今日は、トーマス・J・ワトソンの誕生日(1914)
IBMの2代目社長です。
ちなみに、初代社長は彼の父、トーマス・J・ワトソン。
わー、なんだそれ。子供に自分と同じ名前付けるな。
ややこしいので、一般に父親は「シニア」または「ワトソン」、子供は「ジュニア」または「トム」(トーマスの愛称)と呼ばれます。
(この文章、父親の話題を書いたときの使いまわし)
シニアは、汚い手を使っても商売を成長させる、やり手でした。
とはいえ、IBM 社長になってからは社員を大切にし、悪いことはしなかった。
ジュニアは…父の名前を継がされ、ゆくゆくは会社経営を引き継ぐ御曹司でした。
でも、そんなのは父が勝手にやったこと。
彼自身は後を継ぐのを嫌がり、反抗的で、無気力な学生時代を送っています。
成績は悪くて、遊び歩いてばかりで、酒におぼれる日々だったのね。
父親の意向でIBMに入社すると、周囲が「跡継ぎ」とみる傾向はさらに強まり、彼にとっては苦痛となります。
この頃第二次世界大戦がはじまり、陸軍でパイロットとしての腕を磨きます。
彼はとにかく、自分の道を見つけたかった。がむしゃらに訓練し、少将付きの副官となります。
当時の彼は、少将に気に入られることだけが喜び。上へのごますりばかりで、部下から反感を持たれたりもしました。
でも、彼は事態を収拾し、部下から認められるようになります。
人心を掌握することの難しさと、大切さ…この経験は、後に彼の役に立ちます。
やがて戦争は終結し、進路に悩む彼に、少将はIBMに戻るよう助言をします。
そして、彼は今度は自信をもってIBMに戻るのです。
IBMはこの時点ではまだ「ビジネス向けのサービス」を売る会社でした。
機械を売るのではなく、ビジネスへの助言なども含めた「サービス」全体を売るのね。
パンチカード集計機を、その複雑なセッティングを行うサービスマンと共にリースする、という商売です。
このサービスマンのことを「コンピューター」と呼びます。
複雑な計算処理をする人、という意味の英語です。
IBMは非常に多くのコンピューターを抱え、この人材を大切にすることは、シニアの重要な経営哲学でした。
世の中には電子計算機が作られ始めていました。これらも「コンピューター」と呼ばれます。
しかし、それらは「計算機」にすぎず、IBMの抱える「コンピューター」のように、ビジネスで利益を出すための方策を考えてはくれません。
IBMは、ビジネス向けサービスを売る会社でしたから、自動化された「コンピューター」に手を出そうとはしませんでした。
何よりも、労働組合がそれを許さず、人材を大切にしたいシニアも手を出さなかったのです。
事実上「コンピューター」である SSEC が、IBM公式には「計算機に過ぎない」のも、そのためです。
ところが、UNIVAC 社が世界初のコンピューターの販売を開始すると、パンチカード集計機のサービスは解約・返品が相次ぎます。
ちょうどそのころ、ジュニアは2代目社長の座に就きます。
ジュニアが2代目を継いでも、まだシニアは健在でした。
人材を大切にしろ、という厳命が残されていました。
しかし、ジュニアはコンピューターの開発に乗り出します。
もちろん、労働組合が黙ってはいません。
機械としての「コンピューター」が導入されたら、人材の「コンピューター」は解雇されてしまうかもしれません。
しかし、彼は具体的な案を示して説得します。
今までは、「コンピューター」の仕事は、パンチカード処理機のリース先の企業に赴いて、その企業で必要な計算を行うことでした。
データを収集し、処理するための手順を考案し、機械にその手順を設定し、パンチカードを処理するのです。
機械としての「コンピューター」は、非常に高価なので、パンチカードのように多くの企業が導入することができません。
数カ所の計算センターに置かれ、使われることになるでしょう。
企業からはパンチカード集計機が消え、計算センターに処理を頼むことになります。
この点だけを見ると、IBMは解雇を行う、と思えるかもしれません。
しかし、相変わらず機械の扱いは複雑で、手順の設定はパンチカード以上に複雑になります。
