オーラ写真の作成中の…たしか 1997 年の夏の出来事。
部署の引っ越しが行われました。
それまでいたのは、「本社2号館」。
僕が入社する前年に「新本社ビル」が完成し、隣にあった旧本社ビルは2号館となったのです。
で、それまでAM1件は別の場所にいたのが、2号館に引っ越してきたそうです。
でも、この頃のセガはどんどん人数が増えています。
僕が入社した時だって、3年間で3倍に増えた、と言われていました。
その後も増え続け、本社と2号館だけでは手狭になり、新たに「3号館」が作られたのです。
ちなみに、
【セガ創立記念日】写真は昔のセガ本社新館です。周りの建物と比べるとわかりますが、ひときわ高いビルだったんですね。 #セガの誕生日なので思い出語るよ #SEGA_OFFICIAL pic.twitter.com/v4OtJzgX6q
— セガ公式アカウント (@SEGA_OFFICIAL) 2013年6月3日
このビルは、当時は「別館」として、AM4研(筐体やエレメカなどを作る部署)が使っています。
2号館にあった仮眠室から、大きな道路をまたいでレーザーLANで繋がってました。
3号館は新しく建てたわけではなく、近所のビルを買いました。
セガ本社は、京急大鳥居駅が最寄り駅だったのだけど、同じ駅から「別の方向に」同じくらい歩いたところ。
だから、引っ越したと言っても環境はそれほど変わりません。
赤井電機本社ビル。
赤井電機は、「AKAI」のブランド名で世界的に知られた、高級オーディオメーカーです。
しかし、CDの時代に乗り遅れ、業績が悪化していました。
1980年代からじわじわと業績が悪化し、1997年、ついに本社ビル売却まで追い込まれ、セガが購入したのです。
#この後、2000年に倒産。
ただし、AKAI ブランドは売却され、まだ生き残っています。
引っ越し作業で、事前に一度赤井ビルを訪れたと思います。
手の空いている人間だけを集めて、AM1件が入る予定の部屋に行って事前準備をしたのではないかな。
…オーラの開発期間を考えると、自分がこの準備に参加したのだから、初夏ごろの話かな。
このときは、普通のオフィスビルでした。床はオフィスによくあるタイル張り。
さらに後、いよいよ引っ越しの段階になって訪れると、床がカーペットになっていました。
単にカーペットにしたわけではなく、入り口がスロープになって、床が 20cm 程持ち上がっている。
いわゆる OA フロアです。床下に空間を作り、電源やイーサネットなどのケーブルを通せるようになっています。
カーペットは、50cm 程のタイルに分割されています。
専用の取っ手…巨大なマジックテープのようになったものをカーペットにくっつけ、引っ張るとタイルを外せます。
席替えなどの時は、これでケーブルなどを繋ぎ変えられました。
なお、タイルには切り欠きの付いたものがあり、そこからケーブルを床上に出せます。
以前の2号館でも、床はOAフロアでした。
ただし、カーペットではなくタイル。外すときは吸盤を使う方式でした。
引っ越し作業。
歩いて10分ほどの距離なのですが、重たい機材がたくさんあります。
4トントラック(たしか引っ越し業者にトラックだけ借りた)を何度か往復させました。
たしか、誰かが書類戸棚を動かそうとして、ガラス扉を割ってしまったのではなかったかな。
これがきかっけで、プログラマ課の課長が覚醒。
大学時代に引っ越し業者でアルバイトをしていたそうで、「ガラスは割れた際に危険が無いように、前もってテープを貼る」「可動部は片側に寄せてテープで固定する」とか、てきぱきと指示を出し続けます。
もともと部下の面倒見は良い人なのですが、意外な一面を見ました。
戸棚だけでなく、机も椅子も機材も、全部自分たちで運びます。
運搬台車もあるのですが、とにかく運ぶものが多いので、台車に頼ってもいられない。
CRTモニタは大きくて重いので、キャスター椅子に乗せて運びました。
その際、ガラス面が背もたれで保護されるように。
テーブルなんかは、大きいだけで重くはないので、2人で運べば何とかなりますね。
エレベーターで1階までおろし、前の道路でトラックに積み込み、赤井ビル後ろの駐車場でおろし、エレベーターで新しい部屋まで。
経費節約もあるだろうけど、運ぶものの多くが企業秘密の精密機器だから、他人の手は借りられない、という感じでした。
部屋は基本的に続き部屋の2部屋で、間に壁があります。
壁には大きな開口部があり、2部屋を自由に行き来できるのだけど。
