目次
01日 ネットワーク管理
02日 機材管理
06日 データバックアップ
06日 インフルエンザ
16日 Harley-Davidson & L.A. Riders
18日 GetBass
26日 横浜散策
テクサポができる半年ほど前、AM1研は新しいビルに引っ越し、その際にサーバールームが新設されました。
サーバーの熱を冷やすため、専用のクーラーもついた小部屋です。
ファイルサーバーとして Sun のワークステーションが置かれていました。
部署内の UNIX マシンは、基本的に NFS でこのワークステーションとディレクトリを共有しています。
そのため、ファイルのバックアップなどは、各個人のマシンで行う必要はなく、定期的にストリームテープに保存されていました。
また、UNIX / Mac / Windows マシン間のファイル共有用に、Windows NT マシンも置かれていました。
同時接続数ライセンスの関係で、ファイルのやり取りをするときは迅速に行うように、と通達が出ていましたけど…
Windows NT マシンは、たしかプリンタ共有にも使われていたはず。
プリンタ本体は、サーバールームの外に置かれていました。
たしか Linux マシンもあったはずなのだけど、なんに使っていたのかよく覚えていません。
テクサポ課長もそれほど UNIX に詳しいわけではなかったし、当時はまだ Linux は今ほど一般的ではなかったので、何かに使えないか実験していただけではなかったかな。
同様に BoW を入れたマシンもありました。
BSD on Windows って…知らない人のほうが多いだろうなぁ。
いま BoW って言ったら、Breath of the Wild (ゼルダの伝説) か、Bash on Windows (Windows 上の Linux 環境) の略です。
当時の BoW は BSD on Windows 。名前の通り、Winodws 上で動く BSD 環境でした。
まぁ、これもテクサポ課長が実験していただけだと思うんですけどね…
「期待していたほど UNIX として使えない」と言っていたと思います。
この頃まで、開発環境は全部 UNIX だったのですが、テクサポができたのと前後して Windows マシンなども使うようになっていきます。
多分、その過渡期として「安いマシンに UNIX を入れた際に、開発で使い物になるかどうか」を調べていたのではないかと思います。
ネットワークの管理は今よりも泥臭いもので…
一端書いてみたのだけど、あまり面白い話ではないので詳細は省きます。
スイッチングハブはまだなく(実際にはあったけど高価で)、パフォーマンスを上げるためにはサブネット分割が必要でした。
AM1研はゲームのプロジェクトごとに人員を集める方式だったので、同じチームの人を1つのサブネットにしようとすると、チーム編成のたびに IP アドレスの付け直しが必要になります。
物理的にもマシンが移動しますし、ケーブルの繋ぎ直しも必要。サーバールームには大きなパッチボードが用意されていて、そこでケーブルの物理的な接続を変えられるようになっていました。
あるころ、新しく導入したマシン(SGI O2)が 100Mbit の通信に対応していました。
ハブの方は先に 100M 対応を終わらせていたので「これで速度が速くなる」と思ったのですが、思ったよりパフォーマンスが出ません。
多くの 10M マシンと同じサブネットにしているので、10M の通信の遅さに 100M が「待たされて」しまうのですね。
チームごとにサブネットを分けるのをやめ、10M マシンと 100M マシンで別のサブネットにしたら速度が上がりました。
今だと笑い話にもならないような、古い時代のネットワーク管理苦労話です。
そういえば、SGI の UNIX (IRIX)を GUI で操作する際、ネットワーク構成を入力する際に、IP アドレスを 16進数で入れさせられたと思います。
…必ずではなくて、通常の 10進入力も選べたはずだけど。どちらがデフォルトだったかは忘れました。
32bit だから 16進にするのも悪くないのでは…と思いつつ、他のマシンが全て10進入力なので、SGI でも10進入力でやってました。
IP アドレスとしては、会社で Class B アドレスもらってたんじゃなかったかな。
それを各部署に分割して使わせていた。
AM1研では /22 くらいのアドレスをもらっていたと思います。
まだ IP アドレスの枯渇、なんてあまり気にされていなかった時代です。
#もっとも、枯渇が近いと言われ、NAT 技術はすでにありました。
Windows マシンに Chameleon NFS を入れる、なんていうのも大切な仕事だったな。
先に書いたように、テクサポができたころから Windows マシンを使い始めたのですが、当時はまだ Win95 。
インターネット接続は標準では提供されていませんでした。
そんな当時のベストセラーソフトの一つが、Chameleon NFS。
ネットワークに接続するための機能…TCP/IP スタック、と呼ばれるものを提供していました。
買ってきた Windows マシンには、Windows はインストールされているのですが、ネットワークに繋げません。
そこで Chameleon NFS をインストールするのですが…
「TCP/IP スタック以外はそれほど出来が良くないので入れるな」と課長に厳命されていました。
名前になっている NFS とか、FTP とか、ファイルを交換するソフトの利用がネットワークに接続する目的なのですが、それらは別のソフトを使え、と。
当時は詳しくなかったので言われるままにやっていたのですが、ならばなぜ Chameleon だったのか。
ネットワークと言えば、BootP なんてのもあったな。
MODEL-1 の開発機材だったと思いますが、ネットワークに接続して使うのに、IP アドレスを設定できないものがあったのです。
マニュアルには BootP をつかえと書いてありました。
イーサネット機材は、必ず IP アドレスとは別に MAC アドレスというものを持っています。
マシンに電源が入ると、「ネットワークに参加するよ!」って、MAC アドレスが通知されます。
