しばらく前に、プログラム教育に対する誤解、って内容で記事を書いた。
僕の立場としては、プログラム教育が広がってほしいと思っている。
だからその記事では、誤解を解くべく、前向きなことばかり書いた。
でもね、世の中いいことばかりじゃない。悪いこともある。
話の混乱を避けるためにいいことばかり書いたけど、いいことしかないような薄っぺらい概念なら、広まる必要なんてない。
2日ほど前に、ある新聞社のスクープで、内閣府がプログラム教育の小中学校への導入に前向きだ、という記事が報道された。
すると…やっぱり、前の記事で心配したような勘違い意見が相次いだ。
そういう勘違いはこの際ほおっておく。誤解を解いているので、前の記事を読んでくれ。
僕はプログラム教育が広がってほしいとは思っているのだけど、小中学校への導入に際しては懸念もあるのだ。
つまり、導入に対する悪い面だ。
今回はそのことを書きたいと思う。
まず、日本の学校教育制度のすばらしさについて書いておこう。
日本では、すべての子供が等しく学習の機会を得られるように配慮している。
田舎に住んでいるからと言って、都会の子に比べて質の低い教育しか受けられない、なんてことはない。
日本全国、どこだって均一な教育が受けられる。
これは素晴らしいことだ。
アメリカやロシアでも子供の教育には十分な配慮があるが、どうしても田舎の学校は都会の学校に比べて質が落ちてしまう。
もちろん、田舎であっても子供が教育を受ける権利は守られるよ。
ただ、都会には多くの人が住んでいるし、先生を志す人も多い。その中で特に優れた人が先生になる。
でも、田舎は人が少なくて、結果的に先生を志す人の絶対数も少なくなる。結果的に、都会に比べて優れた先生を確保しづらい。
日本では、多大な努力と予算によって、そのようなことが無いように配慮されている。
でも、裏を返すと「どんなに優れた先生がいても、田舎と足並みをそろえることを強要される」という意味でもある。
田舎で頑張って先生をしている方には申し訳ないのだけど、田舎の先生の質はどうしても低くなりがちだ。
この質を飛躍的に高めることは難しい。それよりは、質の高い先生に「足並みを揃えろ」と命ずる方が現実的だ。
教科書も、検定を通ったものしか使ってはならない。
その内容範囲を大きく逸脱する授業も許されない。
だからこそ、都会でも田舎でも同じ内容の授業が行われていることを保証できる。
飛びぬけて頭の良い子供がいたとしても、先生は逸脱した教育をすることが許されない。
今はまだ早い…それは授業では教えてない…と言うしかなくなる。
批判するつもりはない。そう望んだのは我々国民なのだから。
もしこれを批判するのであれば、生まれた地域による差別、教育格差を認めることになる。
そのような差別は絶対にあってはならない。
でも、これがプログラム教育と恐ろしく相性が悪い。
プログラム教育はアメリカで流行しているが、先に書いたようにアメリカでは田舎と都会で授業内容に差がある。
プログラム教育なんてやっているのは、都会の裕福層が通う学校が中心だ。
そもそも、アメリカには教科書検定もないし、現場での先生の裁量が、日本よりずっと認められている。
だからこそ、子供の能力を見極め、伸ばしてやることができる。
その子が好きなことに興味を持ったなら、どんどん上の段階を目指して構わない。
そして、プログラム教育が面白いのは、その子の興味に従ってプログラムを組んでいれば、必ず論理的な思考は身に付くし、もっと上を目指したくなるところなんだ。
子供の能力を伸ばす、というアメリカの教育方法となら相性が良い。
というか、アメリカの教育現場で考えられた教育方法なのだから、相性が良いのは当然だ。
プログラム教育に関しては、今の現場に教えられる人材がいるのか、なんてことも良く問題になる。
実際、教えられる人間は少ないだろう。しかしそれ以上に、教えようとしても禁じられる、という問題もあるように思う。
実はプログラム教育のようなことはすでに学校で起こっていて、理科の実験軽視なんかが、20年以上前から言われている。
現場の先生なんかに聞くと、決して軽視したいわけではないようだ。
でも、実験は準備から含めて時間がかかるし、学校のカリキュラムは詰め込まれていて、その時間を確保しづらい。
結果として、実験はやったという体で、「実験するとこうなる」と結果を教えて授業を進めるしかなくなる。
答えを予想して、実験によって確かめるのが理科の楽しみだと思う。
でも、すべての子に均質な授業を届ける、という日本の学校制度のひずみで、その一番の楽しみを奪ってしまう。
時々時間を確保して実験をしたとしても、慣れていないから「予想」ができない。
