2017年03月の日記です

目次

01日 エドウィン・ハーバード・ランド 命日(1991)
03日 ロジェ・カイヨワ 誕生日(1913)
05日 レイ・トムリンソン 命日 (2016)
06日 アダム・オズボーン 誕生日(1939)
07日 スティーブン・クーンズ 誕生日(1912)
08日 ラルフ・ベア 誕生日(1922)
09日 BSD 初リリース日 (1978)
10日 QV-10 発売日(1995)
13日 江の島再発見
15日 世界最初のドメイン登録(1985)
16日 タネンバウム教授(1944) ストールマン(1953) 誕生日
17日 長男卒業式
22日 2つの特許の出願日(1971)
22日 焼肉食べ放題。
25日 かはたれ / たそかれ
28日 X68000 発売日 (1987)
30日 ルータ不調
31日 西角友宏さん 誕生日(1944)


エドウィン・ハーバード・ランド 命日(1991)  2017-03-01 14:04:34  今日は何の日

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今日は、エドウィン・ハーバード・ランドの命日(1991)


ポラロイド社の創業者です。


ポラロイド(偏光板)の科学的合成法を開発したことから、会社名もポラロイドでした。

偏光板は、世界を変える大発明でした。あまりに当たり前になりすぎて、身の回りにたくさん使われているのに気づかない人が多いくらい。


このあたりの話は、誕生日の際に書いた記事を参照してください。


そして、ランドはもう一つの大発明を行います。

それが、会社名から一般名詞化してしまった「ポラロイド」…つまり、インスタントカメラです。




今となっては、昔のカメラの原理から説明する必要があるでしょうね。


今ではカメラと言えば、デジタルカメラ。

CCD イメージセンサや CMOS イメージセンサと呼ばれる素子を使い、光を電気信号に変え、デジタルに変換して撮影します。


電気信号なので、撮影してすぐにみられるのが特徴。



でも、こんなカメラは 1994年に発売された QV-10 以降の話です。

それ以前のカメラは、全く違う原理で撮影されていました。




中学で習う「元素周期表」をどのくらいの方が覚えているでしょう?

「水兵リーベ 僕の船…」ってやつ。H He Li Be B C N O F Ne ですね。


周期表では、横方向に順次「重さが少し違う」元素が並び、縦方向には「性質が似ている」元素が並びます。


そこで、先ほど最後から2番目に書いた F の下に縦に並ぶ元素を「ハロゲン族」と呼びます。

非常に反応性が高く、ほかの元素とよくくっつきます。


くっついたものは「化合物」と呼ばれるのですが、「塩」(「しお」ではなく「えん」)と呼ばれることもあります。



さて、銀とハロゲン族がくっつくと「ハロゲン化銀」、または「銀塩」と呼ばれるものになります。

昔のカメラは、この銀塩の性質を使って撮影を行っていました。


そのため、いまでは「銀塩カメラ」と呼ばれます。


#当時としてはこれが当たり前なので、普通に「カメラ」と呼んでました。



銀塩は不安定な物質で、光に当てると分解してしまい、「金属としての銀」に変わってしまう性質があります。


ただし、こうしてできる銀はほんのわずかで、ほとんどの部分は変わりません。

ほんのわずかしか変わらないので、変わった部分を目で見ることもできません。


その後、「現像液」と呼ばれる薬品に浸けることで、強制的に銀塩を分解します。

この際、金属銀は触媒として働くため、すでに金属銀がある部分は早く分解が進み、分解によって金属銀ができるため、反応が加速していきます。


(現像液の組成や、化学変化の詳細は、使用する銀塩によっても異なります)



成長した銀結晶は、十分に肉眼で見ることができるようになり、いわゆる「写真」として機能します。

ただし、そのままでは成長し続け、やがては全体が真っ黒になってしまいます。


そこで、頃合いを見て「停止」します。

現像液は一般にアルカリ性なので、酸性の液に浸けることで、この反応を止めるのです。



しかし、このままでは銀塩が全体に残っています。

光に当て続ければ、徐々に黒ずんでいってしまうでしょう。


そこで、最後に、金属化した銀はそのままに、銀塩だけを溶かす「定着液」と呼ばれる薬品に浸けます。

銀塩がなくなってしまえば、もう光に対して反応することは無くなり、気軽に写真を見ることができます。


仕上げとして、水で薬品をすべて洗い流し、乾燥すれば写真の出来上がりです。



これらの作業は、光の入らない「暗室」で行う必要があります。




以上、これが銀塩写真の「現像工程」でした。

町の写真屋さんにフィルムを持ち込めば、2~3日で現像してもらえました。


実際には、フィルムを現像すると、色が反転した「ネガフィルム」が得られます。

このネガフィルム越しの光を「印画紙」に当てると、再び色が反転して「ポジ写真」が得られます。

この工程を焼き付けと言います。


つまり、「写真現像」とは、フィルム現像後、24枚程度の写真に対して焼き付けを行い、その24枚の現像工程を行うのです。

時間がかかるのも当然の作業でした。



デジカメが現れる直前…1980年代後半から90年代前半には、自動的に現像工程を行う機械を使用し、55分、さらには 23分で全工程を終了する、なんて店もありました。


しかし、どんなに高速化しても 30分程度はかかってしまうのです。

化学変化によって写真を作成している以上、反応時間を待つ必要はあるための限界でした。




もっとも、別の手段による「高速化」は、1950年代には作られていました。


フィルムを現像し、できたフィルムから印画紙に焼き付けを行い、この印画紙を現像し…というのは、さすがに工程が多すぎて遅いのです。


フィルムを使わず、最初から「印画紙」に当たるものに撮影を行っていれば…

こうして作られたのが、Photomat 、日本ではデビッド・ローゼンにより改良されて「2分写真」と呼ばれたものです。


とはいえ、「2分」は少し誇張した言い方で、実際に出来上がるのは撮影後3分くらいしてから。

しかも、最後の「乾燥」工程は入らず、湿った状態で出てきました。



写真をすぐに手に取りたい、という要求は、19世紀末にはすでにあり、1883年には同じような機械がすでにあったようです

5分程度で写真が出てきましたが、「人が写っていると認識できない場合もある」程度のものだったようです。


後の「2分写真」でも、結局は機械の中に暗室があり、自動で現像を行っているだけ。

現像を行える「暗室」が無くては、写真は見られません。


ともかく、写真をすぐに見たいという需要はあれど、なかなかそれに応える技術が無かったのです。


#一般には、フィルムに塗られている感光剤は光が当たったところが黒くなります。

 これは色が逆なので、もう一度反転するために焼き付けを行う必要があります。


 しかし、光が当たったところが白くなる感光剤もあり、この場合「印画紙」に直接撮影できるのです。




ランドは、娘から「何で写真はすぐに見られないの?」と聞かれ、すぐにみられるカメラを作ろうと決意します。


…そして、出来上がったのが 1947年に発表する「インスタントカメラ」です。


通常のカメラはフィルムを入れるだけですが、インスタントカメラでは最終的に写真となる「印画紙」を入れます。

ただし、この印画紙自体も特殊なもの。


実は、印画紙とフィルムが2枚張り付いて密着する構造になっています。

さらに、印画紙の端にはカプセルがついていて、現像液が入っている。



撮影すると、まずはフィルム側に光が当たります。

その後、カメラから出てくる際には、ローラーで圧着する形で、フィルムと印画紙が張り合わされます。


この圧着の際に、端のカプセルが潰され、現像液がフィルムと印画紙の間に浸透します。

ちなみに、フィルム自体は不透明なもので作られていて、現像中のフィルムと印画紙を光から守るようになっています。


さて、普通の写真と違うのはここからです。


フィルム側の「ネガ」が現像されると、光の当たった部分の銀塩は金属銀に変わります。

一方で、光の当たっていない部分は、銀塩のままです。


印画紙側には、あらかじめ「目に見えないほど細かな金属銀の粒子」が塗られています。

フィルム側で、光に当たらなかった部分の銀塩は現像液に溶けて印画紙側に移り、金属銀の粒子を触媒として分解が進んでいきます。


このため、印画紙側では「光の当たらなかったところ」が黒く表現される、ポジ写真が出来上がります。


撮影後、1分ほど待って、フィルムと印画紙を引きはがすと出来上がり。

フィルムから印画紙に銀塩が移行する反応が止まるため、「停止液」が無くても、現像はそこでストップします。


元々印画紙側に銀塩はないため、「定着液」で銀塩を取り去る必要もありません。


非常に巧妙なしくみです。



さらに巧妙なのが、この現像工程の「化学」について、特許書面(米特許番号2435720)に一切書いてないんですね。

インスタントカメラの構造と、印画紙の現像液カプセルが破れて現像される、ということしか書かれていない。


特許書面って、公開されるものです。

公開されるからこそ、他の人が「真似しちゃいけない」と知ることができる。


インスタントカメラの仕組み上、「カプセルから現像液が出る」とかは、避けられない構造です。

だから、ここを特許書面に書けば同じようなカメラを発売できない。


でも、一番重要な化学反応は隠してあるわけです。

特許で縛り、さらに重要な秘密は一切公開しないことで真似を防ぐ。


ランドは、「技術」の価値を本当によくわかっていたのだと思います。




後には、インスタントカメラは、コダックや富士フィルムからも発売になっていました。

特許って、最大で 20年しか権利主張できないからね。


しかし、その20年で、インスタントカメラのことを「ポラロイド」と呼ぶように、一般名詞化してしまった。

他社が作っても、みんな「ポラロイドカメラ」と呼んでいました。


それくらい、当時のポラロイドのインパクトは強かったのです。



一方で、通常のカメラに比べると、専用本体に専用フィルムが必要なので、割高でした。


その上、通常のカメラでは「フィルム」から「印画紙」にコピーする仕組みのため、同じ写真を何枚でも作れます。

ポラロイドカメラでは、原理上これができません。


初期投資もランニングコストも高く、コピーできないという致命的な問題がある。

その代わりに「撮ったその場で見られる」という、他には変えられないメリットがある。



…つまりは、カメラでありながら、カメラとは全く違うものだったのだと思います。

家族旅行の記念写真を撮るようなものではない。


工事現場で報告書に現場写真を添付したり、パーティ会場なんかで貸し出していたり、「仕事で所有する」ものが多かったのではないかと思います。




ポラロイド社は、創業者のランドが 1991年 3月 1日に亡くなるまでは、順調な大会社でした。


しかし、1990年前後から、先に書いた「1時間現像」の自動機械によるサービスや、特許切れによる他社のインスタントカメラへの参入、さらに、1994年にはデジカメが登場します。


写真の世界に、相次いで激変が起こったのです。

「撮ってすぐ見られる」というポラロイドカメラの優位性は、あっという間に失われました。



ポラロイドでもデジカメの開発などを行いますが、これは多くのカメラメーカーとの戦いになります。

今まで独自の路線を取っており、競争に慣れていないポラロイドは、魅力のあるデジカメを作ることはできませんでした。


時代に完全に乗り遅れ、2001年の10月に経営破綻。


しかし、一時代を作り上げた「ポラロイド」の名前は強かった。

他の会社に買収され、子会社になりながらもポラロイドは生き残ります。


…が、その親会社は、有名な商標を使って荒稼ぎをしようとしただけでした。

ポラロイド社は事業から次々と撤退し、部門ごとに切り売りされ、2008年12月に2度目の経営破綻。




その後、2度目の買収が行われ、まだ「ポラロイド」は存続しています。


現状のメイン商品は、まず、特殊な用紙による写真プリンタ。

用紙側に特殊なインクをしみこませてあり、プリンタはその色を引き出す処理だけを行うため、非常に小型です。


そして、このプリンタを内蔵したデジカメ。

取ってすぐ「紙の」写真を見られる。

デジタル時代のポラロイドカメラ、という風情があります。


…でも、ディスプレイは付いてないのね。

見たければ印刷しないといけないし、友達相手ならデジタルデータでシェアしたほうが喜ばれそう。


「普段使い」にはやっぱり適さなくて、パーティグッズのような方向性になっています。

悪く言えば、好きものでないと買わない。


これもまた、ポラロイドらしさなのかもしれません。



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ロジェ・カイヨワ 誕生日(1913)  2017-03-03 09:31:32  今日は何の日

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今日は、ロジェ・カイヨワの誕生日(1913)


フランスの思想家・哲学者です。

実のところ、僕はよく知りません。


よく知らないけど、彼の本を一冊だけ持っている。ずいぶん前に読んで、内容をちゃんと覚えてないけど。

「ゲーム」を作る立場なら、この本を読んでおく必要はあるだろう、と思ったのです。


「遊びと人間」

彼の一番有名な著書です。




キリスト教社会において、怠惰は罪でした。

何の生産性もない「遊び」に興じることもまた、怠惰なことであり、罪です。


そのため、長い間遊びについて研究されることはありませんでした。

「遊び」そのものは、どんなに禁止しようとも一向に無くならないのに。



一石を投じたのは、オランダの文化史家、ヨハン・ホイジンガでした。

彼は著書、「ホモ・ルーデンス」(遊ぶ人、という意味の造語)の中で、歴史的に見て遊びこそが文化のすべてを生み出してきたのだ、と主張します。(1938)



当時としては新しい考え方でしたが、今では認められています。

「生産性のある仕事」を突き詰めて考えると、つまりは「生きていくために最低限必要なこと」であり、それだけでは文化は生まれません。


文化というのは、衣食足りて生活に余裕が生まれ、「遊び」始めたから生まれたものです。

そして、文化を持つことこそが、人間の、もっとも人間らしい部分なのです。



ただ、彼も旧来の価値観から完全に脱却したわけではない。

ギャンブルは悪いことだ、という概念にとらわれており、ギャンブル性のある、言い換えれば運の要素のある遊びを「低俗で悪いもの」、チェスのような運の要素のないものを「高尚で良いもの」としています。




カイヨワは、この主張を受け、さらに研究を進めました。

遊びが文化を形作ったとして、人間はなぜ「遊び」に惹かれるのか。


ここで彼は、多くの遊びを蒐集し、似た要素を持つものを分類します。


そして、「カイヨワの遊びの4要素」と呼ばれる体系を作り出すのです。


遊びは、以下の要素に分類されます。


競争 (Agon:アゴン)

偶然 (Alea:アレア)

模倣 (Mimicry:ミミクリー)

眩暈 (Ilinx:イリンクス)


後で詳細に説明しますが、「偶然」とは運の要素を持ったゲームのこと。

ホイジンガが「低俗な遊び」と否定したものを、カイヨワはむしろ遊びの本質だと考えたのです。



また、この4要素とは別に、遊びは2つの極性を持ちます。


即興と歓喜 (Paidia:パイディア)

