途中で変えようとはしませんでした。
最終的には、それなりにまとまりました。
決して悪い出来ではないし、及第点行っていると思います。
でも、及第点ということは、ヒットを狙える出来でもありませんでした。
別年同日の日記
申し訳ありませんが、現在意見投稿をできない状態にしています。 |
オーラ写真倶楽部の話の続きです。
オーラ占いのプログラマは、先輩社員と、僕で始まりました。
後で説明しますが、途中から僕の同期が追加で入ります。
メインは当然、年長者である先輩でした。
たしか、先輩は占いの中心部分を作ったはずです。
詳細は後日改めて書きますが、オーラ写真倶楽部で「撮影」するオーラは、実はカメラで撮っているのではありません。
オーラを測定するセンサーとカメラは別にあり、ゲーム上で重ねて表示しています。
この部分は先輩の担当。
オーラの表示には、ST-V の自由変形BG面を使っていました。うねうねと揺らめきます。
占いの結果を決め、画面表示するまでが占いの中心になります。
#オーラ画像は、オーラ測定パターンによって形も色も変わります。
また、1人用・2人用の占いによっても変わります。
基本的には「それ以外」が僕の担当。
ユーザー入力のUI、プリンタへの出力、その他細々としたこと。
後で追加で入った同期は、途中からUIの担当をしてもらいました。
その後の仕様変更もあったので、僕が作ったのはUIの枠組みだけではないかな。
ST-V のカメラは、プリント倶楽部などの関係もあって日本語の資料があったのですが、オーラ測定センサーはオムロン製で、通信用 LSI の仕様書がそのまま渡されていました。
この仕様書が英語で、先輩が「俺英語苦手だから、作って」と僕に丸投げしました。
僕だって英語苦手ですが、タイミングチャートとか見ればだいたいやることわかります。作りました。
4bit 通信で、nibble という単位を始めて知ったのはこのときだったと思います。
#bite(byte) 「噛む」が 8bit に対し、nibble 「齧る」は 4bit。
#「英語苦手だから」と言っていたのですが、多分先輩はタイミングチャート通りにキッチリ動作するプログラムとかを作るのが面倒くさかったのだと思っています。
ゲーム作っている人で、きっちりした仕様通りに作るのが苦手な人って、結構多いです。
プリンタに関しては、ずっと以前のバイトの経験が役立ちました。
画面上に表示されている、カメラからの画像データと、オーラの画像データがあります。
これを重ねて、RGB CMYK 変換して、減色して印刷するだけ。
減色は、Oh! X でよく使われていたアルゴリズムを使っていたはずです。
桑野式誤差拡散、だったかな。整数演算とビットシフトのみで高速処理できる誤差拡散法。
プリンタ自体は、エプソンの安いインクジェットを使っていたはずです。
この頃、急にカラープリンタが普及し始め、安くなっていました。
オーラという特性上、背景は黒で、その前に薄い色が出ていました。
実は、インクジェットで印刷するときに一番悩ましいのが、この「黒の上に薄い色」で、インク濃度などを試行錯誤した覚えがあります。
さて、途中から追加で入った、もう一人の同期ですが、実は女性でした。
当時、セガに女性プログラマは3人しかいなかったと聞いています。
そして、途中から入った理由は、実は「働く期間の調整のため」でした。
みんなには内緒にしていたのですが、結婚退職することが決まっていたのです。
前のプロジェクトが終わったあと、新プロジェクトに入れると途中で退社することになってしまう。
そこで、ある程度作業が進んでいて、ちょうどよい時期に終了しそうな、オーラ占いに途中配属となったのでした。
プロジェクトの末期になり、もう少し調整が必要だということになって、締め切りが伸びました。
その時に彼女から相談されます。
実は結婚退職が決まっていること。
退職自体は伸ばすことも可能だが、結婚式の日取りと新婚旅行日程が決まっているので、その期間は仕事に来れないこと。
なので、締め切りが伸びたのであれば、いない間の引継ぎをお願いできないだろうか、というのが相談内容でした。
これは、何も問題ないので了承します。
元々UIは僕が作っていた部分をベースとしていますし、何かあった時にちょっと変更するくらい簡単でしょう。
…が、後で悩むことになります。
引き継いだ後、どこかのアニメが動きが悪くて修正することになったのです。
プログラムを覗いてみると、こんな感じでした。
if(anime == 0){pattern = PN_MAIN_CHAR_LEFT_RIGHT_1; }
else if(anime == 1){pattern = PN_MAIN_CHAR_LEFT_RIGHT_2; }
else if(anime == 2){pattern = PN_MAIN_CHAR_LEFT_RIGHT_3; }
else if(anime == 3){pattern = PN_MAIN_CHAR_LEFT_RIGHT_4; }
else if(anime == 4){pattern = PN_MAIN_CHAR_LEFT_RIGHT_5; }
else if(anime == 5){pattern = PN_MAIN_CHAR_LEFT_RIGHT_6; }
else if(anime == 6){pattern = PN_MAIN_CHAR_LEFT_RIGHT_7; }
else if(anime == 7){pattern = PN_MAIN_CHAR_LEFT_RIGHT_8; }
else if(anime == 8){pattern = PN_MAIN_CHAR_LEFT_RIGHT_9; }
else if(anime == 9){pattern = PN_MAIN_CHAR_LEFT_RIGHT_10; }
else if(anime == 10){pattern = PN_MAIN_CHAR_LEFT_RIGHT_11; }
else if(anime == 11){pattern = PN_MAIN_CHAR_LEFT_RIGHT_11; }
else if(anime == 12){pattern = PN_MAIN_CHAR_LEFT_RIGHT_13; }
else if(anime == 13){pattern = PN_MAIN_CHAR_LEFT_RIGHT_14; }
else if(anime == 14){pattern = PN_MAIN_CHAR_LEFT_RIGHT_15; }
else if(anime == 15){pattern = PN_MAIN_CHAR_LEFT_RIGHT_16; endflg=true;}
anime ++;
えーと、PN_MAIN_CHAR_LEFT_RIGHT_1 …とかっていうのは、スプライトに表示されるパターンで、enum されたシンボルです。
左から右に振り返る、という 16 パターンのアニメを、1/60 秒ごとに表示するプログラム。
これ、
pattern = PN_MAIN_CHAR_LEFT_RIGHT_1 + anime;
if(anime==15){endflg=true;}
anime++;
で十分です。パターン名は enum なので、1づつ増加しているのですから。
もし単純増加ではなかったとしても、配列にしてしまえば if の羅列は不要になります。
さて、最初に書いたほうのプログラムにはバグがあります。それが「動きが悪い」原因。
PN_MAIN~ で示されるパターン番号、11 が2つあって、12 がありません。
指定を間違えて、アニメ表示が崩れてしまっているのです。
いちいち if で書いているから起きたバグで、計算で出せばバグなんて起きるわけがない。
気になって調べると、アニメーションするような個所は全部こんな感じ。
…どうしよう。直すべきか。しかし、締め切り間近なのに大きく手を加えると、全部チェックし直すことになる。
何よりも、彼女はまだ「退職」しておらず、新婚旅行に行っているだけでした。
プロジェクトの終了直前には戻ってくるはずなのに、僕が彼女の領分のプログラムに大きく手を入れるのは望ましくないでしょう。
…動いているプログラムは、美しいプログラム。たしか祝一平さんの言葉です。
この言葉を胸の中で唱えながら、結局必要な変更だけを行い、後は一切手をつけませんでした。
彼女はその後退職したとはいえ、主婦になったわけではなく「残業の少ない会社」に転職しただけです。
職種はそのままプログラマー。転職先でちゃんとやって行けたのか心配…
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オーラ写真倶楽部の話の続きです。
オーラ撮影の仕組みを説明しましょう。
なんかこう…自分の作ったものを否定するみたいで嫌なんですけど、オーラなんてオカルトです。
科学現象として存在しませんし、撮影なんてできるわけありません。
オーラ占いやって信じてくれていた人たち、ホントごめんなさい。
でも、丸っきりの嘘ではなくて、それなりの根拠はあるので、この後の説明(いいわけ?)を読んでください。
まず、この頃街の占い館で流行していたオーラ写真から。
ただ、こちらに関しては僕は「推測」することしかできません。
カメラを入手して分解したわけではないので…
#オムロンの人達は「同じことをもっと上手にできる」と言っていたので、分解したのかもしれません。
推測の前提となる「事実」だけ書きましょう。
一般に、オーラは人の周囲に漂うような、薄く輝く光のベールで、感情などを反映してあらゆる色彩になると言われます。
しかし、占い館のオーラ写真は、薄く輝くというよりは、いくつかの点光源です。
その点光源の周囲に、すりガラスでも通したように光が広がっている感じ。
そして、色は赤・緑・橙の3色に限定されます。
…これ以上の説明は避けます。
だって、まだこれの改良版で商売しているお店あるのだもの。変な推測でご迷惑を掛けてはいけない。
ところで唐突ですが、この頃は青色 LED はまだ新開発の高価な品で、一般に使用されていませんでした。
LED は赤と緑しかなくて、光を混ぜても橙色にしかなりません。
さて、「オーラ倶楽部」で使った方法。
簡単にいえば、ポリグラフです。
左右の手を電極に乗せ、体に微弱電流を流して抵抗値を測ります。
このとき、左右それぞれで3カ所の電極があり、いろいろと複雑に抵抗を測っているのだそうです。
(ここら辺はオムロンが作ってブラックボックス化されているので、よく知りません)
嘘発見器とかラブテスターとか呼ばれるものがあるように、この抵抗値によって感情などを読み取れます。
…という、似非科学があります。相関が全くないわけではないのですが、「読み取れる」と言い切れるほどのものでもない。
しかしまぁ、ここでは読み取れることにしといてください。
オムロンの営業さんは「読み取れる」と言ってきたし、セガ側も読み取れる前提で作っているので。
オーラは、その人の感情によって輝きが変化するとされます。
また、上に書いたように、体の抵抗値を測ることで感情を読み取れます。
じゃぁ、体の抵抗値から読み取った感情を「オーラ」という形で表現すれば同じことなのでは?