合計面積は以前より広くなったけど、1部屋だけだとちょっと狭い感じ。
2号館の時は、部署全体が大きな一部屋で一体感がありました。
でも、この頃から「同じ部署内でも何やっているのかよくわからない」感じになった気がします。
この2部屋を、仮にA,Bと呼びましょう。
基本的に、部屋の中は可動式のパーテションで区切られ、プロジェクトチームごとに分けられていました。
パーテションは、大人の男性の胸くらいの高さ。
壁越しに話をするのも簡単ですが、一応「区切られている」感じはするくらいの壁です。
これは、A,Bどちらの部屋も同じ。
Aの部屋の入り口を入ってすぐのところには、部長室が作られました。
これはパーテションではなく、床から天井までつながった壁です。
基本ガラス張りで、中の様子もよくわかります。
特にお客さんがいない時であれば、相談などにも入りやすい雰囲気でした。
でも、部長室だから重要な会議も行われます。
天井まで壁が繋がっているのは、声が外に漏れないため。
…と、もう一つ。部長が喫煙者だったためです。
社内禁煙だったのだけど、部長権限で空気清浄機を持ち込んで、タバコ吸ってました。
もう一つ、Aの部屋の入口、部長室の逆側にも部屋が作られました。
こちらも天井から床まで壁があるのですが、窓は一切ありません。
それどころか、壁は厚めで、扉には鍵がかけられました。
サーバールームです。
専用のクーラーがつけられ、常に肌寒いくらいの温度に保たれています。
それまでももちろんサーバーは使われていたのですが、サーバー管理者の机の周囲に並べられているだけでした。
それが、ちゃんと部屋に収められ、熱暴走しないように気を使われ、防犯のために人が近づけないようになったのです。
結果、Aの部屋は、入り口すぐの部分が、部屋に挟まれた細い通路になりました。
でも、2号館からの習慣で、毎日昼休み後に「昼礼」の時間が設けられ、部長室前に集まる必要がありました。
これが、集まるスペースないのね。
パーテション越しに、適当に周囲の区画に散って部長からの連絡とか聞いてましたけど、機材とか置いてある都合もあってやっぱり集まりにくい。
周囲にいても声がよく聞き取れず、あとで近くで聞いていた人に「何の話だったの?」と聞く必要があったり、それならいっその事昼礼さぼる、という人も増えました。
#一応、部長室前に事務の女性の机があったため、部長が立って話をする程度のスペースはありました。
ただ、聞く人のためのスペースがほとんどないだけで。
もう片方の、Bの部屋の話もしましょう。
こちらの部屋の一番奥に、機材倉庫と仮眠室が作られました。
…というか、この二つ共通。機材倉庫に2段ベットが1つ置かれていた、というだけ。
機材と言ってもいろいろあります。
ゲーム機の基板とか、開発用のパソコンとか、古い開発用資料とか、各種ケーブルとか。
これ、2号館の時には、あちこちに分散して保管されていました。
基板はこちら、ケーブルはこちらの引き出し、資料はあちらの本棚、という感じで。
これが全部1カ所に集約されたのです。
この部屋は機材置き場なので、普段基本的に人が入ることはありません。
静かなので、片隅に2段ベッドが置かれました。
2号館では、シャワー付きの仮眠室があり、ベッドがたくさん並んでいました。
その時に比べると、2段ベッド1つだし、シャワーは無くなったし、環境が劣化しています。
ただ、床がカーペットになったので、寝袋で直接寝ても床から冷えることが無くなったんですね。
もともと「誰が寝たかわからないベッドで寝たくない」という人も多かったので、そういう人にとっては寝やすくなったようです。
…というか、この頃から残業自体がやりにくい雰囲気になり、よほどのことがない限り泊まり込みをする人は減りました。
#先に書いた、ノー残業デーなどの運動もありましたし、そのうち書く別の要件の影響でもあります。
引っ越してすぐのころに、仲の良いグラフィックの先輩が「このビル、なんか傾いているよね?」と言っていました。
僕はそうは感じなかったのですが、絵を描く人だから、水平・垂直などに敏感だったのかもしれません。
赤井ビルは結構古いビルで、1981年に制定された「新建築基準法」の基準を満たしていなかったようです。
とはいえ、そんなこと当時の僕は知りません。
その後もビルは使い続けられましたが、2011年の東日本震災を受け、「危険性がある」と2012年に閉鎖。
今では取り壊されています。
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