目次
2015-02-02 僕のかかわったゲームのこと
2015-02-04 いきなり出鼻をくじくような
2015-02-06 最初のゲーム業界仕事
2015-02-09 バイトでやった CD-I の仕事
2015-02-12 ジャングルウォーズ2
2015-02-16 「ああ播磨灘」ゲームボーイ版
2015-02-17 手相うらない ちょっとみせて 発表(1995)
2015-02-18 占い開発の初期
2015-02-19 ロケテストとショー発表
2015-02-20 スタッフロール
2015-02-24 当時の雰囲気
2015-02-26 ずんずん教の野望
2015-02-27 WING WAR
2015-03-01 イチダントアール
2015-03-02 ワンサガン
2015-03-03 クールライダーズ
2015-03-04 スタックコラムス
2015-03-05 登龍門
2015-03-06 ぷよぷよ通
2015-03-07 ゴールデンアックス・ザ・デュエル
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その昔テレビゲーム業界で仕事していた、というのは何度も書いていることなのだけど、いろいろと「企業秘密」っていうのもあるのかな、と思って詳細は書かずに来ました。
その一方で、どこかで知っていることをまとめておきたい、という気持ちも持っています。
以前書いたのだけど、自分にとっては些細なことでも、研究したい人には重要なデータかもしれないから。
で、一応自分なりの折り合いは気持ちの上ではついていて、20年たったことは公表しても良いだろう、と思っています。
多くの人には退屈だろうけど、なぜ20年なのか書いておきます。
最初に書いておけば、20年たったから公表してもよい、とする法的な根拠はありません。
まず、企業秘密について。
僕がゲーム業界大手で働いていた20~15年前は、企業秘密をばらしてしまう、ということについて、処罰する明確な法的根拠がありませんでした。
一応、「社員」に対しては処罰できました。
懲戒免職にもできるし、会社に損害を与えたのであれば、損害賠償請求の訴訟も起こせる。
役員であれば特別背任罪で刑事告訴も出来ましたが、基本的には民事なのですね。
民事っていうのは、会社が裁判所に訴えを起こす必要がある、ということです。
会社側にもリスクがあるので、あまり大きな話にはせずに、本人を諭して即退職してもらう(懲戒免職)、というのが普通の「罰」でした。
つまり、すでに退職した社員なんかはやりたい放題。会社を辞めてから内情暴露、とか簡単だったのです。
その後法律が変わり、企業秘密の漏洩は刑事告発できるようになりました。
刑事告発と言うことは、ある程度資料をそろえて、警察に提出すれば終わりです。
後は警察の仕事になるので、企業としては「処罰」を行うためのリスクが小さいです。
また、十分な容疑があれば実刑を受けることになるので、退社後の社員でも処罰することが可能になります。
つまり、退職後にやりたい放題、という時代は終わったのです。
これが、僕が自分のやった仕事の内容を秘密にしていた主な理由。
ただ、刑事告発できるようになって会社側の権利が増した分、制約も付けられています。
「秘密を漏洩した」というのであれば、その情報が「秘密」であると誰にもわかるように、かつ適切に管理されている必要があります。
…社外秘、とか大きく判子押してある情報は、秘密だということですね。
たとえば、セガサターンのマニュアルとか、社外秘の判子押してありました。
だから、そういう情報を漏洩してはいけない。
でも、もう一つ条件が付いていて、漏洩時点ですでに「公知の事実」となっていた場合は秘密とは言えません。
僕はすでにサターンの技術話を書いているのですが、エミュレータもオープンソースで作られたりしているし、どこかから流出したマニュアルもネット上で見つけることができる。
だから、これらはすでに「企業秘密」ではありません。
判子を押せないような、人のうわさ話なんかも、企業秘密ではない。
ただし、こちらは企業秘密ではないとしても、個人のプライバシー侵害の可能性があるので、あまり実名は出せません。
(役職名などでも、簡単に個人が特定できてしまうのであれば、実名に準じるでしょう)
実は、在任中に「噂話」を同人誌で公表したことが問題となって退職せざるを得なくなった社員が、同じ部署にいました。
これが、僕がかなり慎重になっている最大の理由。
法律では、会社の「営業上の秘密」がいつまで秘密であるか、年限を定めるものはありません。
でも、退社した社員がいつまでも自分の過去経験したことを口にしてはならないとしたら、これはちょっと会社側に一方的に有利な法律のような気もします。
だから「適切に管理されていること」があるのでしょうが、退社した後では、現在の管理状況がどうなっているかを知ることもできません。
一つ注釈を入れておくと、僕が今後書きたいと思っている話は、当時「社外秘」として指定を受けていなかったようなことばかりです。
ただ、入社するときにどこの企業でも誓約書書くと思うのだけど、「仕事上知り得た事項はすべて社外秘」扱いだったように思うのだよね。
実際、先に書いた、噂話だけで退職せざるを得なくなった人もいるし。
(もっとも、僕はこの人が同人誌で何を明かしたのかは一切知りません。もしかしたら、本当にヤバイこと書いたのかもしれない)
当時は社外秘を漏洩した人へ刑事罰を与える法律がなかったので、「適切な管理」も求められていなかった。
社外秘、というものが非常にざっくりとしていたのです。
ここが、いつになったら話をしてよいのか困っているところです。
それで、自分の中では 20年を区切りとしよう、と決めたわけです。
さて、「20年」と考えているのは、特許法の援用から。
特許は、普通なら秘密にしたいような技術上の優位点をあえて公開する見返りに、一定期間の「独占」が認められるものです。
独占されるとはいえ、技術そのものは公開されるため、他の人が類似技術を習得したり、工夫する余地が生まれます。
これにより、秘密にされるよりも技術の進歩を促すことが狙いです。
そして、この「独占期間」の上限が 20年です。
特許は一般に公開される前…ゲームであれば、ロケテストに出されたり、ショーでお披露目されたりする前に申請する必要があり、その申請から20年以内が独占期間。
技術と言うのは日進月歩で、20年も経てばもう「最新技術」ではありません。
誰でも使える程度の技術になっているだろうし、独占させておくことは却って弊害がある、という判断です。
これが、僕が公開するのに「20年」待つことがけじめだと考えている理由。
他に援用できそうな法律としては、特定秘密保護法なんかもあるでしょう。
あれは、国益に重大な影響を与えそうな秘密を守るための根拠で、保護期間は30年です。
(60年まで延長可能ですが)
僕の場合、会社員になって最初に作ったゲームが、そろそろ20年たつ。
これを30年までまってから公表するのはどうか…と考えた時、それはちょっと遅すぎる気がするのです。
たびたび書いていますが、ゲームの歴史を少しでも残そう、という話題が、あと10年たったらどうなっているかわからない。
というのも、僕としてはゲームはすでに斜陽産業だと思っているから。
人が居る限り、遊ぶ心は無くならないでしょう。
でも、30年後ではテレビゲームが、今よりもっと「特別なもの」ではなくなりそう。
歴史に興味を持つ人も減って、歴史を残す意義も失われていそう。
他には、たとえば著作権法は、権利の存続期間が60年ありますが、これは、「権利」という話だけで、秘密の話ではありません。
むしろ、すべてを明らかにした「著作物」だからこそ、長く権利が保護されている。
というわけで、少しづつ話を書いていこうと思っています。
会社員になって最初に作ったゲームの話から始めるつもりだけど、その前にバイト時代のことを少しづつ書くかな…
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別年同日の日記
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先日書いたように、20年を区切りに過去の仕事のことをまとめておこうかな、と思いました。
これ、僕としても心理的に少し障壁があるんです。
法的な話とか持ち出して牽制しているのも、そうした自分の気持ちに折り合いをつけるためでした。
で、一昨日書いたら、今日社員時代の友人から、久しぶりに電話がかかってきました。
電話の本題が終わった後、雑談に入ります。
友人「(過去に一緒に作ったゲーム名)なんだけど、まだ稼働している店あるんだよねー。
まだ1年以上あるけど、来年には20周年になるし、なんかイベント出来ないかと思ってるんだよ。
稼働しているゲームセンターとかに協力してもらってさ、当時の作成裏話とかできると面白いんじゃないかな。」
おぉ、それは面白い。
該当のゲーム、今でも「好きだ」と言ってくれる人がそれなりにいるゲームで、ありがたく思っています。
そんなイベントやるつもりなら、ぜひ参加したい。
友人「でね、あと1年あるから、それまでにちゃんと許可をもらっておこうと思って。
Aさんの連絡先知っている? **さんと、**さんには連絡ついたし、**さんはまだ会社にいるみたいだから、Aさんに了解貰えれば全員了解とったことになるんだよね。」
…すごいです。偉いです。
彼は、20年前のゲームの話をするのに、関係者全員の了承を貰おうと考えている。
僕も「20年が区切りだ」と考えている点では同じなのですが、了承もなしに裏話を書くための言い訳を考えていました。
うーん、ちょっと考えたほうがいいのか。
でも、今月中には、僕が初めて作ったゲームが 20年迎えるんだよね。
残念ながらこちらは、今では稼働している物は多分ない。
でも、「好きだったのだけどどこかに置いてないか」とか、「あの音楽好きだったけど、サントラとか出てないのが残念」とか言ってくれる人が、今でもいる。
#ツイッターでエゴサーチしてますよ
なんか、この機会に思い切って話を書かないと、きっかけを失って公開せずじまい、になってしまいそうな気がするんだ。
ゲーム業界に携わったものとして、些細な話でも残しておこう、という意図とずれてきてしまう。
葛藤を振り切って、公開しようと動き始めた矢先に、出鼻をくじかれた格好になってしまった。
もう少し悩んでみます…
別年同日の日記
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まずは、とっくに20年たっている話。バイト時代の話から始めましょう。
1991年、大学2年の時に、横浜にある「ARC」というゲーム会社でアルバイトしていました。ごく短期。
名称変更はありましたが今でも存在している会社ですね。
たしか、アルバイトの応募で、「コメット」持っていったのではなかったかな。
1年の秋に大学祭のために作って、冬頃に満開製作所から発売してもらったゲームね。
この会社には運よく X68k があったので見てもらえて、それなりにプログラムできる、ということでバイト採用。
仕事内容は雑用。
プログラムできるならちょっとやってみな、と言われ、その時作っていた業務用プロレスゲームの、レフェリーの座標移動作りました。
プログラムをしたというよりは、どの程度のことができるのかテストされた、という程度です。
レスラー2人の座標を渡すので、その中間よりちょっと上あたりにレフェリーの座標をセットして、という課題でした。
プログラムが判る人には簡単な話で、平均位置を出して「そのちょっと上」に表示すればいいのですね。
アセンブラでも、足して1ビットシフト(2で割るのに相当)すれば平均が出せます。
どうも、テストとして求められていたのはその程度で良かったようです。
当たり前のことが当たり前に出来るかどうか。それすらできなければ「使い物にならない人材」ですから。
でも、平均位置に表示するだけだと、レフェリーの動きが不自然になる、と僕は考えました。
そこで、レフェリーの座標を、前回位置を元にして「平均位置に向かうように移動」するように作りました。
その際、座標のあたり判定をして、どちらかのレスラーに表示がぶつかりそうなら、移動しないようにします。
すでにぶつかっていたら、速やかにぶつからなくなる方向に向かって逃げます。
そうしないと、レスラーが縦に並んだ時に、上のレスラーと重なっちゃうかもしれないからね。
同じ位置に人が二人いることになったら、それは不自然な表示です。
CPU が何だったかは忘れたけど、ニーモニック表を見ながら30分くらいでプログラム作ります。
テキストファイルで組んだだけで、アセンブラとかは環境にないので、念のためじっくり見直し。
これでプログラマーの方に渡して、組み込んでもらいます。
大きなエラーもなく、一発で思ったような動きをして驚かれました。
(「レスラーにぶつからないように」とかは指示されてなかったのに作っていたので、それも含めて。)
今調べた限り、この会社がプロレスゲームを出したという記録は無いみたい?
記録漏れかもしれませんし、名前を出さない下請け仕事かもしれません。
#記録って言っても、所詮は Wikipedia に書いてあったのを調べただけです。
メイン取引先のライバルからの受注もあったりしたので、名前を出せない仕事もしていましたし、隠れて仕事をするために近くのマンションに別室も用意されていました。
これで「出来る奴」と認めてもらい、雑用とはいえゲーム作成に関わらせてもらえます。
とはいえ、プログラムではなくて、データ作成など。
ゲームギアで、当時流行していた「ちびまる子ちゃん」のミニゲーム集作っていて、仕様書を元に「スゴロク」のマップを埋めました。
スゴロクなので、通るマスは決められたキャラで。それ以外の部分は適当にって、そんな仕事。
このゲーム、後で企画変更になって、ちびまる子ちゃんではなくなった。
理由は知らないけど、版権取れなかったのではないかな。
たしか、絵とか変更して「クニちゃんのゲーム天国」になったのだと思う。
僕が埋めたマップがどうなったのかは知らない。
#基本的に仕様通りに埋めただけなので、自分が自由にしてよい場所をどう作ったかは覚えていない。
そのため、同じかどうかすら不明。
会社に、当時は珍しかったカラーインクジェットプリンタがありました。
シャープのIO-735X というやつ。今調べたら、定価で24万8千円だったようです。
#当時はプリンタ自体持っている人が少ない時代。
持っていても白黒。よくてカラー熱転写。
ワープロで使われるのが普通で、それ以上のことがしたければ自分でプログラムを作る必要があった。
画面のイメージをプリントアウトして発注主に見せられる、という思惑で買ったらしいのですが、プリントアウトするためのプログラムが無い。
試しに作ってみてよ、と言われ、作ることになりました。
プリンタ自体の制御は、MSX で熱転写プリンタに印刷するプログラムとか作ったことがありました。
これは難しくない。
まずは、白黒前提でスーパーファミコンのキャラクタデータを印刷するプログラムを作ってみます。
ここまでは、比較的簡単に出来ました。
これだけでも、「進捗状況を見せられる」と喜ばれました。
そこからカラー対応。
当時はカラープリンタ自体珍しく、画面の色をどうやったらカラー印刷できるのか、解説した本なんかもない。
「あらゆる組み合わせで印刷しみてさ、それらしい色を探し出せばいいよ」みたいに社長が言うので、組み合わせを片っ端から印刷するプログラムを作ってみますが…
先に前提を書いておきましょう。
最終目的は、スーファミのゲームの画面などをプリントアウトすること。
スクリーンショットではなく、専用ツールで書いた「キャラクター」や、そのキャラクターを並べた「マップ」のファイルを印刷します。
スーパーファミコンは 32768色。
一方、カラープリンタは、CMYK の4色のインクの有無の組み合わせで色を出すので、論理上16色。
16色ではとてもスーファミの色を表現しきれないので、これを 4x4 ドットで扱います。
1色について17階調の表現ができるようになります。
(4x4 の 16ドットについて、0ドット塗る、1ドット塗る、2ドット塗る…16ドット塗る、の17段階)
IO-735X は180dpi だったので、A4 横方向が8インチとして、1440dot位印刷できます。
4x4 でファミコンの1ドットを表現すると、横に 360dot が印刷できることになります。
スーファミは画面上、横に 256dot 表示できますが、これがちゃんと収まります。
「1画面が収まって少しあまる」サイズで印刷した覚えがあるから、多分このサイズで作ったのではないかな。
色の表現方法はこれで良いとして、社長の示唆するように、あらゆる組み合わせを印刷してみようとします。
…4つのインクが17階調ですから、17x17x17x17 = 83521 の組み合わせがあるんですね。
どの色がどのような配合かも示さないといけないので、少し色を塗ったら、横に CMYK の割合を表示しました。
たしか、1行に4色分くらい、縦に32行位表示するとちょうどよかったような。
1ページに128色が印刷されることになる。
ちょっと計算してみると…653ページ印刷しないといけない。
そして、その中から「スーファミの色に近い色」を、32768色選び出してテーブルを作らないといけない。
