目次
01日 ハロルド・コーエンの誕生日(1928)
01日 BASIC言語 初稼働日(1964)
05日 3度、理科ハウスへ
05日 家のメンテナンス
05日 マイコンインフィニットPRO68K
07日 エドウィン・ハーバード・ランド 誕生日(1909)
08日 八景島シーパラダイス 開業日(1993)
11日 コンピューターが、チェスの世界チャンピオンに勝った日(1997)
11日 くじ引きの確率
12日 世界初の「プログラム可能な機械」発表(1941)
14日 ジョージ・ルーカス 誕生日(1944)
14日 ルーカスの作ったもう一つの会社
17日 JAMSTEC一般公開日
21日 68000はグラフィックに強かったのか
29日 8bit 時代のグラフィック
今日は、ハロルド・コーエンの誕生日(1928)
この人よりも、この人が作ったプログラムの方が有名でしょう。
アーロン。コンピューター画家として知られ、「創造的な」人工知能だと言われます。
もっとも、コーエンはアーロンに創造性があるなんて、ちっとも認めてません。
見た人が勝手にそういっているだけ。
コーエン自身も画家なのですが、何が人間の創造性を左右しているのか、その限界を見極めようとしたところに彼の独自性がありました。
アンディ・ウォーホルやロイ・リキテンスタインは、およそ「芸術としての創造性」なんて感じられない、広告ポスターや漫画雑誌を主題とした作品を、芸術作品として作っていました。
ピエト・モンドリアンはもっと前の時代の人ですが、キャンバスをただ直線で区切って色を塗っただけで、創造性を感じさせました。
コーエンも、おそらくはここら辺の作品に影響を受けているのでしょう。
「無作為に描かれた線」による作品群を作り、有名になります。
無作為…って、芸術の大切なテーマの一つなのですが、その無作為をどう作り出すかが問題。
彼は、紙をくしゃくしゃに丸め、それを再び伸ばし、しわの上に線を引いていきました。
他のしわと交わる交点では、あらかじめ決めたルールに従い、線が進む方向が決まります。
とにかく、ルールだけがあり、後は一切が偶然。
コーエンの意思はルール決定においてのみ入っており、芸術作品には意思が入り込まない。
それを「創造性」と呼べるかどうか…これが彼の作品のテーマでした。
当初は線画だけでしたが、後にはこれを拡張し、色を塗ったりもしています。
もちろん、色を塗る際もあらかじめ決めたルールに従って塗っているだけです。
彼は、このルールを決める作業を「初めてのプログラムだった」と語っています。
あらかじめ、起こり得る現象に対して、網羅的に対応できるルールを決めておく。
そして、偶然を元にルールを適用し、完成作品を見る。
彼は、さらに作品が「彼の考える、良いもの」になるようにルールに手を加えます。
この繰り返しで、作品自体は偶然性に支配されながらも、彼が思うような絵が描かれるようにルールを整えるのです。
この作業は、当然のように「機械化」の方向に進みます。
1971年、データ・ジェネラル社の後援を受けて、彼はコンピューターに絵を描かせるプログラムを展示します。
…プログラム自体には、1~2年かかったそうです。コーエン自身がプログラムを行いました。
この時の絵は、非常に単純な抽象画です。しわくちゃの紙をなぞる代わりに、ランダムを元に線を引いていきます。
当時のコンピューターにはまだ高精細なディスプレイはありませんから、ペンを持ったロボット自動車…LOGO の「タートル」に相当するものが絵を描きます。
#タートルは「かわいすぎて、みんなが絵ではなく、タートルの動きに注目してしまう」という理由で、後にプロッタプリンタに変更されます。
さらに翌年には、こうして描かれた絵の展示会を行います。
多くの絵が飾られ、その中には、絵を描くマシン自体の展示もありました。
マシンは少しづつ絵を描き進め、会期の終わりごろには見事な抽象画が完成しました。
この「機械」も含め、コーエンの芸術作品なのです。
絵を描く機械を見た人々は…この機械に「知性」を感じました。
左側でしばらく絵を描いていたかと思うと、急に右の方にペンを動かし、そちらでも何かを描き始めます。
これを見た人たちは「左に何かを描いたから、右にも描き入れて全体バランスを取っているのだろう」と話をします。
でも、コーエンによれば「単に、描くスペースが無くなったので中断して、別のところにスペースを見つけただけ」なのだそうです。
コーエンは、何も考えずに動くだけの機械を見る人々が、「機械が考えている」と想像する現象を、興味深く感じました。
そして、プログラムによって絵を描く機械に、大きな魅力を感じ始めます。
彼は、「プログラムが、絵を描くよりも楽しくなってきた」のだそうです。
1973年、コーエンは、妻と旅行中に、洞窟の岩肌に描かれた、原始時代の壁画を見ます。
これは、彼にインスピレーションを与えました。
そして、彼はアーロンを作りはじめます。
非常に単純な、原始時代の洞窟壁画のような絵を描く、コンピュータープログラムです。
アーロンは、とにかく「閉鎖空間」を描こうとします。ゆがんだ楕円だったり、ジャガイモのような形だったり。
描いている最中に他の絵とぶつかりそうであれば、線を曲げて、絵が重ならないようにします。
そして、時にはこの閉鎖空間から線を伸ばします。
その線は足のようにもみえ、まるで原始人が狩猟対象の動物を描いた、洞窟壁画のようでした。
この、「動物らしく見えるもの」からスタートして、コーエンはアーロンに様々な規則を教え始めます。
同じ閉鎖空間でも、描き方によっては雲にも、太陽にも見えます。
そして、次の大きな段階へ。
コーエンは、アーロンに、動物に「骨格」があることを教えました。
棒を繋げるような形で、胴体と4本の脚、首と頭、尾が繋がっていることを教えたのです。
この時点では、アーロンが知っているのは、棒状に体が繋がっていることだけでした。
棒同士は、接続箇所の角度を変えられます。でも、この角度も「可動範囲」があり、あり得ない形状にはなりません。
アーロンは棒を描くのではなく、その周りに適切に「肉付け」された形状を描きます。
ただ、この肉付けの際のパラメーターは、アーロンがランダムに生成します。
これにより、「洞窟壁画らしさ」が増しました。
コーエンはさらに、人間の形状を、木の形状を、部屋の構造を教え、遠近法や、重なった際の印面処理などをアーロンに教えます。
形状も、当初は2Dで表現していましたが、3D形状を透視変換して2Dに出来ることを教えました。
そこまで行くと、ただの3Dモデルを動かして、レンダリングするだけのプログラムになりそうです。
しかし、アーロンは3Dモデルを動かし、それを参考にして、その形状を「デッサン」するように線を描くのです。
参考にしかしていないので、なんとなく人間の形になったとしても、やはり線はいびつで、ただの3Dレンダリングとは異なります。
なにか、芸術としての肖像画の側面を持っているのです。
アーロンは創造性を持っているのか?
コーエンは、この問いにきっぱりと「持っていない」と答えています。
アーロンが創造的に見えるのは、アーロンが描いているところを見る我々が、アーロンに人間的な何かを感じてしまうためです。
実際には、その内部ではランダムを生成し続けているだけで、何も考えてはいません。
ただ、アーロンはコーエンの考える「芸術性」を教え込まれています。
アーロンが創造的ではなくとも、コーエンは創造的で、アーロンはコーエンを真似しているのです。
以前は、人工知能の研究者で、コーエンの支援も行っているレイ・カーツワイルが、アーロンの「Windows 移植版」を有償で配布していました。
しかし、今探したところ、配布は辞めてしまったようです。
ずっと Windows 95 用のままだったからね。64bit 時代になって動かなくなったのかも。
そんな、アーロンの描いた作品は、芸術作品として認められ、高値で取引されています。
これももちろん、アーロンを道具としてコーエンが描いた作品、としての価値があるためです。
実のところ、アーロンが描いた絵は沢山あって、販売されているのは「コーエンが認めた」作品だけです。
この時点で、高値で取引される理由はちゃんとあるんですけどね。
先に書いたソフトを入手したとしても、それで描かれた絵が全部高価な価値がある、というわけではないのです。
機械は知性を持ちうるか否か?
これは17世紀から続く、哲学の大きなテーマです。
時代的に「機械」がコンピューターに変わり、チューリングがチューリングテストを提唱したことで、「人工知能」は「対話可能であること」が重視されるようになりました。
しかし、コーエンはそれとはまた違った方法で、アーロンという「画家の人工知能」を作り上げました。
多くの人が、アーロンが絵を描いているのを見て「考えている」と感じるようです。
対話は行っていませんが、多くの人が知性を感じれば、それは知性があるにほかならない。
コーエンは、アーロンは「多くの人に考えていると感じさせることで、チューリングテストには合格している」と言っています。
事実、2000年ごろには、米国人工知能教会の会長も「現時点での最高水準の人工知能」のひとつとしてアーロンを挙げています。
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今日は、BASIC の生まれた日(1964)。
厳密に言えば、ちょっと違うかな。
いわゆる「BASIC」としてなじまれた環境が、最初に動くようになった日と言うべきか。
1964年の早いうちに、ダートマス大学で、BASIC という「言語処理系」は完成していたのだそうです。
パンチカードにプログラムを打ち込み、バッチ処理でコンパイルを行い、コンパイル済みのバイナリを実行できる環境として。
この点では、FORTRAN とそれほど変わりませんね。
でも、BASIC の目標点はそこではなかった。
この、バッチ処理コンパイル版の BASIC を元として、「対話処理」が組み込まれ、はじめて稼働したのが今日、5月1日とされているのです。
対話型というのはどういうことか?
パンチカードにプログラムを打ち込むのではなくて、テレタイプライターでタイプすると、即座に動作するのです。
PRINT 2 + 2
と打ち込むと、その瞬間に「PRINT 2 + 2」をコンパイルし、完成したバイナリを即座に実行します。
結果、「4」とタイプライターに出力されます。
この時点では、まだ BASIC 言語の処理部分はコンパイラのままでした。
入力が数字から始まる場合…つまり
10 PRINT 2 + 2
という形式である場合、一連のプログラムの、行番号「10」番目の断片だと見做し、内部メモリに格納します。
どのような順序でプログラムを入力しても、内部では行番号順に並び替えられます。
同じ行番号を上書きすれば前のものは消去されますし、行番号だけ入れれば、その行自体が削除されます。
そして、RUN という命令が実行されると、即座にプログラム全体がコンパイルされ、動き始めます。
80年代の BASIC を使った人にも、BASIC に行番号は必須だと思っている人が多いのだけど、そんなことは無いです。
行番号は、あくまでも「編集に」必要なだけ。
もちろん、GOTO などで行番号使いますよ。
だけど、これだってラベルが使える BASIC 環境だってあった。
行番号でジャンプする FORTRAN でも、とび先以外の行には行番号を付けなくていい。
行番号がなくたって何とかなる。
でも、BASIC が作られた当時はテレタイプで、ディスプレイはありません。カーソルを動かすことはできないのです。
その環境でプログラムをしようと思ったら、編集する位置をすぐに指定できる方法が必要。
行番号は、主にそのためのものです。
#FORTRAN はパンチカードなので、正しく並べることを前提に、行番号が不要だっただけ。
でも、この行番号による編集が、BASIC を大成功に導いたように思います。
行番号があれば、それを内部メモリに格納する。
行番号が無ければ、直接実行する。
この単純な規則で、意識せずにモードを使い分けられます。
ちょっと実験したいときは直接命令を動かしてみて、動作を確認してからプログラムに組み込む。
BASIC は元々「プログラムの学習用」でしたから、こうした、コンピューターになじめる環境全体を作り出すことが重要だったのです。
ダートマス大学で BASIC はどんどん改良されます。
ダートマス BASIC は、行列を扱う計算も出来ました。
この当時は、ダートマス BASIC を元に、別実装された BASIC でも行列計算が当たり前についています。
1970年代には、低価格で大ヒットした PDP-8 にも BASIC が作られていますし、PDP-11 ではグラフィックが扱えるものや、命令を非常に増やしたものなど、多数の BASIC が作られています。
そして、コンピューターの時間貸しサービスでよく使われた PDP-10 にも、BASIC はありました。
これらのマニュアルを読む限りでは、内部的にはダートマス BASIC と同じように「即時コンパイル」だったようです。
コマンドによって、コンパイル結果をファイルに書き出したりもできました。
BASIC で作っていても、コンパイル結果は BASIC 環境無しに動かすことができます。
PDP-10 で BASIC を学んだ人と言えば…後にマイクロソフトを設立する、ビル・ゲイツもその一人でした。
彼は中学校にあった PDP-10 の時間貸し端末を使って BASIC を遊び倒し…一人で、1年間分の「時間貸し」の料金をあっという間に使い果たし、怒られています。
仕方がないので、時間貸しサービスを「ハッキング」して無料で使って、サービス提供会社にまた怒られ、接続を無料にする条件として、その会社でソフトのバグを見つけるアルバイトを始めます。
#その会社では、PDP-10 を DEC から購入した時に「バグが見つかり続けている間は支払いを猶予する」という条件を貰っていたのだそうです。
ゲイツたちが各種ソフトのバグを探してくれれば金を払わないで済む、というメリットがありました。
この頃、ビル・ゲイツは BASIC 自体を自分でも作ってみているのだそうです。
そして、それが Altair 8800 発売時に、作ってもいないのに「BASIC を作った」とハッタリをかました自信へと繋がります。
Altair 8800 は…実際には入手困難だったので、互換機の IMSAI 8080 などは、多くの人にとって「初めて触るコンピューター」でした。
しかし、これらのコンピューターは2進数でプログラムを組むようになっていて、非常に使いにくいものでした。
ゲイツは Altair の製造元である MITS 社に BASIC を提供しながら、「マイクロソフト」名義の会社を設立して、同じ BASIC を IMSAI などにも販売しました。
マイクロソフトが作った BASIC は、コンパイラではなく、インタプリタでした。
命令をひとつづつ解釈し、その命令を動作させるためのサブルーチンにジャンプします。
コンパイラと違って動作が遅いのですが、マイクロソフト BASIC の場合は、プログラム格納時点で命令解釈を半分終わらせることで、高速に動作するようにしてありました。
#字句解析までは終わらせ、単語単位で「中間コード」に変換しています。
マイクロソフトの BASIC では、行列演算の機能が削除されていました。
それ以降…家庭用パソコン向けの BASIC では、みんな Altair 8800 の BASIC に倣ったようで、行列演算機能は基本的にないものとして扱われました。
一方で、マイクロソフトの BASIC では、「?」は PRINT と同じ中間コードに変換されるようになっていました。
このため PRINT 2 + 2 の代わりに ? 2 + 2 と書くことができます。
これが…地味に便利です。
ちょっとした計算をしたいときに、? の1文字だけで、後は計算式を入れれば結果を教えてくれるのですから。
現状では ? は Altair 8800 用の BASIC に存在したのは確認されていますが、マイクロソフト以前にあったのかどうかは不明です。
(PDP の BASIC には存在していません)
現在でも、BASIC には根強い人気があり、マイクロソフトも Visual BASIC を作り続けていますし、プチコンや IchigoJAM のような環境もあります。
僕自身は今では BASIC を使いたいとはあまり思わないのですが、初心者や、サンデープログラマ向けとしては今でも良い環境だと思ってます。
構造化なんて、職業プログラマの発想で、最初は難しすぎてついてけないよ。
