今日は、ジョージ・イーストマンの誕生日(1854)
写真で有名なコダック社…正確には、イーストマン・コダック社の創業者です。
写真は、19世紀の序盤…1826年に発明されています。
最初は、撮影に8時間もかかるものでした。
しかし10年ほどで撮影時間は 10~20分ほどに短縮されます。
ただし、この方法は「左右が反転してしまう」「高価」などの問題がありました。
さらに 15年ほど…1851年には、左右が正しく記録され、安価で、わずか15秒で撮影でき、しかも何枚でも複製が可能という方法が発明されます。
この方法の欠点は、撮影時にガラスに「薬品」を塗り、これが乾くまでに撮影・現像・定着などの作業を行わなくてはならないこと。
薬品の専門知識が必要ですし、写真館での撮影ならともかく、屋外での撮影にはたくさんの荷物を運ばなくてはなりませんでした。
そして、この方法からもたったの 20年で…1871年に、あらかじめ薬品を塗って乾かしたガラス板を使用する「写真乾板」が発明されます。
乾板の製造、撮影、現像が、遠く離れた場所でできるようになります。
「カメラ」自体はそれまでのものが使え、撮影のためのガラス板を変えればよいだけだったため、「写真乾板」は、あっという間に普及します。
ジョージ・イーストマンは、写真乾板の大量生産方法で特許を取得し、1880年に工場を設立しています。
翌年には会社組織化し、「イーストマン乾板会社」を設立。
1885年には、それまでガラスに塗るのが当たり前だった薬剤を、紙に塗って巻き取った「ロールフィルム」の製造を開始します。
エジソンとの共同研究によるもので、開発中だった「映画」での使用を想定していました。
後々までカメラ用フィルムとして使用される 35mm という幅は、このときに決定しています。
(この映画を見る機械、「キネトスコープ」は1891年に公開。その前に撮影機が完成しているようだが、一般公開したものではないので完成年不明)
そして、1888年。
イーストマンは、この「ロールフィルム」を使った新しい商売を始めます。
小型のカメラの中に、ロールフィルムがセットされた状態で売っています。
これで、100枚の写真が撮影できます。
フィルムが終わったら、カメラと 10ドルを現像所に送ると、すべての写真をプリントし、新しいフィルムを装填して返送されてきます。
これ以前は、カメラというのは専門知識が無くては扱えないものでした。
フィルムは光に弱く、取り出し・装填には間違えてはならない手順がありました。
そして、当時のカメラは、写真1枚ごとにフィルムを入れ替えていました。
また、フィルムの現像・プリントなども専門知識が必要でした。
これを、「100枚連続でとれる」ようにして、手間を無くしたのです。
そして、複雑な取り出し・現像は専門家に任せる、というサービスをセットで売ったのです。
それまで専門家しか撮れなかった写真を、一般に開放したと言えます。
このときのキャッチフレーズが「You press the button, we do the rest」。
意訳すると「ボタンを押すだけ。後は我々にお任せを」という感じかな。
このときに、カメラのブランドとして新しく作ったのが「Kodak」という単語です。
イーストマンが好きなアルファベットが K で、「K で始まり、K で終わる、短くて力強い音の言葉」として作り出した造語で、意味はありません。
ところで、フィルムを使い切ったらカメラごと現像所へ…って、1980年代後半に流行した「レンズ付きフィルム」と同じ感覚です。
レンズ付きフィルムは「新しい物」に思えたのですが、100年前に同じような商売があったのですね。
翌年、1889年には、フィルムを紙ではなく、透明なセルロイドで作成するようになります。
先にキネトスコープの話を書きましたが、実際のキネトスコープでは、こちらのセルロイドフィルムを使用しています。
セルロイドは、紙と同じように植物由来のシートです。
紙は物理的に繊維をほぐし、形を変えたものですが、セルロイドは科学的に溶かして生成します。
そのため、紙よりも表面が滑らかで、薬剤を均一に塗ることができますし、透明なので光を透過するという利点もあります。
#ガラス乾板では、光を透過させることで写真の複製を行いました。
同じことができるようになったわけです。
問題点もいろいろあり、後にセルロイドは使われなくなるのですが、それはまた別の話。
1890年には、イーストマンは「折り畳みカメラ」を発売します。
カメラはその構造上、光を通さない頑丈な箱である必要がありますが、折り畳み式にしてポケットに入るようにしたものです。
高価なものだったようですが、気軽に使えることからヒット商品となります。
これで「コダック」の名前が知れ渡り、1892年には社名を「イーストマン・コダック」に変更。
ところで、1897年に、有名な小説「ドラキュラ」が刊行されています。
序盤で、ドラキュラ伯爵からロンドンにある邸宅を買いたい、という依頼を受けた主人公弁護士が、ペンシルバニアに行って伯爵と話をするシーンがあります。
ここで、遠い異国の邸宅の様子を詳しく聞きたいという伯爵に、主人公が
I have taken with my kodak views of it from various points.