できるわけありません。数ページ印字したところで気づいてやめました。
2~3日、ひたすらいろんな印刷を試しては、にらめっこ。
まずは、CMYK 共に値が大きいときは、インクが多すぎて紙がふやけ、使い物にならないことを知りました。
でも、この時点では実験なのでこの問題は無視。とにかくいろいろな色を試してみます。
そのうち、「なるほど、RGB の補色が CMY なのか」という、今考えれば当たり前のことに気付きます。
これがかなりの進展。
そして、色を混ぜれば「黒く」なるのだから、CMY 共に値が大きい場合は、一番少ない値の分だけ黒を混ぜ、その分 CMY の使用を差し引くと「紙がふやけない」ことに気付きます。
色合いが多少おかしいながらも、それらしい印刷をするプログラムが出来上がりました。
今考えれば、ガンマ補正とか付けないといけないのだけど、当時はそこまで知識が無い。
あと、キャラクターを並べて「マップ」を表示するようにも対応します。
僕のプログラムはここまで。
社長が想像していた「カラーで美しい印刷」とまではいかなかったようなのですが、買っただけで使えていなかったプリンタが動くようになった、というだけでも喜ばれました。
この時の経験、結構後まで役に立ちました。
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別年同日の日記
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1992年、大学3年の時には、「アトリエドゥーブル」という会社でアルバイトしていました。こちらも短期だけどね。
今は解散してしまい、存在しない会社。
この会社、横浜のマンションの一室…というか、3室でやってた。
1室はメイン開発室。1室は、先の会社の例と同じで、ライバル会社からの請負を扱う「別室」。もう1室は会議室を兼ねた社長室でした。
実は、さらにもう1室あるけど、これは社長の自宅。
すぐ近くだから、時々社長の奥さんが社長室に現れたりする。
(奥さんが来ると、社長は仕事場に顔を出すなと怒るのだけど)
非常にアットホームな、良い雰囲気の会社でした。
アルバイトで最初に頼まれた仕事は、CD-I 用のゲーム 「Mystic Midway:Rest in Pieces」の日本語化作業。
CD-I って、フィリップスが作った「マルチメディア端末」ね。
事実上はゲーム機だったのだけど、CD-ROM を搭載した機械としてはかなり初期の物。
ドゥーブルでは、すでに CD-I のタイトルをいくつか作っていて、「東京私立校受験ガイド リセエンヌ グラフィックス」とか、「斉藤由貴 Anniversary」とか、かなり売れたそうです。
特に、「斉藤由貴 Anniversary」は、この時点での「日本で最も売れた CD-I タイトル」だったはず。
たしか、300枚くらいと聞いたような…
#受験ガイドは、主に女子高の制服を集めた図鑑データベースです。
当時はまだバブル崩壊直後で、まだ残り香のあったころ。
特に私立高校の間で「新しい制服を作る」のが流行していました。
著名デザイナーに依頼したかわいい制服など、それを目当てで受験する女子中学生が多かったためです。
そして、選ぶ側の女子中学生にも、かわいい制服を一覧できる図鑑などに需要があったのです。
書籍も流行っていたけど、CD-I ソフトは主に私立中学・進学塾相手に売れたのだとか。
さて、「Mystic Midway:Rest in Pieces」日本語版の話。
日本語版には「ひとり墓ッ地でキモだめし」というサブタイトルがついていましたが。
日本語版と言っても、プログラムなど一切いじりません。
先に書いたように、一番売れて 300枚、なんて世界なので、細かな作業していたら割に合わない。
アメリカでそこそこ売れたゲームの権利を買ってきて、簡単に改造するだけです。
CD-I は「マルチメディア機」だったので、良く喋りました。
この音声ファイルを全部日本語に差し替える、というのが目標。
すでに、声優さんに喋って貰った音声データはありました。
DAT (デジタル・オーディオ・テープ)に入っていて、秒数も元の物に合わせてある。
元ファイルのファイル名と、バイト数の表もある。
MacII を使って DAT から音声を取り込み(この時点では 48KHz のデータ)、CD-I で使う 44.1KHz にコンバートします。
そして、元ファイルと1バイトたりとも違わないように、正確にファイルを切り出します。
Mac には 5inch MO を接続してありました。
当時はハードディスクはまだ高価なもので、パソコンに内蔵しているのは 40M ~80M 程度。
外付けでも結構高価な 120M があり、サーバー用などならやっと 250M くらい…という時代。
でも、CD-ROM ゲームを作るのですから、650M の記憶域が必要です。
5inch MO は、650M を記録できました。もっとも、これはメディアを両面使った場合の話で、片面は半分。
#CD-R はまだ普及していません。規格ができたのは 1990年だけど、普及は 1995年ごろから。
そして、この MO ドライブ自体が非常に高価。
ドゥーブルには当然こんな高価な機材は無く、ドライブごと借りていました。
「両面で」650M なのに、普通に開発していたのだから、容量は半分程度しか使っていなかったのではないかな…
#もしかしたら、ヘッドが両面にあって、裏返さずに両面のデータを読めたのかもしれません。
先に作りだした「日本語化」ファイルを、MO 上で元ファイルと同じ名前で保存します。
完成したら、テストプレイ。
…どうやって遊んだのだろう。記憶にない。
開発用の特殊な CD-I 本体とかで、MO ドライブを CD-ROM に見立てて起動したりできたのかもしれません。
ここら辺、どうやっていたのか全然覚えていない。
ただ、テストプレイをやっていた記憶だけはあります。
しばらく遊んでみて問題なさそうなので、日本語化完了。
全てのデータを MO に入れて、ドライブとメディアを一緒に発注元に送り返します。
MO ってリムーバブルメディアだけど、常にドライブとメディアをセットで移動している状態。
先に書いたように、ドライブが高価だったからね。
ちなみに、ゲーム内容は「射的」です。
画面下で左右にしか動かない銃を動かして、画面内を左右にしか動かないターゲットを撃つの。
玉数制限もありますし、一定時間たってもゲーム終了します。
一定点数取れば次の面に進めるのだけど、点数が達してなければゲームオーバー。
このゲーム、一応「アメリカではヒットした」ということで日本語版が作られたわけですが…
なんでこんなゲームがヒットしたんだろう (^^;
#まぁ、つまらないわけではなくて、それなりに良くまとまってはいた気がします。
でも、5千円払って買うゲームではないよね、という感じ。
2021.8.30 追記
このページを英語翻訳して紹介している海外のページを発見したのだが、そのページには貴重な実物写真が多数入っている。
Mystic Midwayの日本語版のジャケット写真もあるし、リセエンヌグラフィックや、斉藤由貴のアニバーサリーの写真もある。
日本にいてもお目にかからない日本版のソフトまで集めているという、海外コレクターおそるべし。
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【訃報】6502 の開発責任者、チャック・ぺドル【日記 19/12/28】
別年同日の日記
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さて、ドゥーブルでは当時、「ジャングルウォーズ2」というスーファミのR.P.G.作ってました。
キム皇、こと きむらはじめ さんがシナリオを担当したゲームで、非常にドラクエ的な感じ。
でも、亜流とかパロディとかではなくて、ちゃんと独特の世界観を作り出しています。
メインプログラマの人は、元々音楽作曲をしていた、という人。
音楽作成で会社に入り、サウンドドライバの出来に納得がいかなかったので独学でプログラムを覚えてサウンドドライバを作り上げてしまう。
そして、それだけプログラム能力があるのだったら、とメインプログラマをやるようになった。
この人が作ったサウンドドライバ、出来がいいので別の開発会社に販売していたりしたそうです。
ドライバだけでなく、音楽制作まで含めて一式、という仕事の請負もあったらしいのだけど、ドライバを販売した某社はすごく初歩的なことを何度も聞いてきて、最後には改造までしてあげたけど金銭的なプラスは無く、お礼もないというので「あそこには二度と協力しない」と言っていました。
#相手は結構有名な大手会社。名は伏す。
スーパーファミコンって、音声チップが非常に良かった反面、メモリ容量などの問題で使いこなしが難しく、ドライバ次第で全然性能が違って感じたらしいです。
CD-I ゲームの次の仕事は、このジャングルウォーズ2のお手伝い。
ジャングルウォーズ2の中では、以前に行った町や村にいつでも移動できる方法がありました。
この際、「空を飛ぶ」演出があるのですが、この空を飛ぶ経路を求めるプログラムを作る仕事でした。
まぁ、簡単なプログラムで腕前をテストされたのですね。
現在地 A と、目的地 B の座標があり、この間を「上下・左右の移動だけで」(斜めには動かずに)埋めたい。
綺麗に等分した動きではつまらないので、適度のランダムを交えつつ、中間の動き経路を埋めるデータを生成してほしい。
…これが、僕に与えられた課題でした。
んー…。しばし考える。
間をランダムに割る、のではなくて、A B 間の距離を適切な値で割ったものを「標準移動距離」として、これが期待値となるランダムを連続生成、というプログラムを作りました。
こちらも、テキストでプログラムを組んだだけで、自分のマシンにアセンブラなどが無かったので目視確認のみです。
ほぼそのままで動いたそうですが、依頼時に忘れていた仕様があって、「ほんの少し改良して」発売されたプログラムでも使われています。
#全体マップの左上には、ゲーム中では「遠くにある」ことになっている別の島が入っている。
単に A B を結ぶ経路を出すだけでは、この島の近くを飛んでしまうことがあった。
これは、A B 共に特定エリアに入っている場合は、中間地点 C を設けることで回避したらしい。
これを作ったら、もう一つ頼まれました。
ゲームの演出上、空を飛んできた鳥が、滑らかに主人公たちの前に降り立つ場面があります。
ゲーム中のキャラは、ほぼ常に「上下左右」の動きしかないのですが、ここだけは特別な滑らかな曲線。
(ニコ動に動画あり。1:10 あたりから見られます。)
これは表示位置データを配列で持って、そのまま「再生」しています。
この、位置データ作って、というのが僕に与えられた仕事でした。
1回の動きは n ドット以内、全体でデータは何バイト以内、動きはこんな感じで…と細かな指定があったのですが、それをそのまま手打ちで作るのは難しそう。
使っていない PC-98を1台借りて、BASIC で「動きエディタ」作りました。半日くらいで作った、作りの荒いプログラム。
マウスでキーとなる位置を複数指定すると、「nドット以内」になるように中間ポイントを作り出します。
確か、細かめにポイントを作り出して、適当に間引いて動きに緩急をつけたのではなかったかな。
2~3個動きを作ったら終わりなので、動きエディタに速度指定までは付けなかったように思います。
その代りに、データを読み込ませると、98 の画面上で動きを確認できる、簡単な「プレイヤー」も作り、手で間引いたデータがそれらしく動くかどうかを確認しました。
これで生成したデータをプログラムに入れてもらい、動きを確認すると、滑らかに動きました。
非常にいい動きだ、と褒められ、これも発売されたプログラムでそのまま使われているはずです。
たしか、ジャングルウォーズ2でやった仕事はこの2つだけ。
この2つだけなのに、サブプログラマとして名前を入れてくれました。
もう1つ、依頼されたけどできなかったことがあります。
「サンプル家に持って帰っていいから、テストプレイしてもらえないか」と言われたのですが、僕はスーファミ持ってなかったので出来なかったんですよ。
発売前のゲームを遊ぶなんて、スーファミ持ってたら喜んでやりましたけどね。
実は、このゲーム未だに遊んだことありません。
自分の名前入っているのにね。
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ジャングルウォーズ2 発売日(1993)【日記 19/03/19】
別年同日の日記
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昔話を続けましょう。
大学の頃、アトリエドゥーブルという会社で短期間ですがバイトしてました。
バイト中に、ゲームボーイ版の「ああ播磨灘」の作成依頼が来ました。
これ、当時流行していた相撲漫画ね。
ゲーム内容の詳細は決まっておらず、ただ「ああ播磨灘」を使う、ということだけ決定。
漫画内の絵など、自由に使ってよい、ということも決定。
企画者の人が、相撲ゲームの参考資料を集めるのですが、相撲のゲームってそれほど多くないのね。
当時、花王のフロッピーディスクを買うとおまけで「98用ゲームの入ったディスク」が付いてきたのですが、それに相撲がある、という噂を聞いて、企画の人が探して買ってきたりしました。
遊んでみると、これがとんでもないシロモノ。
相撲なのに必殺技がある。相手を屋根を突き破って飛ばしたり、パイルドライバーで脳天落とししたり。
キャラクターを力士にしただけで、当時人気のあった格闘ゲームのような様相でした。
これを見て、「正統派の相撲ゲームを作る」ということだけは確認していました。
#メガドライブで発売された「ああ播磨灘」は、格闘ゲームになっていましたが、この時点ではまだ発売されていません。
さて、そんな作業の傍ら、「漫画の絵をそのまま使う」ことは決定事項だったので、僕はそのためのソフト作りを依頼されました。
漫画の絵をスキャンして適切なサイズに変更、までは終わっているのですが、このデータが16階調の白黒データでした。
ファイル形式も…忘れたけど、たしか TIFF かなにか。
でも、ゲームボーイでは4階調しか出ませんし、ゲームボーイ独特のデータ形式でないと使えません。
なので、4階調に減色し、ゲームボーイで扱える形式のデータとして吐き出すツールが必要です。
PC-98 の TurboC があったので使わせてもらい、ソフトを作成します。
バイナリファイル扱うなら、BASIC よりもCの方がやりやすかったから。
16階調を減色、と言っても、そのまま減色しては美しくならないことはわかっていました。
幸い、PC-98 には 16色のパレット機能があります。
そこで、画像を表示した横に、16色を並べたパレットを作り、動かせる「スライダー」を3つ用意します。
このスライダーを閾値として、16色のパレットを4色に減色するようにしました。
先に書いた16色パレットを使い、スライダーを動かすとリアルタイムに画面上で見た目を確認できます。
多数のファイルを処理しないといけないのはわかっていたので、ディレクトリ内のファイルを次々と自動で読み込み、閾値を適当に処理したのち決定すると、ゲームボーイのデータ形式で4階調のデータを吐き出すようにしました。
ゲーム機向けのデータのコンバートと言うのは、1年前の別会社でバイトした時のプリンタ制御と似たようなもの。
減色しながらデータ形式を変換して、出力するだけですから。1年前のノウハウが役立ちました。
データ整理ツールを依頼した社長としては、とにかく 16階調の絵を適当に4色に出来れば、それだけで良かったようです。
汎用で使えそうなツールを作ってしまった、ということに驚かれました。
このあと、社長から「播磨灘のプログラム作んない?」と聞かれました。
この頃、バイトとはいっても週に2~3日しか入っておらず、とてもメインプログラムなんて作れないです。
それに、8080 系には嫌な思い出が…
高校の時、MSX で Z80 のプログラムを初めて作ったら、BASIC コンパイラより遅かったんですよね (^^;;
これですっかり Z80 系には苦手意識が…
#Z80 では、インデックスレジスタを使うと非常に遅かったのだが、それを知らずに使ってしまった。
GB は Z80 じゃなくて、インデックスレジスタもないから大丈夫だよー、とか言われて資料も見せてもらったのですが、大学行きながらメインプログラマはできないです。
そう断ったら寂しそうでしたが、結局社長がメインプログラマーやってゲームは完成したようです。
この後、「大学辞めて入社しない?」とまで誘われたのですが、申し訳ないのですが大学を辞める気はなかったので、バイトの方を辞めました。
なかなか楽しい職場だったんですけどね。
バイトを辞めてずっと後、ゲームボーイの「ああ播磨灘」が、ゲームショップのワゴンセールで安く売られていたのを見かけました。
買ってきて遊んでみましたが、大バグあるじゃんよ!
力士の移動に従って土俵がスクロールするのですが、「画面のスクロール」「画面上の力士の位置」「土俵上の力士の位置」がかみ合っていません。
このため、土俵中央で寄り切ってしまうことがあります。
バグの出現条件も非常に単純で、慣れれば確実に出せます。
このバグ、発売まで誰も気づかなかったの?
