今日は IBM 産業スパイ事件の発覚した日(1982)。
日本のコンピューター業界を震撼させた事件でした。
今となっては日立と三菱がスパイをやった、という程度の、企業が行き過ぎただけの話だと思われているけど、これ「国策」の一環が暴走したのです。
日本のコンピューター開発は…どこまででも遡れますが、FACOM 100 の話から始めましょう。
富士通の池田敏雄が設計し、1954年に完成したコンピューターで、リレー式でした。
名前は似ていますが別会社の富士写真フィルムは、1956年に FUJIC を完成します。
これが、日本で最初の真空管式コンピューターでした。
技術者であった岡崎文次が、レンズの設計のために独自で開発したもので、会社としての関与はありません。
IBM の SSEC の影響を受けています。
1959年には、東京大学が中心となり、東芝・日立が協力し、TAC が完成します。
実は、FUJIC よりも先に開発が開始された、国の予算をつぎ込んだ国家プロジェクトでしたが、目標が野心的過ぎ難航、何度も設計変更を繰り返しています。
その影響もあり、完成した時にはすでに時代遅れでした。
こちらは EDSAC の影響を受けています。
1964年には、通産省の予算で富士通・沖電気・日本電気が共同で FONTAC を作成。
この頃から、各社が「コンピューターの作り方」を理解し、独自開発を開始します。
日立の HITAC、富士通の FACOM、日本電気の NEAC、東芝の TOSBAC 、三菱の MELCOM、沖電気の OKIMINTAC…
通産省は、この状況に危機感を持ちます。
コンピューターは、これから確実に産業の中心となる、というのは誰の目にも明らかでした。
1970年代初頭、IBMが巨大メーカーに成長しつつありました。
日本国内だけで6社も互換性のないコンピューターが乱立していては、これらの大企業に潰されてしまいます。
そこで、通産省では、「国内で、IBMに対抗できるコンピューターを育てる」ための対策を行います。
方法は3つ。
1) IBMと技術提携を行わない、IBM互換機路線
2) IBMに対抗できる大企業の互換機路線
3) 日本独自路線
2 の大企業とは、事実上ハネウェル社です。
1960年代、アメリカには8つのコンピューターメーカーがあり、「IBM と7人の小人」と呼ばれていました。
ハネウェルはその一つでありながら、1970年に MULTICS の技術を持つGE社と合併し、力を伸ばしていました。
通産省の指導の元、国内の各社は上のいずれかの道を選び、提携することが求められました。
まず、富士通と日立はすでにIBM互換機を作成していたため、互換路線を選びました。
日本電気はすでにハネウェルと提携していました。
東芝も、すでにGEと提携していましたが、GEがハネウェルに吸収合併されました。
そこで、日本電気と東芝も提携し、ハネウェル互換路線を選びます。
三菱・沖電気は「取り残された」形で提携し、独自路線を歩むことになりました。
さて、時間を一気に進め、産業スパイ事件の話へ。
富士通と日立は提携し、技術的な交流は図りつつもお互い独自に、IBM System/370 の互換機を作成していました。
これ、互換性を持つ機械を独自技術で作成している、という形で、IBM との技術提携はありません。
ただし、IBM で System/360 (370の旧世代機)を設計した技術者で、後に独立したジーン・アムダールの会社と富士通は提携し、技術的ノウハウを得ていました。
1981年、IBM はこうした「互換機」が世界中で増えていたため、設計を一部変更して、性能を上げるとともに互換機を作りにくくした、System/370-XA を発表します。
日立はこの「設計変更」の詳細を入手しようとして、IBM のおとり捜査に引っかかり、1982年の今日、社員5名が逮捕されます。
#この時、日立社員5人と共に、三菱社員1名も逮捕されています。
三菱は当初は「独自路線」グループでしたが、この頃には余りに強くなった IBM の互換機を作ろうとしていました。
この刑事事件は、司法取引により決着。しかし、IBM から、民事損害賠償訴訟を起こされます。
System/370-XA は、各種回路が特許で守られていたうえ、それまでは後から読み込まれるソフトウェアであった「OS」の一部を、ハードウェア内に持つようになっていました。
(現在でいう、BIOS に相当するもの)
System/360 や 370 の頃は、同等の機能の回路で置き換えも可能でしたが、370-XA の特許は強力で、簡単には回避できません。
また、BIOS に関しては単純な回路ではなく、プログラム…著作物です。
著作権の場合「類似したもの」を作ったとしても、盗作としてアウトです。
#少なくとも、この時点では IBM はそのような認識で動いていた。
ずっと後に、IBM・コンパックが BIOS の著作権を争い、現在は違う認識となっている。
結局、日立は IBM の許可を得ずに機械を販売しないこと、訴訟費用は全部日立が負担すること、ソフトウェアやインターフェイスなどに関して、使用する対価を払うこと…などを条件に和解します。
日立からすれば、IBM 互換路線に「お墨付き」を貰った格好で、この後も互換路線を進みます。
富士通も日立の訴訟に危機感を持ち、同様の取引を結びますが、徐々に IBM 互換路線から非互換路線にシフト。
いずれにしても、通産省の狙った「独自技術による互換」という路線は無くなってしまったことになります。
この頃は、IBM が強くなりすぎてハネウェル社もコンピューターから事実上の撤退。
特に、吸収合併したGEの互換機は消滅し、GE互換だった東芝も撤退、同じグループだった日本電気にコンピューター部門を売却しています。
独自路線だった三菱・沖も、先に書いたように三菱がIBM互換路線に進もうとして、スパイ事件に発展。
沖電気は、コンピューター本体は断念して、周辺機器製造に特化しています。
国策だった3グループ化は大失敗。日本のコンピューター産業は死んでしまう…。
「IBM産業スパイ事件」とは、そうした危機的な状況を意味する事件だったのです。
翌1983年、日本電気がスーパーコンピューターの新シリーズ、SX-2 を発表します。
(シリーズ最初の機種が 2 で、後に廉価版の 1 を発売)
この SX-2 は、世界で初めて GFLOPS を超えたコンピューターで、同時に初めてアメリカ以外のコンピューターが速度で世界一になった機械でした。
日本のコンピューター産業復活の狼煙、でした。
…この後、急に力を付ける日本のコンピューター業界にアメリカが危機感を感じ、1980年代後半から90年代前半の貿易摩擦につながっていきます。
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