これがオーラ倶楽部で行っている「オーラの撮影」です。
一応、業者さん向けのチラシには、次のように説明があります。
「※本機におけるオーラ写真とは、センサーより取得した生体データをもとにコンピューター処理し、作成したオーライメージのことです。」
オーラ占いでは、オーラから「本人も自覚していない願望などの感情」を読み取り、カウンセリングを行います。
占いと言っても、未来予知ではなく、よりよい未来に向けて何ができるか、というアドバイスです。
ただ、願望を実現するためのアドバイスと言っても、本人が信じて頑張ってくれないと効果が出ません。
そのため、多少「未来予知」めいた言い回しを行うことも多く、ここら辺が「占い」らしいところになります。
#未来を予知するのではなく、よりよい未来に導くためのカウンセリング。
多かれ少なかれ、占いというのはみな、そういうものです。
感情の読み取りはオムロンに任せ、占い文章はステラ薫子さんが担当しました。
セガとしては、この間を埋める「ゲーム」部分を作った形。
ここらへん、手相の時と役割分担が同じです。
ステラ薫子さんの会社、手相からオーラの間に社名変更しました。
なので、結果用紙に書かれている名前は変わっているのですが、同じ人です。
まぁ、オーラ撮影の「しくみ」としては以上で終わりですね。
体の抵抗変化から感情を読み取り、感情と密接な関係があるとされる、オーラの形や色を表現する。
しかし、この「オーラの色や形」がまた問題で、非常にあいまいなのです。
誰もオーラを見たことないですし、それを画面上で表現しろと言われても、どうしてよいのかわからない。
占い師さんが、オーラの形状について、柔らかいオーラ、とげとげとしたオーラ、勢いのあるオーラ、包み込むようなオーラ…って、大まかな分類を作ります。何種類かわすれたけど、5種類くらいあったのではないかな。
それをもとに、グラフィックの人が、「それらしい」画像を作ります。
このオーラ画像を自由変形 BG 面に描いて、色を「それらしく」変化させながら、全体に「それらしく」うねらせます。
…それらしい、ってなんだよ。
誰も見たことがないものを形にするので、メインプログラマーが試行錯誤していました。
描画の際には、オーラは大まかに「外側」「内側」「喉のあたり」の3層に分かれていて、この3つを別々のパーツとして描いています。
絵としてはグレースケールで描かれていて、表示の際に10種類の色に変化させています。
(色と感情の関係は、結果用紙の裏に解説されていました。この記事の冒頭に添付した画像をご覧ください。)
自由変形 BG 面、1枚しかないからね。単に絵を「表示」ではなくて、ソフト的に3枚の絵を半透明に重ね合わせて表示しないといけない。
でも、単に色演算するのではなく、アニメーションで色が変えられるように、パレットのままにしておかないといけない。
先輩が作った個所なので正確なことを理解していないのですが、外側と内側を8段階、喉を4段階のグレースケールにした、とかではないかな。
3bit 3bit 2bit になるので、合計 8bit 。256色のパレットとして描画できます。
あとは、上手にパレットを操作すれば、半透明で重ね合わさった感じのまま、パレットアニメーションできます。
最初に書いた通り、オーラなんてオカルトで、撮影できませんよ。
でも、エンターテインメントの「占いゲーム」としては、多くの人が考える「オーラ」を具現化しようとして、いろいろと考えて表現したのです。
オーラ占いがリリースされたのは、インターネットが普及し始めたころ。
当時は「日記サイト」が多数あったのですが、オーラ占いを見て、「どうやってオーラを撮影しているのだろう」と不思議に感じてくれている人は結構いました。
不思議に思ってくれるということは、ある程度信じてくれたということです。
苦労して「それらしさ」を表現したのは成功だった、と思います。
別年同日の日記
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オーラ写真倶楽部の話、これで最後の予定です。
オーラ測定センサー…手を置いて微弱電流を流し、体の抵抗値を計測するセンサーは、2つありました。
一人用では、片方しか使わなかったはず。
これが二人用の異性間の相性占いになると、それぞれが手を置いたうえで「手をつなぐ」ように指示されます。
センサーには、片方に3カ所の電極があり、手のひらに電流を流して抵抗値を測っています。
「両手」の間に電流を流しているわけではありません。
だから、二人用でも、それぞれが測ればいいだけ。手をつなぐ必要はありません。
実際、同性同士の相性も占えるのですが、その時は手をつなぐ指示は出ないのではないかな。
「異性と手をつなぐ」というのは、企画者の絶対に譲れなかった線。
企画者がおもちゃが好きで「白いたまごっち」を持っていた、と先に書きました。
当時非常に入手困難で自慢されたのですが、そもそも「合コンで目立とうと思って」プレミア価格付きの転売品を入手したものです。
ゲーム業界の人、オクテばかりで、こういうことに長けている人は少ない。
その彼が、ゲーム機からの指示で手を繋がせれば、絶対にスケベ心のある野郎が活用する、と主張したのです。
占い好きの女の子は結構多いので、男の方から「お金出すから二人用で占おうよ」と持ち掛ければ、乗ってくるだろう。
でも、占いを始めると「手をつないでください」と指示される。
この指示の前に性別や年齢のデータも入力しているので、今更別の人に変わったりはしにくい。
気になっている女の子と手を繋げられるなら、絶対に活用する男はいて、お金が入るというのです。
…いや、何よりも彼自身が「合コン帰りに絶対活用したい」と主張したのです。
この思惑がうまくいったかどうかは知りません。
ただ、筐体を作ってくれる4研の担当者が「最後の最後で手をつなぐ指示出すの、良いね」って感心していました。
少なくとも共感者はいたようです。
その4研の担当者、筐体に「豪華な部品を奢った」と自慢していました。
手を置くセンサーの部分、当時まだ高かった高輝度 LED を使用しているのです。
「1個5円もする」と言っていました。たしか、片側に4つ。(手を置く部分の左右と奥、それに親指と人差し指の間が光ったはず)
これを両側につけているので、40円もします。
通常の LED なら、1個 1円くらいと言っていたと思います。とても高価なのがお判りでしょうか?
ちなみに、筐体小売り価格は1台100万円以上ね。
カメラでの撮影表示は先輩プログラマが作っていたのですが、デモ画面も先輩が作っています。
「デモ画面でも、前で見ている人を写そう」ということになったため。
で、デモのループの中に、占い方の説明があります。
通常は「カメラで撮影するとオーラが写る」ということを説明しているのですが、非常に稀な確率で違うことを言うようになっています。
稀な確率って、8192分の1とか、そういうレベル。見ようと思って見られるものではないです。
いくつかあったはずなのですが、2つしか覚えていません。
1つは、サングラスと帽子だけが空中に浮いているような状態が表示されて「透明人間のかたはカメラに映りませんのでご了承ください」というもの。
もう一つは、当時作成中だった The House of The Dead 2 のゾンビの画像を表示して「ゾンビのかたはオーラが出ていませんのでご了承ください」というもの。
2つとも、仕様には書いてません。グラフィックの人と相談して画像をもらい、先輩が勝手に作ったもの。
企画者も知らなかったのではないかな。
だから、最終チェックで見つかったら大変。社内の公式文書で説明を求められてしまいますから。
出現確率が非常に低いのは、そのためです。
ゲームのタイトル、完成間近まで「占い オーラ写真館」でした。
でも、ほぼ完成してから役員の方が見て、「カメラもついていてプリクラっぽいから、倶楽部って入れろ」と言われました。
当時プリクラは大人気。
別にカメラが付いていなくても、スタンプ倶楽部とかアロマ倶楽部、とにかく「お土産が出てくる自動販売機カテゴリ」であれば、倶楽部とつけてシリーズ化しておけ、という感じでした。
#アロマ倶楽部は、確か同じショーでお披露目したもの。
いくつかの質問から現在のプレイヤーの気分を推し量り、ピッタリのアロマオイルを出してくれます。
そんなわけで、「メイキング倶楽部シリーズ オーラ写真倶楽部」に。
占いなのに、タイトル見ても一切占いってわからない。
「メイキング倶楽部」って言われても、なにかオリジナルグッズが作れるわけでもない。
すごく中途半端な印象になってしまいました。
この名前を強要されたのは、チーム全員が憤っていたと思います。
企画のおもちゃ好きの後輩、このプロジェクトが終わった後しばらくたって、転属願いを出しました。
元々おもちゃが好きで入社したのだし、配属されたのだからゲーム作成で頑張ろうと思っていたけど、実際1本作ってみて「やっぱりおもちゃをやりたい」と思ったみたい。
転属願いは無事受理され、おもちゃ部署に異動しました。
同じ社内なので時々会うこともありましたが、後におもちゃ部署がセガ・トイズとして独立したため、その後の消息は知りません。
別年同日の日記
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コラムス97~オーラ写真の頃の話…だと思うのだけど、正確な時期は覚えていない。
また、いくつかの話があって、同じ時期だったと思うのだけど、これも正確には覚えていない。
ゲーム作成ではなく、当時の「人事」のお話。
確か、僕がいたころのセガの社員数は、3000人規模だった。
たしか、開発・生産・運営が、それぞれ1000人くらいづつじゃなかったかな。
僕が入ったのは 1994年なのだけど、その前の3年間で人数が3倍に増えた、と誰かが言っていた気がする。
正確な資料がないので間違っていたら申し訳ないのだけど、メガドライブのヒットや、店舗展開の好調などがあり、人員を大幅に増強したのだろう。
新卒採用だけでなく、小さな会社の吸収合併なども行っていたみたい。
僕の入社の前年には、業務用と家庭用の部署で、大規模な人材交換も行われている。
業務用部署に技術力の高い人が多く、家庭用部署をテコ入れしたかった、ということらしいのだけど、実際部内にも「家庭用部署から来た」という人が何人かいた。
これだけ増えた人数を統括するために、役員も大幅増員。
生え抜きでその人数を集めることなんてできないので、社外から来た人も多く、ゲーム開発なんて理解していない役員もいた。
(悪いことではない。業界の悪しき慣習を打ち破るなどの効果はあった)
ただ、急に会社の規模が3倍になったら、人事部は状況を把握しきれなくなり、迷走を始める。
ある時、「さん付け運動」という指示が出た。
各自の名札に貼り付ける、「さん付け運動実施中」というシールまで作られた。
(セガの当時の看板キャラクター、ソニックが配してあった)
部長、課長と言った役職で呼ぶことで、人間関係に壁を作ってしまい、相談などがしにくくなる。
仕事を進めるうえで相談は必須だから、こうした壁は仕事の邪魔になる。
役職名ではなく、「さん」をつけて名前を呼ぼう、という趣旨だった。
ところで、開発現場は基本的に実力主義。
もちろん部課長クラスは特別な地位にいたし、先輩社員は一目置かれた。
でも、AM1研では言われるまでもなく、役職名なんかで呼んでいなかったし、常に「さん」づけだった。
なので「全社を挙げて さん付け運動」と言われても困惑するだけ。
まぁ、これも「開発現場」とひとくくりにしてはいけないのだとは思うけど。
別の部署では役職名で呼んでいた可能性はある。
また別の時、人事の参考に、とアンケートが配られた。社員全員が必ず回答しなくてはならない。
現在仕事で行っている職能以外に、趣味などで持っている技術があれば書いてほしい、とのこと。
特にコンピューターを扱う能力に関しては質問が細かく、達しているレベルを答えさせるようになっていた。
1) ワープロを使って文章を書くことができる。
2) エクセルを使って計算シートを作ることができる
3) メールの送受信ができる。
4) パソコンにソフトウェアのインストールができる
5) 人にワードやエクセルの使い方を教えられる
: : :
10) VBやCを使って簡単なアプリケーションを作成できる
こんな感じのレベル分け。
プログラム課の人間は、もちろんCを使うことなんて当たり前。
でも、Windows の API なんて勉強してないから、「簡単な」と言われたって、なにも作れない。
エクセルだって持ってないから、使い方知らないし教えるなんて無理に決まってる。
#当時は Windows 95 が出たばかりで、ワープロもまだ一太郎のほうが人気のころ。
MS-Office も「仕事用」の位置づけで、事務仕事をする人の一部が使っている程度だった。
Personal エディションが作られ、プリインストール戦略で誰もが使うようになるのは Office 97 から。
