目次
01日 千客万来
02日 引っ越し作業
07日 宮ケ瀬ダム見学(1/2)
07日 宮ケ瀬ダム見学(2/2)
13日 揚げ網
13日 スプラ2のフェス
16日 ST-V 開発環境
22日 加湿器
27日 リロケータブル
30日 モノポリー
セガにいる間に、何度か著名人が訪れたことがありました。
大会社だから、いろいろな人脈がありますよね。今回はそういうお話。
僕が入社する直前、当時「世界最速の男」と呼ばれたF1ドライバー、アイルトン・セナが訪れたのだそうです。
当時のセガの副社長、入交正一郎氏は、前職がホンダの副社長でした。
ホンダはF1にエンジンで参戦しています。
当初はセナが在籍していたロータスへエンジンを供給し、セナがマクラーレンに移籍すると、マクラーレンにエンジンを供給しました。
入交氏はこの頃にセガと親交を厚くしたそうで、新しい会社に移ったと聞いての表敬訪問だったようです。
入交氏がセガに入社したのは1993年の6月。
セナがレース中の事故で死去したのが 1994年5月1日。
僕はセナがセガを訪れたのがいつか知らないのですが、この間の出来事なのでしょう。
セナが訪問した際、本社入口にロビーに、「スーパーモナコGP」(1989年のアーケードゲーム)を置いて、開発者と対戦したのだとか。
結果は開発者の勝ちで、「世界最速の男より速い男」の栄冠を得たそうです。
#最初に書いた通り、僕が入社する前の話なので先輩からの伝聞です。
なお、入交氏がホンダから持ってきて、このときにセナからサインを書いてもらったという本物のF1カーは、セガの倉庫に置いてあったのを見ています。
マイケル・ジャクソンがセガを訪れたのは、たしか…「人相占い」のプロジェクトが発足したものの、何もやることが無くて暇だったころ。
マイケルはセガのゲーム大好きで、時々お忍びで日本にも来てましたし、日本に来た時にはセガを訪れていました。
このときも、そういう感じでセガに来たらしいです。
でも、いつもよりも時間があったようで、ゲーム作成現場の各部署を案内してもらっていた。
#ゲーム開発現場は社外秘だらけですから、普通は急にやってきたお客さんになんて見せません。
マイケルだから特別扱いです。
世界的スーパースターが職場にやってきた、というので周囲は騒然としていました。
とはいえ、そこは仕事中。浮かれて野次馬をするわけにもいかず、みんな自分の仕事を黙々と続けます。
今作成中のゲームなどを一通り見た後で、「最近は日本ではこれが人気なんですよ」と、プリント倶楽部を見せます。
#プリント倶楽部はアトラスのものですが、AM1研でも関係が深く、部署内に置いてありました。
詳しいことはまたそのうち。
作成中のゲームをいろいろと見せてもらい、自分の顔写真をシールにしたものをお土産にもらい、にこやかに部署を出ていくマイケル。
…この後、一斉に野次馬が動き出します。
プリント倶楽部では、「コンティニュー」することで、直前に作ったシールを追加印刷できるのです。
次々とシールが印刷され、ミーハーな人達で部署内はちょっとしたお祭り状態。
シールの用紙が無くなり、補給して印刷していたので、かなりの枚数が作られたのではないかな。
飯野賢治さん。
たしか「ここらでコラムス」を作りはじめた頃だったと思いました。1996年の10月ごろかな。
その時のプロジェクトチームの席が部長室に近かったため、部長室から出てきて去るまでの間を、ちょっと見かけただけ。
飯野さんはその後亡くなっていますが、天才ゲームデザイナー、ともてはやされ、雑誌などにもよく出ていました。
ここでいう「天才」というのは、ゲームが面白かった、というようなことではないです。残念ながら。
むしろ、ゲームは万人受けしない、強烈な個性のものが多かったように思います。だからゲームとしての評価もそれほど高くない。
しかし、その個性的な内容が同業者…他のゲームデザイナーなどに評価され、対話してみるとゲームに対する深い造詣・ゲーム愛を感じる、などのことから「天才」と呼ばれていた模様。
雑誌などによく出ていたというのも、こうした対話が面白かったため、インタビューなどが良く行われたためのようなのですが…
多分、一緒に酒でも酌み交わさないと理解できないタイプの人です。
当時の僕は率直に言って、「天才」と呼ばれているけど、作るゲームは大して面白くないし、メディアに祭り上げられているだけの人、と思っていました。
プレイステーション陣営のゲームショーで、「次のゲームの対応ハードは、プレステから予定を変更し、セガサターン専用」と大々的に発表し、話題となったのが 1996年3月27日。
部長室に来ていたのは、その衝撃がまだ冷めやらぬ頃です。
なんの話をしていたのかは知りません。
話題の人がサターン陣営に入ったわけで、そのまま ST-V などにも展開できないか、というような話があったのかもしれません。
#当時のセガは、サターンと ST-V が互換機版であることを活かして、家庭用で人気のゲームを業務用にも展開できないか模索していました。
最後、部屋を出ていくところを見ただけですが、体躯も大きく怖そうな人…プロレスラーや暴力団員を想像する威圧感がありました。
亡くなったずっと後に飯野氏がまとめたインタビュー集などを読んで、結構繊細で、ゲームを作るのが本当に好きな人だったんだな、と知りました。
田尻智さん。
こちらも「ここらでコラムス」を作っている時でした。結構遊べる形になっていたから、11月頭頃かと思います。
(中旬には、「ここらで」は打ち切られ、「コラムス97」の作成に入るので)
ポケモンの発売が同年 2月27日ですね。
ポケモンは当初全然売れず、ベスト 10 入りしません…が、常に 20位以内には入っていました。
そのまま数か月「ベスト 20位入り」を続ける、というおかしな売れ方のソフトになっていきます。
普通のソフトは、発売後1か月くらいで極端に売れ行きが落ちるのね。
これで「変な売れ方をしているソフトがある」と話題になり始めるのが夏ごろ。
「コラムス97」の企画者Mが、僕に「ひとりで遊んでも面白くないらしいので、一緒に買って遊ぼう」と持ち掛けてきます。
僕はこれでゲームボーイ本体から購入したのですが、当の本人は1週間くらい遊んだところで「自分の好きなタイプのゲームではなかった」と投げ出しやがった。ひどい奴だ。
…まぁ、それは余談。
本当にポケモンが話題になるのは冬頃からで、この段階では田尻さんはそれほど有名ではありません。
#まぁ、「知る人ぞ知る」タイプの有名人ではありましたが。
ここで田尻さんは仕事から一時解放されているわけです。
そして、1994年にはセガで「パルスマン」を作ってもいます。
多分、セガに来たのはまた仕事ができないか、というような相談だったのでしょう。
で、飯野さんと同じく、サターンで仕事をするなら ST-V でも何かできないか…というような流れではないかと。
部長室での会談が終わって出てきてから、近くで動いていた「ここらでコラムス」に興味を持っていただけたようで、少し遊んでもらいました。
非常に腰の低い、丁寧な方で、演出面の効果などよくできている、と褒めていただきました。
以前に書いたように「ここらで~」はお蔵入りになってしまったので、社外の人で遊んだのは田尻さんだけだと思います。
また余談:
コラムスの企画者Mは、結構ゲーム関連の同人誌とかを持っていて、このとき机の引き出しの中にゲームフリーク版「ゼビウス1000万点への解法」が入っていたのだそうです。
でも、このときはほんの数分の出来事で、そんなことに頭が回りませんでした。
後になって「サイン貰えばよかったー!」って悔やんでました。
#ゼビウス1000万点~は、「うる星あんず」氏が作った同人誌。コピー本。
あまりに有名になり、日本全国から「買いたい」という問い合わせが殺到したため、田尻さんが主宰するサークル「ゲームフリーク」で改訂版を発行する。同人誌だけど合計で約1万部を売り上げ。
さらにその後、マイコンベーシックマガジン付録の「スーパーソフトマガジン」で、この内容を再編集したものが3回にわたり連載される。
この本は、「世界初のゲーム攻略本」ともされている。
スティーブン・スピルバーグ監督がセガを訪れたのは、コラムス97のサターン版のための「残務処理」をしている頃でした。
スピルバーグ監督の映画会社「ドリームワークス」とセガは、1996年3月に、アメリカでテーマパーク事業を展開する「ゲームワークス」を立ち上げます。
セガはアミューズメントテーマパーク構想をぶち上げ、「各都道府県に1つづつのテーマパークを作る」としていました。
…が、すぐに頓挫。言っちゃ悪いけど、「テーマパーク」なんて言いながら、実情はゲームセンターに過ぎなかった。
ナムコは同じ頃に同じようなことをしていましたが、こちらはもっと「遊園地」らしさがありました。
セガは技術力はあるのですが、どうもそこに頼りすぎて、遊園地らしい雰囲気を作り出せず、ゲームセンターになってしまうのです。
そこで今度は、スピルバーグが監修を行い、セガの技術的なノウハウを活かして、アメリカでテーマパークを展開しようとしたのです。
このための会社がゲームワークスでした。
…で、1997年の1月に、スピルバーグがセガを訪問したわけです。
マイケルの時と同じように、各部署を案内されて回っていました。
スピルバーグ監督、男の子を連れてきていました。多分お子さん。
開発中のゲームを見る際も、この男の子が興味を持ってみていた感じ。多分ゲーム好きなんでしょうね。
最後に、みんなで記念写真撮りました。
「1月」と時期を明示できるのは、この写真の中にカレンダーが写っているため。
…プライバシーもあるのでとても写真は公開できないのだけど、部署全員が写っているわけではないな。
どういう基準でこのメンバーになったのだろう。
撮影場所は、コラムスチームのブースだったはず。
ゲーム作り終わった後で、ブースに「空き」があったので、みんなが集まって撮影できそうな広さがあったのだと思う。
カメラマンが僕の机の上に立って撮影したのも覚えています。
多分そのせいで、僕はかなりいいポジションで写真に写っています。
最前列、ほぼ中央。ちょっと右より。
僕の隣、ちょっと左寄りには、男の子…監督のお子さんがいます。
そして、最前列中央の二人に手をかけるような形で、監督が後ろに立っているのです。
#男の子の方には手を載せているが、僕の方には別に載せてません。そういう位置、というだけで。
これ以外に、タレントの松村邦洋さんが来たことは知っています。会っていないけど。
セガは、当時ゲームの中に広告を入れる、というビジネスモデルの実験をしていました。
これを受けて、テレビ番組「進め!電波少年」の企画で、ゲームの中に広告を入れてもらおう、もちろんタダで!という企画があったのです。
松村邦洋さんが来て、セガの広報の人を拝み倒して、何かのゲームに広告を入れる、と決まります。
で、当時僕が参加していた「ファイナルアーチ」に広告を入れたので、後日テレビ局スタッフがゲーム画面の撮影に来ました。
そんなわけで、「会ってないけど来たことは知っている」です。
もう一人、声優の千葉繁さんが来ていますね。こちらも会ってません。
「手相占い ちょっとみせて」のナレーションは千葉さんです。企画の先輩がアニメ好きで、千葉さんの大ファンでした。
なので、地位を利用して千葉さんに仕事を発注し、会ってサインをもらってきていました。
AM2研にあったサウンドのスタジオで収録していたので、サウンドの人と企画の先輩は会っていますが、僕は姿を見ていません。
と、これが僕が知っている範囲のすべて、かな。
もちろん、会社としてのセガでは、もっとたくさんの人が来ているはずです。
