今日は、ケネス・ハリー・オルセン、通称「ケン・オルセン」の誕生日(1926)
コンピューターを大きく変えた会社、DEC の創業者です。
しかし、DEC 創業以前から、コンピューターを大きく変えるようなプロジェクトに多数関わっています。
「デジタル計算機」がすべて歯車式だった時代、デジタルは正確ではあるが遅いものでした。
いや、当時の計算機の一番重要な任務「弾道表」の作成に関しては、デジタルは遅いうえに不正確、でした。
弾道表の作成では、様々な条件で、多数の弾道を計算する必要があります。
そして、1本の弾道の計算だけで、動く弾の位置計算を、時間に沿って繰り返し何度も行う必要がありました。
速度が遅い、という理由から、少しでも計算を早くするためには、計算する「時間」の精度を荒くする必要がありました。
しかし、そうするとわずかな誤差が溜まってしまい、最終的には大きな誤差となるのです。
このため、第2次世界大戦中には「微分解析機」というアナログ計算機が開発され、活躍していました。
デジタルでも速度を上げれば十分な精度の計算ができるはず、と ENIAC が作成されますが、終戦には間に合いません。
まだ戦時中、アナログ全盛の時代に、マサチューセッツ工科大学(MIT)に海軍から「パイロットの養成のために」航空シミュレータの作成が依頼されます。
もちろん最初はアナログで作成しますが、要求された「本物の飛行機のような感覚」には程遠いものでした。
もっと複雑な計算を行う必要がありました。
しかし、アナログ計算機は「複雑な計算」においては、役に立ちません。
そして、デジタル計算機は「計算の速度」において、役に立たないのです。
このとき、まだ作成中だった ENIAC の噂が聞こえてきます。
デジタルでありながら、歯車を使わずに電気回路で計算を行う機械。
しかし、その予想される速度であっても、航空シミュレータの必要とする速度には足りません。
まだ完成もしていない ENIAC の技術面を参考にし、さらに高速化のための工夫が編み出されます。
最初に作られたプロトタイプが WhirlWind I でした。
真空管時代のものですが、いまでは「あたりまえ」とされるような技術を、多数最初に編み出したマシンです。
それ以前は、コンピューターは今とはかなり違うものでした。
WhirlWind 以前と以降で、コンピューターの姿が変わってしまったのです。
当時、ケン・オルセンは海軍研究局に在籍し、海軍の立場から WhirlWind I の作成プロジェクトに参加しています。
WhirlWind I は当時最高の性能を持つコンピューターでしたが、ただの「計算機」ではありませんでした。
グラフィックディスプレイとライトガンを備え、画面に図示した情報を「タッチ」することで操作できたのです。
航空シミュレーターを作る必要性からグラフィック機能が備えられたのですが、当時の「計算機」の概念を超える、対話できる機械でした。
ただ、このコンピューターを実現するための回路規模は膨大でした。
最終的に海軍ではなく空軍で使われるようになるのですが、量産された WhirlWind I … SAGE と呼ばれたシステムは、1台のコンピューターを「建設」すると、4階建てのビルが出来上がりました。
戦後、トランジスタが発明されると、真空管と同じようにトランジスタでもコンピューターが作れるのではないか、という可能性が示唆されます。
ただ、最新鋭の電子素子であるトランジスタは、非常に高価でした。
ケン・オルセンは、海軍を退役してMITリンカーン研究所に在籍していました。
そして、彼が参加した WhirlWind を参考としたマシンを、トランジスタで実現するプロジェクトの責任者となるのです。
しかし、先に書いたように、トランジスタでコンピューターが本当に作れるのか、まずはその確認から始める必要がありました。
そこで、最低限の機能だけに縮小したプロトタイプ機、TX-0 を作成します。
最低限…命令が、たった4つしかありません。でも、ちゃんとプログラムできます。
これはプロトタイプですから、狙いどおりに動作することが確かめられるとすぐに TX-1 の作成に掛かります。
…が、TX-1 は野心的過ぎて失敗。
責任者は交代して最終的に TX-2 が出来上がります。
実は、TX-2 ももう人間の手には負えない設計で、設計段階から TX-0 の計算力を必要としています。
そして、TX-2 の完成時点で、TX-0 は用済みになりました。
しかし、この「用済みのコンピューター」こそが、ケンの人生を、そして世界を変えていきます。
#TX-2 は、世界初の「コンピューターグラフィックス」を実現したことで有名です。
詳細はサザーランドの記事へ。
用済みの TX-0 は、MITに無償で貸し出されました。
MITにはすでに研究用の計算機として IBM 904 がありましたから、 TX-0 は学生が自由に使ってよいマシンとなりました。
そして、学生たちは TX-0 で自由に遊び始めます。
「計算機」のはずなのに、計算などさせず、絵を描いたりゲームを作ったり音楽を演奏したり。
ケンにはこのことが驚きでしたが、同時に「十分安くて自由に触れるのであれば、コンピューターの用途はずっと広がる」と気づきました。
ケンは、DEC社を設立。
当初は「装置」の名前通り、TX-0 や TX-2 の周辺機器をオーダーメイドで作っていました。
しかし、その裏で開発を進め、TX-0 を元としたミニコンピューター、「PDP-1」を作り出します。
ところで、DEC は Digital Equipment Corporation 、PDP は Programmed Data Processor の略です。
コンピューターを作っているのに、どこにも「Computer」の文字が入っていません。
これは、まだ広く知られておらず「一般人には関係のないもの」と考えられていた「コンピューター」の名前を使うことを、会社設立資金を提供したオーナーが嫌がったためです。
しかし、PDP-1 は明らかにコンピューターでした。
よく「世界初のテレビゲーム」と呼ばれる、「Space War!」は、この PDP-1 で作り出されています。