で、さらに後で知ったのですが、このゲームのスタッフクレジットとして、僕はサブプログラマーになっているのね…
持っていて遊んでいるのに、Youtube で再確認するまで気づいてなかったよ。
画像整理のためのツールは作ったけど、ゲームのプログラムは1バイトたりとも書いてませんよー。
僕が関わってたら、あんな大バグ残さないよー。
#と言いつつ、バグっていうのは必ず出るものです。
岡目八目で大バグなんて言っているけど、その場にいたら気づかないかもしれません。
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別年同日の日記
18年 Harley-Davidson & L.A. Riders
申し訳ありませんが、現在意見投稿をできない状態にしています。 【あきよし】 指摘ありがとうございます。修正しました。 (2015-03-02 13:49:34)【名無し】 定番の誤変換が数箇所。 ×諧調→○階調 (2015-02-20 23:52:03) |
さて、20年たちました。
そろそろ書いても良いかな、と思います。
1995年の2月…日程は正確に覚えていないけど、カレンダーを調べると多分2月の17日と18日。
幕張でAOUエキスポが行われました。
AOUエクスポって、業務用ゲーム機の展示・商談会ね。
17日はビジネスデーで招待客のみ。18日は一般入場も可能で、ゲームファンが集まる日でした。
僕が会社員になって初めて作ったゲームが、一般に初お披露目する機会でした。
追記2023.03.27
これを書いた当時、確認手段がなかったのですが、今は当時の業界紙「ゲームマシン」が、公式に公開されています。
上の記述が急に気になって調べたところ、日程は 22~23日でした。
2日目の一般客向けの配慮で、金土にしていると思ったのだけど、両方平日。記憶違いだったみたい。
しかし、開催を伝える記事のすぐ隣には、招待客のみのはずの1日目に一般客が入っていたので、ゆっくり商談ができないという不満を伝える記事が…
そのゲーム機が、「手相うらない ちょっとみせて」。
名前の通り占い機です。
ゲーム好きの人からは「なんだ、占いか」なんて言われそう。
でもこのゲーム、当時の占いゲームの常識を塗り替える大ヒットでした。
半年後くらいには、同じAOUでデビューした、同じ分野の機械が社会現象になるほどの大ヒットとなったため陰に隠れてしまいましたけどね。
#日記冒頭の写真は店舗向けの宣伝チラシ。
クリックすると全体が見られます。
僕がプログラマーとしてセガ・エンタープライゼスに入社したのは、1994年の4月。
当時はセガは新人研修に時間をかけていて、1週間ほど店舗営業を経験し、2週間ほど工場での作業を経験し、それから部署に配属になりました。
僕の配属された部署は第1AM研究開発部。俗にいう「AM1研」ですね。
部署に配属されてからも、しばらくは新人研修、ってことで雑用をいろいろやります。
よくロケテストでお世話になる店舗を廻って、単に遊ぶ場所としてのゲームセンターではなく「客層の違い」を見たりとか、ゲームのアイディアを書いて提出したりとか。
さらに、プログラム課に配属されて、それぞれに「先輩社員」が付けられます。
最初はその先輩に教えてもらえ、ということ。
最初の仕事は、プログラムではなく仕事に使う道具作りだったように思います。
JAMMA ハーネス…ゲーム基板とゲーム筐体を接続するケーブルの作成。
開発の際には、開発用基板を机の上に置き、筐体は机の横に置きますから、「基盤が筐体に内蔵される」際の一般的なケーブルでは短すぎるのです。
今は新JAMMA ってやつがあるけど、この頃はまだ旧 JAMMA 規格ね。
56ピンのコネクタで筐体とゲーム基板を接続します。この56のピンの延長ケーブルを作るので、両側合計 100か所ほどの接点をハンダ付けしなくてはなりません。
こんな作業をしている間に、課長からはプログラムの簡単な課題も出されたりもします。
どうも、技量を推し量られたようで、配属プロジェクトが決まります。
で、僕が配属されたのが、先に書いた手相占いゲーム。
他の同期は、当時発売前だった ST-V のゲームなどに割り振られていました。
アクションゲームが好きで入社したので、占いへの配属は多少不満もありました。
使用ボードは、すでに旧式となりつつある System32 。こちらも、最新ボードを使ってみたい気持ちがありました。
しかし、「仕事なのだから何を割り振られても全力でやる」と最初に考えていたので、とにかく良いものを作ろう、と気持ちを切り替えます。
この割り振り、後で知ったのですが、僕が一番実力がある、と認められてのものだったようです。
大きなプロジェクトでは、新人は「雑用のデータ整理」などが主な仕事なのですが、占いはプログラマー二人だったため、雑用仕事もこなしつつ、プログラムをかなり書く必要がありました。
また、System32 はアセンブラで作成する必要があり、Cだけでなくアセンブラも使えた僕なら…と割り振られたようです。
この時は知らなかったけど、非常に名誉なことでした。
この時に一緒にプログラムを作ったA先輩は、面倒見が良くて気さくで、人の輪の中心になるような人でした。
後にA先輩が退社するまで、いろいろとお世話になることになります。
手相占いは、A先輩が主に占いロジックや、周辺機器との I/O などの「複雑な部分」を担当。
ユーザー入力や画面表示など、ゲームの見た目を占める大部分は僕に任されました。
これ、A先輩としては「複雑な部分は新人では荷が重かろう」と考えたようなのですが、ゲームらしい部分を多数任されたので、作っていて非常に楽しいものでした。
この話、結構長いので少しづつ区切って出します。
続きは後日。
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申し訳ありませんが、現在意見投稿をできない状態にしています。 |
昨日の続きです。
話は僕が入社する前になります。
AM1研が作成した占いゲーム機で、「スターライトフォーチュン」というものがありました。
このゲーム機、占いとしては結構人気が出たそうです。
占いゲーム機って…悪く言えばいい加減なものが多いです。占いなんて、適当に書いたってわかりゃしない…というのはある程度事実だから。
スターライトでは、専門の占い会社の方に頼んで占いのロジックを決めてもらい、その結果文章も大量に用意してもらいました。
占いジャンルも大量、占い結果の文章も大量。さらに、結果文章は画面で表示する「概要」と、印刷してお持ち帰りいただく「詳細」が違います。
占いは文章を楽しむもの、という考えで、友達数人で占っても同じものが絶対に出ないように、と多数の文章が用意されていたのです。
とにかく本格派の占いでした。
これが好評で新たな占いを作ろうとしているところへ、オムロンが「一緒にゲームを作れないか」と話を持ち掛けてきました。
オムロンは昔からスイッチ部品などを作っていましたが、この頃からゲームセンター用のスイッチ類の扱いを始めていました。
詳細は知らないのですが、ゲームセンター向け事業の部署を興したので、スイッチに限らずいろいろやってみようとしていたようです。
オムロンからは、医療機器を作ってきたノウハウもあるので、手相などを取ることができますよ、との話があり、これが「新しい占い」の話と結びついたのです。
とはいえ、僕がプロジェクトに配属された段階で、まだ手相を取る機械も、占いのロジックも、何もありませんでした。
プロジェクトは始まったばかりだったのです。
企画として、スターライトでも企画を行ったB先輩が割り振られました。
B先輩、非常に論理的で、的確なアイディアを次々出す方でした。
スターライトでは、本格派を目指して「神秘的な雰囲気」を前面に押し出しました。
これは雰囲気を出す点では成功だったのですが、ゲームセンターの端に置かれることが多い占い機としては地味すぎて、気づかれにくいものでした。
また、発売後の「反響」として、深刻な人生相談なども寄せられたようです。
それだけ信頼された、というのは嬉しいことではありますが、残念ながらセガはゲーム屋です。人生相談には乗れません。
もっとゲームとして気軽に楽しんでほしいのですが、本格的な雰囲気を出したが故の悩みです。
そこで、手相占いでは明るいポップな雰囲気で、話の種として気軽に楽しんでもらえるものを目指します。
結果的に、これは大成功でした。
全体として、キャラクターはかわいく。
…具体的なキャラデザインは、デザイナーの人に任されました。
こちらも、実は同期の新入社員デザイナーと、先輩デザイナーの2人。企画も合わせて5人の小さなチームでした。
#音楽は、慣例としてゲームが完成に近づいてから人員が割り振られます。
少し赤ちゃんっぽい感じに描いた男の子と女の子をメインキャラに据え、ゲーム内では必要に応じて「筋肉男」「オールドミス」など、極端な性格付けをしたキャラが数人います。
というか、占いゲームで「キャラを立てる」ってこと自体が、当時としてはあまり前例がなかったように思います。
ちなみに、紙切れなどのエラー時には「貧乏神」と呼ばれる謎のキャラが現れます。
ゲームセンターの店員とかでない限り、見たことある人はあまりいないはず。
この貧乏神がふらふらと歩いていくと、歩いた後にお花が咲く。
画面端まで行くと逆端から出てくるのだけど、今度は花に触れると花が散っていく。
…なんて謎の演出なんだ。
この演出はデザイナーの先輩の指示だったように思います。
企画のB先輩は、エラー画面なんてあまり出ないから適当でいいよー、って何も決めなかったのではないかな。
占い監修は、スターライトに引き続き「ディメーレ」という占い会社。
この会社、今では代表者である「ステラ薫子」さんの名前に変わって存続しています。
占い師としては、実際の手相を見ながらでないと文章が書きづらい、というので、AM1研全員の手相がコピー機で取られ、それを見ながら文章を書き、その後で各種手相パターンに応じて分類・修正していく…という作業が行われました。
ゲーム全体の雰囲気に合わせ、明るい口調で言いにくいこともズバズバ言う、というような文体で書かれた文章は、やはりものすごいデータ量でした。
企画課の方で、直接関係なくても手が空いている人はみんな協力して誤字・脱字のチェックを行ったようですが、少しくらい誤字があっても許してあげてください…
しかし、ディメーレの文章は的確で、スターライト・手相、後に作られるもう一つの占いの3部作の評判をいまネットで調べてみても「非常に良く当たっていた」という評価が多いです。
占いのアルゴリズムなどはディメーレがすべて決め、セガとしてはそれをゲーム機の形に組み上げただけ。
良く当たったのであれば、それはステラ薫子さんの力によるものです。
オムロンから手相を実際に取れるハードウェアが送られてきました。
手をカメラで撮影し、生命線・頭脳線・知能線…などの形を分類し、数値化して返してきます。
ただ、このハードの速度が想像以上に遅かった。オムロンの営業氏の最初の約束では15秒程度でとれるはずだったのに、最大1分程度かかるようになっていました。
急遽、この「解析時間」をごまかすための策が練られます。
解析前に、撮影した手の画像を取り出せるようになっていました。
そこで、手の画像を画面に表示し、それをあたかも現在解析しているようなグラフィックを表示します。
…ここら辺、完全に僕のアドリブで作りました。
解析している風の「スキャンライン」を表示したり、エッジ抽出して掌の「線」を際立たせたり。
たしか、まだ稼働している頃にネットで見た感想で、「こんなに荒い画像で手相を検出しているようだが、微妙な手相なんかは潰れてしまうのではないか」とか言っている人もいたように思います。
ご安心ください。あの画像は完全フェイクです。
本当は別ハードウェアの中で時間をかけて丁寧に解析しております。
ところで、ゲーム作っていると、エッジ抽出みたいなグラフィック処理はそれほど使わないものです。
周囲からどうやっているのかと不思議がられましたが、実のところこれもバイト時代にプリンタドライバ書いた延長で、グラフィック処理に興味を持っていたので知っていたという…
バイト時の経験が後々まで役に立ってます。
ある程度完成してきてから、音楽が入れられました。
当時のセガでは、音楽はAM2研にチームがあり、1研や3研はそちらのチームに依頼をしていました。
とはいっても、1研担当と3研担当の人は前もって割り振られていて…事実上、各部署の人材が、2研に置いてある機材を使わせてもらっている、という状態。
まぁ、音楽機材は高価なので部署を超えて共有するのが合理的だったのでしょう。
音楽も、同期の新人が割り振られました。
この占いゲーム、計6人のうち3人が新人と言う、新人だらけプロジェクトでした。
#あとでデザインが3人短期で割り振られるけど、そのうち2人も新人でした。
さて、音楽担当の人なのですが、音楽センスが無茶苦茶良くて、しかも占いでは「好きに作って!」という依頼だったので、のびのびと良い曲を書いてくれました。
最初から「占い結果の概要説明を音声で喋らせる」ことが決定していたため、音楽も CD で演奏することになっていました。
だから、System32 の音源の制約などもなく、本当に自由自在。
これを書く前にネットで評判調べたら、「手相解析中の音楽好きだった」「サントラ出すべきだ」というツイートを見つけました。
3年も前の物だけど、なかなか嬉しいことを言ってくれている。
残念ながらサントラは出ていませんが、効果音以外はほぼ CD からの再生だったので、もし入手できればそのままサントラみたいなものです。
ゲームの性質上、中古基板とかは出回ってないみたいだけど、CD だけどっかにあったりしないもんですかね…
僕は開発時に使っていた CD-R を大切に保管しています。
著作権の問題があるのでとても公開できませんが。
ところで、これもネットで調べたら「解説などの音声は声優の千葉繁さんではないか」と書いている人がいました。
正解です。企画のB先輩がアニメ好きで、「この人しかいない」と決めたものです。
収録時には、本来使う予定ではなかった音声もたくさん取れていました。
NG音声や、その際につい口走ってしまった言葉とか…
音楽担当者が、この本来使うはずではなかった音声をリミックスし、音楽の中で使っていたりします。
データ入力時の音楽で、千葉さんのいろんな声がパーカッションのように使われているのです。
「しじみじゃないんだから」って繰り返す部分があって、どういう文脈で喋ったのだろう?
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手相うらない ちょっとみせて 発表(1995)【日記 15/02/17】
別年同日の日記
申し訳ありませんが、現在意見投稿をできない状態にしています。 【???】 '94年入社だったら、サウンドは同期ではないのでは? ’93年入社のH本A子氏の事ですよね(^^; (2015-08-20 20:03:07) |
20年前に発表された「手相うらない ちょっとみせて」という業務用ゲーム機の話。
#写真は、画面上に貼られたジャンル一覧の紙の一部。
クリックで大きくなります。(相変わらず一部ですが)
ロケテスト用に作られた仮のもので画質が悪いです。
販売時にはもっときれいな印刷だったはず。
ある程度出来上がった段階で、一度ロケテストが敢行されました。
作ろうとしている方向性が「正しい」かどうかを確認することになったのです。
この時点で、占いの主要部分は全部出来上がっていたように思います。
でも、アドバタイズ(誰もゲームをやっていない時の宣伝画面)とか、細かな詰めが無かったのではなかったかな。
明るい雰囲気で、占いだからカップル向けだろう…というので池袋 GIGO がロケテスト場所に選ばれました。
#占いのジャンルの中に相性占いがありました。
たしか、1人用が300円、2人用が500円。
「2人用が高くても、きっと彼女が遊びたがって、彼氏が全額払うから大丈夫」という読みだったはず。
#ロケテストの意義について、近いうちに説明しておきたいとも思いますが、当時はロケテストは「絶対に秘密で行う」のが普通でした。
この時、お客さんの反応を見るために遠巻きに見ていたら、オムロンの営業の方と会いました。
営業の方も気になって見に来ていたのです。
お昼おごりますよ、と言われて近くのレストランへ。
新人のペーペーを接待しても、なにも見返りになるようなことしてあげられませんよ…と思いながら、申し訳ないので「好きなものを頼んでください」と言われても比較的安いものを。
この時は知恵がなかったのですが、今考えると「協力会社の人と昼ご飯を食べた」という名目があれば、会食費全体が接待費として会社持ちなのですね。
営業の方が一人でご飯食べても自分持ちなので、昼食代を浮かすために僕を誘っただけでした。もっといいもの食べればよかった(笑)
ちなみに、僕は「ご馳走になって申し訳ない」と思っていたので、営業の人には開発の状況など、出来るだけ情報提供しました。
ちゃんと仕事上の会食としての要件は満たしてますので、営業の人が会社の金で昼飯食べただけ、ということではありません。
ここ、キッチリ主張しとかないと、当時の営業の人に迷惑かかっちゃうからね。
ロケテストの結果はおおむね良好。
ただ、プリントアウトの待ち時間が長すぎて、「待たされる」感が出ていたのが問題でした。
内部的には、手相データを貰ったらすぐに結果を計算し、印刷を開始していました。
でも、当時のページプリンタでは印刷に1分くらいかかってしまっていたのね。
画面上で結果の概略などを説明しているアニメがあるのですが、これが25秒~40秒程度。
当初予定では30秒程度で印刷が終わるはずで、その時間に合わせてアニメを作っていたのです。
結果、20秒~30秒程度の待ち時間が発生します。
何もしないで待っている時間としては、かなり長く感じる。
そこで、25秒程度で「手相に関するクイズ・雑学」などを出すことになりました。
占いなのに唐突にクイズを出されるのはゲームとしてまとまりのない印象なのだけど、最初から「ごった煮のような雰囲気」でまとめていたので、それほど致命的ではありませんでした。
急遽仕様変更になるけど、メモリとか大丈夫? と聞かれました。
画面周りは僕の管理でしたから。
この時点でグラフィック格納用のメモリには十分な余裕がありました。
そこで「大丈夫です」と答えたのですが、メモリがあいていたのは、絵を描いているデザイナーの先輩が上手だったから、でした。
データをうまく使いまわして、メモリを節約する癖がついていたのね。
デザイナーが3人追加になります。うち2人は同期の新人。
どんどん絵を描いたら、あっという間にパンク。新人は、データ節約テクニックとか知りませんから。
結局、せっかく大量に描いてもらった絵は多くがお蔵入りに。
僕の見通しが甘かったせいでもあり、せっかく描いたのにすみません。
#この頃冬休みに入る直前で、忘年会が行われました。
「せっかく描いたのにひどいよ」と同期のデザイナーに責められながら、しこたま飲まされました。
で、最初に書いた通りAOUエクスポで初お披露目となります。
これが大評判で、たしか4台くらい置いておいたのですが、遊んでみたい人が大勢並び、隣の会社のブースまで列が伸びてしまいました。
隣の会社がどこだったか忘れたけど、迷惑かけて後で営業宛てにクレーム来てたみたい。
実はこの日もまだバグ修正などが行われていて、出来上がった ROM を会場に運び、一瞬機械を止めて裏で交換したりもしていました。
大学祭の時にも発表しながら夜に改良してたりしたので、社会人になってもあまり変わらんなぁ、と思った覚えが。