みんな迷った挙句、「ワープロが使える」レベルであると申告するしかなかった。
AM1研のプログラマー全員、コンピューターを使う能力は最低ランクです。
また別の話。
机の上を整頓しよう、という運動が展開された。
毎日、帰る際には机の上に何もない状態にしてから帰ること。
書類などには企業秘密も含まれるだろうし、机の上に置きっぱなしで誰でも見られるような状態にしてはならない。
これも趣旨は分かるのだけど、開発には無理な話。
開発でも、もちろん書類は使います。でも、机の上は書類よりも、開発機材でいっぱいなのです。
開発機材は、設置するのも大変な作業。毎日片付けて「何もない状態」なんかにしていたら効率が悪くて仕方がない。
そして、この開発機材こそが、最大の「企業秘密」なわけです。
これは、運動が展開されても当然そのまま。
企画書・仕様書などで書類もあったが、こちらはあまりにも膨大なので、机の上に置くと開発機材が埋もれてしまう。
大抵の人が、ファイルとか書類封筒とか、工夫してまとめて、引き出しや棚に置いていた。
とはいえ、今作っている部分の2~3ページの仕様書程度は机の上に出しっぱなしの人もいたのは事実。
運動が展開されたので、仕様書数ページ分だけど、出しっぱなしにせずに片付けるようにはなった。
(数か月後には元に戻っていたように思うけど)
水曜日はノー残業デー、というのもあったな。
これは、完全無視。
以前も書いたけど、少なくともAM1研では、無駄な残業をしようという風潮はなかった。
むしろ、追い込みの際には嫌でも泊まり込みになるので、そうではない時期は積極的に早く帰ってしまうし、会社に来ないでも構わない。
つまり、「ノー残業デー」と言われて帰れる人は、言われないでも帰っている。
追い込み時期の人は、言われたとしても帰れないし、帰らない。
いろいろ例を挙げてきたけど、いろいろな指示を出す人事部が、開発現場の雰囲気を全く理解してなかった。
たぶん営業・店舗営業か…最悪の話、人事部のある事務方周辺の雰囲気だけで指示を出していたのじゃないかと思う。
会社規模が急に大きくなりすぎ、完全に迷走していました。
(この話、思い出を書き留めただけで、特にオチはない)
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別年同日の日記
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セガにいる間に、何度か著名人が訪れたことがありました。
大会社だから、いろいろな人脈がありますよね。今回はそういうお話。
僕が入社する直前、当時「世界最速の男」と呼ばれたF1ドライバー、アイルトン・セナが訪れたのだそうです。
当時のセガの副社長、入交正一郎氏は、前職がホンダの副社長でした。
ホンダはF1にエンジンで参戦しています。
当初はセナが在籍していたロータスへエンジンを供給し、セナがマクラーレンに移籍すると、マクラーレンにエンジンを供給しました。
入交氏はこの頃にセガと親交を厚くしたそうで、新しい会社に移ったと聞いての表敬訪問だったようです。
入交氏がセガに入社したのは1993年の6月。
セナがレース中の事故で死去したのが 1994年5月1日。
僕はセナがセガを訪れたのがいつか知らないのですが、この間の出来事なのでしょう。
セナが訪問した際、本社入口にロビーに、「スーパーモナコGP」(1989年のアーケードゲーム)を置いて、開発者と対戦したのだとか。
結果は開発者の勝ちで、「世界最速の男より速い男」の栄冠を得たそうです。
#最初に書いた通り、僕が入社する前の話なので先輩からの伝聞です。
なお、入交氏がホンダから持ってきて、このときにセナからサインを書いてもらったという本物のF1カーは、セガの倉庫に置いてあったのを見ています。
マイケル・ジャクソンがセガを訪れたのは、たしか…「人相占い」のプロジェクトが発足したものの、何もやることが無くて暇だったころ。
マイケルはセガのゲーム大好きで、時々お忍びで日本にも来てましたし、日本に来た時にはセガを訪れていました。
このときも、そういう感じでセガに来たらしいです。
でも、いつもよりも時間があったようで、ゲーム作成現場の各部署を案内してもらっていた。
#ゲーム開発現場は社外秘だらけですから、普通は急にやってきたお客さんになんて見せません。
マイケルだから特別扱いです。
世界的スーパースターが職場にやってきた、というので周囲は騒然としていました。
とはいえ、そこは仕事中。浮かれて野次馬をするわけにもいかず、みんな自分の仕事を黙々と続けます。
今作成中のゲームなどを一通り見た後で、「最近は日本ではこれが人気なんですよ」と、プリント倶楽部を見せます。
#プリント倶楽部はアトラスのものですが、AM1研でも関係が深く、部署内に置いてありました。
詳しいことはまたそのうち。
作成中のゲームをいろいろと見せてもらい、自分の顔写真をシールにしたものをお土産にもらい、にこやかに部署を出ていくマイケル。
…この後、一斉に野次馬が動き出します。
プリント倶楽部では、「コンティニュー」することで、直前に作ったシールを追加印刷できるのです。
次々とシールが印刷され、ミーハーな人達で部署内はちょっとしたお祭り状態。
シールの用紙が無くなり、補給して印刷していたので、かなりの枚数が作られたのではないかな。
飯野賢治さん。
たしか「ここらでコラムス」を作りはじめた頃だったと思いました。1996年の10月ごろかな。
その時のプロジェクトチームの席が部長室に近かったため、部長室から出てきて去るまでの間を、ちょっと見かけただけ。
飯野さんはその後亡くなっていますが、天才ゲームデザイナー、ともてはやされ、雑誌などにもよく出ていました。
ここでいう「天才」というのは、ゲームが面白かった、というようなことではないです。残念ながら。
むしろ、ゲームは万人受けしない、強烈な個性のものが多かったように思います。だからゲームとしての評価もそれほど高くない。
しかし、その個性的な内容が同業者…他のゲームデザイナーなどに評価され、対話してみるとゲームに対する深い造詣・ゲーム愛を感じる、などのことから「天才」と呼ばれていた模様。
雑誌などによく出ていたというのも、こうした対話が面白かったため、インタビューなどが良く行われたためのようなのですが…
多分、一緒に酒でも酌み交わさないと理解できないタイプの人です。
当時の僕は率直に言って、「天才」と呼ばれているけど、作るゲームは大して面白くないし、メディアに祭り上げられているだけの人、と思っていました。
プレイステーション陣営のゲームショーで、「次のゲームの対応ハードは、プレステから予定を変更し、セガサターン専用」と大々的に発表し、話題となったのが 1996年3月27日。
部長室に来ていたのは、その衝撃がまだ冷めやらぬ頃です。
なんの話をしていたのかは知りません。
話題の人がサターン陣営に入ったわけで、そのまま ST-V などにも展開できないか、というような話があったのかもしれません。
#当時のセガは、サターンと ST-V が互換機版であることを活かして、家庭用で人気のゲームを業務用にも展開できないか模索していました。
最後、部屋を出ていくところを見ただけですが、体躯も大きく怖そうな人…プロレスラーや暴力団員を想像する威圧感がありました。
亡くなったずっと後に飯野氏がまとめたインタビュー集などを読んで、結構繊細で、ゲームを作るのが本当に好きな人だったんだな、と知りました。
田尻智さん。
こちらも「ここらでコラムス」を作っている時でした。結構遊べる形になっていたから、11月頭頃かと思います。
(中旬には、「ここらで」は打ち切られ、「コラムス97」の作成に入るので)
ポケモンの発売が同年 2月27日ですね。
ポケモンは当初全然売れず、ベスト 10 入りしません…が、常に 20位以内には入っていました。
そのまま数か月「ベスト 20位入り」を続ける、というおかしな売れ方のソフトになっていきます。
普通のソフトは、発売後1か月くらいで極端に売れ行きが落ちるのね。
これで「変な売れ方をしているソフトがある」と話題になり始めるのが夏ごろ。
「コラムス97」の企画者Mが、僕に「ひとりで遊んでも面白くないらしいので、一緒に買って遊ぼう」と持ち掛けてきます。
僕はこれでゲームボーイ本体から購入したのですが、当の本人は1週間くらい遊んだところで「自分の好きなタイプのゲームではなかった」と投げ出しやがった。ひどい奴だ。
…まぁ、それは余談。
本当にポケモンが話題になるのは冬頃からで、この段階では田尻さんはそれほど有名ではありません。
#まぁ、「知る人ぞ知る」タイプの有名人ではありましたが。
ここで田尻さんは仕事から一時解放されているわけです。
そして、1994年にはセガで「パルスマン」を作ってもいます。
多分、セガに来たのはまた仕事ができないか、というような相談だったのでしょう。
で、飯野さんと同じく、サターンで仕事をするなら ST-V でも何かできないか…というような流れではないかと。
部長室での会談が終わって出てきてから、近くで動いていた「ここらでコラムス」に興味を持っていただけたようで、少し遊んでもらいました。
非常に腰の低い、丁寧な方で、演出面の効果などよくできている、と褒めていただきました。
以前に書いたように「ここらで~」はお蔵入りになってしまったので、社外の人で遊んだのは田尻さんだけだと思います。
また余談:
コラムスの企画者Mは、結構ゲーム関連の同人誌とかを持っていて、このとき机の引き出しの中にゲームフリーク版「ゼビウス1000万点への解法」が入っていたのだそうです。
でも、このときはほんの数分の出来事で、そんなことに頭が回りませんでした。
後になって「サイン貰えばよかったー!」って悔やんでました。
#ゼビウス1000万点~は、「うる星あんず」氏が作った同人誌。コピー本。
あまりに有名になり、日本全国から「買いたい」という問い合わせが殺到したため、田尻さんが主宰するサークル「ゲームフリーク」で改訂版を発行する。同人誌だけど合計で約1万部を売り上げ。
さらにその後、マイコンベーシックマガジン付録の「スーパーソフトマガジン」で、この内容を再編集したものが3回にわたり連載される。
この本は、「世界初のゲーム攻略本」ともされている。
スティーブン・スピルバーグ監督がセガを訪れたのは、コラムス97のサターン版のための「残務処理」をしている頃でした。
スピルバーグ監督の映画会社「ドリームワークス」とセガは、1996年3月に、アメリカでテーマパーク事業を展開する「ゲームワークス」を立ち上げます。
セガはアミューズメントテーマパーク構想をぶち上げ、「各都道府県に1つづつのテーマパークを作る」としていました。
…が、すぐに頓挫。言っちゃ悪いけど、「テーマパーク」なんて言いながら、実情はゲームセンターに過ぎなかった。
ナムコは同じ頃に同じようなことをしていましたが、こちらはもっと「遊園地」らしさがありました。
セガは技術力はあるのですが、どうもそこに頼りすぎて、遊園地らしい雰囲気を作り出せず、ゲームセンターになってしまうのです。
そこで今度は、スピルバーグが監修を行い、セガの技術的なノウハウを活かして、アメリカでテーマパークを展開しようとしたのです。
このための会社がゲームワークスでした。
…で、1997年の1月に、スピルバーグがセガを訪問したわけです。
マイケルの時と同じように、各部署を案内されて回っていました。
スピルバーグ監督、男の子を連れてきていました。多分お子さん。
開発中のゲームを見る際も、この男の子が興味を持ってみていた感じ。多分ゲーム好きなんでしょうね。
最後に、みんなで記念写真撮りました。
「1月」と時期を明示できるのは、この写真の中にカレンダーが写っているため。
…プライバシーもあるのでとても写真は公開できないのだけど、部署全員が写っているわけではないな。
どういう基準でこのメンバーになったのだろう。
撮影場所は、コラムスチームのブースだったはず。
ゲーム作り終わった後で、ブースに「空き」があったので、みんなが集まって撮影できそうな広さがあったのだと思う。
カメラマンが僕の机の上に立って撮影したのも覚えています。
多分そのせいで、僕はかなりいいポジションで写真に写っています。
最前列、ほぼ中央。ちょっと右より。
僕の隣、ちょっと左寄りには、男の子…監督のお子さんがいます。
そして、最前列中央の二人に手をかけるような形で、監督が後ろに立っているのです。
#男の子の方には手を載せているが、僕の方には別に載せてません。そういう位置、というだけで。
これ以外に、タレントの松村邦洋さんが来たことは知っています。会っていないけど。
セガは、当時ゲームの中に広告を入れる、というビジネスモデルの実験をしていました。
これを受けて、テレビ番組「進め!電波少年」の企画で、ゲームの中に広告を入れてもらおう、もちろんタダで!という企画があったのです。
