今日は、ポール・アレンの誕生日(1953)
マイクロソフトの共同創業者です。
ビル・ゲイツとは、シアトルの名門校、レイクサイドスクールにともに通いました。
ビルが2歳年下。
2人はまるで違う性格でしたが、コンピューターに興味がある、という共通点がありました。
ポールは物静かで、注意深く物事を進めるタイプでしたが、ビルは常に周囲を「挑発」していて、思い付きで行動するタイプ。
ビルは負けず嫌いで、自分が何でもできるように周囲に思われたくて仕方がありません。
しかし、そのために何かをやり始めると、驚くような集中力を見せました。
しかし、そんなビルも、兄貴分であるポールのいうことには耳を傾けました。
ポールは人当たりもよく、様々な「仕事」を見つけてきます。
それらは金儲けであることを超えて、彼らにとって面白い「挑戦」でした。
詳細はビル・ゲイツの誕生日に書いた記事を読んでもらうことにして、ざっと書いていきましょう。
まず、彼らはレイクサイドスクールが時間借り契約していた PDP-10 を使いすぎて、年間の接続予算を使い切ってしまいます。
すると、無料で使えるバグを発見し、使い続けるのです。
これが発覚し、アクセス禁止措置を受けると、ポールは PDP-10 の提供会社に掛け合います。
バグを修正できるし、そのほかの PDP-10 のプログラムのバグを探す手伝いもできる。
だから、その仕事と引き換えに PDP-10 を使わせてほしい。
こうして、彼らは PDP-10 ハッキングを続けます。
数年後、ポールの発案で、「トラフ・オ・データ」社を設立します。
交通量調査を請け負う会社でした。
当時、交通量調査は人海戦術で集計されていました。
トラフ・オ・データは、コンピューターを利用することで、安価で正確、迅速な集計を行いました。
さらにその後、インテルが 8008 を発表。
彼らは、交通量自動測定機の作成を思いつきます。
しかし、この時点でまだ 8008 は発売されていません。スペックシートの公表だけです。
ポールは、スペックシートを元に、PDP-10 上で 8008 エミュレータを作ります。
そして、ビルがそのうえでプログラムを作ります。
もっとも、この機械は成功しませんでした。
交通量調査自体も、後に合衆国政府が無料で行うようになったため、トラフ・オ・データは廃業しています。
さらに数年後、インテルは 8080 を発売し、エド・ロバーツが「アルテア 8800」を発売します。
ポールはこれを商機ととらえ、PDP-10 の 8008 エミュレータを改造、8080 エミュレータを作り上げます。
そして、ビルがその上で BASIC を作り上げるのです。
エドに BASIC を売り込むために作った会社が、「マイクロソフト」社でした(1975)。
その後 IBM に BASIC と MS-DOS を供給するようになったのをきっかけに、マイクロソフトは急成長します(1981)。
#負けず嫌いなだけで小心者のビルと、慎重派のポールは、IBM 相手に、やったこともない OS 開発なんて請け負う気はなかった。
これを、ぜひやるべきだ、と説得して動かしたのは、西和彦。
その後ポールは、病気の治療のためにマイクロソフトを離脱(1983)。
これは誤診だったと後にわかり、マイクロソフトに復帰します(1990)。
最初に離脱した段階で、マイクロソフトはもう大企業の仲間入りをしていました。
創業者であるポールは、十分な富豪でした。
1986年には、慈善団体「ポール・G・アレン一族財団」を設立しています。
その後も各方面に寄付を行ったり、慈善事業を続けています。
また、ベンチャーキャピタルもやっています。
こちらは慈善事業ではなく、ベンチャー企業に出資し、成功すればきっちり回収する。
でもリスクも大きくて、やっぱり富豪でないとなかなかできないこと。
一方、趣味である「第2次世界大戦時の兵器」の収集にも力を入れています。
昨年…2015 年の 3月3日には、フィリピン沖で、日本軍の沈没した戦艦「武蔵」を発見しました。
8年前から、武蔵が沈んだあたりの捜索を続けていたそうです。
ポールはトレジャーハンターとして武蔵を探していたわけではなく、発見の権利を強くは主張しない、と表明しています。
戦死した乗員にも追悼の意を示し、今後の扱いは日本政府と協議するそうです。
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