いろいろな場所からの眺めを、私のコダックで取って来ましたよ。
と答えるのです。
当時、「コダック」が、カメラと同じ意味で使われていたことがよくわかります。
#作者のブラム・ストーカーは新し物好きだったようで、ドラキュラの中には、当時の最新の発明が次々出てくる。
多くの人の日記を繋ぎ合わせる形で話は進行するのだけど、タイプライター(1890年頃から普及)や、蓄音機(1877年発明)で日記を記録する人々がいる。
電話機も出てくるが、これも 1890年代に普及。
「最新で科学的な世相」の中に、「中世から生きている化け物」が紛れ込む、という筋立てが当時の人には恐ろしかったのだと思うけど、今読むと全部古臭くてカッコいい。
実業家としては成功を収めたイーストマンですが、その生涯はあまり幸せそうではありません。
13歳の時に父が病死。16歳の時には、2番目の姉が病死。
イーストマンは、高校を中退して働き始め、コダック社の成功に至ります。
苦労しながら自分を育ててくれた母に孝行したい、と多くの贈り物をしたようですが、母は高価な贈り物を受け取ろうとはしなかったようです。
苦労したからこそ、子供が自分への贈り物にお金を使うよりも、自分のために使ってほしかったのかもしれません。
そして、1907年の母の死。
晩年は病気を患っており、少し動くと痛がり、車椅子生活だったようです。
結婚もしておらず、親族のいないイーストマンは、慈善活動にお金を使うようになります。
大学や病院などに多額の寄付を繰り返し、彼や、彼の母の名前を付けた施設がたくさん作られています。
1930年頃から背骨の病気を患います。立つことも歩くのも痛く、何もできない日々。
おそらくは母と同じ病気です。
そして、1932年 3月 14日に、ピストル自殺。
遺書にはただ短く、こう書かれていました。
To my Friends, My work is done. Why wait?
友へ、仕事は終わった。なぜ待つ?
待つ…何を待つ?
おそらくは、痛みを耐えながら迫りくる死を…でしょうね。
苦痛しかなく、その先に待つのが死であれば、待たずに今すぐ…ということなのでしょう。
彼は「仕事は終わった」と言葉を残しました。
確かに、十分すぎるほどの仕事を…世の中を大きく変えています。
カメラを作ったのは彼ではありませんが、カメラを誰でも使える道具にし、普及させたのは彼でした。
20世紀は「映像の世紀」「情報化時代」などと呼ばれます。
カメラは、遠い異国のニュースであっても、危険な戦争の前線の話であっても、文章よりも雄弁に情報を伝えてきました。
そして今も、情報機器…スマホなどの重要な機能として、カメラが組み込まれています。
この世の中は、ジョージ・イーストマンによって生み出されたのです。
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申し訳ありませんが、現在意見投稿をできない状態にしています。 【あきよし】 誤字指摘ありがとうございます。無粋なんかではなく、ありがたいですよ :-) できるだけ読み返して推敲もしているのですが、趣味に使う時間も限られるもので、誤字脱字・そもそもの情報の勘違いも多いです。 (2017-07-26 09:15:13)【セイ】 更新いつも楽しみにしています。無粋ではありますが誤字指摘です。「広告を中退して」→「高校を中退して」 (2017-07-13 11:28:42) |