ネットワーク上に BootP サーバーがあると、この MAC アドレスを受け取って設定リストと照合し、同じものがあった場合は「君の IP アドレスはこれだよ」と、IP アドレスを渡します。
もちろん、リストに載っていない MAC アドレスに対しては、何もしません。
BootP に対応した機材は、それ以降は受け取った IP アドレスを使って通信を行います。
これ、当時は「IP アドレスはマシンに設定するもの」だと思っていたので、設定方法がわからずに苦労した覚えがあります。
こんな変な方法で設定を行う機材もあるんだ…って思っていたら、今ではこの技術がさらに拡張され、一般的になりました。
DHCP ってやつですね。実は BootP の拡張です。
BootP では、人間が MAC アドレスと IP アドレスの対応表を作りましたが、DHCP では自動的に作ってくれます。
特にまとまりはないですが、ネットワーク管理の仕事はこんな感じでした。
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申し訳ありませんが、現在意見投稿をできない状態にしています。 【あきよし】 誤記指摘ありがとうございます。修正しました。冗談部分でチェック甘かったとはいえ、ひどいミスだ… (2018-03-10 13:42:01) 【rink】 Breath of the Wildですね・・・ (2018-03-06 18:24:18) |
機材管理もテクサポの仕事でした。
主に古いコンピューターと開発用 ST-V 基板…かな。
経理上の問題なのですが、会社で機材を購入した場合は、「減価償却」しなくてはなりません。
例えば、25万円の UNIX ワークステーションを購入したなら、5年間にわたって、毎年5万円づつお金を払った…という扱いにします。
仕事上必要なものを購入したお金は、売り上げから差し引かれ、「儲け」を見た目の上で減らすことができるためです。
儲かった時に、税金を払いたくないから贅沢品を購入する…というようなことが罷り通れば、税制はむちゃくちゃになります。
そのため、高価なものは「数年にわたって分割して」購入代金が支払われたようにしなくてはならないのです。
#これにより、単年度の売り上げは圧縮されることが無く税金が発生する。
また、本当は必要のない高価なものを無計画に買いにくくなる。
世の成金社長が「中古のベンツ」を購入する理由でもある。
この「減価償却期間」が終わるまでは、そのコンピューターは正しく購入した部署の手元にある必要がありました。
…とはいっても、コンピューターの世界は日進月歩。5年も同じマシンを使い続けられない、ということもあります。
どうするかというと、テクサポ預かりで棚に積んでおくの。
各機材には「機材管理番号」のバーコードシールが貼られていたので、そのシールだけはすぐ見えるように棚に積んでおく。
年に一度、総務課に「購入した機材がどこにあるか」を届け出る必要がありました。
バーコードリーダーが貸し出され、機材管理番号のバーコードを、全部読み取って見せないといけない。
結局、それだけのことなのです。
総務課に怒られないようにするという、ただそれだけのために使わないコンピューターを保管しておく必要がありました。
もちろん、実際に使っているコンピューターにも機材管理番号はつけられていて、部署内の全部のマシンを読み取って回るのは大変な仕事ではあったのですが。
テクサポ課長が、この作業が大変なので、機材管理台帳を作りたい、と言いました。
Linux マシンに PostgreSQL をインストールして…機材管理を DB でやろうとしたのですが、当時はまだ SQL なんて一般的ではなく、課長もよくわかっていません。
僕に「どうにかして」と丸投げされたのですが、僕も当然わかりません。
許可を得て FileMaker Pro を購入し、そちらで管理しました。
今考えると、素のコマンドラインで DB を操作して機材管理しようって、無謀すぎるよ…
FileMaker は一度 DB を構築してしまえば、Web で操作できる機能があります。
サーバールームに WinNT マシンがあったのでインストールし、どの機材が誰の席にあるか、すぐに探し出せるようになりました。
本体、モニタ、キーボード、マウス…それぞれに別の機材番号がつけられていました。
多分、キーボードとモニタは経理作業上は「付属品」なので管理の必要はないと思うのですが、課長が周辺機材まで管理するように求めたもので。
しかし、機材管理を細分化しすぎると、余計な手間が増えて実用的ではなくなります。
実際、「キーボードの調子が悪い」なんて時には、テクサポを経由せずに人から人に機材が「移動」してしまうことも多かったため、たびたび台帳と実際が合わずに苦労することになります。
ST-V 開発基盤は、リース品でした。
ST-V はいうまでもなくセガがオリジナルで開発した基盤ですが、「開発用機材」となるとそれほど大量生産するわけでもなく、「手作り」になってしまいます
生産は外部の会社に委託するわけですが、このコストだけでも市販する大量生産基板に比べて高価になってしまうのです。
そんな高価な機材を「購入」するとなると、部署の予算を使い果たしてしまいます。
そこで、外部のリース会社に間に入ってもらうのです。
AM1研としては、非常に高価な開発機材を一括購入できる予算がないため、リース会社に5年程度の契約でリースをお願いします。
さらには、ICE などの機材も必要です。
CPU をエミュレートして、その動作を外部の PC などから確認・変更できる機材で、1台で数百万から1千万くらいの機材です。
これらもすべて、リース品でした。
しかし、僕が引き継いだ時点で、前任者である「基板奉行」の管理がいい加減で…借りているはずの品物が、どこにあるのかわからないものが多数存在していました。
しばらくするうちに、外部の会社から「開発が終わったのでお返しします」とか言って急に現れたりするんですが…
とにかく、新しく認識したら、その時点で先に書いた DB に機材を登録。
どこに何台貸しているのかも一切わからないのだから、他に方法がない。
ある時、ICE のリース期限が近いので返却お願いします、とレンタル会社から連絡が来ました。
確認すると、本体は台数がちゃんと足りていました。すぐ返せます。
でも、多数の付属品のうち、マニュアルが一冊だけ足りない!