今後のIBMの主要業務は、この複雑な手順を設計し、多くのお客様に、満足する計算結果を届けることになります。
この複雑な手順の設計には、今までパンチカード処理機を扱ってきた「コンピューター」の能力が必要です。
そのためにも、解雇は行わない。業務内容は多少変わるが、IBMは今後も彼らの能力を必要としています。
最終的に、労働組合は納得しました。
そして、IBM 701 (1952) …IBM最初のコンピューターが作られることになります。
IBM 701 は、非常に高価な計算機でした。
たとえ計算力があっても、これほど高価なものは売れないだろう…シニアはそう考えていたようです。
開発開始前、需要は5台、と見積もられ、リース料金などはそれに合わせて金額設定がなされました。
しかし、実際に発売してみると18台の注文が入ります。
最終的には、もう一台追加して19台が販売されました。
IBM 701 は、別名「国防計算機」と呼ばれています。
購入した顧客の多くが、軍を中心とする政府機関だったためです。
発売となった 1952年は、朝鮮戦争の最中でした。
そのため、軍は膨大な計算力を必要としていたのです。
5台売れれば儲けが出るつもりで値段設定したら、19台も売れた。
IBMにとってうれしい誤算でした。
これにより、IBMはさらにコンピューターを作るための資金を手にします。
この後も軍はIBMにとって良い「お客様」でした。
Whirlwind I を軍用に改良した SAGE (1958) も、IBM によって量産されています。
SAGE は、たった1台のコンピューターのために、4階建てのビルを建てる必要がありました。
もちろん非常に高価なのですが、軍はこれを数十カ所に建設したのです。
もちろん、IBMは莫大な利益を手にし、その資金を元に地位を固めていくのです。
シニアは、IBM以前にはずいぶん卑怯な手を使って商売を大きくしています。
ジュニアにもその血が受け継がれていました。
IBMは UNIVAC とライバル関係にありましたし、他の企業も続々とコンピューター業界に参入してきました。
新しい企業は、魅力的な新製品を大々的に発表します。
まだIBMが今ほどコンピューター業界の巨人ではない頃の話です。IBMは何度もピンチを迎えます。
そのたびに、ジュニアは「魅力的な新製品が開発中で、もうすぐお目見えする」ことを発表しました。
たとえ、そんなものは開発していなかったとしても、です。
現在のIBMの機械よりも魅力的なライバル社のマシン…そこに、IBM はそれ以上の魅力のものを約束するのです。
IBMの機械はリース契約でしたから、いつ契約を打ち切ってライバル社に乗り換えてもかまいませんでした。
しかし、リース契約である、ということは、新マシンが発売されたらアップグレードも可能である、という事でもあります。
わざわざライバル社に乗り換えて、契約変更の面倒をかける理由は無くなります。
もちろん、約束したマシンはちゃんと開発します。
IBMにはそれだけの開発力がありました。
そして、決定版ともいえる IBM System/360 の開発(1965)。
ジュニアが社長の時代の、最大のヒット商品です。
すぐ上に書いたように、当時のコンピューターは「ビジネス向け」「科学計算向け」など、用途に応じて設計が違っているのが普通でした。
しかし、System/360 は、360という名前が示す通り「全方位」に向いているマシンでした。
どんな用途にも使えるような、贅沢な構成になっていたのです。
今となってはあまり言われませんが、昔はコンピューターの種類を示して「大型汎用機」という言葉が使われました。
この「汎用機」という概念は、System/360 のために作られたものでした。
これが大ヒットし、IBMはコンピューター業界で、確固とした地位を築き上げます。
1970年、ジュニアは心臓発作を起こします。
大事には至りませんでしたが、これで体力的な限界を感じ、翌 1971年に社長を引退します。
その後は政治の世界で活躍し、1993年に79歳で亡くなっています。
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