というか、一緒に働いていた人達でも、たびたびメディアに出ている人とかいましたし、外の人から見たらセガ自体が著名人だらけだったのだろうなぁ…
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オーラ写真の作成中の…たしか 1997 年の夏の出来事。
部署の引っ越しが行われました。
それまでいたのは、「本社2号館」。
僕が入社する前年に「新本社ビル」が完成し、隣にあった旧本社ビルは2号館となったのです。
で、それまでAM1件は別の場所にいたのが、2号館に引っ越してきたそうです。
でも、この頃のセガはどんどん人数が増えています。
僕が入社した時だって、3年間で3倍に増えた、と言われていました。
その後も増え続け、本社と2号館だけでは手狭になり、新たに「3号館」が作られたのです。
ちなみに、
【セガ創立記念日】写真は昔のセガ本社新館です。周りの建物と比べるとわかりますが、ひときわ高いビルだったんですね。 #セガの誕生日なので思い出語るよ #SEGA_OFFICIAL pic.twitter.com/v4OtJzgX6q
— セガ公式アカウント (@SEGA_OFFICIAL) 2013年6月3日
このビルは、当時は「別館」として、AM4研(筐体やエレメカなどを作る部署)が使っています。
2号館にあった仮眠室から、大きな道路をまたいでレーザーLANで繋がってました。
3号館は新しく建てたわけではなく、近所のビルを買いました。
セガ本社は、京急大鳥居駅が最寄り駅だったのだけど、同じ駅から「別の方向に」同じくらい歩いたところ。
だから、引っ越したと言っても環境はそれほど変わりません。
赤井電機本社ビル。
赤井電機は、「AKAI」のブランド名で世界的に知られた、高級オーディオメーカーです。
しかし、CDの時代に乗り遅れ、業績が悪化していました。
1980年代からじわじわと業績が悪化し、1997年、ついに本社ビル売却まで追い込まれ、セガが購入したのです。
#この後、2000年に倒産。
ただし、AKAI ブランドは売却され、まだ生き残っています。
引っ越し作業で、事前に一度赤井ビルを訪れたと思います。
手の空いている人間だけを集めて、AM1件が入る予定の部屋に行って事前準備をしたのではないかな。
…オーラの開発期間を考えると、自分がこの準備に参加したのだから、初夏ごろの話かな。
このときは、普通のオフィスビルでした。床はオフィスによくあるタイル張り。
さらに後、いよいよ引っ越しの段階になって訪れると、床がカーペットになっていました。
単にカーペットにしたわけではなく、入り口がスロープになって、床が 20cm 程持ち上がっている。
いわゆる OA フロアです。床下に空間を作り、電源やイーサネットなどのケーブルを通せるようになっています。
カーペットは、50cm 程のタイルに分割されています。
専用の取っ手…巨大なマジックテープのようになったものをカーペットにくっつけ、引っ張るとタイルを外せます。
席替えなどの時は、これでケーブルなどを繋ぎ変えられました。
なお、タイルには切り欠きの付いたものがあり、そこからケーブルを床上に出せます。
以前の2号館でも、床はOAフロアでした。
ただし、カーペットではなくタイル。外すときは吸盤を使う方式でした。
引っ越し作業。
歩いて10分ほどの距離なのですが、重たい機材がたくさんあります。
4トントラック(たしか引っ越し業者にトラックだけ借りた)を何度か往復させました。
たしか、誰かが書類戸棚を動かそうとして、ガラス扉を割ってしまったのではなかったかな。
これがきかっけで、プログラマ課の課長が覚醒。
大学時代に引っ越し業者でアルバイトをしていたそうで、「ガラスは割れた際に危険が無いように、前もってテープを貼る」「可動部は片側に寄せてテープで固定する」とか、てきぱきと指示を出し続けます。
もともと部下の面倒見は良い人なのですが、意外な一面を見ました。
戸棚だけでなく、机も椅子も機材も、全部自分たちで運びます。
運搬台車もあるのですが、とにかく運ぶものが多いので、台車に頼ってもいられない。
CRTモニタは大きくて重いので、キャスター椅子に乗せて運びました。
その際、ガラス面が背もたれで保護されるように。
テーブルなんかは、大きいだけで重くはないので、2人で運べば何とかなりますね。
エレベーターで1階までおろし、前の道路でトラックに積み込み、赤井ビル後ろの駐車場でおろし、エレベーターで新しい部屋まで。
経費節約もあるだろうけど、運ぶものの多くが企業秘密の精密機器だから、他人の手は借りられない、という感じでした。
部屋は基本的に続き部屋の2部屋で、間に壁があります。
壁には大きな開口部があり、2部屋を自由に行き来できるのだけど。
合計面積は以前より広くなったけど、1部屋だけだとちょっと狭い感じ。
2号館の時は、部署全体が大きな一部屋で一体感がありました。
でも、この頃から「同じ部署内でも何やっているのかよくわからない」感じになった気がします。
この2部屋を、仮にA,Bと呼びましょう。
基本的に、部屋の中は可動式のパーテションで区切られ、プロジェクトチームごとに分けられていました。
パーテションは、大人の男性の胸くらいの高さ。
壁越しに話をするのも簡単ですが、一応「区切られている」感じはするくらいの壁です。
これは、A,Bどちらの部屋も同じ。
Aの部屋の入り口を入ってすぐのところには、部長室が作られました。
これはパーテションではなく、床から天井までつながった壁です。
基本ガラス張りで、中の様子もよくわかります。
特にお客さんがいない時であれば、相談などにも入りやすい雰囲気でした。
でも、部長室だから重要な会議も行われます。
天井まで壁が繋がっているのは、声が外に漏れないため。
…と、もう一つ。部長が喫煙者だったためです。
社内禁煙だったのだけど、部長権限で空気清浄機を持ち込んで、タバコ吸ってました。
もう一つ、Aの部屋の入口、部長室の逆側にも部屋が作られました。
こちらも天井から床まで壁があるのですが、窓は一切ありません。
それどころか、壁は厚めで、扉には鍵がかけられました。
サーバールームです。
専用のクーラーがつけられ、常に肌寒いくらいの温度に保たれています。
それまでももちろんサーバーは使われていたのですが、サーバー管理者の机の周囲に並べられているだけでした。
それが、ちゃんと部屋に収められ、熱暴走しないように気を使われ、防犯のために人が近づけないようになったのです。
結果、Aの部屋は、入り口すぐの部分が、部屋に挟まれた細い通路になりました。
でも、2号館からの習慣で、毎日昼休み後に「昼礼」の時間が設けられ、部長室前に集まる必要がありました。
これが、集まるスペースないのね。
パーテション越しに、適当に周囲の区画に散って部長からの連絡とか聞いてましたけど、機材とか置いてある都合もあってやっぱり集まりにくい。
周囲にいても声がよく聞き取れず、あとで近くで聞いていた人に「何の話だったの?」と聞く必要があったり、それならいっその事昼礼さぼる、という人も増えました。
#一応、部長室前に事務の女性の机があったため、部長が立って話をする程度のスペースはありました。
ただ、聞く人のためのスペースがほとんどないだけで。
もう片方の、Bの部屋の話もしましょう。
こちらの部屋の一番奥に、機材倉庫と仮眠室が作られました。
…というか、この二つ共通。機材倉庫に2段ベットが1つ置かれていた、というだけ。
機材と言ってもいろいろあります。
ゲーム機の基板とか、開発用のパソコンとか、古い開発用資料とか、各種ケーブルとか。
これ、2号館の時には、あちこちに分散して保管されていました。
基板はこちら、ケーブルはこちらの引き出し、資料はあちらの本棚、という感じで。
これが全部1カ所に集約されたのです。
この部屋は機材置き場なので、普段基本的に人が入ることはありません。
静かなので、片隅に2段ベッドが置かれました。
2号館では、シャワー付きの仮眠室があり、ベッドがたくさん並んでいました。
その時に比べると、2段ベッド1つだし、シャワーは無くなったし、環境が劣化しています。
ただ、床がカーペットになったので、寝袋で直接寝ても床から冷えることが無くなったんですね。
もともと「誰が寝たかわからないベッドで寝たくない」という人も多かったので、そういう人にとっては寝やすくなったようです。
…というか、この頃から残業自体がやりにくい雰囲気になり、よほどのことがない限り泊まり込みをする人は減りました。
#先に書いた、ノー残業デーなどの運動もありましたし、そのうち書く別の要件の影響でもあります。
引っ越してすぐのころに、仲の良いグラフィックの先輩が「このビル、なんか傾いているよね?」と言っていました。
僕はそうは感じなかったのですが、絵を描く人だから、水平・垂直などに敏感だったのかもしれません。
赤井ビルは結構古いビルで、1981年に制定された「新建築基準法」の基準を満たしていなかったようです。
とはいえ、そんなこと当時の僕は知りません。
その後もビルは使い続けられましたが、2011年の東日本震災を受け、「危険性がある」と2012年に閉鎖。
今では取り壊されています。
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長女が「行ってみたい」と言ったのは、たしか夏休み前のこと。
学校で配られたプリントで、市内の小学生を10~20人くらい集めて、宮ケ瀬ダム見学にいこう、というツアーのお誘いでした。
高学年だけが対象で、親の同伴は無し。
人数が多いと抽選らしいけど、行ってみたいなら申し込んでみるかい? というと、そうではない、とのこと。
このツアーで行ってみたいのではなく、この「宮ケ瀬ダム」というのに家族で遊びに行ってみたい、というのでした。
ツアーでは、宮ケ瀬ダムの魅力を簡潔にまとめてあり、但し書きとして「ツアーではインクラインには乗らず、観光放流日でもない」ことを明記していました。
夏休み中は忙しくてそんなことはすっかり忘れていて、「そういえばあそこ行きたい」と長女が再び口にしたのは10月中旬。
おぉ、そういえば。行ってみてもいいのだけど…と調べます。
せっかく行くなら、観光放流観たい。
観光放流は第2日曜日。すでに過ぎてました。
他に水曜日と、第2・4金曜日もやっているけど、平日はちょっと難しい。
でも、観光放流日を把握したことで、本格的に「行ってみようかな」と思うようになります。
FM横浜の朝の番組の中で、毎月1人、神奈川県下の注目の会社の社長さんに話を聞くコーナーがあります。
ロングインタビューを区切って、毎週放送する形で続けるの。
これが「オギノパン」でした。
以前、家族で工場見学でも行きたいなぁ…と調べていた時に知った会社でした。
小学校給食用のパンも作っているし、一般向けにもできたてのパンを売っている。
本社には工場もあって、工場見学もできる。
そして、宮ケ瀬ダムを調べていたら、オギノパンがダムの目の前でした。
ダムだけで1日、だと飽きるかもしれないけど、オギノパンと合わせ技なら十分楽しめそう。
それ以外にも、宮ケ瀬湖の周辺にはずいぶん楽しめるところが多いようだし。
そんなことを考えていたら、またFM横浜の朝の番組で、「10月28日に、宮ケ瀬ダムで夜の特別観光放流を行う」という情報が。
28日は土曜日。いいかも。
…と思って調べると、初めての試みなので人数限定で、あらかじめ申し込んである人しか見れない、とのこと。残念。
でも、この情報の詳細を調べているうちに、11月3日(金曜祝日)にも、特別観光放流を行うことを知りました。
近くの公園で「宮ケ瀬フェスタ」というお祭りがあり、それにあわせた特別スケジュール。
よし、これだ!
