元日にあった能登半島地震から3週間がたつ。
記録のために、その後の動きを記しておきたいと思う。
動きが流動的で、忘れてしまいそうだが、記録しておきたいのだ。
前回は3日の午前…地震から2日ほどの段階で記事を書いていたが、この時点ではまだ、事態の深刻さが十分に理解できていなかった。
3日の時点では、大きなビルが倒壊したとか、輪島朝市通りが大火事だとか、「その程度」の情報しかなかったのだ。
救急救命行為では、72時間を超えると急に生存率が落ちるとされる。
そのため、当初から自衛隊やDMATなどの救命チームが現地に「入ろうとした」。
しかし、入れなかった。72時間以内に、被害の大きかった現場に入ることすらできなかったのだ。
地震による地面の沈下・隆起はすさまじく、その後の調査で高さにして 4m の隆起、海が隆起することで、4.4平方kmが陸地化したという。
半島部なので元々少なかった道は寸断され、陸路で入ることはできない。
当初は海路で入ることが予定されたようだが、海底地形が変わってしまい座礁の危険性がある、ということで海路でも入れない。
半島は山が多く平地が少ないため、ヘリコプターも着陸できない。
ちなみに、空港も滑走路が破損して使えない。元々空港は震災被害の一番大きかったエリアからは遠いが、救援物資の輸送に支障をきたした。
そんなわけで、先遣隊が被災地の奥まで入れたのは、5日ごろになってから。
報道もこのころからで、津波の被害が想像以上だったとも、この頃からわかり始めた。
地震直後には、5m の津波との警報が出されたのだ。
しかし、その地点の津波観測機器は、1.2m の津波、という観測データを最後に動作しなくなってしまった。
そのため、翌日、津波警報などが解除された時点では「1.2m」が一番高い津波とされた。
ネットなどには、5m という予想が出ていたが、精度が悪いのではないかという悪口も出ていたらしい。
(気象庁発表は 1.2m以上、だったが、これを 1.2m だと捉える人は少なからず存在した)
しかし、実際 5m の津波は来ていた。
4m の地盤隆起によって、1m程度の津波で収まった箇所もあるらしいが、実際津波で流された建物もある。
先に書いたが、この事実が報道されるまでで、5日近くかかっていた。
1週間を超えるあたりから、やっと情報が集まり始めた。
と同時に、当然だがこれ以降に「救出された」というようなニュースがあるわけもなく、死者だけが増えていった。
幸いなのは、物凄い数が計上されていた「行方不明者」が、連絡がついて、死者になるわけでもなく減って行ったことだろうか。
そして、情報があれば行動も早い。
壊れた道路の修復は急ピッチで進んだ。被害箇所が多すぎてすぐに復旧とは言えないが、物資の輸送ルートが確保されたのもこの頃。
情報が無いのにボランティアが来ても困る、と、現地ではボランティアが来るのを拒んでいた。
もちろん専門家チームの手は借りているが、一般人のボランティアや、専門家でないものが送り込む物資などは、緊急時には邪魔でしかないのだ。
東日本震災や熊本震災の時には、ボランティアや個人の送る物資が、がかえって邪魔になるという話に事欠かなかった。
今回は、そういう話は少ししか聞かない。…少しは聞く。自重せよ。
ネットで、早くから「千羽鶴を絶対送るな」と言っている人が多かった。
良いことだ。あんなもの送られても、邪魔なだけで神経を逆なですることしかできない。
じっさい送られた数は少なかったようだ。…これも、ゼロではないようだけど。
今回は、「本を送るな」が新しく広まっていた。
古本に限らず、新品でも本は送るな、と呼び掛けられていた。
実のところ、東日本震災や熊本震災でも、善意で送られてくる本の処分に困っていたらしいのだ。
しかし、それよりもっと困るものが多数あったため、あまり大きく取り上げられなかったらしい。
本当に何もない状況ならともかく、「現地には」ないだけで、国内から送り込む輸送路はある。
こういう時は、金を寄付して、使い道は現地の専門家に任せるのが良いと思う。
本当の意味で初期の区切りがついたのは、2週間くらいたってからだろうか。
