2016年08月30日の日記です


著作権の初出年  2016-08-30 11:37:06  その他

過去に書いた記事をちょっと追記したところ、その追記が間違えているのではないか、という指摘をいただいた。


僕が間違えていることは重々あるので指摘は大歓迎。

特に、今回は詳しそうな方が、根拠を含めて指摘してくれた。


ただ、ちゃんと調べたところ、指摘をくださった方が間違えていた。

このことに対して特に怒りはないし、調べたことは僕自身の知識ともなったので、やはり感謝しかない。


詳しそうな方でも間違っていたということは、これが非常にわかりにくい概念なのだろう。

せっかくなので、調べたことも含めて詳しく解説してみたいと思う。



話は著作権のことだけど、僕は法律の専門家ではないし、ましてや著作権の専門家でもない。

でも、ゲーム会社に勤めていた時に、著作権の概念は叩き込まれた。


もちろん、専門家ではない以上間違えがあるかもしれない。

間違いがある場合、もしくは今回の話の発端のように、疑問がある場合はどんどん指摘してほしい。




話の発端から説明しよう。


まず、僕は過去に著作権表記についての記事を書いている。



でも、ここで「年を書く」ということだけ書いていて、その年が何を示すのかは詳しく書いていなかった。


Twitter の TL で、ゲームの発売年を調査している人がいて、書籍などとして刊行されている情報や、Wikipediaにまとめられている情報が間違えていることが多い、ということを言っていた。


タイトル画面には発売年とは違う年が書かれていることがあり、しかしそれを発売年と勘違いする人が多いために間違いが多い、という内容だった。

その人の推察では、年末などで年内に発売するつもりで作成していたものが、何らかの理由で年をまたいでしまうことが多いのではないか、となっていた。



タイトル画面に書かれているのは、発売年ではなく、著作権表記だ。

ずれが生じているのはそのためだ、と僕は知っていた。


でも、表記する年がいつを基準とするのか、以前書いた記事では書いていなかった。

そこで簡単に追記しておいた。




これに対して、間違えているのではないかという指摘が寄せられた。

どうやらその方もゲーム業界の方で、著作権法の条文は読んだうえで、「発売年」を書くのが正しいと考えていた。


正直に認めると、僕は万国著作権条約の条文までは読んでいなかった。

もしくは、読んだかもしれないけど覚えていなかった。


#国内法は読んだ


僕の知識のほとんどは、会社で先輩から叩き込まれたものだ。

必ず、最初に公開した年を書かなくてはならず、その公開とはプライベートショー(わずかな関連企業の人にだけ公開するイベント)のようなものも含む、と教わった。


会社からもらった書籍も読んで勉強したので、そこに条文が載っていたかもしれない。

でも、いずれにしても僕が覚えていた知識は先輩の言葉だった。


だから、僕が間違えているかもしれないと思い、改めて法律関係を調べてみた。



そして分かったことは、万国著作権条約の翻訳が微妙だということだった。




今回、教えていただいた条文は次のものだ。

(万国著作権条約の日本語訳)


第六条 〔発行の定義〕 この条約において「発行」とは、読むこと又は視覚によつて認めることができるように著作物を有形的に複製し及びその複製物を公衆に提供することをいう。


指摘をくださった方は、「複製」とあるのだから、大量生産することが前提だと考えていた。

ロケテストやショーへの展示は、大量生産ではない。


そもそも、「発行」というのは大量生産を前提とした言葉だ。

だから、ここでいう「発行」とは発売のことだ。そういう指摘だった。



しかし、原文(英語)では「発行」は Publication となっている。

確かに「発行」とも訳される語句なのだけど、原義は Public 、つまり公にすることだ。


作成者とその関係者だけが知っているような状況ではなく、第三者に見せる。

たとえその人数が非常に限られているプライベートショーのようなものでも、Publication となる。


ここは翻訳上の問題だ。

Publication に当たる言葉では日本語では複数あるのだけど、その複数をいちいち列記していては日本語としておかしくなる。

だから、翻訳の際に「発行」を選んだというだけ。


普段は法律なんて法律家しか気にしないし、法律家なら疑問のある時は原文を当たる。

だから、「発行」の単語は英語における Publication だよ、とわかっていれば何の問題もない。


そんなわけで、「発行」が大量生産の市販品に限られる、という理由はなくなる。




次の問題が「複製」だ。

もう一度条文を示そう。


第六条 〔発行の定義〕 この条約において「発行」とは、読むこと又は視覚によつて認めることができるように著作物を有形的に複製し及びその複製物を公衆に提供することをいう。