晴れたら行ってみよう、と子供たちに伝え、その日を待ちました。
当日は晴れ。
朝6時に子供たちを起こし、7時半には家を出る予定です。
弁当は持ちません。宮ケ瀬フェスタで地元名産品とかの屋台出るみたいだから、買い食い予定。
家から宮ケ瀬ダムまでは、カーナビの予想によれば1時間半。でも、カーナビ予想は「スムーズに進んだ場合」なので、絶対それより遅れる。
2時間と見積もりました。7時半に出るのは、オギノパンのオープンが9時半だから。
…妻の準備が少し遅れ、出発は8時になりました。
でも、9時45分にはオギノパンに到着。
パン工場見学は、工場の外側の窓から覗ける、という程度。
ただ、覗くのを前提に工場を設計したそうで、面白いところは全部見られるようになっています。
軽くしか朝ごはんを食べていないので、売店で各自好きなパンを買います。
揚げパンが人気なのだけど、子供たちは揚げパンは普通に給食で食べられるので興味なし。
ただ、「チョコレート揚げパン」は興味津々で、購入。
下二人は、「アイスクリームパン」を購入。
アイスのコーンにパンの生地を詰めて焼いたもので、膨れて飛び出た丸い部分にチョコレートトッピングしています。
…後で味見したけど、このパン、ちゃんとコーンの中までふっくら焼けているのに、コーンは焦げていません。
一体どうやっているんだ?
#別途作ったパンをコーンに差し込んだのかな…とも考えたけど、コーンとくっついている感じなので、生地の段階で入れていると思われる。
長男は焼肉パン、妻は筍おやきパン、僕は甘食を食べました。
(子供に「ひとり一個」と言ったのだけど、妻が甘食も食べたいと言ったので、僕の分として購入。チョコ揚げパンはデザートとしてみんなでシェア)
10時半ごろダムに到着。駐車場は入り口で500円で、時間課金なし。
11時から観光放流だというので、まずはダムに向かいます。…これが、駐車場から予想以上に遠い。
ダムに向かう道、途中までダムは見えません。
ある個所で道を曲がると急に見えるのですが…でかい!
想像以上にでかかったです。
子供たちと昨年相模ダムに行ったことがあるので、その程度を予想してました。
(今調べたら、相模ダムは 58m 、宮ケ瀬ダムは 156m で、3倍近い高さでした)
ダム直下に着いたのは50分ごろ。
多分、すでに300人くらいいたのではないかな。
でも、ダムは大きいし、その周辺広場も大きい。見る場所には困りません。
地面に座って、オギノパンで買ったパンを食べながら(先に書いてしまったけど、アイスクリームパンが不思議…とかやっていたのはこの段階)放流を待ちます。
観光放流を始めます、というアナウンスがあり、放流開始。
大迫力…ではあるのだけど、もっと大轟音かと思ったら、普通に会話はできる感じ。
1秒に 30t ということなので、12秒で学校のプールがいっぱいになる、位の水量。
放水が終わり、「現在エレベーターが動かなくなっているので、インクライン無料開放します」とのアナウンス。
インクラインは、ダムの上と下を結ぶケーブルカーです。通常は有料。
(エレベーターは無料)
それはせっかくだから乗りたい! と思って並びますが、すでに長蛇の列。
午後にも観光放流がもう一度あるので、とりあえずフェスタの方に行ってなんか食べよう、ということに。
…で、ここでダムに隣接する公園内を探すのですが、お祭りをやってそうなところがありません。
公園内に、「ふわふわドーム」(エアトランポリン)があり、次女が遊びたいというので許可します。
小学生(6~12歳)は良いということなので長女も一緒に。
長男は腹減った、というので、オギノパンで買ってきた焼肉パンを食べます。
(ダム前で食べている時に、長男だけ「より見やすい場所」を求めて一人で別行動してました)
さて、お祭りはどこでやっているのか…
ここでやっと誤りに気付くのですが、「近くの公園」でフェスタをやってはいるのですが、それはダムに付属の公園ではなく、車で10分ほど行ったところの別の公園でした。
ここで妻と相談。
フェスタの内容、地域特産物の即売会に近いです。アユの塩焼きとか、宮ケ瀬ポーク焼肉とか売ってる。
そちらに異動するなら、再度駐車場料金払って戻ってくるのも馬鹿らしいし、時間的にも無駄なので、ダムの2度目は無し。
妻はもう一度ダム放流観たいし、まだ行っていないダムの上にもいきたいと言いました。僕も同意見。
その場にいた長男もそれでいいと言います。
トランポリンから戻った長女次女にも説明して、今日はこのままこの公園で遊ぶことに。
じゃぁ、昼ご飯は工面しよう。
トランポリン近くの「パークセンター」でお弁当売ってました。
稲荷ずし、おはぎ、から揚げ、豚汁を購入。1品200円均一。オギノパンと併せて、十分お腹いっぱい。
長いので話をいったん区切ります。
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別年同日の日記
申し訳ありませんが、現在意見投稿をできない状態にしています。 |
宮ケ瀬ダムの話の続きです。
お昼ご飯の後、ダムの上を見に行くことにします。
またダムの下に戻ってインクラインで登ってもいいのだけど、それじゃぁつまらない。
公園の中を通って、ダムの上まで歩いてみることにします。
これが、整備されているのだけどちょっとした山登り。高低差 150m ですからね。
花壇には今は花は咲いてないけど、春に来たら綺麗そうです。きっとまた来ましょう。
途中で次女が音を上げたので、おんぶして歩きます。
そしてダムの上。
なんとなく「ハイリア大橋」のイメージ。ゼルダのテーマを口ずさむ。
下から登って行った際に、大橋の入り口にあたる部分にある管理事務所は「本日定休日」の看板が。
ダムカード欲しかったのに!
#後日談:普通は管理事務所で配布するのですが、宮ケ瀬ダムでは近くの「水とエネルギー館」でも配布しているそうです。
でも、この日は時間の都合で水とエネルギー館は行きませんでした。
時間はすでに1時40分。
2時から午後の観光放流が始まります。
大橋を渡って反対側にあるインクラインに乗って下まで降りたい…のですが、途中で展望塔があったので寄りました。
横浜ランドマークタワーが見える!
インクライン乗り場に着いたら、…あれ? 有料?
