ページ下部にある1行掲示板に、以下のようなコメントをいただきました。
まずは、ご意見感謝します。
この指摘は初めてのもので面食らいましたが、そのような受け取り方をする方がいる、という事実は、いろいろなことを、深く考えるきっかけを与えてくれました。
以下、掲示板に「匿名」として書き込んだ方への返事となります。
ご意見自体が深いというか、いろいろな問題を含むものですので、長文になりますが自分の考えをできるだけ述べたいと思います。
「前々から」「多すぎる」と書かれているので、それなりにこちらのページの内容を読んでくださっているのかと思います。
なので、トップページからもリンクしていて、時々文中からもリンクしている「当ページの執筆方針」も読んでいるものとします。
もし読んでいないのであれば、非常に重要なことを書いていますので、今すぐお読みください。
そちらの執筆方針には、「あえて嘘をつく場合がある」ということを書いています。
そして、実のところその執筆方針自体、嘘をついて書いています。
この執筆方針は、僕のページ作成における執筆方針だ、としていますが、これは話を矮小化した嘘です。
他人に強要する意図はないので自分のページに話を限定し、矮小化したのですが、内容的には一般的なものです。
僕が独自に考えたようなものではなく、大学で論文執筆技法の講義として学んだことを、ほぼそのまままとめて、自分の言葉で語ったものにすぎません。
ここに書かれていることは、文章作成者が皆心掛けていて良いものなのです。
(心掛けなくてはならない、ではなく、心掛けてよいもの、です。)
それはそのまま、読み手にとっての了解ともなります。
読み手は、意識的にせよ無意識にせよ、すべての文章製作者はこの心がけに沿って文章を書いている、と考えなくてはなりません。
(考えてよい、ではなく、そう考えなくてはなりません)
つまり、文章中に書かれている「嘘」について、寛容でなくてはなりません。
この寛容さは、嘘を受け入れろと言っているのではありません。
読者は、嘘を嘘であると指摘し、証拠を挙げ、他の人に注意を促す権利を持ちます。
しかしそこどまりです。
たとえ嘘を吐き続ける筆者であっても(今問題視されているフェイクニュースサイトのような場所であっても)、その権利を奪うことは許されません。
たとえ反論者が目障りでも(言葉狩りのような本論と関係ない反論でも)、その権利を奪うことは許されません。
嘘を吐き続ける人も、実のない反論を行うだけの人も、いつか信用を落とし、周囲は相手をしなくなるでしょう。
そうならないように、自分の威信をかけて自分の考えを発表する。
威信をかけているからこそ、誤りの指摘があれば速やかに修正し、または補強を行う。真摯な態度で臨む。
これが言論を戦わせるということで、言論の自由はこのために保証されています。
さて、「決めつけ」について。
上に書いた執筆方針を読んでいただければわかりますが、僕は話を端折るために嘘を書くことがあると明言しています。
世の中に単純な話など一切なく、どんなことを取り上げても、詳細を書いているときりがないためです。
ですから、話の単純化のために、嘘をついて決めつけることは多々あります。
決めつけている、と指摘のあった個所については、以下のように書かれていました。
「日本人の多くが勘違いしているのですが、スポーツとは運動のことではありません。」
これに関しては、どのくらいが勘違いしているのか、という定量的なデータを僕が持ち合わせていません。
誰もそんな勘違いをしていない、という反論も可能ですが、肌感覚としては、間違ったことを書いたとは思っていません。
(もちろん、先に書いた通り証拠付きであれば…定量的なデータなど示されれば、反論受け付けます)
英語の原義としての「スポーツ」は、余暇を楽しむものです。
運動に限らず、車でドライブすることもスポーツです。
冗談を言うことも、チェスやテレビゲームもスポーツです。
事実として、先日行われた平昌冬季五輪では、スポーツの一環としてチェスも行われました。正式種目ではなく、公開競技ですけど。
対人対戦型のテレビゲームを皆で観戦する、eスポーツも世界的には人気があります。
しかし、日本ではスポーツは「運動」や「体育」のことと考える人が多いです。
先日、eスポーツの国内団体が発足した際に新聞記事で「有識者意見」を集めていたのですが、体を動かさないテレビゲームがスポーツとされることに違和感を感じる、としている人が少なからずいました。
「有識者」と言われるレベルの人ですら、そんな現状なのです。
もっとも、この記事を書いた 2013年頃に比べて、現在では少しづつ誤解を解こうという動きがあります。
eスポーツ団体の相次ぐ発足もそうですし(単に金儲けの団体もありそうですが)、スポーツ庁の設立、体育の日の「スポーツの日」への改名などもこの流れの中にあります。
あと10年もすれば、状況は改善するかもしれません。
すこし話がそれました。
