別にそれほど有名人ではないので、知らない人のほうが多い気がします。
セガの初代社長です。
初代、ってのがみそね。
以前にセガ初期の歴史書いたけど、創業者ではない。
というか、セガという会社は複数の会社が合併して出来上がっているので、どこが「創業」かはよくわからない。
ローゼン氏も、ローゼン・エンタープライズという会社の社長で、「セガ」という商標を使っていた会社と合併しました。
そして、社名が「セガ」となった時に、初代の社長となったのです。
ローゼンは、米空軍の軍人として朝鮮戦争に参加し、中国、韓国、そして沖縄に配属になっています。
沖縄配属中に、日本に「ローゼン・エンタープライズ」社を設立(1953)。
その後退役となり一度ニューヨークに戻りますが、すぐに日本を再訪しています。
ローゼンは、写真技術に詳しかったようです。
そして、占領下の日本がアメリカに比べて人件費が低いことに目をつけ、写真と芸術を組み合わせた商売を行うつもりでした。
ビジネスとしては単純で、「安い肖像画を提供する」ものでした。
絵描きを雇って肖像画を描いてもらえば、それなりの金額を支払わねばなりませんが、日本の安い人材を使えば、安く提供できます。
しかし、アメリカ人の肖像画を日本人が描くために、わざわざ旅費をかけていてはかえって高くなります。
そこで、アメリカで写真を撮影し、その写真を元に日本で肖像画を描こう、というのです。
これならば安い肖像画を作り出せます。
この頃、アメリカでは写真技術に革命が起きており、写真はそれまでよりもずっと安く撮影できるものになっていました。
安くなった「写真」そのもので商売することは難しいのですが、そこに肖像画という付加価値を付ければ儲けられるかもしれません。
しかし、日本を再訪したローゼンは、もっといい商売に気づきます。
米軍占領下の日本では、物資が困窮しており、米などの食料は配給制になっていました。
そして、その配給をもらうためには、本人を証明するカードが必要でした。このカードには、証明写真がつけられていました。
電車に頻繁に乗る人は、定期券のために証明写真が必要でした。
まだ職も少ないこの時期、就職するための履歴書にも証明写真が必要でした。
学校に通うものは、学生証のための証明写真が必要でした。
とにかく、証明写真の需要はたくさんあったのですが、先に書いた「アメリカでの写真革命」はまだ日本に入ってきていませんでした。
日本では、写真が必要であれば写真館で撮ってもらうのが普通でした。
そして、250円という当時では高いお金を払った上に、3日も待たないと写真が出来上がらないのです。
#うどん一杯20円、あんぱん1個10円の時代です。
彼は当初、アメリカで商売することを考え、そのための安い人材として日本を利用しようとしていました。
しかし、アメリカで安くなった技術が、日本ではまだ珍しいものであることに気づいたのです。
彼はビジネスプランを変更し、アメリカでの「写真革命」を、日本で提供する方法を考え始めます。
アメリカでの写真革命…Photomat は、今でいう「証明写真撮影機」のはしりです。
椅子に座って 25セントを入れると、4ポーズ・4枚の顔写真を撮影し、2~3分で現像済みの写真を出してくれます。
ローゼンは、これで撮影した写真を日本に送り、肖像画を描かせようとしていたのです。
#当時は固定相場で、1ドル=360円。25セントは 90円になります。
証明写真用としてこれを日本で展開すれば、確実に人気になる。
ローゼンはそう考えたのですが、1つ問題がありました。
Photomat で撮影した写真は、やがて色褪せはじめ、2年程度で消えてしまうのです。
とはいえ、たった 25セントで撮影した、ちょっとしたお遊び。
アメリカでは、2年で消えてしまうことを問題視する人はいませんでした。
しかし、日本で証明写真用とするには問題がありました。
食糧配給のための証明カードで自分を証明でき無くなれば、食糧が手に入らなくなることを意味します。
そんなもの、とても売れません。
退色問題は、現像工程の温度管理に問題がある、とわかりました。
写真現像は化学的な現象で、温度により反応速度が左右されるのです。
そこで、ローゼンは Photomat の古い機械を安く入手し、温度管理機構を付け加えます。
彼は、改良された機械を「Photorama」と名付けました。
そして、日本へ輸出・設置を行うのです(1954)。
ローゼン・エンタープライズは、Photorama を1回150~200円の値段設定で提供しました。
写真館よりも安く、2~3分後には写真が手に入ります。
当時は「2分写真」と呼ばれ、大人気となったようです。
設置個所もどんどん増え、1年で 100カ所以上になりました。
「2分写真」の人気の陰で、怒ったのは街の写真館です。