今日は無料じゃないんですか? と係員さんに聞いてみたら、さっきはエレベーターが不調だったので緊急に無料にしたけど、もうエレベーターが治ったので有料、とのことでした。
まぁ、折角だから乗りましょう。興味はあったし。
インクラインに乗れたのは55分。乗車時間は4分。
インクラインはケーブルカーですが、箱根のケーブルカーなんかよりずっと急斜面です。
#この日記の冒頭につけた写真。
クリックすると拡大するけど、ダムの向こう側に貼りつくように、小さなケーブルカーが見えます。
もともと工事の際に、ダンプカーを運んでいるエレベーターがあったそうです。
エレベーターはロープで引っ張るわけですが、バランスを取るために逆側に「錘」を吊り下げています。
インクラインが通っているコースは、元々はこの錘を下げていたところ。
何かを載せることを想定していなかったのですごい急斜面。
でも、ダム完成後に観光用にケーブルカーとして残したのだとか。
ダムに沿って降りていく形なので、ダムの構造がよくわかります。ところどころに整備用の扉がついていたりしてね。
有料ですが、なかなか貴重な体験でした。
下まで降りたら、観光放流の開始直前。
駅員さんが「せっかくだから、そこから見れば」と窓を指します。
午前の放流は駅前の広場から見たのですが、実は駅の窓の方がダムにより近いのです。
ただし、窓は少ないので、数人しか見られません。
時間ぎりぎりに降りてきて、ちょっと得した感じ。
そろそろ放流が終わる…という時刻になったところで、家族に相談します。
まだ見ている人が多いうちに、エレベーターに乗ってもう一度上に登りましょう。
午前中は公園から往復したのですが、結構遠いです。
もっと言えば、今いる下から戻ると、ずっと上り坂。
この後、長女・次女のリクエストでアスレチックに行こうと思っているのですが、上から行ったほうが下り坂だけなので楽です。
「エレベーター」と書かれた方に行ってみると…すぐにエレベーターがあるのかと思ったら、ダム内の長い通路を通ります。
これがまた、武骨な感じでなかなかいい。
早くに並んだので、すぐに乗れました。
再びダムの上から、今度は公園内を下っていきます。
吊り橋などを渡り、先ほどとはちょっと違う方に進むと、アスレチックがあります。
アスレチック以外にも、ローラー滑り台や巨大迷路なんかも…体を動かして遊ぶ系の場所ですね。
広い公園で、今日一日でずいぶんと歩いています。
長女・次女はアスレチックに遊びに行きましたが、親と長男はレジャーシートを芝生に広げて休みます。
ここも、「6歳から12歳」縛り。
でも、実際には3歳くらいの子も遊んでいるし、危険なので付き添って大人も入り込んでいます。
年齢制限は意味ないのでは…
時間は2時半を過ぎたところ。
アスレチックは4時までなので、1時間半ほど自由時間。
長男は、ノートを取り出して周辺風景のスケッチを始めました。
以前から絵を描くのは好きなのだけど、最近学校で写生会があってから、建築物を描くのが楽しいらしい。
持っていたおやつ(都コンブ)など食べながらまったりと過ごします。
長女と次女は時々戻ってきておやつを食べるけど、また遊びに行く感じ。
結局1時間ほどで飽きたようなので、終了。
3時半ごろ帰ります。
宮ケ瀬とは関係ないけど、帰りに厚木ハムに寄ります。
行くときに通りがかったので、帰りに寄ろうと言っていた場所。
厚木ハムは、本場ドイツのコンクールでも賞をとるような美味しいハム・ソーセージを作っているお店。
おいしそうなものがいっぱいあって、散財しました。
サンクトガーレン(厚木の地ビール)もいろいろ売っていたので、それも1本づつ買ってきました。
家に帰って、これらのソーセージを中心として夕食。
特に「血のソーセージ」はずっと昔から興味があったもの。
想像とは全然違う味で美味しかった。
厚木ハムの血のソーセージ「ツンゲンロートヴルスト」は、ハムみたいな太いサイズ。
刻んだ肉と、脂身と、血をゼラチンで固めた感じ…なのだけど、香辛料が絶妙のバランスで利いています。
(血が多いのでレバーみたいな味を想像していたのだけど、全然違った。
香辛料と肉と油の味なので、コンビーフと味の系統は似ていて、ずっと美味い)
薄切りハムみたいな1枚で600円くらい。無茶苦茶高い。
ゼラチンで固めているので、加熱しないで食べます。
以上、ダム周辺で一日遊びました。
駐車料金も、お弁当も安かったし、最後にハムで散財したと言っても休日に家族で遊びに行ったとしては安い物。
公園には桜もたくさん植わっていたので、次は春に行きたいですね。
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僕は主夫を自任しているし、我が家の食事も大抵は僕が作っている。
で、子供に人気メニューだけど最近作っていなかったのが、鶏のから揚げ。
コロッケとか、フライドポテトとか、かき揚げとか、揚げ物自体はそれなりに作ってるのよ。
鶏のから揚げも、以前は作っていたし自分でも上手につくれる、と思っていた。
でも、最近作っても美味しく作れないから、作る気がしなくなっていたんだ。
美味しくない理由はわかっていて、子供たちが食べる分量が増えたから。
揚げ物を美味しく作るコツは、油から上げたときに、油の上で10秒待つことだ。
すぐに外に出してしまうと、油が冷えて固まってしまい、油っこくなる。
火にかけた油の上は結構熱いので、そこで10秒待つだけで油切りが進む。
もちろん、下に紙を敷いた皿などに置いて油切りはするのだけど、この10秒でずいぶんおいしくなる。
子供が小さい頃は、鶏肉 500g も揚げれば十分だったので、から揚げでも1つ1つ丁寧に、箸で持ったまま油切りしていた。
でも、最近は 1kg でも足りないくらい。
1つづつ油切りしていては時間がかかりすぎてしまう。のみならず、時間がたつことで肉が焦げてしまい不味くなる。
そこで、最近はすくい網ですくって 10秒待っていたのだけど、網の上で密集した唐揚げは油を保持してしまい、油切りが十分ではなくなる。
結果的に、どうやっても美味しくつくれない。
これが、最近唐揚げを作らなくなった理由だった。
でも、久しぶりに唐揚げをやろう、と思った。その日付を土曜日の夕食と決め、木曜日には肉とレモンを買って準備して置いた。
そして、金曜日の午後気づいた。
そうだ、唐揚げをやるなら、以前から買いたいと思っていたあれを買おう。
鍋の縁にセットし、油の上で保持した状態にしておける、揚げ物用の網だ。
あれって、鍋と一緒にセットで作ってある、鍋の付属品だと思っていた。
でも、うちの IH は揚げ物用の「純正専用鍋」があり、純正鍋を使っていれば自動の温度管理が使える。
(純正でなくても温度管理してくれるようだけど、保証はされない)
だから「あこがれ」はあっても買っていなかったのだけど、もしかしたらバラ売りもあるんじゃないか、とこのとき急に思ったんだ。
Amazonで探す。
やはり、ほとんどは鍋のセット品だった。だけど、数は少ないがバラ売りもあった。
鍋の大きさは大体決まっているが、鍋ごとに少しづつ違う。それが、こうした網を「セット」にしていた理由のようだ。
フリーサイズで、どんな鍋にも合う商品は、代償として多少使い勝手が落ちるようだった。
でも、ないよりずっとまし。
見つけたフリーサイズ網は2種類しかなく、20~24cm 用と、24~30cm 用。
うちの鍋を測ると、23cm だった。必然的に選べる商品は1つだけ。迷わず購入した。
土曜日の夕食に使おう、と思っていたが、土曜日の夕方6時までには届くようだ。
事前に肉は一口大に切り、味付けを良く揉みこんで置いた。
時間に余裕があったので15分ほど揉んだ。
いつでも調理を開始できる状態で待つ。6時までには届くから、それから調理しても6時半には食べられるだろう。
6時15分前に揚げ網は届いた。早速軽く洗い、鍋にセットして調理開始。
いやもう、素晴らしいの一言に尽きる。
油から出した肉を網の上に置いておく。ちょうどよいころ合いを見計らいながら1つづつ置いていくと、いっぱいになったころには、最初に置いたもの油切りが十分できている。
左手で肉に粉をつけて油に入れ、右手の箸でよいころ合いの肉を引き上げ、鍋縁の網に置く。
この作業の合間に、十分油切れできた肉を皿に移す。
#実は皿ではなく、新聞紙とキッチンペーパーを敷いたフライパン。
IH で保温しているので、移し替えてからも油切れが進む。
すくい網を使っていた時は、いっぺんにすくうために、上げる頃合いを合わせる必要があった。
当然、肉をまとめて投入し、一気にすくう。すくった後は先に書いたように 10秒ほど待つ。
いっぺんに全部はすくえず、「ぜんぶすくう」だけで 1分くらいかけ、その後まとめて投入する。
投入後は、頃合いになるまで待つしかない。
これ、実は結構時間が無駄になっている。
1つづつ頃合いを見て上げられるようになったので、少しづつ次の肉を投入できるようになった。
結果として無駄な時間が無くなり、1.2kg の肉を揚げたのだけど、いつもよりもずっと早く調理が終わった。
いつもより美味しく揚がった。
美味しいというのは、もちろん油切れが良いためでもあるけど、頃合いを適切に見極めやすいためでもある。
10秒待っている間手をそこに止めていると、その間に焦げていくものもあるし、すくい網でまとめて上げていると、すべてを適切なタイミングにはできなかったから。
美味しいので子供はパクパク食べ、1.2kg じゃ足りなかった。次は 1.5kg やろう。
そんなわけで、あこがれの揚げ網の威力は絶大だった。
もっと早く買えばよかった。
もちろんすでに使っている人も多いだろうが、まだ使っていない主夫・主婦のかたにはお勧めです。
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先の日記に書いた「からあげ」を作った理由。
土曜日の午後3時から、翌日午後3時までの24時間、スプラトゥーン2で「フェス」が行われたからです。
フェスは、ゲーム内のイベント。
通常は単純に「ランダムに組まれたチームで戦う」ことを楽しむゲームですが、フェスは大きく2つの軍勢に分かれて戦います。
今回のお題は、「からあげにレモンをかけるか、かけないか」。
そんなわけで、土曜日の夕食に、からあげとレモンを用意したわけです。
ちなみに、以前マクドナルドがスポンサーとなって「ナゲットとポテト、どちらが好き?」というのもありました。