最初は BASIC で初めて、必要なら後で「卒業」すればいい。
もちろん、卒業しないで万年初心者だってかまわないと思います。
仕事では使えないかもしれないけど、十分楽しい言語。
まぁ、「後で卒業すればいい」という意味では、BASIC にもこだわらないのだけどね。
子供には Scratch 薦めてます。
#Scratch も、コマンド単位でダイレクト実行できたりする「対話環境」で、BASIC と考え方が非常に似ています。
もちろん、初心者向けに何が重要かを研究したうえで作っているのだろうけどね。
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別年同日の日記
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まだゴールデンウィーク途中なのだけど、ここまでの日記をまとめておこう。
29日(昭和の日)。
子供たちが、以前から「おかあさんと行きたい」と言っていた、理科ハウスへ。
もちろん妻も一緒。
前回から2週間程度しかたっていないけど、子供が「誕生日に行くと何かあるらしい」と言っていたので。
25日が誕生日で29日ならいいかな、と思ったのですが、これは「当日」限定でした。
(基本的には、その場にいるみんなでお祝いしよう、ということのようでした)
初めて来たときは、プラネタリウムの特別展示中でした。
2回目(前回)は、そのドームをそのまま使い、「ピカリ展」という特別展示をしていました。
で、今回は初めての「定常状態」を見たのですが、人気があるのだけど場所取るからしまってた、というようなものが出されていて、非常に楽しめました。
まず、「初めて来た人にはやってもらっている」という、ちょっとしたゲーム。
僕が始めてきた時は、子供たちに出題されたのを一緒に考えていただけ。
しかも、スタッフの方が忙しくて、答え合わせしなかった。
でも、今回は「妻への」問題。
大人向けは、いろいろ工夫されていて真剣なゲームになっています。
問題は、色とりどりの風船の中に入れられた物質を、ゴム膜越しに触った感触で当てる、というもの。
塩・砂糖・味の素・重曹・でんぷん・上新粉・小麦粉、だったかな。
いろいろ考えながら触るのだけど、結構どれがどれだかわからない。
多分これ…と思った名前の前に、風船を順に置いていきます。
子供向けだったら、これだけで終了。
でも、大人向けは一味違う。
缶ボトルに入った同じ粉が出てきます。
缶を開けてはいけないけど、振ることが許される。そのわずかな感触は、指で押すのとはまた異なったもの。
さらに、同じ量の水に、同じ重量の各粉を溶かした、という試験管が出てきます。
よく見ると、試験管の「水量」が違います。
ここで「粉は重さで同じにしてある」ことが活きてくる。
さらに、「どれか一つだけ選んで、赤か青のリトマス紙を漬けていいです」と言われます。
どれを選ぶか、悩みどころ。
結果、4つは正解で、3つは間違っていました。
でも、正解数がどうかというよりは、その思考過程が非常に面白い。
スタッフの方も、思考過程を見るのが楽しみで、はじめて来る人にこの問題を出しているのだそうです。
#だから、上でも思考過程は書きませんでした。
是非、行って自分でもやって見てね。
もう一つ、人気があるけど冬の間は片づけていた、というゲーム。
幅1メートルくらいの、巨大な元素周期表が置いてあります。
ここに、3つの箱に入った、様々なものを置いていく。
箱は、レベル分けされています。
まず、レベル1から。
塩、1円玉、5円玉、10円玉、100円玉、ビー玉、「空気」と書いた風船、鳥の骨…などなど。
塩だったら、NaCl だから、Na か Cl のどちらに置いてもいい。
1円玉はアルミだから Al に。空気は混合気体だから、それらの元素のどこにでも…という具合。
ただし、1つのマスには1つしか入れられないのね。
全部置いたら、スタッフの判定が入って、全問正解ならレベル2へ。
塩分カットの塩「やさしお」とか、光触媒レンジフィルタとか、フライパンとかがある。
レベル2では、1マスに2つまで入れていい。
今まで置いたものでも、うまくいかないなら動かして構わない。
たとえば、僕はフライパンをアルミに分類しました。
でも、さらに「アルミ」にしたいものが出てきた。
しばらく悩んで、「あ、このフライパンフッ素加工してある」と気づいて、フッ素に変更。
これで、アルミに別のものを入れられます。
レベル2が全問正解ならさらにレベル3に進むようですが、ここで3問間違えた。
1レベルごとに20個の品物が入っているので、37点でした。
これ、非常に良い記録だそうで、最近の「3位」に入りました。
名前と点数を書いて、掲げといてくれる。
ちなみに、1位は高校で理科を教えている先生、2位は理系大学生の2人組だそうで、「特に専門にしていない人で37点はすごい」とのこと。
この後、妻もチャレンジしました。
(チャレンジしたいから、と、僕のやっていることがヒントにならないように、わざわざ遠くに行っていた)
で、妻の点数は38点でした。
これ、判定する品物は、時々入れ替えるのだそうです。
ゲーム内容同じでも、品物が変わるので「暗記攻略」はできない。
この日、NHK for School アワード 2015 の取材がやってきていました。
NHK の教育番組を活用した取り組みをしている団体などを表彰する賞…らしい。
早速 WEB にアップされて、アワード通信 Vol.1 の後半(3分あたりから)取り上げられていますね。
1回目の時は、以前書いたのだけど近所で手伝っている方に出会いました。
2回目は、どこかの教員の方かな? 視察に来ていた。
で、3回目はNHKです。ちいさな科学館だけど、関係している・参考にしたい人たちが、常にいる。
以前も書いたけど、こんな施設がある街は幸せだと思います。
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別年同日の日記
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ゴールデンウィーク、連休開始の2日・3日は…家のメンテナンスで、丸2日ひたすらペンキを塗っていました。
ペンキというか、厳密にはステインなんだけど、同じようなもの。
我が家は窓枠もベランダも木でできていて、ほおっておくと腐ります。蟻が食い荒らす可能性もある。
そこで、防腐・防蟻剤を含む油を染み込ませるのです。これが「ステイン」。
ペンキは、表面に色を塗ることが目的で、表面被膜が雨を防げば防腐効果もある。
でも、薄い皮膜が破けると、中が腐ることもある。
ステインの場合、染み込ませてあるのでそういうことは無い。
でも、染み込ませてある部分が徐々に風雨にさらされ、風化します。
だから時々塗り直さないといけない。
ハウスメーカーの推奨は「キシラデコール」で、これは元祖ステイン。
元祖で質は良いのだけど、なにぶん高い。
10年間キシラデコールを使い続けてきたけど、しばらく前から「ウッドガード」というアサヒペンの製品も気になっていた。
調べてみると、キシラデコールの市場に食い込むことを第一に考えているようで、ほぼ互換品。色まで同じになるように調整しているらしい。
キシラデコールは、基本的に 4リットル単位売り。
ウッドガードは7リットル単位売りだけど、半分弱の 3.4リットルもある。
これも安く見せる戦略なのだろうけど、同じ量で換算してもウッドガードの方がずいぶん安い。
通販で買おうと思ったら、1万円以上じゃないと送料無料にならなかったので、思い切って 14リットル缶を購入。
結果から言えば、使い勝手は全く変わらず。
色に関しては、妻が「今までより明るい色にしたい」というので、違う色を選んでしまったので、同じかはわからず。
#ペンキは不透明だが、ステインは半透明。なので、色を変えても急には変わらない。
でも、古い部分は劣化して落ちていくので、長年かけて徐々に変えていく。
まずは1日目、ベランダから。
3年くらい塗ってなかった。早く塗らないと、って半年くらい前から気にしてた。
気にしてたのは、ベランダの欄干の縦桟のネジがさびて破断したせいもある。
いずれも下側が壊れ、上だけでぶら下がってぶらぶらしている。
ベランダで子供が遊ぶ際に危険なので(1本外れても子供がすり抜けるほどの穴ではないが)早く直したかった。
まず、欄干修理。L字金具を内側からねじ止めして、床部分にも付ける。
元の工法と違うが、内側から簡易に修理するには十分だろう。
その後、ペンキ塗り。
手を伸ばさないと届かない、ベランダ外側下方から。
続いて桟の外側を塗っていき、徐々に内側に入っていく。
先に内側塗ったら、手を伸ばす時にペンキに触れて汚れるからね。
午前中でベランダを終わらせ、窓枠も塗りたいと思っていた。
でも、午前一杯かかって、桟の半分程度を塗っただけ。一番ややこしい部分だから、これが終われば早いとはいえ、予想以上に時間がかかる。
午後は早めに終わらせたいと思いつつ、桟を全部塗り終わった時には日も傾いていて、床部分を全部塗り終わったら夕飯を作らないといけない時間だった。
丸一日外でペンキ塗っていたら、日焼けしてしまって風呂で痛い。
翌日は窓枠。
次女の希望で夕飯はバーベキューにしよう、というので午後3時までをめどに…進め…たい。
…いや、最初からそんなに早く終わらんだろうと思っていたのよ。
午前中いっぱいかかって、1階の窓全部も塗り終わらなかった。
窓はもう5年くらい塗ってなかったと思う。ベランダほど風雨にさらされない個所だから、という甘えもあったが、やはり5年は長い。
あらかじめ汚れを落とすためにナイロンたわしで塗装部をこすると、風化した木くずがぼろぼろと落ちる。
完全にステインが落ちたような状態から塗ると、木によく染み込んで…塗装効率が非常に悪い。
それでも、午後早めに1階を終わらせ、2階へ。
作業に慣れてきたこともあって、2階は効率的に進み、いくつかの「塗るのがややこしすぎる」窓を除いて、夕方5時には塗り終わった。
…って、目標2時間も過ぎてるよ。
でも、妻がバーベキューの準備を進めてくれていたので、次女の希望はかなえられた。助かる。
ベランダ塗りは、手を伸ばすと見えなくなってしまう部分を、感覚だけで塗っては、立ち上がって覗き込んで出来栄えを確認、という作業の繰り返しだった。
しゃがんで、立って、しゃがんで、立って…スクワットしているようなものだ。足が筋肉痛になる。
窓枠塗りは、ずっと横向きに手を伸ばして塗り続ける。上腕と肩が筋肉痛になる。
そして、2日目は屋内から塗っていたから日焼けにはならんだろう、と油断していたら、1日中窓際にいたので日焼けした。特に首筋がひりひり痛む。
脚立に乗って中腰作業も多かったので、腰も痛い。
2日間のハウスメンテナンス、地味にダメージ。
以下は後日追記。
2日目の作業で「ややこしい」と残した窓は4か所。
このうち3か所は、G.W.最終日である6日に塗った。
あと1か所は、階段の吹き抜けの2階部分の窓で、屋内からも屋外からも高すぎて手が届かない。
ここは無理に塗るのは危険だから塗らない。
#10年目で外壁塗り替えを考えているので、業者に一緒に頼むかも。
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別年同日の日記
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5月4日、秋葉原でマイコンインフィニットPRO68K (MI68) という展示即売会があるというので、お伺いしました。
名前の通り X68K ユーザーを中心として、その時代の機械が好きな人なら何でもありの集まりです。
同人ソフト有り、同人ハード有り、関係なくグッズ販売あり、メガドラやゲームギア、LINX やアミーガ、PC88やFM-7もあって、非常に活気がある。
みんな面白いもの作っているなぁ、とおもうと、ちょっと久しぶりに 68 いじりたくなりました。
でも、僕の 68 壊れてるのね。電源はいらない。
壊れていても捨てられない。やっぱ、一番の青春のマシンだから。
僕の 68 は EXPERT で、5inch だから、同人ソフトを買うのも 5inch だという考えで見ていて、でも今更 5inch 買っても 68 壊れてるから…と、躊躇して何も買わなかった。
後でよく考えてみたら、3.5inch を買って、吸い出してエミュで遊べばよかったのだ。
自分のマシンを基準に 5inch で、と考えたばかりに、こんな簡単なことに気付かなかった。
写真なんかはツイッターでずいぶん流したので、Twilog でも見てもらおう。
Twitter だと短すぎてなかなか書けないことを中心にまとめます。
講演会が一番の目的で行きました。
はっきり言えば、前回オフ会にお伺いした時に現れた、速水さんの話を聞いてみたかった。
その時までちゃんと認識してなかったけど、非常にお話の面白い方だったので。
今回 MI68 は3回目だそうで、市川さんという方は1回目から毎回お話をしてくださるそうだ。
誰か知らない…と思ったら、M.N.M の社長だった人。
X68k でスターウォーズを作ったメーカーですね。あのゲーム、すごく好きだった…
で、後に社名をマインドウェアに変更。
98 版の Mr.Do とか、Jump BUG とか作ってた会社。
こちらも、大学時代に友達が遊んでいてうらやましかった記憶がある。
同じ会社だとは判って無かった。
前2回でそれらの話はしたので、その後の話を…とのことだった。
その後、ピンボールゲームを作ろうとしたことから実機の収集・遊戯にのめり込み、ついには Midway のエンジニアと知り合って、ピンボール台を設計したという。
スターウォーズ EPISODE Iは氏の作品だそうで、その後氏が病気で療養中には、ルーカスが病室に来てくれたという。
最終的には Midway のピンボール撤退で、作成予定だった作品が作れずに終わり、任天堂でまるぼうしかく(これは遊んだけど、非常に面白いゲームだった)などを作って今に至る、と。
元々コンピューターピンボール作ろうとして始めたはずなのに、そちらはいまだに手つかずという。
氏は、ピンボールの仕組みに興味が出てハードウェアも理解し、ソフトウェアは元々理解していて、ゲーム性も理解していた。
アメリカでは分業が進み過ぎて、こういう広い知識を持った人が少ないから、会っていきなり「台を設計してみないか」なんて話になった、と言っていた。
だから、MI68 会場にはハードからソフトまでしゃぶりつくしている人たちが多数いて頼もしい、と。
今のエンジニアはフレームワークに頼りすぎ…
と、前半では危惧していたのに、後半では「Windows プログラムを始めるのには苦手意識が邪魔していたけど、優れたフレームワークを使ったら思ったほど難しくないと気づいて、作れるようになった」とも言っていた。
言わんとしていることはわかるが、最初とギャップがある。
#フレームワークを使うなとは言っておらず、使うにしても何を行っているか深い部分まで理解しろ、ということを言っていたので、氏の中では矛盾はないのだと思われる。
速水さんの講演。
以前見せていただいた 4004 ボードの写真から始まって、イベントに合わせて「X68k までにどんな進化があったのか」という歴史を追うトークショー。
話の上では X68k までなのだけど、CPU としては Core i7 まで含めてました。
4004 の回路配線幅を 1m とすると、Core i7 は 0.2mm しかない、とか、把握しやすいサイズで言われると説得力倍増。
Motrola 6809 と Zilog Z80 は当時のライバルだったわけだけど、富士通は 6809 を選んで、シャープは Z80 を選んだ。
そして、お互い機種を増強していく際にも、時代の流れで同時期に同じようなことをしていく。
…そして、8bit を捨てて上の bit 数に移行するとき、それまで Z80 だったシャープは、6809 の後継である 68000 に、6809 だった富士通は Z80 と同系列である 80386 に、っていうオチ(?)の付け方も面白い。
速水さんは高校の教員をやっていたこともあって、教育を真剣に考えている。
そして、高度になりブラックボックス化したPCより、 MI68 で展示されているような少し古いパソコンの方が、仕組みがわかりやすくて勉強になる、と考えているようです。
もちろん今は古い機種を入手して勉強するのは難しい。
だから、エミュレータでもいいから、あえて古い機械に挑んでみるといいのではないか、と。
前田さんの講演。
ホビーパソコン興亡史、懐かしのパソコンカタログ、先日発売された海外のゲーム機&パソコンガイドブックなんかの執筆裏話。