(でも、そういう「ライブ感」は好きです)
会場に行ったついでに、敵情視察。
他の会社を廻り、類似ゲームなどを確認する、というのは、ゲーム製作者としての大切な仕事でもあります。
この年の AOU ではあまり占いなどは出ておらず、一番「類似」だったのは、シール作成機の「プリント倶楽部」。
まったく注目されておらず、誰も遊んでいませんでした。
…会社で報告書に「類似ジャンルと言っても全く違うタイプだし、競合相手ではないだろう」というような記述をしたと思うのですが、ご存知の通り、これは後に社会現象になるほどのゲームになりました。
ただ、ブームに火が付くのは半年以上後のこと。
手相占いは大評判で、占いゲーム機としては異例なほどの注文が入りました。
元々は、System32 の在庫を処分する、という名目で作られていたのだそうです。
しかし、在庫だけでは足りず、System32 に増産がかかってしまいました。
ある程度売れたら、今度はプリンタが足りなくなってしまいました。
コストの問題もあり、エプソンの2世代前のプリンタを使っていたのですが、エプソン側に在庫が無くなってしまったのです。
1世代前のプリンタが互換品だ、というので、少し高いのですがそちらを搭載する形で生産されました。
こちらのプリンタの方が印刷が速く、「印刷時間待ち」のクイズなどを始めるころには印刷が終わります。
(最初からこれを搭載していれば何の問題もなかったわけだ)
しかしやがて、これの在庫すらなくなります。
現行機種を使えば生産を続けられたのですが、互換品ではなくプログラムを大幅修正しないと動かない、と判ります。
昔のプリンタは、プリンタ内に文字フォントを持っていました。
しかし、Windows 時代になると、Windows のフォントを使って「画像として」文字を表示するようになったので、プリンタ搭載フォントは不要になりました。
しかし、System32 は残念ながら Windows ではないのです。
プリンタ側にフォントを持っていることを前提としてプログラムを作っていました。
まだ注文が入っていたのですが、これで生産終了。
プリンタ問題がなければ、もう少し販売されたのでしょうね。
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別年同日の日記
申し訳ありませんが、現在意見投稿をできない状態にしています。 |
昨日からのつづき。
20年前に作った手相占いゲーム機の開発話書いてます。
(最初から)
#画像は、手相ゲーム機が取り上げられた当時の新聞の切り抜き。
クリックで全体を見られます。
AOU が終わった後で、隠しコマンドが入れられました。
…プログラマーのA先輩の命令により、「普通に操作していても絶対に出ないように」という、複雑な方法で。
ここで、当時の「完成から発売まで」の段取りを書いておかないと話が理解できません。
AM4研という部署がありました。
ゲーム基板ではないほうの「ハードウェア」を担当する部署です。
エアロシティ、アストロシティ、ブラストシティなどの筐体を開発した部署。
UFOキャッチャーなどのエレメカを作ったり、占いなどの特殊筐体を設計する部署。
そして、ROM の大量生産のための窓口となっている部所でした。
ゲーム作成では、プログラムよりもグラフィックやサウンドデータの方が遥かに容量を使います。
そこで、グラフィックデータは安価に大量生産できる、マスク ROM を作成します。
ゲームの完成の1か月程度前にはグラフィックやサウンドを完成させ、この部分のデータを全て EP-ROM に焼きます。
この際、チェックサムも取って ROM 番号と共にシールに書いて、EP-ROMの窓に貼ります。
そして、仮のプログラムを入れた EP-ROM と一緒にAM4研に送ります。
#EP-ROM とは、紫外線を当てることで内容を消去できる ROM です。
内容消去済みの ROM に対し、専用の書き込み機でデータを書き込むことができます。
紫外線を内部のシリコンチップにあてる必要があるため、ガラス製の窓が付いています。
窓にシールを貼る、というのは、データを保護する意味があります。
AM4研ではこの EP-ROM を業者に送って ROM を生産してくれるのですが、ROM を一度生産してしまうとやり直しは利かないため、厳しい「最後のチェック」を行っていました。
もっとも、この段階ではグラフィック・サウンドのチェックのみです。
プログラムはまだ修正可能なので、多少バグが出ても問題ありません。
ちなみに、万が一グラフィック・サウンドに問題があった場合には、パッチデータをプログラム ROM に入れて、ほんの少しですが RAM 領域でグラフィックパターン等を定義できるようになっています。
ROM の大量生産完成までに1か月程度。
この完成が締切になります。プログラムはこの間に最後の追い込み。
そして、完成したプログラムは EP-ROM に焼かれ、またAM4研に送られます。
そして、今度はプログラム内容が厳しくチェックされます。
設定画面などが社内仕様にあっているか、など、最低限の要求仕様を満たしていることのチェックは当然、ゲーム上バグが生じないか調べられます。
ここで、万が一ゲーム上不要と思われる「隠しモード」などが発見されると、これはバグなのか、それとも正常な「仕様」なのかの問い合わせが、部署間で申し送られることになります。
こっそり作ろうとしていたものが、部課長クラスにも知られてしまう、ということです。
ここで話は最初に戻ります。
A先輩が「普通に操作していても絶対に出ないように」隠しコマンドを入れるように指示したのは、上のような心配があったため。
部課長に内緒で作るため、深夜残業中に作られ、チェックされました。
作ったのは、スタッフロールでした。
占いゲームにスタッフロールなんて、本来は不要。でも、A先輩もメインプログラマーをやるのは初めて。
自分が作ったゲームである、と入れたかったんです。
これはナイショで入れたものだけど、もちろんチームの全員が知っていて、協力して作られました。
スタッフロールは、…ぶっ飛んでいます。非常にいい意味で。
デザイナーの手により、顔写真がはめ込まれて「キャラ」に仕立てられたスタッフが登場します。
その際、スタッフごとの「テーマ曲」まで作られ(10秒程度)、スタッフの名前も読み上げられるのです。
#この読み上げは千葉さんの声ではなく、音楽担当スタッフの声。
僕は、宙を飛ぶサーフボードに乗った、銀色のスーツをまとったキャラだったはず。
何でも、僕がいない時にA先輩が「そういうキャラで」と注文したそうで…
銀色スーツは「技術が高すぎて、宇宙人のようだから」、サーフボードは「湘南に住んでるから」のようです。
隠しコマンドは、確か以下の通り。
1) ジャンルセレクト画面で、左キー押しっぱなし。
たしか、ジャンルを3周位させる。
(32マス移動、だったかな。あるところで、小さな音で「カチッ」となったら OK 。回しすぎても問題なし)
2) 今度は右キー押しっぱなし。以降は1周程度だったと思う。
3) もう一度左キー押しっぱなし。
この後普通にゲームを遊び、最後のコンティニュー画面で…
4) 3つのキーを左から2進数の 1 2 4 と見立て、残り時間7秒から、1~7を入力。
(入力するたびに秒数が1減るキャンセル動作が入るため、失敗は許されない)
これでエンディングに入ったはず。
回す順番。右、左、右、だったかもしれない。
同じく、最後は右から 1 2 4 だったかもしれない。
…と書いたところで、多分もう動いている実機もないし、誰も確認できないと思う。
実は、何だったか忘れたけど、プログラムロムの「完成」のあとで、大きなバグが発見されました。
すでに工場での生産がかかった後に。
#もしかしたら、AOU前に生産にかかっていたかも。ここら辺記憶が定かでない。
AOUにもロムを差し替えに行ったので、同じバージョンが完成版かもしれません。
修正版ロムはすぐに出来たのですが、ロムを差し替えたい、という要望に対し、工場から「場所貸すから自分でやれ」との注文が。
#なんか、直前にも別の部署でロム交換作業が発生して、工場としては生産性の上がらない作業に怒っていた模様。
僕は新人社員研修で1年前に行ったばかりの工場でした。
A先輩はその工場に行ったことは無かったらしいのですが、ロムとロムライターとロム消し機を持って、車で工場へ。
製造された筐体は、この時はまだ数十台だけでした。
片っ端からロムを抜き、保護シールをはがし、ロム消し機に入れます。
プログラムは(こういうこともたびたびあるので)EP-ROMです。
EP-ROM は、ガラス窓があって強い紫外線を当てると内容が消えます。
10分ほど当てると内容が消えるので、続いてロムライターへ。
完成したマスターロムの内容をコピーします。同時に 32個づつ焼けたのではないかな。
こちらも結構時間がかかる。
そして、新たなシールを貼り、元の基板に戻し、動作確認。
問題無ければ1台完成。
ロムを抜く人、消して書く人、入れて確認する人。
何人かで手分けして作業し、半日ほどで全部を交換したと思います。
先に書いた通り、このゲームは当時の占い機の常識を塗り替える大ヒットでした。
普通、占い機っていうのはゲームセンターの片隅に1台ひっそり置かれている程度で、それほど儲からないのね。
儲からないとわかっていても、品ぞろえとして入荷せざるを得ない感じ。
しかし、手相占いは大ヒットで、順番待ちの行列ができるときもあったとか。
でも、先に書いたように部材が足りなくなり、注文を抱えた状態のままで「生産打ち切り」にせざるを得ませんでした。
この日記の冒頭の画像、当時の新聞の切り抜きです。
北海道新聞 1995年7月12日、道央圏地方版です。
北海道に住んでいる姉が「新聞記事になってたよ」と送ってくれたもの。
記事としては手相だけでなく、占い機全体について書かれています。
でも、話の中心となっているのは手相ですし、実際手相占いのヒットで書かれた記事でしょう。
「大きな店では3台から10台」は、手相だけではなくて占いゲーム機を複数台、という文脈でしょうね。
手相は上に書いたように、人気があるのに生産できなかったので、これだけで複数台導入は無かったのではないかな。
このゲーム、大ヒットだったので「同じようなのをもう一つ」と要望が多く、しばらく後にオムロン・セガ・ディメーレ(その時は名前変わってた)という同じチームで、「オーラ写真倶楽部」(1997)を作ることになります。
こちらも僕はかかわったのだけど、詳細な話を出すのは20年を超えてからにします。
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別年同日の日記
申し訳ありませんが、現在意見投稿をできない状態にしています。 |
僕の配属されたAM1研がどういう部署だったか、当時の雰囲気を少し書いておきます。
僕が入社する前のことはそれほど知りません。
でも、歴史的に見れば、AM1研は業務用開発の中では一番古い部署です。第1、だからね。
もっとも、最初から第1だったわけではなく、第2が出来た時から第1になりました。これも当然。
第2は、言わずと知れたAM2研。「3Dゲームに特化した研究を行う」名目で、1研から分離した部署です。
実のところ、現在2研の初期のゲームとして知られている多くのゲームが、分離前の時期に作られています。
「鈴木裕作品」と「2研作品」は違うものなのだけど、混同して考えられている。
まぁ、この混同はセガの方針でもあった可能性大です。
詳細は知らないのだけど、セガのゲームの中で「高級ブランド」のイメージを作ろうとした感じ。
だから、AM2研のゲームには積極的に部署名が付けられました。
さらにあとで出来たAM3研もそういう感じ。
(僕の入社時にはすでに3研もあったので、こちらの出来た経緯も詳しくは知りません)
で、AM1研の作品では特に「AM1」を前面に押し出すこともなく、「セガ作品である」という表記になります。
部内では、自分たちはセガとしての商品を作っているのであり、作品に携わった人の個性をことさら強く主張する必要はない、と言う雰囲気でした。
先に書いた、手相を作った時にスタッフロールを隠しで入れたけど、簡単には見られないようにした、というのもそのため。
部署内の雰囲気が「作家性は不要」だったので、スタッフロールを入れることに後ろめたさがあったのです。
まぁ、後には時代の流れもあって多少は開発スタッフが前面に出ていくことになるのですけど。
(雑誌取材で開発者インタビューとかを求められるようになったので、名前を出さざるを得なくなるのです)
作家性を求めない、という意味では、1研はチームも固定していませんでした。
ゲームを作るために人材が集められて、そのゲームが終わると解散する。
別のゲームに携わっている最中でも、これはこの人でなきゃ、ってことになると配置換えになったりもします。
他の部署は良く知らないのですが、2研では新人の時に配属されたチームで固定だった、と聞いています。
チーム内の連携は非常に強くなり、作家性が強くなります。
一方で、チーム間のライバル意識で開発した技術が共有されず、同じ部署内であっても、他のチームに技術的な質問をして「企業秘密」という答えが返ってきたりしたそうです。
1研では、セガのゲームを作っている、という意識があったため、同じ社内である2研や3研に技術を教えることもありました。
逆に教えてもらえることはほとんどないのだけどね。
セガのゲームを作っている、という意識は、「会社として必要なものは請け負う」という意味合いでもあります。
AM2件は3Dに特化した部署でした。
結構3D以外も作ってるんですけど、まぁ当初の設立意図としては明確な方向性を持っている。
3研も2研ほど強烈な方向性は無いものの、やはり方向性がありました。
それに対し、AM1研は「方向性が無い」というのが方向性でした
禅問答みたいだけど、ようは何でもやるよ、ということ。
それが会社にとって必要だ、と上層部が認識し、開発を指示したとします。
2研や3研がやりたければ、そっちでやればいい。でもやりたくない仕事は1研が引き受けます。
これがね、当たり前だけど儲からない仕事ばかりなんだ。
各部署には均一な売り上げノルマがあったのだけど、僕がいた間には1研はノルマ達成したことないんじゃなかったかな。
#いや、1度くらいはあったかも?
2研は大抵ノルマ達成していましたが、それでも達成できないこともあったような…
その程度に厳しい目標なのですが、1研は全然ダメだった。
多分、部長は針のムシロだったと思います。
でも、儲けにならない仕事を上層部から貰ってくる。
自分が取ってきた仕事だから、ノルマ達成できなくても部下を責めるようなことは無い。
会社にとって必要な仕事を請け負うことで、ノルマ未達成の「免罪符」を得ていたのかもしれません。
しかし、結果的に1研の中では伸び伸びと仕事ができました。今更ながら良い部長だったと思います。
会社にとって必要な、儲からない仕事、って何か書いた方が良さそうです。
ゲームセンターが「ゲームをやりに行くところ」だと思っている人は多いと思います。
でも、当時はゲームセンターってもっと気軽に来てもらう空間を目指していたし、実際気軽に入る人がいました。
そうなると、別にゲームが好きなわけでもない、ゲームをしたいわけでもない人もやってくる。
営業のサラリーマンが、次の約束までに時間が空きすぎてるから暇つぶしに来るとか、お母さんが買物する間に子守を頼まれた父親が子供と来るとか。
すると、バーチャファイターとか、グラディウスとか、難しすぎて遊べないわけです。
麻雀とか、野球ゲームとか、クイズとか、わざわざゲームセンターで遊ぶ意味あんの?ってゲームありましたよね。
あれは、そういうサラリーマン向け。
ゲーム内容の説明がなくても、見た瞬間にやることがわかる。ゲームが特に好きでもない人には重要です。
子連れには「アンパンマンのポップコーン工場」とか人気があります。
ゲームですらないけど、ハンドルぐるぐる回すと絵が動くから、子供は遊んだ気になる。
AM1研では、そうしたものの開発を引き受けてました。
(そういうの「だけ」ではないよ。ちゃんと普通の、ゲームらしいゲームも作ってた。)
サードパーティのサポートをやっていたのもAM1研。
もしかしたら他の部署でもやっていたかもしれないけど、大抵は1研に回ってきていた。
サポートって、手間がかかって割には合わない。
でも、ゲームセンターには多様なゲームが必要、という信念のもとでは、割に合わなくてもやらないといけない仕事なんです。
多くの名作、迷作が送り出されました。
迷作は出したくないんだけど、いろいろとやむを得ない事情もありまして…
部内開発のゲームだと、開発中でもつまらないと判断されると即打ち切り、って厳しさがあったんですよ。
でも、他社のゲームだとそういうわけにもいかない。ものすごくつまらなくても販売ルートに乗せたゲームもあります。
逆に、すごく技術力高くて、ゲームも面白かったんだけど、販売できなかったサードパーティゲームもあったな。
勝手に基板改造してたの。これはさすがにルートに乗せられず、発売されなかったはずです。
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まだ新入社員の頃(1994)、時々部署内で「手の空いてる新人手伝って~」という声が聞こえることがありました。
雑用は新人の大切なお仕事です。
僕は手相チームでプログラムやっていましたが、比較的「手が空いている」方でした。
#同期は、ST-V発売同時タイトルのプロジェクトに入ったりしていたので忙しかった。
で、行ってみると単に力仕事の時もありますし、ゲームのテストプレイの場合もありました。
ずんずん教の野望は、入社して配属部署が決まり、はじめて部署内を案内されたときに、すでに完成間近で置かれていたゲームです。
あまりに強烈なゲーム内容にみんなが驚いていると、「あぁ、これは、コアランドの残党が作ったゲームね」と、案内していた先輩社員からさらりとした説明が。
1994年の春ですから、地下鉄サリン事件の1年前です。
しかし、すでにオウム真理教はたびたび問題を起こし、ワイドショー番組などでも繰り返し取り上げられていました。
その世相に、「時事ネタ」として、怪しげな宗教をテーマにしたゲームを作っていたのです。
今見ても珍妙なゲーム内容に根強いファンがいるのですが、当時の世相の中でのインパクトは絶大。
「ほぼ完成していた」のに、本当にそのまま発売してよいのかどうか、意見が噴出してなかなか発売できなかったゲームでもあります。
発売できないから、ずいぶんとテストプレイをやった覚えが。
(最初の頃は暇だったし、テストプレイという仕事が新しい体験だったからよく覚えている、というのもあると思います)
#「このゲームはいかなる宗教とも関係ありません」の表示を入れることと、作ったのはセガではなく「港技研」であることを表記することで、発売を許されたのじゃなかったかと思う。
#20年前の話で、しかもテストプレーしただけで当事者でなかった話を記憶で書いています。
新入社員の頃だから、いろいろな会社間の関係とかわかって無いし。
だからこの日記の内容を鵜呑みにしないように。
コアランド…正確には、「コアランドテクノロジー」っていうのは、「ごんべえのあいむそ~り~」(1985)を作った会社ね。
田中角栄似の「ごんべえ」が、タモリやジャイアント馬場を張り倒しながら金を集めて、自宅に持ち帰って「わっはわっは」と笑うゲーム。
ちなみに、田中角栄って元総理大臣ね。「あいむそ~り~」ですよ。