このときも、ナゲットとポテトを大量に用意しました。
さらに以前のフェスで、「マヨネーズ vs ケチャップ」というのもあったので、ナゲットとポテトには付け合わせにマヨとケチャを用意しました。
まぁ、今回もマヨネーズとケチャップ、ポテトも用意したのだけど。
フェスに参加すればゲーム上の「ごほうび」がありますし、参加時間が長いほど得するようになっています。
でも、うちでは家族5人で楽しんでいるので、1人当たり3時間程度しか遊べません。
8時間寝るとして、1日は16時間。
交代時のタイムロスもあるので、15時間とすれば、5人で割って3時間ですね。
フェス開始から夕食までの3時間半ほどで、子供は1時間づつ遊びました。
長男の称号は「スーパーレモンかけるボーイ」になってましたし、長女は「まことのレモンかけないガール」になっていました。
でも、この主張はゲーム上のもの。
夕食のから揚げは、長男もかけないで食べていたのもありますし、長女もかけて食べたりしてました。
だって、味わいが違ってどちらも美味しいもの。
我が家では、結構「冗談みたいな夕食」を作ることがあります。
フェスのテーマに合わせて…というのもそうだけど、台風が来るからコロッケ作ろうとか、昨日見たテレビで食べていたアレ作ろうとか。
プリキュアで出てたオムライス、なんて作ったこともあったな。
この日のから揚げも、肉 1.2kg にポテト 400g で…それだけ。
ご飯もサラダもなし。というか、ご飯は炊いたのだけど、肉とポテトだけで腹いっぱいになりました。
栄養バランス的にいかがなものか、とは思いますが、毎日こんな食事ではないのでたまには大丈夫でしょう。
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そういえば、ST-V の開発環境話って書いてませんでした。
ここらへんで書いておきましょう。
…とはいっても、「業界記」タグで書いていないだけで、だいたいはこちらで書いた通りです。
リンク先記事では、僕の所属を「セガの業務用ハード向けのゲームばかり作っていた会社」としていますが、セガそのものです。
嘘は書いてない。自分の中で20年たっていないことは書かないという自主ルールを定めていたので、明言を避けただけです。
開発環境としては、当然のことながら、それまでの開発環境から緩やかに移行できるようになっています。
と言っても、メインとなる PC をそのまま使えた、という程度かな。System32 でも使っていた、HP-UX マシンをそのまま使って開発しました。
当初は、HP-UX には限らないものの、UNIX マシンを使わないと開発できなかったようです。
しかし、すぐに通常の PC でも開発できるようになります。
実際、後に入ってきた新入社員には、Windows マシンが支給されていたはず。
ターゲットとなるボードは当然変わります。CPU エミュレータである ICE も変わります。
V60 ICE は PC-9801 が無いと制御できませんでしたが、SH2 ICE は UNIX/PC から制御できるようになったので、PC-9801 は不要になりました。
これ、机の上が広く空いて嬉しかった。
ROM エミュレータも不要になりました。
というか、時代の変化で ROM の容量が増えて、それまで使っていた ROM エミュレータではエミュレートできなくなりました。
Model 2 などでは ROM エミュレータとは違う方法で対応していたのですが、ST-V には「フラッシュロムカートリッジ」が作られました。
ICE を経由して、PC からデータを送り込んで、基板に挿したままで内容を書き替えられます。
開発用のフラッシュカートリッジは、商品のカートリッジよりも大きいですし、基板がむき出しです。
ST-V のカートリッジは、後にコピー防止のためのチップが入ったバージョンが作られます。
当然、フラッシュカートリッジにもそのバージョンがありました。
…でも、旧バージョンを手作りで拡張しただけ。わずかな基板しかありませんでした。
開発時は普通のカートリッジで開発し、コピー防止のスクランブルをかけたデータを作成したら、特別版で動作確認だけする、という感じ。
まぁ、詳細はまたそのうち。
SH2 ICE の UNIX 版ソフトウェアの GUI は、OPEN LOOK で作られていました。
しかし、HP-UX は Motif でした。
…この説明で悲劇を理解してくれる人はどれだけいるでしょう?
UNIX の世界は、もともとコマンドラインインターフェイス…キーボードから文字でコマンドを入力し、文字で結果を受け取る、という文化です。
グラフィックが使える環境もありましたが、OS ではなく「端末」依存で、環境が違うと一切互換性がありませんでした。
これを解決しようと、X Window System が作られます。
Window と名前にありますが、事実上は標準グラフィックライブラリ。
Window 環境を実現しやすい工夫はありますが、とにかくどんな環境でも共通でグラフィックは扱えるようにしてやるから、後はお好きなように、というもの。
このままでは使いにくいので、GUI らしい「部品」のライブラリが作られます。
OPEN LOOK は Sun が作ったもので、こうしたライブラリの中では比較的早く広まったもの。
Sun ワークステーションでは Open Windows という環境が整えられていて、その中ではすべてが OPEN LOOK で作られていました。
これはこれで、統一されていて使いやすい状態。
当時は Sun は UNIX 界の巨人でした。
そもそも、大学などでは「無料だから」という理由で利用されていた UNIX を、仕事でも使えるものとして広めたのは Sun なのです。
その後、Sun に対抗するそれ以外の UNIX メーカーが共同で、「標準 Window ライブラリ」を作り上げます。
それが Motif 。
コンピューター業界の標準 GUI にしよう、という意図で設計されたため、Windows も、3.1 の時には Motif ベースで作られています。
なので、Motif は 3.1 の頃の Windows にそっくりです。
HP-UX では、Window 環境全体を Motif で構築しており、Windows 3.1 を利用しているのと似た感覚で操作できました。
…でも、OPEN LOOK と Motif は、見た目も操作の作法も全然違うのです。
SH2 ICE の UNIX の GUI は、OPEN LOOK で作られていました。
しかし、HP-UX は Motif でした。
もう、操作しづらいの。
SH2 ICE の操作をする時だけ、普段とは全然違う操作を強いられるから。
Windows と MacOS を切り替えながら使うような仕事って、今でもあると思うのだけど(僕はやってます)、そういう時の「操作しづらさ」を想像してもらえばいいかな。
もちろん、Sun ワークステーションを使っていれば統一された操作感で悪くないのでしょうね。
でも、すでに Sun は優位な立場を失いつつあり、ワークマシンとしての人気は落ちていました。
#サーバーとしての信頼性などはまだありました。
先に書いた通り、開発には Windows でも使えました。もちろん、SH2 ICE の Windows 用ソフトもありました。
こちらの GUI は、ちゃんと Windows 用に作り込まれていたようです。
結局、UNIX 用はライブラリが違っても動いてしまうがゆえに、ライブラリ環境ごとのカスタマイズはされていなかっただけなのでしょうけど…
SH2 の話ではないけど、V60 の頃は僕は awk 使いでした。
awk でグラフィックなどのデータを次々とツールに通し、得られた結果を整理して、プログラムから扱える環境まで全部整えるスクリプトを作っていました。
でも、これに限界を感じて、ST-V 用に処理を書き替えるついでに、全部を perl で書き直しました。
awk で作っていたスクリプトは、大量のデータを処理するには遅かったしどうしても無理があって、バグ含みだったんだよね。
(バグに遭遇する確率は低いが、特定形式のデータでバグが出ることはわかっていた)
まぁ、これらのスクリプトは「自分で使う」ために作っていただけで、誰にも見せたことはありません。
オーラ占いの話のところで書きましたが、最後の方で同僚の仕事を一時引き継ぎました。
その時に、awk のスクリプトでデータ整理していることに気付きました。
それで調べてみると、誰にも見せたことがないのに、「作者不明」のまま、ST-V やその他基板用に改造され、いつの間にかみんなが使うものになっていて…
perl 版と違って、遅いしバグ含みなんだけどな。
説明するのも面倒くさいので、後に会社辞めるまで、そのまま知らないふりを通しました。
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申し訳ありませんが、現在意見投稿をできない状態にしています。 【あきよし】 失礼しました。正式表記に書き替えました。指摘ありがとうございます。 (2017-11-21 09:29:06)【m.ukai】 × X-Window ○ X Window System (または単にX) (2017-11-20 20:20:05) |
加湿器を購入した。
今まで使っていたのは8年近く前に購入したもの。
性能的には素晴らしかったのだけど、さすがに8年もたつと寿命だ。
買い換えることにした。
プラスチックは、水に弱い。
プラスチックと一言に言ってもいろいろな種類があるのだけど、水と化学反応すると分解してしまい、最終的にはもろくなる。
加湿器は水を扱う製品で、当然水に強いプラスチックを使用していると思われる。
でも、8年もたつと、水に浸かり続ける部分はボロボロになる。
加湿器としてはまだ使えていたのだけど、あちこちひびが入ったり破損したりしていた。
特に、水タンクのふたは、毎日の開け閉めで力がかかることもあり、4年目くらいで破損して一度パーツだけ購入した。
4年もたつとすでに古い商品であり、部品番号を特定し、発注するだけでも苦労した。
そこが再び割れていた。
もう買い替え時だろう。
余談だけど、この水タンク、「ヘロンの噴水」の応用で、古い水を回収し、廃棄するようになっていた。