前2人の講演がすごすぎた、と上がり気味。
でも、いろいろ納得できるお話でした。
実は、僕は前回のオフ会で裏話をずいぶん聞かせていただいたので、知っている話も多かったのだけど、それでも苦労を乗り越えて資料をまとめるのは素晴らしいと思います。
今回発売した本も、この日に購入して、MI68特典である小冊子もらいました。
海外のゲーム機&パソコンガイドブックをまとめる際に収集した資料のうち、広告に限定して集めたもの。
ほんの数ページの本だけど、広告を縮小して印刷しても文字が読めるように、非常に良い紙と、良い印刷を使っている。
無料配布だけど、結構金かかってんじゃないかな。
購入した本誌の方はと言えば、知らないパソコンがこれでもか、と載っています。
名前くらい聞いたことあったけど詳細知らなかった、というようなものも細かく載っているし、資料として一級品。
でも、この本ニッチすぎて売れないだろう、という予想で、パソコンだけじゃ売れないからゲーム機も含めたのだとか。
そういう、搦め手で自分のやりたいことと、商売になることの間を狙っていく姿勢が素晴らしいです。
#僕も、ニッチすぎる内容のページ作っているので、見習わないとなぁ。
もっとも、商売じゃないからこそ、好きな事だけやっているわけなのだけど。
前田さんも、ホビーパソコンが華やかだった時代の機械は、個性があって学ぶのが楽しかったと言います。
決して古いものではなくて、いまから学ぶ人にも楽しい機会を与えられるのではないかと。
主催者のあるきちさんの講演がある予定だったけど、ベーマガ編集長に時間を譲りました。
ベーマガ編集長、とあえてお呼びします。
今はベーマガ休刊中だけど、復活に向けて動いているそうですから。
「社長に復刊を提言したが、反対はされなかった」のだそうです。
まずは、IchigoJAM を中心に据えたいとのこと。
他にも BASIC 環境はあるのになぜ IchigoJAM かといえば、メモリが小さくて1画面程度のプログラムしか組めないのがちょうどいいから、という言葉には納得。
プチコンとか、すごい作品作れるけど、それはベーマガらしくない。
粗削りだけど面白いゲームが、短いプログラムで示される。
短いから打ち込んで、粗削りだから「もっと改良してみよう」と思える。
それがベーマガだと思います。
IchigoJAM の場合、組み立てから自分でやらないといけないので、電子工作とソフトウェアの両方を楽しめるのも理想的だと言います。
ここでもまた、前の3人と同じで、ハードの深い部分を知るには、今のブラックボックス化された PC より、多少非力なマシンが良いという意見。
4人とも、根っこに同じような意見を持ち、実際の活動はそれぞれのようです。
でも、それでいいと思う。多様性があり、選べるのは良いこと。
PC 上にエミュで古い環境を作るなら、小さな環境を作ってプログラムをするのでも変わらない、とも思います。
つまりそれはフレームワークであって、「良いフレームワークがあればプログラムをはじめやすい」という、古いパソコンとは何の関係もない話にもつながってしまう。
時々書いているように、僕は子供に Scratch やらせてる。
これも、小さなフレームワークだからわかりやすい。そんな窮屈な環境は本物のプログラムじゃない、という人だっているけど、それならエミュ上に作られた窮屈な環境だって同じこと。
選択肢は人の数だけあっていいんです。
特に、初心者のうちから「深い部分」まで理解するなんて、できっこない。
ステップアップする過程で、エミュを使う段階があったり、IchigoJAM を使う段階があったり、4人の方がそれぞれ考えている環境を渡り歩いてみる、というのだって楽しいと思います。
示し合わせたわけではないのに、4人それぞれが同じ方を向き、少しづつ違うことを言っていたので、いろいろ考えさせられました。
そろそろ終了時刻だな、ってところで帰ってしまったのだけど、その後親睦会があったそうです。
残念。居残って参加すればよかった。
まぁ、子供には喜ばれました。
お父さんは今日はお酒飲んできて遅いと思うよ、と妻に言われていたのに、夕食時間に間に合うように帰れたからね。
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別年同日の日記
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今日はエドウィン・ハーバード・ランドの誕生日(1909)。
カメラで有名な、ポラロイドの創立者です。
でも、彼の最初の発明品は、有名なインスタントカメラではない。
「ポラロイド」という名前の薄い板が最初の発明で、大ヒットした際に社名を商品名に合わせたのです(1937)。
ポラ、というとどうもカメラが思い浮かんでしまうのですが、「ポーラー」(Polar)です。
北極や南極も polar なのですが、これは極性の意味。
そして、光の偏光も polar です。
当時、光が波であることはすでに知られていて、この波の方向が偏っている(偏光)ことも知られていました。
偏光している光は、偏光の向きが合った偏光板(偏光子)を通り抜けますが、向きが合っていないと通り抜けられません。
向きは物理的なものなので、偏光板を通して普通に見えていたものが、偏光板を 90度回すと、真っ暗で見えなくなる、ということです。
でも、この「偏光子」が非常に高価なものでした。
偏光子として使える結晶を、大きく育てる必要があったためです。
ランドは、結晶を育てる必要などなく、小さな結晶を上手に方向をそろえてセルロイドで固めてしまえば実用になる、と気づきました。
そうしてできたのが「ポーラーロイド」。偏光子として使えるセルロイド板です。1929年に特許取得しています。
その後、ポラロイド社は「現像処理時間と手間を劇的に短縮したカメラ」でもう一度大ヒットを飛ばすのですが、今回取り上げたいのは、この偏光板のほう。
現代のパソコンには欠かせないものになっています。
まず、偏光の基礎知識。ざっくりとだけね。
偏光のない光を「偏光板」に通すと、偏光します。
偏光板を2枚重ねて見ると、組み合わせを90度回すたびに明るくなったり暗くなったりします。
1枚目の偏光板で、たとえば「縦」だけに偏光した光が、2番目の偏光板が「縦」なら通れるし、「横」なら通れなくなるため。
でも、実はまったく偏光のない光というのは無くて、屈折したり、反射したりすると光は偏光します。
ミツバチは、空の空気の乱反射を偏光で見える目を持っていて、この偏光具合で、太陽が直接見えない場合でも太陽の向きを察知します。
水面を反射した光は偏光しますが、この偏光の光だけをカットするサングラスを作ると、水の表面の光をなくし、水の中が見やすくなります。
釣り人用のサングラスなどに利用されています。
同じように、濡れた路面で光が反射してまぶしいのだけを消すこともできます。
こちらは、トラックやタクシーの運転手などに利用されています。
さて、まずは、パソコンとしてはちょっと古い話。
その昔、MO…光学磁気ディスク、というものがありました。
今も放送業界では使われていたりするそうですが。
この「光学磁気」という言葉が微妙。実は、磁気をもつ物体に反射した光の偏光角度が、磁気極性によって違う、という特性を利用しているのです。
磁性体は、熱くなって「キュリー点」と呼ばれる温度を超えると、磁性を失います。
冷えると、再び磁性を得ます。この際、強い磁場の中で冷えると、周囲の磁場の影響を受けた極性を持ちます。
なので、まず強い磁場(ハードディスクのヘッド程度の磁気ではなく、永久磁石程度)の中で連続してレーザーを当て、キュリー点越えの温度にした後で冷やします。
すると、その時の磁石の向きの極性を持ちます。
つづいて、磁石を逆にして、記録したい情報に従って断続的にレーザーを当てます。
これで、元々あった極性と、新たに書き込んだ逆の極性の組み合わせで、情報が記録できます。
読み取るときは、弱いレーザーを当てます。この際、偏光板を通して、偏光させておきます。
反射した光は、反射面の極性によって偏光の向きがわずかに影響を受けます。
再び偏光板を通すことで、このわずかな影響を、「暗い」「明るい」で検出します。
CD では、反射面に凹凸を付けて、反射率を変えることで、反射光の明暗を作り出して情報を検出します。
CD-R では、反射面に色素を持たせておき、強い光で色素を破壊することで、光の吸収率を変化させ、反射光の明暗を作り出して情報を検出します。
MOは単純に「明暗」ではなく、偏光板を2枚追加することで明暗を作り出します。
この点では、CD と CD-R は同じ読み取り装置で使えるけど、MO の仕組みは読み取り装置も変えないといけない。
でも、読み取り装置に安い偏光板2枚用意しておけば、あとはほぼ同じ仕組み。
MO の方式は、将来的には「書き換え可能な CD」への技術が応用できる…と期待されました。
実際、MD は、情報記録に関しては MO とほぼ同じ技術で作られています。
でも、すでに普及したものに対し、「偏光板2枚の追加」は思った以上に難問だった。
この後出てきた CD-RW や DVD-RW など書き換え可能な光学メディアは、偏光を利用しない別の方法を使っています。
#CD-RW などは、パソコン用メディアとしては失敗した PD と同じ方式です。
過去の再生機でも再生できる互換性を持つ一方で、書き換え可能回数は MO よりずっと少ないです。
偏光板と言えば3Dメガネ、と思う人もいるでしょう。
映画館のように、スクリーンに投影し、大勢の人が見る場合によく使われます。
2台の投影機で、それぞれ偏光板を通して投影を行います。
観客は偏光板の眼鏡を通してみるのですが、右目と左目で偏光が 90度異なっているため、別々の映像を見ることになります。
この、左右それぞれで違う映像を見ることにより、視差を感じて立体的になるのです。
#偏光が「90度」ではなく、円偏光という別の方法の場合もあります。
この方式の利点は、2台のプロジェクターの画像を1つのスクリーンに投影しても、後でちゃんと分離できることです。
解像度も、コマ数も犠牲になりません。
#たとえば、任天堂 3DS の視差バリア方式では、解像度が犠牲になります。
昔ファミコンで発売された液晶シャッター方式では、コマ数が犠牲になります。
ただ、この方法は家庭用ではなかなか使えません。
今家庭で普及している液晶テレビでは、偏光の制御ができないためです。
というのも、液晶テレビは最初から偏光していることが前提なのです。
液晶ディスプレイでは、結晶が 90度ねじれた状態になっている「液晶」を使用します。
このねじれに従って、透過する光も 90度曲がります。
この液晶を、90度回転させた2枚の偏光板で挟んでやります。
90度回転した偏光板では普通は光を通しませんが、液晶が光の偏光を 90度曲げるため、光を通すことになります。
ところが、です。
液晶は電圧をかけると配列が変わる特性があります。
電圧をかけた時は、光を素通しするようになります。すると、90度回転した偏光板を光がそのままとおろうとする形になり、光はとおりません。
これにより、白と黒を表現できます。
白と黒が表現できれば、色のフィルタを用意することで三原色を表現できます。
電圧によって、すべての分子が一斉に配列を変えるのではなく、一定の範囲でばらつくように出来れば階調表現もできます。
これが液晶テレビ、液晶モニタ、スマホの画面など、様々な場所で使われている液晶ディスプレイの原理です。
ディスプレイから光が出た時点で、偏光しています。
先に書いた偏光板方式の3Dとは、相性が悪いのはそのため。
偏光板はいろいろなところで使われているわけですが、最後にもう一つだけ、あまりお目にかからない例を。
今は閉館していますが、千葉に麻雀博物館というところがあります。
僕は麻雀全然やらないのだけど(ルールくらいは知ってる)、テレビゲームに限らず「ゲーム」が好きなので、見に行ったことがあります。
そこに、イカサマ牌が展示してあったのね。
裏面が、金粉散らしたような豪華なラメ模様になっている。
ラメの上には透明樹脂が盛られているのだけど、実はこの中に偏光板が置かれています。
偏光板は牌の表の文字と同じ形が刻まれています。
色が変わって見えないように、90度ずらした別の偏光板を組み合わせ、完全に1枚の板にしてあります。
とはいえ、そのままでは切込み部分は少し見える。これを、背景をラメにすることで見えなくしているのです。
ラメにはもう一つの役割があって、偏光板を通して入ってくる光を乱反射させています。
これによって、偏光を打ち消している。そして再び、偏光板を通して出てきます。
つまり、周囲の人の目には、「文字の形」になった偏光が届いている。
ここまでくれば、お膳立ては整っています。
あとはイカサマをしたい人が、偏光板で出来た眼鏡をかけるだけ。
昔、業務用麻雀ゲームのアイテムとして「透視メガネ」というのがありました。
相手の牌が透けて、表に刻まれた文字が見える、というもの。
それの実物です。実在したのです。
ただ、これは偏光メガネが珍しかった時代だから使えたのだろうとも思います。
いまだと、普通に偏光メガネ使われていたりするからね。
先に書いたように、釣り人用・運転手用の眼鏡とか、普通に出回っているから、万が一にばれることを考えると怖くて使えないでしょう。
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エドウィン・ハーバード・ランド 命日(1991)【日記 17/03/01】
別年同日の日記
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今日は八景島シーパラダイスの開業日(1993)。
普段コンピューター関連の「今日は何の日」をやってますが、基本的には「僕の興味に従って」書いているだけです。
今日はパソコン関係ではありません。ご了承ください。
でも、ゲームやアミューズメントに興味がある人なら、ここは興味深いことがわかってくれるかもしれません。
八景島は、横浜市の所有する公園です。遊園地ではありません。
そこに、横浜市の許可をもらって、株式会社横浜八景島が各種施設を置いている、という形式になっています。
1990年代の前半から、ディズニーランドの成功やバブル景気を受けて、遊園地が沢山作られました。
#バブル景気は 1990年代には終わっているのだけど、バブル景気のうちに計画が進められ、そのまま建造されていた。
それらの遊園地は、規模がそれほど大きくない、という特徴があります。
遊園地としての規模は大きくないので、それだけでは人を呼べない。
でも、ショッピングモールやレストラン街など、付随施設を作って、総体として人を呼ぶ。
遊園地の遊具も、大きなショッピングモールの店舗の一つだ、と言えばいいでしょうか。
多分、流れの最初の一つは、みなとみらい地区にある「横浜コスモワールド」。
遊園地を作るつもりはなかったのに、横浜博覧会(YES '89)で使われた観覧車を「シンボルとして残してほしい」という要望があり、急遽遊園地化したもの。
そういう経緯なので、非常に狭く、入場料を取るほどのものではありませんでした。
現在はいろんな経緯で拡張されていますが、無料のままです。
八景島の場合、全体としては公園なので入場料はいらず、中にはレストランやショッピングモール、水族館やヨットハーバー、潮干狩りが出来る海岸などもあります。
食事だけして帰っても「入場料がもったいない」ということは無い。
遊園地として遊ぼうと思うと、入場料が無い代わりに遊具が高いのですけどね…
その後の流れとしては、東京ドームシティや、ディズニーランドに併設されている「イクスピアリ」などがあります。
東京ドームシティは元々は「後楽園遊園地」で入場料が必要だったのですが、東京ドームを含めた総合施設の一部として無料化されています。
イクスピアリは、ショッピングモール部分だけが無料で遊園地は有料なのですが、遊園地とショッピングモールをまとめてアミューズメント施設と捉えていく発想は同じものだと思います。
八景島シーパラダイスができたのは、僕が大学の頃。
早速みんなで遊びに行った覚えがあります。
僕、横浜から千葉の大学通っていたのね。
それが「シーパラ行こうぜ!」となって、友達の車に分乗して横浜まで遊びに来る。
で、その後千葉まで戻って、解散。僕は横浜に電車で帰るのです。何やっているのだか。
当時は、ブルーフォール(フリーフォール)が人気でした。1回遊んだだけで千円だった気がするけど、面白かったので2回乗った。
大学生だったから金遣い荒かったのもあるし、まだバブルの感覚が残っていた時代でもありました。