収入の柱であった、証明写真の需要をまるっきり取られてしまったのですから。
当時の日本は米軍の占領下にありましたが、法的にはアメリカ人も日本人も平等です。
しかし、Photorama はローゼンエンタープライズが開発し、ローゼンエンタープライズが販売する、独占商品でした。
写真館の人々は連名で、アメリカ領事館に対して抗議を行ったようです。
米軍占領下とはいえ、アメリカ人の独占商売を野放しにしておくのは、アメリカ人に対する優遇なのではないか。
当時、米軍は占領政策をとるとともに、日本人が米軍に対して不満を抱かないように苦慮していました。
この苦情は、すぐにローゼンエンタープライズに伝えられ、改善要求が出されます。
そこで、ローゼンエンタープライズでは、Photorama の機械を一般に販売することにしました。
これまでは、自社で設置を行ってきたのですが、今後は日本人に販売し、日本人が設置するのです。
これは、ローゼンエンタープライズの管理できる範囲を超えて、Photorama が普及することを意味しました。
自社設置の100カ所に加え、さらに100カ所に設置されたと言います。
ところで、Photorama を運用するには、印画紙や現像液などの消耗品を必要とします。
これらの消耗品は、ローゼンエンタープライズから購入する必要があります。
「直接商売」ではなくなったとしても、利益を上げ続ける構造があるのです。
いわゆる「フランチャイズ制」ですね。
米国ではすでに良くあるビジネス形態で、ローゼンもそれを元に考案したようです。
日本で展開されたフランチャイズ・ビジネスとしては、最初期のものでした。
#1954年の Photorama 提供から1年ほどでフランチャイズに移行したらしいのだけど、正確な時期は不明。
一般に、日本初のフランチャイズは、1956年にコカ・コーラ社が始めた、とされるのですが、ローゼンのほうが早かったようです。
フランチャイズ制とすることで、ローゼンには暇ができました。
後はほおっておいても利益が上がります。
彼はまた、アメリカでは珍しくもないが、日本にはまだあまりないものを見つけ出し、日本への輸入を始めます。(1957年ごろ)
…コインを入れると一定時間遊べるゲーム、いわゆる「アーケードゲーム」でした。
すでに、サービス・ゲームズ・ジャパンがスロットマシンを輸入していました。
太東貿易や、レメーヤー&スチュアートなど、ジュークボックスを輸入する企業もありました。
これらの「コインオペ機」は、アメリカでの人気が下火になりつつあったのを、安く買って日本で提供しています。
そして、アーケードゲームも同じく、アメリカで人気が落ちつつある産業でした。
スロットは、非合法な賭博として、酒場などで遊ばれていました。
ジュークボックスも酒場や、人の多く集まるところで提供されていました。
ローゼンがアーケードゲームを提供する場所として目を付けたのは、映画館の待合ロビーでした。
ジュークボックスではうるさすぎるけど、次の上映まで暇を持て余す人の多い場所です。
特に、東宝や松竹とは契約を結び、映画館のロビーに機械を置いていきます。
この戦略は大当たりでした。当時、映画は重要な娯楽で、映画館は日本全国にあったのです。
ローゼンは、証明写真機に続いて、アーケードゲーム市場を切り拓きました。
まだ誰も手を付けていない、ライバルのいない市場です。
でも、順調に商売できたのは2年ほどです。
すぐに太東貿易や、サービスゲームズ社が名称変更した日本娯楽機械が、アーケードゲームの輸入に乗り込んできます。
Photorama は、その後同種の機械を日本の企業も作り始め、激戦となります。
ローゼンは、1960年代の初頭にはこの商売から手を引いています。
そしてまた、アーケードゲームの競争は激化しつつありました。
戦後の何もない日本では、商売は楽でした。ライバルがいなかったからです。
しかし、日本が豊かになるとライバルが増え、商売は楽でなくなりました。
ローゼンは、自分の事業を売り払うことに決め、ライバルであった日本娯楽機械と交渉を持ちます。
その結果、ローゼン・エンタープライズと、日本娯楽機械は合併することになります。
新会社名は、セガ・エンタープライゼス(1965)。
日本娯楽機械は、前身である「サービスゲームズ」の時代から、頭文字をとった「セガ」ブランドを使っていました。
そこに、ローゼン・エンタープライズの名前を組み合わせたものです。
(エンタープライゼスは、エンタープライズの複数形。会社が合併したのだから)
社長には、ローゼンが就任します。
ここに、セガが誕生するわけです。
以降は、以前に書いたセガの歴史を読んでください。
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