予想を聞かれているのに、正しい答えを出さないといけないと考え、教科書の先のページを盗み見てしまう。
つまりは、自分の知識を組み合わせて考える、ということをしない。
先に答えを知って実験をしても、わくわく感がない。
それどころか、実験の不手際や誤差によって想定される結果にならなかったとき、結果を捏造して正解に合わせようとさえする。
上手くいかないことも含めて実験を楽しめるといいのだけど、「失敗できない」緊張感の中で楽しめなかったりする。
本来、理科というのはもっと楽しめる遊びのはずなのだけど、教育制度のひずみの中で、その楽しみが奪われてしまっている。
結果として理科が嫌いな子は多い。
これと同じことが、プログラムでも起こってしまうのではないかという懸念はある。
…と、前回書いた「プログラム教育」の文脈で学校への導入の懸念を書いたのだけど、最初に書いたスクープ記事によれば、学校での導入はそういうことではないのね。
小学生だと、テキスト通りにプログラムをつくって「画面上の絵が動いた!」って喜ぶ程度、のようだ。
これだと、自分で工夫してみるとか、自分で気づくという余地がないので、学習効果は低いように思える。
まぁ、将来パソコンを使うための練習にはなるかな、という程度。
中学生だと、ホームページ作成など。
ホームページ作成はプログラムではない、という批判もあるようだけど、僕は十分プログラムだと思う。
あ、HTML 直書きが前提ね。
HTML はページ記述言語なのだから、思い通りのレイアウトを作り出そうと思えば「論理性」を学ぶ必要がある。
ただ、この場合はやっぱり「自由に」作らせないと論理性を考えるまで行かないので、学校教育でうまくいくかはわからない。
もっとも、まだ内閣府が方向性を示しただけで、具体的な方法論には至っていないようだ。
この内閣府の指針も問題で、プログラム教育によって子供の論理性を育てる、とかではなくて「優れたIT技術者の育成」を目標に掲げているのね。
以前書いたけど、プログラム教育は職業訓練ではない。
子供の論理性を養う、という目的が本来で、IT技術者を育成したいなら別の方法がある。
もっとも、パソコンに触れることで潜在的な適性を見出して、興味を持つ子が増えるのであれば、それは良いことだと思う。
良い判断材料もあって、今は一時期よりも現場の先生方の裁量が認められるようになっている。
すでに、一部の学校では、裁量の範囲で、実験的にプログラム教育も行っている。
今回の義務教育化も、そうした実験の「成功」を踏まえてのことだ。
すでに実験して、うまくいっているのだから、破滅的に悪いことにはならないだろう。
…僕は、そう楽観的に考えている。
こうした裁量を認めることは、「全国で同じ教育を」という理念に対立するものだ。
大抵は、都会の一部の学校の生徒だけが、良い教育を受けられることになるだろう。
でも僕は、それでいいんじゃないかと思っている。
最低限の質を確保することは重要だけど、出る杭を打ってみんなを同じ高さにする必要はない。
そして、良い教育を受けられて、良い社会的地位に立った人たちがいたら…自分は幸運だっただけだ、と振り返ってみてほしい。
たまたま手に入れられた良い地位を、幸運に恵まれなかった「だけ」の人達に還元する方法を考えて欲しい。
世の中はそれで十分回ると思うし、みんなが低い地位でいるよりも、ずっとうまくいくように思う。
追記 2016.4.20
ホームページ作成、は誤報だそうです。
報道でわかりやすくするつもりで「翻訳」したけど、本来は「コンテンツに関するプログラム」だったそうだ。
そして、教育が専門の方が解説しているのを読みました。
今回の「スクープ」は、次期教育指針に関するものだそうです。
次期教育指針としては、教師が「教える」教育から、生徒が自分で気づくことを重視する教育に転換しようとしているのだとか。
本文中ではアメリカでは、という形で書きましたけど、西洋ではこちらに転換しています。
(西洋でも昔は今の日本と似た教え方をしていた。日本はそれを明治期に導入した。
今の日本のやり方は、寺子屋制度や、戦後の改革などもあって独自のものだけど)
つまりは、プログラム教育の導入も、今までの制度のままだと「相性が悪い」のだけど、制度から改めようということのようです。
もちろん、急な改革だと先生方も、PTAの親御さんたちも意識を変えるのが難しいでしょう。
すぐにうまくいく、とは思いませんが、徐々に良い方向になっていけばよいと思います。
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