でも、あくまでも「遊園地」ではなくて、「遊園地施設を置いた総合公園」なのね。
広い敷地をぐるっと回って、みんな最後はカーニバルハウスに吸い込まれていく。
カーニバルハウスは、当時はセガが運営していたゲームセンター。
今はセガが撤退し、八景島直営になっているそうです。
遊園地遊具の料金が高い割にそれほど楽しめないから、じゃぁ最後はゲームで締めるか…となっちゃうのですね。
まだゲームセンターが人気アミューズメントとして機能していた時代でもありました。
遊園地内ロケだからこそ、大型体感ゲーム機とか置いてあったしね。
#たしか、AS-1 とか、バーチャフォーミュラとか置いてたのじゃなかったかな。
共に、普通のゲームセンターには置けない、超大型&超高価マシンでした。
この遊園地、セガが運営しているときは、風俗営業法を無視していたそうです。
これは最近知った情報で、当時は未確認。
まぁ、ゲームセンターが風俗営業法の8号営業になるのは、そこが「遊園地」として認められない時だけですからね。
遊園地内のゲームコーナーであれば風俗営業ではありません。
ただ、八景島直営になってからは、風俗営業法を守って運営しているようです。
八景島は、今でも数年に一度行っています。
僕は湘南地区に住んでいるけど、湘南では潮干狩りはあまり出来ない。
八景島近辺はできるので、潮干狩り目的で行ったりね。遊園地でも遊びますが。
あと、子供の保育園の遠足先に、数年に一度なります。
この時は団体行動なので、水族館見て終わり、ってなることが多い。
(八景島は結構広いので、園児の足で歩き回るのには向かない)
八景島のオープン後に、水族館ブームが来たので水族館が増築を繰り返しています。
現在では4つに分かれちゃってる。
水族館を全部見たければ、あっちこっち移動することになります。
まぁ、一部だけ見て終わりでもいいんだけどさ。
そういえば、高校の後輩の女の子が結婚した時、ここのレストランで「友人向けの披露パーティ」やってたな。
呼ばれたので行きました。
花火を打ち上げる時間帯にパーティを設定していて、窓から見える花火が印象的でした。
これは、遊園地としてではなく、パーティ会場としての使い方。
公園なのでお弁当持ってきて食べてる親子連れがいたりもするし、広い芝生でキャッチボールしているような人もいる。
楽しみ方は自由です。
いろいろな使い方が出来る、面白いアミューズメント施設だと思います。
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別年同日の日記
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今日は、ディープ・ブルーがカスパロフを破った日(1997)。
ガルリ・カスパロフはチェスの元世界チャンピオンです。
その世界チャンピオンが、IBM が作成したチェス専用コンピューター、ディープブルーに敗北したのです。
これは非常にセンセーショナルな出来事でした。
チェスは、西洋では知力を測る物差しのひとつだと考えられてきました。
チェスでの勝敗は、そのまま頭の良さの優劣と捉えられるのです。
もちろん、ゲームですから「時の運」もあり、正しく勝敗を決するには、何度かの勝負を行います。
今でも、チェスは頭脳のスポーツだと言われます。
冷戦下の米ソ間では、どちらがチェスの世界チャンピオンを輩出できるかで争った時代もありました。
もっとも、これはソ連側が一方的に仕掛けた戦いで、アメリカは相手にしていなかった。
当然、ソビエト人が世界チャンピオンの時代が長く続きます。
アメリカ人ボビー・フィッシャーが「チェスの天才」だと言われ始めた時から、ホワイトハウスもこの競争に乗り出し、チェスは国家の威信をかけた代理戦争となります。
たかがゲーム、ではなく、チェスが国を動かした時代もあるのです。
ケンペレンが「チェスを指す人形」を作った時も、機械がチェスを指すというので大評判となったのです。
後にバベジも、実際にチェスを指す機械を構想しています。
これは、構想だけで複雑さに気付き、製作には至りませんでした。
チューリングも、チェスを指すプログラムを構想しています。
こちらも、アルゴリズムを考察しただけで、当時のコンピューターでは実現できませんでした。
コンピューターが作られ、進化し、ただの「計算機」ではなくなって、やっと最初の「人工知能」研究が始まります。
その題材の一つは、やはりチェスでした。
「人工知能」という言葉を作ったのも、その一環としてチェスを研究したのも、ジョン・マッカーシーです。
彼は教え子たちにチェスのプログラムの作成を示唆しますが、1960年ごろのコンピューターでは、まだ難しすぎました。
完成はさらにコンピューターが改良されてからになります。
カスパロフはソ連生まれで、22歳の時、史上最年少でチェスの世界チャンピオンになります(1985)。
そのあと、15年間チャンピオンの座を維持し続けます。
チェスをコンピューターに教える研究はソ連でも行われており…それどころか、アメリカよりもソ連の方が進んでいました。
カスパロフのチェスの師匠、ミハイル・ボトヴィニクはソ連におけるチェス研究の第1人者で、そのためにカスパロフもコンピューターチェスの研究を推進する立場でした。
1988年、アメリカのカーネギー・メロン大学で、カスパロフに勝利することを目的としたチェスプログラムが作られます。
それが、「ディープ・ソート」でした。
#名前は、不条理SFの金字塔である「銀河ヒッチハイクガイド」に出てくるスーパーコンピューターの名前に由来。
1990年、ディープ・ソートとカスパロフが初対戦します。
コンピューターチェスに理解があるカスパロフが世界チャンピオンだったからこそ実現できた、夢の一戦と言って良いでしょう。
でも、ディープ・ソートは大敗を喫します。
ところで、「ディープ・ソート」の名前の由来となった「銀河ヒッチハイクガイド」では、ディープ・ソートは自分を超えるコンピューターを自ら設計し、建造します。
そのコンピューターの名前は、ディープ・ブルー。
チェス・コンピューターのディープ・ソートは、その後関係者が IBM に迎え入れられ、IBM のプロジェクトに変わります。
IBM の企業イメージカラーは青。そして、プロジェクトが作る、チェス専用コンピューターの名前は「ディープ・ブルー」となります。
ディープ・ブルーは、1996年にカスパロフと対戦。この時は、6戦してカスパロフが3勝1敗2引き分けで勝利しています。
そして、翌 1997 年5月、再戦。6戦して勝ち越したほうが勝者、という勝負で、最後の対戦が11日でした。
それまでの戦績は、1勝1敗3引き分け。最終日を制した方が勝者です。
カスパロフは、チェスのプログラムの弱点を「創造性のなさ」であると見抜いていました。
長年コンピューターチェスと向き合ってきたうえでの結論です。
コンピューターは高速化し、人間よりも正確に先を読むようになりました。
しかし、「先」を読んだとしても、そこにまちうけているものの「意味」を読み取るのは、コンピューターは苦手です。
たとえば、ある手を打てば確実に相手のコマを取ることができ、自分は何の損もない。
この手は是非打つべきでしょう。
別の手を打つと、確実に自分のコマを失い、相手のコマを取ることはできない。
この手は避けるべきです。
でも、しばらく先を読んでも、そのどちらでもないことは往々にしてあり得ます。
そんな時、どのような局面に持っていくのが有利で、どのような局面が不利なのか。
これは、コンピューターの苦手とする形勢判断です。
一応、コマの位置関係などを元に点数を付けてあり、コンピューターは自分が有利になると思うように、「点数を取りに行く」ように動きます。
でも、チェスは非常に複雑なゲームで、簡単に点数化できるものではありません。
ここに、コンピューターの弱さがあります。
人間であれば、一見自分が不利に見える状況を罠として用意し、罠にかかったら一気に逆転させる、というような、点数だけでは解決しない戦略も準備できます。
ところが、1997年の対戦の早いうちに、ディープ・ブルーはそうした手を打ってきていました。
自らのコマを一つ犠牲にし、その後に続く自分の戦略をカムフラージュして、相手をミスリードさせる…
後から振り返った時、非常に洗練された手で、多くの専門家がコンピューターの繰り出した手とは思えない、と口をそろえていました。
これ、15年たってやっと技術者が明らかにしたところによれば、「バグだった」そうです。
パラメーターの調整に矛盾があり、どうして良いかわからなくなった時に、停止してしまうと「試合放棄」なので、とりあえずランダムに打てる手を打つようにしてあったそうです。
もちろん、そんな状況にならない方がいい。でも、この時はパラメーターに問題があり、その状態になってしまった。だから「バグ」です。
ランダムなのでおかしな打ち筋です。しかし、それが「後の手を隠すようにカムフラージュした」ように見えたわけです。
コンピューターに創造性はないはず。
そう確信するカスパロフは、もしかしたらディープ・ブルーは自分の知りえない、とんでもないコンピューターかもしれないと、心のどこかで思い始めていました。
そして、運命の6戦目。
カスパロフは、前日までの5回の対戦で、コンピューターの癖…どのような局面に、どのような点数付けが行われているかを大体読み切っていました。
先に上げた「洗練された1手」のようなものもありましたが、それ以外はやはりコンピューターらしい打ち筋です。
そこで、最終日は、罠を仕掛けます。コンピューターに明らかな「点数」をちらつかして、罠を仕掛けようというのです。
コンピューターには創造性はありません。美味すぎる話に「罠だ」と気づくこともなく、引っかかってくれるでしょう。
ところが、コンピューターがここで予想外の動きを見せます。
前日までの勝負で読み切ったと思っていた「点数付け」なら、当然動くであろう動きを見せないのです。
コンピューターはカスパロフの全く予想していなかった打ち筋で攻めてきました。
コンピューターに創造性は無いはず。なのに、なぜそれまでとは明らかに違う手を打ってきたのか?
カスパロフの心によぎった結論はただ一つ。
ついに、コンピューターは創造性を身に付けたのです。
普段は「コンピューターらしい」打ち筋でも、ここ1番という時にはとんでもない手を繰り出してくる!
実は、1997年の対戦では、ディープ・ブルーは、1戦終わるごとにパラメータを「微調整」されていました。
対戦後、戦いを振り返って悪かった手筋を見つけだし、その手筋に至った原因である「戦局の点数付け」パラメータを調整します。
コンピューターに創造性はありませんが、プログラマーには創造性があり、反省して修正することができたのです。
カスパロフは、コンピューターチェスのパラメータが、非常に微妙なバランスの上に成り立っていて、調整に長い時間が必要だと知っていました。
そして、それが故に「対戦期間の間、打ち筋が変わることは無い」と考えていました。
しかし、ディープ・ブルーは IBM が威信をかけて行っているプロジェクトでした。
調整したパラメータが適切かどうか、内部で自分同士で対戦を行うことで検証できましたし、チェスの専門家も同行していて、パラメータにどのような問題があるかを指摘することも出来ました。
このため、毎日パラメータを変更することが可能になっていたのです。
「洗練された1手」はバグでしたが、打ち筋が変わったのは、1晩でパラメータ変更を行えるチームワークがあったのです。
コンピューターが創造性を身に付け始めている!
これは、カスパロフにとって…コンピューターを良く知っているからこそ、驚愕の事実でした。
この事にカスパロフは恐れ、思考がまとまらなくなります。
そして、十分勝てる勝負を途中で打ち切り、敗北を宣言してしまうのです。
1997年 5月11日のことでした。
これにより、ディープ・ブルーの2勝1敗3引き分けとなり、ディープ・ブルーが「史上初めて、チェスチャンピオンに勝利したコンピューター」となります。
カスパロフは、後で「パラメーター調整が行われていた」事実を知り、再戦を申し込みます。
しかし、IBM はディープ・ブループロジェクトを解散。再戦は適いません。
IBM にとっては、これは「IBM コンピューターの優秀性」を示すデモンストレーションであり、目的を達成したらそれ以上お金をつぎ込む意味はなかったのです。
恐らく、もう1回戦っていたら、カスパロフが勝っていたでしょう。
心理的な混乱がなければ、十分勝てた勝負だったのですから、「種明かし」があれば負けなかったと思います。
しかし、歴史に「もしも」はありません。
すでに、コンピューターチェスの世界では、すでにコンピューターが人間を上回ったことになっています。
そして、より難しいゲームである、将棋や囲碁にターゲットが移っています。
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毎年恒例、大船祭りに行く。
すると、これも毎年恒例で子供たちが「フリーマーケット」を見たがる。
次女は毎年恒例でぬいぐるみを探す。
これも毎年恒例ですが、「300円までは良いよ」としています。
そして、次女は運命のぬいぐるみと対面をしてしまったのです。
以前から、小児科に行くと置いてあったシナモンのぬいぐるみ。
サンリオキャラの「シナモン」は、次女の好きなキャラの一つです。
結構大きなぬいぐるみも持っています。
でも、小児科に置いてあるぬいぐるみは、もっと大きかった。
「シングレア」という薬のイメージキャラクターとして使われていて、小児科なんかには配ったようです。
当然非売品。
世の中には、小児科関連にお勤めだったり、知り合いにいたりして個人で持っている方もいるようですが。
そして、フリーマーケットに、そのぬいぐるみが置いてあったのです。
次女の目、釘づけ。
ただ、問題はこれが「売り物」ではなかったこと。
当てくじでした。
1回100円で、当たらないともらえない。
結構遅い時間に行ったので、もう残りの景品は少なくて…店番してた小学生の男の子に「あと10個」と言われたのですが、後で調べたら11個ありました。
これを、3回で当てないといけない。
どうしても欲しい、というので、1回だけの約束で当てくじを引きます。
1回目、ミッキーのキーチェーン付ぬいぐるみ。
それほど悪くない、かわいいものです。
これは、次女もちょっと嬉しそう。
…でも、納得できない。1回という約束でやったので言い出せないけど、もう一度やりたそう。
仕方がない…2回目を引きます。
その場にある中では、「2番目のあたり」でした。
入手しようと思ったら、100万円必要な奴だぜ。
(JAバンクで100万円の定期預金組むともらえました)
でも、次女にとってはハズレ。
泣き出しそうなので、これで最後との約束で3回目。
でも、これで終わりと思うと、怖くてクジが引けません。
結局、ポッチャマのキーチェーンぬいぐるみ。
…次女、泣き出しました。
店番の少年も、そのお母さんも、いたたまれない気持ちになっている。
だけど、これはくじ引きだから、どうしようもありません。
しばらく考えて、長女が「じゃぁ、私がやって、当たったらあげる!」と。
長女は他のお店も見ていて、特に欲しいものが無い、と言っていました。
長女はうちの中では一番強運の持ち主、ということになっています。
よくプレゼントを当てるし、四葉のクローバーをすごい勢いで見つけ出す。
(4つ葉は、毎日10本くらい見つけてくる。大抵ひと夏に100本を超えます)
そして、1発でシナモンぬいぐるみを当てました。
当然のように「ほら、当たったからあげるよ」と漢気を見せる長女。
お店のお母さんも「どうなることかと思った。ほっとした」と。御心配おかけしました。
さて、そこで話題になったのが、長女がやっぱり強運の持ち主なのかどうか、について。
次女が3回もハズレを出して、当たる確率は高くなっていました。
とはいえ、長女が一発であたりを引いたのはやっぱりすごい。
次女は残り景品が 11個の状態から3つ引いたので、「どれかがアタリ」の確率は 3/11。
長女が引いた時点で、残る景品は 8個。あたりを引く確率は、 1/8 でした。
このままでは比べにくいので、分母をそろえると、 24/88 と 11/88。
長女は、次女の半分以下の「あたりの確率」で、見事に当てて見せたのです。
これは、やはり強運の持ち主と言える。
全体の個数が n 、あたりの個数が m の時、順次引いて行って最初に「あたり」が出る回数の期待値は、(n+1)/(m+1) になります。
確率計算の話はややこしいから、なぜそうなるかは書かないけど。
今回の場合、6回引いたらあたりが出ると期待されるわけですが、4回で当たったので安かったほう…かな?