加湿器は水を蒸発させるため、最後にカルキなどの不純物が濃縮された水が残る。
特に、ディスク型加湿器は構造上「空気清浄機」としても働いてしまうため、水が汚れる。
水タンクに、水の重さを利用した古い水の回収機構が付いていて、吸水時に捨てられるようになっていた。
この仕組み、面白かったのでいつか記事にしたいと思ったまま、記事にせずに捨てる。
新しい製品を選定。
8年前に選定した時とは状況も変わっているけど、大体の方針は同じ。
本体価格は多少高くても良いから、消費電力が少なく、加湿性能が高いものが欲しい。
以前の調査で、気化式、特にディスク式が良いことがわかっている。
しかし、ディスク式はメンテナンスが結構面倒で、多くのメーカーが作るのをやめてしまったようだ。
以前使っていたのは三菱電機製だった。他社に比べ、飛びぬけて消費電力比の加湿性能が高かったから。
でも、性能が高い代わりに値段も高かったし、機械自体も大きかった。
これが人気が無かったようで、三菱は加湿機自体から撤退してしまったようだ。
(三菱電機ではなく重工は作っているし、加湿器ではなく保湿器は作っている)
一応説明しておくと、加湿器には大きく分けて、加熱式・超音波式・気化式の3つがある。
▼加熱式
お湯を沸かせて蒸気を出すものだ。
石油ストーブの上に薬缶を置いておくのと同じだな。
メリットは、水が高温になるため、雑菌の心配がいらないこと。機構が簡単で本体も安いこと。
デメリットは、お湯を沸かすためにかなり消費電力が高いこと。
▼超音波式
水面付近に超音波を当てることで水滴…霧を発生させる方式だ。
メリットは、消費電力が少なく、機構が簡単で済むために本体も安いこと。
デメリットは、霧にしたからと言って気化するとは限らず、加湿器周辺が水でべちょべちょになる場合があること。
中途半端に水にエネルギーを与えるために「ぬるい」温度になり、雑菌が発生しやすいこと。
カルキや雑菌を含む水滴をまき散らすため、うまく加湿できても周囲に「白い粉」を発生させやすいこと。
デメリットばかり書いたが、現在の超音波式は、内部で紫外線殺菌するなどで少なくとも雑菌の心配はなくしている。
その反面、本体の安さというメリットも失われる。
▼気化式
単に水を含ませた布などを「乾かす」ことで加湿する方法だ。
メリットは、場合によっては電気すら使わないでよいこと。電気を使う場合でも消費電力は非常に安い。
それでいて、加湿部分の形状を工夫することで、他の方式に比べても加湿性能が高い。
(消費電力あたりの性能ではなく、絶対性能としても高い)
デメリットは、やはり雑菌が発生しやすいこと。
通常は、布などの「フィルタ」を湿らせ、ファンで強制的に空気を通すことで加湿する。
この仕組み上、フィルタは事実上「空気清浄機」として機能してしまう。
空中のカビの菌などを捉え、常に湿っているので繁殖しやすい。
ただし、超音波式と違って雑菌をまき散らすことはない。あくまでも気化した水蒸気だけが放出される。
臭いは生臭くなるので、その前にフィルタを交換するなり掃除するなりすることになる。
大抵は、フィルタ掃除は大変だ。加湿性能を高めるため、複雑な構造になっていることが多いためだ。
そもそも洗浄できず、交換式の場合もある。この場合はランニングコストがかさむ。
他にも、超音波で発生した霧に、加熱した温風を当てて気化させるハイブリッド式などもある。
でも、基本的には上の3方式。
気化式は、3方式の中で一番加湿能力の幅が広い。
お皿に水を入れて、吸水性の良い厚紙を立てておくのも「気化式」だし、以前使っていた、他に類を見ないほど加湿性能が高かった機械も「気化式」だ。
なので、この言葉は加湿性能を表さない。
消費電力の少なさは表すが、これもメーカーによりけりだ。
本体が高くても良いから、消費電力が少なく、加湿性能が高いものが欲しい…
という際には、気化式の中で、フィルタに強制送風するものが最有力候補となる。
ただ、この方式はメンテナンスは一番面倒くさい。
面倒が嫌な人は、他の方式を選んだほうがいいだろう。
気化式を作っているメーカーは以前より減ったように思う。メンテナンスの面倒さが嫌われるのかもしれない。
いろいろ調べたが、今回はパナソニック製を選ぶことにした。
今まで使っていた三菱製が、加湿性能 800ml/h 。
パナソニックのものは、加湿性能 700ml/h 。
だけど、三菱製は4万円した。パナソニック製は2万円。半額だ。
もし加湿性能が不足するようだったら、もう一台買い足そう。
使い始めて1週間ほどたつが、加湿性能に不満はない。
もっとも、まだ真冬になっていないので、空気もそれほど乾燥していない。
性能を見極めるにはこれからが本番だろう。
水タンクは以前のものほど大きくない。
というか、三菱製はタンクが大きすぎ、水を入れると重いと不評だったようだ。
フル稼働していても1日1回水を入れればよかったので、僕は好きだったのだけど。
パナソニックのものは、多分フル稼働の時期になったら1日2回給水しないといけないと思う。
まだメンテナンスは行っていないが、事前に見た限りでは、三菱のものよりメンテナンスが楽そうだ。
三菱のものは30枚程度に分離する薄いディスクを、1枚づつ手洗いする必要があった。
パナソニックのものは、人工繊維の網状のスポンジのようなもの…名状し難いが、水をうまく吸いつつ、揉み洗い等しやすそうなフィルタを洗えばよい。
洗面器に入るくらいの大きさなので、つけ置き洗いすればよいようだ。
洗っていれば10年もつ、という触れ込みなので、フィルタ交換という「追加コスト」はないと信じたい。
#そもそも、10年たつ前に本体が壊れる気がする。
何よりも、一定期間使うと、「メンテナンスしてください」と本体に促されて、分解し、再度組み立てないと動作しなくなる。
メンテナンスが難しいほど状況が悪化する前に、強制的にメンテナンスを促すわけだ。
三菱のものは、「臭くなった」などで自分で判断する必要があった。
その程度まで事態が進んでいると、洗うのも一苦労だった。
ここら辺、パナソニックは作り方がそつない。
個人的な想いだけど、パナソニック製品を買うと、少し寂しさを感じる。
パナソニック製品は優等生過ぎるのだ。
大きな減点対象はないのだけど、突出した魅力もない。
(まぁ、その「平均点の高さ」は突出した魅力なのだけど)
以前使っていた三菱の加湿器は、メンテナンスなど面倒だったけど、いろいろと良いアイディアが光る製品だった。
最初に書いたけど、汚れた水の回収システムとかよくできていた。
給水するたびに魅入ってしまう。
加湿中の動作も、水タンク越しにディスクがゆっくりと回転するのが見えるように作ってあり、美しかった。
今度のパナソニック加湿器は、手がかからずに十分な性能を発揮してくれそうだ。
非常におとなしく、部屋の風景に溶け込むようなデザイン。まるで存在していないような、空気のような存在。
実のところ、毎日使う家電製品というのは、それでいいのだと思う。
それでいいのだけど、少し寂しさを感じるのだ。
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別年同日の日記
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2年ほど前に、LSI-Cの作者さんの訃報に触れ、追悼文を日記に書いた。
LSI-C というのは、コンピュータープログラムに使われる「C」という言語の亜種。(実装の一つ)
作者さんに面識はなかったが、昔お世話になったので追悼文を書いたものだった。
で、そちらの日記を見た方が、Twitter に感想を書いてくださっていた。
#時々エゴサーチしてますよ
MS-DOS には、COM と EXE と呼ばれる、二つの実行形式ファイルがあった。
プログラム言語の話なので実行ファイルとも関連が深く、Cでもこの二つのファイルが作れたことを書いたところ、「初めて知った」と素直に感想をくださったのだ。
あー、…ごめん。
知識を得て喜んでくれたところ申し訳ないのだけど、あちらのページに書いたのは正確ではない。
以前書いたことの概要を示そう。
MS-DOS のC言語には「メモリモデル」という概念があり、プログラムを作るときにはメモリモデルを選ぶ必要があった。
このうち、プログラムとデータをすべてひっくるめて 64Kbyte 以内で作れるものは、COM ファイルになる。
それ以外は EXE ファイルだ。
…でも、これは「C言語で、64Kbyte 以内のメモリモデルを選ぶと COM ファイルを作れた」というだけで、COM ファイルの要件ではない。
COM ファイルで 64Kbyte を超えるデータを扱うことも可能だったし、COM と EXE の違いは、プログラムやデータのサイズよりも大切なことがある。
嘘を書いてしまったみたいで申し訳ないので、もう少しちゃんと書いておこう。
メモリの話なので、簡単な基礎知識から。
メモリは「アドレス」を使って参照される。
アドレス=住所、の名前の通り、1つのメモリ(記憶)には、1つのアドレスが対応している。
1000番地に 123という数値を入れておけば、1000番地を読みだしたときには、必ず123が入っている。
1001番地に 45 という数値を入れても、1000番地の内容には影響がない。
あいかわらず 1000番地は 123 だし、1001番地は 45 だ。
当たり前の話なのだけど、この当たり前が成立するから、安心してプログラムも作れるし、計算もできるんだ。
基本はしっかり抑えておきたい。
コンピューターの中では、文字も、プログラムも、すべて数値で表現される。
だから、メモリの中に文章データも、プログラムも、もちろん計算結果も、すべて置いておける。
もう一つ、以下の説明で使うので「レジスタ」というものを覚えてほしい。
これは、CPU の中にある、特別なメモリ。
アドレスは割り振られておらず、CPU が特別な意味を持って利用する。
さて、MS-DOS に COM ファイルの実行を指示すると、OS は空きメモリを見つけ出して、ファイルの中身をそのままメモリに読み込む。
その後、OS は CPU の中にある「データの場所」と「プログラムの場所」を示すレジスタを、読み込んだ場所にセットする。
そして、読み込んだデータを実行する。
これが、COM ファイル実行の仕組みだ。
「データの場所」と「プログラムの場所」のレジスタとは何だろうか?