規約と従属 (Ludus:ルドゥス)



4要素と2極性の組み合わせで、8つのカテゴリが出来上がります。




先に極性から説明しましょう。


即興と歓喜は、ルールが明確に決まっていない遊び。その場で「面白いからそうしよう」というように、どんどんルールが変わります。

ここで何よりも大切なのは「楽しいこと」。楽しいから遊ぶのです。


先日、早口言葉について書きました。


早口言葉って、何をもって「早口言葉」とするのかのルールもない。

そちらの記事では、最後の方「早口言葉ではない」と明記しながらも類似する言葉を出したりしていましたが、境界は曖昧です。


でも、いいんです。楽しければ。

遊びって本来そういうものですから。



それに対し、規約と従属は、ルールが定まった遊び。


「ゲーム」と呼ばれるの物は、普通これです。

ルールの中で成功条件も失敗条件もあり、成功を目指して頑張る。


楽しいから遊ぶ、はずなのに、ここでは好き勝手は許されません。

場合によっては、遊びなのに「楽しくない」ことにもなる。


しかし、好き勝手が許されないからこそ、全員が公平な立場に立てます。

遊びの種類によっては、これは非常に重要なことです。



この二つは「極性」にすぎず、間に無段階なグラデーションがあることに注意してください。


例えば、UNO 。有名なカードゲームです。

購入するとルールブックが付いてきます。


でも、誰もルール守らないんだよね。独自のローカルルールで遊んでる。そのほうが楽しいから。

とはいえ、ゲームの前にプレイヤーで示し合わせて、各自の考えるルールの「すり合わせ」は行うでしょう。


公式ルールではないものを、その場の即興で決めはするが、1回のゲーム中ではルールを固定して動かさない。

全体としては「規約と従属」側の遊びですが、比較的柔軟な例です。




では、4要素。

これらも「要素」であり、多くの遊びは要素の組み合わせでできていることに注意してください。



競争は、順位をつけられることを前提に、1位を目指す遊びです。


徒競走だって、テストの順位だって、スイカの種とばしだっていい。

誰かと比べて「勝った」とか思った瞬間、競争という遊びを感じているのです。


徒競走は普通厳密にルールを定めますが、スイカの種とばしは突発的に始まるものでしょう。

このそれぞれが「規約」と「即興」の極性になります。



偶然は運を楽しむ遊び。


ホイジンガは、運の絡むゲームはギャンブルであり、悪い遊びだと否定しました。

しかし、カイヨワは、偶然を遊びの重要な要素だとして、むしろギャンブルを肯定しています。


偶然の要素は、例えばサイコロを転がす。辞書を適当に開き、載っていた言葉でお話を作ってみる。雲を見て「クジラみたいに見える」と笑う。


サイコロを転がしただけでは面白くありませんが、先の「競争」と組み合わせ、大きな数を出したほうが勝ち、とかで競えば楽しくなります。これは「規約」。


雲の形をなにかに見立てて遊ぶ、なんていうのは何のルールもありません。

それでも、親しい人とやっていると案外楽しいもの。これは「即興」の極性です。



模倣は、何かを真似る遊びです。


シミュレーションゲームや R.P.G. は、言うまでもなく模倣です。

子供のごっこ遊び。物語を本で読み、主人公の気分に同化すること。砂のお城を作ること。


テレビゲームでも、ストーリー性を感じるのであれば「模倣」しているのです。

ピンボールゲームにすら、ストーリーが設定されている。(好きな人しか判らないかもしれませんが)


例を挙げるときりがありません。

模倣の要素が入っていない遊びのほうがむしろ少ないんじゃないか、とさえ思います。



テレビドラマを見た後に、ふと自分が主人公の立場だったらどうするだろう、と考えてしまう。

こうした瞬間、結構楽しいものです。「模倣」の遊びで、「即興」の極性です。


「電車でGO!」というテレビゲームがあります。

電車の運転士になる…いわば「電車ごっこ」なのだけど、時刻表を守って駅の間を運行しないといけない。

一切の自由は許されず、正確な操作だけが求められます。


非常に窮屈なのだけど、これもまた楽しい。「規約」の極性です。



眩暈…「めまい」と読みます。

これが一番説明しづらいのだけど、僕は遊びで一番重要な要素だと思っています。


「何が何だかわからない楽しさを感じること」だとも言えます。


よく例に出されるのは、ジェットコースター。何が何だかわからないけど、楽しい。

これ、「身体的眩暈」とも言われます。


子供がぐるぐる回って、本当の眩暈を起こして「たのしー」ってなっているのとか、まさにこれ。



でも、遊びとしては「精神的眩暈」のほうが効果的に使われるように思います。


先日早口言葉を書いたときに挙げた例ですが


「裏庭には2羽 庭には2羽 鶏がいる」


「にわ」という音の連続ですが、この音が「庭」だったり「2羽」だったり、接続詞の「には」だったり、「鶏」だったりする。


同じ音の連続なのに目まぐるしく意味が変わる。これを面白いと感じるとき、精神的な眩暈を起こしています。



ジェットコースターは、乗ったら受け身でいるしかない。「規約」の極性。

弾幕シューティングとかで、考えるより先に体が動くような、精神的にハイになっている状態も「眩暈」で、これもルールに従って動いているので「規約」の極性。


早口言葉…は例として適切でないのだけど、会話の途中にとっさに挟まれる言葉遊びなんかは、「即興」の極性かと思います。




さて、一通り説明し終わったところで、僕の思うところをつらつらと。

思ったことを書くだけの、ただのポエムです。



遊びの4要素は大学生の頃に知って、ゲーム会社でゲームを作っている時には何度も考えることがありました。


テレビゲームに限定して考えても、ゲームごとに4要素の配分はかなり違うのね。

絶妙な配分にされるとやっぱり面白いし、悪くないのに面白くないゲームなんかを見た際には、配分を分析してみると理由が見えてきたりする。



「遊び」というのは自由なものですが、「ゲーム」というのはルールの中で競うもの。

この時点で「競争」の要素は欠かせません。


純粋なパズルゲームには、「偶然」も「模倣」も「眩暈」もないけど、制作者との知恵比べはある。

だから、競争だけでもゲームは成り立ちます。


#本当によくできたパズルは、解決方法が巧妙に隠されていて、見つけた瞬間に、自分の想像を超えた巧妙さに眩暈を感じられたりもしますが。



ミニゲーム集ってあります。

任天堂の「メイドインワリオ」シリーズとか。古くは、セガの「タントアール」。


あれ、1つ1つのゲームは大して面白くない。でも、連続してどんどんやらされると、妙に面白くなる。


ゲーム内容が詳しい説明もないまま切り替えられて、即座にルールを把握して対応していくことに対して「眩暈」を起こしているのですね。


テトリスとかコラムス、落ち物パズルなんかも、だんだん速度が速くなることで、自分が何をやっているのかわからなくなる。

自分の理解を超えたところで勝手に連鎖とかおきはじめると、うれしい反面何が起きているのか理解できません。

強い眩暈により楽しませるタイプのゲームなのですね。



偶然の要素は大切です。

何回も遊ぶテレビゲームでは、何度遊んでも同じ、だとすぐに飽きてしまうから。


だけど、運の善し悪しだけで結果が決まってしまうゲームはつまらない。

「偶然」と言いながらも、プレイヤーの腕前次第で運の要素を小さくできるものが望ましいです。


インベーダーゲームの UFO は、「ランダムな点数」と言いつつ、規則がありました。

この規則を理解した人は、常に UFO で最高得点を取ることができました。


落ち物パズルなんかでも、落ちてくるブロックはランダムでも、それをどう積み上げるかはプレイヤー次第。

多くのテレビゲームがこうした構造を持っていると思います。



模倣は、テレビゲームでは実は使いどころが難しい概念。


ブロック崩しにだって、スペースインベーダーにだって「ストーリー」(というか設定)があったので、実は最初から模倣の要素は取り入れられていたのだけど。


模倣の意味を取り違えると、窮屈なゲームになります。

シミュレーションゲームとか、慣れれば面白いのは事実だけど、窮屈で嫌う人も多い。


R.P.G. も、当初は面白かったのですが、だんだん物語が壮大になりすぎて、エンディングまで遊ぶだけで 50時間、とか言われると手を出すのに躊躇します。



広い意味では、Wii の登場は、テレビゲームにおける「模倣」の意味を広げてくれました。

コントローラーをゴルフクラブに見立てて腕を振る、とか、それまでのゲームではあまり見なかった。


#皆無だったとは言わないけど。


ただ、「あまり見なかった」という眩暈感が相乗効果を生んでいたのは事実で、Wii はすぐに飽きられました。

眩暈って、やがて慣れてしまって楽しさが消えてしまいますから。


これも模倣は使いどころが難しい、という理由。

模倣すると言っても、突飛な方法を取ると、それは模倣ではなく「眩暈」の楽しさになってしまうのです。



Nintendo Switch 、今日発売なんですが、どうなんでしょうね。

「あまり見なかった」ゲームがたくさんあるので面白そうなのですが、眩暈を感じるのは最初だけです。

気になってはいるのですが、今すぐ買う予定は立てていません。



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レイ・トムリンソン 命日 (2016)  2017-03-05 15:06:17  コンピュータ 今日は何の日

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今日は、レイ・トムリンソンの命日(2016)

昨年亡くなったので、1周忌です。


インターネット初期の…というか、インターネットを形作ったプログラマーの一人です。

まだ「ネットワーク」で何ができるかわからなかった頃、ネットワークを使って「いろんなものを送る」実験をしているのね。


ネットワークは、当然のことながら「文字」を送れるように設計されました。


それ以前から、テレタイプを電話線越しにコンピューターに接続して使う、というようなことは出来ました。

これでできることは、文字を送るだけ。だから、最初のコンピューターネットワークも、同じようなことができるように設計されたのです。


でも、彼はそのネットワークで「ファイル」を送る方法を作り出しました。

そして、文字を送るプログラムに、ファイルを送るプログラムを組み込み、「相手がいない時でも、相手に送った文字メッセージをファイルとして残す」プログラムを作り上げます。



当初は非常に簡単な仕組みだったのですが、便利で多くの人に使われたため、彼自身がさらに便利にするための仕様を策定しています。

この策定段階では紆余曲折あるのですが、最終的に完成したのが RFC 821 。「SMTP」です。


現在の電子メールの、一番最初の仕様です。




彼の同僚は、ネットワークで「プログラム」を送る方法を作り出しました。


単にプログラムの「ファイル」を送り付けるのではないよ。

そんなことは、彼の作った「ファイルを送るプログラム」でできるのだから。


そうではなくて、マシンAで動いていたプログラムが、マシンBに移動して動作を続けるのです。



レイ・トムリンソンは、このプログラムに「いたずら」を加え、「移動」の部分を「コピー」にしました。

プログラムは、マシンAとBの両方で動き続けます。


コンピューターからコンピューターへと「感染」しながら増殖するプログラム…世界最初の「コンピューターウィルス」でした。

彼は、このプログラムを除去するための、いわゆる「ワクチン」も同時に作成しています。




以上の話、詳細は以前に書いた誕生日記事をご覧ください。



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アダム・オズボーン 誕生日(1939)  2017-03-06 15:42:04  コンピュータ 今日は何の日

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今日は、アダム・オズボーンの誕生日(1939)