じつは、こちらの問題のほうが説明が難しい。

たしかに「複製」(原文でも copies )と書いてあるのだけど、これはいわゆる複製のことではない。



万国著作権条約では、絵画も保護の対象であると明記されている。

肉筆で書かれ、複製物のない1点ものであったとしても、著作権が与えられる保護対象だ。


「複製」と明記されているにもかかわらず、いわゆる複製物でなくても良いことになる。


じつは、ここの「複製」は、その前の言葉と切り離してしまうと意味を失う。

「有形的に複製」で一つの概念だ。


さらに言えば、「読むこと又は視覚によつて認めることができるように」が、「有形的に複製」にかかっている。




著作物とは、何か特定の「もの」をいうのではない。


本があったとしよう。その本は著作権で保護されている。

しかし、保護されているのは本ではない。「その内容」だ。


だから、違う体裁で、1ページの行数や、1行の文字数が違う形式でコピーしたとしても、同じ著作物として認められる。

本としての体裁は全く違うのに、保護される。

本が保護対象なのではなく、内容が保護対象だというのは、そういうことだ。


じゃぁ、保護する対象としての「内容」を明示してくれ、と言われると困ってしまう。

やはり、本などの形でしか示せないからだ。


これを、法的には「無形物」「有形物」という。

保護対象である「内容」は無形物なのだけど、その無形物を示すためには、有形物である「本」や「原稿」を示さないといけない。


たとえ肉筆画や、まだ活字組前の原稿だとしても、それは著作権の保護対象だ。

保護対象である無形物の「内容」を、有形物として明示できるようにした…つまり、無形物を有形物の形に「複製」したものだからだ。



これが、「有形的に複製」の意味だ。

なぜ有形的に複製しなくてはならないのか、という説明が「読むこと又は視覚によつて認めることができるように」となる。


つまり、文章全体で、いわゆる複製品ではなく、「アイディアだけでは保護されず、何らかの形で示さないといけない」と言っているに過ぎない。




もっとも、これには異論もある。

法律学者にとっては書かれた条文こそがすべてで、それをどう解釈するのかは揉める部分なのだ。


僕に指摘をくれた方のように、「複製」とあるのだから、それは複製物でないといけない、という立場をとる人もいる。

この場合、1点ものの美術品は保護されない。

美術品は人類の公共財産であり、また芸術家の卵などが模写することで学ぶことができるように、保護対象外であることが正しい、という立場もある。


#その際も、美術品を撮影し、本などとして発行する際には美術品の持ち主の許可が必要で、財産権は保護される。


#また、1点ものは保護されないのに、美術品としての版画なら保護されるのか、など、不平等の問題もある。



ところが、この立場を取った場合でも、コンピュータープログラムは、最初の1つから「複製品」となる。

プログラムとして記述されたのは「ソースコード」であって、実行バイナリではないためだ。



複製の言葉の定義としては、機械的な作業によって同じ意味を持つものが作り出されることだ。


世界観を使った同人誌や、小説を元に映画化するような「2次著作物」とは違う。

機械的な作業であることが重要で、そこに新たな著作権が発生しない時、複製物とされる。


ここで、複製物が元のものと違っていることは構わない。

たとえば絵画の場合、肉筆のタッチ・凹凸が失われたとしても「複製物」と認められる。

場合によっては色を失い、白黒で印刷されることになっても「複製物」だろう。


プログラムは、ソースコードを著作し、コンパイルした結果、バイナリが得られる。

法的な立場では、このバイナリは「著作物の複製物」とされる。


そのため、テレビゲームなどを作った場合、それがロケテスト用の1台しかないものであったとしても、複製されたものにあたる。

「発行」の定義でいう「複製」を満たしているため、最初にロケテストなどで公にした年を明記する必要がある。




以上の理由から、法的な解釈は多少違う場合があっても、テレビゲームに表示する著作権表記としては、ロケテストやショーなどの「最初に第三者に見せた」年を書かなくてはならない。


発売年を書くのは誤りだ。

(もちろん、発売年と公表年が同じである場合はそれで構わない)


じゃぁ、指摘をくださった方のように誤認があり、公表年と発売年が違うにも関わらず発売年を書いていた、として、どのような問題があるだろう?



直接的な問題は、特にないだろう。

以前書いたけど、万国著作権条約はすでに時代遅れとなっていて、現在は国際的な著作権保護はベルヌ条約で行われている。

(条約である以上、加盟した国でしか適用されない。今でもベルヌ条約に加盟していない国はあるため、全く無意味なわけではない)