次女が喜ばなかっただけで、一般的には当たりの「ちょリス」も当たっているし。
#このブランケット、被り物にもなっているので、家帰って遊んでたらお気に入りになりました。
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別年同日の日記
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今日は、ツーゼが Z3 を発表した日(1941)。
コンラッド・ツーゼは(Zuse)はドイツの工学者。
建築と土木を学び、航空機の設計技師をやっていました。
ところが、この仕事ひたすら計算に次ぐ計算。
彼はこれが嫌になって、「自動的に計算を行う機械」の開発を始めます。
1号機である Z1 は 1938年完成。
歯車ではなく、カチャカチャと動く「機械式の」2進数計算機でした。
(金属製の薄い板で計算します。)
しかし、これは上手く動きません。
2号機である Z2 は、 軍の協力もあって 1939年に完成。
機械式ではなく、リレー回路を使った電気式に置き変えていますが、基本的に仕組みは Z1 と同じ。
2号機がうまく動いたため、商売化するために自分の会社を設立し、3号機 Z3 を作りはじめます。
Z2 と同じ方法で、もっと汎用性を高めた改良機でした。
これが完成し、発表されたのが、1941年の 5月12日。
ENIAC の5年前のことです。
Z3 は、パンチテープによって計算の手順を指示できました。
「プログラム可能」なのです。
ENIAC は、電気回路を繋げることでプログラムできましたが、いわゆる「ソフトウェア」のような柔軟なものではありませんでした。
じゃぁ、Z3 が柔軟だったのかと言えば…全然柔軟ではありません。
使える命令は、次の9種類。
・キーボードを読み取る
・結果を印字する
・メモリを読み取る
・メモリに書き込む
・足し算
・引き算
・掛け算
・割り算
・平方根
たったのこれだけ。
ちなみに、メモリアドレスは 6bit 。64個の「一時データ置場」を持っているだけです。
#データは特殊な浮動小数点表現で、符号 1ビット、指数部 7ビット、仮数部14ビットの 22ビットでした。
プログラムはパンチテープで指示されるので、ジャンプ命令はありません。
条件分岐は当然できませんし、そもそも「条件判断」自体がありません。
コンピューターとしては、Simon みたいな構成です。
Simon の方がずっと後ですが。
ただ、Simon よりは記憶容量も大きいし、掛け算や割り算があるだけずっと良いです。
#Simon は 5bit 整数の 足し算と引き算しかできなかった。
これを巧妙に使えば、現代でいうようなプログラム…ジャンプや条件分岐が必要なアルゴリズムも実行できる、と示した人がいます。
その前に、BASIC 時代に「論理演算」と呼ばれるテクニックがあったのをご存知でしょうか?
たとえば、
10 S=STICK(0);
20 IF S=1 THEN X=X+1
30 IF S=2 THEN X=X-1
というプログラムがあったとしましょう。
ジョイスティックからデータを読み込み、変数 X を増減しているのね。
IF 文で条件判断する、という非常に普通のプログラム。
これを論理演算で書くと、こうなります。
10 S=STICK(0)
20 X=X-(S=1)+(S=2)
行の最初の = は、代入式となります。変数 X に、右辺の値を入れる、という指示。
以降の = は、 IF 文の中と同じ、条件式です。
ところで、BASIC では、条件が真なら -1 、偽なら 0 となります。
#BASIC のメーカーによっては、真が 1 でした。
そのつもりで読むと、IF 文で書いたのと同じプログラムが、IF 文無しで書けているのがわかります。
Z3 で条件分岐を使うのは、これに類似のテクニックです。
メモリ上に、条件判断に使いたい値を巧妙に記録しておきます。
この際、その値は 0 か 1 になるように正規化しておきます。
あとは、条件分岐で飛ばしてしまいたかったプログラムの「結果」と、この数値を掛け合わせます。
0 なら結果は「無かったこと」になりますし、1 ならそのままです。
プログラムをジャンプで飛ばしたわけではないけど、実行後に「無かったことに」するのです。
これだと条件判断できるだけで、「ループ」はまだ作れません。
でも、ループはもっと簡単。
パンチテープにプログラムが書かれているのだから、物理的にテープを糊付けして、頭とお尻をくっつければいい。
これで、永久ループの完成です。
…永久ループだから、プログラムが終了しませんね。
Simon と似ていると書きましたが、Simon を与えられたサザーランド兄弟は、Simon に「条件停止」機能を追加しました。
これにより、Simon では不可能だった「割り算」がプログラムできるようになりました。
プログラムでは、条件が整うまで繰り返す、ということがよくあります。
「条件が整った」時に停止するのは、プログラムに必要な機能なのです。
Z3 には、実は「条件停止」が最初から備わっていました。
割り算命令で、0 による除算を行うと、エラーとなって機械が停止します。
先に書いたように、メモリに巧妙に値を置くことで条件分岐とほぼ同じ結果を得られました。
同じように、値が 0 になったら停止する、というプログラムを作れることになります。
さて、これで Z3 が「現代のコンピューターと同じようにプログラムができた」ことを示すことができました。
素晴らしい!
もちろん、これは詭弁だと思います。
僕としては、これを現代的な意味での「コンピューター」だとは認めません。
しかし、2進法の採用やプログラム能力など、これをもって「Z3 は ENIAC よりも先に作られた、ENIAC よりも近代的なコンピューターだった」という主張をする人は、事実としているのね。
というわけで、簡単な反証を。
1942年の ABC マシンは、完成しませんでしたしプログラムできませんでしたが、2進数を使用していました。
1943年に作られたコロッサスは、長年軍事機密のために存在が隠されていましたが、ある程度のプログラム機能があったことがわかっています。
2進数を使う真空管式の計算機でした。
1944年には、Harvard mark I というリレー式計算機が作られています。
これは Z3 と似たような構成で、紙テープでプログラム可能でした。
Z3 をコンピューターと認めるのであれば、これらも ENIAC 以前の、ENIAC よりも近代的なコンピューターとして認めなくてはなりません。
でも、そんなことを言いだす人はいないのね。
明らかに能力不足だからです。
Z3 は、コンピューターの発展に大きく影響する、イギリス・アメリカ以外の国で作られたコンピューターです。
だからこそ、ツーゼはほぼ独学で Z3 を作り上げていますし、Z3 の存在は現代のコンピューターに、ほぼ何の影響も与えていません。
ここら辺の話が…独学で優れたものを作りながら、誰にも認められていないというのが、人情話として面白いのは事実なのね。
しかも、Z3 は戦火の中で破壊されています。
「可哀想な話」をさらに加速するエピソード。
これらが、Z3 を特別扱いさせ、「世界初のコンピューターだった」という伝説を生んでいるように思います。
じゃぁ、Z3 はどうでもいい機械だったかと言えば、もちろんそんなことはありません。
非常に限られた能力だったとはいえ、プログラム可能な機械として完成した、世界最初のものです。
#構想だけなら「解析機関」以降、数多くありました。
先に書いたように、Z3 は第2次世界大戦中に破壊されてしまいますが、ツーゼは続いて Z4 を作成。
これは市販され、ヨーロッパでは影響を持つマシンとなりました。
ただ、「市販されたコンピューター」としては、BINAC に次いで2番目。
また、Z4 は相変わらずリレー式だったため、ENIAC 以降としてはインパクトも弱い。
ここら辺で、Z4 は Z3 ほど「面白いエピソード」が無い。
これも、Z3 が本来の能力以上に伝説的にされる要因かと思います。
戦後は、コンピューターはアメリカとイギリスが競争するように発展していきました。
Z4 以降もツーゼはコンピューターや周辺機器を作り続けているのですが、「時代に影響を与えたか」と言えば、あまり影響はなかったように思います。
Z3 は 1941 年完成で、ドイツとアメリカ・イギリスは敵国同士です。
これも、影響が少ない理由でしょう。
#噂程度の影響は与えたかも知れません。
参考:Simulating Konrad Zuse's Computers
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今日は、ジョージ・ルーカスの誕生日(1944)。
超有名映画監督ですね。スターウォーズが代表作。
スピルバーグ(激突!、ジョーズで注目され、未知との遭遇、ジュラシック・パークなどのヒットがある)ともよく混同されるけど、インディー・ジョーンズなんかは二人とも仲良くかかわってる。
お互い混同されないようにしよう、と一緒にインタビューされたときにわざと同じような格好をして言うのもネタのうち。
さて、僕のページで取り上げるのだから、映画監督としてではなく、コンピューター関連の人として紹介します。
ルーカスはテレビゲームも大好きで、ルーカスフィルム・ゲームズというゲーム作成会社を持っていたのね。
#後に複雑な経緯を辿って「ルーカスアーツ」になり、現在ディズニー・インタラクティブに吸収合併。
アメリカでは、たくさんのゲームを出していて、大ヒット作もある。
でも、残念ながら日本人好みする作品は少なくて、国内ではそれほど発売されていなかった。
このルーカス・フィルム・ゲームズ、1982年の5月に設立されていますが、日付が残念ながら不明。
「今日は何の日」で扱えないので、日付も近いルーカスの誕生日に書かせてもらう次第です。
以下は、僕が覚えている物のみ紹介します。
ファミコン版が出ていて、結構好きでした。
今見ると、移植元に比べて動き悪いね。
これ、意味わからん、クソゲー、っていう人と、面白かったという人で意見が分かれる。
ゲーム内容は、サッカーに似た球技です。
ただ、近未来だという設定になっていて、乗り物に乗って1対1で戦う。
乗り物は高速で動くので、サッカーなのに1対1でもなんとかなる。
ゲーム画面も、当時としては非常に珍しかった、3Dの上下分割。
…この時点で、理解できない人には付いてこれない。
「珍しい3D」なのに、「高速で動く」のですから。
しかも、この視点で球技って、今でもあまり見ない。
3Dだけど、上ボタンを押していれば「目的地に向かう」ようになっています。
ボールを持っていなければボールに近づき、ボールを持っていればゴールラインに向かう。
方向転換は自動。
左右で横にスライド移動できるけど、ボールにより早く近づいたり、相手にフェイントかけるのに有効。
バスケットボールみたいに、ゴールにシュートした位置で得点が変わります。
遠くからシュートすると3点だけど、ゴールは常に動いているので、外れることも多くなる。
基本的に、友達と対戦するためのゲームです。
友達相手だと、フェイントかけたり、心理戦が重要になってくる。
上押していれば目的地に突進するゲームなので、フェイントも利かないコンピューター相手にやっていても面白くない。
アドベンチャーゲームです。
こちらもファミコンに移植されていました。
安くなっていたのを買ったのだけど…難しすぎて解けなかった。
ルーカスフィルムは本来映画会社ですから、映画的な演出を狙った内容でも、アメリカでは大ヒット。
後に続編も作られていますし、今でもこのゲームが好きだ、というファンが多数いるようです。
アドベンチャーゲームと言えば、絵が表示されてコマンドをキーボードから入力して…という時代に、このゲームではカーソルを使って、コマンドと「場所」を指定する方式です。
指定されると、実際に画面上をキャラクターが動いて、指示されたことをやろうとします。
ここら辺の演出が「映画風」だったわけです。
#細かな見た目の問題だけでなく、ストーリーの作り方なども映画風だったわけですが。
使用できるキャラクターがやたらと多く、その中の2人を選んでゲームを開始するのですが、それぞれ得意なことなどが設定されていて、出来ることが違う。
それでも、できることを組み合わせてキャラに合わせた展開で先に進まないといけないようになっていて、どのキャラでもちゃんとゲームを終えられるようになっている…らしいです。
(僕は最後まで行けなかったから、詳しくは知らない)
これは多分国内移植されてないよね?
僕も遊んだことありませんが、かなり話題になって、当時いくつかのテレビ番組やゲーム雑誌で紹介されていました。
「フラクタラス」という惑星に残された友軍兵士を助け出すために、敵の攻撃をかいくぐりながら惑星に降下しなくてはならない…という内容。
基本的には、コックピット視線の3Dフライト・シューティングです。
レーダーに友軍兵士の位置が映るので、その近くに着陸すれば、兵士はこちらに向かってくる。
…ただし、異星人が偽装している場合もあります。
敵だとわかったら射殺。味方と確認すればエアロックオープン。緊張感があります。
移動中も、敵兵から撃たれるのをかわしながらこちらからも攻撃したり、割と忙しい。
惑星全体が山岳地域となっていて、飛んでいても山を避けないとならないし、敵も周囲のどこに潜んでいるかわからない。
このゲームがすごいのは、惑星上空を自由に飛び回れることです。
自由に飛んで、地形はどこまでも続いているし、近づいてもそれらしい山の稜線が設定されている。
この地形を、当時の 64Kbyte しかメモリ空間のない 8bit 機で表現しているわけです。
実のところ、地形はランダムだったようです。
フラクタル理論を応用して山を作ってあり、近づいて詳細が見えてくると、リアルタイムに詳細部分を生成する。
フラクタルだからこそ、できる芸当。
オンライン上の架空の街で架空の生活を楽しむゲームです。…ゲーム?
