今日は、NECの創業日(1899)。
創業したの、19世紀ですよ。ギリギリだけど。
コンピューター企業として有名だけど、もちろん当時はコンピューターなんてありません。
IBMだって20世紀になってから創業した会社(1911)。
まぁ、日本にはテレビゲーム会社なのに 1889年創業、という任天堂もいるのですが。
#アメリカにだって、エジソン電気照明会社(1878)を母体とするGE(ゼネラルエレクトリック社)があるけど。
日本は1856年に日米修好通商条約を締結し、1859年に横浜・長崎を開港します。
鎖国政策の事実上の終了でした。
とはいえ、まだ外国人の行動は制約され、居留地から外に出るには特別な許可を必要としました。
歴史の授業でよく出てくる話ですが、この頃の日本と外国の立場は「不平等条約」です。
外国と「条約」を結ぶのに慣れていない日本が、一方的に騙されて不利な条約を結んでしまった。
1894年には、イギリスとの間に日英通商航海条約が締結されます。
不平等条約の中心であった領事裁判権(外国人が事件を起こした際、その国の領事が裁く。当然、外国人に有利な判決が出た)を撤廃するのと引き換えに、居留地以外に居住し、自由に活動することが認められます。
但し、この条約は、締結から発効までに5年の猶予期間がありました。
イギリスとの条約締結を皮切りに、他の諸外国とも同様の条約が締結されます。
米国のウェスタン・エレクトリック(多数の合併を経て、現在、フランスのアルカテル・ルーセンス社)は、日本で外国人の活動が自由化されるのを見越して、日本に会社を設立しようとしていました。
支社ではなく、日本の会社との合弁会社が希望でした。
まだ当時日本で電気事業を行っている会社は少なく、沖電気工場(現在の沖電気工業)が有力な合弁先でした。
岩垂邦彦が代理人となって交渉を行いますが、結局条件が折り合いません。
そこで、岩垂邦彦自身が会社を興し、その会社を提携先としてウェスタン・エレクトリックの合弁企業を設立します。日本初の、合弁会社の設立でした。
会社名は、「日本電気」。Nippon Electric Company (NEC) です。
設立は、外国人の自由な活動を認める条約が発効した、1899年の、7月17日でした。
当初は、電話交換機などの通信機器の製造を行います。
日本電気はやがて住友財閥に経営委託され、第二次世界大戦でウェスタン・エレクトリックとの関係が続けられなくなると、「住友通信工業」となります(1943~1945の期間のみ)。
#NEC の歴史もコンピューター企業としては古いほうなのだけど、住友も非常に古い。
1590年に銅の精錬技術を開発したことから住友財閥(戦後は財閥解体され、現在は住友グループ)が興っている。
400年以上というのは、財閥として世界最古だそうだ。
#ちなみに、話に関係ないけど世界最古の会社は、大阪にある、寺社仏閣建築の「金剛組」。
578年創業で、創業から 1400年以上になる。
戦後再び「日本電気」として活動を開始すると、NEAC コンピューターの開発を始めます。
(これ以前にもアナログコンピューターを開発していたらしい。詳細不明)
NEC は、元々電話交換機を主軸とした会社でした。
電話交換機は、多数の回線を、自由自在に、「電話番号」という信号に従って瞬時に接続する必要があります。
これは、多数の計算回路を、自由自在に、「命令」という信号によって接続するコンピューター技術と、ほぼ同じものなのです。
電話交換機というのは、「多数の電気回路を、自由自在につなぎ変える」必要があり、コンピューター技術と非常に近い位置にある技術です。
1977年には「コンピューターと通信の融合」という、C&Cを会社のスローガンとします。
これまでは、「電話交換機の会社」のイメージが強かったのですが、ここからNECはコンピューター会社として成長していきます。
この頃の主力機種は、ACOS シリーズ。
GEのコンピューター部門(後にハネウェルと合併し、現在は Bull)の作った GCOS シリーズを元に作成したものです。
NEC は「オフィスコンピューター」(オフコン)も販売していました。