しかし、ここではあえて万国著作権条約のみが有効であるとして考える。そういう国もまだどこかにあるらしい。


2019.2.14 追記

twitter で、このことを書いている人がいた

万国著作権条約は締結し、ベルヌ条約には加盟していない「そういう国」としては、カンボジアがあるそうだ。


あなたがゲームAを作ったとしよう。

2015年にロケテストをして、2016年に発売した。タイトルには発売年である 2016年の表記がある。


ところが、ロケテストの際に別会社がアイディアを盗み、そっくりのゲームBを発売した。

こちらは、とにかくゲームAの発売前に出してしまえ! と、2015年中の発売となり、表記も 2015年だ。


ゲームBは盗作である、と訴えても、万国著作権条約では認められない。

2016年に公表されたゲームAが、2015年に公表されたゲームBに影響を与えることなどありえないからだ。


万国著作権条約は、方式主義…つまり、実際がどうなっているかではなく、どのような申請が行われているかを重視する。

タイトルで明記された…「申請された」年のみがすべてで、実は 2015年にロケテストで公表している、というような主張は聞き入れられない。



もっとも、先に書いたように、万国著作権条約は今となっては時代遅れだ。

多くの国で、方式主義ではなく、無方式主義…実際に著作されたのがいつか、ということが判断基準となる。


例え表記が 2016年でも、ロケテストで 2015年には公表していたことを主張できる。

ただし、その主張のため、自らが年を間違えるほど無能であることを認めないといけない。

さらに、2015年に公開した十分な証拠を集めなくてはならないし、その証拠を集めたのが「無能な人」なのに、信じてもらう努力をしないといけない。


この点でも、最初に公開した日を正しく書いておいた方が面倒は少ないだろう。



なお、ロケテストの結果が芳しくなかったので、大幅に作り変えるなどして内容がかなり変わっている場合に、公表年と発売年を併記するのは構わない。

最初の著作物に対し、大幅な改変を加えた2次著作物と認められるからだ。新しい部分は、新しい著作物として保護されるので、2つの年が書かれていて構わない。




ところで、上に書いたような盗作騒動が起こったとしても、「似ているから盗作」とはならない。


インターネット上ではすぐに「盗作」とか言い出す人がいるので、盗作の要件を示そうと思ったのだけど…


書き始めてみたら、それだけで1記事書かないといけないくらいの概念だと気づいた。


概念の意味も教えずに書けば、盗作となる要件として


・部分ではなく、全体として似ていること

・盗作とされるものが、原作とされるものに依拠できる可能性が十分に示されること

・類似している部分に明らかな著作物性があること


などを示さないといけない。


ネットで「盗作」と言われるものは、大抵これらを満たしていない。

ただ似ているだけで盗作と言われてしまうクリエイターがかわいそうだ。


これ以上の解説は、面倒なので書かない。

興味のある人は自分で調べてみるといい。




2016.8.31 追記

文中に「申請」という言葉を入れたので、著作権の申請に興味を持っている方を見かけた。


著作権は、現在の日本では著作した瞬間に生じることになっている。

特許権や商標権と違い、申請や審査は必要ない。


でも、著作権譲渡などの際に後でもめないように、国に対して登録申請を行うこともできる。

効用についてはリンク先を参照してくれ。



文中で申請と書いたのは、歴史的な経緯に対してだ。

その昔、著作権に関する対応は国によって異なり、申請がないかぎり認められない国もあった。

これを方式主義という。


しかし、方式主義では国ごとに申請を行わなくてはならない。

商売に関わる特許などならともかく、随筆などについてまで世界中の国で申請を行う、というのは難しい。


そこで、万国著作権条約が作られた。

この条約では、著作物に対して一定の記述をすることで、申請がなされているとみなすことになっている。


たとえば、アメリカは方式主義の国だった。

しかし、万国著作権条約には加盟していたので、実際には国に申請は行わず、著作権表記を行うことで代替できた。

代替している以上、この表記は「申請」に当たるため、本文中では申請と書いた。


その後、アメリカでも申請は形骸化し、著作権表記をすればいいだけの、事実上の無方式主義になっていた。

そのため、1989年にやっと、方式主義ではなく「無方式主義」に移行できた。


1920年ごろから、無方式主義に移行するために少しづつ準備を進めてきたそうだから、気の長くなる話だ。

(1920年ごろに登録された著作物の申請が期限を迎えるまで待ったのではないかな、と思う)


これで、主要な国はほぼすべてが無方式主義に切り替わり、著作権行使に際し「申請」は不要となっている。



ただ、僕も今調べて初めて知ったのだけど、アメリカでは著作物に著作権があることを知らずに侵害してしまった場合、罪には問われない規定があるそうだ。

著作権表示がある場合は「知らなかった」とは言わせないことになっているので、今でも著作権表示することには意味がある。


その内容は以前ほどの厳密性を問われなくなっている。

とはいえ、本文中に書いたように、厳密に従っていたほうが法的に有利になるだろうと思う。



同じテーマの日記(最近の一覧)

その他

関連ページ

Copyright 表記について【日記 14/08/06】

別年同日の日記

11年 ブログパーツラッパー

14年 ジョン・モークリーの誕生日(1907)


申し訳ありませんが、現在意見投稿をできない状態にしています


戻る
トップページへ

-- share --

10001

-- follow --




- Reverse Link -