必死で探しました。全部そろっていないと返却できません。
ST-V 開発経験者に持っていないか聞いて回り、昼礼でもどこかに紛れているのを知らないか聞き、他のマニュアルの間に挟まっていないかマニュアル棚を隅々まで探し…
無情にも返却期限はやってきました。
レンタル会社に電話して事情を話します。
マニュアル1冊だけであれば、とりあえず揃っているものを返却して、マニュアルだけ後で返却でよい、という返事をもらえました。
恐る恐る、ちなみにマニュアルが見つからない場合はどうなるでしょう? と聞いてみます。
「破損扱いになるので新品相当の代金をいただくことになります」と、血の気が引く金額が伝えられた覚えが…
しかし、その後も懸命の捜索に関わらず、マニュアルは見つかりませんでした。
1か月後「今回だけは特別に」マニュアルはもうあきらめて、返却が終わった手続きとする、とレンタル会社から通達が来ました。
オリックスレンタリース様、その節は寛大な処置、感謝です。
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データのバックアップもまた、テクサポの仕事でした。
これらは、開発会社にとっては一番大切な「資産」だからね。
プログラマのホームディレクトリは、Sun ワークステーション上に置かれて NFS 共有されていました。
このディレクトリは、週に数回、テープにバックアップされます。
これは課長が cron で動くようにセッティングしていたので、特に触った覚えはありません。
#テープのセットだけ頼まれたくらいのことはあったかも。
Quantum のを使っていたと思うから、 DLT (Digital Linear Tape) かな…
デイリーなバックアップとは別に、プロジェクト終了後の永久保存用バックアップもとります。
プログラムは、上に書いてあるように NFS に入っているので、ソースファイルのディレクトリを聞いて保存するだけです。
グラフィックは NFS 共有していなかったので、プロジェクト終了ごとに各マシンからデータバックアップを取りました。
3Dゲームの一式とかになるとデータが膨大過ぎるので、不要なもの(元データから機械的に生成できる中間生成物など)は消してもらって、ディレクトリごと保存します。
僕がこれらの作業をする頃には、3Dゲームが当然になっていましたが、とにかくデータが大きい…
後で何かあった時に再利用するのがバックアップの狙いですから、無圧縮で保存することになるのですが、CD-R に焼くとデータだけで4~5枚になります。
データ損傷に備えて2枚づつ作ったので、結構な枚数になります。
セガには「セガ純正 CD-R」というのがあって、サターンのマスター作成なんかに使うのですが、最初はそれを使ってバックアップを作っていました。
でも、このディスク、1枚千円くらいするんだ。
ゲーム1本のバックアップを作ると、それだけで1万円とか行きます。
なんかもったいないから、秋葉原で生ディスク探してきて、と言われます。
#当時は CD-R はまだ新しいメディアで、売っている店が少なかったのです。
秋葉原に行ってみると、10枚組で3千円くらいだったかな…
とにかく安いのがあると判ったら、課長が会社の近くでメディアを売っている店を見つけてきました。
それでも、歩いて30分くらいかかる距離だったけど、時々 CD-R を買いに行かされました。
行くときは途中で買い食いしたりして、お使いもそれなりに楽しんでました。
古いゲームのバックアップの「メディア更新」も行われました。
PC98 用の 5.25inch ディスクにバックアップされた古いゲームのソース一式を、CD-R にコピーするのです。
スペースハリアーとか、アウトランとかのソース一式もあったと思います。
1つのゲームに対して、フロッピーで4~5枚、大規模なものでも10枚程度だったと思います。
だから、昔すごいと思ったあれやこれのゲームも、30本で CD 1枚とか、そんな感じ。
こちらも、データ損傷に備えて2枚づつ作ります。
先に書いたように、その頃の「最新のゲーム」なら CD 4~5枚。
この容量の差が、そのままゲームの発展の歴史です。
これらのゲームソース一式は、頑丈なジェラルミンケースに収められ、課長の席の後ろに置かれました。
そして、「火事などの大事があったとき、とにかくこのケースだけは持って逃げるように」と厳命されました。
基本的に 20 年たった話で書いていますが、2001年頃の話を…僕がセガをやめた後の話です。
ネットで知り合ってリアルにもあったことのある、フリーのプログラマーさんがいました。
その後疎遠になっていたのですが、ある時街でばったりと出会いました。
なんとなく、お互いのその後の話になったのですが、セガを辞めたというと、その方が「セガの仕事を受けた」というのです。
2002年にセガから発売になった、PC 用のスペースハリアーのタイピングゲームを作っていたのです。
というか、話をしていた段階で「すでに完成しているのだけど、セガにそれを言えない」というのです。
なぜなら、作成に際して提供されるはずのドット絵などの各種資料が提供されていないから。
サターン版の CD から解析してデータを手に入れてしまい、完成しているのだそうです。
だけど、それはリバースエンジニアリング。法的に微妙な問題をはらみます。
だから、資料提供までは、何も手を付けていないふりをしていないといけない…と。
#リバースエンジニアリング(製品を分解・解析して情報を得ること)は、違法行為ではありません。