住宅の危険度判定が進み、家にいると危険だからと促されてやっと避難し始める人たちもいた。
たとえ多少ゆがんでいても、住み慣れた家を離れるのは嫌だというのはわかる。
それと同時に、最初に「緊急避難」した人たちの、県内外の借り上げ住宅などへの二次避難も始まった。
過去の反省を踏まえ、希望すればご近所さんは同じエリアに避難、ということを徹底しているようだ。
東日本震災のころは、避難先で知り合いがいないために引きこもってしまい、一気に老化が進んだお年寄りなどが問題となっていた。
ただ、二次避難は現時点ではまだそれほど進んでいない。
住み慣れたところを離れたくない人も多く、仮設住宅の計画も急ピッチで進んでいる。
今、三週間たったところだ。
まだ水道は復旧していないが、電気はかなり復旧が進んだようだ。
電気の復旧は、いつの震災でも速い。
朝市通りの火災の検分が終わり、火災による死者が 10名追加された。
個人ボランティアの受け入れを開始したところ、すぐに1万人以上が登録したようだ。
ボランティア団体による炊き出しや、風呂・シャワーの提供なども始まっている。
少ない水でも多くの人がシャワーを浴びられるように、可搬型の水浄化システムを作っている会社がシステムを貸し出したりしているらしい。
使った水が、その場ですぐに浄化されて再度使えるようにするの。
コロナのころに、水道がない場所でも「手洗い場」を設置できるようにする機械を作っていた会社のもの。
震災時にすぐに緊急の仮設住宅を提供できる方法を研究している大学の先生が、いくつものセットを持ち込んだ、という話も聞いた。
緊急時に役立つ技術というのは、必要なことなのだけどなかなか実践する機会はないし、できることならそういう機会が来ない方がありがたい。
でも、こういう時に、是非実績を積んで、役立ってほしい。
そして、研究している先生や会社にちゃんとお金が入ればありがたい。
一番大きな揺れを記録したのは、珠洲市。
NHK では、市庁舎にカメラを設置していたそうで、市庁舎からの映像を地震直後から放送していた。
ただ、市庁舎近くは、比較的被害が少なかったようだ。カメラの前で1件の家が倒壊した瞬間が写されていたが、市街地は比較的新しい建物が多く、耐震性もあったのだろう。
現時点で一番被害が大きいとされているのは、七尾市。
一番揺れがひどかった場所、ではない。ある程度人口が集まっていることも、被害を大きくする要因なのだ。
僕はちっとも七尾市について知らなかったが、アニメ「花咲くいろは」の舞台であり、「放課後インソムニア」の舞台でもあるそうだ。
…なんてこった。両方とも楽しく見ていたのに、七尾市についてはまったく知らなかったよ。
さらに言えば、放課後インソムニアで主人公がアルバイトするゲームセンターがあるのだが、七尾市に実在するゲームセンターで、世界的に有名な店なのだそうだ。
その店も被害を受けた、ということで、店主がツイートしているのを見た。
輪島朝市などは僕も観光で行ったことがあるので、朝市の火事の方が大変なことが起きた、と思ってみていた。
もちろん輪島も大きな被害を受けており大変なのだが、七尾も被害が大きいということで、こちらにも支援団体が多数入っている。
本来、災害後の「命を守るための」初動は、72時間以内、1週間以内に起こされるべきなのだろう。
しかし、震災による地盤隆起の激しさや、現地の地形の特殊性などに阻まれ、大きく遅れている。
3週間たって炊き出しなども始まった今は、やっと生活立て直しのための次の段階に入ったところに思える。
能登半島では過疎化が進んで限界集落になっている地域も多かったようだ。
そうした箇所での「復興」とは何なのか、という議論も始まりつつある。
元通りにできたとしても、もともとそこでの生活は難しかったのだ。
ならば、これを機に生活基盤から見直す方法もあるのではないか。
ただ、被災者にそれを「強いる」ことはできない。
当然のことながら、「元の生活」に戻りたいというのが多くの人の願いだろう。
どうするのが良いのか、これから長い時間をかけて模索を続けることになりそうだ。
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