松村邦洋さんが来て、セガの広報の人を拝み倒して、何かのゲームに広告を入れる、と決まります。
で、当時僕が参加していた「ファイナルアーチ」に広告を入れたので、後日テレビ局スタッフがゲーム画面の撮影に来ました。
そんなわけで、「会ってないけど来たことは知っている」です。
もう一人、声優の千葉繁さんが来ていますね。こちらも会ってません。
「手相占い ちょっとみせて」のナレーションは千葉さんです。企画の先輩がアニメ好きで、千葉さんの大ファンでした。
なので、地位を利用して千葉さんに仕事を発注し、会ってサインをもらってきていました。
AM2研にあったサウンドのスタジオで収録していたので、サウンドの人と企画の先輩は会っていますが、僕は姿を見ていません。
と、これが僕が知っている範囲のすべて、かな。
もちろん、会社としてのセガでは、もっとたくさんの人が来ているはずです。
というか、一緒に働いていた人達でも、たびたびメディアに出ている人とかいましたし、外の人から見たらセガ自体が著名人だらけだったのだろうなぁ…
別年同日の日記
申し訳ありませんが、現在意見投稿をできない状態にしています。 |
オーラ写真の作成中の…たしか 1997 年の夏の出来事。
部署の引っ越しが行われました。
それまでいたのは、「本社2号館」。
僕が入社する前年に「新本社ビル」が完成し、隣にあった旧本社ビルは2号館となったのです。
で、それまでAM1件は別の場所にいたのが、2号館に引っ越してきたそうです。
でも、この頃のセガはどんどん人数が増えています。
僕が入社した時だって、3年間で3倍に増えた、と言われていました。
その後も増え続け、本社と2号館だけでは手狭になり、新たに「3号館」が作られたのです。
ちなみに、
【セガ創立記念日】写真は昔のセガ本社新館です。周りの建物と比べるとわかりますが、ひときわ高いビルだったんですね。 #セガの誕生日なので思い出語るよ #SEGA_OFFICIAL pic.twitter.com/v4OtJzgX6q
— セガ公式アカウント (@SEGA_OFFICIAL) 2013年6月3日
このビルは、当時は「別館」として、AM4研(筐体やエレメカなどを作る部署)が使っています。
2号館にあった仮眠室から、大きな道路をまたいでレーザーLANで繋がってました。
3号館は新しく建てたわけではなく、近所のビルを買いました。
セガ本社は、京急大鳥居駅が最寄り駅だったのだけど、同じ駅から「別の方向に」同じくらい歩いたところ。
だから、引っ越したと言っても環境はそれほど変わりません。
赤井電機本社ビル。
赤井電機は、「AKAI」のブランド名で世界的に知られた、高級オーディオメーカーです。
しかし、CDの時代に乗り遅れ、業績が悪化していました。
1980年代からじわじわと業績が悪化し、1997年、ついに本社ビル売却まで追い込まれ、セガが購入したのです。
#この後、2000年に倒産。
ただし、AKAI ブランドは売却され、まだ生き残っています。
引っ越し作業で、事前に一度赤井ビルを訪れたと思います。
手の空いている人間だけを集めて、AM1件が入る予定の部屋に行って事前準備をしたのではないかな。
…オーラの開発期間を考えると、自分がこの準備に参加したのだから、初夏ごろの話かな。
このときは、普通のオフィスビルでした。床はオフィスによくあるタイル張り。
さらに後、いよいよ引っ越しの段階になって訪れると、床がカーペットになっていました。
単にカーペットにしたわけではなく、入り口がスロープになって、床が 20cm 程持ち上がっている。
いわゆる OA フロアです。床下に空間を作り、電源やイーサネットなどのケーブルを通せるようになっています。
カーペットは、50cm 程のタイルに分割されています。
専用の取っ手…巨大なマジックテープのようになったものをカーペットにくっつけ、引っ張るとタイルを外せます。
席替えなどの時は、これでケーブルなどを繋ぎ変えられました。
なお、タイルには切り欠きの付いたものがあり、そこからケーブルを床上に出せます。
以前の2号館でも、床はOAフロアでした。
ただし、カーペットではなくタイル。外すときは吸盤を使う方式でした。
引っ越し作業。
歩いて10分ほどの距離なのですが、重たい機材がたくさんあります。
4トントラック(たしか引っ越し業者にトラックだけ借りた)を何度か往復させました。
たしか、誰かが書類戸棚を動かそうとして、ガラス扉を割ってしまったのではなかったかな。
これがきかっけで、プログラマ課の課長が覚醒。
大学時代に引っ越し業者でアルバイトをしていたそうで、「ガラスは割れた際に危険が無いように、前もってテープを貼る」「可動部は片側に寄せてテープで固定する」とか、てきぱきと指示を出し続けます。
もともと部下の面倒見は良い人なのですが、意外な一面を見ました。
戸棚だけでなく、机も椅子も機材も、全部自分たちで運びます。
運搬台車もあるのですが、とにかく運ぶものが多いので、台車に頼ってもいられない。
CRTモニタは大きくて重いので、キャスター椅子に乗せて運びました。
その際、ガラス面が背もたれで保護されるように。
テーブルなんかは、大きいだけで重くはないので、2人で運べば何とかなりますね。
エレベーターで1階までおろし、前の道路でトラックに積み込み、赤井ビル後ろの駐車場でおろし、エレベーターで新しい部屋まで。
経費節約もあるだろうけど、運ぶものの多くが企業秘密の精密機器だから、他人の手は借りられない、という感じでした。
部屋は基本的に続き部屋の2部屋で、間に壁があります。
壁には大きな開口部があり、2部屋を自由に行き来できるのだけど。
合計面積は以前より広くなったけど、1部屋だけだとちょっと狭い感じ。
2号館の時は、部署全体が大きな一部屋で一体感がありました。
でも、この頃から「同じ部署内でも何やっているのかよくわからない」感じになった気がします。
この2部屋を、仮にA,Bと呼びましょう。
基本的に、部屋の中は可動式のパーテションで区切られ、プロジェクトチームごとに分けられていました。
パーテションは、大人の男性の胸くらいの高さ。
壁越しに話をするのも簡単ですが、一応「区切られている」感じはするくらいの壁です。
これは、A,Bどちらの部屋も同じ。
Aの部屋の入り口を入ってすぐのところには、部長室が作られました。
これはパーテションではなく、床から天井までつながった壁です。
基本ガラス張りで、中の様子もよくわかります。
特にお客さんがいない時であれば、相談などにも入りやすい雰囲気でした。
でも、部長室だから重要な会議も行われます。
天井まで壁が繋がっているのは、声が外に漏れないため。
…と、もう一つ。部長が喫煙者だったためです。
社内禁煙だったのだけど、部長権限で空気清浄機を持ち込んで、タバコ吸ってました。
もう一つ、Aの部屋の入口、部長室の逆側にも部屋が作られました。
こちらも天井から床まで壁があるのですが、窓は一切ありません。
それどころか、壁は厚めで、扉には鍵がかけられました。
サーバールームです。
専用のクーラーがつけられ、常に肌寒いくらいの温度に保たれています。
それまでももちろんサーバーは使われていたのですが、サーバー管理者の机の周囲に並べられているだけでした。
それが、ちゃんと部屋に収められ、熱暴走しないように気を使われ、防犯のために人が近づけないようになったのです。
結果、Aの部屋は、入り口すぐの部分が、部屋に挟まれた細い通路になりました。
でも、2号館からの習慣で、毎日昼休み後に「昼礼」の時間が設けられ、部長室前に集まる必要がありました。
これが、集まるスペースないのね。
パーテション越しに、適当に周囲の区画に散って部長からの連絡とか聞いてましたけど、機材とか置いてある都合もあってやっぱり集まりにくい。
周囲にいても声がよく聞き取れず、あとで近くで聞いていた人に「何の話だったの?」と聞く必要があったり、それならいっその事昼礼さぼる、という人も増えました。
#一応、部長室前に事務の女性の机があったため、部長が立って話をする程度のスペースはありました。
ただ、聞く人のためのスペースがほとんどないだけで。
もう片方の、Bの部屋の話もしましょう。
こちらの部屋の一番奥に、機材倉庫と仮眠室が作られました。
…というか、この二つ共通。機材倉庫に2段ベットが1つ置かれていた、というだけ。
機材と言ってもいろいろあります。
ゲーム機の基板とか、開発用のパソコンとか、古い開発用資料とか、各種ケーブルとか。
これ、2号館の時には、あちこちに分散して保管されていました。
基板はこちら、ケーブルはこちらの引き出し、資料はあちらの本棚、という感じで。
これが全部1カ所に集約されたのです。
この部屋は機材置き場なので、普段基本的に人が入ることはありません。
静かなので、片隅に2段ベッドが置かれました。
2号館では、シャワー付きの仮眠室があり、ベッドがたくさん並んでいました。
その時に比べると、2段ベッド1つだし、シャワーは無くなったし、環境が劣化しています。
ただ、床がカーペットになったので、寝袋で直接寝ても床から冷えることが無くなったんですね。
もともと「誰が寝たかわからないベッドで寝たくない」という人も多かったので、そういう人にとっては寝やすくなったようです。
…というか、この頃から残業自体がやりにくい雰囲気になり、よほどのことがない限り泊まり込みをする人は減りました。
#先に書いた、ノー残業デーなどの運動もありましたし、そのうち書く別の要件の影響でもあります。
引っ越してすぐのころに、仲の良いグラフィックの先輩が「このビル、なんか傾いているよね?」と言っていました。
僕はそうは感じなかったのですが、絵を描く人だから、水平・垂直などに敏感だったのかもしれません。
赤井ビルは結構古いビルで、1981年に制定された「新建築基準法」の基準を満たしていなかったようです。
とはいえ、そんなこと当時の僕は知りません。
その後もビルは使い続けられましたが、2011年の東日本震災を受け、「危険性がある」と2012年に閉鎖。
今では取り壊されています。
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別年同日の日記
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そういえば、ST-V の開発環境話って書いてませんでした。
ここらへんで書いておきましょう。
…とはいっても、「業界記」タグで書いていないだけで、だいたいはこちらで書いた通りです。
リンク先記事では、僕の所属を「セガの業務用ハード向けのゲームばかり作っていた会社」としていますが、セガそのものです。
嘘は書いてない。自分の中で20年たっていないことは書かないという自主ルールを定めていたので、明言を避けただけです。
開発環境としては、当然のことながら、それまでの開発環境から緩やかに移行できるようになっています。
と言っても、メインとなる PC をそのまま使えた、という程度かな。System32 でも使っていた、HP-UX マシンをそのまま使って開発しました。
当初は、HP-UX には限らないものの、UNIX マシンを使わないと開発できなかったようです。
しかし、すぐに通常の PC でも開発できるようになります。
実際、後に入ってきた新入社員には、Windows マシンが支給されていたはず。
ターゲットとなるボードは当然変わります。CPU エミュレータである ICE も変わります。
V60 ICE は PC-9801 が無いと制御できませんでしたが、SH2 ICE は UNIX/PC から制御できるようになったので、PC-9801 は不要になりました。
これ、机の上が広く空いて嬉しかった。
ROM エミュレータも不要になりました。
というか、時代の変化で ROM の容量が増えて、それまで使っていた ROM エミュレータではエミュレートできなくなりました。
Model 2 などでは ROM エミュレータとは違う方法で対応していたのですが、ST-V には「フラッシュロムカートリッジ」が作られました。
ICE を経由して、PC からデータを送り込んで、基板に挿したままで内容を書き替えられます。
開発用のフラッシュカートリッジは、商品のカートリッジよりも大きいですし、基板がむき出しです。
ST-V のカートリッジは、後にコピー防止のためのチップが入ったバージョンが作られます。
当然、フラッシュカートリッジにもそのバージョンがありました。
…でも、旧バージョンを手作りで拡張しただけ。わずかな基板しかありませんでした。
開発時は普通のカートリッジで開発し、コピー防止のスクランブルをかけたデータを作成したら、特別版で動作確認だけする、という感じ。
まぁ、詳細はまたそのうち。
SH2 ICE の UNIX 版ソフトウェアの GUI は、OPEN LOOK で作られていました。
しかし、HP-UX は Motif でした。
…この説明で悲劇を理解してくれる人はどれだけいるでしょう?