しかし、当時は「知的財産権の侵害であり、違法行為である」という世論が強くなっていました。
依頼主は AM2研でした。
そして、AM2研の担当の人が探しているのだけど、スペースハリアーのソース一式が見当たらないのだそうです。
…それ、AM1研にあるから。
テクサポ課長の机の後ろに、ジェラルミンのケースに入った CD の中に入れてあるから。
『スペースハリアーは古い作品で、当時は1研も2研も分かれてないですよね。
念のため、1研の方に連絡を入れて調べてもらえないでしょうか』
と、次に AM2研の担当者にあった時に伝えてみてください、とアドバイスして別れました。
その後どうなったかは知りませんが、ゲームは無事発売されたようです。
…そして、評価低いですね。
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今年はインフルエンザが猛威を振るっている。
A型の流行を予想していたら、予想通りA型が流行したのだけど、同時にB型も流行してしまった、というのが原因のようだ。
通常、その冬の「流行」が終わると、春先に別のウィルスが少し流行する。
そして、これが翌冬の流行になる、と経験則上知られている。
だから春先に次に流行るタイプを察知し、夏の間にワクチンを作るのだけど、今年は冬の頭から「次」が流行し始めてしまった、ということらしい。
で、我が家の状況を「落ち着いたら」書こうと思っていたのだけど、落ち着く前に複雑化してきた。
忘れる前に現状を書いてしまおう。
家族中、ワクチンは接種していた。
ただし、子供は2回が望ましいのだけど、1回しか接種していなかった。
今年はワクチンも足りないらしい、と聞いて、1回目は11月頭に早めに接種した。
2回目は、12月頭に連絡したのだけど案の定足りずに接種できなかった。
その後供給が安定したらしいのだけど、忙しくて接種できなかった。
1月27日の夜、長女(小4)が、なんか背中が痛いという。
この日は土曜日で、長女は手芸をして遊んでいた。根を詰めすぎて背中が痛くなったかな、位に思っていた。
そうしたら翌朝…5時前だったと思う。
「お父さーん」と遠くから呼ぶ声で目が覚め、行ってみると「気持ち悪くて吐いた」と長女が言う。
早く目が覚め、居間に行ったところ急に気持ち悪くなり、すぐに風呂場に行って洗面器に吐いたという。
わが子ながら冷静な判断。
ちょっと服を汚してしまったので着替えたが、他に問題はなし。
ただ、この後熱を測ったら、38度を超えていた。
これは…明らかにインフルエンザだな、とわかった。
手足の関節もなんか痛いという。
しかし、日曜日で行きつけの小児病院はお休み。
近所には開いている病院もあるのだけど、小学生は見ない、と明言している。
行きつけ以外もネットで探すが、皆日曜休み。
救急病院があることは知っている。…以前に休日の急な発熱で行ったことがあるから。
でも、遠いし、休日診療している病院は少ないのですごく混むし、長く待たされていいことないのを知っている。
というわけで、病院には行かないことに決める。
インフルエンザは発症から 48時間が一つの区切りだ。できれば月曜日に行こう。
#48時間以内なら、症状を軽くする薬が有効。
この後も、高い熱が続く。食欲もない…というか、吐いたのが気になるようで、食べる気が起きない。
とはいえ、何も食べないのも体力が落ちて病気に勝てない。気が向いたときに少しづつ好きなものを食べる。
#カロリー的にはギリギリ足りているくらい。
翌日月曜日、学校には休みの連絡を入れる。
午前中に病院に行こうと思って、ネットで予約を入れる。しかし、待ち時間が長い。
待合室で長く待つのも疲れるので、30分くらい前になったら行こう…と思っているうちに、子供は寝てしまった。
時間が近づいて起こしてみるも、眠いとのこと。熱が高く、夜の間も熟睡できていないのだ。
そのまま寝かせて、病院はキャンセルする。午後行こう。
…と思っていたら、学校から「学級閉鎖のお知らせ」。
今週いっぱい休みになるようだ。じゃぁ、さすがに月曜までには治るだろうから、無理して病院に行くのはやめる。
…これ、僕の早合点だった。
「金曜日まで休み」だと思ったけど、「金曜日から再開」だった。
気付いたのは翌日で、48時間を超えた後。もう仕方ない。
インフルエンザなら水曜日くらいまで熱が続くかな、と思っていたら、少し予想と違って木曜まで熱があった。
しかし木曜午後には下がり始め、金曜日には平熱に回復。
これにに前後して、長男(中1)の話。
1月31日(水)、昼過ぎに帰宅。学年閉鎖になったという。
水木金の3日間、つまり週明けまでは学校がない。
長女と長男が家にいることになった。
長女は風邪で病人食。長男の分も昼飯を用意しないといけない。
主夫として僕が昼飯を作るのだけど、忙しくなった。
#いつもなら、ご飯にふりかけとか、缶詰開けるだけとか、その程度。
子どもがいるときはちゃんと作る。
急な学年閉鎖で、先生も何も準備していなかったので宿題などは出ていないという。
その一方で、最近通い始めた塾でたくさん宿題が出ていたので、日中は宿題をして過ごす。
さらに、次女(小2)の話。
長女がインフルエンザになってしまったので、自分も感染っているのではないかと気が気でない。
水曜日から毎朝熱を測る。
木曜日、熱が 37度2分あった。うわ、微妙な熱。風邪でなくてもそれくらい出ることはありそう。
しかし、インフルエンザの疑いはある。念のため学校を休ませる。
この日は、全員家にいたわけだ。