ハビタットは壮大な実験で、これがゲームだったかどうかすらわかりません。
見た目の上では、マニアックマンションとシステムが似ています。
何をするか指示をすれば、キャラクターが動き回る。
ただ、アドベンチャーゲームのような既存のシナリオは無く、同時に複数のプレイヤーが同じ世界を遊んでいます。
プレイヤー同士は会話も可能です。
持ち物を交換することも出来るので、お金を渡して品物を受け取ることも可能。
武器もありましたので、殺人も可能。
殺された人は自分の家から再スタートしますが、持ち物は殺された現場に残ります。
自分の家を持つことも出来ました。
ハビタット内での殺人が横行した時は、現実世界での神父さんが教会を建て、「武器を捨て、穏やかに生きる」信者が沢山集まったそうです。
今ではこういうシステムも珍しくありませんが、おそらくは、その最初のシステム。
ただ、当時はインターネットは普及しておらず、電話回線で遊びました。
電話代もかかるし、それとは別にハビタット自体が時間課金。
ゲームの世界に入り浸ってものすごいお金をつぎ込んでしまう人など、現在の問題も先取りして、たった2年間の実験を終了します。
一番の問題は、自由すぎてこの世界で暮らすユーザーの「常識」が成立しなかったこと。
たかがゲームだ、と考えるユーザーは殺人を楽しむし、架空とはいえ生活だと考えるユーザーには、これが我慢ならない。
アンケートを取っても五分五分で意見が真っ二つだったそうです。
その後、富士通がこのシステムを買い取って日本版なども提供しましたが、自由すぎるがゆえの問題と、お金がかかりすぎる問題はそのまま、こちらも短期間で終了。
以上、他にもいっぱいゲーム出してました。
富士通の FM-Towns は海外ゲームの移植が多くて、移植されたものもあったはず。
「アイドロン」は、レスキュー・オン・フラクタラスのシステムを、洞窟探検のファンタジーアドベンチャーに応用したもの。
「マニアックマンション」以降のアドベンチャーゲームシリーズは定評が高く、長く続きました。
モンキーアイランドはメガドライブ(メガCD)でも日本語版出てました。
最初に書いた通り、現在はディズニーに吸収合併されています。
既にディズニーからスターウォーズのゲームなどが発売されていますが、過去のシリーズの続編が出るかなどは不明。
#親会社であるルーカスフィルム自体が合併され、映画スターウォーズの新作などはディズニーが作成予定。
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ルーカス絡みで、思い出したのでもう一つ話題を書いておきましょう。
こちらは、記憶のみで資料が無い。昔、雑誌の「ログイン」に載っていた記事の記憶なのだけど。
ルーカスは、スターウォーズの第1作目(エピソード4)を撮影したときに、ものすごい手間をかけて画像合成を行い、宇宙空間を表現しました。
こうした「特殊効果」を行うための会社まで設立します。それが、インダストリアル・ライト・アンド・マジック。(ILM: 光と魔法の工房、という意味)
さて、この ILM が、コンピューターを使った画像合成を行おうと考えました。
たしか、エピソード6で使われたのではなかったかな。
エピソード6の公開年は 1983年。
同年発売の PC-8801 を例にとると、パソコンでは 640x200ドット、8色程度がせいぜいの時代です。
この時代に、映画館で見ても違和感ないほどのドット数(横2千ドットくらい?)で、色数も24bit カラーの機械を作ってしまったのです。
この機械、当時としては「コンピューター」としてログインに紹介されていました。
ただ、演算能力は無くて、画面表示ができただけだそうです。
つまり、いまでいえば「グラフィックボード」に近いものですね。
当時の技術では、ボード1枚になんて収まらず、パソコンですらなく、ミニコンピューターレベルのサイズなのですが。
どうやら、この機械を別のコンピューターに接続し、画像合成などを行ったらしいのです。
今で言えば Photoshop みたいなものなんでしょう。明らかに時代の先取りでした。
コンピューターの画面表示で、最小単位の1ドットのことを「画素」と呼びます。
英語では Pixel 。Picture と、 Cell (小さく区切られたもの)から作られた造語です。
そして、とんでもないほど高精細な Pixel を表示できるこの機械、名前を Pixer 1 と言いました。
「画素化1号」とでも訳せば良いでしょうか。
ILM は、わざわざルーカスフィルムとは別会社として作られ、ルーカス以外にもいろいろな会社の「画像処理」作業を行っていました。
当然、このグラフィックコンピューターもそうした作業に使われたと思われます。
当時としては、先進的過ぎる、魔法のような機械だったと思います。
後に、どうやら Pixer 2 が作られたようです。
(もしかしたら、P-II が正式名かもしれません。ネット上に P-II という記述があったので)
ILM からさらに Pixer Image Computer という会社が設立され、Pixer 2 を量産販売し始めます。
主な顧客は、政府機関や医療関連、映画会社など。ディズニーも顧客だったようです。
…ところが、この戦略が失敗。
このコンピューターは先進的過ぎましたし、他の機械から操作する「出力機械」でしかありません。
全体をそろえようとすると、あまりにも高価だったうえ、それを適切に扱うソフトウェアもなかったのです。
ここで、Pixer 社はルーカスフィルムのグループから離脱することになります。
お金を出して買い取ったのは、当時 NeXT 社のスティーブ・ジョブズ。
コンピューターの販売は辞め、名前をピクサー・アニメーションスタジオに変更して、アニメを作りはじめます。
最初は、非常に簡単なアニメから。
それでも、「全編をコンピューターで作ったショートムービー」は非常に新しいものでした。
やがてレイトレーシングを使い、人間を登場させ…表現力を高めていき、長編アニメ「トイストーリー」で、商業的にも成功をおさめます。
あとは、多くの人が知っている通り。
ピクサーは、ルーカスのグループ企業から始まりましたが、一足先にディズニーの傘下に入っています。
その後、ルーカスフィルムもディズニー傘下に入ったのは、先に書いた通りです。
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16日、土曜日は次女の保育園の遠足だった。
…朝から雨。「行きたかった」と泣き出す次女。
中止じゃなくて延期なのだけど、本人はとても楽しみにしていたらしい。
でも、実は僕としては予定が重なっていた JAMSTEC の公開日に行けることになったので、内心喜んでいた。
家族で JAMSTEC 行くために、お弁当は作る。
「遠足のお弁当自分で作りたい」と言っていた次女も手伝い、機嫌がなおる。
一般公開は9時半からだが、家を出たのが9時半過ぎ。
しかも、ガソリンがほぼなくなっていたのを忘れていて、遠回りしてガソリンスタンドに寄ってから。
JAMSTEC に付いた時点で、すでに11時近かった。
お弁当は持ってきたので、どこででも昼飯は食べられる。
でも、雨だとそこらへんの芝生の上で、というわけにはいかない。
屋台村の中のテントに空席があったので、先に昼ご飯を食べてしまう。
その後は、まずスタンプラリー。
去年見たばかりなので、子供たちは しんかい6500などにそれほど興味がない。
今年のしんかいは一味違う。…建造から25周年のステッカーが大きく貼ってあったのだけど、それも特に興味なし。
片っ端からスタンプを押して、さっさと景品をもらった時点で、1時前。
去年は機材などの展示を中心に回ったので、学術研究の発表みたいなー、という親の意見に従ってくれて、研究棟へ。
…1時まで昼休みでした。
次女が船乗りたいというので、白鳳丸へ。
順番待ちの列に僕が並んでいる間に、妻と子供たちが近くにあった「ロープワーク」のブースでロープを貰ってくる。
去年のロープは興味を失って捨ててしまったのだけど、久しぶりに見ると楽しいらしい。
#長男はもやい結びできます。是非覚えておくべき結びの一つ。
白鳳丸には、旗がいっぱいはためいています。
…これ、国際信号旗だよね。
去年は、船の名前を示すように並んでいた。
今年はどうなっているのだろう、と思って読むのだけど、読めない。
HAKUHOUMARU だとすれば、H や U が2回以上出てくると思うのでそのつもりで見ても、同じ文字が出ない。
乗船前に定員の都合で少し待たされたので、その時に整理を行っていた船乗りの方に聞いてみた。
「今年は、これ適当に並べてますね。意味のある並びではないです」
乗船後、ブリッジで旗と文字の対応がわかったので調べたら、A B C D E …とアルファベットが並んでいるだけだった。
白鳳丸の中での見どころ。
ラウンジとダイニングが豪華。
昨年見た船(何だったか忘れた)はお客さん用の部屋でも質素だった。
(それでも、通常クルーの部屋より広かった)
ラウンジは来賓専用の応接室で、非常に広く、カウチソファとローテーブルの応接セットもある。
ダイニングは上官用の食事室で、こちらもゆったりした広さ。
壁新聞スペース。
ファックスで送られてきた新聞が掲示されている。朝・夕刊届くようだ。
この時も、当日の朝刊が貼ってあった。
世間から隔絶された洋上では、こうしたニュースは大切な娯楽なのだろう。
なんかのデータロガーに書いてあった注意書き。
最近の機械の交換で、それまで RS-232C でしか取り出せなかったデータが、イーサネットにも対応したという。
RS-232C って単語を久しぶりに見た。
研究室へ。
事前に、研究室での内容のチラシを貰っていて「超臨界水」という言葉に長男が興味を持っていた。
超臨界水が何であるか、事前に少しだけ教えて置いたけど、きっと展示を見れば詳しくわかるから…と詳細は教えなかった。
見に行ったら、MAGIQ乳化、という状態のものを見せられた。
乳化というのは、本来分離してしまう水と油が混ざった状態。
2つの小さな瓶があり、1つは普通に水と油を混ぜて乳化した状態。
もう一つは、超臨界水を使ったMAGIQ乳化。
よく見ると、MAGIQ乳化の方がすきとおっていて、ちょっと違うのがわかります…と説明。
僕から質問。
これ、水と油だけですか? 乳化剤入ってないの?
実は入っています、との答え。超臨界水のままなら乳化剤なしに乳化するのですが、瓶などに入れておくとまた分離してしまうので、安定させるために乳化剤を少し入れてあるそうです。
妻からも質問。
透き通っているように見えるのは、油が細かくなってレイリー散乱しているから?
レイリー散乱っていうのは、光の波長より細かな粒子によって起こされる、光の散乱現象。
空気中などで起こり、空が青いのも、夕焼けが赤いのも、レイリー散乱によるものです。
これは、まさにその通りです、との答え。
MAGIQ 乳化は超臨界水を利用した「応用」の話で、長男が興味を持っていた「超臨界水って何?」に対する答えは無かった。
そこで、僕から少し説明。
水は、陸上(1気圧)では 100度で沸騰する。
水深 100m では、180度まで沸騰しない。
水深 1000m になると、312度でやっと沸騰する。
深海 2000mまで潜ると、350度にならないと沸騰しない。
では、3000m くらいまで潜ると何度で沸騰するか?
#正確な数字を覚えてなかったのだけど、説明を始めたらそのデータをプロットしたグラフをすぐに持ってきてくれた。
さすが研究室。欲しいものがすぐ出てくる。
答えは、「3000mでは水はどんなに温度を上げても沸騰しない」。
その代り、水とは明らかに違う特性の液体に変化します。
水のはずなのに、ほぼ油と同じ特性を示し始める。塩は溶けにくくなり、親油性を示します。
この親油性を活かし、超臨界水で油を溶かすのが MAGIQ乳化、という事でした。
#後で調べたら、深海で温泉が湧きだしている、熱水鉱床で MAGIQ乳化が起き、これが生命の起源に関係するのではないか、という基礎研究でした。
ここで長女から基本的過ぎる質問。
「にゅーかってなに?」
えーと、ドレッシングって、混ぜないと油と水に分かれてるでしょ?
混ぜても、しばらくすると別れちゃう。
でも、同じように油と水を混ぜても、マヨネーズは分離しない。
こういう、綺麗に混ざった状態が乳化。
#とっさの説明だったけど、厳密に言えば、後で分離してしまうとしても「混ざっていれば乳化」です。
「乳化剤」が入っていると分離しなくなる。
卵黄は乳化剤としての効果があるので、卵入りドレッシングであるマヨネーズは分離しません。
…と、説明していたら、説明担当の研究者の同僚の方(?)から、「おー、すごく上手で的確な説明。説明役変わって貰えば?」と軽口。
すぐ隣、新型の顕微鏡を実演していました。
この顕微鏡の機能には驚いた。
目で覗くものではなく、コンピューター制御でパソコン画面に映し出すものなのだけど、「厚み」を捉えることができる。
それを元に、3D 表示を行ったり、調べたい個所の幅や厚さを即座に表示することができます。
ナノメートル単位で厚みがわかるようです。
一見すると普通の顕微鏡。
上から光を当てているだけで、一体どうやってナノメートル単位を測っているのか?
質問したら、計測を実演してくれました。
厚み計測には時間がかかるそうです。
顕微鏡を覗いたことがある人ならわかると思いますが、顕微鏡って、「厚み」に対して焦点が当たる部分が狭い。(カメラ的に言えば、被写界深度が浅い)
プレパラートとカバーガラスの間のわずかな隙間の水の中に微生物が泳いでいても、上と下では明らかに焦点が異なる。
また、顕微鏡では光の当て方で「コントラスト」を変えられる。
光を絞り込んで狭く対象に当てていると、焦点の合ったところ以外を暗くしてしまい、コントラストを上げられる。
この二つを利用すると、「明るさによって、焦点が合っているかどうかわかる」ことになる。
焦点距離を少しづつ変えながら何度も撮影を行うと、高さがわかることになる。
なるほど、知っていることを応用して組み合わせただけだった。
でも、コンピューター時代になって正確に操作ができるようになったから、ナノメートル単位で焦点を変えて計測、ができるわけで、今の技術でないと出てこなかった顕微鏡なのだろう。
別の研究室では、論文のポスター展示を行っていた。
たまたま目に付いたのが英語のポスター。
他のものは日本語なので一瞥して研究内容がなんとなくわかるのに、英語で一切わからないから気になったともいえる。
一生懸命読んでいたら、「英語の論文読んでる人がいる!すごい!」と研究室の人に言われた。
うーん、同じ内容で日本語があればそちらを読みたいけど、気になっちゃったら英語でも読むしかないじゃないですか。
英語でよくわからないので斜め読み。
長男が「なに書いてあるの?」と質問するので、斜め読みしながら説明もする。
最初に見た部分、写真がついていて、電気回路の一部に「チムニーの壁」を挟んでいるのに、LED が点灯している。
英語を斜め読みすると、チムニー(海底温泉である、熱水鉱床の噴出孔)の壁は岩石なのに、グラファイトと同じように電流を通す特性がある、ということが書いてある。
ポスター横に立っていた研究員の方に、「グラファイトってなんでしたっけ?」と聞くと、鉛筆の芯のような炭素、と教えてくれた。
あー、そういえばそうだった。知っていても、忘れていた単語。
説明員の方によれば、「グラファイトのように」というのは、抵抗などがほぼ同じ意味なのだそうだ。
鉛筆の芯は、抵抗はそれなりにあるけど、よく電気を通す。シャーペンの芯を使って PC-E500同士で通信したことある人も多いだろう。
へー、岩石なのに電気透すんだ。興味深い。
つづいて、その上に書いてあった内容を読む。
こちらは、チムニーから噴出する熱水はいろいろな成分を含んでいるが、化学変化によって電子が余っていて、回路を作ってやれば周囲の海水との間で電気が取り出せる…という事が書いてある。
熱水鉱床から電気を取り出せる。これは興味深いのだけど、次の「壁が電気を通す」ことを合わせて、この記事繋がっているのだな、と思って結論の方へ。
熱水鉱床の周囲に住んでいる微生物などは、従来硫化水素などをエネルギー源として生きていると考えられてきたが、チムニーから電気を取り出して、電気エネルギーを直接「食べて」生きている可能性がある…と。
電気を食べる生物がいる!