UNIX の世界は、もともとコマンドラインインターフェイス…キーボードから文字でコマンドを入力し、文字で結果を受け取る、という文化です。
グラフィックが使える環境もありましたが、OS ではなく「端末」依存で、環境が違うと一切互換性がありませんでした。
これを解決しようと、X Window System が作られます。
Window と名前にありますが、事実上は標準グラフィックライブラリ。
Window 環境を実現しやすい工夫はありますが、とにかくどんな環境でも共通でグラフィックは扱えるようにしてやるから、後はお好きなように、というもの。
このままでは使いにくいので、GUI らしい「部品」のライブラリが作られます。
OPEN LOOK は Sun が作ったもので、こうしたライブラリの中では比較的早く広まったもの。
Sun ワークステーションでは Open Windows という環境が整えられていて、その中ではすべてが OPEN LOOK で作られていました。
これはこれで、統一されていて使いやすい状態。
当時は Sun は UNIX 界の巨人でした。
そもそも、大学などでは「無料だから」という理由で利用されていた UNIX を、仕事でも使えるものとして広めたのは Sun なのです。
その後、Sun に対抗するそれ以外の UNIX メーカーが共同で、「標準 Window ライブラリ」を作り上げます。
それが Motif 。
コンピューター業界の標準 GUI にしよう、という意図で設計されたため、Windows も、3.1 の時には Motif ベースで作られています。
なので、Motif は 3.1 の頃の Windows にそっくりです。
HP-UX では、Window 環境全体を Motif で構築しており、Windows 3.1 を利用しているのと似た感覚で操作できました。
…でも、OPEN LOOK と Motif は、見た目も操作の作法も全然違うのです。
SH2 ICE の UNIX の GUI は、OPEN LOOK で作られていました。
しかし、HP-UX は Motif でした。
もう、操作しづらいの。
SH2 ICE の操作をする時だけ、普段とは全然違う操作を強いられるから。
Windows と MacOS を切り替えながら使うような仕事って、今でもあると思うのだけど(僕はやってます)、そういう時の「操作しづらさ」を想像してもらえばいいかな。
もちろん、Sun ワークステーションを使っていれば統一された操作感で悪くないのでしょうね。
でも、すでに Sun は優位な立場を失いつつあり、ワークマシンとしての人気は落ちていました。
#サーバーとしての信頼性などはまだありました。
先に書いた通り、開発には Windows でも使えました。もちろん、SH2 ICE の Windows 用ソフトもありました。
こちらの GUI は、ちゃんと Windows 用に作り込まれていたようです。
結局、UNIX 用はライブラリが違っても動いてしまうがゆえに、ライブラリ環境ごとのカスタマイズはされていなかっただけなのでしょうけど…
SH2 の話ではないけど、V60 の頃は僕は awk 使いでした。
awk でグラフィックなどのデータを次々とツールに通し、得られた結果を整理して、プログラムから扱える環境まで全部整えるスクリプトを作っていました。
でも、これに限界を感じて、ST-V 用に処理を書き替えるついでに、全部を perl で書き直しました。
awk で作っていたスクリプトは、大量のデータを処理するには遅かったしどうしても無理があって、バグ含みだったんだよね。
(バグに遭遇する確率は低いが、特定形式のデータでバグが出ることはわかっていた)
まぁ、これらのスクリプトは「自分で使う」ために作っていただけで、誰にも見せたことはありません。
オーラ占いの話のところで書きましたが、最後の方で同僚の仕事を一時引き継ぎました。
その時に、awk のスクリプトでデータ整理していることに気付きました。
それで調べてみると、誰にも見せたことがないのに、「作者不明」のまま、ST-V やその他基板用に改造され、いつの間にかみんなが使うものになっていて…
perl 版と違って、遅いしバグ含みなんだけどな。
説明するのも面倒くさいので、後に会社辞めるまで、そのまま知らないふりを通しました。
別年同日の日記
申し訳ありませんが、現在意見投稿をできない状態にしています。 【あきよし】 失礼しました。正式表記に書き替えました。指摘ありがとうございます。 (2017-11-21 09:29:06)【m.ukai】 × X-Window ○ X Window System (または単にX) (2017-11-20 20:20:05) |
この作品、見たことありません。ごめん。
世の中にもあまり出回っていないのではないかな。
AM1研の作品ですらなくて、AM4研のエレメカです。
この作品を紹介したいのではなくて、これに絡んだ思い出話を書きたいだけです。
アスキーのWEBページに、1997年12月に行われた製品発表会の様子が書かれていました。
…ね、ちゃんと発表されているでしょう?
多分12月の発表会だから世に出回ったのは翌年だと思うのですが、一応 20年たった、ということで。
最初に概要を書いておくと、当時は「ポケベル」という道具がありました。
携帯できる道具で、電話を使ってメッセージを送れる
ポケベルから送ることはできません。送るには公衆電話を見つけないといけない。
1986年ごろからビジネスマンの道具として出てきたものですが、1990年頃から、女子高生の間でブームになります。
いつも友達と繋がっていたいお年頃よね。
でも、その頃はまだ、メッセージとして数字しか送れませんでした。
普通は「この番号に連絡せよ」という意味で電話番号を送るものだったのですが、女子高生は語呂合わせで数字を使ってメッセージをやり取りします。
114106 なら「アイシテル」と読む具合。
#1 は先頭にあるため、「ア」と読ませる例多し。また、「イチ」なので「イ」とも読む。
4 が「シ」は良いとして、10 は「テン」なので「テ」、6 は「ロク」だけど、文脈からラ行の「ル」と判断。
…あらかじめ符丁を示し合わせてないと伝わらないですね。
恋愛ドラマ「ポケベルが鳴らなくて」は 1993年の作品。
ドラマの小道具に使われるくらいにはブームになり、浸透していたのです。
この需要にこたえるかのように、1996年に、数字だけでなく文字メッセージが送れる仕組みが登場します。
プッシュホンを使用し、2桁1組の数字で文字を表します。
例えば、1桁目が 1 なら「あ」行、2 なら「か」行で、0 なら「わ」行を示します。
そして、2桁目が 1 なら「あ」段、2 なら「い」段…で、5 なら「お」段を示します。
だから、1112324493 なら、「アイシテル」となるわけです。
#ちなみに、2桁目が6以降は、アルファベットや数字などを意味します。
この入力方法、現在のスマホの「フリック入力」にほぼそのまま受け継がれています。
1桁目の位置はそのまま数字位置で、2桁目は、指をフリックする方向として。
詳しく知りたい人は、こちらも参考になります。
#全くの余談ですが、i-mode 時代…現在「ガラケー」と呼ばれる時代は、繰り返し同じボタンを押すことで「段」を選ぶ方式が主流でした。
1 を1回押せば「あ」だけど、5回押すと「お」になる。これ、わかりやすいけど入力に時間がかかるのね。
i-modeも一部端末でポケベル式入力が使えたので、僕は好んで使っていましたが、だんだん使える機種が減って行って…
フリック入力が登場した時は、「時代が戻ってきた」と感じました。
文字が使える機種は大人気で、あっという間に女子高生に広がりました。
当初は暗号表のような「文字変換表」を見ながら送っていたメッセージも、やがて暗記し、高速に入力できる人が増えていきます。
そのブームを受けて開発されたのが、「ポケベル早押し Piポパ」です。
ポケベル、と言いながらも、ゲームの操作部分は公衆電話の形をしています。
メッセージを受ける側の「ポケベル」ではなくて、送信側の公衆電話のゲームなのね。
そして、画面に表示された「問題文」を、高速にタイプしていくのです。
やはり当時パソコンソフトとして流行していた、タイピング練習ソフトのノリですね。
さて、最初に書いた通り、このゲームを紹介したいというより、このゲームにまつわる思い出なのです。
と言っても、実際にその思い出話が発生したのは、半年くらい後だったかな。
同期の女性デザイナーが、退職することになったのです。
一緒に仕事もした人で、退職すると周囲に公表した後のこと。
何かのきっかけで、ふたりで話をしていました。
その時に、「誰にも言ってはならないナイショ話」として聞いたのです。
誰にも言ってはならないと言われましたが…ごめん、面白い話だから書いてしまいます。
「ポケベル早押し Piポパ」は、AM4研の作でした。
AM4研は基本的にエレメカ部署で、ゲーム画面を組み合わせる場合は、AM1研と組むことが多いです。
(スポーツフィッシング2や、アンパンマンポップコーン工場など)
AM4研には、ドット絵を描けるデザイナーが存在していないためです。
しかし、ポケベル~では、AM4研単独作成を目指しました。
そのために、外注でフリーのグラフィックデザイナーを頼んだのだそうです。
その外注が…じつは、AM1研に在籍していた、彼女だというのです。
ゲームのドット絵を描ける人を募集していると知り、セガ社員であることは隠して応募し、採用されました。
2か月くらいの短期の仕事で、時間給を考えると正社員でいることが馬鹿らしくなるほどの報酬をもらったとか。
で、それなら独立してやった方がいいんじゃないだろうか、と退職を決めたのだそうです。
セガは社員の副業禁止でしたし、そもそも社員だったと判れば「社員の仕事内」のこととして、報酬を無しにされてしまうでしょう。
だから、絶対にナイショの話でした。
当時すでにインターネットを始めていましたので、彼女がやめてしばらくたってからメールをもらいました。
とある有名企業の広報誌の表紙イラストの仕事を、1年分貰ったとのこと。
これで、イラストレーターとしても十分な実績を得られたようです。
これ、身近なロールモデルですね。
僕も後に独立するわけですが、彼女が失敗していたら、慎重になってしまって独立しなかったかもしれません。
彼女はその後もフリーのイラストレーターとして活躍していたようですが、後にデザイン会社に所属するメンバーになっていたようです。
これは、今どうしているかな、と思って10年くらい前にネットで名前を調べて知ったこと。
しかし、数年前に名前を検索した時には、見つかりませんでした。
(女性なので姓が変わった可能性もありますね)
2019.11.12 追記
実際のROMを入手した方(のすけ @konosuke さん)が、Twitter 上で画面動画などを公開してくださってました。
引用許可をいただけたので、以下に引用させていただきます。
うおお、起動したw pic.twitter.com/qsRpY9OWA3— のすけ (@konosuke) November 11, 2019
恐ろしいゲームだ…w pic.twitter.com/hMdB2klO7P
— のすけ (@konosuke) November 11, 2019
入力はやっぱりマトリクスなのかな…? pic.twitter.com/MIPJYJA4JK
— のすけ (@konosuke) November 11, 2019