「決めつけ」についてですが、上では「日本人の多くが」と含みを持たせた書き方をしています。
しかし、もっと「日本人は」と決めつけることもあるのは事実です。
いずれの場合も、100% の人がそうだとは思っていません。そこは、話の枝葉を端折るための文章技法にすぎません。
これは一般的な文章の暗黙の了解だと思っていますし、事実として今までこの部分に対しての意見をもらったことはありませんでした。
しかし、一人でもそこに対する意見をくださった方がいる、という事実は、書き方が悪かったのだという自省はあります。
もう一つ、蛇足ながら付け加えておきます。
この文面も含め、僕は文の末尾を言い切る形で書くことが多いです。
これも執筆技法として一般的なことですが、文章というのは執筆者が「考えた」「思った」ことをまとめているものです。
そのため、「思う」「考える」というような文末は、いちいちつける必要がありません。自明だからです。
言い切り、決めつける形で書く。そのほうが簡潔で読みやすくなります。
(一般的ではない、僕の考えにすぎないと自己認識している部分について、「思う」をあえて使うことはあります)
決めつけたにも関わらず、間違えていたとしても、気にする必要はありません。
先に書いたように、それが間違いであれば他の人から間違いだと指摘されるだけですから。
指摘を受け、それが正しければ修正を行えばよい。ただそれだけです。
このことをして「決めつけている」というのであれば、単に文章を読むことに慣れていないのでしょう。
「レイシスト」「レッテル貼り」について。
ここでは「レイシストじゃないんだから」「レッテル貼りは / 卒業するべき」という文脈になっていますので、私がレイシストでないのはご理解いただいているものと考えます。
レッテル貼りとは、物事を単純化するために、多様なものをまとめて全部同じもの、と見なす行為です。
時として事実に反する認識を行い、対象となる相手を侮辱する意味にも使われます。
ここでの文脈がどちらかはわかりませんので、穏当に「すべてを同じと見なすべきではない」というご意見だと考えておきましょう。
これについては、すでにここまでに書いた通り、ごく一般的な文章技法として、些細な部分には踏み込んでいないだけです。
この意見をいただいた文章は、「最初のテレビゲーム」について論じたものでした。
その中で、「ゲーム」という言葉自体の定義が問題となるため、「ゲーム」とその上位概念である「スポーツ」という言葉の意味を書いていた部分です。
ここでは、この言葉の定義を問い直すことが目的であり、その過程で想定読者層である「日本人」の認識を問う必要がありました。
もちろん、すでに「スポーツ」の正しい意味を理解している人に対しては、読み飛ばしてもらって構わない部分です。
すべての日本人がこの言葉を理解していない、と書く意図ではありませんし、ましてやそれを侮辱表現とするものでもありません。
ところで、この文章自体は「最初のテレビゲーム」を論じたものでありながら、最初のテレビゲームがなんであるかの結論を出していません。
ゲームとは非常に多様なもので、その多様性こそがゲームの面白さだと思っているためです。
「最初」を決めようとすれば、多様であるはずのゲームの枠を一意に決めなくてはならなくなります。それはゲームらしさを損ないます。
そのために、十分な情報を提供したうえで読者に最終判断をゆだねる、という書き方をして、結論を出すのを避けました。
これについて、「結論を出していない」という批判をいただいたことはあります。
しかし、まさかその文章に対して「決めつけている」「レッテル貼りだ」という批判が出るとは想定していませんでした。
ところで、「レイシスト」は人種主義者のことですが、現在は国や民族による差別もレイシズムに含めて考えるのが一般的です。
人種はもちろん、国や民族による差別を行ってはなりません。
しかし、「差別しない」と「差があると思わない」は別のことです。
差は、歴然としてあります。
「日本人は日本語を主言語とする」
これは、日本人が他の国の人とは「差がある」、と明示する文章です。
しかし、決めつけでも、レッテル貼りでも、差別でもなく、単に事実を述べただけです。
先に書いた通り、一般論として書かれていることに注意してください。
アメリカから帰化した「日本人」が主言語を英語としている、という事実があったとしても、それは特例としてこの文章は成立します。
「日本人の心の奥底には『恥』の概念があり、恥ずべき事かどうかが行動の規範となる」
これが全てにおいて事実かどうかはともかく、一般的に正しいとされている日本文化論です。
キリスト教世界では「罪」かどうかを気にしますが、日本文化では「恥」かどうかを気にする、とされます。
こちらも、すべての日本人がそうである、とするものではありません。
しかし、日本文化の奥底に根差したものであり、それはキリスト教文化圏とは違うものである、ということを論じただけの文面です。
こうした差を書くことが、レッテル貼りやレイシストか、と問われれば、僕は違うと思います。