次女の熱は、昼過ぎには平熱に戻った。
学校休んで暇なものだから、ぴょんぴょん飛び跳ねて遊んで、頭がガンガンしている長女に怒られたりする。
翌日金曜日は学校に行った。
ちなみに、この後の週末土日は、全員風邪ではない。
そして、スプラトゥーン2のフェスの日だった。
病み上がりで久しぶりにゲームをする長女は、相変わらず鬼のような強さだった。
(普段のガチマッチランクは、すべて A+。)
さて、週は空けて2月5日(月)…というのは昨日なのだが、長男がいつもより早く目が覚めたらしい。
何か気持ちが悪い、というので熱を測ったところ、37.7度。これまた微妙。
長女は、平熱に戻ってから2日以上たった。
インフルエンザの場合、回復から2日間は登校などしてはならないが、問題なし。
次女と一緒に元気に登校。
長男は休み。ただ、関節や筋肉の痛みはないし、熱も低い。
何よりも元気はあるようだし、食欲もある。
…まぁ、熱の影響で眠い様で、寝たり起きたりを繰り返しているのだけど。
熱が上がったらインフルエンザかもしれない。その時は病院に行こう。
…とおもったまま、今日、火曜日になっても状況は変わらない。
今日火曜日、次女のクラスが「学級閉鎖」と連絡。
木曜までの3日間だそうだ。
これを書いているのは夕方で、長男はまだ微熱が続いている。
明日の朝回復していたとしても、体力回復までもう一日休んだ方が良いだろう。
というわけで、明日も子供が二人いることになりそうだ。
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このゲーム、僕は関与していません。
それどころか、1998年の発売だと思っていたら、1997年の12月でした。慌てて記事書いてます。
一応「クールライダーズ」の系譜ということになるのかな…
バイクで自由気ままに走り回るゲームです。
クールライダーズでは「Born To Be Wild」をテーマソングに使っていました。
この曲は、映画「イージーライダー」のテーマソング。
そして、映画「イージーライダー」は、自由を求めてハーレーダビッドソンのバイクで旅をする男たちの物語でした。
そこで、今作では正式にハーレーダビッドソンのライセンスを取得しました。
ゲーム中のバイクはハーレーを正確にモデリングしていますし、排気音も実機から録音したものです。
そして、ハーレーを乗り回すのであれば「自由」でなくてはなりません。
ただゴールを目指すだけのレースゲーム、ではダメだったのです。
そこで「L.A. ライダーズ」というわけです。
L.A. (Los Angeles:ロサンゼルス)の街をゲームの中に丸ごと作り込み、交通ルール無用で自由に走り回るゲーム。
とはいっても、ゲームですので目的は必要です。
「ランダムに示されるチェックポイントを回る」がゲームの目的になります。
チェックポイントを通過すると、プレイ残時間が延長されて、次のチェックポイントが現れます。
5個クリアするとゲーム終了。
次がどこかは出現するまでわからないので、場合によっては急ターンして戻らないといけない、なんてことも。
それまでのレースゲームにはない感覚でした。
街を丸ごと作り込んで、プレイヤーはその中でどのように行動しても良い。
…今ならそういうゲームもありますが、当時としては大きなチャレンジでした。
そういうゲームに「挑んだ」話は度々聞いたのですが、「完成した」という話はほとんど聞きませんでしたから。
L.A. ライダーズの場合、街丸ごとを作り込むとは言っても、できることは「中を走る」ことだけです。
それでも、街の中には他にも車が自由に走っていますし、歩道には人が歩いています。
建物の中などに何もないとはいえ、活気ある街はちゃんと再現されているのです。
当初は、本当にこのアイディアが実行可能なのかどうか、街の作り込みから始まりました。
ただ広い街の中を走れるだけで、この時点ではゲームではありません。
そこから、これをどうすればゲームにできるのか、試行錯誤が始まりました。
先に書いた通り、当時は「自由に行動してよい」なんてゲームはないのですから、参考にできるものはありません。
結局、次々と指定される「チェックポイント」を目指す、という形になりました。
チェックポイントは「地点」であり、そこに至るまでの「コース」はプレイヤーが自由に決められます。
一応、初心者のために道案内してくれる矢印は出るのだけど、これは決められたコースではありません。
街をちゃんと知れば、大胆なショートカットをしたり、多少遠回りでも障害物の少ない道を進んだりできるのです。
しかし、これでもゲームとしてはまだ今一つだったのです。
本当にランダムだと「絶対クリアできない」とか「簡単すぎてつまらない」状況が時折現れるのです。
この乱数の「出具合」の調整にも、かなり苦労していました。
完成したゲームは…若干大味のゲームでしたね。
かなり調整したとは言っても、ランダムにチェックポイントが設定されるという「運の要素が強い」ゲームになってしまいますから。
一人でやり込むようなゲームではありません。
しかし、多人数でわいわい楽しむゲームとしては楽しい物でした。
多人数プレイの場合、誰かがチェックポイントを通過すれば全員が時間延長です。
チェックポイントが出る場所はある程度決まっているので、自分がチェックポイントから遠い場合は、次の出る位置をヤマを張って待つ、なんてプレイもアリでした。
一人で遊ぶより、多人数プレイが楽しい作品。
そんなところも、「クールライダーズ」と共通しています。