オズボーン1(1981/4)を作った人です。

知らない? 知りませんね。僕も名前くらいしか聞いたことない。


基本的には欧米でしか発売されていないのだもの。




世界初の「ポータブルPC」です。


一応、ポケコンは、シャープの PC-1210が 1980年に出ているようです。

でも、BASIC が使えるプログラミング電卓、といった趣で、仕事につかえる「PC」ではありません。


オズボーン1は、当時の人気 OS である CP/M や、ワープロ・表計算・データベースなどが使える、立派な PC でした。



一応、オズボーン1以前にも「ポータブルPC」は存在しています。

世界初、というのは、商業的に成功した世界初、という意味合い。


オズボーン1の元となったのは、Xerox NoteTaker。

Xerox の PARC(パロアルト・リサーチセンター)で、1978年に10台だけ作られた「研究用」です。


パロアルトと言えば、アラン・ケイ。

「ダイナブック」という、未来にあるべきコンピューターの姿を構想した人です。


コンピューターが、高価で、重たく、テキスト処理が中心だった時代に、ダイナブックは


・子供が持てるほど軽く、薄い

・子供に与えても良いくらい安価

・グラフィック処理が中心


と言った、先進的な姿を描いていました。



この構想に基づいて、Alto というコンピューターが作られたのは有名です。

Alto 上で動作した Smalltalk という環境は、子供でもプログラムが作れるような、グラフィカルで扱いやすいものでした。

これが、後に Macintosh や Windows に発展していきます。



そしてもう一つ、持ち歩けるほど軽いコンピューターがあれば何ができるか、という研究もおこなわれました。

それが、NotetTaker 。名前の通り、ノートのように使えるコンピューターです。



CPU は 16bit の 8086。

これ、1978年のマシンですよ。日本では TK-80 が 8080 で動いていた時代。

その時代に、すでに 8086を採用しているのです。


メモリは 256Kbyte 。当時、AppleII の標準メモリは 4Kbyte です。

フロッピーディスクと、たった 7inch とはいえ、タッチセンサー付きのディスプレイを備えています。

バッテリーを備え、どこでも使うことができます。


そして、SmallTalk が動きました。ダイナブックの実験ですから。



…これ、「持ち運べる」とはいっても、気軽ではありません。

当時のバッテリーって、鉛蓄電池しかないからね。22Kg もあったそうです。


試作品なので値段は付いていませんが、プロジェクトの費用などから見積もると、1台5万ドルに相当するそうです。


AppleII は、当時 1298ドルで販売されていました。




オズボーン1は、NoteTaker の影響下で作られたマシンでした。

ただし、商業的に採算に合うように、大幅に簡略化されています。


重たい蓄電池はなくしています。だから、持ち運べるとは言っても、使う際にはコンセントが必要です。

ディスプレイも、大きいと重たくなるので、5インチになっています。タッチセンサーは無し。


#当時のディスプレイはブラウン管…中が真空のガラス管です。

 大きくすると、空気圧に耐えるためガラスを厚くする必要があり、単に大きくする以上に重たくなりました。


こうした割りきりで、重さは 10.7Kg に抑えられています。


CPU は Z80。メモリは 64Kbyte 。フロッピーディスクは2基あります。


見た目は、NoteTaker にそっくり。

でも、値段は 1795ドルで、この値段の中にワープロ・表計算・ゲームなど、多数のソフトが含まれていました。


当時、AppleII plus は 1195ドル。ただしメモリは 16Kbyte で、本体のみです。


まともに使うには、別途ディスプレイも必要だし、ディスクドライブも必要。

メモリを 64K に拡張して…と、全部そろえると4千ドルくらいになったようです。

さらにソフトは別売り。


オズボーン1は大人気になりました。

発売すると、1ヵ月で1万台、100万ドルを売り上げたそうです。




しかし、オズボーン社にはそれほどの生産能力がありませんでした。

当初の予想では、数年かけて1万台売れればよい、と考えていたのですから…


結局、8ヵ月で実際にお客さんの手に渡ったのが、1万1千台。

この時点で、まだ5万台の予約が入っていたといいます。



…なんかどこかで聞いた話ですね。

そう、Altair 8800とそっくりです。


そして、この後の展開もそっくり。

互換機が発売されるのです。


1982年発売の、KayproII。

ほぼ互換機なのですが、ディスプレイは 9inch に改良されており、それに伴い表示桁数も増えています。


#当然重くなっていたそうです。

 しかし、オズボーン1の人気は、「持ち運べる」ことよりも、「オールイン1パッケージで安い」ことでした。



同じ買うのなら性能がよくて、すぐ手に入るほうを…オズボーンの潜在顧客は、KayproII に徐々に奪われていきます。



もうひとつ、IBM は 1981年の8月…オズボーン1の発売から4か月後に、IBM PC を発売しています。

こちらも強力なライバルでした。




オズボーン社は後継機の開発を急ぎます。

そして、試作機ができた段階で…まだ量産機の発売日程などが決まらないうちに、発表を行います。


他社に対する牽制でした。話題を作って他社の機械を買おうとしている人たちを繋ぎとめようというのです。


しかし、これは逆効果でした。

オズボーン1を買おうとしている人達すら、新マシンを待とうとして、売り上げが激減してしまったのです。


発売された新マシンは IBM-PC と闘えるくらい高性能でしたが、値段も高いものでした。

思ったほど人気が出ません。


そこで、KyproII にターゲットを絞った「次のマシン」の開発に入りますが、こちらでも同じように速すぎる発表により、買い控えを起こしてしまいます。


結果、1981年に登場した「オズボーンコンピューター」は、1983年の9月に倒産します。




決して人気が無かったわけではありません。


人気があるにもかかわらず、近いうちにもっといいものが出ると消費者が期待し、買い控えが起こる…

当時の経済学では想定していなかった現象でした。


今では、この失敗にならって「オズボーン効果」と名付けられています。


#「発表による買い控えで売り上げ悪化して倒産」は都市伝説だそうです。

 本当の理由は、もっとずっと後でわかっている。

 でも、倒産まで行かずとも売り上げが落ちたのは事実だし、当時は本当の理由がわからなかったため、今でもオズボーン効果と呼ばれます。



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スティーブン・クーンズ 誕生日(1912)  2017-03-07 09:22:57  コンピュータ 今日は何の日

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今日は、スティーブン・アンソン・クーンズの誕生日(1912)。


3Dコンピューターグラフィックスの基礎を作った人です。

今では、CG技術に貢献した人に贈られる「スティーブン・A・クーンズ賞」に名前を残しています。

(CG界のノーベル賞、と呼ばれる、権威ある賞です)



元々、CGを研究していたわけではないのです。

第二次世界大戦中、航空機の設計に携わった経験から、「3Dの自由な曲面を数式で定義する方法」を研究していただけで。


しかし、その「3D曲面」こそ、多くの人を悩ませていた難問だったのです。

1967年、クーンズ教授はついに「クーンズ・パッチ」と呼ばれるアルゴリズムを完成し、3D曲面の定義ができるようになります。



ただ、ちょっと扱いにくいところがありました。

後にクーンズパッチを改良し、「NURBS」と呼ばれるアルゴリズムが完成します。


現在、多くの3DCGで使用されている、曲面の定義方法です。




クーンズ・パッチや NURBS が開発される以前は、細かな板や、円筒・球などの単純な図形を組み合わせることで曲面を定義していました。

でも、この方法は手間がかかりすぎて、複雑な形状を作れないのね。



NURBS が完成した今でも、ゲームなどに使われる「ポリゴンモデル」は、板の組み合わせでできています。

曲面に見える部分も、十分に細かな板を組み合わせて、それらしくみせているだけ。


これは、NURBS が計算に時間がかかりすぎて、ゲームなどには使いづらいため。

でも、「ポリゴンモデル」を作成する現場では NURBS で作成されていて、最後に自動的に板に分割させているのです。




話はちょっと変わります。


CGは、アイバン・サザーランドが始めたものです。


彼は、TX-2 コンピューターを使い、「コンピューターで絵を描く方法」を研究しました(スケッチパッド:1963)。

ライトペンを使って直接画面に絵を描けるのですが、単にお絵かきではなく、論理的に絵を作り出し、最終的には「ページ記述プログラム」を生成します。


これ、現在の Illustrator なんかの基礎になった概念です。

偶然ではなく、Illustrator の開発者は、サザーランドの教え子です。



そして、サザーランドは、クーンズ教授の教え子です。


クーンズ教授は複雑な曲面を持つ航空機の設計などを研究していましたが、サザーランドは、設計図を描き出すためのプロッタプリンタを制御するためのデータ(先に書いた、「ページ記述プログラム」)を生成するツールとして、スケッチパッドを作っているのです。


CGを始めたのはサザーランドですが、それもクーンズ教授の影響があってのことでした。



CGの始まりに影響を与え、そこで出てきた「自由な形状が定義できない」という問題を見事に解決した。


クーンズ教授の名を冠した賞が最高の栄誉として作られているのは、このような理由によります。



クーンズ賞の第1回受賞者は、サザーランドでした。

第2回は、「自由曲面」の基礎概念となる自由曲線…いわゆる「ベジェ曲線」を開発した、ピエール・ベジェでした。




興味を持った方は、以前に書いた記事「自由曲面実現の歴史」もお読みください。



「数式で形を自由に定義する」というのが、茨の道であったことがわかります。



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ラルフ・ベア 誕生日(1922)  2017-03-08 11:21:07  コンピュータ 歯車 今日は何の日

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今日はラルフ・ベアの誕生日(1922)


世界最初のテレビゲーム機を作った人です。


もっとも、テレビゲームはそれ以前からありました。

当時は非常に高価だったコンピューターで、一部の大学生とか技術者が遊んでいた。


でも、ラルフはそういう立場にはいませんでした。

全く独自に、「テレビの使い道は、テレビ番組を見るだけではないのではないか」と思いついただけ。

だから、彼のアイディア自体は物真似ではありません。



試作品である BROWN BOX を作ったのは 1968年。

ゲーム専用に特化された機械で、「世界初のテレビゲーム機」です。

「テレビゲーム」という言葉自体、BROWN BOX の特許を取る際に作られた言葉なのだから。


この後、コンピューター上のテレビゲーム「SPACE WAR!」を見たことのあるノーラン・ブッシュネルが、安価な専用回路を組んで「COMPUTER SPACE」を発表します(1971)。

これが、発売されたものとして、また、業務用として初のテレビゲーム機。

でも、ちっとも売れませんでした。



ラルフは、BROWN BOX を改良・量産し、ODDYSSEY として発売します(1972)。

家庭用として発売された、初のテレビゲーム機。


しかし、新しいものというのは理解されるのに時間がかかります。

発売時にはあまり売れなかったようです。

とはいえ、最終的には 35万台を売る大ヒット。



ノーラン・ブッシュネルは、この ODDYSSEY の中の1ゲームをみて、業務用に改良し、PONG として発売します(1972/11/29)。


これが空前絶後の大ヒット。

ブッシュネル自身の作った ATARI 社で売ったものだけで1万台。

違法コピー基盤も含めれば、10万台を超えると言います。


…家庭用の 35万台と比較してはいけないよ。業務用は、1台のゲーム機で数百人から数千人が遊ぶのだから。

遊んだ人の数でいえば、ODDYSSEY の比じゃない、ということ。


実のところ、先に書いたように ODDYSSEY は最初から売れていたわけではありません。

PONG を遊んだ人が「家庭でも似たゲームが遊べるから」という理由で ODDYSSEY を買い始め、結果としてヒットになったのです。



世界的には「テレビゲーム」ではなく、「ビデオゲーム」と呼ばれることも多いです。

ビデオゲームという言葉は、PONG の宣伝文句として考え出されたものです。




以上の話は、以前に書いた世界初のテレビゲームPONG発売日を再度まとめたもの。


ラルフは、テレビゲームを見たこともないのに全く独自に面白いものを作り出した…

というわけではなく、彼はゲームを見たことがないが、彼の下で働いた技術者がゲームを知っていたようです。

この話は、ラルフ氏の亡くなられた際に書いた追悼文に書きました。




今回は、ODDYSSEY 以降の彼の最大のヒット作、サイモン(1978)について書きましょう。


ラルフ氏は ODDYSSEY の発明以降、「発明家」として転身しましたが、テレビゲームよりも、むしろ手に取って遊べる「おもちゃ」を作るのが好きだったようです。


サイモンは、単純明快で面白いので、当時大ヒットしましたし、その後もシリーズ作が続きます。



上の動画が、オリジナルの機械。

これに似た機械を見たことがあるとか、機械は知らないけど同じようなゲームを知っているとか、みんな何かしら覚えがあるはず。


動画を見てもらえば遊び方は一目瞭然ですが、記憶ゲームです。

機械が指示したとおりにボタンを押す。ただそれだけ。


最初は指示は短いのですが、成功すれば「前の指示に追加」される形で長くなっていきます。

だから、一度は覚えて成功したはずのものを、何度も繰り返し入れないといけない。


何度も入れてわかっていたはずの場所で間違えると、妙な悔しさがあります。

つい「もう一回」となってしまう中毒ゲーム。



このゲーム、優れているのは、攻略法がいくつもあることです。


指示は「押すボタン」のランプを連続して点灯することで行われます。

しかし、ボタンには色がついていて、光ると同時に固有の音階が出ます。


このため、「位置」「色」「音」の3つが、同じ指示を出していることになるのです。


最初は一生懸命ボタンそのもの(つまりは位置)を覚えようとするのだけど、慣れてくると色の連続として覚えたり、目をつむって音に集中したりもする。


不要な情報を遮断して集中することで、むしろ記憶しやすくなるのです。

そして、どの情報が不要になるかが、人によって異なります。


ボタンが4つしかないのもいい。

単純だからこそ覚えやすいですし、失敗した時の悔しさに繋がります。




ところで、1970年代末期に「サイモン」といえば、まだ外国人の名前に慣れていない日本人にとっては、サイモン&ガーファンクルでした。

(サイモン&ガーファンクルは 1960年代に世界的に大ヒットした音楽ユニット)


で、昔 X68000 用に、「ガーファンクル」ってゲームがあった。

まるっきりサイモンなんだけど。電脳倶楽部の創刊号に入ってました。



X68000 では、キーボードの7つのキーに、LED が埋め込まれていたのね。

それなりのプログラムを組めば、当たり前だけど点灯を制御できた。


この LED キーを使って「サイモン」を遊ぶ、というアイディアでした。


だから、PC ゲームなのに画面を使わない。キーボードだけで完結している。

単純なのだけど、ゲームなのに画面を使わない、というアイディアに驚いた覚えがあります。




「サイモン」という名前は、欧米の子供の遊び「Simon says」から来ているそうです。

Simon は、13世紀のイギリスの英雄、Simon de Montfort のこと。


日本で言うと「赤白旗揚げゲーム」が近いかな。


Simon says ~ と言われたら、これは英雄の命令ですから、従わなくてはなりません。

でも、命令の前に Simon says がついていない場合は、偽の命令なので従ってはならない。


サイモンは言う、回れ右! サイモンは言う、腕を上げよ しゃがめ!


この例では、最後の「しゃがめ」は偽命令なので、従ってはなりません。

みんなでこの遊びをやって、正しい動作ができてない人は脱落、最後まで残った人が勝ち、という遊び。



単純な遊びなので亜流もいっぱいあって、「やれ!」と言われるまで、命令を覚えるだけで動いてはいけない、というのもあったみたい。

だから、命令の真偽を判別する上に、覚えておかなくてはならない。


ここら辺が、記憶ゲームを「サイモン」と命名した由来なのかな、と思います。




今でもサイモンは人気があって、時々シリーズの新作が発売されます。


先日、お店に置いてあった「サイモンエア」を遊びました。

子供が興味を持ったのだけど遊び方がわからなくて、僕が説明しながらプレイして見せたのね。


基本的にサイモンですが、ボタンが無くて空中に手をかざすだけでいい、という不思議感覚おもちゃ。


内容はやっぱりサイモンでした。単純明快な良さがある。

遊ぶ前は「古いゲーム」と思ってたのですが、今遊んでも十分面白いです。



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BSD 初リリース日 (1978)  2017-03-09 15:30:18  コンピュータ 今日は何の日

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今日は BSD 初リリースの日(1978)


UNIX は、AT&T ベル研究所で作成されました。

別に商品として作られたわけではなく、ケン・トンプソンが「ゲームを遊びたい」という素敵な理由で作り始めた、趣味のシステムです。


でも、ベル研究所は「研究所」だけあって優れた人材が集まっていました。

仲間が寄ってたかって UNIX を改良し、優れた OS へと育ちます。


当初 PDP-7 でアセンブラで作られれていた UNIX は、PDP-11 に移植され、新たな言語「C」ですべてを書き直されます。

これにより、OS自体の構造も他の人に判り易くなりました。


この頃になると、ベル研究所も UNIX の商品価値に気付き始めたみたい。

でも、AT&T はあまりに巨大企業で、独占禁止法により本来の業務…電話以外の商売を禁じられていました。


だから、UNIX は「無償」で、ソースコードが大学などの研究機関に配布されます。

OSの研究用、という名目でした。


特に、カリフォルニア大学バークレー校では、UNIX の生みの親であるケン・トンプソンが直接出向いて講義を行うなど、積極的に UNIX を導入しました。




バークレー校に、ビル・ジョイという学生がいました。


彼は UNIX を積極的に改良し、オリジナルにはなかった各種機能を追加します。

そして、ある程度改良が溜まった時点で、これらをまとめて公開しました。


オリジナルに対するパッチ集です。そのため、使用するにはオリジナルが必要です。

しかし、これが「バークレイ・ソフトウェア・ディストリビューション」(Berkeley Software Distribution)、略してBSDです。


1978年の3月9日に配布された first BSD (1BSD) では、Pascal コンパイラと、ex エディタが含まれています。


この ex エディタ、以前に書いています

UNIX の標準エディタだった ed を改良して、豊富な機能を持たせたものです。


特筆すべきは、ビデオテレタイプ…ブラウン管を使用した端末用に、「ビジュアルモード」を持っていたこと。


通常の「ラインエディタ」モードなら、テレタイプでも使用できます。

ビジュアルモードはビデオテレタイプでしか使えませんが、前後の行を同時に参照しながらファイル編集が行え、しかも編集位置を示すカーソルを、自由に動かすことができるのです。