キャプチャしてみた pic.twitter.com/6iT60fw0hZ
— のすけ (@konosuke) November 11, 2019
チラシ写真以外の画面、初めて見ました…しかも、動画まで。
のすけさん、引用許可ありがとうございました。
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別年同日の日記
申し訳ありませんが、現在意見投稿をできない状態にしています。 |
以前も書きましたが、1997年頃になると自分も中堅社員になってしまい、忙しくなったために部署内のゲームでもあまり見ていません。
なので、どうやら発売したらしい、もしくは発売した程度には知っていても、あまり詳しくないゲームもあるのです。
▼ダイナマイトベースボール 97
4月リリース。
以前に僕も携わった、ポリゴン野球こと「FINAL ARCH」は、1996年から「ダイナマイトベースボール」と名前を変えてシリーズ化されました。
97 は、名前の通り 97 年の選手データに入れ替えたバージョン。
この後、98、99と毎年発売されています。
AM1研では、プロジェクトごとにプログラマ・デザイナーなどが割り振られ、特に固定されたチームはない、という形式でやっていました。
しかし、このシリーズは、プログラムに関してはほぼメンバーが固定。シリーズなので仕方ないのですが…
企画の方は結構変わっていたと思います。
どこのタイミングだったか忘れましたが、割り振られた人が野球に詳しくはなかったようなのです。
それまでの前任者は、一人で企画の仕事を全部やっていました。
でも、野球が「好きだからできる」部分が多くて、作業量が多くても楽しくやっていたようなのね。
新しい人は、それほど野球好きだったわけではなく、でも前任者が一人でやっていたのだから一人でやらないといけない、と仕事を抱え込んでしまい…
ある日「探さないでください」と書置きがあり、失踪しました。
驚きました。
こういう話、本当にあるんだ。
仲のいい人が自宅に様子見に行ったら、普通にいたそうですけどね。
「失踪」ではなくて、単に出社拒否だっただけ。
そんなに辛かったのなら、早く言えばいいのに、と、もう一人企画者がアサインされました。
と言っても、サポート扱い。別の人に交代、とはならなかった。
詳しい事情は知りませんが、途中までやった責任もあるし、人材が足りなかったのもあると思います。
▼SEGA WATER SKI
9月リリース。
1996 年に、SEGA SKI Super G というゲームが発売になっています。
水の上を走る、Waverunner ってゲームも同年発売です。
じゃぁ、水上スキーやっちゃおうよ、と作られたゲーム。筐体は Super G と同じ、スキーコントローラーです。
Super G のコンバージョン(ソフト入れ替え)目的で作られたのではないかな。
特殊筐体を使うゲームの場合、通常のゲームより高価になりますし、買ってくれたお店に対しても「儲けが出る」ようにしないといけません。
でも、ゲームのヒットは運もあります。なかなか思うようにヒットが出るものではない。
そんな時、買ってくれた特殊筐体を使用するゲームを発売し、「ソフトを入れ替えることで新しいゲームにする」ことで、少しでも筐体稼働率を上げる必要があります。
それがコンバージョン。
バーチャフォーミュラに対して、Indy500 の特別版作ったりしたのも、コンバージョン。
つまりは、Super G が思ったようにヒットしなかった、ということの裏返しですね…
▼モーターレイド
10月リリース。
こっちもあまり覚えてない…
当時「銃夢」って漫画が流行していて、その世界観イメージで作っていたのではなかったかな。
いや、それともそれは、単に先輩が好きで漫画読んでいただけか…
なんか、開発していた先輩の机に銃夢が並んでいた覚えがあるんですよ。
でも、その程度の記憶しかありません。すみません。
▼マルちゃんdeグー!!!
12月リリース。
ST-V 基板で作られた、東洋水産の「マルちゃん」キャラクターを使ったゲームです。
当時のセガは、ゲームに広告を入れてスポンサーを募る商売を実験的に行っていました。
「バーチャファイターキッズ」で、大塚製薬の「ジャワティーストレート」が出てくる、とかね。
FINAL ARCH でも、日本テレビの「進め電波少年」のロゴ入れました。
でも、どれもゲームがまず作られ、そこに「無理やり」商品CMを入れ込む、という感じなのね。
どうしても、唐突にCM入れた感じがする。
マルちゃんdeグー!!!は、もともと東洋水産からの依頼だったようです。
どういう経緯でそうなったのかはよく知らないのですが、おそらく製作費も東洋水産持ち。
…つまりは、制作費が少ないのです。広告費とかの枠組みだと思うから。
社内で作るには割に合わない仕事なので、全部外注に任されました。
少なくとも「唐突なCM」という感じはないです。
ゲーム丸ごとCMだから。主人公からマルちゃんだし、ミニゲームも東洋水産の商品名とかを冠している。
ゲームとCMの融合、という実験としては完璧でした。
惜しむらくは、ゲームを「作る」程度の制作費しか出ておらず、「面白くする」ところまで踏み込めなかったことか…
▼バーチャル麻雀
リリース2月。
ここまで時系列で書いてきたのですが、これは最後にしました。
AM1研作品ではなく、外注ですらないから。
サターン用に作っていたゲームを ST-V でも発売したい、という会社があり、「面倒見てあげて」と、AM1研が事務処理を頼まれたのです。
そのまま、部署内の基板などの管理を任されていた先輩に処理が丸投げされ、先輩が「ちょっと ST-V 基板使わせて」と僕の席を訪れました。
#先輩は Model2 のチームにいたので、ST-V ゲームを頼まれても、動作確認もできなかった。
それがバーチャル麻雀だったのですが…
作ったのは、サターンで何本か麻雀作っている会社なのですね。
でも、本格派の麻雀ではなくて、勝てば相手が脱ぐ、いわゆる脱ぎ麻雀。
サターンの性能を活かし、CD-ROM の大容量で、実写の写真を表示するように作ってありました。
それを、CD-ROM のない ST-V に移植…タイトルも変えて完全に新作でした。
(あとでサターン版も発売になっています)
ポリゴンで「お姉さん」を表示しています。
勝つとご褒美シーンがあるのだけど…
…えっと、悪夢?
ご褒美シーンのはずなのだけど、背景がおどろおどろしいし、ポリゴンカクカクだし、踊っている(?)動きが悪い。
(ポリゴンに関しては技術の進化もある…と擁護したいのですが、当時見ても「カクカク」と感じました)
#Youtube動画で走査線がおかしな感じになっているのは、エミュレータの出来が悪いのだと思います。
担当者の先輩、こんなんじゃいかん、脱ぎ麻雀で求められる美少女グラフィックとは…と、熱く語りだしました。
この先輩、当時でいうところの「美少女ゲーム」マニアだったらしい。
この時まで知りませんでしたよ。
確かこのとき、一緒にもう一本のソフトを見せてもらったと思います。
こちらは営業の人が持ってきたみたい。
「ペブルビーチ ザ・グレートショット」
T&Eソフトが作った3Dのゴルフゲームで、業務用を 1996年3月に発売していたそうです。
パソコンで話題になった「遥かなるオーガスタ」のシリーズね。
これが、3Dなのだけど、ST-V の機能に頼りません。
自前のプログラムで描画を行っているらしく、少し遅いのですが、非常に美しい風景を描き出します。
ハイクオリティなソフト。
サターンから移植して ST-V で発売したサードパーティソフトなのですが、これが評判良かったらしいのです。
それで、他の「サターン用ソフト」を作っていた会社にも、ST-V 移植の門戸を開いたようなのです。
その第一弾が「バーチャル麻雀」。
…同じ「サードパーティソフト」として扱うには、クオリティに歴然とした差が。
これで「前例」ができたので、その後はAM1研でそれらのサードパーティ作品の事務処理を行うことになります。
外注ではなくサードパーティなので、ゲーム内容などには口をはさみません。ただ事務処理だけ。
でも、今後はそうしたゲームのことも(思い出したら)書くかと思います。
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別年同日の日記
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4年ほど前に、サターンのハードウェアに関して…いや、ハードに限らず周辺の噂話まで含めて、長大な記事を書いた。
嬉しいことに、今でも時々反響がある。
で、先日 Twitter で、「たしかに、プレステは大きく歪むが、サターンは歪まなかった」と言っている方がいた。
その言葉を読んで、ハッとしたのだ。
しまった。
サターンの大バグで、わざわざ「歪めて表示しないといけない」場合があったことを書いていない。
セガラリーチャンピオンシップは、サターンのプログラムがこなれてきたころに発表されたビッグタイトルだ。
非常によくできている。僕も当時、レーシングコントローラーまで購入してやり込んだ。
このゲームを遊んだことがある人なら、ゆっくりと走った際に、コースを表現するポリゴンの、一番「手前」…
説明しずらいが、画面の一番こちら側に来る部分が、妙に歪んで表示されていたことを覚えているかもしれない。
あの歪み、ソフトウェアでわざわざ歪めて表示している。
そうしないと、ハードウェアの別のバグにぶつかり、表示がおかしくなってしまうためだ。
サターンのテクスチャは方式上歪みが少なく、プレステのようには歪まない。
しかし別の部分のバグを回避するために、状況によってわざわざ歪ませるように表示しないといけない場合があった。
サターンのスプライト表示 LSI …VDP1 には、クリッピングウィンドウ機能というものがあった。
画面内の「上下左右」の辺の座標を指定することによって得られる四角形の中でだけスプライトを描画し、その外側には描かない、という機能だ。
通常は、この四角は画面の最大サイズになっている。
その外側にはメモリが無いから書き込んではいけないためだ。
でも、例えば画面を分割して対戦できるようなゲームでは、ウィンドウサイズを変えることで、それぞれのプレイヤーの画面の中だけを描くことができる。
車のバックミラーの中だけ別描画、というようなこともできるし、ゲーム内の背景にテレビ画面があってその中に別のものが表示されているような効果も出せる。
工夫次第でいろいろ使える便利な機能だ。
スプライトは「四角」で定義されていて、4つの頂点を自由な位置に指定することで変形表示できた。
これがいわゆる「ポリゴン」だ。
変形表示の際には、元の画像定義の「横1ライン」ごとに画像が転送され、このラインを重ねていくことで面が作られる。
南京玉すだれみたいなものを想像してもらえるといいだろう。
実際には、この「ライン」が送られる直前に、クリッピングウィンドウの処理が入る。
ラインの始点と終点がウィンドウの外にあるかどうかがチェックされ、外にある場合は、ウィンドウの辺とラインの交点を算出する。
交点はつまり「ウィンドウ内に表示される端の点」なので、ここからウィンドウ内だけを描けばよいわけだ。
始点側がウィンドウ外なら、交点を求めるとともに、テクスチャの読み出し開始アドレスをずらす。
終点側がウィンドウ外なら、交点を求めるが、テクスチャ読み出しアドレスは変えない。
(いずれも、テクスチャの読み出しスピードは、クリッピングしない際のラインの長さに依存する)
始点も終点もウィンドウ外なら?