DEC は作る機械に順次番号を割り振っています。
そして、互換機もあれば、互換性のない機械もあります。
軍のオーダーで作られ一般販売しなかったものや、試作だけで終わったものもあります。
そのため、型番からでは互換性が分かりません。
PDP-1 は 18bit マシンで、4 7 9 15 が後継機。
PDP-3 は 36bit マシンで、6 10 が後継機。
PDP-5 は 12bit マシンで、8 12 が後継機。
PDP-11 は 16bit マシンで、後継機はシリーズ名も変わる「VAX-11」となります。
18 / 36 / 12bit って、今のコンピューターに慣れていると奇異に見えますが、当時は 1byte が 6bit です。
だから、3 / 6 / 2 byte を 1word とするマシン、ということになる。
でも、ASCII 文字コードが制定されると 1byte が 8bit になり、それ以降に作られた PDP-11 では 16bit / 2byte が 1word になっています。
このうち、特筆すべきは 1 7 8 10 11 …あたりかな。
7 は、初期の UNIX が作られた機械です。
後に、互換性のない PDP-11 に移植が行われ、その際に「アーキテクチャを問わないアセンブラ」として開発されたのが C言語です。
8 は 12bit で廉価だったのに加え、時代的にもコンピューターになじみが出てきたタイミングで発売されたため、大ヒットしました。
自動車を買うのと同じ程度の値段で買えた、と言いますから、現代の感覚からすればまだ高いのですが、当時としては「個人で所有できる唯一のコンピューター」でした。
商用としてはかなり初期のコンピューター音楽演奏システムなんかにも使われています。
「ミニコンピューター」「ミニコン」という言葉は、このあたりから出てきたもの。
10 は、電話回線でテレタイプを接続して時間貸し、というシステムでよく使われました。
ビル・ゲイツが初期のハッキングを楽しんでいたのもこのマシン。
11 は、当時のコンピューター命令セットとしては最も美しい設計だとされ、後の多くのマイクロプロセッサに影響を与えています。
6800/6809 や 680x0、V60、Tron-chip なんかも PDP-11 の影響を受けて設計されているそうです。
最も、PDP-1 以降はケンの手を離れています。
PDP-4,5,6 それに 11 は ゴードン・ベルが作っています。
PDP-11 から VAX-11 に機能が拡張されます。
VAX は Virtual Address eXtension の意味で、「仮想メモリ」をサポートしました。
また、この機能を活用した VMS という OS が作られました。
…使ったことがないので迂闊なことは書けない。
でも、UNIX に対する「回答」として作られた節があって、どの部分をとっても UNIX に似ていて、しかしそれよりも良いものだったそうです。
たとえば、UNIX ではすべてを「ファイル」として考えます。
そして、ファイルの入出力ですべてが行えるようにするのです。
キーボードは読み出し専用のファイルです。
プリンタは、書き込み専用のファイルです。
ディスク全体も特殊なファイルとして考えられますが、その中に実際のファイルが入れられ、これは読み書き共にできます。
しかし、UNIX でも「メモリ」まではファイルにしていませんでした。
プログラムが入っているメモリは、OSにとってはちょっと特別な場所。
VMS では、「仮想メモリ」によって、搭載している以上のメモリ空間を扱えます。
そして、足りなくなった際にはメモリの一部はファイルとして保持するのです。
ここで、ファイルとメモリも統一が行われたのです。
さらに、UNIX ではファイルはディスク上に置かれていることが前提でしたが、VMS では「ネットワーク」を前提としています。
ネットワークされたコンピューターのどこかにファイルがあれば、その保存形態は問いません。
今では UNIX にも、仮想メモリや NFS (ネットワークファイルシステム)という概念があります。
しかし、これらは VMS から取り入れた概念なのです。
VAX には公式 OS として VMS が提供された一方で、PDP-7 / PDP-11 で育った UNIX もまた、VAX に移植されていました。
だからこそ、UNIX を超える公式 OS を作ろうとしたのでしょうが、普及したものに対して「よりよいもの」で追うという戦略は、大抵うまくいきません。
VMS も例にもれず、普及しませんでした。
UNIX 上では、「グラフィカルな操作環境」として X-Window というシステムが作られています。
この開発者は、後に DEC に在籍していました。
VMS の UNIX に対する優位点は、先に書いたように仮想化やネットワーク化が OS 自体に組み込まれている点です。
UNIX は、後付けのソフトウェアで実現しているため、設定・管理が煩雑でした。
そこで、いっその事、VMS を大きく作り直して、X-Window も取り込んだ次世代のグラフィカル OS を作ろう、というプロジェクトが始まります。
一歩先ゆく次世代 OS として、V M S の文字をそれぞれアルファベット順に一つすすめた、コードネーム WNT 。
しかし、作成中に DEC が破産します。
WNT は、マイクロソフトが買い取り、大幅に手を加えて、後の Windows NT となります。
現在も広く使われている Windows は、 Windows NT の後継です。
さて、もしもケンがいなかったら、どうなっていたでしょう?
TX-0 は作られず、コンピューターが「計算」以外の仕事を始めるのは、控えめに言って、もっと遅くなったでしょう。
個人で所有できるコンピューターの実現にも時間がかかったでしょうし、当然コンピューターゲームの誕生だって遅れます。
Windows だって存在しません。
ケンの存在は、今の世の中に大きな影響を与えているのです。
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