…いわゆるスクリーンエディタ、今我々が「エディタ」と呼んでいるものの元祖ですね。


このモードは、起動後に切り替えることもできましたが、コマンドファイルの名前を変え(シンボリックリンクを作ればいい)、起動時からビジュアルモードにすることもできました。


ビジュアルモードの際は、コマンドを vi とします。Visual の先頭2文字です。




BSD はその後も版を重ね、便利になっていきます。

UNIX に初めて「仮想記憶」を取り入れたのは、3BSD。

UNIX はすべてを「ファイル」として統一しようという思想があるのですが、ネットワークすらも「ファイル」の一つにしてしまったのが 4.2BSD 。


BSD は本家 AT&T の UNIX を超え、広く使われ始めていました。

しかし、BSD は AT&T UNIX の派生品であり、AT&T のライセンスを受けたものしか使用できませんでした。


この不便を無くすため、AT&T 由来のコードが徹底的に排除されていきます。

1989 年には、4.3BSD Net/1 として、完全ライセンスフリーな BSD が作成されています。



こうした改良には DARPA も資金を提供し、バークレー校だけではなく、多くの大学から専門家が協力しています。

4.2BSD には、マスコットキャラも用意されました。




しかし、BSD が改良を続ける間にも、AT&T は「独占禁止法」により解体され、分社化しました。


分社化した AT&T は、もう大企業ではなく、「電話事業のみ」の縛りも無くなりました。

UNIX を商品化しようとする AT&T と BSD の間に訴訟が起こります(1992~1994)。


結局、この訴訟では UNIX の商標権が AT&T にあることが認められ、BSD は「UNIX」という名前を捨てます。

これ以前、BSD は「BSD UNIX」と呼ばれていたのですが、以降は単に BSD となります。



AT&T の UNIX … System V は、この間にも着々と「標準化」を進めていました。

ヒューレットパッカード、IBM、SCO、NEC、アップル、そして Sun など、多くのメーカーが「System V 準拠」の UNIX を作っていました。


特に Sun の System V 陣営への参加は決定的でした。

Sun は、もともと最初の BSD を作った学生たちが起業した会社で、BSD を搭載したワークステーションを作り続けてきた会社です。


その Sun が技術協力することで、 SystemV には BSD 由来の機能も数多く搭載され、それまでの「本家対元祖」のような戦いに終止符が打たれるのです。




1990年前後は、上に書いたように System V 対 BSD という構図が見られたのですが、90年代後半に入って Linux が勢力を持ち始めると、この構図も有耶無耶になってしまいました。


2大勢力がいがみ合っている間に、横からきて人気をかっさらう…漁夫の利の構図ですね。


でも、実際 Linux は、System V 互換を目指して開発が始まりながらも、最終的には両者のいいとこどり。

趣味で始めてプライドなんてなかったから、節操はないけど使いやすい実装を行いました。


BSD と System V がそれぞれのプライドで互換性が悪かったころには、これがウケた。



今でも、BSD の流れを汲む PC BSD はあります。


FreeBSD、NetBSD、OpenBSD が主な勢力だったのだけど、今では「Mac OS X」が一大勢力かな。

あまり、これを BSD だと思っている人いないのだけど。




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QV-10 発売日(1995)  2017-03-10 11:45:05  コンピュータ 歯車 今日は何の日

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QV-10 発売日(1995)

今日は QV-10 の発売日(1995)

大ヒットし、「デジタルカメラ」を普及させた機械です。


写真は、QV-10 のマイナーバージョンアップ、QV-10A ね。

小さな改良があるのと、本体色が違います。

後で書くけど、初代も持っていたのだけど、壊れて今は 10A しか残ってない。



僕はいつも古いコンピューターの話ばかり書いているけど、今日は比較的新しい。

といっても 22年前の話だけど。(普段は 60年前とか…僕が生まれる前の話書いてるからね)




実のところ、QV-10 以前にも「電子カメラ」は存在しています。

ソニーのマビカが有名ですね。


これが市販された最初、ではないのですが、研究開発としてはソニーが最初(1981~)なので、製品としては人気が出ました。



マビカが発売された当時、僕は大学生で、 Oh!X という雑誌が愛読書でした。

ライターの一人(荻窪圭だったはず)がマビカを購入して、これがいかにパソコンと相性の良い、遊べる機械であるかを、楽しそうに書いてました。


マビカは電子カメラだけど、アナログ記録でした。

2inch フロッピーディスクにアナログで記録して、見るときにはオプションのアダプター経由でテレビに接続して見るのね。


X68000 はテレビと組み合わせて使うことを前提に設計されたパソコンで、オプションで「カラーイメージユニット」がありました。

テレビ画面をパソコンに取り込むための周辺機器。


だから、マビカとイメージユニットを組み合わせることで、撮影したものをそのまま X68000 で扱えます。

これが、パソコンと相性が良い、という理由でした。


…でも、イメージユニットは高価だったし(¥69,800)、マビカも本体だけでは使えず、テレビ信号を作り出すプレイバックアダプターなどを買うと10万円を超えます。


当時はまだ大学生だったので、楽しそうだと思う反面、とても手が出ませんでした。




1994 年には「世界初のデジカメ」である、Apple Quicktake 100 が発売されています。

…へー、そうだったんだ、ってくらいの話。


Mac の周辺機器として設定されていたので、Mac ユーザー以外には話題にならなかったみたい。

11万8,000円」という情報が得られたので、国内でも販売されたのでしょう。


640x480 ピクセルなら 8枚、320x240 ピクセルなら 32枚撮影できます。

ズームもない、フォーカスも固定、写真を見るにはパソコンが必要、という純粋な「画像を取り込むための周辺機器」でした。



…なぜか一時期持っていたのだよね。

たしか、ヤフオクで Mac の周辺機器探していたら、Quicktake 100 も付属したセットで出品されていたのではなかったかな。


そのころはすでにデジカメの普及機で、こんな低性能な機械に興味はなかったので、即刻売り払ったと思います。




そして QV-10 の発売。

¥65,000 だったようです。


320x240 の画像が、96枚撮影できます。

液晶ディスプレイがついていて、撮影したその場で写真を見ることもできたし、パソコン側から画像を送り込んで、ビューワーとしても使えました。


発売前から情報を知り、先に書いたマビカの話などもあって、「ぜひ欲しい」と思ってました。

この頃はスキャナも欲しかったのだけど、とにかく画像が取り込めるのだから、本の挿絵とか取り込みたいなら接写すれば何とかなるだろう、とも期待を込めて。


でも、正直なところ、値段も結構高いし、画質も悪い。

こんな変なものを買う人は少ないだろう…と、発売日に量販店に行くと「大人気であっという間に売り切れました」と店員さんに言われます。


驚きました。こんな変なものを欲しがる人が、僕以外にもたくさんいるんだ、って。

次の入荷はいつになるかわかりません、多分1か月くらい後です、と言われましたが、その場で予約して帰ります。


…2日後に、「入荷しました」という連絡が来ました。

ずいぶんと速いな。



#当然ですが、スキャナ代わりにはなりませんでした。

 スキャナは後で買った。




高校時代は写真部に在籍していました。かけもちの幽霊部員ですが。

一応文化祭の時には写真を出展していたし、暗室作業も一通りはやりました。


でも、写真ってたくさん撮らないとダメね。

上手な人は、躊躇せずにシャッターを押す。大量にとった中から厳選して、本当にいい写真を公開する。


もちろん、最初から構図を決める能力も必要ですよ。

どの写真も上手に取れていて、その中から厳選するのだから、人を感動させられるレベルの写真が生まれる。


でも、僕にはどちらもなかった。

構図を決める能力も、フィルムを湯水のように使う財力も。


#財力は、パソコンにつぎ込んでいたからだとも言えます。

 写真やる人が金持ちなわけではなく、配分の問題。



そんなわけで、「フィルムを使わないから気軽に録れる」「96枚も録れる」というのは、なかなか快適でした。

普段から QV-10 を持ち歩き、何か面白いものがあれば気軽に撮影します。


バスの時刻表とか、メモしたいものを気軽にパシャリ。

今では当たり前ですが、フィルムカメラの頃には考えられない使い方でした。



QV-10 はフラッシュなんかついていませんでしたが、暗がりに強く、夜の街灯の下でも撮影できました。


電池食いではありましたね。

その上、電圧が足りないから充電池は使えない。




液晶の付いた本体部分とカメラ部分の角度が変えられる…カメラ部分が「回る」ことに関しては、今だと「独創的だった」とする解説が多いのですが、「液晶ビューカムの真似」というのが当時の率直な感想。


デジタルカメラに液晶を付けたのは世界初だったし、それによって気軽さが強調され、大ヒットしたのは事実です。

今のデジカメの方向性を示したのは、Apple Quicktake100 ではなく、QV-10 とされるのもそのため。


だけど、ビデオカメラで「液晶ビューカム」という機種をシャープが 1992年に発売していて、QV-10 と形がそっくりです。

QV-10 は安くするために、普及していたビデオカメラ用 CCD を使用した、というのも相まって「動画の撮れない、小さな液晶ビューカム」だと思っていました。



真似が悪いというのではないよ。

この「カメラ部分に角度がつけられる」というのは非常に便利で、QV-10 の後に続いたデジカメブームでは真似した会社も多かったし、むしろこの機能がついていない、普通のカメラのような形状だと不便だと感じていた。



ところで、ビデオカメラ用 CCD は、NTSC ですからデジタルに換算すると 640x480 程度の画像を撮影できます。

でも、縦方向はインターレース…奇数ラインと偶数ラインを交互に読む仕組みです。


だから、縦 480 で撮影すると、奇数ラインと偶数ラインの間に 1/60秒のずれが生じてします。

「静止画」としては、妙なことになってしまうのです。


これが、QV-10 が 320x240 で撮影する理由。

記憶容量を節約する意味ももちろんあるのだけど、安くするために「仕方ない」理由があるのです。



このWEBサイトは 1996年に作り始めていますが、初期の写真は QV-10 で撮影されています。

当時のインターネットは回線速度も遅く、320x240 でも「大きすぎる」くらいだったので、十分な性能でした。


でも、QV-10 だと料理中の写真撮りにくいのね。

赤外線フィルタが不十分で、熱い部分が「緑色」になってしまうの。



いろいろと欠点もあったけど、欠点を補って余りある楽しさもありました。




QV-10 がヒットすると、カメラ会社からもっと本格的なデジカメが発売され始めました。

デジカメの黎明期ですね。


カメラ会社としては、ちゃんとした「写真」を撮れないといけない。

最低 640x480 以上の画質にしたいのですが、そのためには CCD から専用品を設計しないといけない。


当然高価になります。

高画質にするためには、ピクセル数を増やす必要もありますが、それは「1ピクセルの面積」を減らすことでもあります。


そうすると、暗がりに弱くなる。

フラッシュを搭載しても、気軽な撮影は難しくなります。



何よりも、慌てて QV-10 の後を追ったカメラは、搭載しているソフトウェアがこなれていないものが多く、使いにくい印象でした。


僕も QV-10 のしばらく後に「もっといいカメラを」と思って DC-3 とか買いましたけど、使いにくかった。

暗いと撮れないし、撮影後にすぐ電源を切ると、画像が保存されていないことがある。

(電源はソフトウェア制御しているはずなのに、「データ保存」よりも「電源処理」を優先してしまっている)



そのころ、まだ結婚する前の妻から「デジカメ買いたい」と相談を持ち掛けられ、QV-10 を勧めました。

主な想定用途は WEB サイト作成だったから画質は十分だったし、何よりもそのころには安くなっていたから。


これが、冒頭画像の QV-10A です。

僕の QV-10 は、使い込みすぎて壊れてしまって捨てたのだけど、妻の QV-10A はまだ残っています。




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江の島再発見  2017-03-13 11:43:44  家族

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小6の長男は、ここのところ卒業準備で忙しいらしい。

週末になっても「なんか疲れたー」と言っているので、体を休めようと外出は控えていた


でも先日、「最近どこも行ってないから、山歩きとかしたいなー」とポツリ。


で、先週末の金曜日の夕食時、「そろそろやること全部終わって楽になってきた」と言っていたので、急遽どこかに行こうと考えた。


でも、本当に急なので、長男の希望していたような「山歩き」とかは計画する時間が無い。



話は変わるが、「南鎌倉高校女子自転車部」というテレビアニメがある。

深夜帯で現在放映中だけど、鎌倉の名所がいろいろ出てくるので家族で是非見てください、と鎌倉市長も宣伝していた。


折角なので録画して子供と見ているのだけど、先日江の島の灯台(シーキャンドル)が出ていた。


次女が、「友達がここ行ったけど怖かったって」と言う。


いや、次女も行ったことあるのだけど、まだ1歳だったから覚えてないね、というと、長女も覚えておらず、長男も記憶がおぼろげなようだ。


「行ってみたい」とリクエストが出ていた。



この二つの話があわさり、江の島に行こう、ということになった。




江の島は何度も行っているのだけど、一番裏手にある「岩屋」にはまだ行ったことがない。


江の島って楽しいところで、朝から行っても楽しんでいると途中で日が暮れてしまうのよ。

最深部までなかなかたどり着けない。


まぁ、そんなことは江の島側でもわかっているので、江の島にわたる橋のところから船も出ている。

大人 400円、子供 200円で岩屋まで連れて行ってくれる。


ただし、風が強い日は欠航。

以前、岩屋に行こうと思ったのだけど欠航で断念したことがある。


11日土曜日は風も凪いでいた。

(朝のラジオ番組では、サーフィンには今日は向かない、と言っていた)



10時に家を出て、大船駅からモノレール。

モノレール駅から江の島までは歩き…なのだけど、途中道端で「エイのから揚げ」を売っていた。

妻が食べたいというので買おうとすると、長女はアジの串焼きに興味を示す。両方買う。


特に凝った料理ではないが、朝採れの魚を使っているというだけで旨い。


船に乗り、江の島についたのは11時半ごろ。




裏手に行ったらすぐ岩屋があるのかと思ったら、そんなことはなくて岩場をしばらく歩く。

ちゃんと岩場の中にコンクリートで道が作ってあるのだけど、子供たちは潮だまりが気になって道を逸れる。


いや、これうちだけではないし、子供だけではない。

多くの大人が周囲を楽しんでいるし、潮だまりをのぞき込んでいる。

ただの潮だまりに過ぎないけど、浅いのも深いのもあり、海藻が生えていたり藤壺がびっしりだったり、非常に表情豊かで楽しいんだ。


岩場と海の間には、海にわずかに繋がっているのだけど、プールになっているような場所がある。

ここの波の動きがまた面白い。うねる波の周期が少しずれ、つながっている水なのに、水面の高さが違うんだ。


#わかる人向けに書けば、わずかしか繋がっていないことで微分回路が形成され、波が 1/4 周期ずれている。



楽しみながら進み、岩屋につく。ここは別料金なのだけど、今日は子供無料だという。(大人は 500円)