その線は、全部がウィンドウ外だろう。描画の必要はなく、捨てられる。
…ここにバグがある。
おそらく、この処理は System32 の家庭用を作っていた際の名残で、スプライトは四角いまま拡大縮小する程度の前提だったのだろう。
変形しない、四角いスプライトを前提にすれば、始点も終点も描画外なら全体が描画外、は正しい。
しかし、サターンの変形スプライトでは、ラインの一部だけがウィンドウ内に入る、ということがあり得る。
ウィンドウの「角」の部分にかかるように、始点と終点が違う辺(例えば下辺と左辺)をはみ出して描画される場合だ。
この場合、先に書いたクリッピングアルゴリズムだと、ラインの描画全体が捨てられてしまうため、本来必要な描画が行われなくなる。
結果として、サターンで作ったポリゴンゲームの、画面の角の部分は描画が行われないことが多くなり、「穴が開く」状態となる。
レースゲームでは、コースを構成するポリゴンが画面の下左右角にはみ出る、という状況は当たり前に発生する。
そこで、セガラリーチャンピオンシップでは、2次元変換させた後のポリゴンの座標をさらに加工する。
具体的には、「左右」からはみ出さないようにプログラム内でクリッピングしてしまえばよい。
厳密に言えば、クリッピングによって表示が6角形になる場合があるのだけど、セガラリーではおそらくそのような状況にはならない。
クリッピングで5角形になる場合に限定すれば、外側の2頂点を適切に移動してやれば、見た目の上でポリゴンの「辺」の形状を変えないようにできる。
ただし、内部のテクスチャは大きく歪む。
これをどう誤魔化すかは、作る側のテクニックだ。
セガラリーの場合、路面のテクスチャは工夫されていて、多少歪んでもわからなかった。
また、極端に斜め線を作らなければ問題の状況は起きないので、ガードレールなどはポリゴン面が縦に分割されるようになっていたのだと思う。
そもそも、歪んでも十分に高速で動いていれば、一瞬で通り過ぎるためにあまり気にならない。
しかし、崖の斜面などの形状が歪んだ部分にぶつかり、ゆっくり動いたりすると、歪むのがわかった。
このゲーム、そんな下手なプレイしているようじゃダメなので、慣れるにしたがってそういうことは起きなくなるのだけど。
他のゲームでも、よく見ると画面端は歪んでいる場合が結構あった。
描画が破綻するというのは最悪の状況なので、回避のために工夫したのだろう。
初期の SGL には、自動的にゆがめることで破綻しないようにする機能、というのはなかったように思う。
でも、もしかしたらバージョンアップの過程でつけられていたかもしれない。
申し訳ないが、この辺りはちゃんと覚えていない。
この記事、書き上げてからネットで SS のセガラリーの動画探してみたのだけど、思ったような歪みが見つけられない。
記憶で書いているので多少違っている部分もあるかもしれない、と断っておく。
本当は、自分で実機でセガラリー動かして検証すればいいのだけど、そこまでやっていない。
この話はサターン記事の中に追記するのが適切なのだけど、個別論に入った長い話を追記すると話の腰を折ってしまう。
なので、日記に書いたうえで、記事内からリンクしておくことにする。
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別年同日の日記
16年 iOSでtextのコピー・ペーストができないバグの回避
申し訳ありませんが、現在意見投稿をできない状態にしています。 【獣】 歪まないけど汚いっていう印象でしたね~デイトナなんかでは一番手前側にくる道路が、下に落ちていくような感じになっていましたが、あれも表示がおかしくならなくするための対策だったのでしょうか (2018-01-24 13:01:05) |
1998年の年頭だったと思います。…正確に覚えていないのですが。
AM1件内に、テクニカルサポートチームが作られました。
一応独立した「課」に相当するのかな。
企画課、デザイン課、プログラム課に並列する形の「テクニカルサポート課」です。
でも、実際には課長に当たる人と課員1名の、2名だけ。
後で増員されるのですが、増えた時でも4名程度。
課というよりはチームでした。
で、創設にあたり僕に声がかかりました。
最初の課員1名、というのは僕のことです。
テクサポをやってほしい、と言われたときは、正直なところ左遷だと思いました。
プログラムが好きでプログラマーをやっているのに、一線から退くのですから。
実際この頃、左遷されても仕方ないような「身に覚え」がありまして…
新たに MODEL-2 ゲームのチームに入ったのですが、それまで ST-V を使っていたのでハードウェアの癖などがわからず、プログラムしていてもどうも「乗らない」のです。
頼まれていた「研究課題」が、どうもぼんやりしたものだったこともあって、2週間くらいいじっていたのですが何も成果を上げられていませんでした。
もっと私情を語れば、今の妻と付き合い始めた時期で、色ボケだったのです。
慣れてないハードとぼんやりした研究テーマ、さらには色ボケで、仕事に身が入っていなかったのは事実。
それで「左遷」なのだと思ったのです。
しかし、仕事を始めてみてわかりましたが、別に左遷されたわけではなく、「僕が適任」だったのでした。
テクサポの仕事は、大きく分けてふたつ。
部署内の環境整備と、サードパーティのサポートでした。
部署内ではネットワーク管理などが主な仕事だったのですが、詳しい人がテクサポ課長しかいなかったのです。
僕だって詳しくありませんでした。
まだ当時はそれほど知られていなかった「Linux」ってやつを、Towns にインストールしてみたことがあった程度。
もっとも、インストールなんて、インストーラーさえあれば誰でもできます。
そもそも、部署内では多くの人が UNIX を使っているだけで、詳しくはないのです。
仕事で使う、ファイル操作やコンパイラ起動などのコマンドは理解していても、その程度。
僕は awk や perl を使って、仕事に必要なツールをどんどん自作していました。
これなら UNIX 管理もできるのではないか…と思われたようです。
#awk や perl などのスクリプト言語は、システム管理にもよく使われます。
サポート仕事の多くは「ST-Vのサードパーティサポート」でした。
僕としては ST-V を「普通に使っていた」程度で、それほど詳しいという認識はなかったのですが、部署内では一番詳しいと考えられていたようです。
…えーとね、過去にサターン関連の記事書いているけど、知識としてはその程度。
マニュアルを読めば大体のことは書いてあります。
SGL の動作がわからない時に逆アセンブルして内部構造解析するくらいはやっていたけど、自分で大規模ライブラリ組めるほどの腕はない。
ハードウェアに関しては、ST-V の BIOS 作った人が同じ部署内にいたので、多分その人のほうが詳しい。
(と、当時は思っていたのだけど、BIOS は必ずしもハードを叩かないので、その人はそれほど詳しくなかったらしい。もちろん BIOS には詳しかったけど)
また、サードパーティサポートは、当然ながらサードパーティとのコミュニケーションが必要となります。
これが…部署内の優れた技術者の多くが、いわゆるコミュ障なんですね。
僕だってそれほど人づきあい上手ではないのだけど…
少なくとも、部署内の優れた技術者と話ができる程度には技術がわかりますし、仕事上の話ができる程度にはコミュニケーション能力もあります。
結局、求められていたのは突出した能力ではなく、全方位にそこそこできること。
それを満たせる人が案外少なく、僕が適任だったというわけです。
といっても、仕事の多くは雑用でした。
本当の雑用って、企画課が中心になってこなしていたのですが、「技術的な」雑用というのも結構あるのです。
そういうのは企画の人にはできない。
技術雑用は、それまではプログラム課の人が、役割分担して分散することでやっていました。
役割を任された人を、課内では「奉行」と呼ばれていました。
例えば、基板奉行は基板の管理をしていました。
ゲーム基板も多数ありますし、開発用の特殊機材や PC も基板奉行の管理するもの。
ケーブル奉行は、山ほどある謎のケーブル類を管理していました。
当時は、シリアルケーブルでも RS-232C や RS-422 があり、そのコネクタ形状も複数ありました。
パラレルケーブルも、SCSI ケーブルもコネクタ形状が多数あり、両端の組み合わせにより膨大な数のケーブルが存在しました。
必要な時に必要なケーブルを取り出せるように管理しておくのは大変な仕事だったのです。
その他、マニュアル奉行、筐体奉行…仕事上管理しなくてはならない膨大な資材ごとに「奉行」仕事がありました。
全部雑用ですが、誰かがやらなくてはならない仕事のため、任された人が通常業務の合間にやっていたのです。
これらは、すべてテクサポの仕事として集約されました。
最初の頃の仕事は、山ほどあるケーブルを、現状で多数使用されているものを除き、1種類1本づつ残して捨てる、という作業だったと思います。
同じ種類かどうかを判定するだけでも大変で、他の作業の合間にやっていて、これだけで半月くらいかかったのではないかな。
ここまで、自分が開発に関与したゲームの話を書いてきました。
しかし、これ以降は直接的に関与したゲームはありません。
一方で、サポートで関与したゲームなどはありますし、プログラムとは違う形でゲーム開発に関与する形になりました。
今後は、そうした話を書いていきたいと思います。
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The House of the Dead 2【日記 18/12/28】
別年同日の日記
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テクサポができる半年ほど前、AM1研は新しいビルに引っ越し、その際にサーバールームが新設されました。
サーバーの熱を冷やすため、専用のクーラーもついた小部屋です。
ファイルサーバーとして Sun のワークステーションが置かれていました。
部署内の UNIX マシンは、基本的に NFS でこのワークステーションとディレクトリを共有しています。
そのため、ファイルのバックアップなどは、各個人のマシンで行う必要はなく、定期的にストリームテープに保存されていました。
また、UNIX / Mac / Windows マシン間のファイル共有用に、Windows NT マシンも置かれていました。
同時接続数ライセンスの関係で、ファイルのやり取りをするときは迅速に行うように、と通達が出ていましたけど…
Windows NT マシンは、たしかプリンタ共有にも使われていたはず。
プリンタ本体は、サーバールームの外に置かれていました。
たしか Linux マシンもあったはずなのだけど、なんに使っていたのかよく覚えていません。
テクサポ課長もそれほど UNIX に詳しいわけではなかったし、当時はまだ Linux は今ほど一般的ではなかったので、何かに使えないか実験していただけではなかったかな。
同様に BoW を入れたマシンもありました。
BSD on Windows って…知らない人のほうが多いだろうなぁ。
いま BoW って言ったら、Breath of the Wild (ゼルダの伝説) か、Bash on Windows (Windows 上の Linux 環境) の略です。
当時の BoW は BSD on Windows 。名前の通り、Winodws 上で動く BSD 環境でした。