このポスター、今回いろいろ見た中で、一番僕の興味を引いたものでした。
隣に立っていた研究員の方、この論文書いたご本人だそうで、長男に説明しながら読んでいたので「そこまで理解していただけるとありがたいです」と言われた。
英語だから、ほとんど読む人もいないみたいなのね。
僕も、たまたま目についたから読んだけど、もしかしたら素通りしていたかもしれない。(英語は苦手)
でも、読んで良かった。非常に興味深い。
研究員の方によれば、これはまだ可能性を示唆しただけで、電気を食べる生物は見つかっていないそうです。
でも、確かに電気を食べている、という状況証拠はあるのだとか。
あとは、「どの微生物が」電気を食べているのか特定するだけ。
普段は流化水素などからエネルギーを得ながら、電気「も」食べているだけだと考えられるので、特定条件を満たさないと電気を食べないのかもしれないし、なかなか生物の特定に至らないようです。
以前に JAMSTEC の方の講演会で聞いて感心した話なのだけど、生命の起源は熱水鉱床である可能性があるそうです。
そのつもりで「電気を食べる」ということを考えると、それが生命の最初の姿かもしれない、ということなのでしょう。
生命は最終的には電気で動いているだけど、この電気は、外部から取り込んだ物質を化学変化させることで取り出している。
このメカニズムはそれなりに複雑で、いきなり作られたとは思えない。
最初に「電気が湧き出す場所」としての熱水鉱床があり、そこで生命が生まれた後、電気が無いところでも電気を得る方法を獲得した、と考えると生命の発生が説明しやすくなる。
先の「MAGIQ 乳化」も同じね。
生命は油と水の微妙なバランスの上に成立しているのだけど、通常は水と油は分離してしまうので、「微妙なバランス」なんて作り出せない。
熱水鉱床の環境は超臨界水が存在するので、そこで「微妙なバランス」が作られていれば、生命が偶然生まれる条件が整いやすくなります。
他にも面白い論文ありました。
まだ研究中の最先端の成果を見せていただいているわけで、結論が出ていなかったとしても知らない世界を覗けます。
うちの子たち、最近T4ファージを知ったのだけど、熱水鉱床の微生物群の中で発見したファージについての論文もあった。
電子顕微鏡写真もついていたけど、たしかに丸い頭に棒が付いたファージが見える。
(ファージはウィルスの一種で、細菌に取り付くもの)
ざっと説明すると、熱水鉱床はそれぞれが別の生態系を保持していて、そこに住む細菌なども全く異なるのだけど、遠く離れた熱水鉱床でも共通するファージが居ることがわかった、というもの。
こちらも、生命の誕生とほぼ同時に、その生命に取り付く「ウィルス」も誕生していたのではないかと示唆するものです。
生命が誕生した時すでにウィルスがいて、感染したまま広まってから、環境が隔離されて生命が独自進化を遂げたのではないか、ということ。
そうすれば、遠く離れ、生息する生命も異なる熱水鉱床に、同じファージがいる説明になります。
そもそも、ウィルスは生命のようで生命に「なり切れていない」、半生命みたいな存在です。
生命の誕生とほぼ同時に生まれた、というより、ウィルスが先なのかもしれません。
…と、こんなポスター展示を感心しながら見ていたら、子供がつまらないと言い出した。
親としてはもっと見ていたいのですが、別のところを見に行きます。
深海生物「ゴエモンコシオリエビ」が生きたまま展示されている、というのでそのコーナーへ…行く途中、子供たちが、別のものを発見し、気を取られます。
「おもしろ科学たんけん工房」主催の、「くるくるリングを作ろう」。
持って歩いている子がいる、とは思っていたけど、ここで作っていたのか。
すごい人気で長蛇の列。それを並んでも欲しい、というので並びます。
長蛇の列とはいっても、並んだのは15分くらいだったかな。
次女には難しかったので僕が手伝って、長男と長女は自分で作ります。
すごく単純だし、回している子のを見てて、「原理」はすぐに理解できた。
でも、自分で回してみると、頭で理解しているのと違う楽しさがある。非常に「手触り」の良いおもちゃです。
直線運動を回転運動に変え、リングがくるくる回る。
単純化すれば「それだけ」のおもちゃなのですが、回転方向は必ず1方向になるようになっているし、上手に回すのに、適切な「直線運動」の速度もある。
しくみを考えると興味深いです。
このあと、しんかい6500のモックに乗りたいと次女が言うのでまた列に並びます。
(この日は見学だけで乗れなかったのだけど、満足した様子)
さらに、昨年も見た「火山噴火実験」を見学。
火山の噴火を模擬的に起こす…と、難しい説明ですが、やることはコーラメントス。
去年もそうでしたが、単純に盛り上がります。楽しい実験。
これで、公開時間終了。
スタンプラリーの景品、しんかい6500 のパスケースと、アンケートのボールペンを貰って帰ります。
パスケースは、透明のビニールの中に、青と透明の液体(混ざらないので水と油でしょう)が入っていて、その中に透明プラスチックに印刷されたしんかい 6500 が浮いています。
子供たち、早速白い紙に、貰ったボールペンで「深海生物」の絵を描いていました。
パスケースに入れると、深海にいる感じになる。
去年見たものは、今年はほとんど見てない。
実は見たものは少ないのだけど、去年とあわせて「沢山回った」感じがする、充実した見学でした。
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別年同日の日記
申し訳ありませんが、現在意見投稿をできない状態にしています。 |
X68kのページに、当時 CPU 68000はグラフィックに強いとされていた、と言うようなことをちらっと書いていたのだけど、理由が知りたい、という人がいた。
このページ、20年近く前に書いたものなので、当時は当たり前だったことが全く書かれていない。
今となってはわかりにくいのは事実で、補足しようと思った。
でも、いろいろと調査すると、どうも 68000だからグラフィックに強い、ということもなさそうな印象も受ける。
結論としては「当時は雰囲気的にそういわれていた」程度になってしまうのだけど、一応の説明をしておこうと思う。
▼前提条件
前提として、X68k の開発が開始されたころは、当時はインテルは 80286 を発売していて、80386 はまだ出ていないと思われる。
(X68k 発売時には出ているのだけど、おそらく設計時点では存在しない)
68020 は設計時に出ていたかどうか微妙。
もし出ていても、68020 は 32bit 設計で、まだ 8bit 機も販売されていた時代にいきなり 32bit 機を作ることはできなかったと思う。
他の CPU もあっただろうけど、メジャーどころは 68000 か 80286 か、ということになる。
▼VRAMの構造
わかりやすいところで、IBM PC/AT で採用された VGA のメモリ構造を解説しよう。
当時の、一般的な VRAM (画像表示用 RAM)の構造だと思う。
VGA では、640x480 ドットで 16色を扱えた。
1ドットは 4bit ということになる。すると、150Kbyteのメモリが必要だ。
VGA では、横8ドットを 1byte で表現していた。
これは、VGA の前身となる CGA (IBM PC で使われた規格)で使われた方式と、ある程度互換性を持たせるためだ。
8ドットを 1byte で表すと、点の有無しか表現できない。白黒だ。
そこで、この白黒画面を4枚用意して、それぞれが「色フィルタ」だと考えて重ね合わせる。
赤・青・緑・そして明るさ。この4枚を重ねれば、16色を表現できる。
この場合、1画面は 37.5Kbyte となる。
VGA には、もう一つの画面モードがあった。こちらは、1ドットを1バイトで表現するため、256色が出せる。
ただし、画面解像度は 320x200 になってしまう。全部で 64000 ドット。64Kbyte 弱のメモリが必要となる。
16色モードのように、白黒画面(プレーン)を重ねる方式を「プレーナ方式」と呼ぶ。
1バイトが横方向に並ぶから、水平型 VRAM、という言い方もある。
256色モードのように、1ドットを必要なビット数で表現する方式を「パックドピクセル方式」と呼ぶ。
複数ビットが1ドットに(奥行きとして)並ぶから、垂直型 VRAM 、という言い方もある。
X68k では、テキスト画面として水平型を、グラフィック画面として垂直型を使っていた。
さて、グラフィックを扱うのにどちらがやりやすいかと言えば、パックドピクセル方式の方だった。
プレーナ方式は、省メモリというメリットはあるのだけど、グラフィックを扱う際には面倒なのだ。
省メモリ? どういう構造で持とうが、メモリの量は同じでしょ? と思ったあなたは鋭い。
実は、プレーナ方式は 8bit 機で主に使われていたやり方だ。
PC-8801 の場合、640x200 8色のグラフィックが扱えたが、計算するとこれだけで 48Kbyte のメモリが必要となってしまう。
8bit 機では、メモリは全部で 64Kbyte しか扱えない。その 3/4 をグラフィックだけに取られるのだ。
そこで、プレーナ方式が活用される。
メモリ上は、16Kbyte の「白黒画面」しか CPU から見えない。
ただし、この白黒画面を、CPU から制御できるスイッチによって切り替えて、3画面持つのだ。
(画面のメモリは当然 48Kbyte 持っているが、CPU からは 16Kbyte 分しか見えないことになる)
切り替えればよい、という点では、別にパックドピクセルでメモリを途中で切り替えたって構わない。
ただ、その場合は画面の途中で不連続な場所が現れることになる。線を一本引くだけで、途中で切り替えるタイミングなどを考慮せねばならず、プログラムは面倒になる。
それよりは、色ごとに画面がわかれていたほうが、「まだまし」なのだ。
ベストではないけど、限界を考えればベターな方法だった。
2015.5.29 追記
当初、FM-77AV の VRAM 構造はどうだったのだろう、と書いておいたら、教えていただいた。
その後も情報が集まり、書くと長くなりそうなので、別記事にまとめました。
(追記終り)
▼メモリの連続性
さて、VGA ではハイレゾ画面でプレーナ方式を使い、ローレゾ画面でパックドピクセル方式を使っている。
ハイレゾ画面は 150Kbyte の容量になってしまうため、「省メモリ」の必要性があったのだと思う。
8bit じゃないのになんで? と思う方もいるだろうけど、8086 は 8bit との互換性を重視した設計で、80286 になっても、IBM PC では 8086 互換モードで動いていた。
8086 では、アドレスレジスタが 16bit しかない。つまり、64Kbyte までしかアクセスできない、8bit と同等の性能しかない。
ただし、「セグメントレジスタ」というやはり 16bit のレジスタがあった。
このセグメントレジスタは、16byte 単位でメモリ内のアクセスの起点を決められた。
アドレスレジスタは、この「起点」から 64Kbyte の範囲をアクセスできる。
この 64Kbyte を、8086 では「セグメント」と呼ぶ。
全体としては、1Mbyte のメモリを扱えるのだけど、プログラム単位では 64Kbyte で制限がある、と考えてもいい。
このため、VGA のハイレゾ画面は、プレーナ方式を使うことで 37.5Kbyte という「セグメント内に収まる」サイズに制限している。
ローレゾ画面も、ハイレゾの縦横半分ではなく、縦方向をさらに縮めることで 64Kbyte という「セグメント内に収まる」サイズに制限している。
VGA の画面構成は、制限内でどうやればよいかを考えた、良く工夫されたものなのだ。
でも、これは逆に、制限がきついという事実を突き付けているだけにも思える。
X68k の場合、テキスト画面は 1024x1024 で16色だった。
(画面表示範囲は最大で 1024x848)
これだけで、白黒1画面は 128Kbyte に達する。
グラフィック画面では、1024x1024 では同じく 16色、512x512 だと 65536色だった。
こちらは、512Kbyte になる。
どちらも、8086 のセグメントの中ではアクセスできない。
こうしたメモリを連続して扱えるのは、68000 の強みだった。
当時は、色数と解像度が急激に上がっていった時代であり、それは大量のメモリを扱わなくてはならない、ということに他ならなかった。
80286 にはそれが難しく、68000 なら可能だったことが、「68000 はグラフィックに強い」と言われる一因だったとは思う。
(80286 も、互換モードではなく性能を引き出せる「プロテクトモード」にすると、セグメントレジスタが 24bit となり、16Mbyte のメモリの好きな点を示せるようになる。
アドレスレジスタは 0 に固定し、セグメントレジスタを動かす…というようにすれば、非連続ではなくなるだろうが、セグメントレジスタはアドレスレジスタよりも扱える命令が少なかった。
また、80286 は 8086 の資産が扱えるのが利点であり、プロテクトモードで動かすのであれば、資産のない 68000 を使ったって同じだった)
▼アドレス計算
グラフィック画面というのは、巨大な2次元配列変数と変わらない。
パックドピクセルであれば、Y * width + X + BaseAddr でアクセスすべきメモリを求めることができる。
プレーナ方式であれば、8ドットが1バイトにまとめられるのでもう少しややこしい。
その上、必要な分だけ他の画面にもアクセスしないといけない。
(この点では、3次元配列になる)
しかし、2次元配列のアドレス計算が必要、という点は、どちらの方式でも変わらない。
上に書いたような式程度なら、80286 でも 68000 でも難なく計算することは出来る。
でも、そこを起点にさらに周囲のアドレスにアクセス…などとなってくると、話はややこしくなってくる。
68000 は、アドレスレジスタを 8本持っていた。80286は、目的別の(自由に使えるわけではない)アドレスレジスタ 3本だけだ。
また、メモリアクセスの際のアドレス計算(アドレッシングモード)も、68000 の方が豊富だった。
ここら辺もまた、68000 がグラフィックに強いとされた一因だと思う。
▼反証:AMIGA と Mac
…と、ここまでなら「68000 はやっぱりグラフィックに強かった」で終わりなのだけど、最初に書いた「理由を知りたいと言っている人」と話をしているときに、AMIGA や Mac の VRAM はどうなんですかね、という話になった。
先に書いておくと、その人は別に反証を出したわけではなくて、X68k の話で納得していたようだ。
でも、僕は AMIGA をそれほど知らなかったので調べているうちに、これは反証を出されたのかな、と思ったのだ。
AMIGA は、CPU に 68000 を使用し、「グラフィックに強い」とされていたマシンだ。
テレビ信号との親和性を重視した設計で、画面をスーパーインポーズできたりする。
テレビ業界でも編集作業などに使われ、当時はウゴウゴルーガというテレビ番組でもリアルタイムに CG を動かすのに利用されて話題になっていた。
#あらかじめ用意してある(プリレンダリングの)CG を動かしているだけだけど、スタジオで子供と掛け合いをしながら、すぐに表情などを動かしていたのが当時としては驚きの技術だった。
以下、僕は AMIGA を使ったことは無くて、当時の雑誌で読んだ記憶と、今ネットで調べた情報で構成しているので、間違いがあるかもしれないと断っておきます。
AMIGA の VRAM は、プレーナ方式なのだそうだ。
そして、当初のグラフィック性能は、最大で 360x576 32色だった。
実は 4096色モードもあるが、基本は 16色モードになっている。
追加で2プレーン持っていて、これを特殊用途に使い、周囲の色信号を共有して見た目の色数を増やしている。
ドットごとに自由に色を指定できない MSX2+ の自然画モードみたいな感じ。
後継機では、720x576 を扱えるようになったけど、いずれにしても1プレーンは 64Kbyte 以内に収まってしまう。
ということは、68000 でなくても扱えるね。
AMIGA は CPU がアクセスできる、メインメモリ空間に VRAM を置いている。
これは別に当時としては珍しくない。
でも、ビデオコントローラーにアドレスをセットすることで「どこにでも」VRAM を確保できたのが珍しい。
普通、VRAM は最初からアドレス固定で与えられるものだったのだけど、好きな場所を VRAM にできる。
これにより、メモリの許す限り裏画面を作り、高速に切り替えることが可能になる。
ウゴウゴルーガなどでリアルタイムにアニメを表示していたのも、こういうテクニックが使えたからのようだ。
たしか当時の Oh!X で読んだ記憶では、「走査線を境に VRAM を切り替える」ようなこともやっていたとか。
それぞれの VRAM には全く違うことを描いてあっても表示できるわけで、走査線で分割されるマルチウィンドウ環境が実現できると書いてあったと思う。
これを見ると、AMIGA がグラフィックに強かったのは「68000 だから」ではなくて、「チップセットが強力だったから」だ。
Macintosh も重要な役割を果たしたと思うが、最初は白黒で 512×342 という解像度だった。
22Kbyte 程度なので、こちらも 68000だからグラフィックに強い、という感じではない。
特段ハードウェアが強力だったわけでもない。
でも、ソフトウェア、特にグラフィックを扱う内部ルーチンである、QuickDraw は強力だった。
(実は、白黒表示の初代Macから、内部の QuickDraw はカラー対応だった)
その、強力なグラフィックを使って、文字を使わない OS 操作を考案したプロジェクトチームもすごい。
実際のグラフィック性能の問題ではなく、操作している映像は衝撃的だった。
つまり、Mac がグラフィックに強かったのは「68000 だから」ではなくて、「プログラマの腕や、チームの発想がすごかったから」だ。
▼反証:演算速度
実は、68000 は、同クロックの 80286 と比べると半分程度の処理性能しか出ない、という事実がある。
そして、同時期の出荷チップの最大クロックを比べると、80286 は 68000 の半分よりも高クロックに対応していたようだ。