全く気付いていなかったのだけど、この土日は「江の島春まつり」というイベントをやっていたらしい。


そういえば、岩屋の入り口前で、大声測定大会やっていた。

これも祭りの一環だったらしいのだけど、91ホンだった。それまでの最高記録は 92ホン。

わずかに届かなかったのが悔しい。




初めてみた岩屋は、なかなか興味深いものだった。


波の浸食により作られた、奥深い洞窟。

昔から江の島は島全体が神社になっていて、江戸頃には観光地として栄えている。


でも、その起源は、この岩屋が 552 年に発見されたことに遡るらしい。



江の島ってそもそも特殊な地形で、今は橋がかけられていていつでも行けるのだけど、昔は年に2回だけ、大潮で海が大きく引いた時だけ歩いて渡れた。

そんな島に自然にできた非常に深い洞窟があれば、なにか神秘的なものを感じるのもわかる気がする。


岩屋は宗教遺構で、中には石仏などが並んでいる。

それほど出来は良くない。だからこそ、仏師などが彫ったのではなく、修行の一環として修行僧が掘ったのだろうとわかる。


江の島は富士山麓の氷穴や風穴に繋がっている…という言い伝えがある。

まぁ、これは眉唾だと思うのだけど、富士山がよく見える江の島近辺で地底に続く深い穴を見たら、富士山周辺にも深い穴が多いことを知っている人にとっては不思議に思えたのではないかと思う。


関東大震災の際には、富士山が噴火した、江の島が沈んだ、というデマも信じられた。

これも、こうした「繋がっている」と信じられた話と無関係ではないだろう。


#注釈:

 この日記を書くにあたって調べたら、伝承によれば、552年に地中から急に島が出てきたことになっている。

 でも、縄文時代の遺跡が見つかったりもしているので、これは事実ではない。


 また、1215年の地震で江の島に歩いて渡れるようになった、という記録もあるが、おそらくは地震による隆起で、「大潮でもないのに」歩いて渡れる状態になったのだろう。

 地形的に、年に2回歩いて渡れる、というのはそれ以前からあったはず。

 (典型的なトンボロなので、隆起による一時的な状況変化はともかく、大潮の日に歩ける、という状態は安定している)




現在は第2岩屋、というものもある。


いや、たくさんの洞穴が、鉄格子をはめて閉鎖されているのが見えるから、本来「第2」どころではなくたくさんあったのだろう。

でも、昔落石事故があり、危険だから全部閉鎖されたらしい。


その後、第1、第2と名付けられた2つの岩屋だけ、整備して再開。


…で、この第2岩屋は、宗教的な聖域と感じられた第1とは大きく変わって、俗っぽい。

大きな龍神の置物があり、ライトアップされている。


伝説…この龍神の「いわれ」を書いた説明もあるのだが、今の腰越は昔「子死越」と書かれ、荒ぶる龍に子供の生贄をささげた場所だったのだけど、江の島の弁天様それを沈めた、とか。


この伝説、少なくとも 1777 年にはあったようです。この伝説をモチーフにした筝曲が作られているそうなので。


でも、観光地化してから適当に作られた伝説のように思います。

小夜の中山 夜泣石と同じようなテイストを感じるから。



で、ご本尊(?)のライトアップされた龍神像ですが、前で手を叩くと、後光(背後の岩壁へのフラッシュ光)が出ます。

2回たたいて2回光れば恋愛成就の可能性が非常に高いそうです。


霊験あらたかな音感センサー、すごいな。




岩屋を出たときにはもう1時近く。

どこかで昼ごはん食べよう、というのですが、子供は潮だまりで遊びたがります。


潮だまり付近はトンビがたくさんいるので、そこでお弁当広げるわけにもいかない。

じゃぁ遊び終わってからどこかで食べよう…とおもったら、次女が早速水に片足突っ込みます。


裸足にさせて靴を乾かしながら「落ちないように気を付けて」と長男長女にもいうのですが、言ってるそばから長男も落ちる。

これを見て、長女は落ちる前に裸足になりました。

万が一落ちても靴をぬらさないように。(長女は結局落ちることはありませんでした)




30分ほど遊んで…というか、少しでも靴を乾かそうと努力しましたが「無理」と悟ったので、子供たちに次に行こうと呼びかけます。

ここにきて「おなかすいたー」の大合唱だけど、ここで食べることはできないので、食べられそうなところを探しつつ先へ進みます。



結局、奥津宮近辺でお弁当を広げます。


このあたりも、来たことのなかったところ。

小さな神社がたくさん並んでいます。


江の島神社は江戸から昭和初期にかけてとても人気のあった神社なのですが、そもそも神社って江戸時代の遊園地、みんなが行きたがる人気スポットだからね。


江の島は島が丸ごと神社であると同時に、そこに小さな神社をたくさん立てて、ここ1カ所に来るだけでたくさんの神様にお参りできるようになっていました。

江戸から手ごろな距離だし、人気が出ないわけがない。


奥津の宮にある手水鉢も、江戸時代に寄進されたものだそうです。

そのころすでに人気があって、そこに自分の名を残そうとした人がいる、ということ。

手水鉢の上には亀の像が載っているのですが、これは昭和54年に寄進されたもの。結構新しい。


昔の大きな神社が皆そうであるように、寄進されたものがたくさんあります。

信心深い、というのはある意味その通りなのですが、必ず寄進者の名前が記されるので、そちらが目当ての人もいたでしょうね。




お腹も満たされたところで、灯台に向かいます。

…が、その前に貝広物産によります。


「世界の貝の博物館」って昔からやっていて有名な所。

…なのですが、少し規模縮小したみたい。


以前、子供とビーチコーミングをしたことがありました。

それ以来、長女と次女が貝殻を集めているのです。

図鑑も買いましたし、科学館で貝の専門家の講演を聞いたりもしました。


で、喜ぶだろうと思ったら、売っている綺麗な貝を見て「買いたい」と言い出しました。

自分のお小遣いの範囲で…ということでOKを出すと、真剣に悩んでいる。


次女は、桜貝とタツノオトシゴ、サンゴを飾った小さなセットの箱。400円。

…これ、この店のオリジナルですか? と聞いたら、オリジナルだそうです。

うちの姉が持っていた覚えがあるので、この店で買ったんだろうな。


長女は奮発して、ヒオウギ貝の3色セット。1300円。

お小遣いは足りているけど、千円を超えるような買い物は初めてで、すごくドキドキしている。


ヒオウギ貝は南洋の貝で、見た目はホタテに似ていますが、非常にきれいな色の貝殻を作ります。

ただ、生育過程でいろんな色が出るので、まだらになってしまったりするのが普通。

綺麗な単色の貝殻はそれだけで価値がありますが、その色違いの3色セット、というのは高いのも道理。




店の中に瓶サイダーを売っていました。綺麗な黄色。

「江の島サイダー GOLD」とラベルに書いてあります。


長男がこれを見つけ、興味を持った。


そしたら、店主のおじさんが「興味あるなら、直接買ってあげれば喜ぶよ」と。

ラベルに「江の島さんぽちゃん」というかわいいキャラクターが書かれていたのですが、店の前にそのコスプレをした女性がいました。


…いや、女性の格好が「オリジナル」で、それをかわいく描いたのがラベル、なのだそうです。

店の前を借りて、グッズ販売などしているのでした。


じゃぁ、サイダーを買い、折角なので子供と写真撮影させてもらいます。


綺麗な黄色をしているのは、「湘南ゴールド」という柑橘の果汁が入っているから。


最近ではよく耳にするようになった品種なのですが、まだ無名だったころに実物を食べたことがあります。

(農業試験場でもある、「ソレイユの丘」で売っていて、試食を食べたらすごくおいしかったので購入)


で、サイダーの方の味は、特に湘南ゴールドらしさは感じませんでした。

果汁は 3% だけだからね。




サムエル・コッキング苑に入る。ここも子供無料。ただし、灯台は有料。


3時過ぎだったのでベンチで持参したおやつなど食べつつ、シーキャンドル(灯台)に向かいます。


友達に「怖い」と聞いていた次女は、ちょっと不安がってる。

でも、上に登ったらガラス張りで、別にそれほど怖くはない、とわかったみたい。


この灯台、建て替え前は怖かったんですよ。

錆びかけた鉄塔で、床は木の板を敷き詰めて作ってあるのだけど、古いから木がやせて隙間が空き、ところどころ真下が見えるの…


いや、その怖さは遊園地とかの「安全の保障された怖さ」ではありませんでした。



で、今の灯台ですが、内部2層構造です。


下層はガラス張りで怖くないけど、上層に上ると、周囲は柵だけ。見晴らしもいい。

この日は風がないからそれほど怖くありませんでしたが、風が強いときは閉鎖されています。


見終わったら「階段で降りてみたい」と子供たちが言うので、挑戦してみます。

こちらは僕も初めて。大きならせん階段ですが、柵の外は下まで吹き抜けで、ポケットとかのもの落したら大変だな、と思うとちょっと怖いです。


まぁ、難なく下まで降りられましたけど。




サムエル・コッキング苑を出ると、前の広場で大道芸やってました。


時間はもう4時半近く。この日最後の人で、すでに終盤でした。

大道芸は好きなので見たかったけど、今日は岩屋と灯台を見る目的で来たので、仕方がない。


大道芸は好きでよく見るのだけど、好きだからこそ、「芸」のバリエーションがある程度限られてしまうことも知っています。

どこかで見たことのある芸が中心で、先の展開もわかります。


ただ、だから面白くない、ということではないのね。

落語みたいなもので、同じことをやっていても、面白くて周囲を引き込む人もいれば、一人で空回りする人もいる。


見ていた人は、上手く周囲を引き込んでいました。すごく面白かった。

知っている芸とは言っても、それが非常に難しいことはよくわかるしね。

(少なくとも僕にはできないわけで)


終わってからおひねり出しましたけど、さすがに「畳んで」はいけなかった。

最初から見ていたら、それくらい出しても良かったけど。


子供がみんな持って行きたがったので、 50円x3 、それと僕から 500円です。




江の島を橋の方向に降りつつ、いつもなら最初にお参りする神社群をめぐります。

神社もいっぱいあるけど、石碑だけとか、小さな祠だけのものもいっぱいあるのね。


猿田彦様もいるし、秋葉様もいる。


節操がない、ともいえますが、やっぱり遊園地としてはよくできているなぁ、と思います。

その上、ご本尊の弁天様は裸です。大事なところはちゃんと琵琶で隠しているのだけど、江戸時代ならこの弁天像目当てで来る人だってたくさんいたでしょうね。



たしかこのあたりだと思うのだけど、水琴窟がありました。


水琴窟、好きなんだよね。

手水鉢の水で手を洗うと、その水がしたたり落ちる音が地面の下の共鳴装置で響いて、かすかに美しい音を立てる…というしくみです。


これがね、近づくと龍の形の吐水口から水が出始める。

思わず立ち止まって周囲を見回してしましました。


近づくと水が出始める水琴窟。

さすがは神様のいるところ。不思議一杯のワンダーランドです。


霊験あらたかな音感センサーに引き続き、霊験あらたかな赤外線センサー。


ここにきて、「神社は江戸時代の遊園地」だった、という考えが改まります。

今でも遊園地です。神社は聖域なんかではなく、突っ込み入れながら楽しむところ。


すごーい! たーのしー!



銭洗いの池なんてのもありました。

中央に、非常にきれいな…真新しい感じの竜の像が立っている。


ここの水でお金を洗うといいことがあるそうです。

…銭洗い弁天だよね。まぁ、同じ弁天様だけど。


茅の輪くぐりがありました。

本当は作法があるはずなのだけど、ただくぐればいいことになっている。


そもそも、茅(ちがや)が6月に取れるのでその季節にやるものなのに、今の季節に置いてある。

たぶん1年じゅう置いてあるのだろうね。茅が入手できないから、緑のビニールロープで編んであるし。


くぐることで穢れを落とせる、霊験あらたかなビニールロープです。



福石、という謎の石碑があるので、説明を読んだところ、鍼灸の技法のひとつである管針を考案した人が、ここで躓いた石だという。


転んで気絶して、夢の中で見たことがヒントになって管針を考案した、とか。


気絶するほどの転倒をした石って、福なのかな。

そもそも、石碑はあってもどれがその「躓いた」石だか判らない。



こういうの、全部ひっくるめて、すごーい、って言っていると楽しめます。


#dis っているのではない。

 有名な神社だからとお高くとまらず、ウケるなら何でも取り入れてきた、数百年の歴史を見るのが本当に楽しかった。



#注釈:

 歩いていた時は銭洗いの池に突っ込みを入れたのだけど、こちらはこちらで由緒あるものでした。

 もともと岩屋洞窟内の湧水で銭を洗う、という習慣があったのだけど、岩屋が閉鎖された時期に移転したのだとか。


 もっとも、岩屋内で銭を洗う、ということ自体が、銭洗い弁天の模倣にも思えます。

 銭洗い弁天は 1185が縁起で、その時点から「銭洗い」と関連がある。


 一方、江の島は縁起こそ古いものの、観光地化したのは江戸後期。

 岩屋はもともと修行の場で、銭を洗う、というような俗な行為は観光地化後と考えられます。




あとはお土産に干物とか買いつつ、江の島を後にします。


もう日没直後ですが、「貝拾いたい」と長女が言うので、周囲が暗くなるまで砂浜で貝を拾います。


さっき桜貝買ったけど、大量に落ちていたよ。

でも、僕が子供の頃に比べて、桜貝を見かけなくなったのは事実なんだよね。


(これは、講演会を聞いた貝の専門家のデータ裏付けもあります)


環境破壊…かどうかはともかく、生育状況が変わっているのは事実のようで。



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世界最初のドメイン登録(1985)  2017-03-15 11:00:15  コンピュータ 歯車 今日は何の日

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今日は、世界最初のドメイン名が登録された日(1985)