まぁ、これもテクサポ課長が実験していただけだと思うんですけどね…
「期待していたほど UNIX として使えない」と言っていたと思います。
この頃まで、開発環境は全部 UNIX だったのですが、テクサポができたのと前後して Windows マシンなども使うようになっていきます。
多分、その過渡期として「安いマシンに UNIX を入れた際に、開発で使い物になるかどうか」を調べていたのではないかと思います。
ネットワークの管理は今よりも泥臭いもので…
一端書いてみたのだけど、あまり面白い話ではないので詳細は省きます。
スイッチングハブはまだなく(実際にはあったけど高価で)、パフォーマンスを上げるためにはサブネット分割が必要でした。
AM1研はゲームのプロジェクトごとに人員を集める方式だったので、同じチームの人を1つのサブネットにしようとすると、チーム編成のたびに IP アドレスの付け直しが必要になります。
物理的にもマシンが移動しますし、ケーブルの繋ぎ直しも必要。サーバールームには大きなパッチボードが用意されていて、そこでケーブルの物理的な接続を変えられるようになっていました。
あるころ、新しく導入したマシン(SGI O2)が 100Mbit の通信に対応していました。
ハブの方は先に 100M 対応を終わらせていたので「これで速度が速くなる」と思ったのですが、思ったよりパフォーマンスが出ません。
多くの 10M マシンと同じサブネットにしているので、10M の通信の遅さに 100M が「待たされて」しまうのですね。
チームごとにサブネットを分けるのをやめ、10M マシンと 100M マシンで別のサブネットにしたら速度が上がりました。
今だと笑い話にもならないような、古い時代のネットワーク管理苦労話です。
そういえば、SGI の UNIX (IRIX)を GUI で操作する際、ネットワーク構成を入力する際に、IP アドレスを 16進数で入れさせられたと思います。
…必ずではなくて、通常の 10進入力も選べたはずだけど。どちらがデフォルトだったかは忘れました。
32bit だから 16進にするのも悪くないのでは…と思いつつ、他のマシンが全て10進入力なので、SGI でも10進入力でやってました。
IP アドレスとしては、会社で Class B アドレスもらってたんじゃなかったかな。
それを各部署に分割して使わせていた。
AM1研では /22 くらいのアドレスをもらっていたと思います。
まだ IP アドレスの枯渇、なんてあまり気にされていなかった時代です。
#もっとも、枯渇が近いと言われ、NAT 技術はすでにありました。
Windows マシンに Chameleon NFS を入れる、なんていうのも大切な仕事だったな。
先に書いたように、テクサポができたころから Windows マシンを使い始めたのですが、当時はまだ Win95 。
インターネット接続は標準では提供されていませんでした。
そんな当時のベストセラーソフトの一つが、Chameleon NFS。
ネットワークに接続するための機能…TCP/IP スタック、と呼ばれるものを提供していました。
買ってきた Windows マシンには、Windows はインストールされているのですが、ネットワークに繋げません。
そこで Chameleon NFS をインストールするのですが…
「TCP/IP スタック以外はそれほど出来が良くないので入れるな」と課長に厳命されていました。
名前になっている NFS とか、FTP とか、ファイルを交換するソフトの利用がネットワークに接続する目的なのですが、それらは別のソフトを使え、と。
当時は詳しくなかったので言われるままにやっていたのですが、ならばなぜ Chameleon だったのか。
ネットワークと言えば、BootP なんてのもあったな。
MODEL-1 の開発機材だったと思いますが、ネットワークに接続して使うのに、IP アドレスを設定できないものがあったのです。
マニュアルには BootP をつかえと書いてありました。
イーサネット機材は、必ず IP アドレスとは別に MAC アドレスというものを持っています。
マシンに電源が入ると、「ネットワークに参加するよ!」って、MAC アドレスが通知されます。
ネットワーク上に BootP サーバーがあると、この MAC アドレスを受け取って設定リストと照合し、同じものがあった場合は「君の IP アドレスはこれだよ」と、IP アドレスを渡します。
もちろん、リストに載っていない MAC アドレスに対しては、何もしません。
BootP に対応した機材は、それ以降は受け取った IP アドレスを使って通信を行います。
これ、当時は「IP アドレスはマシンに設定するもの」だと思っていたので、設定方法がわからずに苦労した覚えがあります。
こんな変な方法で設定を行う機材もあるんだ…って思っていたら、今ではこの技術がさらに拡張され、一般的になりました。
DHCP ってやつですね。実は BootP の拡張です。
BootP では、人間が MAC アドレスと IP アドレスの対応表を作りましたが、DHCP では自動的に作ってくれます。
特にまとまりはないですが、ネットワーク管理の仕事はこんな感じでした。
別年同日の日記
申し訳ありませんが、現在意見投稿をできない状態にしています。 【あきよし】 誤記指摘ありがとうございます。修正しました。冗談部分でチェック甘かったとはいえ、ひどいミスだ… (2018-03-10 13:42:01) 【rink】 Breath of the Wildですね・・・ (2018-03-06 18:24:18) |
機材管理もテクサポの仕事でした。
主に古いコンピューターと開発用 ST-V 基板…かな。
経理上の問題なのですが、会社で機材を購入した場合は、「減価償却」しなくてはなりません。
例えば、25万円の UNIX ワークステーションを購入したなら、5年間にわたって、毎年5万円づつお金を払った…という扱いにします。
仕事上必要なものを購入したお金は、売り上げから差し引かれ、「儲け」を見た目の上で減らすことができるためです。
儲かった時に、税金を払いたくないから贅沢品を購入する…というようなことが罷り通れば、税制はむちゃくちゃになります。
そのため、高価なものは「数年にわたって分割して」購入代金が支払われたようにしなくてはならないのです。
#これにより、単年度の売り上げは圧縮されることが無く税金が発生する。
また、本当は必要のない高価なものを無計画に買いにくくなる。
世の成金社長が「中古のベンツ」を購入する理由でもある。
この「減価償却期間」が終わるまでは、そのコンピューターは正しく購入した部署の手元にある必要がありました。
…とはいっても、コンピューターの世界は日進月歩。5年も同じマシンを使い続けられない、ということもあります。
どうするかというと、テクサポ預かりで棚に積んでおくの。
各機材には「機材管理番号」のバーコードシールが貼られていたので、そのシールだけはすぐ見えるように棚に積んでおく。
年に一度、総務課に「購入した機材がどこにあるか」を届け出る必要がありました。
バーコードリーダーが貸し出され、機材管理番号のバーコードを、全部読み取って見せないといけない。
結局、それだけのことなのです。
総務課に怒られないようにするという、ただそれだけのために使わないコンピューターを保管しておく必要がありました。
もちろん、実際に使っているコンピューターにも機材管理番号はつけられていて、部署内の全部のマシンを読み取って回るのは大変な仕事ではあったのですが。
テクサポ課長が、この作業が大変なので、機材管理台帳を作りたい、と言いました。
Linux マシンに PostgreSQL をインストールして…機材管理を DB でやろうとしたのですが、当時はまだ SQL なんて一般的ではなく、課長もよくわかっていません。
僕に「どうにかして」と丸投げされたのですが、僕も当然わかりません。
許可を得て FileMaker Pro を購入し、そちらで管理しました。
今考えると、素のコマンドラインで DB を操作して機材管理しようって、無謀すぎるよ…
FileMaker は一度 DB を構築してしまえば、Web で操作できる機能があります。
サーバールームに WinNT マシンがあったのでインストールし、どの機材が誰の席にあるか、すぐに探し出せるようになりました。
本体、モニタ、キーボード、マウス…それぞれに別の機材番号がつけられていました。
多分、キーボードとモニタは経理作業上は「付属品」なので管理の必要はないと思うのですが、課長が周辺機材まで管理するように求めたもので。
しかし、機材管理を細分化しすぎると、余計な手間が増えて実用的ではなくなります。
実際、「キーボードの調子が悪い」なんて時には、テクサポを経由せずに人から人に機材が「移動」してしまうことも多かったため、たびたび台帳と実際が合わずに苦労することになります。
ST-V 開発基盤は、リース品でした。
ST-V はいうまでもなくセガがオリジナルで開発した基盤ですが、「開発用機材」となるとそれほど大量生産するわけでもなく、「手作り」になってしまいます
生産は外部の会社に委託するわけですが、このコストだけでも市販する大量生産基板に比べて高価になってしまうのです。
そんな高価な機材を「購入」するとなると、部署の予算を使い果たしてしまいます。
そこで、外部のリース会社に間に入ってもらうのです。
AM1研としては、非常に高価な開発機材を一括購入できる予算がないため、リース会社に5年程度の契約でリースをお願いします。
さらには、ICE などの機材も必要です。
CPU をエミュレートして、その動作を外部の PC などから確認・変更できる機材で、1台で数百万から1千万くらいの機材です。
これらもすべて、リース品でした。
しかし、僕が引き継いだ時点で、前任者である「基板奉行」の管理がいい加減で…借りているはずの品物が、どこにあるのかわからないものが多数存在していました。
しばらくするうちに、外部の会社から「開発が終わったのでお返しします」とか言って急に現れたりするんですが…
とにかく、新しく認識したら、その時点で先に書いた DB に機材を登録。
どこに何台貸しているのかも一切わからないのだから、他に方法がない。
ある時、ICE のリース期限が近いので返却お願いします、とレンタル会社から連絡が来ました。
確認すると、本体は台数がちゃんと足りていました。すぐ返せます。
でも、多数の付属品のうち、マニュアルが一冊だけ足りない!
必死で探しました。全部そろっていないと返却できません。
ST-V 開発経験者に持っていないか聞いて回り、昼礼でもどこかに紛れているのを知らないか聞き、他のマニュアルの間に挟まっていないかマニュアル棚を隅々まで探し…
無情にも返却期限はやってきました。
レンタル会社に電話して事情を話します。
マニュアル1冊だけであれば、とりあえず揃っているものを返却して、マニュアルだけ後で返却でよい、という返事をもらえました。
恐る恐る、ちなみにマニュアルが見つからない場合はどうなるでしょう? と聞いてみます。
「破損扱いになるので新品相当の代金をいただくことになります」と、血の気が引く金額が伝えられた覚えが…
しかし、その後も懸命の捜索に関わらず、マニュアルは見つかりませんでした。
1か月後「今回だけは特別に」マニュアルはもうあきらめて、返却が終わった手続きとする、とレンタル会社から通達が来ました。
オリックスレンタリース様、その節は寛大な処置、感謝です。
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