もちろん、これは僕の意見です。こうしたものでも差別的だ、というのがいただいた意見の趣旨だと思いますし、その趣旨は理解します。
実際、いじめや差別というのは、発言した側にはそうした意図がなくとも、受け取り側が傷つけば、いじめであり、差別です。
それを踏まえたうえで論を進めさせてもらうなら…
僕は、こうしたことを「差別だ」と考えてやめてしまえば、それこそが最大の差別を生み出してしまうだろう、と考えています。
差は歴然としてあります。
その差を見つけることが「差別」であるならば、すべての人は均質で、自分と同じである、として扱うしかなくなります。
つまり、足が不自由な人に「走れ」と命じたり、体が不自由で生活保護を受けている人に「働かないのは努力が足りない」と言ったり。
全ての人に差が無ければ、ある人が走れるのであれば別の人も走れるでしょう。
ある人が働いているのに働かない人がいるのであれば、努力が足りないのでしょう。
でも、そうではありません。
全ての人は差があり、できることが違います。
それは恥ずべきことではなく、自分がたった一つの存在であると誇って良いことです。
人種性、国民性、民族性の違いも同じです。
そこに、歴然と差はあります。その差を認識することは、差別ではなく相手を理解するための第一歩です。
相手の価値観を理解しようとせず、自分の価値観を押し付けることを、差別と言います。
もちろん、いわゆる「レッテル貼り」は相手を理解せずに決めつけることなので差別です。
人種、国籍、民族、性別などにより、最初から同等の権利を認めないことも差別です。
すべて、相手に対する理解が足りないことから行われるものです。
僕は比較文化論が好きです。
「日本人は」というような言い回しは、実際よく使っています。
指摘されるまでは気にしていなかったのですが、検索してみたら自分で思っている以上に多く書いていました。
これらの書き方を、差別だと感じる方がいる、ということを知れたのは、今回ご意見をいただいてよかったと思っています。
うまく伝わらなかったのは僕の書き方が悪かったせいで、今後の課題とします。
しかし、これらの記述で行っている比較は、差別を行うためではありません。
比較し、違いを認識し、その違いがどこから来るか考える。
そうしたことを通じ、より深く相手を理解する…つまり、差別をなくしたいためのものです。
これらはすべて、僕の考えにすぎません。「僕はこう思う」というだけであり、人に強要するものではありません。
先に書いた通り、差があるとすること自体が差別だ、という考えもあると思いますし、今回の意見はそうした考えから出されたものだと思っています。
この意見は尊重いたします。
つまるところ「差別はしてはならないものだ」という共通認識があり、その実現方法が異なっているだけですので、異論はありません。
そのうえで、僕は人に意見を強要しませんし、強要された意見を呑もうとも思いません。
強要することは差別ですし、強要を呑むのは差別を認めることになるためです。
今回の意見はいろいろと考えるところがあり、非常に参考になりましたが、今後も僕は考え方を変えないと思います。
そうした文章を読むのが嫌であれば、あなたには「読まない」自由があります。
自分の考えを強要するのではなく、相手に考えを押し付けられるでもなく、相手をただ理解する。
理解できないなら理解できないままで構わないが、相手の立場は尊重する。
僕としては、このやり方が一番差別をなくせると思っているので、今回もその方法を選択します。
さて、僕からの返答は以上ですが、もう少し話を続けます。
本文では、意見を書き込まれた記事をサンプルとして「日本人は」という書き方の意図を釈明しました。
でも、「前々から」と書かれた通り、他にもこうした書き方は多々使っています。
それらについても、いくつかの記事を示して意図を説明します。
比較文化論が好きだ、と上に書きましたが、この記事では、やたらといろいろなものを比較して「アーカイブ」というものを浮き彫りにしようとしました。
話の趣旨は「日本ではアーカイブの重要性が十分に認知されていない」ということなので、当然日本文化の話も書いています。
いろいろと比較に出しましたので「決めつけて」います。
さらに言えば、ここに書いた話、十分な裏付けはありません。
一応いろいろな資料を当たって書いてはいますが、あくまでも雑文、ポエムであり、僕が思ったままに書き連ねただけです。
裏付けがないのですから「レッテル貼りだ」と言われればその通りです。
違うと思う人は反論する権利があります。
これは、執筆方針として表明している通り。
「日記」として書いている記事は、十分な調査を行って書いたものではありません。
間違いを多分に含むと思いますし、間違いを指摘されれば修正いたします。
「生卵と生豚と」
これも、「日本人」「日本では」という言い回しの多い文章。
食文化の話として書いているのだけど、安易な決めつけを戒める話でもある。
