秋の家族旅行の話を書いています。
僕は子供の頃と、大学生の頃に小田原城に行っています。
その時の印象は、本来の格式が感じられず、客集めのためにわけのわからない空間になっている、というものでした。
申し訳ないけど、見る価値がない、と思いました。
だって、そのころは天守閣の前が動物園になっていて、象や猿がいたのだもの。
でも、さすがにこれが不評で、段階的に動物園は廃止になっています。
動物の引き取り先が見つかるか、老衰して死ぬまではちゃんと飼育する方針なので、今でも猿はいたのだけど。
小田原城は今年の5月までに平成の大改修が行われ、本来の姿に近づいた、とされています。
それも今のタイミングで見に来たかった理由。
でも、久しぶりに見て初めて知りましたが、子供のころに比べて参道の門が順次復元されたりしているのね。
城の外郭、三の丸はすでに市街地になっています。
二の丸の入り口、馬出し門から歩き始めてみます。
門は2つあり、外の門を突き破って中に入っても、そこに閉じ込められる仕組みです。
そして、閉じ込められれば周囲からの集中砲火を浴びます。
さらに、2枚目の門は、天守を目指した際の背後側です。
もちろん門の横には銃眼があるので、背後から撃たれます。なんて恐ろしい。
馬出し門の2枚目を突破しても、銅門があります。
ここももちろん、扉は2枚。
1枚目は普通の木の扉です。
突き破って入ると…その先に、ひときわ大きい、銅で装飾された扉があります。
あくまでも「装飾」で、金属製の扉ではありません。
でも、ここまで3枚の扉を突き破るまでにかなりの戦死者を出しているだろうに、ここで「金属製」と見せかけるだけでも心を折るには十分なはず。なんて恐ろしい。
ここまで一気に解説しましたけど、実際には結構距離ありますよ。
子供と一緒に歩きながら解説していると、子供は非常に楽しんでみています。
ところで、ちょうど秋分の日の頃に行ったので、彼岸花が土手に咲いています。
お堀の土手を強化するために彼岸花を植えたのでしょうね。
彼岸花は根が密集するので、土手を強くします。
そして、毒があるのでネズミが根を食い荒らすこともありません。
さらに、彼岸花の根は水にさらせば毒を抜いて食べられます。
籠城の際の食料にも転用できるわけです。
銅門を抜けると、一気に本丸まで駆け上る、長い石段があります。
鎧を着た歩兵は、ここを一気に駆け上るのはつらいでしょうし、騎馬兵も馬を捨てる必要があるでしょう。
そして、石段の上には常盤木門があります。これも鉄で装飾されています。
どこまで心を折れば気が済むんだ。
常盤木門を突破したら広い庭があります。
今は先に書いた猿がいますが、戦国時代には住居があったようです。
その住居の向こうには天守が見えていますが、住居の間の細い道は行く手を塞ぐ関門になったでしょう。
いよいよ天守閣。
長くて細い石段を登り、中へ。
天守は再建されたもので鉄筋コンクリート製。
昔来た時は…残念ながらよく覚えていませんが、中はそれほど「お城らしさ」がないものだったはず。
今は、小田原城の歴史や構造が学べる博物館になっています。
天守の高さでは、現存する(再建含む)城の中で7位。
模型により木造時の骨組みの構造もわかります。
古地図や発掘を元に作られた当時の様子を、模型やCG画像で解説します。
数分間の映画が上映されていて、北条氏の歴史などをドラマ仕立てで学べます。
小学校6年生でちょうど日本の歴史を学んでいる長男から「北条氏って、鎌倉幕府の北条氏の末裔?」と質問が来ました。
わからないけど、近いしそうなんじゃないかな…と答えたのですが…
すぐ後に、パネル展示で北条一族の歴史がありました。
鎌倉幕府の北条氏とは無関係。関西からやってきて小田原周辺を攻め、我が物としたそうです。
でも、それは「よそ者」であり、風当たりが強かったために2代目から北条を名乗ります。
鎌倉幕府の有力者の名前を使うことで、「よそ者」感を無くしたわけです。
あー、小田原北条氏、ってわざわざ区別する理由はそこだったのか。
勉強不足で知りませんでした。
さらに、小田原北条氏滅亡に繋がる小田原合戦の様子を伝える数分の映画がありました。
先の、歴史を伝えるドラマと同じ俳優を使い、2画面を使ってドラマの進行と当時の時代背景を同時に伝えるなど、非常にわかりやすい工夫された内容です。
小田原城が秀吉の「日本統一」に最後まで立ちはだかっていたこと、なぜそれほど守りが強かったのか、攻め落とした秀吉の作戦は、当時の常識をどう破っていたのか、などなど、勉強になりました。
#ところで、「のぼうの城」という映画を見たことがある。
小田原合戦の際の周辺の支城の一つの戦いを描いたもの。
合戦で残ったのは、舞台となる「忍城」だけだったのだけど、このこともちゃんと合戦映画の中で描かれていた。
支城というので小田原周辺かと思っていたら、埼玉にあるのね。
小田原北条氏の勢力が広かった、ということなのだけど。
そのあとは、小田原城に伝わる美術品・宝物品などの展示などがあります。
北条氏が滅び、小田原城の開城後は、小田原合戦に参加した武将たちが、国に戻って自分の居城を「小田原城式に」改良しています。
皆が真似したがるほど、守りの強固な城だったのです。
ある意味、合戦への動員が、優れた技術を学ぶ「社会科見学ツアー」になっていたのでしょう。
小田原城も、江戸時代は徳川家が利用しています。
しかし、江戸に比較的近く、あまりに守りが固すぎるため、弱体化するために堀を埋めたり土塁を壊したりされています。
「その後の小田原城」として、明治期の写真が多数展示されていました。
小田原城の天守は江戸期の震災(1703)で焼失した、と思っていました。
だから昭和になってから鉄筋コンクリートで再現したのだと。
でも、江戸期の焼失は、その後再建されていたそうです。
それが、江戸末期の大地震で再び損壊(1853)。
そのまま幕末の動乱期となり、修復の機会のないまま大政奉還(1867)を迎えます。
そして、廃城願いがだされ、解体されます(1870)。
解体は明治期に行われているため、解体前・解体中・解体後の写真が残されています。
展示されているのは、これらの写真から始まる、再建までの歴史写真集。
解体後は天皇の御用邸として新たな建物が作られますが、関東大震災で損壊。
一部は学校として、一部は子供のための動物園・遊園地としての利用が始まります。
この頃、天守閣の跡地に観覧車が立っていた写真があります。
それほど大きなものではありませんが、石垣の上に立っていたので見晴らしは良さそう。
これを見て、子供の頃の思い出が重なりました。
天守の付近に動物園などがあって「歴史の重みを感じられない」と思ったのですが、そもそも天守閣の再建前に遊園地が作られているのですね。
もっと言えば、小田原城天守閣の見晴らしのよさは昔から有名だったそうです。
天守閣解体後、少しでもその見晴らしに近づきたいと思えば「観覧車」はよく考えられた策だったのかもしれません。
城の中は5階建てで、小学校1年の次女は歩き疲れていました。
歴史の話は難しすぎることもあり、文句たらたら。
最上階から外を眺めてちょっと笑顔になりましたが、今度は「おなかすいた」と。
時計を確認すると12時半でした。
ご飯食べにいこう、と階段を下りていきます。
「早くご飯」とさんざん言っていたのに、出口付近のお土産物屋では一生懸命お土産を選んでいましたけど。
長くなったので続きます。
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