もっとも、当時最新の Model 3 基板を使っていたこともあり、高価でした。
複数台揃え、多人数対戦できる設定だった店舗がどれほどあったのかも疑問です。
「決められたコースがない」という、それまでのゲームにはなかった新しい世界を作り出す実験は成功だったと思います。
L.A. ライダーズは、ゲームマシンの性能が上がり、「街を丸ごと作り込む」ことが可能な時代がやってきたことを示しました。
2年後に、AM3研はクレイジータクシーで、AM2研はシェンムーで、同じように「自由に行動できる」ゲームを作ります。
そして、それらは現在「オープンワールド」と呼ばれるゲームジャンルの先駆けとなりました。
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こちらも L.A.ライダーズと同じく、1997年12月発売でした。
この頃のゲームは日本で先行発売してから海外版を作っていたのですが、ネット上の多くの情報が海外基準で書かれています。
そのため、年末ぎりぎり発売の作品などは、翌年の作品にされてしまうことが多いのですね…
以前、「スポーツフィッシング2」というゲームを紹介しました。
AM4研が主導し、AM1研でプログラムを作成したゲームです。
当時のAM4研というのは、筐体やエレメカを作る部署。
スポーツフィッシング2は、「リアルな竿の動き」を表現するエレメカに、おまけ程度の実写映像を組み合わせた釣りゲームでした。
これを、映像部分も MODEL3 のリアルな映像で作り出してやろう、というのが「GetBass」でした。
スポーツフィッシングは海釣りですが、GetBass は湖…それも、タイトル通りブラックバス釣りに特化しています。
発案が誰だったのか知りません。
でも、プロジェクトに参加していた同期のグラフィックに釣り好きがいて、「このゲームを作るために会社に入った気がする」と言っていたように思います。
ゲーム発表後に話題になり、釣り雑誌が取材しに来て開発話が漫画化されていました。
「GetBassを創った男たち」
…えーと、「バーチャファイターを創った男たち」って漫画があったので、それのパロディですね。タイトルは。
同期のグラフィックの彼も重要な役どころで登場していたそうで、喜んでいました。
僕は「漫画になった」ことは聞いたのですが、読んでないので詳しいコメントはできません。
業務用は、結構リアルに感じました。
釣りやったことないから、本当にリアルなのかわからないのだけど。
実際に釣り竿型のコントローラーで操作し、魚がかかれば糸が引っ張られる。
魚が左右に動けばそちらに糸が動いていく。
リールを巻けばどんどん重くなって竿がしなるし、竿を上下に動かしながら、少しづつ糸を巻き取っていく感じ…
スポーツフィッシング2もそうだったのですが、本当は糸を巻いてなんていないんですよ。
リールは回転を感知して、モーターで負荷をかけて「重さ」を演出しているだけ。
同時に、竿の先に固定されている糸がゲーム機の中に巻き取られて竿がしなるだけ。
でも、自分でリールに糸を巻き取っているように感じますし、「魚と格闘している」ように思える。
この仕組み、エレメカとしては3作目ですから、非常によくできていました。
しかし、ゲームですのでリアルばかりではありません。嘘もたくさんついています。
魚釣りって、のんびりと魚を待つものなのですが、これはゲームですから待つ必要がありません。
ルアーを投げ込めば、魚がすぐによってきます。
「寄ってくる」というのも、水中の魚の動きが見える。
魚がいないなら、すぐに別のポイントに切り替えられます。
魚釣りの「楽しいところ」だけを、テンポ良く楽しめるゲームなのです。
この、「水中の魚の動きが見える」部分がよくできていました。
当時最先端の MODEL3 の描画能力を、たった数匹のブラックバスのために注ぎ込んでいるのですから。
さすがは、釣り好きのグラフィックが一生懸命作っただけのことはあります。
でも、業務用の宿命として、1回に遊べる時間が結構短めだったのね。
ゲームシステムとしては、与えられた時間が無くなったらゲームオーバーです。
当初の持ち時間は2分程度。魚がかかったら時間延長、釣り上げても時間延長。
一定時間内に釣った魚の重さの合計が一定数に達すると面クリア。
次の釣りポイントへ向かいます。
新しい釣りポイントでは新しい持ち時間設定があり、最終面クリアで終了。
魚釣りってのんびりとしたものですが、一種のタイムトライアルレースです。
忙しいゲームでした。
リアルな画面と巧妙なエレメカの組み合わせ、というのは高評価だったのですが、世の中の評価の多くは、後に作られたドリームキャスト版のものだと思います。
上のビデオは、移植されたドリームキャスト版のもの。
また、タイトルも海外名の「SEGA Bass Fishing」になっています。
日本でも人気はあったのですが、それ以上に海外で人気の出たゲームでした。
ドリームキャスト版では、時間を気にせずに「釣りシミュレータ」としてじっくり楽しめます。
専用のコントローラー「釣りコン」も、糸が引っ張る仕組みこそないものの、竿の角度やリールの手ごたえなどは再現していました。
さらに言えば、DC 版は後に PS3 / XBOX360 / PC 版として移植されています。
このときは専用コントローラーさえなく、それでも高評価だったようです。
それだけ、家庭用で拡張された「シミュレータ」部分がよくできていたのでしょう。
でも、DC への移植は、基本的に外注会社の仕事のはず。