…と言ってしまって良いものかどうか。

一応、この前から「ドメイン名」は存在していました。


ただ、登録機関が作られ、最初に正規の手続きが取られたのは、 SYMBOLICS.COM で、1985年3月15日に登録されているのです。




インターネットは、初期の頃に IPv4 が完成し、IP アドレスを直接使ってコンピューターを指定していました。

しかし、これは覚えにくく、不便です。


そこで、HOSTS.TXT という仕組みが考えられます。

テキストファイルで、IP アドレスとホスト名(コンピューターの名前)の組を書いただけのファイル。


ホスト名を指定すると、自動的に HOSTS.TXT を調べて IP アドレスにアクセスを行います。


この HOSTS.TXT は、マウスの発明者としても知られるダグラス・エンゲルバートが管理していました。


彼はスタンフォード研究所(Stanford Research Institute)に所属していましたが、自分のマシンで、この HOSTS.TXT を FTP 公開していました。

ですから、時々 FTP で最新の HOSTS.TXT を取り出し、自分のマシンに入れる必要があります。


Stanford Research Institute's Network Information Center


「スタンフォード研究所 ネットワーク情報センター」の頭文字をとって、SRI-NIC と呼ばれます。



しかし、このやり方は、1980年代の初頭にはホスト名が数百件を超え、破綻気味でした。


そこで、ポール・モカペトリスが、ホスト名の分散管理を考案します。

Domain Name System …いわゆるDNSです。


1983年11月に構想の概要が公表されています。(RFC882,883)

1984年10月には、ドメイン名の名付け規則が決められます。(RFC920


1987年11月には、プロトコルなどの詳細などが決まって実装されます。(RFC1034,1035



SRI-NIC では、命名規則が決まった後の 1985年にはドメイン名の登録受付を始めています。

そして、現存している「一番最初の登録」が、1985年3月15日登録の、SYMBOLICS.COM なのです。




さて、話としてはこれでおしまい。

でも、折角なので SYMBOLICS.COM について書いておきましょう。



MIT にジョン・マッカーシーという計算機学者がいました。

人工知能の生みの親の一人であり、タイムシェアリングを普及させた人で、Lisp 言語の設計者です。


さて、Lisp という言語、非常にシンプル、かつ強力な処理構造を持ちます。

面白いので紹介したいところなのですが、長くなるのでそれはまたの機会にしましょう。


ここで重要なのは、Lisp は List Processor の略である、ということです。


List 構造は、プログラマーならご存知かもしれません。

1つのデータの塊に、次のデータの塊への「ポインタ」を用意し、次々繋げていくデータ形式です。

データを移動したい際に、実際のメモリ上から動かす必要はなく、ポインタのつなぎ変えだけで済む、という利点があります。


Lisp は List Processor なので、すべて…データだけでなく、プログラムもこの List 構造で作られています。


さらに詳細にいえば、Lisp では、ポインタのつなぎ方がすべて二進木になっています。

ポインタの2つ組みが非常に重要なのです。




さて、Lisp は非常に柔軟なデータ形式を持っているのですが、そのぶん処理は遅いです。


たとえば、Lisp では整数型と浮動小数点型の数値は区別はされていますが、問題なく加算できます。

これ、今の言語では当たり前ですが、当時としては画期的なこと。

代償として、加算の前に「型チェック」や、必要なら「型の変換」が必要になるので、速度が遅いです。


そこで、Lisp 処理に特化したコンピューターが、MIT で開発されました。

後に多くのメーカーがこの市場に参入し、一般に「Lisp マシン」と呼ばれます。


Lisp マシンでは、word を保持するのに必要なメモリよりも若干大きめのビット数を確保してあって、データと型を一緒に保持していたりします。(タグ付きアーキテクチャ)

これにより、ハードウェアが型チェック・変換をサポートし、速度の低下を抑えます。



先に書きましたが、List 処理では「ポインタ」の操作が非常に多いです。

Lisp マシンでは、型の一つとしてポインタを持っていて、データを読んだ時に「次のメモリ」を参照すると、自動的にポインタの示す先に進んだりもします。


アドレスの概念がハードウェア的に隠蔽されているのです。


#Lisp マシンは Lisp を効率よく実行できるようにはなっていますが、他の言語、例えばCだって動かせます。

 しかし、アドレスを持たないため、「ポインタ」概念は混乱があります




やっと今日の話に戻れます。

世界最古のドメイン、SYMBOLICS.COM を取得した Symbolics は、MIT で開発された Lisp マシンを商用で販売する会社です。


実際には MIT の研究所内で活動し、その代償として成果は MIT に無償提供されました。

つまるところ、商用販売するから組織を分けただけで、実体は MIT の人工知能研究所なのですね。


ちなみに、現在はこのドメインは売却され、ドメイン名管理会社が所有しています。

「最古のドメイン」を知らせるページが設置されていますが、その会社の宣伝を兼ねているのでしょうね。



ところで、Symbolics のキーボードは…なんというか、とても個性的です。


画像は、Retro Computing Societyから引用させてもらっています。

クリックすると別ウィンドウで同じ画像を開くので、細部まで拡大してご覧ください。


このキーボード、「Space Cadet Keyboard」と呼ばれます。


Cadet というのは「士官候補生」の意味。

このキーボードを使う君は、将来宇宙で活躍するヒーローの候補だ! ってことですかね。

SF映画に出てくる、すごい装置っぽさはあるよね。



キーボードには謎の記号がいっぱいついています。

∞⊂∀∂みたいな数学記号はまだいいとして、👍👎👈👉とかありますからね。


Shift や Ctrl に当たるような修飾キーにも、「SUPER」「HYPER」「GREEK」とか、いっぱいある。


注目すべきは「META」かな。これ、Emacs ユーザーなら知っている「METAキー」の本物です。

今のキーボードでは ESC で代用するのが普通だけど。



このキーボード、{ } …いわゆる「弓括弧」もある。

以前、弓括弧が使えた最初のマシンはどれか、という調査をやったのだけど、その時にこのキーボードを発見して「すごい!」って思いました。


リンク先に書いてあるけど、MIT の Lincoln Keybord も数学記号とか { } とか入れてあるんだよね。

Symbolics も、先に書いたように実態は MIT の人工知能研究室です。同じような記号が使えるのは、多分関係あるんじゃないかな。




ドメイン名を登録開始した 1985年中には、5つのドメインしか登録されていません。

2番目は bbn.com。これも MIT と関係の深い、初期のインターネットを形作った企業です。


続いて、think.com mcc.com dec.com …やっぱり、全部 MIT と関連のある企業。


5番目の northrop.com が、やっと関連のない企業(航空機製造業)です。

でも、空軍がらみの企業だよね。MIT って、空軍や航空業界ともつながりがあるので、やっぱその関係かも。



ドメイン登録は SRI の仕事でしたが、SRI 自体は 1986年になってから、7番目に登録しています。

6番目は Xerox 、8番目は Hewlett-Packard。1986年は、シリコンバレー企業が続々登録しています



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タネンバウム教授(1944) ストールマン(1953) 誕生日  2017-03-16 13:19:11  コンピュータ 今日は何の日

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今日は、アンドリュー・タネンバウム教授(1944)と、リチャード・ストールマン(1953)の誕生日。


この二人が同じ誕生日、というのはすごい偶然だと思います。


タネンバウム教授は、MINIX の設計者。

MIT の卒業生で、カリフォルニア大学バークレー校で博士号を得ています。


その後、オランダのアムステルダム自由大学で計算機科学の教授を行っています。

この過程で、学生にコンピューターOSの仕組みを教える教材として、MINIX を設計。1987年に完成させます。


UNIX は、そもそもミニコンピューター(と書くと小さそうですが、パソコン=マイクロコンピューターより巨大なもの)で動くOSでした。

MINIX は、その機能を厳選し、IBM-PC で動くようにしたOSです。


MIT のハッカー風土を知り、バークレー校のBSDを知っている教授が作った、誰でも使える UNIX でした。




と言っても、MINIX は機能を限定した UNIX です。

MINIX でOSの仕組みを学んだリーヌス・トーバルズが、後に「ハイエンドな」IBM-PC で動く、フルセットの UNIX を作ります。


これが現在の Linux

ただし、Linux はOSの一番重要な部分、「カーネル」だけです。

周辺ソフトなどを整え、OSとして使えるようにするには、別のソフト群が必要でした。




話は変わって、リチャード・ストールマン。RMS とも呼ばれます。(ミドルネームは「マシュー」)


ストールマンも MIT の学生でした。ただし、卒業はせず、中退。

MIT のハッカー文化が消えつつあるときの学生で、書籍「ハッカーズ」の中では、最後の章でやっと登場します。

ハッカー最後の生き残りとして。


ハッカーの倫理は、当時のブームであった「ヒッピー文化」に深く根差しています。


誰かが作ったものは、皆で共有されるべき。すべてを公開し、秘密を無くすべき。

金もうけのために働き、稼ぎを自分一人の財産にする、なんていうのは、最も忌むべきことでした。


しかし、学生の時はそのような理想を口にしても、社会人になれば金もうけのために働く必要があります。

ハッカーたちの多くは、MIT 内の「AI研究所」に所属し、政府の助成金で研究をするモラトリアムを送っていましたが、その助成金すらも制限があります。


そして、みな自分たちの技術や知恵を「商品」として、商売をし始めるのです。


特に決定的だったのが、先日も書いた「Lispマシン」でした。

AI研究所では Lisp マシンを開発しましたが、この商品化のために Symbolics 社が作られます。


そして、「金儲けは許さない」とした一派と分裂。

許さないとした一派もLMI (Lisp Machine Inc) という会社を作り、結局は Lisp マシンで商売を始めるのです。


これが、ハッカー文化の終焉でした。



ストールマンはハッカー文化の中心となった人達よりも若く、このどちらの行動も許せませんでした。

…まだ若かったのですね。


そこで MIT を飛び出し、「すべてのコンピューターソフトをフリー(自由、無料)にする」という活動を始めます。


これが GNU 活動。

UNIX の複製品を作り、無料で配布することが当初の目的でした。




OS自体を作るのはなかなか難しいことです。

そこで、GNU は「周辺ソフト」から活動を開始します。


UNIX の標準コマンドは、すべて GNU 製品として用意しました。

一般的な標準コマンドよりも性能が良く、機能が多く、ソースコードも配布され、改造も自由で、無料です。


ソースコードは「Cコンパイラ」で処理すると、コマンドとして使える「実行ファイル」が出来上がります。

このCコンパイラも、GNU 製品で用意しました。


ソースコードの作成には、テキストエディタが必要です。

実は、ストールマンは GNU 活動を始める前から、Emacs というエディタを作っていました

これも GNU 製品として使えるようにします。


UNIX 上では、OSは「カーネル」の部分と、ユーザーが操作を行う「シェル」の部分に分かれます。

このシェルも、従来より高性能なものを作成しました。




とにかく、UNIX のありとあらゆるソフトを無料で使えるように。

ただ、周辺ソフトは全部そろえられても、カーネルだけは作れません。


カーネルというのは、ハードウェアに密着し、その違いを隠す部分です。

上に書いたようなソフトは、そうした「違いが隠された」上で動作するものなので、OSが整っていれば、ある意味どこででも動作します。


しかし、OSのカーネルは、マシンごとに作成しなくてはならず、手間もかかるし泥沼の作業になりやすいのです。




さて、ここで先ほどタネンバウム教授のところで出てきた話に繋がります。


タネンバウム教授の MINIX で勉強したリーヌスが、Linux という新しい UNIX 準拠のOSを作りました。

ただし、カーネルだけで、周辺部分が一切ありません。


ストールマンは、UNIX 準拠のOSを用意しようとして、周辺一式を揃えました。

しかし、カーネルの部分がありません。



この二つを組み合わせれば、UNIX として使えるようになるわけです。

実際、現在の Linux は組み合わせた状態で「配布」されています。



ストールマンとしては、リーヌスの名前を付けた「Linux」という名前でこのセットが呼ばれることを、快く思っていないようです。

GNU/Linux と呼んでほしい、と呼び掛けていますが、あまりこの呼び方をする人はいません。



リーヌスとしては、Linux を GNU のライセンスに従って配布することにしています。

だから、ここでも GNU 製品と呼んでも差し支えないことになる。


もっとも、GNU の考え方も一枚岩ではなくて、GPL の解釈だって、リーヌスとストールマンで違います。


ここら辺、GNU に関してはいろいろな話があるのですが、長くなるのでまたの機会に。



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長男卒業式  2017-03-17 18:04:54  家族

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今日、長男が小学校を卒業した。



もう、感傷にふけるだけの日記なので、人が読んで面白いものではないよ、と最初に断っておきます。


また4月になったら、長男はいつもと同じように学校に通い、ただその先が中学になるだけ。

卒業したから何が変わるというわけではないのだけど、やっぱり一つの区切りではあるわけだ。


平日だから仕事はあったのだけど、午前中だけ休みをもらって式に出席してきた。

長女・次女は今日は自宅学習なので、初めてのお留守番。

(長男と一緒に留守番したことはあるのだけど)



1年生の時、泣いて帰ってきたこともある。

誰かと喧嘩でもしたのかと思ったら、保育園と違う環境で緊張していて、学校がえりにふと気が緩んだら涙が出てきた、というだけだった。


そんな長男も、今では頼もしいお兄ちゃんになった。

6年間というのは子供が成長するのに十分な時間で、その分自分も老けているのだろうと思う。まだ若いつもりだけど。


#このページで PDP-11 とかの話をよく出しているけど、使ったことないよ。

 ファミコン世代ではあるけど。




僕らの頃と違い、今は子供が少ないので、式にも時間の余裕がある。

だから、卒業証書を受け取る前に、1人づつ想いを言葉にする時間がある。


卒業に際し、楽しかった学校生活の思い出を言う子がいる。

育ててくれた親、周囲の大人に感謝を述べる子がいる。

中学に行ったら部活に励む! と頑張りを魅せる子がいる。

遠い将来の夢を語る子がいる。


小学校には、長男が保育園の頃に一緒に通っていた子たちが大勢いる。

僕は子供の送り迎えをしていたので、オムツをしていたころから知っている子たち。


その子たちが、それぞれ全く知らない夢を語るのは、成長を感じた。


サッカー選手、バスケ選手、医者、管理栄養士、ゲームプログラマー…

テニスのコーチとか、宮大工とかとかもいたな。



テニスコーチ、と言ったのは、低学年の頃はゲームが好きでうちの長男と気が合っていたけど、その後サッカー少年になって疎遠になった子。


でも、夢はサッカー選手ではなく、テニス選手でもなく、コーチなんだ。

1年見ないと子供の興味はどんどん変わる。

「コーチ」という変化球だって、彼なりにいろいろ考えて出てきた、今の夢なのだろう。



みんながみんな、夢をかなえられるわけではないだろう。

挫折もあるし、もっと楽しいことを見つけて、夢が変わることだってある。



今の夢とは違う職業に就くかもしれない。もしかしたら、それは意にそぐわない結果かもしれない。

だとしても、常に自分に胸を張って、目の前の仕事を楽しめる、そんな強さを身に着けてくれるといいと思う。




式の後、先生と一緒に記念撮影したり、友達とふざけたりしていた長男、急にこっちに戻ってきて

「おなかすいたから帰ろう!」と元気に言った。


友達と別れを惜しんだりしないのかな、と思ったら、「ほとんど全員同じ中学だから、べつに」とのこと。


まぁ、違う中学に行ったとしても、近所に住んでいるのだから会えないわけでもないしね。



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2つの特許の出願日(1971)  2017-03-22 12:57:52  コンピュータ 今日は何の日