MS-DOS が使えるパソコンは、8086 という 16bit CPU を使っていた。
この CPU は、8bit CPU の 8080 の後継機種で、8080 のプログラムを「簡単に移植」できるように作ってあった。
8bit CPU では、メモリアドレスは 16bit (8bit 2個分)あった。これで、64Kbyte のメモリを扱える。
プログラムの中でアドレスを扱うレジスタも、当然 16bit だった。
これが 8086 になると、16bit なのだからメモリアドレスが 32bit になったか…というと、そうでもない。
中途半端に見えるかもしれないけど、20bit になった。
そして、アドレスを扱うレジスタは、あいかわらず 16bit だった。
これは、8bit CPU 8080 のプログラムを移植しやすいようにするためだ。
でも、メモリアドレスは 20bit なのに、レジスタが 16bit では全部を扱えない。
そこで、プログラムの中では「メモリの開始位置」をずらせるようになっていた。
たとえば、「データの場所」として、1000番地を指定したとしよう。
すると、プログラムの中では「234 番地」を指定した場合に、自動的に 1000 + 234 で 1234 番地が使われる。
データの場所と、プログラムの場所は、別々に指定ができた。
だから、最大で 128Kbyte のメモリが扱える。
もしそれ以上のメモリを扱いたいときには、プログラムの中で「データの場所」「プログラムの場所」を示すレジスタを書き替えればいい。
しかし、MS-DOS の COM ファイルは、データもプログラムも同じ場所にあり、さらに場所の書き替えは行わない、という前提で作られる。
最初に書いたように、場所をセットするのは OS の役目で、プログラムはその「場所」で動くことになる。
ここで一つ説明が必要になると思う。
なんで、プログラムやデータを示す「場所」のレジスタをセットする、という必要があるのか。
1234 番地を使いたいのなら、プログラムの中で 1234番地、って書いとけばいいのに。
この答えは単純で、プログラムが同時に複数読み込まれるからだ。
あるプログラムが 1234 番地を使う、と指定していたとしたら、別のプログラムで 1234番地を使ってはならない。
でも、プログラムを作るときに、他の「知り得ない」プログラムが、どこのメモリを使っているかなんてわからないのだ。
プログラムの中では 234番地、とだけ指定して置けば、この問題を解決できる。
2つのプログラムが、それぞれ 234番地をつかおうとしていても、OS が片方は「1000番地から」、もう片方は「2000番地から」使うように指示する。
そうすれば、片方は実際には 1234番地、もう片方は 2234 番地を使うことになり、同時に使って問題ない。
そもそも、8086 が 20bit のアドレスを 16bit のレジスタとの組み合わせで示す、という変なアドレス指定方式を採用しているのは、このような使用方法を想定していたためだ。
MS-DOS の COM ファイルは、素直にそのやり方を実現したプログラム形式なのだ。
でも、これでは大きなプログラムを作れない。COM ファイルの限界を無くしたいときには、EXE ファイルを使う。
COM ファイルは、単純にプログラムを入れてあるだけのファイルだった。
でも、EXE ファイルの中は構造になっていて、少なくとも次の3つのものが入っている。
・プログラム
・データ
・再配置情報
COM ファイルでは、プログラムとデータは混然一体となっていた。
でも、EXE では分離してある。
…まぁ、もちろん混然一体にしてもかまわない。
でも、先に書いたように 8086 は「プログラムの場所」と「データの場所」を別々に指定できる仕組みを持っている。
だから、分離しておけば、読み込み時点で OS が適切にメモリに配置してくれる。
最後に残る「再配置情報」っていうのは何かというと、プログラムを実行する間に OS が書き替えるためのヒントだ。
しつこく繰り返すことになるが、8086 には「データの場所」「プログラムの場所」を、それぞれ 64Kbyte 確保する仕組みがある。
それ以上のメモリアクセスが必要なら、これらの「場所」を示すレジスタを書き替えないといけない。
でも、ここで先に書いた問題が再燃する。
OS が「1000番地から」使うように指示をくれていたのに、勝手に「2000番地から」使うように書き替えることは許されないのだ。
そんなことをしたら、他のプログラムとぶつかってしまう。
そこで、プログラムを作る際には、仮に「0番地から」メモリアドレスを始めて、場所を示すレジスタも、自由に書き替えてよいことにする。
ただし、プログラム中でレジスタを変更する場所は、すべて「再配置情報」に記しておく。
OS は、ファイルからプログラムを読み込み、メモリに配置する際に「再配置情報」を参照する。
そして、書かれた数値に、適切な数値を足していくのだ。
1000番地から使用するのであれば「0番地から」になっている部分に 1000を足し「1000番地から」に変える。
アドレスを指定している個所をすべて変更すれば、そのプログラムはメモリのどこに置かれても、正しく動作する。
プログラムをメモリのどこにおいても大丈夫なように作る…このようなプログラムを「リロケータブル」という。
英語で書けば relocatable。re(再び)locate(配置)able(可能)で、日本語訳は「再配置可能」。
COM ファイルは、そのままでリロケータブルだ。「場所」を示すレジスタさえ正しく整えれば、どこにおいてもそのまま動く。
EXE ファイルのプログラムは、読み込むアドレスを「仮に固定して」作られている。リロケータブルではない。
でも、再配置情報を使って、OS が書き替えを行うことで、リロケータブルになっている。
利用者にとっては気にする必要はないだろう。どちらもリロケータブルだ。
さて、ここでやっと、最初の問題に戻れる。
僕は、COM ファイルの要件を「プログラム、データ含めて 64Kbyte 以内のもの」というように書いたのだけど、実はこれは嘘だ。
COM ファイルはサイズが問題なのではなく、「そのままでリロケータブル」なプログラムを意味している。
メモリのどこに読み込んでも実行できる。
MS-DOS の仕組みでは、「読み込み時点」では、64Kbyte 以内に収まることが大切だ。
これは、ファイルサイズが 64Kbyte 以内であること、と同じ意味になる。
実行された後に、空きメモリを探して確保して、外部データファイルを読み込むのは構わない。
こうすれば、COM ファイルでも 64Kbyte を超えるデータを扱える。
歴史的には、MS-DOS の元になった CP/M という 8bit OS があり、その OS の実行ファイルが COM だった。
8bit なので、同時にいくつものプログラムを読み込むことはできない。
MS-DOS では、8086 の仕組みを利用して、COM を複数同時に読み込めるようにした。
CP/M にはできない芸当で、便利だった。
でも、16bit らしい大きなプログラムは作れなかった。
そこで、MS-DOS の Ver 2 になってから、EXE ファイルの仕組みが拡張された。
先に書いたように、仕組みは違うがどちらも「リロケータブル」なファイルで、ユーザーから見たら特に違いはない。
形式が古く、制限の厳しい COM ファイルを好きこのんで作る理由なんて、どこにもなかった。
DOS 標準プログラムも、ver1 から使われている command.com 以外には、非常に小さなプログラムでもほぼ EXE で作られていたと思う。
しかしまぁ、ファイル構造を示すヘッダがない、構造を解析してパッチを当てる時間が不要、などの理由で COM ファイルは「実行が速い」とされた。
ディスクアクセス時間に比べれば、そんなものは誤差範囲レベルなのだけど。
制限が厳しいからこその腕試し、というような側面も相まって、それなりに COM ファイルは作られていたと思う。
さて、ここからは余談。
EXE ファイルのような、「OS がアドレスを変えることで」どこにでも読み込めるようにする…という形式が、いつ頃考案されたのか僕は知らない。
マルチタスクなら、複数のプログラムがメモリに読み込まれるので、当然「プログラムをどこにおいても良い」、つまりはリロケータブルである必要がある。
マルチタスクの元祖は、Multics か、その前身となる実験だった TSS あたりになるのだけど、今調べたら TSS では当たり前に「リロケータブル」となる仕組みが作られていたようだ。
おそらくは、シングルタスクでも複数のライブラリを組み合わせて使用する場合などで、アドレス調整の必要からリロケータブルの仕組みが作られたように思う。
以前調べた中では、WhirlWind I のライブラリプログラムは、リロケータブルにできるように作られていた。
もっとも、これは OS が仕組みを作っているとかではなくて、ソースコードレベルで「別のアドレスに置くときは、ここの部分を改造する」など、適切なコメントを人間に残す形なのだけど。
ともかく、プログラムを置くアドレスが変わっても、正しく動作するプログラムを作ろう、という意識はあったことになる。
となれば、後はどこかの段階で、機械的なサポート方法が考案されたのだろう。
MS-DOS は、Ver 1 では COM ファイルしか使えない。
CPU がサポートする機能を使ってリロケータブルを実現してはいるが、「OS の機能」として、制限の少ないリロケータブルをサポートするのは Ver 2 以降だ。
大型機で使われていた技術を取り入れたものだろう。
X68000 という 16bit パソコンがあった。
CPU に 68000 という、昔の Apple Macintosh や、セガの「メガドライブ」に使われたものと同じ LSI を使用していた。
この CPU では、MS-DOS は動かない。
だけど、MS-DOS を参考にしたと思われる、Human68k という OS を標準搭載していた。
実行ファイルも、MS-DOS のように2種類あった。x 形式と r 形式だ。
x 形式は、EXE と同じように、実行前にプログラムが OS によって書き替えられる。
r 形式は書き替えずにそのまま実行する。この点は COM ファイルと同じだ。
でも、68000 には MS-DOS のような「メモリの始まる場所」を示すような数値はなかった。
それでも、リロケータブルなプログラムを作ることができた。
8086 では、アドレスを表すのに3つの方法があった。
・今実行中のアドレスに、1byte 分、-128~127 の数値を加える。
・今セットされている「場所を示すレジスタ」を先頭として、2byte 分、0~65535 の数値を加える。
・場所を示すレジスタも書き替えて、全メモリ(20bit)を指定する。
これに対して、68000 では、大きく分類して2つのアドレス指定方法があった。
・今実行中のアドレスに、2byte 分 -32768~32767 の数値を加える。
・全メモリ (24bit) を指定する。
8086 の COM ファイルは、「場所を示すレジスタ」を OS がセットしてくれるのを前提として、リロケータブルになっている。
それに対し、68000 では、レジスタの助けを無しにリロケータブルにできる。
アドレスの範囲は同じ 2byte に見えるが、常に「実行中のアドレス」を中心とするため、作り方次第で 64Kbyte を超えるプログラムも作れる。
68000 の「リロケータブル」は、8086 の「リロケータブル」よりも、もっと制限が少ないのだ。