外部に移植を任せると、原作に忠実な「べた移植」になればよい方で、大抵は劣化移植。
それが、独自のモードを追加してその部分の評価が高いというのは、かなり良い仕事をしてもらえたのではないかな。
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長男が中学に上がってから、あまり気軽に出かけられなくなった。
以前なら、思い立った時に出かけていた。
でも、中学生だと定期試験があるので出かけにくい。
小学校と中学校でも行事日程が異なるので、週末が別のタイミングでつぶれることが多い。
まぁ、これは小学校と保育園に通っていた以前も似たようなものだけど。
あと、冬になってからは塾に通い始めたのでその影響もある。
もう一つついでに、去年の夏からスプラトゥーン2で遊んでいるが、大体月頭の土日はフェス(オンラインのイベント)がある。
そんなこんなで、以前より気軽に遊びに出られないのだ。
長男の年度末試験は、先週の金曜日で終了した。
この時点では明らかになっていなかったが、スプラのフェスはおそらく来週の土日だ。
(実際、土曜日にはその告知が出た)
じゃぁ、この土日なら遊びに行ける。
日曜日は疲れを取るのに家にいるつもりで、土曜日に出かけよう。
家族にそう提案したら、子供は久しぶりに理科ハウスに行きたいという。最近行っていないのは事実。
でも僕と妻は、まだ家族で行ったことのないところに行きたい。
そういえば、しばらく前から横浜の氷川丸・マリンタワーに子供を連れて行ってやりたい、と思っていた。
横須賀の三笠でもいいのだけど、なんか氷川丸な気分。
…なんでだろうと思っていたら、妻から「じゃぁ、チケット使おう」と。
言われるまで忘れていた。妻のお父様から、氷川丸の優待券貰ったけどいらないから、ともらっていたのだった。
そうか、なんか行かないといけない気になっていたのはそのためだった。
土曜日の朝、出かけるつもりで準備。
しかし、妻が仕事が中途半端だから終わらせてしまいたいという。
そうしないと、心から楽しめないから。
…が、11時までやったところで「終わらないからやっぱ行こう」と切り上げた。
これで出発が2時間遅れてしまったが、中華街あたりで昼飯にするにはちょうどいい時間だろう。
最近車で出かけることが多かったので、電車は子供たちにはちょっと新鮮なようだ。
京浜東北線で石川町まで。
中華街でいろんなもの買い食いする程度で楽しいだろう…と思っていたのだけど、妻が「見たら食べたくなった」というので、飲茶のお店を探す。
5年前くらいは、回転寿司みたいな「回転飲茶」が流行っていたのだけど、ほとんどの店が無くなってしまったようだ。
最近の流行は、定額で食べ放題の方式らしい。
2千円程度が多い中、1700円のお店があったのでそこに入る。
値段は安くても質が悪いようなことはなく、十分美味しかった。
というか、1700円って、昼めしとしては決して安くはない。
食べ放題なのだからと食べ過ぎた。
すぐに次に移動するのも大変だから、少しぶらぶらしよう、ということになった。
子供たちは以前中華街に来たことはあるのだけど、あまり覚えていない。
7年も前の出来事だから覚えているわけないか。
その時は、昼ご飯を食べただけ。今回はお土産物屋さんとか覗いて、中華街らしさを満喫してみよう。
子供が生まれる前は、時々妻と中華街デートをした。
中華街の肉まんとか、1つで腹いっぱいになる大きさなので、適当に買い食いして歩くだけで楽しいものだ。
で、帰りは大抵中華食材屋さんでお土産を買って帰る。
その頃のひいきの店は確かこの辺に…と探したら、まだあった。
妻の好きな山査子餅、久しぶりなので2パック買う。
麻花兒、好きだった。
見ていたら、長男が「美味しいの? どんな味? 甘いの辛いの?」と聞いてくる。
うーん、甘いとか辛いとかではなく、小麦の香りがおいしい、固焼きのお菓子、と答える。
せっかくだから買おう。ソフトタイプとどっち買ってたっけ? と悩んでいたら、お店の人が「さっきの思い出だと、固い方だね」とアドバイスをくれた。
あと、腐乳。これも中華街でないとなかなか手に入らない。
麹と塩につけて発酵させた豆腐。「うまい」という記憶だけあって、詳細な味忘れた。
紅麹、白麹、ラー油入りの3種類があった。これも確か3種類とも食べ比べて、紅麹が気に入っていたはず。
というわけで購入。後で食べたら、塩味が強めで、ご飯に少し乗っけて食べると絶品。
歩き回っている間に、ちょうどこの日、春節のパレードがあることを知った。
パレードは16時から。まだ2時間ほどあった。
氷川丸に行くかどうするか…しばらく相談し、パレードを見ることにした。
氷川丸はまた来れるが、春節のパレードは年に一度しかない。
そんなわけで、2時間いろんなものを見て時間を潰す。
お土産物屋で像棋(中国将棋)を売っていた。ちなみに、うちにもあるし長男は知っている。
でも、中華街で中国のゲームを売っている、という事実に気付き、他にもないか探し始める。
陸軍棋、というゲームを売っていた。
見たところ、軍人将棋だけど…軍人将棋なら家にある。
あとで調べたら、軍人将棋とも微妙に違うようだが、まぁ類似ルール。
長男は将棋に興味があるので、軍人将棋と違うなら買っても良かったかもしれない。
他には、特に中国らしいものはない。
中国っぽい柄のトランプなら何種類も見つかったけど。
お土産物屋ばかりに見ているのも飽きたので、関帝廟に行ってみる。
そうしたら、前の道の歩道に人がいっぱいいて、場所取りをしていた。
あれ、パレードってメイン通りではなくて、こちらの道?