ACOS は汎用機にもオフコンにも使用されていますが、やがてオフコン用はより知識がなくても使用できる独自 OS になっていきます。
私事で恐縮ですが、1978年発売のシステム100/80 をうちの父の会社で導入していました。
NEC が初めて「8インチ標準フロッピーディスク」を採用した機種の一つで、「大容量固定磁気ディスク」もついていました。たしか8メガバイトではなかったかな。
リース終了後に買い取ったのを自宅に持って帰ってきたので、1990年ごろに使ってみた記憶があります。
お世辞にも使いやすいとは言えなかった…(12年前の技術なのだから、少し割り引いてあげないといけないとは思いますが)
さて、コンピューターでNECの話なら、当然出さなくてはならない話。
1976年に、半導体事業部が TK-80 を発売します。
半導体事業部、ですからね。パソコンとして作ったつもりじゃない。
それまであまり知られていなかった「CPU」という新しい LSI を、どのように使うか技術者に知ってもらうための、トレーニングキットでした。
でも、これが大ヒット。
コンピューターに興味を持っていた人たちにまで広く普及しました。
しかし、あくまでも半導体のトレーニング用です。自分で半田付けをする必要がありましたし、完成したってプログラムを機械語で直接入力しなくてはならない。
普通の人が使えるようなものではありません。
そこで、別売り拡張キットとして、TK-80 BS が作られます。
このキットを追加すると、キーボードがついてベーシックが使えるようになりました。
しかし、元々パソコンとして使う予定ではなかった製品では、対応に限界があります。
ちゃんとしたパソコンを作ろう、と、半導体事業部が頑張って作ったのが PC-8001(1979)。
しかし、NECには先に書いたように、オフコンや汎用機を扱うコンピューター事業部があります。
半導体事業部からコンピューターを出すことには問題がありました。
そこで、PC-8001 は、子会社の新日本電気が生産し、NECが販売することになりました。
新日本電気は、主に家電の製造販売を行っている会社でした。
形の上では、NECは「販売だけ」で、コンピューター事業部以外ではコンピューターを扱いません。玉虫色の解決策でした。
驚いたのは子会社の新日本電気。
実は、TK-80 のヒットを見て、自社製品として安価で TK-80 よりも性能の良い機械を設計していたのです。
PC-8001 とほぼ同じ構成でした。
当初は搭載する BASIC を互換品にし、PC-8001 互換として売り出すつもりでした。
しかし、PC-8001 互換でより安いのであれば、PC-8001 の存在意義が無くなります。
親会社のNECとも何度も交渉が行われ、性能を落とし、家庭用としてテレビ出力などを備え、プログラムの交換をしやすくするため ROM カートリッジなどを備えた、PC-6001(1981) として販売されます。
こちらは、新日本電気の製造・販売で、家電品ルートに乗せられました。
半導体部門は相変わらずコンピューターの設計を続けていて、PC-8001 はやがて PC-8801(1981) に進化します。
そして、当初危惧した通り、コンピューター事業部の市場に食い込み始めました。
そこで、コンピューター事業部でも PC-8801 の互換機が作成されました。
ただし、PC-6001 が「設計変更を命じられ、非互換になった」のを見ていたので、極秘裏にプロジェクトが進みます。
コンピューター事業部の威信をかけたものだったので、16bit になりました。
当初はベーシックをマイクロソフトに頼んだのですが、マイクロソフトは 16bit のベーシックは「統一ベーシックにする」構想を持っていたため、断られます。
そこで、オリジナルの互換ベーシックを開発しました。
これが、PC-9801(1982)です。
シリーズは、後に「国民機」と呼ばれるほどに普及しました。
増えすぎたパソコン事業に対し、NECは「8bit は家電品として、新日本電気が扱い、16bit はビジネス用としてコンピューター事業部が扱う」という切り分けを行います。