今の若い子には言わないとわからんかもしれないので書いとく。(若い子はこんなページ読んでないと思うけど)
総理退任後に、米国の航空機会社が全日空に航空機を売り込む際に5億円のリベートを受け取ったのではないか、という疑惑が浮上し、逮捕されています。
いわゆる「ロッキード事件」です。
1983年に一審で有罪判決が出て即日控訴。1985年は、この控訴審が始まった年です。
そこに「田中角栄(に似た人)がひたすら金を集めるゲーム」を発売するという危なさを考慮すると、よりゲームの内容が楽しめます。
#「自宅」が国会議事堂そっくりだったりする面もあるしね。
ところで、コアランドはセガと仲の良い会社で、「ペンゴ」とか「青春スキャンダル」など、まともに面白いゲームも多数作ってますよ。
「ごんべえ」のような危ないネタの方が、むしろ珍しい。
このコアランド、1989年にバンダイの子会社となり、「バンプレスト」と社名変更しています。
ただ、この時に結構人材が流出していて、その一部が「港技研」という会社と合流してゲームを作ったようです。
それが「ずんずん教の野望」。
先輩が「コアランドの生き残り」と言ったのは、「ごんべえのあいむそ~り~」を念頭に置いたものだったのだと思います。
両方とも時事ネタの危ないゲームだから。
#危なさで言えば、チェルノブと同じ危険な香りを感じました。
X68k ユーザーだったから、天安門とか知ってたけど、市販ゲームとはまた違う話だから。
#ちなみに、バンプレストになってもしばらくはセガと仲が良く、AM1研が作った「わくわくトーマス」はバンプレストから発売になっています。
後にセガとバンダイの合併話が出たこともあったよね。結局バンダイはナムコと合併したけど。
さて、ずんずん教ですが、世間では「愛すべきクソゲー」という評価のようです。
見るべきところはある。でも、遊んでもそれほど面白いゲームではない。
でも、仕事だと延々と遊ばないといけないんですよ。
正常に最後まで遊べるか、を調べないといけないから。
このゲーム、1周すると偽のエンディング、2周で真のエンディングとなります。
だから、2周しないといけない。
でも、2週目とか難易度すごくあがるのね。
とにかくコンティニューで押して…とかだとダメ。スコアリセットされちゃうから。
「2周ノーミスクリアしたらスコアがあふれておかしなバグが出ました」とかは困るから、ちゃんとノーコンティニュークリアしないと。
僕はとてもそこまで行けませんでした。
コンティニューして1周クリア、がやっとだったのではないかな。
しかも、僕はテストプレーと言うのがそれほど上手ではなく、つい「普通に」遊んでしまうのですね。
上手な人は、高い難易度のゲームの中で、さらに変な「縛り」を付けてプレーする。
あえて敵を倒さずに逃げ回りつづけたりとかね。
そうするとバグが出る、ということもあるのです。
#ギャラガ1面で編隊左下の敵を1匹残して15分逃げ続ける、とか有名なバグですね。
ギャラガの場合、どういう理由かその後敵が一切弾を撃たなくなります。
そんなことも想定しながらバグが出ないか確認するわけです。
ただ、サードパーティゲームにそんなに労力を割いていたのは、この頃までなのね。
各部署に均等に売り上げノルマが割り振られたことと、ちょっとした事件があったことで「サードパーティのサポートに手間をかけるのは割に合わない」という考え方になったようです。
ダメ押しに、社内で新たな事務処理の部署を作るため、この頃サードパーティサポートを一手に引き受けていた社員がそちらに移動になってしまったのね。
#サードパーティのサポートは事務仕事も多く、経験があるため選ばれた模様。
事件の話は、またそのうち書ければ、と思っています。
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思い出話、基本的に時系列で行きたいと思っているのですが、順序について記憶が定かでない部分もあります。
また、20年も前の記憶で書いているので、事実と違う可能性が高いです。
内容を鵜呑みにせずに、興味があるなら他の情報源を出来るだけ当たってください。
#僕の個人史みたいなもんなので、話半分に楽しむのが一番良いでしょう。
さて、先日「ずんずん教」を書きましたが、はじめてずんずん教を目にしたとき…つまりは、新入社員として部署内を案内されたときに、メインで見せられたのはWING WARでした。
というか、WING WARの部内テストプレイ筐体の隣に、ずんずん教が置いてあったのね。
ずんずん教はこの時点でほぼ完成で、その後すぐに発売されたので先に書きました。
WING WARは、飛行機でのんびりと空中戦を楽しむゲームです。
一人でCPU相手でも、二人で対戦でもできます。
海外ではなんだか2研作品だと思われているみたい。上にリンクした Youtube 動画の説明も含め、そう書いてあるページが多いです。
Wikipedia 英語版にそう書かれているから広まっちゃったみたいですけど、1研作品です。
本格派のフライトシミュレーター…ではなく、業務用ゲーム機として、短時間で楽しめるように簡略化されてる。
地上の建物にぶつかっても問題ないし、複葉機とハリアー戦闘機が同列に闘えたりする。
建物に当たったり撃たれたりしたとき、ちょっとコミカルな動きをするあたりが1研流。
ゲームモードは2種類あります。
「ドッグファイトモード」は初心者向けです。
しばらく相手を撃ちまくったら、攻守交代して相手から逃げ回るようになる。
これを数回繰り返すだけ。
でも、単純だから非常に面白い。
「エキスパートモード」は、真面目な空中戦ゲーム。
自由空間で飛行機を操作して、相手を見つけるところから始めなくてはなりません。
まぁ、どちらに相手がいるかはわかるようになっているんだけどね。
自由な分だけ難しく、でも慣れるとどんどん高度なテクニックが使えるようになる。
最初に「のんびりと」と書きましたが、1対1の空中戦って、案外のんびりしてます。
相手だけに注意を払いつつ、空中では機体の制御にも強い慣性がかかるので、思ったように動けないんだよね。
発売は初夏の頃だったような…Wikipedia によれば6月だったようですね。
部署に配属されてすぐの頃です。
WING WARは MODEL1 で作られていましたが、すでに4月に後継基板の「デイトナUSA」がAM2研から発売になっています。
つまり、WING WAR発売時点で、すでに MODEL1 は旧世代基板。
技術とゲームの面白さは関係ない、と強がりたいけど、当時はポリゴン3Dはまだ目新しく、むしろゲーム内容よりも技術で驚かせることが重要でした。
#もちろん、ゲームがつまらなくてはダメなのですが、見た目が重視されるジャンルでした。
MODEL1 って、テクスチャ無いから見た目は地味です。
1対1の空中戦、というテーマも地味で、それほどヒットしませんでした。
先に書いたように、結構のんびりしていてゲームとしての「激しい体験」が少ないのね。
でも、遊んだことのある人は皆「名作」だと言ってくれます。
そういうゲーム。
僕はドッグファイトモードが好きで、部内テストプレイ筐体で良く同期と遊んでいました。
エキスパートモードは、ちょっと難しすぎたように思います。
ちなみに僕、3Dは苦手です。でも、ゲームは好きだから、それなりに3Dの文法はわかっている。
それでも難しいと感じるのだから、業務用としてはちょっととっつきが悪かったと思います。
まぁ、それがわかっているからドッグファイトモードを設けてあったのですが。
WING WARの発売後、夏の…ちょっと暑い日だったと思います。
午前中に「新人手伝って~」の声。
行ってみると、「ちょっと別の場所まで歩くから」と、会社近くの倉庫まで連れて行かれます。
ってことは、機材運ぶ力仕事だろうか。
いや、違いました。
「WING WARの R-360 版がほぼ完成したのでテストプレイです」と説明を受けます。
チーム内の人でテストしてきたけど、連続してプレイすると疲れるから新人に頼む、とのことでした。
R-360 が1台。
もう一台普通筐体が近くに置いてあって、対戦できるようになっていました。
R-360 は2軸回転だけど、ゲーム上飛行機は3軸回転するので、できるだけ2軸回転ではできないような動きを心がけて、と言われたように思います。
…といわれても、どうすればいいのかわかりません。
いろいろ操作したように思いますが、それほど違和感は感じませんでした。
ゲーム上の3軸回転の動きを、違和感ないように2軸回転で表現できているのね。
とにかく、2軸で出来ない動きということは、激しく回転していればいいわけだ…
と、空中で回転して頭が下になった時、非常停止ボタンを押されます。
「わー、なんとかしてくださーい」と言うものの、「いや、非常停止ボタンもちゃんと動くか確かめないとね」と外で先輩が笑っています。
実際の話としては、2軸回転とと3軸回転が「微妙にずれる」ような動きを見事に起こしたので、停止して内部パラメーターなどを確認したかった、ということのようです。
たしか、10時ごろからテストを開始して、午前中いっぱいやって「昼ご飯の時間だから」終了したのではなかったかな。
同期と2人で、前半は同期が、後半は僕が R-360筐体に入っていました。
で、1時間連続でぐるぐる回されていると、流石に気持ち悪くなります。
さらに、暑い日に冷房のない倉庫にいたので脱水症状気味。
気持ち悪くてお昼ご飯食べられなかった覚えだけが残っています。
こんな個人的な事もあって、WING WARは直接は関係していないけど、今でも好きな思い出のゲーム。
でも、家庭用には移植されていないし(Super32X で移植話があったけど、結局出なかった)、また遊ぶのは難しそう。
愛知の日本ゲーム博物館さんに置いてあるらしいのですが、遠くてとてもいけません。
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イチダントアールは、WING WARと同時期の発売だったと思います。
続編なのでその前から説明した方がいいでしょうね。
1993年に、AM1研から「タントアール」というゲームを発売しています。
キャラクターが探偵風だったから、タントって探偵の意味合いだと思ってた。
でも、単に「たんとある」(沢山ある)だったのですね。
その名の通り、たくさんのゲームが入ったミニゲーム集です。
#ちなみに、キャラクターは「ボナンザブラザース」(1990)のイメージを引き継いでいます。
これ以前にも、家庭用ゲーム機には「ミニゲーム集」というソフトはありました。
でも、単にいくつかのゲームが1つのタイトルに入っている、または順次遊べる、という程度で、ゲーム間のつながりは重視されてないのね。
(Puzzle Panic(1984)、ナゾラーランド(1987)、クニちゃんのゲーム天国(1991)など)
タントアールは、数秒で終わるミニゲームがたくさん入っていて、1つのゲームが終わったら次のゲーム、と次々とクリアしていくスタイルでした。
次々と違うルールのゲームが出てくるのを、瞬時に把握して対応していかなくてはならない。
ここに適度な混乱が生じて、自分でも思わぬ凡ミスをしてしまうのが面白い。
でも、1つづつのゲームは単純でそれほど難しくないし、非常にテンポがいい。
今では、ミニゲーム集の多くがそういうつくり方になってます。
その元祖となるのが、タントアールでした。
1個づつのゲームは単純で把握しやすいけど、テンポよく遊んでいくと適度に混乱して難しい。
一つのゲームをやり込みたいゲームマニア向けではありません。
主にゲームマニアの視点で語られがちな「ゲームの歴史」では、それほど注目されない作品。
でも、実は大ヒットでした。
ゲームセンターに来た一般客からすると、1個づつのゲームが簡単で、ルールが把握しやすいゲームは好まれたのです。
特に、2人用で対戦した時の盛り上がりはすごい。
ゲームが単純なだけに、負けると自分が「簡単なこともできないダメ人間」みたいなのね。
ものすごく悔しくて、絶対負けられない雰囲気。
この雰囲気が嫌だからこのゲームやらない、って人もいましたけど。
#ミニゲーム集全般にいえることですね。
当然続編が企画され、それがこの「イチダントアール」です。
たんとある、に対して、一段とある、っていうわかりやすい名前。
ちなみに、ゲーム内のミニゲームには全て名前が付いていますが、こちらもダジャレばかり。
くだらないダジャレばかりなのですが、テンポ良く出されるとなんか面白く感じるんだ。
「デートなUFO」なんて、BGMもデイトナUSAのアレンジになってる。
「ベートー弁当、うんめぇ~」とか「機関車トーマラズ」とか、ダジャレとして結構好き。
ミニゲームの内容・タイトルを、企画全員で考えていたように思います。
こういうのって、一人で考えていてもなかなか出てこないから、とにかくみんなで考えて、数ある中から面白いものを採用、っていうスタイル。
ただ、イチダントアールの発売は6月のようですから、部署に配属されたときにはすでに最終段階だったはず。
さらに続編の「2度あることはサンドアール」と記憶が混ざっているかも。
イチダントアールのマスターアップ前日、手の空いているものはテストプレーに参加していました。
そんな時、大バグが…
たしか、最後のボスとの対決の最中に、おかしな現象が複数同時に起こったのではないかな。
「うわー、締切直前なのに大変だ」と僕が言ったら、企画担当の人が「いや、こういうのは案外1つの原因で、簡単に直るもんだよ」と。
実際、メインプログラマー氏が15分後くらいに「差し替えるよー」と新しいロムを持ってきました。
ロム焼くのにも時間がかかるから、ほんの数分で直したのではないかな。
これで、バグはちゃんと治ってました。
部署配属直後のことだったので、さすがプロだなぁ、と感心したのですが、そのうち自分でも同じようなことを良くやるようになります。
#バグは出ない方がよいのだけど、簡単に直る単純なバグを良く出したのね…
関係ないけど、同じAM1研作品のゲームで「クイズ宿題を忘れました」「クイズ廊下に立ってなさい」というものがありました。
僕が入社するより前のもので、ゲーム開始時に生まれ年を入れ、その人の「小学生時代」の流行などに関する問題ばかり出す、という変わったクイズゲーム。
絶妙に懐かしい問題ばかり出てくるのが楽しい、というゲームでした。
後にサターン版が発売されたとき、タントアール・イチダントアールとカップリングになったのね。
4つのゲームを、2つのタイトルにまとめて出した。
そのタイトルが「宿題がタントアール」「廊下にイチダントアール」。
4つのタイトルをくっつけて、2つに分割し、なんだかつながった文章にしてしまう。
ここにもすごいダジャレ力を感じました。
ついでに書いときます。
上の2つのクイズゲームの問題だけ流用して、1994年に別のクイズゲームが作られてます。
「クイズゴーストハンター」ってやつ。
サードパーティの作品で、1研ではサポートしただけ。
クイズゲームって、問題を作るのが一番手間がかかる部分なのね。
それでいて、グラフィックやストーリーは見てもらえるのに、問題はあまり気にしてもらえない。
だから、サードパーティに問題データを渡して、手間を省いたようなのですが…
このゲーム、プレイヤーの年代聞かないで、問題を完全にランダムで出すんだよね。
年代ごとに用意された、他の年代だと全く意味の解らないような問題を、全年齢にランダムで出す。
クイズとしては、面白くもなんともないし、不条理すら感じるものになっていました。
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ワンサガン…このゲーム、世に出ていません。
ロケテストまでは行ったのだけど、成績が悪くて「開発中止」と判断されたゲーム。
でも、ネット調べるとそれなりに知っている人いるのね。
「ガンバレットもどきだった」という評価で、真似したけどうまくいかなくて辞めたんだろう、という人も。
これ、勘違いですよ。
ナムコのガンバレットは、1994年10月発売。
ワンサガンは、僕が入社した直後にロケテストやって「開発中止」になったので、1994年初夏頃にはある程度開発が終わってます。
1991年のナムコの「スティールガンナー」、1992年のコナミの「リーサルエンフォーサーズ」によって、ガンシューティングゲームのブームが起きつつありました。
そこで、各部署にもガンシューティングを作れ、という社内命令が出ていたようです。
#AM2件からも、1994年にバーチャコップが発売されています。
ところで、先に「イチダントアール」で書いたように、1993 年にAM1研から「タントアール」を発売しています。
ミニゲーム集の元祖であり、ヒット作でした。
じゃぁ、タントアール風のガンシューティングミニゲームを作ろう、と考えだされたのがこのゲーム。
「たんとある」(沢山ある)に対して、「わんさかある」ガンシューティングでした。
「ミニゲーム集」と「ガンシューティング」のブームは業界にいれば誰でもわかるでしょうから、ガンバレットと内容がかぶっているのも不思議はありません。
上に書いたように、ワンサガンの方が少し先に開発しているようですが、ガンバレットが真似した、というわけでもありません。
部内でテストプレイを何回かやりましたけど、結構テンポがよくて楽しいゲームだったように記憶しています。
タントアールもそうなのだけど、ミニゲーム集の場合、次々ゲームを出してくるテンポが結構大切。
すでにヒットゲームを出しているので、そこらへんは上手でした。
部内の開発では、メガドライブ(メガCD)用の「リーサルエンフォーサーズ」用の光線銃が使用されていました。
でも、この光線銃「KONAMI」って刻印入ってるんだよね。。
ロケテストに際して、この銃を使うわけにいかない。
そこで、筐体などを作成しているAM4研に、ロケテスト用の仮筐体つくって、とリクエストが飛びます。
ミニゲーム集なので、「拳銃らしい」デザインよりは、もっとかわいらしい銃をお願いします。
4研の方で、何やら非常に古いゲームで使われていた銃の部品を見つけてきたようです。
何のゲームかわからないけど、昔のエレメカで、銃が筐体に固定されていたタイプだったみたい。
固定されていた銃だから、非常に重いです。取り回しのことなんて考えていません。
ゲーム自体のテンポが良いだけに、銃を左右に振り回さないといけないようなゲーム内容もあります。
銃が重いと、とてもついていけない。
さらに不運が重なります。
古い銃だから電子部品がすでに劣化していたようで、開発部署内で試験していたときにはちゃんと遊べたのに、お店ではちゃんと動かないのです。
これは、お店のご厚意で「せっかくロケテストなのだから、目立つところに置きましょう」と、入り口近くの明るいところに置いてくれたせいでもありました。
光線銃は画面からくる走査線の光を認識しているので、周囲が明るいとうまく動かないのね。
誰一人悪意はありません。だけど、全部が悪い方向に動いてしまった。
「誰か手の空いてる新人~」といういつもの声に上司のところへ行くと、工具一式持って上野行ってきて、と言われます。
わけのわからぬまま上野のゲームセンターへ向かうと、ワンサガンの企画の人が筐体の近くで弱り果てていました。
全然うまく銃が反応しないので、仕方がなく「調整中」張り紙を貼っている、とのこと。
工具が届いたので何とかならないかと、いろいろと調整するのですが、結局どうにもなりません。
その後、一緒に電車で会社に戻りましたが、企画の人は弱り果てていてかける言葉も見つかりません。
結局、その後も店舗では「調整中」のまま、予定を切り上げてロケテストは1日で終了したようです。
#夜になって暗くなったら少しくらい遊べたのかな?
