今日は、大川功さんの誕生日(1926)
セガの元会長、と説明するのが、一番手っ取り早いかと思います。
ドリームキャスト時代をご存知の方なら、氏の名前を付けたインターネットプロバイダ、isao.net も知っているかも。
まだコンピューターが一般的でない頃から「情報化社会」を予期し、起業した人です。
そして、コンピューターが子供の明るい未来を拓くと信じ、子供のコンピューター教育にも真剣に取り組んだ人。
大川氏は、1962年に IBM のパンチカードシステム (PCS) の講習を受けます。
パンチカードシステムというのは、コンピューターではない。
でも、情報をデータベース化し、ソートや検索、集計などを自由に行えるようにします。
この頃多くの人の認識では、PCS は「集計機」で、事務会計などをやってくれる機械、でした。
しかし、大川氏は情報処理の可能性を感じ取り、これを仕事にしようとします。
1968年、コンピューターサービス株式会社設立。
誰もやったことのない、全く新しい職種です。
従業員を集めるのにも苦労して、仕事内容を説明しても勘違いされたとか。
この時代はまだ大型コンピューターも高価な時代です。
コンピューターというのは、「電子計算機」ではなくて、「計算する人」を意味していた言葉。
PCSを事務に役立てるにしても、ノウハウが必要です。
最初はそうしたノウハウをサービスする会社でした。
もちろん、事務用コンピューターが一般化してからは、いち早くプログラムをサービスする会社に変わります。
富士通などと違い、個人向けには手を出さず、ビジネス分野の会社でした。
そのため一般の知名度は低いのですが、ソフトウェアの大手企業でした。
1980年、情報サービス業初の、株式公開。
さらに1982年に株式上場。
今なら上場企業になるのもそれほど難しくありませんが、当時は厳しい審査を受ける必要がありました。
それまでにはなかった職種なので、証券取引所に対して説明するのが大変だったようです。
しかし、財務状況などを改めて説明する中で、会社の中に足りないもの、無駄なものなどを再認識します。
コンピューターが安価になり、ホビー用途にも使われるようになった時代にも重なります。
これでさらに会社が成長。
1984年に、セガ・エンタープライゼスを傘下に収めます。大川氏は会長に。
これは、買収したというよりもセガ側から依頼された形。
さて、すみません。ここまで、ある程度記憶で書いています。
大川氏の著作の「予兆」は読んだのだけど、今探したら見当たらないので。
なので、このあたり後に本が見つかったら大幅修正するかと思います。
特に、CSKが初めて求人広告を出した時の「社長の十八番(オハコ)は クラブでゴーゴー!」の絵は是非見つけ出したいところ。
僕は「予兆」が発売になった時に、ちょうどセガに在籍していました。
ある朝会社に行ったら、全員の机の上に本が置いてあるのですね。
CSK って、会社名は知っていたのですが、それほど知名度もないし、技術力の低い会社だと思っていました。
というのも、大学の先輩で CSK に就職した人がいて、プログラマーのレベルが低すぎる、という話を聞いていたから。
FM-Towns のアフターバーナーとか CSK が作ったものですが、出来が悪かった。
先輩の話と、このアフターバーナーの出来を見て、CSK はちょっと馬鹿にしていた。
だから、会長が出した本を全員の机に置いてあるなんて言うのも、何やってんの? と冷めた目で見ていたわけですよ。
でも、せっかくだからちょっと読んでみることにした。
…考えが改まりました。
会社が大きいので、従業員全員の技術レベルが高いわけではないかもしれない。
(セガだって、比較的技術者のレベルが高かったとはいえ、低い人はたくさんいました)
でも、少なくとも大川氏の考え方は非常に先見の明があったし、偉い人だった。
「予兆」というタイトルも、この先見の明を表したもの。
しばらく後で、「『予兆』読んだ?」って職場のなかまにも聞きました。
誰一人読んでませんでした。やっぱ、会長が出した本を配布した、という行動を馬鹿にして、誰一人開いてもいなかったの。
さて、ここからは「予兆」が書かれた以降の話。
大川氏は個人資産も非常に多く、世界的な影響力もありました。
1995年、G7 の情報通信閣僚会議に、日本の民間代表として出席します。
この頃には、「子供の未来のために何ができるか」を真剣に考えていたみたい。
G7 の際に、大川氏の提唱がもとで、世界中の子供を集めて意見を聞く「ジュニアサミット」が東京で開催されます。
このときは1回限りで、大川氏が提唱しただけあって、ネットワーク技術の活用やデジタルディバイド問題などが話し合われました。
1998年に MIT で同様の会議が行われ、一応はこれが「第2回」と位置付けられたようです。
ただ、サミットというよりは長期間にわたり、世界中の子供の意見を聞く会になった模様。
139カ国から、3000名が参加したそうです。
その後、ジュニアサミットは 2005年~2009年に G8 サミットと同時開催されました。
このときの主催者はユニセフで、貧困や教育、性差別問題などが話し合われています。
2008年には北海道の洞爺湖でサミットが行われ、ジュニアサミットも支笏湖で行われています。
2015年から再びユニセフ主催の形で復活し、今年日本で行われる伊勢志摩サミットでもジュニアサミットが行われます。
大川氏が提唱し、日本で最初に行われたものが、再び日本に戻ってきた格好です。
1998年、個人資産から 35億円を MIT に寄贈。
MIT は子供のコンピューター教育を 1960年代から研究しています。
MIT は、この寄付金により 「未来の子供のための大川センター」を建造することにします。
完成したのは 2010年で、早速「子供にプログラムを教える」ための活動が積極的に展開され始めます。
この頃から、アメリカで「プログラム教育」が盛んになっていくのね。
もちろんそういう時代の流れでもあったのでしょうが、大川センターが時代の後押しはしたように思います。
日本では今年になって、プログラム教育を義務教育化しようという議論が起きているのですが、いまだに勘違いが拭いきれないままです。
日本人が「子供のために」と私財を提供してアメリカの子供が恩恵を受けているのだけど、日本では大人がその考え方を拒否している状態。
残念な気がします。
大川氏は、大川センターの完成を見ずに、2001年3月16日に亡くなっています。
その少し前に、業績の悪化したセガの社長に就任し、資産のほとんど、850億円をセガに寄付しています。
亡くなった時、CSK の名誉会長で、セガの会長兼社長でした。
その後、セガはサミーと合併、CSK も住商情報システム株式会社に吸収され、SCSK と社名変更になっています。
同じテーマの日記(最近の一覧)
関連ページ
セガ初期の歴史を調べてまとめてみた【日記 13/11/01】
別年同日の日記
申し訳ありませんが、現在意見投稿をできない状態にしています。 |