これにより、ブームを作り出した半導体部門は作るものを失ってしまいます。
でも…もう一つの道が残っていました。
8bit でも、ビジネス用でもない「16bit の個人用コンピューター」を作るのです。
こうして生み出されたのが PC-100(1983)。
当初計画では、マウスでグラフィックを操ることで操作するOSを搭載する予定でした。
…が、依頼されたマイクロソフトで開発が難航し、納期に間に合いません。
本来は Windows 1.0 が搭載される予定でしたが、急遽普通の MS-DOS マシンとして発売されます。
PC-100 は、グラフィック高速化の仕組みなどが搭載されていて、非常に高価なマシンでした。
しかし、できることは PC-9801 と同じ、MS-DOS マシンとして発売されたのです。
シリーズは続かず、すぐに終わった不遇の機種でもあります。
他に、PC-6001 の上位互換期である、PC-6601 シリーズもあります。
PC-8001 もそうですが、上位互換期が登場しても、廉価機種としてシリーズが続く、というのが悩ましい。
PC-6001、PC-6601、PC-8001、PC-8801、PC-9801 。
NEC では、主にこの5つのシリーズが展開され、1980年代中期には「月刊NEC」とすら言われるようになります。
大体、半年ごとにマイナーチェンジした新モデルを出すんですね。
5機種あるから、それだけでも本当に、ほぼ月刊ペースになる。
そこに加えて、PC-100 とか、PC-8201 とかの「非互換機」もでる。
選択肢が多いのは良いことなのですが、いつ買ってもすぐ新機種が出て自分の愛機が古く見えてしまう、というのは悩ましいものでもありました。
#1990 年代に入ると、PC-6001などが無くなる代わりに、PC-H98 や PC-9821 など、別のシリーズが増える。
PC-8001 は、マイクロソフトのBASICを採用しました。
これ、国内では最初の MS-BASIC 。
以降、MS-BASIC が大きなシェアを持ちます。
PC-9801 では独自 BASIC を使ったけど、あまりにも互換性が高かったために著作権違反の可能性が指摘され、MS にライセンス料を払っている。
PC-8801 の時代、OSというのは特に存在しませんでした。
ディスクがあっても、フォーマットはアプリごとにバラバラ。
PC-9801 になっても、その時代に倣ってOSなんて存在しない、という状態がしばらく続く。
実はアメリカでも似たような状況でした。
IBM PC は PC-DOS(MS-DOSのOEM)が標準 OS でしたが、独自OSを使うようなソフトも多数。
だって、独自フォーマットにしないと簡単にプログラムをコピーされちゃうじゃん。
西和彦が思い切って「MS-DOS のOS部分だけなら無料で配布してよい」とソフト会社に持ちかけたことから、MS-DOS が急に標準OSとなっていきます。
実は PC-9801 がきっかけ。
すでに書いた通り、Windows も元々は PC-100 のために予定されたものでした。
マイクロソフトが躍進した裏には、たびたびNECとの関係があります。
だから、ビル・ゲイツはNECに特別の親近感を持ってくれていた。
1998 年の「Windows 98」の発売の際は、NEC の PC98-NX で Windows 98 を動かそう、というキャンペーン、「98で98」をやってくれた。
もっとも、PC98-NX は PC-9801 の互換機ではなく、名前だけを引き継いだ PC/AT 互換機。
(実は、PC/AT 互換機としても完全互換ではない)
今ではパソコン事業はすっかり縮小してしまった感じですが、汎用機・スーパーコンピューターではまだすごいです。
地球シミュレータとか、NEC製だからね。
そもそも、アメリカ以外の国が作ったスーパーコンピューターが世界最速になったのは、NECのSX-2が最初。
SX-2の設計者の一人が、後にV60設計の一人で…という話題は、過去に書いたので、興味ある方はそちらを読んでください。
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