ここにきてやっと、パレードの詳細を調べ始める。
なるほど、関帝廟の前を通る道の端の公園がスタートで、パレードに参加する龍舞や獅子舞は、関帝廟の前で念入りに演技(?)するので、関帝廟前が特等席らしい。
でも、もう場所一杯だったので、少し離れたよさげな場所に陣取る。
この時点で、パレード開始まであと10分くらい。
パレードって何やるのかと思っていたのだけど、各種団体が参加して、思い思いの格好で練り歩く、というものだった。
先頭にやってきたのは「日本横濱中華街武将會」という団体で、多分武将=関羽なんじゃないかと思う。
みんな、竹馬を履いて大男になって、顎髭の武将になり切って歩いていた。
そのあとも、龍舞が通ったり、獅子舞が通ったり、盛大に爆竹を鳴らしたり。
…そういえば、中国ではいま春節の爆竹禁止らしいから、こんな爆竹を楽しめるのは中華街だけかもしれない。
獅子舞はたくさんいたのだけど、前足と後足の二人が、肩に乗ったりして曲芸をやっているのは一組だけでした。
曲芸と言えば、重たい壺を頭の上でくるくる回したりしている「神技」おじさんがいました。なかなか見ごたえあった。
あとは、剣舞を披露している団体もあったりして、格好よかった。
子供たちにとっては、カードキャプターさくらの李小狼君みたいな感じ、で通じてました。
#最近新シリーズ始まったのを機に、昔のやつも少しづつ最初から見てる。
さて、パレード終了が17時過ぎ。少し暗くなってきたけど、まだ明るい。
パレードを見ていたところのすぐ後ろに、また中華食材屋さんがあって、こちらも昔デートの時によく寄った店。
妻が見たいというので入ります。
こちらは、素材をたくさん売っています。
長女が食べてみたいというので、ヒマワリの種とかぼちゃの種を購入。妻は陳皮梅を買いました。
殻付きヒマワリの種、日本ではあまり売っていないけど、海外では普通に食用って話をしたことがあったんです。
長女はそれで、以前から興味を持っていた。
家で食べたら、五香粉っぽい香りつけてあって、美味しかったです。
日も暮れた。
このまま帰ってもいいのだけど、「本来の予定地」だった氷川丸まで行ってみよう。
本当は、中華街でご飯を食べたらそのまま抜けて、山下公園に出る予定だった。
そこまで行けば、氷川丸は目の前にある。
次女が歩き疲れた、と ぶーたれているので、氷川丸前の噴水周りのベンチに座り、しばし休憩。飴玉を食べる。
夜景に船がきれいだ。
今日はこれを目指してきたわけだけど、すでに閉館時間を過ぎている。
「乗りたかった」と次女が言うので「また来ようね」と答える。
実は、次にまた来るための布石として見せといた、というのもある。
子供たちはそろそろお腹が空いたようだが、僕と妻は空いてない。
昼ご飯の時に、子供が注文して食べきれなかった分まで食べているから。
疲れて足が痛いと言っているけど、どうするか…
バスに乗るか、タクシーに乗るか、休みながら歩くか。
実のところ、山下公園から関内駅まではそれほど離れていない。
バスを待つ時間を考えたら歩く方が速いくらいだし、タクシーは近距離は割高だ。
というわけで歩く。
まずは、「赤い靴」の歌の話を振ってみる。子供たちは歌詞を覚えているだろうか?
1番は歌えるが、2番以降は心許ない。
2番は「横浜の はとばから ふねに乗って」だ。
その波止場は、山下公園の端にある「大桟橋」「象の鼻」のあたりのことだ。
そして、山下公園内の大桟橋を望める場所には、「赤い靴をはいてた女の子」像が立てられている。
…と、ここまで話したら、当然「見てみたい」という反応。しめしめ。
そちらの方向に歩けば、少しでも関内駅に近づく。
像は、小さなものでたいしたものではない。
そもそも立てられたのはそれほど古いことではなく、「像が建てられた」ことを僕が子供のころにニュースで聞いている。
でも、歌の舞台を示すために建てられた像、というのはそれなりの感慨があったようだ。
しばらく見て、ペタペタ触って…飽きた頃に進む。
今度は、大観覧車「コスモクロック」がいい目印になってくれた。
夜空に綺麗なイルミネーションを浮かべている。
…いつの間にか、LED で自在な画像を表示できるようになったのね。
丸いはずの観覧車が、急に四角くなったり、斜めに回りだしたりという不思議な映像を映し出している。
そちらに向かって歩く。
これまた運よく、公園の角で大道芸人が何かやっていた。
そちらに向かって歩くが…ついたのは、ちょうど芸がすべて終わって、お金を入れてほしいと頼むタイミングだった。
半分でも見れば入れるのだけど、全然見ていないのでそのまま通過。
斜め前にあるシルクセンターを過ぎたところで、ふたたび「足が痛い」というので、横浜開港資料館前の公園で座って休む。
地面にガラス屋根で囲まれたところがあって、何だろうと近づいてみると、古い下水溝跡だそうだ。
横浜は日本で最初に下水を整備した場所なのだけど、関東大震災の時の被害で、どこに何があったのかほぼわからなくなっている。
公園整備の際に見つかったので、見られるように保存しているそうだ。
この後は、そういうものの連続。
日本で最初の電話局跡、消防救急のための基地の跡。
少し歩いては立ち止まることになるので、適度に休憩を取りながら進めた。
やがて横浜スタジアムまで来ると、長男が「あ、ここ来たことある。駅はすぐだ」と気づいた。
小学校の社会科見学で、県庁に来たことがあるのだ。
あとは多少元気に…やっぱり休み休みだったけど、駅まで。
駅で「腹減った」となったので、電車を待ちながら持っていた菓子パンを食べました。
(まだ夜7時だったので、ご飯は帰って食べました)
これで終了。
子供たち、山歩きは慣れているのだけど、街歩きは慣れていないので疲れたみたい。
下がアスファルトだと、足の裏が痛くなるからね。同じ距離なら山のほうが楽。
もっとも、長時間だらだら歩いただけで、今回の徒歩距離は地図上で 5km 弱。
実際にはお土産物屋さんの中のぶらぶら歩きなんかも含めて、 7km くらいじゃないかな。
(スマホについている万歩計は1万歩弱でした)
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