ある時代において正しい「民族的な文化」であっても、時代が変わると変化することがある。
20年前は、生の鮭を食べてはいけない、というのは当たり前の「常識」だった。
でも、今は回転寿司でも生鮭の握りが出る。常識は時間と共に移り変わる。
先ほど、相手を理解して差別をなくしたい、と書きました。
ここら辺の記事は、そうした意図で書いたものです。
4年も前に書いたもので、現在は当時よりはLGBTへの理解も進んだと思うので、いまとなっては少し古臭いこと書いていますが。
差別を恐れるあまり、こうした問題に踏み込むのを嫌う人もいます。
取り上げること自体が差別的だと言われる覚悟も持って書いた記事でしたが、そうした反応は多くはありませんでした。
(反響自体は結構ありました)
これも先ほど書きましたが、差別を恐れて、実際に差があるものを「見ないふり」をするのは、より大きな差別を生むと思っています。
歴然と差はあるのだから、差があると認識したほうがいい。
その差が何から生まれるのか、理解するまで考えた方がいい。
もし考えても理解できないなら、「理解できない」のままで構いません。
それだって、差があることを認識したうえでのことです。
認識したら、それが事実なんだから受け入れる以外ない。
「差はない」なんて言っているより、ずっと差別的でないと思うのです。
アスペルガー症候群は、特に珍しくもない精神症です。
でも、差別されやすくもあります。
差別というか、事実付き合いづらい性格なのよ。
遠巻きに見ているだけなら面白いけど、近寄ってほしくない。
でも、アスペルガー症候群の人が「どのような考え方をするか」がわかっていれば、特に問題なく付き合えると思います。
ここに挙げた記事は、いち早くこの症例に気付き、研究をした医師の話と、実際のアスペルガーの症例。
症例、僕ですけどね。サンプル数1しかない。
でも、自分のことのように深く理解できていると思います。
最後にもう一つ挙げます。
「新しい文盲」
機能的非識字、という障害について取り上げた記事です。
機能的非識字とされる人は、軽度であれば大体5~6人に1人。結構多いです。アスペルガーより多い。
重症になればさらに少ないでしょうが、頭が悪いわけではありませんし、日常生活にも困りません。
だからこそ、「差」があることに気付きにくい。本人すら気づいていない。
文章を少し取り違えることで周囲との認識に差が生まれ、差別されやすい人々でもあります。
機能的非識字だと、文章は「読める」にもかかわらず「意味を理解できない」です。
文章の本論から離れた些細なところにこだわってしまって全体を見失ったり、逐一説明することのない、暗黙の了解に気付かずに勘違いしたり。
実のところ、今回意見をくださった方は、機能的非識字なんじゃないかと疑っています。
それも、少し重めの症状の。
この記事の冒頭付近で、意見がいろいろと「的外れ」であることを挙げさせてもらいました。
些細な話の枝葉に引っかかり全体を見失っている、一般的な暗黙の了解に気付けず意味を取り違える、などなど。
機能的非識字の一般的な症状です。
この記事もいい加減長いので、本当に機能的非識字であれば、ここまでの話が理解できているか怪しいものです。
そもそも、匿名で意見をくださった方がここを読んでいるかもわかりません。
記事内容に対して文句があってイライラしているようですので、僕なら「もうそのサイトを見ない」という行動に出るでしょう。
しかし、もしここを読んでいたら。
そして、「機能的非識字ではないか」とここで書かれて侮辱されたと感じ、怒りを感じているならば。
それこそが、記事の内容を読み取れていない証拠です。
普通に文章が読める方なら、ここまでの話の流れで侮辱する意図がないことはわかっていただけると思います。
もし該当するなら、まずは自分の症状と冷静に向き合い、得手不得手を認識するのが良いでしょう。
文章が読めなくても、頭が悪いわけではないと思いますので、得手不得手を認識できれば何も問題は無くなります。
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別年同日の日記
申し訳ありませんが、現在意見投稿をできない状態にしています。 【なお】 たまに、誹謗中傷的な文章に対して長い反論をされていますが、管理者の誠実さを感じつつ、その労力をもったいないと思っています。些細なことより、「OldGoodComputer」、もしくは「業界記」充実させて!古いコンピューターの記事が充実して、なおかつ更新が頻繁なサイトは少なくなりつつあります。これからもその活力を維持し続けて欲しい。 (2018-03-11 01:03:38)【なお】 コンピューターの歴史を趣味として楽しんでいるものです。 (2018-03-11 00:52:36) 【匿名】 むしろ今までそんな指摘が無かったのにも、今回初めて面食らったというのも不思議…。読者層のせいですかね。 (2018-03-10 21:53:30) |