当たり前のことですが、お金は全然入りません。
企画者はハードウェアの不調でどうしようもなかった、と説明したようですが、そのまま開発中止が決まりました。
この後も、いくつも開発中止のゲームを見ていますが、入社した直後だったこともあり、ここまで完成していて「開発中止」があるとは思ってませんでした。
社会の厳しさを教えてくれました。
補足しておくと、「機械の不調」というトラブルが理解されないで開発中止になった、という単純な話ではないと思います。
開発費はそれなりに投じているのだから、上層部だって発売して資金を回収したい。
中止の真意がどこにあるかはわかりませんが、店舗でトラブルが起きたという事実を重く見れば、ハードウェアに問題があるのでソフトが完成してもすぐには出せない、ということだったかもしれません。
で、延期している間にガンバレットが出て、内容がかぶっているから完全に発売中止、とかね。
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クールライダーズの発売はいつ頃だったかな…
ネット上の資料を見ると、発売時期が1994年4月説と、1995年4月説があるようです。
でも僕、入社(1994年4月)後にテストプレイしてたよ。どんどん改良されて面白くなっていく過程も見ている。
1995年までは食い込んでいなかったはず。タイトルのコピーライト表記も1994だし。
お盆休み明けにはまだテストプレイ筐体が置いてあったけど、秋にはもうなかった気がする。
夏の終わりごろに出たのかな。
#後日追記
クールライダーズの販促チラシに、1995.4 という表記があるようです。1995年4月説はおそらくこれが元。
でも、画面には 1994のコピーライト表記がある。1994年4月説は「4月」を信じた上で、年だけをコピーライト表記に合わせたのでしょう。
実際には、チラシが作られたのと発売タイミングは違っていた、というだけかと思います。
ゲーム内容ですが、拡大・縮小スプライトを使った…つまり、2Dハードで作られた3Dレースゲームです。
アウトラン(1986)とか、ラッドモビール(1991)みたいなゲームね。
系統としてはアウトランナーズ(1992)の続編にあたります。
見比べてみるとゲームの核の部分はだいたい一緒、ということがよくわかります。
ちなみに、アウトランナーズ自体AM1研の作品。
#アウトランは、部署が1つしかなかった頃の作品。AM1でも2でもないです。
そういうゲームを1994年に出す、というのは、すでに時代遅れでした。
ポリゴンハードウェアが出てきた初期の頃は、まだバーチャファイターのような人型を動かすゲームは難しく、主なゲームはレースゲームでした。
クールライダーズが作られていたのは、そんなポリゴンレースゲームが次々発表になっている頃。
真面目にレースゲームをやりたい人は、もうポリゴンで作られたものしか眼中にありません。
なので「真面目なレース」を求めていない層に向けて作られました。
もうね、めちゃくちゃなの。激しく抜きつ抜かれつしながら、世界中を数分間で走り回ってしまう、という内容。
この「世界中」も、ナイアガラの滝の上を走ったり、イギリスならネッシーが首を出すネス湖のほとりを、中国なら自転車の交通ラッシュの中を、日本なら忍者が走り抜ける座敷の中を、って、明らかに間違った世界イメージをわざと打ち出している。
詳しくは、こちらのページやこちらのページを読んだ方がいいでしょう。
「クソゲー」とか「馬鹿と紙一重」と言いながら、クールライダーズが愛されていることがよくわかります。
どちらの方も、このゲームの世界観を非常に良く伝える文章です。
このゲーム、使用基板がとても変わっています。H1ボード。テレビゲームで使われたのはこれ1作だけ。
#後にコインゲームで使われていたはずですが。
H1のHは Hi-Vision のH。当時は「ハイビジョンの時代が来る」と言われていて、ハイビジョン対応で開発された基板です。
でも、ハイビジョンの時代はまだまだ先だった。
はっきり言ってしまえば、「その時」に備えて、ハード作成者が技術を習得するための試作品でした。
試作品といっても、開発して終わりじゃない。
それが十分量産可能であることを確かめないといけない。
つまりは、ハイビジョン時代なんて来てないのに、ハイビジョン対応基板をたくさん作ってしまったのですね。
作ったからには使わないといけない。
「この基板の機能を活用できるゲーム、なんか作って」と注文が来るわけです。
#当時、各社がこぞって「ハイビジョン対応ゲーム」を試作・発表していました。
ちなみに、今の「デジタルハイビジョン」とは違う、アナログハイビジョンね。
1993年には、ハドソンがハイビジョン対応ボンバーマン作って、かなり話題になりました。
ハイビジョンはモニタが非常に高いです。
そこで、H1では、もう少し解像度を落とし、 24KHz モニタ2画面の同時出力モードも持っていました。
1枚で2画面の「対戦ゲーム」が作れます。
ついでに、通信機能もついていましたから、それも活用すれば最大基板4枚、8人同時プレイに対応できます。
#1枚で2画面出力・通信もできる、というのは System 32 multi が持っていた機能。
その基盤の出力解像度を上げた、と考えることもできます。
ただし、まだ最新ボードで、製造コストに加えて開発コストが上乗せされてるため、ボード単体でも高価です。
そこにゲーム開発コストを載せて、十分値段に見合うゲームを作らないといけない。
でもこのボード、ポリゴン3Dが普及しつつある時代に、スプライトの機能が充実した2Dボードでした。
だって、「ハイビジョン対応」が新しいチャレンジなのに、さらにポリゴンなんて最先端機能入れたら収集付かなくなるもの。
まぁ、それは開発側の都合。
一般的に見れば、値段はバカ高いのに時代遅れの基板、というだけです。
ゲームなんか作っても、普通に考えてお店は買わないよね。
それでも納得して買ってもらうためには、他にはない強烈な個性を出さなくてはならないわけです。
3D全盛の世の中に、2Dじゃないとできない! すごい! ってゲームを作る。
その答えが、バカバカしい、「ありえねー」と笑いながら遊べるノリのゲームなのでした。
実際、クールライダーズは非常に強烈で、遊んだ人の記憶に強く焼き付いているようです。
上に書いたような理由で、お店があまり買ってくれなかったから、そもそも遊んだことある人少ないだろうけどね。
開発の中盤、部内でテストプレイ位は出来るようになったけど、まだまだゲームバランスなどは取れていなかった頃は、グラフィックが強烈なだけで、案外普通のレースゲームでした。
ただ、順位効果がすごく強いのね。負けてる人ほど速く走れる。
だから、抜きつ抜かれつのレース展開になるようにはなってました。
真面目にタイムアタックするようなレースゲームではなくて、みんなで楽しむゲームだ、ということですね。
この方向性は最初から定まっていたようです。
ある時、分岐点に大量の「矢印を持ったお兄さん」が配置されました。
この人たち、ぶつかるとポコポコ音を立てて吹っ飛び、道に転がります。
なかなか衝撃的な絵でした。
全体に実写の取り込みで作られているから、人が立っていたら人だと思うわけです。
でも、ぶつかったらポコポコ飛んでいく。
2Dゲームだから、この人たちただの板です。その板が実物である、というゲーム中の了解をあえて破り、ただの板のように扱ったのです。
それ以降、どんどんそんなノリが増えていく。
わけのわからんキャラクターが画面狭しと暴れまわるようになっていく。
で、ある時急にゲームの展開が激しくなりました。
どうやら、自分の「速度」にたいして、画面上の進む距離を倍にしたようでした。
きっと、いろんなステージをすぐに回れるように、デバッグ用の設定なのだろう…と誰もが思ったら、企画者から「これが正常な速度だよ」と。
あり得ないような展開、テンポの良いゲーム運びを実現するために、倍速で動くようにしたら面白いからこのままいく、という判断でした。
最初は違和感を感じたけど、慣れると実際テンポのいいゲーム展開なんですね。
その昔、アマチュアCGアニメーションコンテストの入賞者が、「自分で作った動画を2倍速で回すとテンポが良くなる」と言っていたのを思い出しました。
自分で苦労して作ると、ゆっくり細かなところも見てほしいと思ってしまう。
でも、あえてそこを2倍速にするくらいでちょうどいい、という話。
2Dスプライトの拡大縮小で3Dを表現している、というのも上手に使っています。
つまりは、計算で3Dを出しているわけではない「嘘」があるのですが、この嘘によってすごいスピード感を演出しているのです。
ちゃんと計算すると、遠くのものはゆっくり動きます。これは当たり前の話で、ゆっくりなのでスピード感は出ません。
WING WARが飛行機の激しい空中戦なのにのんびりしているのはそのため。
でも、アフターバーナーは「嘘の」3Dなので、すごいスピード感です。
本当なら遠くでも見えるはずなのに、ある程度から先は見えないことにしているの。
だからゆっくり動くことはありません。スピード感を演出できます。
ポリゴンでやったら、急に敵が出てきておかしいわけだけど、2Dならごまかしも利く。
クールライダーズは、見事にその時主流だった「ポリゴンレースゲーム」ではできない世界を作り上げて見せたのです。
詳細は知らないのですが、今になって思うと、開発コストを下げるのは至上命題だったのかな、とも思います。
先に書いたように、基板が時代遅れなのに高いから、ゲームの開発コストを下げないと売れない。
CPU が違うから、アウトランナーズのプログラムをそのまま使うことはできなかったはずです。
でも、ほぼ同じシステムを移植することから初めれば、少なくともゲームの調整は「ある程度できている」ところから始められる。コストが削減できます。
そして、グラフィックは基本的にすべて実写取り込みでした。
全部描くよりも、取り込んでちょっと調整する、というだけに留めれば、グラフィック作成効率を上げられます。
当時、セガの重役が「アメリカではモータルコンバットが売れている。どこが面白いのかわからないが、ヒットに学ぶ必要はある」と言っていたのを覚えています。
もしかしたら、実写取り込みは上層部の指示であった可能性もあります。
この実写取り込み、参加する「ライダー」などはプロのモデルさんも頼んだけど、ある程度は社内・部内の人だったはず。
この記事書いていて思い出したけど、たしか一人は「ちょっとみせて」の最後に参加して絵を手伝ってくれた同期。
#「ちょっとみせて」のスタッフロールでも、彼はクールライダーズの格好・音楽で登場していたのを思い出しました。
たしか、トライク(3輪バイク)に乗っている親子の子供の方は、部長のお子さんじゃなかったかと思います。
別に部長が子供を出したがったとか親ばかな理由ではなくて、モデル事務所に子供がいなかったのだと思う。
#子役って、普通は子役専門事務所になる。
先に「親子連れ」ってイメージがあったので困って部長に相談したら、じゃぁうちの子連れてくるよ、とかそんなの。
バカバカしいものって、実はかっこいいものよりも作るのが難しいです。
ストーリー漫画よりナンセンスギャグマンガの方が難しい、というのと一緒。
ここら辺、作る現場の人でないとわからないかもしれないけど。
その点において、クールライダーズをまとめた企画の人は、すごい力量の持ち主でした。
こんな無茶苦茶なものを、ちゃんと面白いゲームとしてまとめ切っている。
細かなテクニックなんて不要です。
ガンガン障害物にぶつかってもすぐにゲームに復帰できますし、どんなに他のプレイヤーと離れても、順位効果が強いからすぐに追いつける。
それじゃぁ大味なゲーム展開になるのではないか、とおもいきや、実はちゃんとテクニックがある人は速く走れるようになっている。
順位効果は強いけど、先頭が「見える」範囲まで近づいたら後はテクニックが物を言う世界。
障害物にぶつからずに走れる人が、結局1位を取るんです。
ここでも、「初心者でも勝てるチャンスがある」けど「努力は評価される」といううまいバランスを作っている。
そして、こんなレースをやっている間に、世界中の名所が、あり得ないビジュアルで目まぐるしく移り変わる。
ゲームに集中していても、その世界が異常だと気づくくらい異常。
ナイアガラの滝とか、滝のすぐ上を走っていくんだけど、落ちても大丈夫。
落ちると空中をどんどん落ちて行って…ドスンと落ちると、またコースの上です。一体どうなっているの?
深く考えてはいけません。「なんじゃこりゃ、ありえねー」と笑いながらゲームを続行するのが正しい。
こんなゲーム、なかなか作れるものではありません。
この世界観を「最初から」目指して作っていたら、多分悪ふざけが過ぎるだけのクソゲーになるよ。
先に書きましたが、途中のテストプレイ段階では、十分に普通のレースゲームだった。面白かった。
でも、そこから世界観が無茶苦茶になるようにあえてゲームを壊し、速度を倍にするような危険も犯しています。
一度完成したものを壊していくって、作る側としては本当に怖いよ。
そして、ゲームの根幹部分はちゃんと「面白い」まま残して、見た目だけでも笑いを取れるゲームに仕上げる。
これが、ただの悪ふざけとは違う部分です。
企画者の腕が良くないと作れない。
WING WARは別の企画者ですが、似たような部分があります。
シリアスなはずの空中戦なのに、どこかコミカルなゲームでした。
タントアールだって、ダジャレ満載だし、ゲーム内容単純すぎるし、ふざけているように見せかけて結構熱いゲームになっている。
こういうノリ、当時のAM1研が最も得意とするところでした。
関連ページ
Windows で、二つのネットワークにまたがる VPN 設定を行う【日記 16/12/02】
Harley-Davidson & L.A. Riders【日記 18/02/16】
別年同日の日記
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たしか、1994年の秋ごろに出たのではなかったかな。
スタックコラムスはコラムスの続編なので、歴史の流れから、ざっと説明しましょう。
僕が入社するずっと以前の話なので、間違っているかもしれませんが。
1988年にテトリスが発売になります。作成はAM1研。というか、まだAM全体で1部署だったと思う。
この業務用のテトリスが大ブームとなりますが、ファミコンやパソコンで発売されたBPS版テトリスと、ゲームボーイで発売された任天堂テトリスの3社を比べると、ルールがかなり違うのがわかります。
共通するのは、「7種類のテトロミノを横10マスのフィールドに積み上げ、横1列揃うと消える」ということだけ。
BPS版では、25列消すと次の面へすすむ、面が進むと最初から「ゴミ」がつみあがっている、というアレンジでパズル性が強くなっていました。
任天堂版は、ゲームボーイの特性を活かすため、対戦できるようになっていました。
そして、セガ版はアクションゲームの側面を強く出していました。
ブロックの落ちる速度の「最高速度」は非常に速く、その代わりにブロックが接地してから固まるまでの時間的猶予があります。
さらに、この接地時でも回転できるように、ブロックの回転は数学的な意味での「回転」にはなっていません。
また、速度が遅い際にブロックを「速く落とす」指示をしても、一気に接地するわけではなく、単に高速度で落下するだけです。
#原作では、早く落とす指示は一気に接地する。
PC版などでもこれと同じ操作になっていた。
…細かな点はいろいろあるけど、これらはセガのテトリス独自のルールでした。
しかし、以降の落ち物パズルでは、みなセガのテトリスに準じたルールで作られます。
セガからも、テトリスのヒットで続編が作られます。フラッシュポイントとかブロクシードとかね。
フラッシュポイントは、パズル性を強く打ち出した作品。
ブロクシードは、対人対戦できるようにした作品です。
でも、根本的に「テトリス」の版権が不明瞭で、任天堂とトラブルになったのは結構有名な話。
コラムス(1990)は「続編」というか、落ち物パズルを展開するうえでセガが完全に権利を買い取ったゲームです。
テトリスで権利の管理が甘くて問題が出たから、ちゃんと権利を買い取ったんだね。
ちなみに、原案はヒューレットパッカードに勤めていた、Jay Geertsen が 1989年に考えたゲーム。
原作時点ではそれほどゲームとして面白くなかったようですが、テトリスと同じようなアレンジを加えて、アクションゲームとして洗練させました。
#原作は X-window 用に作られたようだけど、比較的忠実移植と思われる 最初期の DOS 版は入手可能。
DOSBox を使えば今でも遊べます。
「面白くない」ことを確認するために遊ぶにはちょっと準備が大変ですが、興味ある方は是非。
#2016.2.10 追記
上記リンク、ページが消えたようで、アーカイブページにリンクしています。
ブラウザで遊べる初期バージョンのエミュレートもありました。
上に書いた最初期のものではありませんが、セガが手を加える前のコラムスの…イマイチ面白くない感じは味わえます。
コラムスの魅力は「連鎖」が起こること。これはテトリスには無い要素だけど、やはり今の落ち物パズルではなくてはならない要素。
コラムスはテトリスほどのブームを生み出せなかったけど、実は地味に支持され続けたゲームです。
後の話になりますが、1995年ごろには、業界紙に毎月集計されていたコストパフォーマンスの良いゲームのランキングで、ぶっちぎりで1位を独走していました。
元々安価な基板で作られているけど、95年ごろには中古で本当に安くなっていて、でも人気があるのね。
購入代金なんてすぐに稼ぎ終わって、後は置いとくだけで儲かりつづけた。
爆発力は無いけど抜群の安定感がある、ゲームセンターに信頼されたゲームでした。
…と、それは後の話ですが、発売した直後からちゃんと人気はありました。
ヒットしたので続編も作られ、同じ1990年のうちに「コラムス2」が発売になります。
これは、テトリスに対するフラッシュポイント・ブロクシードのようなもの。
コラムス2には、パズルと対人対戦の2つのモードが入っていました。
でも、テトリスもコラムスも「単純なアクションゲーム」という側面がヒットの理由です。
フラッシュポイントもそうだったけど、パズル要素を打ち出すと全然売れない。
また、対人対戦は一緒に遊ぶ人が必要で、落ち物パズルの主な顧客層である「一人で黙々と遊びたい人」には人気がありません。
コラムス2もウケませんでした。これでコラムスの続編は一旦終了。
テトリスのアレンジを担当した企画者の下には、次に「ぷよぷよ」が持ち込まれます。
コンパイルが作ったゲームですが、最初の MSX2 版作った時から「テトリスやコラムスのパクリ」って公言してましたからね。
コンパイルとしては是非業務用を出したい、とのことだったようです。
でも、テトリスやコラムスと同じく、そのまま業務用にするにはいろいろと問題があった。
大きく作り変えるアレンジを施します。
元の「ぷよぷよ」は、対人対戦ができました。ブロクシードやコラムス2を真似したらしい。
しかし、落ち物の対戦は業務用では受け入れられない、と、ブロクシード・コラムス2でわかっていました。
でも、ぷよぷよは対戦が面白いゲームに仕上がっていた。
これを一人で遊べるように、CPU対戦を入れるといいのではないか。
その際に、せっかく豊富な敵キャラクターを持っているのだから、それらの個性を打ち出すと良いのではないか。
#注:ぷよぷよは、「魔導物語」というコンパイルのRPGの世界観を使った遊びでした。
そのため、世界観の中には個性的なキャラクターが多数いましたが、MSX2版では特に使っていませんでした。
入社前なので詳細は知らないのですが、これらがセガ側から出された提案だったようです。
業務用は1991年に発売になりますが、このアレンジが成功して大ヒットしたのはご存知の通り。
その後、家庭用の部署で勝手に「コラムス3」が作られます。これは、AM1研とは全く関係ないもの。
ぷよぷよのような対戦をコラムスで行う、というゲームシステムでした。
初代コラムスは、まだ地味にヒットし続けていました。
そこで、コラムス3を作ったなら業務用にも発売せよ、という命令が下ります。
でも、やっぱり家庭用をそのまま業務用では出せないんです。
家庭用ゲームはゆっくり楽しむもの。それに対し、業務用ゲームは短時間に面白さを凝縮する必要があります。
そこで、システム・プログラムなどは基本的に活かしたまま、大きなアレンジを加えたゲームを作ります。
それがスタックコラムスでした。
最初のコラムスが作られた部署に戻ってきたわけだけど、企画は別の人。
同じ部署内で作っていた、というだけで詳しく知らないので、詳細は分からないのだけど。
コラムス3とスタックコラムスは、遊んだ人にはわかると思いますがほぼ同じシステムです。
だって、そのまま発売せよ、という命令だったのだもの。
コラムス3にはRPG風味のストーリーがあるのだけど、説明なしに短時間で遊べないといけない業務用では、複雑なストーリーは難しい。
そこで、非常にわかりやすい「トーナメント大会に勝つ」というストーリーに変えられ、ストーリーに合わせてグラフィックも描き直されます。
ゲーム自体は、後出し有利で戦略性が薄い、とよく言われます。
うん。その通りだと思う。
弁護するなら、コラムス3のシステムには、テトリスやコラムスの企画者が関与してないからね。
コラムス3のアレンジ担当者があまり上手なアレンジができなかった、ということではないかな。
#元々対戦を考えていなかったゲームを無理やり対戦にする、というのは非常に難しいのだけど。
ストーリーに関しては…
なんでしょうね。どういう経緯でこういうストーリーを考えたのかは、僕は知りません。
知ってたらそれ自体が面白い逸話だったと思うのですが。
同時期にずんずん教が部署内に置いてあったから、感化されたのか?