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1971年の今日、アメリカで2つの特許が出願されています。


まずは、米国特許番号 3,728,480


「Television gaming and training apparatus」

 テレビ受像機による、ゲーム・訓練装置


出願者は、ラルフ・ベア


彼が、テレビ受像機を、放送を見る以外に使えないか? というアイディアを思い付き、ゲーム機の研究を行ったのが、1967~1968年。

最終的に「Brown BOX」としてまとまります。


これを量産品として販売した Odyssey は 1972年。

発売前に特許を出願したようです。まぁ、普通の判断。


世界で最初のテレビゲームの一つですが、詳細は上のリンク先をお読みください。




もうひとつは、米国特許番号 3,842,194


「Information records and recording/playback systems therefor」

 情報保持、記録/再生のためのシステム


出願者は、RCA の研究者であった、ジョン・クレメンス。


「静電容量ディスク」の特許です。

今では聞きなれない方式ですが、一時期非常に注目され、テレビゲームとも縁が深いです。



1959年には、RCA のトーマス・スタンレーによって「静電容量ディスク」のアイディアが考案されていたそうです。

これは、普通のレコード盤にビデオ信号を記録する、というもの。


レコードは、音…つまり、空気の揺らぎを、レコードの「溝」の揺らぎとして記録します。

しかし、ビデオ信号は音よりももっと周波数の高い「光」の波であり、この方式では記録できません。


光と電気・磁気信号は近いものなので、せめて電気・磁気で信号を記録できれば…というところ。

実際、ビデオテープなどは磁気を使いますし、DVD などはレーザー光線を使い、光で記録を行います。


#DVD は前段階として、デジタルによる信号圧縮も行われているので単純ではないですが。



静電容量ディスクは、レコードのような「ビニール樹脂」が、静電気を溜めやすい性質を利用したものです。

小さな穴を作り、そこに「静電気」を溜めようとすると、穴のサイズによって溜められる量が変わります。


この「静電容量」を信号として取り出せれば、電気的な記録が可能です。

物理的な溝の揺らぎで記録するよりも、高密度で、高速に読み出せる記録が可能でした。


1964 年には RCA で本格的に研究が始まり、1971 年までに技術を確立し、特許が出願されたのです。




アメリカでは、RCA から CED(Capacitance Electronic Disc :電気容量ディスク、の意味)として発売されています。


日本では、この方式をさらに改良した、VHD(Video High Density Disc :高密度ビデオディスク)として 1981年に発売されました。

ちなみに、根本的な部分の改良なので、CED との互換性はありません。



CED では、レコードのように1本のらせん状の溝があり、その溝に従う形で信号記録のための穴があけられていました。

しかし、VHD には溝がありません。完全に平らなディスク上に穴があけられ、読み出し針は自由に動くことができます。


これによって、ランダムアクセス…頭出しが可能なことが VHD の特徴でした。

また、溝がないことから「針が溝を削る」こともなく、摩耗しにくい…ともされましたが、それでも物理的な接触はあるため摩耗します。




ところで、CED/VHD のライバル規格として、レーザーディスク (LD) があります。

フィリップス/MCA が企画したもので、日本ではパイオニア1社のみが製造していました。


こちらは 1978年にはアメリカで発売、1980年に日本で発売しています。


名前の通り、レーザーで読み取ります。接触しないので摩耗はなく、ランダムアクセスも可能です。

ただし、記録時間は LD が30分、VHD が1時間でした。


LD は「両面ディスク」を発売し、1枚で1時間として欠点をカバーしましたが、途中で裏返すという手間が増えます。

(のちに記録方式を拡張し、片面1時間にも対応。)


レーザーという「新技術」を使っていたため、機械が高価なのも普及を妨げていました。



しかし…ここからが、今日の本題。

1983 年、「ドラゴンズレア」が発表となります。


世界初の、レーザーディスクを使用したテレビゲームでした。



まだゼビウスが「最も美しい」テレビゲームだった時代に、ディズニー風のセルアニメで遊ぶゲームは、まさに異次元のものでした。


LD の機械が高価でも、業務用として売れない値段ではありません。

例え 30分しか記録できなくても、業務用ゲームのプレイ時間としては十分です。


そして、すぐに再生画面が切り替えられる、というランダムアクセス性を活かし、操作に成功すればアニメが続き、失敗すればすぐに「やられた」画面を表示するようになっていました。



LD の欠点をカバーし、長所を伸ばす形で応用したゲームにより、LD の存在感を示したのです。




ドラゴンズレアは大ヒットゲームとなり、日本でも、サンダーストーム(DATA EAST)、タイムギャル(TAITO)、バッドランズ(KONAMI)などなど、多数の LD ゲームが発売されます。


#アストロンベルト(SEGA)は微妙な所。

 ドラゴンズレア以前から開発されていた一方、背景を LD に任せただけの普通のシューティングゲームだから。



そして、これらの「家庭用」は、主に VHD で発売されました。

LD よりも VHD のほうが、本体価格が安くて普及していましたから。


#もちろん、LD でも出ましたけど。


ただし、ゲームで遊ぶにはそれなりの設備が必要になります。

主に、テレビとの親和性が重視されたパソコンだった、シャープの X1 と、VHD の開発元であるビクターも製造していた MSX 用にソフトが発売され、パソコンから制御できる機能を持った VHD プレイヤーも必要でした。


参考:VHD サンダーストーム



ランダムアクセスと言っても、読み取りヘッダの移動時間は物理的に必要です。

LD や VHD のゲームでは、特殊なフォーマットで記録を行うことで、こうした「移動時間」を最小にしています。


確か、当時のベーマガで、この技術を説明していました。


VHD は普通らせん状に1本にデータが記録されているのだけど、この「らせん」を2本にする、というもの。

通常映像のすぐ横の溝に、「失敗した時の分岐先」を用意することで、ヘッダの移動時間を最小化するのです。



これ、昔の「ひもを引くとランダムにしゃべる人形」…トイストーリーのウッディみたいなおもちゃで使われていた技術と似ています。

…って書いて判る人はほとんどいないでしょうね (^^;;


ウッディみたいなおもちゃは、中に非常に小さなレコードが入っています。

レコードには普通溝が1本ですが、4つの溝が刻まれていて、ひもを引いてバネを巻いたときに、たまたま針が落ちたところの音声が再生されます。




VHD ゲームは「オリジナルソフト」も多少はあったのですが、VHD ゲームを作るのは手間がかかるため、ほとんどは業務用の移植でした。


ただ、ビクターもパソコンとセットにできる VHD プレイヤー、なんて高価なものを売った以上はソフト供給の責任があるわけで、いろいろ変わり種も発売していました。


ゼビウスの背景が延々と流れるだけのディスク、というのがあったのを覚えています。

通常そんな画面が出るわけはないので、ゼビウスのソフトを書き換えて、わざわざ専用に収録したものだったそうです。



当時、ゼビウスは「移植不可能」と言われていましたが、最大の問題が背景のスクロールでした。

当時のパソコンにはスクロールのハードウェアなんてなかったため、すべてのドットをソフトウェアで書き換える必要があったのです。


ここに、ゼビウスの背景 VHD を垂れ流して、ゲームに関係するキャラクターだけ書けばよいとしたらどうでしょう?

きっとそんなソフトが発売されるに違いない、と思ったのですが…


…出るわけありませんでしたね。

パソコンだけでも高価だった時代、特殊な VHD本体と接続キット、さらにゼビウスの背景 VHD まで買った人しか遊べないゲーム、なんて需要あるわけありませんし。




LD ゲームは、画面はきれいかもしれませんが、その特性上「自由に動く」ようなことは出来ず、画面の指示に従ってタイミングよく操作を行うだけの、覚えるだけのゲームでした。


そのため、あっという間にジャンル自体が廃れます。

1984~1985 のわずかな期間に、ほとんどのゲームが発売されたのではないかな。



ちょっと特殊な所では、1990 年のギャラクシアン3。

あまり LD ゲームとはされません。


セガの「アストロンベルト」と同じで、背景が LD で、その上にキャラクターを重ねて3Dシューティングゲームを行う。

ただ、7年もたっているので技術は格段に上がっていて、背景とキャラクターの間に違和感を感じません。


1990年の、いわゆる「花の万博」で披露されたもので、28人が 360度スクリーンで同時に遊ぶという、大規模なものです。

後に6人で遊べるバージョンが作られ、ゲームセンターに置かれました。


…といっても、これも非常に高価で、置かれた店は限られていましたけど。

(大学の近くにあったので、仲間と一緒に遊びに行きました)


こんな大型機で、しかも LD なんて特殊なものを使っているので、保存しておくのも大変なようです。


2010年に大規模な「LD エミュレーション」を作成するプロジェクトが行われています。


LDプレイヤーが入手困難になっているので、全動画を PC に取り込み、LD 制御信号を解釈するプログラムを作ることで、PC に LD プレイヤーの代わりをさせる、というものでした。


これは、「アーケードゲーム博物館計画」さんの所有物で、年に数回開放しています。

そのタイミングで倉庫に行けば遊ぶことができるそうです。


僕も、昨年秋に友達と遊びに行ってみようと計画していたのですが、残念ながら昨年秋の開放は中止になってしまいました。



#今回「静電容量ディスク」の話のはずが、すっかり脱線してしまいました。



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焼肉食べ放題。  2017-03-22 19:04:10  家族

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先日書いたが、長男が小学校を卒業したので、なんかお祝いでもしよう、と思った。


で、卒業式の当日は、妻が長男の好きなミートローフを焼いた。



翌日…3連休の初日は、長男の中学で使う上履きなどを買いに行く。

最初からどこかで食べようとは思っていたのだけど、急に回転寿司に行ったら、ごちそうだと喜ぶ。



…これで終わりのつもりだったのだけど、翌日急に気付いた。

そういえば、しばらく前から焼肉屋に連れて行ってやろうと思っていたんだ。


というのも、次女が去年までは保育園で、目の前に熱源がある焼肉は怖くて連れて行っていなかったから。

で、なんとなく調べたら、「小学生半額」の食べ放題の店が多い。



小学生まで、ということは今月中じゃないか、と思い、すぐに行くことにする。

ちょうど、前日の買い物で買い忘れがあった。焼肉屋の方向にはホームセンターがあったのでそこに寄る。

焼肉屋に行く前にネットで予約を入れて…とおもったら、予約システムが停止していた。


仕方がない。直接行ってみる。

が、2時間待ちになっていた。どうも、3連休の中日だから外食する人が増え、予約システムがダウンしてしまったようだ。



「食べたかった」という子供たちを説き伏せ、家に帰る。

途中で冷凍ピザなど買い、結局家でパーティ。




さらに翌日、朝起きてすぐに(5時ごろ)焼肉屋に予約を入れておく。


誰にも相談していないが、行かないならキャンセルすればよいだろう。

2時間待ちになるような状況なので、キャンセルしても店に迷惑は掛からない。


で、起きてきた家族に相談。

連日ごちそうで胃が疲れているようであれば別の日にしよう。



もちろん、みんな行きたいといった。




そんなわけで夕方にまた焼肉屋へ。

予約していたのでもちろん問題なく入れる。


子供たちにとっては初めての焼肉屋。


食べ放題は時間制で、100分。オーダーストップは80分。


「食べ放題なのに時間は決まってるの?」と次女はいうが、1時間半も食い続けたらお腹いっぱいで食べられなくなるよ、と答える。


どうもまだ理解していないようで、注文用のタブレット端末に表示されている残り時間を気にしている。

…が、1時間後には「十分な時間」であることを理解していた。



でも、いろんな種類の肉を食って、ホタテも食って、美味しいものはお替りもして、ナムル盛り合わせがうまいとこちらも2皿食べ、スープもお替りしたし、ユッケも食ったし、各種サラダもサンチュも食った。


ここで、肉ばかり食わず「野菜がうまい」とか言い出すあたりは、うちの子供は健全だと思う。


ちなみに、次女はフライドポテトが好きで、この店にもあったのでフライドポテトも食べた。

そういえば、たこ焼きも食べた。


最後にデザートを頼む。

それぞれ好きな味のアイスを頼んだら小さかったので、食べてない味と、フルーツゼリーと杏仁豆腐を追加注文。


食った食った。大満足。

最後に、妻がタブレット端末で注文履歴をしばらく眺め…


大人は大体 1600Kcal かな、と言った。



#目安は1日 2000Kcal 程度




正直なところ、高いのか安いのかはよくわからない。

食べ放題、って言葉には引かれるけど、厳選してうまいもの食べればもっと安いかもしれない。


でも、それだと子供が遠慮して自由に食べられないから、食べ放題にしたかったんだよね。



次女は気にいったたようで「また行きたい」と言いました。

まぁ、年に一度くらいなら行ってもいいかな。そんなに頻繁に行くところではないと思うし。



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かはたれ / たそかれ  2017-03-25 18:17:04  住まい