でも、X68k では、「 r 形式」としてリロケータブルなプログラムを実行できるようになっていたにも関わらず、開発のためのサポートはなかった。
MS-DOS なら、C言語でメモリモデルを選択すれば作れた。
だけど、X68k のC言語は x 形式しか作ることができず、r 形式を作るには、アセンブラですべてを書くしかなかった。
先に、MS-DOS でも COM を作るのは腕試しの側面があった…というようなことを書いた。
とはいえ、C言語でも簡単に作れる。
でも、X68k の r 形式はすべてをアセンブラで書く必要がある。
「適切に書かれれば」という前提付きだけど、C言語の生成するコードよりも効率が良く、高速動作する…ことも考えられる。
だから、r 形式のプログラムは「速い」という神話が生まれた。
いや、ただの神話で、r だから速いなんてことは全然ないのだけど。
僕もあこがれて、いくつかの小さなプログラムを r 形式になるようにアセンブラで書いていた。
まぁ、習作だよね。特に発表はしてなかったと思う。
#特に、シングルタスクの OS 上でマルチタスクな動作を実現する「常駐プログラム」はアセンブラで書く必然性があったので、そういうものを試作していたはず。
大学2年生の時に作った、BANDITS も r 形式ではなかったかな。
ただ、このゲームは未完成。習作何本か作っていい気になって大作に挑み、失敗した。
技術が伴わないのに大きな目標を立ててはいけませんね。
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マクドナルドの「ハッピーセット」のおもちゃに、なんと「モノポリー」が入っている。
…というか、11月頭に新聞折り込み広告で入っていたマクドナルドのクーポンで知って、興味を持っていた。
11月17日からが、ハッピーセット30周年記念の「パーティゲーム」で、1週間づつの前・後半に分かれている。
前半が、人生ゲーム・UNO・ツイスターゲーム。
後半が、黒ひげ危機一髪・トランプ・モノポリー。
えーとつまり、タカラトミーがスポンサーなわけだな。
トランプ以外の5つは、全部タカラトミーから発売されているゲームだ。
#タカラトミーもトランプは作っているけど。
もちろん、定価で3000円程度の各種ゲームを、マクドナルドのおまけにつけるわけがない。
興味を持って調べたが、どれもかなり簡略化されている。
(トランプは簡略化されていない。100円でも売っているけど)
その中で、我が家の子供が一番興味をもったのは、モノポリーだった。
そんなわけで、先日出かけた時にマクドナルドで昼ご飯を食べ、入手した。
ルールブックを読むと、かなり簡略化されていて、ただのスゴロクレベルにまで「運のゲーム」になっている。
しかしこれが、工夫次第で結構元の雰囲気を出せるようになっていた。
さて、マクドナルド版モノポリーについて書く前に、本物の「モノポリー」の概要を書いておきたい。
モノポリーは、サイコロを転がして駒を進める、スゴロク型のゲーム。
ゴールは特になく、四角い盤面をぐるぐる回り続ける。
ゲーム中には「お金」の概念があり、1周するごとに給料をもらえる。
多くのマスが「土地」になっていて、最初に土地に止まった人は、そこを購入できる。
後から土地に止まった人は、宿泊料を払わなくてはならない。
お金を払いきれずに「破産」した人は負け。
マスには、土地以外にも「鉄道」や「水道」「電気」などの社会インフラもある。
これらも、最初に止まった人が入手でき、後から来た人は料金を払う。
その他、スゴロク的な「税金を払う」とか「牢屋に入る」という指示のマスもある。
それらのマスは指示に従うこと。
「チャンス」マスのように、カードを引いて指示を決める場合もある。
「モノポリー」というのは独占の意味で、商売を独占すると料金がつり上がるようになっている。
土地なら、近隣のグループになったマスを独占する、鉄道なら、複数の鉄道会社を独占する。
または、水道と電気の社会インフラを独占する。
さらに、独占して「まとまった」土地には家やホテルを建て、宿泊費を吊り上げることができる。
小さな土地を集めて大きな建物を建て、巨額の金を動かす地上げ屋ゲーム。それがモノポリーだ。
面白いのは、プレイヤー間の交渉が自由だということ。
土地を自由に交換していい。
土地の交換がお互いの利益になれば話は早い。
破産目前の人の資産を金で買い取って「助けてあげる」のでも良い。
もちろん、独占に成功したプレイヤーは有利になる。
他のプレイヤーは、この独占を防ぐべく、もっと有利な条件で対抗しても良い。
しかし、独占を防ぐための…ただそれだけの投資は、投資する人にとってもあまりメリットがない。
無理をすれば自分が破産する。
ただの「スゴロク」だったら、運がすべてで、こんなに世界的な大ヒットゲームになっていない。
モノポリーの本質は、プレイヤー間の交渉術のぶつかり合いだ。
…と、モノポリーについて書いたところで、マクドナルド版の相違点を。
まず、マスの数が違う。
本物は、四角いボードの1辺が10マスになっている。
マクドナルド版は6マスだ。
これに伴い「グループとなる土地」が、3つ1組から、2つ1組に減っている。
これだけを見ると、独占しやすくなっている。
また、本物にあった鉄道や水道・電気などのインフラマスは、マクドナルド版では無くなっている。
「チャンス」のマスは残っているが、チャンスカードは無くなり、サイコロを転がして起こることを決める。
まぁ、おまけとして作るために縮小しているのだから、この程度の違いは問題ないだろう。
本物ではサイコロを2つ転がして、進む数を決めていた。
7が一番出やすい、という「期待値」があるため、他のプレイヤーが止まるマスを予想して家を建てる、というような戦略性があった。
マクドナルド版は、サイコロ1個だ。運の勝負。
そして、最大の違いなのだが、マクドナルド版は、ルールブックによれば「交渉」が存在しない。
独占するには、偶然にも並んだマスに同じ人が最初に入る必要がある。
そもそも、土地を独占しても「止まった時の支払いが2倍」というだけで、家を建てたりできない。
だから、戦略の立てようもない。
…そんなわけで、本物とマクドナルド版の違いは「本物は知略を競うゲームだったが、マクドナルド版は運のみのスゴロクになった」ということになる。
まぁ、ハッピーセットのターゲット年齢層は未就学児童~小学校低学年なので、戦略性なんかない方が楽しめるだろう。
でも、これは「ルールブック上は」というだけの話だ。なにも、ルールに従うだけが遊び方ではない。
ゲームのルールなんて言うのは、遊ぶ人の合意が形成できれば自由に変えていいものだ。
まず、交渉して土地を売却しても良いことにしよう。
売却は、なにもお金だけで行うのではない。土地同士の交換でもいいし、安い土地2つと高い土地1つ、でもいい。
これだけでもずっと「モノポリー」らしくなる。
続いて、家を建てられることにしよう。
本物では、土地の所有は「権利書」カードを持つことで示される。
しかし、マクドナルド版は、プレイヤーの「チップ」を土地に置くことで示す。
土地は全部で16カ所しかないのだけど、チップは各プレイヤー12枚、全部で48枚ある。
「チップの追加」で家の建設を意味することにしよう。
建設は、独占した土地のグループでしか行えない。
その土地に書かれた金額の2倍を払うことでチップを追加でき、チップが2個付いた土地に止まったプレイヤーは、土地の4倍の金額を支払う。
#独占時点で支払額は2倍になっている。チップが2枚になったことで、さらに2倍する。
チップの追加が「土地の金額の2倍」なのも、その時点での支払額で追加可能、という意味合い。
家の建設…つまり、チップの追加は1枚を限度とする。
4人で遊んでいれば、各プレイヤーのチップで足りるだろう。
3人以下の場合は、使っていないプレイヤーチップを使ってもいい。
参加してないプレイヤーのチップなので、土地が誰のものであるかは一目瞭然だ。
土地を人に売るときは、家はなくした更地の状態に戻すこと。
家は「土地に書かれた金額」で売れることにする。購入価格の半額だ。
#独占している場合、グループの土地全体を更地にしないと土地は売れない。
こうすると、マクドナルド版公式ルールよりも、多くの金が動くようになる。
スタート時の支給額を+5くらいしておくといい。
実際これで遊んでみると、大金が飛び交う激しいゲーム展開になった。
サイコロに期待値がないので、「予想して狙う」ようなことはできないのだけど、ただのスゴロクよりは楽しめる。
#マス目が少ないので、サイコロを2個に増やすと破綻する。
2d4 とかならいいかもしれないけど、試してない。
1つ処理に困った部分がある。
マクドナルド版にしかないのだけど、「チャンス」マスで、「ドナルドパーティ」マスに進む、という指示があるのだ。
ルールブックには、この指示が出た場合は、ただ進むだけではなく、そのマスを無条件に奪い取って自分のものにできる、となっている。
しかし、独占すると家を建てられる、というルールを導入すると「無条件で奪い取れる」のが相性が悪い。
というか、交渉すら存在しなかった公式では、唯一の「他人のマスを奪える」チャンスだったのだけど、交渉して苦労して手に入れたものを無条件で取られたら…と考えると、ゲームが破綻する可能性がある。
モノポリーでは、土地を持っていない人間はジリ貧なのがわかっているので、「土地を奪える」は起死回生のチャンスだ。
このチャンスは残っていたほうが面白いように思う。
その一方で、これがあるとルールの整合性が取れなくなる。
独占して家を建てたのに、土地が奪われて独占ではなくなる、などのおかしな状況が生じるからだ。
また、交渉ありのルールだと、「奪い取られるかもしれないマス」というのは価値が低くなり、使いづらい。
そこで、このようなルールではどうだろう。
(まだテストプレイしていないが)
・「ドナルドパーティ」マスに進む、というチャンス指示が出た場合、「好きなマスに進む」ことができる、と読み替える。
・進んだマスが独占「されていない」場合、そのマスの金額を支払うことで、マスを入手する。
すでに所有者がいれば、所有者に金を払う。所有者がいなければ、銀行に金を払う。
・進んだマスが「独占」されていた場合、マスの所有者は、土地を奪われないが、土地相応の金額を奪われる。
独占だけなら土地に書かれたマスの2倍、家が建っているなら4倍の金額となる。
・進む際に、時計回りで「GO!」マスを通過する際は、通常通りお金2を銀行からもらえる。
これなら、特定の土地が「奪われるかもしれない不利な土地」ということはなくなる。
お金が全くない時は独占された土地に進むことで「買取らないといけない」という理不尽も起きないだろう。
独占された土地が無い場合も、GO! のすぐ後の金額1の土地を選べば、直前にお金が2入るので破産することもない。
マクドナルド版の公式ルールと比べると、かなり複雑化している。
それでも、土地を抵当に入れて借金、とかがある本物に比べると、かなり簡略化されたゲームだ。
未就学児童には難しいかもしれないけど、小学校低学年なら遊べると思う。
(うちの小2の次女と遊べた)
一度は公式ルールで遊んでみて、慣れた頃に「上級編」ルールとして取り入れてみてください。
公開後すぐに追記
「モノポリージュニア」という製品があるのだそうです。知りませんでした。
子供向けに簡略化したもので、
・サイコロは1個
・マスの数が少ない
・交渉が存在しない
などが特徴だそうで。
マクドナルド版は、この「ジュニア」を元に、さらに簡略化したものだったようです。
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