#多分そんな理由でストーリー作らない
ところで、原作となったコラムス3の音楽は結構好きな人が多いらしいですね、と唐突に書いておきます。
小学校以来の友人で、コメットの音楽を作ってくれたKER君の作です。
#彼も一時期セガにいたのです。
2015.4.3追記
スタックコラムスの元である、コラムス3の関係者から証言が得られましたので追記しておきます。
えーと、リーク情報で迷惑がかかるといけないので、匿名ってことで。
コラムス3は、メガドライブのマルチセレクター セガタップを発売することになり、同時発売する対応ソフトを作れ! という掛け声で短い期間で作られたのだとか。
クイズゲーム(パーティクイズメガQ)とコラムス3、どっちがいいかと聞かれてコラムス3を選んだのだとか。
そういえば、タップの試作品を見せてもらった覚えがある…
あぁ、このページはコラムス3の話題ではなく、スタックコラムスでした。
それらしい話題も書いておきましょう。
スタックコラムスの音楽のいくつかはコラムス3のアレンジになっていたそうです。
そのうち1曲が低音のノリを活かしたものだったのに、肝心の低音をカットするアレンジをされて意味不明の音楽になっていたとか。
以上、匿名氏からの情報でした。
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別年同日の日記
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登龍門って、どのくらいの人が知っているのだろう。
落ち物パズルゲームです。
サードパーティ作品で、AM1研がサポートして世に出したもの。
いつごろ出荷されたのか記憶が定かでないです。
でも、1994 年の夏の終わりか、秋くらいだったんではなかったかな。
なんでも、セガの偉い人の知り合いのやっている会社が持ってきた企画なのだとか。
「手伝ってあげて」とAM1研に回されたものの、その会社はゲーム開発の経験が浅かったようで…
この頃、「落ち物パズルなら簡単そうだし、作れるだろう」って考える小さなソフトハウスが多くありました。
落ち物パズルの「処理」自体は確かに非常に簡単なことが多いです。
でも、そんなに甘くないよ。落ち物パズルって、ある程度形が決まっているからこそ、アイディア勝負になる。
そして、アイディア勝負っていうのは、何よりも難しいのです。
また、落ち物パズルは操作感が非常に大切。
これって、経験がものをいう部分なのね。こちらも甘くはない。
登龍門は、「ぷよぷよみたいなゲーム」を最初から目指していたようです。
ゲーム見たことある人ならわかるね。コンピューターのキャラクターが出てきて、漫才やって、対戦する。
でも、その企画書の時点で、ゲーム内容破綻していたのね。
仕様通りに作られた最初のバージョンはゲームになってなかった。
落ち物パズルゲームなので、基本的には「消し方」が重要です。
このゲームでは、四角いブロックの4隅に、1/4の円の模様が「ある」場合と「ない」場合があります。
これを組みあわせて円を作ると、その円を作った4つのブロックが消えます。
4つ組み合わせると消える、というぷよぷよの亜流になっている。
自分が操作する、上から落ちてくるブロックは、これもぷよぷよのように2つ組です。
ぷよぷよと同じように回すことができ、横向きに置くと切り離されて落ちることがある。
まぁ、全体的にぷよぷよの真似です。ただ、落ち物で一番重要な「消し方」は違うものにしてある。
企画書を見るだけでは、それほど問題があるようには見えません。
実際作ってみると、問題点が多いことがわかります。
ぷよぷよでは、ブロック全体の「色」だけが重要でした。
でも、登龍門では4隅が重要なのです。
ブロックの「4隅」を回転させないと、円を作るように模様を配置することはほぼ不可能です。
そこで、ブロック回転時には、模様も回転するようにしました。
しかし、模様だけでなく、2つ組のブロックが一緒に回転します。
ブロック「全体」を置きたい形にすれば模様が好きな形にはできず、模様を好きな形にすると、ブロックを置く場所が制御できません。
「積みあがった」ブロックを消す方法がほとんどないのも問題でした。
ブロックは4隅のうちどこかの「模様」を4つそろえると消えます。
極端な話、模様が1つもないブロックがあれば、絶対に消せません。
模様が1つしかついていないブロックがあって、うっかり模様を壁側に押し付けて置いたら、これももう絶対に消せなくなる。
消せないブロックは壁と同じなので、どんどん壁を増やして、永遠に消せないブロックだらけになります。
もちろん、「連鎖」なんて狙えません。理論上は連鎖が出来るはず、というルールなのですが、現実問題として連鎖はおろか、1つのブロックを消すことすら大変なのです。
問題の根源を考えていくと、ブロックの組み合わせが問題であることがわかります。
ぷよぷよでは、ブロックは6色ありました。これが2つ組で落ちるので、6*6=36パターンのブロックがあります。
「切り離す」ことができるため、36種類ありますが、「待つ」際には1/6の確率で良かったりもします。
テトリスでは、4つのブロックがくっついて落ちますが、この形は7パターンでした。
「待つ」場合も、1/7の確率です。
登龍門では、1つのブロックの4隅の模様の「ある」「なし」の組み合わせでブロックが形成されるので、16種類あります。
(ある、なしの「2つ」のパターンが、4隅にあるので2*2*2*2 = 16種類となる)
これが2つ組で落ちてくるので、落ちてくる際のブロック形状は256種類あることになります。
切り離せたとしても、待ち確率が 1/16。実は、「隣接する模様」が大切なため切り離しが上手く使えない局面も多く、ひたすら待つことになります。
そして、待つ間に積み上げたブロックは、先に書いたように自由に消すことが難しいのです。
AM1研担当者は、最初のバージョンが来た時点で「ゲームになっていない」として、何が問題か詳細に示したレポートを返したようです。
担当者が期待していたのは根本的なルールの見直しだったようなのですが、次のバージョンでは、難易度を大幅に下げるルール改変が行われてきました。
ブロックを消した際、消える4ブロック(必ず四角くなっている)に隣接する8マスのブロックには、消すために作られた円に最も近い位置に、それ以前の状態に関係なく1/4円が発生します。
言葉で説明するのはわかりにくいので、図を出しましょう。
右の図で、右端の矢印部分のブロックが新たに落ちてきたものとします。
ピンク色のブロックと組み合わさって「円」ができ、ブロックは消えます。
この時、緑色のブロックには、ピンク色のブロックと同じような「半円」が生じます。
上の水色のブロックの右下角にも「1/4円」が生じます。
これにより、連鎖を組むことが非常に容易になりました。
ゴミを詰めておいても半円が生じることがわかっているので、残りの半円だけを、連鎖するように組んでおけばよいのです。
いま説明に使った図では、縦に4段積んでおり、上の2段には左向きの半円を作ってあります。
下の段は、円はピンク色のブロック以外存在しません。どのようなブロックでも構わない、いわゆる「ゴミ」で構わないという意味です。
先に書いたように、ピンクが消えると、緑がピンクと同じ状態になります。
そして、ピンクが消えたのですから、上から水色が落ちてきます。
その結果、また円が出来上がります。緑の隣がまた半円になり、緑の上の半円が降ってきます。
以下繰り返しです。
このゲームの目的は「円」を作ることですが、ほとんどは「半円」で十分なのです。
半円を作れるブロックが来たら上に積み、それ以外のゴミは下に詰める。
最後に、1か所だけ円を作れば、後は勝手に連鎖します。
この時のバージョンでは、この戦略でエンディングまで延々と遊べました。
気付いてしまえば、誰でも100円で30分遊べる。
ブロックを組んでいく、というパズル性は失われ、非常に作業感の強いゲームになりました。
簡単に言い直せば「つまんない」ってことですが。
また担当者が頭を悩ませ、レポートをまとめます。
業務用のゲームでは、1回たったの100円しか入れてもらえません。
店舗の採算を考えると、100円での平均プレイ時間は3分間が望ましい、とされていました。
1ゲームがだいたい3分で終わるように、難易度調整をお願いします。
これに対しての返答は驚くべきものでした。
「3分で終わらせるっていうのは、タイマーを用意して3分で強制終了でいいでしょうか?」
そんなのゲームじゃねぇって。
担当者氏、あきれ果てて何を言ってよいものやら、周囲に愚痴りました。
#僕はこの時点で経緯を聞いたので、これ以前の記述は間違えているかもしれない、と断っておきます。
これ以降だって、20年前の記憶によるものだから間違ってるかもしれないけどね。
結局、業務用ゲームにとって難易度調整がいかに重要なものか、難易度調整を敵の強さで行うのだ、という当たり前のことから延々と解説し、理解してもらえたようです。
次のバージョンでは、勝ち進むとだんだん敵が強くなるようになっていました。
…ただ、先に書いたようにこのゲーム、パズルとしては破綻しているのですね。
パズルじゃないから、「敵のあたまがよくなる」ことでの難易度調整はできません。
どうやったかというと、敵側のフィールドだけルールが変わる。
どう変わるのか詳細は覚えてないのですが、自分はある程度連鎖を組まないと攻撃ができないのに、敵は1個消すごとにものすごい数の「お邪魔」を降らせてくるんじゃなかったかな。
これにもまた担当者氏は頭を悩ませていたのですが、やがて吹っ切るように、もういいや、って言ってました。
結局、これ以上はゲーム内容には意見せず、要求仕様(コイン周りの動作など)が正しいか、致命的なバグが無いかなどの確認だけ終わらせて発売したはず。
このゲーム、企画時点で売れないと思われていたのか、「システム16の在庫整理」名目でした。
そんなこと、申し訳ないから作成会社には伝えてないと思うけど。
ゲーム基板って、ある程度まとめて作って、その上にゲームの ROM を載せて販売します。
場合によっては ROM 交換だけ、というのもあります。
で、新しい基板に主力ゲームが移行していくと、古い基板の在庫が残るので一掃しなくてはなりません。
こういう時は、「企画時点であまり売れ無さそうなゲーム」を作って、在庫数が無くなった時点で販売終了にするのね。
登龍門は残る在庫基板の分だけ生産され、全部を売り切って不良在庫になることもなく、特にヒットするわけでもなかったために再生産がかかることもありませんでした。
#在庫整理目的でも、ゲームがヒットしてしまえば基板から再生産することがあります。手相占いがそうだった。
基板はある程度の単位でまとめて作るので、また在庫が残ることになるのだけど。
システム16は、1985年が第1作だったそうなので、登龍門まで9年間も現役で活躍していたことになります。
(もっとも、機能的に類似だが互換性のない、A/Bの2種類がありました)
古い基板だったから多分販売価格も安く、「ぷよぷよみたいなゲーム」ということで買ってくれたお店もあると思います。
でも、大半はセガの直営店に卸すことで消化したのではないかな。
当時はセガの運営するゲームセンターだけで3千店くらいあったから、そういう調整が可能でした。
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落ち物パズル話3連続です。
実際、相次いで発売されたはず。
落ち物パズルが流行している時期でした。
今回の話、きな臭いから最初に注意を書いときます。
僕、当時は新入社員で全体像がよくわかってませんから、書いてること間違っているかもしれません。
特に今回の話、有名なサードパーティの作品なのでセガ側で、しかも詳しくない傍観者の意見だけで「事実」と思われても困る。
間違ってるかもよ、と言いつつ書く理由は、最初に表明したとおり。
自分の知っていることは少しでも記録に残し、記録の妥当性評価などは他の人に任せるためです。
明らかに誤っている、正しい資料を提示できる、もしくは当事者として証言できる、という方がいた場合、記述を変更します。
(この項目に限らず、一連の記事全てそのつもりで書いています)
スタックコラムスの話で少し書きましたが、テトリス・コラムスは原作ゲームがあります。
だからあれはセガが作ったゲームというわけではなくて、セガは発売しただけだ、っていう人もいる。
でも、テトリスの業務用とPC用を見比べれば、全然違うゲームになっているとわかる。コラムスも同様。
同じ素材でも、アレンジ次第で面白さは全然違ってきます。
#PC用がつまらないというのではないよ。違うものを目指していて、違う面白さがある。
でも、それは同じ原作でも違うゲームだ、ということ。ただ発売しただけではないのです。
セガの作ったコラムスはいろいろなパソコン・ゲーム機に移植されています。
MSX2・FM-TOWNS 版はコンパイルが移植していて、コンパイルは落ち物パズルゲームを作るノウハウを得たようです。
コンパイルは翌年には「ゴルビーのパイプライン大作戦」を作っているのですが、これはちょっとルールが複雑すぎた。
(登竜門と同じような失敗をしています)
でも、実は「2つのブロックがくっついて落ちてくる」「接地すると切り離されて落ちる」という、ぷよぷよの元になるアイディアが入っています。
そして、翌年のぷよぷよへと続くのです。
#ちなみに、「ゴルビー」とは、テトリスの生まれ故郷でもあるソ連(現在のロシア)の当時の書記長(最高指導者)、ゴルバチョフの愛称。
ソ連の旧態依然とした体制のままでは国がダメになる、と思い切った政策転換を行い、冷戦下にあったアメリカと歩み寄ろうとした。
(つまり、アメリカとのパイプラインを作ろうとした)
このゲームは、日本からモスクワまで、パイプライン(水道管の…)を作る落ち物パズルです。
ぷよぷよは、テトリス・コラムスのパクリ、と MSX2 版で製作者がマニュアルで公言していたゲームです。
ゴルビーの失敗に学んだ…のかどうかは当事者でないとわかりませんが、非常に簡単なルールでした。
特に、対人対戦がよく出来ていました。
落ち物パズルで対人対戦、というのは、おそらく任天堂のテトリスが最初。
セガでも、テトリス続編であるブロクシードや、コラムス2で対人対戦を作っていました。
でも、ゲームセンターでは対人対戦はあまりウケなかった。
コンパイルはぷよぷよを業務用にしたいと考えました。当然のように、テトリス・コラムスを出していたセガに持ち込みました。
その結果テトリス・コラムスのアレンジをしたAM1研に持ち込まれ、テトリスのアレンジをした人がぷよぷよの業務用のアレンジアイディアを出しました。
コンパイル側は、テトリスやコラムスのように、一人で延々と遊ぶ…いわゆる「とことんモード」を中心に考えていたようです。
でも、落ち物パズルのブームで、ライバルは多数ありました。
そこで、セガ側から対戦モードをメインに持ってくる、という案が出ます。
とはいえ、ゲームセンターでは対人対戦は受け入れられなかった、悪しき実績があります。
そこで、対人ではなくCPUと対戦する、というアイディアが出ました。
このアイディアが非常に重要だったと思います。
ぷよぷよを、テトリスやコラムスのような「とことんモード」だけで発売していたらヒットにはつながらなかったでしょう。
アイディアを出すのは簡単でも、作るのは大変だったと思います。
落ち物パズルでCPUを相手に対戦、なんて初の試みだったのだから。
この、大変なプログラムを実際に作成したのはコンパイル。
セガはその後もゲームバランス調整とかで細かな意見を出す等、二人三脚で作られています。
セガは契約上は「販売を行う」だけで、アイディアなんて出す必要はないんです。
でも、販売を行うというのは流通経路を貸すだけの問題ではありません。
よりたくさん売れるように、いいゲームに仕上げることが「販売を行う」ということなのです。
そして、ぷよぷよは大ヒットします。
二人三脚だった、というのはセガの言い分にすぎず、法的には作成者であるコンパイルに全権利があります。
セガは、権利上は発売しただけでした。
なので、その後コンパイルがぷよぷよを何に移植しようとも、文句は言えません。
業務用が発売され、メガドライブ版が発売され、ゲームギア版とPC98版が発売されました。
ここまでは特に問題無し。
でも、その後にコンパイルはスーパーファミコン版を発売しました。
セガとしては一番のライバル会社のマシンです。
このことに企画者は怒りました。
アイディアの権利は法的に主張できないとはいえ、恩義を忘れているのではないか。
その後、部署の方針として正式に、コンパイルには今後協力を行わないことが決定されます。