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数年前から気になっていた本を読んだ。



「かはたれ 散在が池の河童猫」


児童文学…なのだけど、むしろ大人向けかもしれない。

2005年に発表され、児童文学向けの多くの賞を受賞した作品。




お話の内容は、Amazon にでも書いてあるのを読んでくれ。

わざわざ説明し直すほどでもない。


ざっくりいえば、河童と少女の交流物語。


「かはたれ」では、家族を失い寂しい河童の子供と、母を失い寂しい小学生少女の交流が描かれる。


河童は人間の言葉を理解し、喋れるのだけど、戒めを守るために決して喋ろうとはしない。

河童は正体を隠そうとするし、少女も何だかわからないまま、弱々しい河童を守ろうとする。


だから二人のほかに秘密を知るものもなく、大事件も起こらない。

物語は非常にゆっくりと進行する。でも、二人の心の動き、思っていることが少しづつ明らかになり、最後は涙なしに読めない。


続編の「たそかれ」では、少女は成長し中学3年生になり、河童と再会する。

こちらでは、河童は戒めを解いても良い理由があり、会話することもできる。

そして、前作から後に何が起きたかが明らかになりつつ、二人で協力して難題を乗り越えようとする。


こちらも、最後は涙なしに読めない展開。


今はまだこの2冊しか出ていないが、まだ続きを読みたいお話。




もっとも、児童文学向けの賞を受賞したとか、それだけのことはある深い物語だったとか、そんな評判で読んだのではない。

気になっていたのは別の理由で、内容には期待せずに読んだらいい本だった、という、棚から牡丹餅みたいなもんだった。


気になっていた理由…

このお話、舞台は架空の街なのだけど、明らかに知っている場所だったのだ。



お話のサブタイトルは「散在が池の河童猫」。


話の舞台は、「散在(さんざい)が池」と呼ばれる場所の周辺。

散在が池がどこにあるかは明示されていないのだけど、「谷戸」とか「やぐら」という、地形を表す言葉が出てくる。

そして、これらの言葉には説明がついていて、「鎌倉近辺で使われる言葉」となっている。


大船駅からバスで行ける場所に、「散在(さんざ)が池」という場所がある。読み方は違うけど字は同じ。


これが正式名称なのだけど、バスで行くには「鎌倉湖畔行き」に乗る。市外の人にはこちらの名前で知られているためだ。

別に有名観光地ではないけど、散策に訪れる観光客はよく見かける、そんな場所だ。



お話では、40年前(お話は 2005年に書かれているので、1960年代)に池の周囲に住宅地が造成された、となっている。

実際、散在が池の周囲には 1960年代に住宅地が造成され、その時にイメージの問題で、池ではなく「鎌倉湖」と呼ばれ始めたようだ。


お話の中では、散在が池から山を下ると神社がある。

その先が住宅地で、少女の通う小学校は住宅地の中にある。


これも、実際の散在が池の地形と似ている。全く同じではないけど。



続編の方では、少女の住む住宅地が鎌倉にあることも明かされている。


鎌倉市青船。…実際には、大船の周辺をイメージしているようだ。

小学校のある住宅地、とはちょっと離れているかな。どうも、続編を書くときに、都合でモデルになる地域を変えた模様。


少女の通う中学は、小さなトンネルを抜けた先にあり、大学の付属中学ということになっている。

実際、大船の住宅街からトンネルを抜けたところには中学がある。付属中学ではないけど。


同じ地域の、ずいぶん離れたところにもう一つ中学があるのだけど、こちらは大学の付属。

ここでも、話の都合に合わせてイメージを混ぜているのだろうけど、実際この地域にあるものをモデルにしているとわかる。



続編は、少女が町の歴史を調べ、伝承などの中から河童と人のかかわりを知ることで進んでいく。

それらの伝承には、実際に鎌倉近辺に伝わるものも使われている。


戦争中のことが語られる部分もあるけど、ここは実際の地域の歴史とはかけ離れている。

鎌倉の隣町としての「青船」周辺の歴史として語られるのだけど、その歴史は「隣街」の、横浜中心部の歴史がモデルのようだ。



しかし、郷土史を読んでいるわけではなく、あくまでも創作童話。

実際の地域の話と違ったってかまわない。


でも、ファンタジーを読んでいるにもかかわらず、実際の場所を思い浮かべながら読んでしまう、という不思議な感覚を味わった。




ちなみに、この本は大船図書館で借りてきた。2~3冊づつ置いているようだ。

「たそかれ」では、少女が地域の歴史を調べる際に、「青船図書館」も訪れている。


作者さんも鎌倉に住む人のようだし、この本が大船図書館に置いてあるのは、大切なことのように思う。



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X68000 発売日 (1987)  2017-03-28 11:40:52  コンピュータ 今日は何の日

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今日は X68000 発売日(1987)


ちょうど 30 年だ、というので記録しておきます。


X68k については、もう 20年前に言いたいこと言っているので、いまさら言うことは何もないです。





公開してから気づいた。


2年前にも X68k の発売日書いてるじゃないか…


鳥頭にもほどがある。




公開当日の内の追記。


シャープ公式の人のツイート。



20年前に書いた僕の記事では、「春発売」と書いている。

当時の記憶では、発売日が明確になってはいなかったからだ。


2年前の日記は、公式に「3/28」となっていたのでその日に書いた。

僕が知らなかっただけで、ちゃんと発売日設定があったのかな、と思って。


しかし、上のツイートで疑問が解消した。

どうやら、今日が発売日、と明確に定まるわけではないようだ。



後日追記 2017.4.7

2月1日…

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ルータ不調  2017-03-30 18:35:30  コンピュータ

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先日、なんだかネットの調子が悪いことに気付いた。

サーバーの調子かな、と思って調べてみたり、いろいろ絞り込むうちに、どうやらルータが何か変だ、と気づく。


ルータの設定が何かおかしいのかな、と見直してみる。

項目をいじったら、リセットを促された。そして…再接続しない。


げ! 困った。設定をいじってみたり、いろいろするけどなかなか接続できない。


使っていたルーターは、webCaster V120。NTT の純正品(?)だ。

ちなみに、この前は V110 を使っていた。順調なバージョンアップ。


でも、購入は9年前、機種としては10年前のものだった。




何かおかしい。設定はあっているはずなのに接続できない。

「すでにその ID でログインしている」と怒られる。


スマホで(LTE 電波で)情報を探す。


使っているプロバイダのページに、「接続できない場合は10分くらいたってから再接続」と書かれていた。

えーと、切断しても「ログインしている」とみなされてしまうような場合でも、10分くらいで強制切断されたりするのかな。


試してみると、接続できた。が、すぐ直後にまた切れてしまう。

やはり調子が悪い。いじった設定のせいかもしれない、と設定を元に戻し、また10分待ち、再接続。

しかし接続できない。



おかしい、と思っていじり始めたのが夜10時過ぎ。

何かするたびに 10 分まつ、というようなやり方をしているので、あっという間に深夜1時を過ぎた。


違うことを試してみる。


ルータは PPPoE で上流に接続しているが、この接続を2つ作れる。

1番目のプロファイルを2番目にコピーし、2番目で接続して見ると…接続できた。


全く同じ内容のはず。もう一度1番目で接続すると、接続できない。


PPPoE はソフト的に処理されていると思うので、この2つは等価であるはずなのだけど、なんで?

実はソフトではなく、それぞれの回路が作り込まれていて、片方だけおかしくなった? なんて考える。



しかし、もう夜は遅い。

外部公開しているサーバーなどは、どちらの接続を使っているかの影響を受けてしまう。

この設定を書き換え、問題なくなったところで就寝。深夜3時近かった。


#主夫なので朝5時には起きないといけない。

 でも、春休みで子供の学校もないし、6時まで寝てしまった。




さて、翌朝。

ルータの調子が悪いのは事実だし、新しいルータを買うことにする。


V120 には IP 電話の機能がついていて、プロバイダの提供する、NTTコミュニケーションズ系(以下NTTC)の IP 電話を使用していた。


だから新しいルータにも同じ機能が欲しいが…ない。

NTT純正品は、古いものをいまだに売っていて、低性能で高い。


高性能なものを選ぶと、値段に関わらず、IP 電話機能は付いていない。


その代わりと言っては何だけど、今のルータには WiFi 機能がついているのが普通だ。

V120 はオプションで、このオプションが妙に高いので別の WiFi ステーションを使っていた。


そして、探すと IP 電話のアダプタはそれほど高くない。

今ルータのそばにある WiFi ステーションを無くし、代わりに IP 電話アダプタを置けばよい。


というわけで、ルータと IP 電話アダプタを購入。




ルータの置き換えは おおごと になるので、まずは IP 電話を設定しようと思った。


…設定がわからない。


詳しく書くと長くなるので書かないけど、NTT純正の IP 電話機能は、NTTCの設定に特化することで、使いやすくしてあった。

この言葉は嫌いだけど、「ガラパゴス化」だ。だから、新しい機種も出ない状態になっていたのだ、と気づいた。


NTTCが悪い、というのではなくて、電話って各国で少しづつ規格が違って、対応するのが大変なのだ。

購入したのは海外製のアダプタで、どこの国でも使えるようにやたら設定項目が多い。


それよりは、NTTCがNTT純正品として、国内用の設定を「固定化」させた機種を売っていても、良いサービスだと思う。



まぁ、ともかくたくさん情報を調べたのだけど、今のところ設定方法がわからずに頓挫している。


で、仕方がないからこの部分だけ今まで使っていた V120 を使えないか、と思った。

ルータの内側に、ルータ機能を殺した V120 を置いて、IP 電話アダプタとして使う、という案だ。



ここで調べていて、意外な一文と出会う。


「IP 電話機能は、PPPoE の1番目で接続している時のみ使用できます」


ルータとして動いていないといけない、というのであればまだ理解できる。

でも、1番目の接続でないと動かない。


ということは、PPPoE はソフトウェア処理で、1番目と2番目は等価である…と思っていたのが間違いなのかな。

1番目と2番目は別の回路で処理されていて、1番目の回路に IP 電話の機能がつけられている。


これなら、1番目が調子が悪くて2番目なら動く、というのも説明が行く。


いろいろと腑に落ちたのだけど、IP 電話は当面使えない、ということが確定した。

この電話、仕事用で、仕事では大抵メールを使っているので、数少ない相手が年に1度かけてくるかどうか、という程度のものなので、ダメならあきらめもつくのだけど。


#仕事電話番号にしていて、名刺に番号を印刷してしまっているのが一番の問題。

 この名刺も、ほとんど配らないのだけどね。




ルータは、とりあえず家の中の WiFi ステーションとしては動き出している。

5Ghz 帯も使えるようになり、快適に動くね。


ルータを変えることで「固定 IP 接続」の IP が変わってしまうと困るので、DNS の ttl を短く設定し直した。

キャッシュが無くなったころに切り替えを行おうと思う。




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西角友宏さん 誕生日(1944)  2017-03-31 15:28:30  コンピュータ 今日は何の日

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西角友宏さん 誕生日(1944)

今日は、西角友宏さんの誕生日(1944)


名前はあまり有名ではありませんが、作り出したものは多くの人が知っている。

スペースインベーダーの開発者です。




過去に世界最初のゲームについて書いていますが、まぁ、多くの人が世界最初のゲームは PONG だと考えています。


これは商業用として最初にヒットし、ゲーム業界を作り出した作品。

でも、その前に同じ作者による、「COMPUTER SPACE」というゲームがあります。


PDP-1 で遊ばれていた「SPACE WAR!」を業務用にしたもの。

…なのですが、もちろん業務用にするためにルールは違いますし、最大の違いは、SAPCE WAR! がプログラムで作られていたのに対し、COMPUTER SPACE は回路で作られているということ。


当時、コンピューターはまだ非常に高価でしたし、プログラムを解釈して処理できる機械を作ろうとしたら大変でした。

だから、安くするためには回路で組まないといけなかったのです。


PONG も回路ですし、その後の多くのゲームも回路で作られています。



しかし、タイトーから発売されたスペースインベーダーは CPU 8080 を利用して作られ、回路では実現できないような複雑な内容を持っていました。

そのために大ヒットしますし、同じように「プログラムされた」ゲームが大量に作られ、ゲーム業界を作り出すことになります。


#ソフトウェアで作られた初の業務用機、ということではない。

 インベーダー以前に日本でもヒットした「サーカス」(風船割ゲーム)も 6502 を使用している。

 ただ、サーカスは絵がきれいになり、遊びに幅は出たものの、ブロック崩しの亜流に過ぎない。




インベーダーは、ブロック崩しのブロックが動いたら面白いのではないか、というアイディアから着想されたそうです。


ブロック崩しは、ただでさえ狙うのが難しいゲーム。

動いたらとても狙ってられないので、直接「撃つ」ことにします。


ということは、ボールがないのだから、「落としたらダメ」にはできない。

そこで、敵からも反撃があるようにします。


このままだと戦争ゲームになってしまい、なんだか血なまぐさい。

当時スターウォーズが流行していたので、宇宙戦争ということにします。


これで大体インベーダーゲームの骨子の出来上がり。

非常に論理的に組み立てられていますが、「全く新しいゲーム」を感じさせてくれました。



プログラムで作られたゲームとしては最初期のものなので、バグも多いです。


ミサイルがインベーダーの「下」ではなく、「2つ下」から出てしまうため、密着するとやられない。

いわゆる「名古屋撃ち」です。


インベーダーは左右に動きますが、右に進むときは、左に進むときよりもわずかに速いです。

これもバグだったそうですが、微妙な速度の緩急により、ゲームを単調ではなくしていました。


ビットマップの画面にキャラクターを描き、動かすときには消す必要があります。

でも、インベーダーは左右にしか動かないのだから、左右の余白を大きくしておけば、新しく「描く」時に、以前のものも消してくれる。

…はずでしたが、一番大きな 10点インベーダーが、上に書いたバグにより、最高速で右に進むと軌跡を残しました。

いわゆる「レインボー」。



バグかもしれませんが、すべてがいい方向に動きました。

他社からも真似をしたゲームが多数発売されましたが、バグをとってしまったゲームは「つまらない」と言われてしまう始末。




PONG のコピー基盤でアメリカのゲーム業界が形成されたように、日本ではインベーダーのコピー基盤でゲーム業界が形成されます。


コピーというより「パチモン」と言ったほうがいいかな。

まるっきりコピーする、いわゆる「デッドコピー」ではないです。

(デッドコピーもありましたが)


任天堂も、セガもコナミも、アイレムもニチブツも、インベーダーのコピーを作っています。



もちろん、今でも残るメーカーは「真似」だけで終わらずに、その後オリジナル作品などを作って生き残ってきたのですが。



インベーダー以前のゲーム機は、遊園地や、デパート屋上スペースや、映画館や、喫茶店などに置かれるようなものでした。


でも、インベーダーの大ヒットで、インベーダーだけをたくさん並べたお店、いわゆる「インベーダーハウス」が乱立します。

ブームの終焉と共に無くなった店も多いですが、これらの一部が「ゲームセンター」として生き残っていきます。



メーカー側、店舗側、どちらもインベーダーの出現で大きく変わったのです。

インベーダーが日本のゲーム業界を形成した、と言ってよいかと思います。




西角友宏さん個人については、実のところ僕はそれほど知りません。

まだ精力的に活動しておられる方で、実際にあって話をしたような人の記事も、ネットを探せばたくさん見つかります。


インベーダーが大ヒットしてしまったがゆえに、「アフターサービス」で、インベーダー基盤の交換用ソフトをしばらく作っていた…なんて話もあります。



他社製品ではスプライトが使えるようになったりする中ですから、羨ましくもあったようです。

でも、制約の中で作ったゲームは大ヒットとはいかずとも、よく考えられた面白いゲームだったと聞いたことがあります。




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