1998年の年頭だったと思います。…正確に覚えていないのですが。
AM1件内に、テクニカルサポートチームが作られました。
一応独立した「課」に相当するのかな。
企画課、デザイン課、プログラム課に並列する形の「テクニカルサポート課」です。
でも、実際には課長に当たる人と課員1名の、2名だけ。
後で増員されるのですが、増えた時でも4名程度。
課というよりはチームでした。
で、創設にあたり僕に声がかかりました。
最初の課員1名、というのは僕のことです。
テクサポをやってほしい、と言われたときは、正直なところ左遷だと思いました。
プログラムが好きでプログラマーをやっているのに、一線から退くのですから。
実際この頃、左遷されても仕方ないような「身に覚え」がありまして…
新たに MODEL-2 ゲームのチームに入ったのですが、それまで ST-V を使っていたのでハードウェアの癖などがわからず、プログラムしていてもどうも「乗らない」のです。
頼まれていた「研究課題」が、どうもぼんやりしたものだったこともあって、2週間くらいいじっていたのですが何も成果を上げられていませんでした。
もっと私情を語れば、今の妻と付き合い始めた時期で、色ボケだったのです。
慣れてないハードとぼんやりした研究テーマ、さらには色ボケで、仕事に身が入っていなかったのは事実。
それで「左遷」なのだと思ったのです。
しかし、仕事を始めてみてわかりましたが、別に左遷されたわけではなく、「僕が適任」だったのでした。
テクサポの仕事は、大きく分けてふたつ。
部署内の環境整備と、サードパーティのサポートでした。
部署内ではネットワーク管理などが主な仕事だったのですが、詳しい人がテクサポ課長しかいなかったのです。
僕だって詳しくありませんでした。
まだ当時はそれほど知られていなかった「Linux」ってやつを、Towns にインストールしてみたことがあった程度。
もっとも、インストールなんて、インストーラーさえあれば誰でもできます。
そもそも、部署内では多くの人が UNIX を使っているだけで、詳しくはないのです。
仕事で使う、ファイル操作やコンパイラ起動などのコマンドは理解していても、その程度。
僕は awk や perl を使って、仕事に必要なツールをどんどん自作していました。
これなら UNIX 管理もできるのではないか…と思われたようです。
#awk や perl などのスクリプト言語は、システム管理にもよく使われます。
サポート仕事の多くは「ST-Vのサードパーティサポート」でした。
僕としては ST-V を「普通に使っていた」程度で、それほど詳しいという認識はなかったのですが、部署内では一番詳しいと考えられていたようです。
…えーとね、過去にサターン関連の記事書いているけど、知識としてはその程度。
マニュアルを読めば大体のことは書いてあります。
SGL の動作がわからない時に逆アセンブルして内部構造解析するくらいはやっていたけど、自分で大規模ライブラリ組めるほどの腕はない。
ハードウェアに関しては、ST-V の BIOS 作った人が同じ部署内にいたので、多分その人のほうが詳しい。
(と、当時は思っていたのだけど、BIOS は必ずしもハードを叩かないので、その人はそれほど詳しくなかったらしい。もちろん BIOS には詳しかったけど)
また、サードパーティサポートは、当然ながらサードパーティとのコミュニケーションが必要となります。
これが…部署内の優れた技術者の多くが、いわゆるコミュ障なんですね。
僕だってそれほど人づきあい上手ではないのだけど…
少なくとも、部署内の優れた技術者と話ができる程度には技術がわかりますし、仕事上の話ができる程度にはコミュニケーション能力もあります。
結局、求められていたのは突出した能力ではなく、全方位にそこそこできること。
それを満たせる人が案外少なく、僕が適任だったというわけです。
といっても、仕事の多くは雑用でした。
本当の雑用って、企画課が中心になってこなしていたのですが、「技術的な」雑用というのも結構あるのです。
そういうのは企画の人にはできない。
技術雑用は、それまではプログラム課の人が、役割分担して分散することでやっていました。
役割を任された人を、課内では「奉行」と呼ばれていました。
例えば、基板奉行は基板の管理をしていました。
ゲーム基板も多数ありますし、開発用の特殊機材や PC も基板奉行の管理するもの。
ケーブル奉行は、山ほどある謎のケーブル類を管理していました。
当時は、シリアルケーブルでも RS-232C や RS-422 があり、そのコネクタ形状も複数ありました。
パラレルケーブルも、SCSI ケーブルもコネクタ形状が多数あり、両端の組み合わせにより膨大な数のケーブルが存在しました。
必要な時に必要なケーブルを取り出せるように管理しておくのは大変な仕事だったのです。
その他、マニュアル奉行、筐体奉行…仕事上管理しなくてはならない膨大な資材ごとに「奉行」仕事がありました。
全部雑用ですが、誰かがやらなくてはならない仕事のため、任された人が通常業務の合間にやっていたのです。
これらは、すべてテクサポの仕事として集約されました。
最初の頃の仕事は、山ほどあるケーブルを、現状で多数使用されているものを除き、1種類1本づつ残して捨てる、という作業だったと思います。
同じ種類かどうかを判定するだけでも大変で、他の作業の合間にやっていて、これだけで半月くらいかかったのではないかな。
ここまで、自分が開発に関与したゲームの話を書いてきました。
しかし、これ以降は直接的に関与したゲームはありません。
一方で、サポートで関与したゲームなどはありますし、プログラムとは違う形でゲーム開発に関与する形になりました。
今後は、そうした話を書いていきたいと思います。
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