ただし、ぷよぷよを開発した際に、業務用の発売を代行し、流通経路を貸す契約は結んでいます。
ならば、そのための最低限の仕事だけはします。それ以外は一切、アイディアを出すなどの協力をしないように、という命令が下りました。
「どの機種に発売しようが、法的に問題は無い」に対して、「契約外のサポート業務を放棄しても、法的に問題は無い」という対抗措置でした。
先に書きましたが、僕が入社したころから、徐々にサードパーティのサポートに手間を割かないようになっていきました。
理由の一つは、各部署ごとに売り上げノルマが課せられたため、売り上げに直結しないサポート仕事に手間をかけられなくなったことがあると思います。
でも、もう一つの理由は、おそらくはこれでした。
アイディアを出したりゲームバランス調整に力を貸したりして、おもしろいゲームを作るようにしても、セガにとって権利が主張できません。
それでライバル会社のゲーム機に発売されてしまうのでは、もうサポートするメリットが無いのです。
スーパーファミコン版は、1993年の12月に発売されています。
僕が入社したのは1994年の4月。「通」は部署配属直後に見ています。
スーパーファミコン版の発売よりも前に「通」の開発は始まっていて、改良アイディアはその時点で出していたようです。
「相殺」はそのアイディアの中心となる物。
ぷよぷよの対人対戦がちょっとしたブームになっていました。
そして、高い実力を持った人なら、最短手順で5連鎖をくみ上げるのが当たり前になっていました。
ぷよぷよでは「5連鎖」は相手フィールドを完全に埋めつくせる攻撃力です。
相手がどんなに努力しても、負けを回避できない。これ以上組むことに意味がない。
一瞬でも速く5連鎖をくみ上げたほうが勝つ、というのがぷよぷよの戦いでした。
このため、最短手順が研究され、パターン化し、上級者同士の戦いでは両者が全く同じ動きをすることもしばしばありました。
両者が同時に同じ攻撃を発動し、同時に画面が埋め尽くされる。
この時、処理判定の都合で、1プレイヤー側が勝ったことになって終わりです。
「相殺」は、これを回避し、対戦をより深みのあるものにするための追加ルールでした。
ちなみに、「通」の対戦ルールでもう一つ重要な追加要素、「全消し」はコンパイルが独自に出したアイディアのようです。
2個先のブロックがわずかに見えている、というのもコンパイル側のアイディアではないかな。
#どちらのアイディアも、当時セガ側担当の人が「ほぉ、こんな風になってんだ」と言っていた気がするので。
入社してすぐのころに、ぷよぷよ通の初期バージョンがロケテストに出たと思います。
ロケテスト前にずいぶんとテストプレイをしました。
この頃には、漫才デモも残っていましたし、エンディングも発売版とは違っていました。
それからずいぶん長い時間が開いて…
たしか、次のバージョンを見たのは8月の下旬だったのではないかな。
漫才無くなっちゃって、ぷよぷよの重要な要素であった「キャラの個性」を感じにくくなっていました。
これが無いと、ただひたすら「勝ち進む」だけの、作業感の強いゲームになってしまいます。
対戦相手を、だんだん遅くなるルーレットみたいな方法で選ぶようになっていましたが、キャラの個性がないから相手が変わることの面白みがない。
ある程度慣れると敵の強い、弱いがわかってきますが、そうなると今度は遅くなるのを待って確実に目押しで止められるのでルーレットの意味がない。
いちいち遅くなるのを待たれるとプレー時間が延びるのも、業務用としては問題がありました。
デモ画面にも、なんか勝手にいろんなロゴ入れてました。
(Act Against Aids とかのロゴね)
デモ画面中にこういうロゴ入れるの、本当はいろんな規定があって了解を取るのが難しいんです。
政治・宗教的な主張は入れてはならないことになっているから。
#「ずんずん教の野望」も発売に際して時間がかかったのは先に書いた通り。
たしか、このバージョンではロケテ版とも発売版とも違うエンディングが入ってました。
負けると対戦相手が「下に落ちる」動きがあるのだけど、エンディングでは塔の下の方から、落とされた相手の恨み節が聞こえる。
「ちっくしょ~~」って大きな文字が飛んでいくんです。
…チック症って病気あったよね。
その患者とかから、馬鹿にしてるってクレーム来ないかな、と担当者氏が心配していました。
とにかく、問題点が多々あった。ヒットゲームの続編だけに、問題点は指摘していいゲームにしたい。
でも、部署として「協力しない」ことが決められている。
しばらく悩んでいた担当者氏、このまま行こう、と肚を決めます。
#元の担当企画者は激怒したので、ぷよ通担当者は交代し、登竜門と同じ担当者になっています。
たしか、この頃背景のデザインに六芒星が入っている面がありました。
これは明らかに宗教的なものと認められてしまい、特に海外では規制で販売できなくなる国もあります。
なので、ここは無くしてね、と、リクエストします。
「セガが販売する」契約があるので、ちゃんと各国で売れるようにしておかなくてはならない。
リクエストは、こういう最低限の事務仕事のみ。ゲームをより良くするアイディアなどは、一切なしです。
その後、発売版の最終ロムが送られてきます。
エンディングは変わっていました。六芒星も五芒星(星型)になっていました。
致命的なバグなどが無いことだけ確認して、そのまま発売されます。
残念ながら、コンパイル側の事情は一切知りません。
作っていたほうも、「通」は納得して発売したのではないと思います。
漫才デモ、家庭用発売の際には作り込まれていましたね。
多分、締め切りの都合とかでやむを得ず無くしたのではないかな。
2016.9.6 追記
当時コンパイルでSFC版ぷよぷよのプログラムを作った、じぇみに広野さんが、当記事を読んだうえで Twitter で思い出を語ってくださいました。
許可をいただけましたので、引用させていただきます。
うん。アドバタイズデモが簡易化されたのも同じ理由。
>多分、締め切りの都合とかでやむを得ず無くしたのではないかな。(2015-03-06)https://t.co/ELSa08fX1o— じぇみに (@jeminilog) 2016年9月2日
まあ「相殺」は誰の発案かとかいう話以前で、たぶん誰が2を作っても絶対入ってたと思います。なお実はSFC版の1でもテスト用の相殺ルーチン入ってます。私が移植したFCのROM版にも相殺用のコードが入ってるようなー
— じぇみに (@jeminilog) 2016年9月2日
全消しは誰が言い出したか忘れた(私の可能性も含め)。私が作らなきゃ入らなかったと思われるのはクイックターンで、入らなかった可能性が高いのはNEXT-2だろうか。あと3色モードも私でないと入らなかった可能性はある。
— じぇみに (@jeminilog) 2016年9月2日
たしかに、相殺は誰でも入れたくなるアイディアかもしれません。
どちらが言い出したではなくて、当然入るべきものだったのでしょう。
そして、クイックターン。申し訳ありません。「通」での、ものすごく重要な改良点なのに書き忘れていました。
落ち物パズルの始祖であるテトリスは、ブロックが接地するとその時点で操作ができなくなりました。
しかし、業務用テトリスでは、落ちてからも一定時間操作が可能です。
これにより、どんなに落ちる速度が上がっても操作して消すことが可能になり、アクション性もパズル性も上がります。
ところが、ぷよぷよでは「幅1の、縦に長い穴」に落ちてしまうと、何もできなくなるのです。
左右に動けないのはもちろん、回転するのにも「幅2」の場所が必要ですから。
これを解決したのが通で導入された「クイックターン」で、ボタンを2連打することで 180度の回転を行います。
ぷよぷよでは2つのぷよがくっついて落ちてくるので、回転というより「色の入れ替え」ですね。
これにより、最後の瞬間まであきらめずに戦うことができるようになりました。
まあ全体的に「2作るならこの程度は入れないとね」を消化した感はある。そして前に言ったがAIを強化できなかったため対CPU戦では2連鎖目の配点を高くしてCPUにやや有利にしてある。ずっこい。
— じぇみに (@jeminilog) 2016年9月2日
漫才はやり損ねた分、その後のコンシューマー版で好き勝手にいろいろ展開していったが。ところでなぜエンディングでサタンは落ちるときに羽使わなかったのだ。
— じぇみに (@jeminilog) 2016年9月2日
僕としては、通のルールは、シリーズ中で一番バランスのとれた、過不足のない物だったと思っています。
本文書いた時にはなにか批判的な書き方になってしまってますが(この話書いてよいものだろうか…と悩みながら書いたので文体が固い)、AM1研部署内にも、ぷよぷよが好きな人は多くいました。
ぷよぷよでは、とにかく速く5連鎖組んだ方が勝ち、という戦いになってしまうので、達人域になると全く同じ動きをしていました。
でも、通では戦略に幅が出ました。
我慢して粘って6連鎖を組んだり、さっさと5連鎖組んだうえでさらに連鎖組んだり、個性が出て見ているだけでも面白いものでした。
開発中のテストプレイの頃から多くの人が対戦を楽しみ、よりよくするための意見なども多数出ていました。
しかし、本文中に書いたような理由により、それらの意見が伝えられることはなかったと思います。
そしてコンシューマー版での展開…
僕も御多分に漏れず好きだったので、サターン版は買っていますがほかの機種用は見ていません (^^;;
調べてみたら、漫才デモのわずかな差をまとめたページがありました。参考まで。
#僕自身は、高校の頃に MSX2 を持っていて、DiskStation も創刊準備号から買っていました。
もちろん、元ネタに当たる魔道物語も遊んでいます。
キャラクターが好きだったので、漫才デモがコンシューマー版で復活したことが本当にうれしかった。
スーパーファミコン版の移植に関する権利とか恩義とかの問題は私の手に余るので触れない。なお余談だが最初はSFC版を私が作る予定はなかったのであった。本来の担当はアーケードの通だったんで。
— じぇみに (@jeminilog) 2016年9月2日
個人だと許容できることが、個人より大きな組織…会社だとか国家だとかが絡むと、許容できなくなることがあります。
先に書いたように、部署内の人はぷよぷよが好きでしたし、関係がこじれてからも、いいゲームにしたくて意見を出したりしていました。
でも、上層部としては「職務上の判断」として、利益を求める必要があり、SFC版を問題にしないわけにはいかなかったのでしょう。
しかし、「利益を求める必要」はコンパイル側にもあります。
SFC版を出すのは、営利企業として当然の判断だった、と思います。
不幸なのは、ぷよぷよがこれほどのヒットになるとは思わず、後の移植などに関しての取り決めを最初の契約時に交わしていなかったことなんでしょう。
大金を目にしたとたん、仲が良かった人が喧嘩をし始める…という話は、世の中にいくらでもあります。
この記事を書いたのは、誰かが残さないと忘れ去られてしまいそうな話を記録しておきたいためです。
どちらが悪い、という話ではありませんので、読んだ方には、勘違いのないようお願いしたいです。
じぇみにさんは、これ以外にもぷよぷよ開発の面白い話題をツイートしてくださっていますが、ここのページに関係しそうな部分だけ引用させていただきました。
一連のツイートは、こちらから読むことができます。
別年同日の日記
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ゴールデンアックス・ザ・デュエルはいつ発売したのかな…
ST-Vのソフト第1号。1994年、ってことにはなってますけど、詳細時期を覚えていません。
部署内のテストプレイ筐体で遊んだ覚えも、ほとんどない。
ということは、自分の配属プロジェクトである手相が忙しくなったころか。
1994年だとすれば、年末ごろだと思います。
#サターンは年末発売なので、ST-Vも同じころに出荷だったと思います。
当時流行っていた対戦格闘は、セガの苦手分野でした。
セガって、3Dは得意でしたけど、3Dだと絵は少なくて済むんですよ。
ポリゴンゲーム機はもちろん、2Dでも拡大縮小でどうにかしちゃうから。
でも、2D対戦格闘は、滑らかなアニメーションが勝負になっていました。
ものすごく大量に絵を描かないといけないのですが、セガにはそれほど大量の絵を扱える業務基板がありませんでした。
AM2研から発売された、アラビアンファイトやバーニングライバルは「動きが悪かった」とよく言われます。
まぁ、同時期の他社の格闘ゲームに比べて見劣りしたのは事実。
でも、ここらへんハードの制約によるものが大きいです。
2研がアニメを描くのに手抜きしたわけではない。
スペックで言えばシステム32の方が性能が良いのですが、アニメーションに関してはネオジオに負けています。
ネオジオの「100メガショック」は伊達じゃないのです。
ST-Vでは、ネオジオに負けないほどのアニメーションが可能になりました。
じゃぁ、その第1弾として格闘ゲームを、というのは当時の市場から見て自然な流れ。
AM1研のヒットタイトルであったゴールデン・アックスの世界観を使い、対戦格闘を作ったのがこのゲームです。
同期のプログラマーでは一番仲の良かった奴が配属されていました。
仕事は主にデータ整理。対戦格闘って、とにかく絵が多いし、その絵を繋げて表示するためのデータも多い。
あたり判定データも絵ごとに用意しないといけない。データの山なので、整理するだけで一苦労。
プログラマーって、同じことを延々と繰り返すの苦手な人が多いです。
そういう仕事はコンピューターに任せたいからプログラマやっているの。
でも、データ整理はひたすら単調な作業を繰り返さないといけない。
仲の良かった同期、疲れると僕の席に息抜きに来て愚痴っていたように思います。
先に、セガは2Dは苦手だった、と書きました。
特に2研は3Dに特化して研究していたので、グラフィックの人数少なかったのではないかな。
(モデリング出来る人は多かったろうけど)
でも、AM1研はそれなりに2Dのゲーム作ってましたし、ドット絵が上手な人が多く在籍していました。
グラフィックのベテラン社員が、油絵もフィギュア作成も上手で、ゴールデンアックスの世界のイメージを広げるために、デス・アダー(最終ボス)のイメージを油絵で描いたり、フィギュア作ったりしていました。
油絵は、このゲームのハイスコア一覧の背景に使われています。
ゴールデンアックスのシリーズは、この「ザ・デュエル」が最後だったのだけど(その後別の会社で作られているけど)、ずっと後まで油絵やフィギュアはその社員の机に置いてあったのが心に残っています。
#ちなみにこのベテラン社員の方は、たしかテトリス(1988)の猿のドット絵を描いた人でもあります。
自分が描いた中で一番有名なもの、と言っていたように思う。
そういえば、開発初期の頃は、やたらおおきな基板…というか、ボックスを使って開発していたように思います。
ST-V第1弾だから、基板も作成中だったのね。
いわゆる「フルタワーPC筐体」の、一番長い辺を一辺とした立方体。
…というのは、基板を納めていた筐体の話で、実際にはその中に3枚くらい基板が刺さっていたかな。スカスカだった。
機能ごとに分割した基板になっていて、開発状況に応じて差し替えられるようになっているのね。
筐体が大きいのも、余裕を持った設計でスロットがいっぱいついているからで、そのすべてに基板が刺さっているわけではない。
これが、基板の開発が進む間にあれよあれよと小さくなって、最後は発売されていた ST-V の基板よりも少し大きいだけの「開発ボード」になるんです。
家庭用のサターンはもっと小さな基板だったからね。集積回路化すれば小さくなる、って頭ではわかっていても、すげーなぁ、と思ったものです。
名前も、当初は「タイタン」だったのに、紆余曲折あってST-Vに。
ここら辺の話は過去に書いたので割愛。
そういえば、ST-Vのマニュアルなんかでは、このゲームがカートリッジとして刺さっている前提になっている例ばかりでした。
第1弾タイトルだから、マニュアル書く時点で他になかったのでしょうね。
#ST-V英語マニュアルの場合、7,8,18,20ページの画面イメージが GOLDEN AXE DUEL を例としています。
先に書いた通り、このゲームは僕はあまりテストプレイしていないし、同じ部署内で作っていたから知っている、程度の知識しかない。
非常に短いですが、特に書くこともないのでこれで終わりです。
別年同日の日記
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