商売にするのはコストなどの問題もあると思うが、値段を考えなければ 80286 の方が性能が良かった、ということになる。
グラフィックは、大量の処理を必要とするもので、処理性能が高いほうが有利ではある。
連続したメモリが必要な X68000 のようなハードウェア構造ならともかく、AMIGA や Mac のような構造なら、80286 の方がグラフィックを高速に描画できた可能性もある。
余談になるが、X68000 では、65536色モードでも、16色モードでも、同じ方法でアドレス計算できるようにしてあった。
これは、プログラムは楽になるのだけど、16色モードでは 16bit を書き込んでもハード的にマスクされてしまって 4bit しか書きこまれない。
連続したメモリに高速に書き込むテクニックがあったのだけど、16bit のうち 4bit しか使われないので速度が上がらない。
ただでさえ遅い 68000 で、さらに遅くなってしまうためにゲームなどではグラフィック画面は使いづらかった。
68000 だからグラフィックに強かった、なんてとても言えない。
#そのために、プレーナ方式のテキスト画面があるともいえる。
スプライト BG 画面ならさらに高速に書き変えられるので、ゲームではこちらが主に使われた。
▼まとめ
ここまで考慮すると、自分で書いたことだけど「68000 はグラフィックに強い」と当時言われていたことの根拠は何だったのかな、と悩んでしまう。
X68000 を見る限りでは、大量の VRAM を積んでいて、セグメントなしにアクセスできることは、確かに強みになっている。
でも、「68000はグラフィックに強い」という雰囲気を作り出したのは、おそらく AMIGA と Mac。
どちらも「周辺チップセットが強力」だったり「プログラマが凄腕」なだけで、68000 だからグラフィックが優れていたわけではない。
というわけで、最初の結論が導かれる。
当時の言葉は、特に根拠があったわけではなく、雰囲気で言われていただけじゃないのかな。
AMIGA や Mac のような「グラフィカルなマシン」が 68000 だったから、そういう雰囲気が生まれただけ、というように思う。
ちなみに、話の間 8086系としては 80286 を前提としていたけど、80386 以降はセグメントは撤廃された。
(8086 互換モードでは使える)
80386 からはメモリを自由自在に扱えるわけで、グラフィックにも強くなった、と言える。
実際、Windows も 3.1 日本語版以降は 80386 以上でないと使えなかった。
80386 を前提として設計された FM-Towns は、十分にグラフィックに強いマシンだった。
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別年同日の日記
申し訳ありませんが、現在意見投稿をできない状態にしています。 【ACTH】 書き込み元データを考慮しないと。キャラアニメしたりすると元データのパターンは軽くVRAM容量を凌駕する。この時に68000にリニアアドレスが物を言う。つまり、多彩なデータを書き込めるのが6800の真の強み。 (2017-10-03 11:11:09)【ACTH】 PC80系SR以降や (2017-10-03 11:06:03) 【wasi】 私自身は8086系しか触れたことがないのですが、68000のメモリ空間の広さとレジスタ幅が32ビットで汎用レジスタが8本もあったのは、プレーナー構成のVRAMの場合、ピクセル単位での移動・合成操作などに大いに役だったのではないかと想像しますが如何でしょう。 (2017-08-16 21:20:46) 【meridianstar】 私も以前X68000XVIを所有しており、懐かしく記事を拝見しました。確かにMC68000はグラフィックスに強いというより、メモリマップドI/Oと豊富なアドレッシングモードでハードウェア制御に向いているCPUという感じがします。でも、X68000もMC68000がグラフィックスに強いと思わせるのに貢献していると思いますよ。ただ、実際のところX68000がすごかったのはシャープ製カスタムチップである、CRTコントローラ、ビデオコントローラー、スプライトコントローラーだった訳ですが(笑)。ほとんど当時のアーケードゲーム基盤をパソコンにしましたみたいな感じですからね。 (2016-03-10 21:39:52) 【1】 68000はグラフィックに強いハードウエアを作りやすいcpuだったと言うことは言えるのでは (2015-06-02 02:11:55) |
先日、68000はグラフィックに強かったのか、という内容で書かせてもらった。
詳しくは読んでもらうとして、X68k は CPU の特徴を活かしていて「68000ならでは」のグラフィックだったのだけど、同じく 68000を使ってグラフィカルだとされていた Mac も AMIGA も、 68000 でなくても大丈夫な構造しているよね…という内容。
その中に、8bit 機種の中では色数の多さで異彩を放っていた FM-77AV はどうなってたのかな、と書いたら、情報を頂いた。
まずは先日の日記に追記したのだけど、その後も情報を頂いて追記レベルではなくなったので、新たにまとめておこうと思う。
(FM-77AV に限らず、グラフィックに関する思いついたことを片っ端から)
まずおさらい。
画面を作るためのメモリを VRAM というのだけど、当時の VRAM 構造は、横8ドットを1バイトで表現するのが普通。
これだと白黒画面になっちゃうのだけど、3画面持って「赤青緑」の画面だと考えれば、重ねて8色が出せる。
この方式の利点は、白黒1画面が小さなメモリに収まること。
扱えるメモリが小さい 8bit 時代には重要な事だった。
カラーを扱うには、CPU の「外側」で、メモリ切り替え回路を作っておく。
赤青緑の画面を順番に書き変えれば終わり。
1ドット描くのに3回アクセスする必要があるけど、それぞれの画面の中でのメモリ計算は同じなので、計算を何度もやる必要はない。
でも、そもそもメモリアクセスというのは遅いものだし、1バイトが8ドットにあたるので、周囲のドットに影響が出ないように点を描くにはそれなりの処理が必要になる。
で、先日の記事では「FM-77AV はどうなっていたのだろう」と、ちょっとだけ書いといた。
FM-77AV は 4096 色が出せる機械で、これは 12bit に相当する。
12枚画面を持っていて、12回描き込まなくてはならなかったとしたら大変だと思ったのだ。
で、情報が寄せられた。
やっぱ、12画面持っている、という情報だった。
こちらのサイトの情報は、市販の本の正誤表(というより、アップデート情報)だが、元の本が無くてもある程度知識があれば理解できる。
赤青緑各4プレーン、計12プレーンを使って 4096色を発色していたのがわかる。
ただ、FM-77AV はサブ CPU を持っていて、サブ側のメモリのほとんどが VRAM に割り振られていたので、メモリのスイッチ切り替えは1度だけでいい。
後の FM-77AV40 になると 26万色モードがあるのだけど、こちらは2回スイッチを切り替えて、18画面にアクセスする必要があった。
サブ CPU があるから実用的な速度が出たのだろうけど、大変な構造だ。
…と書いたところ、さらに追加情報。
専用の LSI を持っていて、線を引いたり矩形を塗りつぶしたりと言ったことが高速に出来たのだそうです。
さらには、FM-77AV には「多色」であることを活かしたビデオデジタイズ機能があって、ほぼ遅延なく 1/60秒で画像を取り込めた、とのこと。
こちらも、おそらくは専用 LSI に機能を搭載してたんでしょうね。
#ビデオ信号というのは CPU から見れば非常に速いわけだけど、VRAM から読出しが可能なので、同じように書き込むことも可能だったと思う。
画面まるごと取り込むときは、「元に書いてあった画像を壊さないように処理」なんて手間も不要だしね。
77AV の対比としての、X1 turboZ。
X1 / X1 turbo の後継にあたる第3のシリーズで、上位互換。
上位互換、ということは、下位機種からアップグレードする方法はない。
#同じシリーズなら、後付けの拡張ボード買ったら何とかなったりする。
FM シリーズは、CPU を2つもっていて、1つでは 64K しか扱えないメモリを、128K まで扱えるようにしてあった。
そして、片側 64K の中に VRAM を持っている。
X1 シリーズは、CPU は1つしかないのだけど、Z80 は 64K までのアドレス空間を、2セット持っていた。
正確に言えば、1つはメインメモリで、プログラムなどはそこに入れる必要がある。
もう一つは I/O 空間で、スペック上は 256本(8bitアドレス)しかないことになっていた。
しかし、Z80 のバグで 16bitアドレスを制御できた。
X1 では、このアドレス空間に VRAM を置いている。
ちなみに、FM で使われた 6809 はメモリマップド I/O ね。
メモリ空間の一部を I/O として使う。メモリも I/O も、CPU から見れば「読み書きできる外部デバイス」ってことで違いはない。
(実際にはメモリとデバイスは違うのだけど、その違いは外付けの LSI で解消してもらう。)
Z80 の遠い祖先は 4004 なのだけど、これは「ハーバードアーキテクチャ」だった。
プログラムとデータを厳密に区別してて、プログラム用とデータ用にメモリ空間が別れている。
Z80 に進化するまでに、プログラムとデータの区別は無くなるのだけど、やっぱり「2つのメモリ空間」は残された。
X1 はそれをうまく使って、Z80 1個で FM-7 並の 128Kbyte の空間を用意してあった。シンプルで美しい設計だった。
でも、先に書いたように 16bit アドレスで扱うには、Z80 の実装上の「バグ」を突く必要があった。
特別な方法(BC レジスタ間接アクセス)でないと使えない。プログラムが制約を受ける。
それに、I/O は RAM より遅いことが命令の前提になっている。
RAM なら 7クロックでアクセスできるのに、I/O空間だと 11クロックかかる。
つまりは、X1 は設計を見ると美しいのだけど、実用的には、あまり良くできていたと言い難い。
ただ、キャラクタという概念がなく、すべてグラフィックで1本化された(これはこれでシンプルで良い)FM-7 に対し、X1 はPCG(書き換え可能なキャラクタ)を持っていた。
PCG を使うと、高速にグラフィックを動かせるので、アクションゲームを作る前提では X1 の方が速かった。
「キャラクタ」なので、ドット単位に動かせない、重ね合わせないなど、いろいろと問題はあるのだけど。
さて、そこに持ってきて、FM-77AV に対抗して、4096 色モードを付けたのが X1turboZ になる。
バンク切り替えを含めて、12画面をアクセスする必要がある。
77AV には先に書いたように専用 LSI が作られたけど、turboZ にはそんなものはなかった。
ただ、X1 の時から、複数画面に「同時アクセス」することはできた。
全く同じものが書かれてしまうので、1ドットを書き変えることはできず、画面クリア位にしか使えないのだけど。
つまりは、X1turboZ は FM-77AV にスペック上は対抗していたのだけど、全然使い物にならなかったようだ。
X1turboZ と X68000 は同時発表だったので、比較機種が FM-77AV ではなくて X68000 だと思われてしまうと…スペック上もかなり見劣りしてしまう。
あまり売れなかったようだ。
さて、FM-77AV が専用 LSI を持っていた、と知った時に思ったのは「98 の EGC とどっちが先だろう」ということ。
調べたら、77AV の方が1年先でした。
98の EGC というのは、画面描画専用の LSI 。
98 は CPU が直接 VRAM にアクセスする構造だったのだけど、EGC に命令を与えると、簡単なことは超高速でやってくれた。
線を引く、四角を描く、なんてのは当然。円を描くことも出来た。
塗りつぶし(結構大変な処理だ)とか、画面スクロール(全画面ブロック転送)なんかも出来たみたい。
98 BASIC からはこれを使ってグラフィックを描くようになっていて、すごい速度なので「98スゲー」って思った思い出がある。
こういう「CPU 以外の力で VRAM に線を引いたりする」機能の元祖は、僕の知っている限りでは MSX2。
8bit 機だから 64K のメモリしか扱えない…というのは CPU が直接制御する場合の話で、MSX2 では 128Kbyte の VRAM が搭載されていた。
(当時は RAM が高かったので規格上は 64K でもいいことになってるが、事実上は 128K が標準だった。なお、画面表示 LSI 自体は、192K までのメモリを扱える)
MSX2 は、256x212 256色の画面を出すことができた。
FM77AV や X1turboZ に比べると解像度も色数も小さいのだけど、8色しか出せない機械が多かった中では十分綺麗な画面だった。
後継機の MSX2+ では、VRAM はそのままの容量で 19268色を出せる。
ただ、これは AMIGA の 4096色モードと同じで、周囲のドットと色情報を共有するので好きなように絵が描けない、という制約がある。
さて、一応は先日の話の続きなので、元の話を思い出すと、「68000 はグラフィックに強かったのか」って話だ。
今日書いたのは、基本的に 8bit 機。98 の EGC の話題も少し入ったけど。
68000 は大きくて連続したメモリ空間を持っていたからグラフィック向きだった、という話に対し、小さくて非連続でもグラフィックに強い機械はあった、という反証を集めた形になる。
見てもらえればわかるように、周辺 LSI が強力だったりするのが前提だ。
MSX2 に至っては、VRAM を全部画像 LSI 側で持っている。そのため、アドレス空間 16bit の制約すらなく、192K まで持てる。
CPU の話をしているのに周辺 LSI 前提では比較にならない、と思うだろうけど、AMIGA だってグラフィックに強いのは画面関連の LSI が強かったからだ、というのは先日書いた通り。
逆に、X1turboZ は Z80 の制約の中だけで頑張っている。
そのために書き換えが遅すぎて「表示できる」というだけで、実用にならないのだけど。
「表示できる」だけだというのは、実は X68000 だってそうで、65536 色モードはあまり実用にならなかった。
実用になる圧縮アルゴリズムができて、やっと「観賞用」程度にはなったけど、それでも圧縮が効きやすいアニメ絵だけ。
しかも、1bit を圧縮時のフラグに使うので、32768色でしか保存できない。
JPEG が国際規格として制定されたときに、X68000 で JPEG 表示プログラムが作られたけど、非力な 68000 10MHz では1枚の表示に数分かかった。
後で(計算精度を割り切って)劇的に改良されたけど、1枚10秒程度。
そのソフトが作られたころには、もう Window はブームになっていて、98 や IBM でも多色表示ができた。
とても「X68000 は色数が多かった」なんて言えない。
X68000 がグラフィックの扱い…特にゲームに強かったのは、グラフィックを扱える広大なメモリ空間があるからじゃなくて、強力なスプライト LSI を搭載したからだ。
これもまた、LSI が強かったというだけ。
じゃぁ、現代の PC がどうかと言えば、CPU は高速化したけどやっぱり「強力な LSI」に助けられている。
そいつに「線引いて」とか「この領域コピーして」とか、「この3Dモデルレンダリングしといて」とか頼んでいるわけで、MSX2 の頃から変わってません。
いつの時代だってグラフィックは CPU の手におえないほどのリソースなのだ、ということかもしれない。
グラフィックに強い CPU なんてないのかも。
(グラフィックチップを内蔵してしまった Core i シリーズ、なんてのはあるけど)
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申し訳ありませんが、現在意見投稿をできない状態にしています。 【とおりすがり】 基本的に表面だけなぞるからおかしいことになってるのだと。8ビットプロセッサでは4096色はデータ量自体が不釣合いなのでどうせがんばったところで動きのある処理なんて出来るわけが無かったです。FM77AVはパレットの設定によってプレーン合成の手段として使えたことの方が動きを重視した場合、有意な構造だったと思います。ゲームしか見ないならコストが一番大きいのは重ね合わせなので、動きだけならスプライト最強の結果しか出ないですね。 (2017-06-20 20:29:11)【とおりすがり】 )って程度で、ソーサリアン辺りならX1の方が88よりマシだったはずです。88だって背景の重ねあわせが処理として圧し掛かれば言うほど早くは無いです。書き換え範囲や、望む挙動によるので全体的におかしい話になってますね。 (2017-05-13 21:23:42) 【とおりすがり】 そもそも、PCGだけでゲームなんて実装無かったと思うけど。PCGを背景にキャラクタをグラフィックにと描くことで、重ねあわせを軽減できているので言うほどは遅くなかったです。シルフィードみたいなVRAMを書き換えるものとか、ライン単位でのスクロールみたいなことは素直には無理(最近やってしまった人がいますが (2017-05-13 21:21:14) 【vandy1】 turboZユーザーでしたが、絵を描いたりレイトレしたりビデオ編集したり、ずいぶん楽しみましたけどね。何をもって実用的とするか?によるかと。88とMSX以外どれも売れたと言い難いご時勢で、ことVRAM構造の話に続けて「売れなかった」と言われるともにょるものが…(^^;(学生時代、周りにも2名ほどZユーザーがいました) (2016-08-28 21:08:06) 【うしとら】 興味深い記事でした。で、FMユーザーとして気になった点を。「FM77AV」が正解で、「FM-77AV」ではないです(よく間違えられますが)。またビデオデジタイズはオプションのビデオディジタイズカードが必要です(参考:http://fm-7.com/museum/hardware/options/options-6.html) (2016-05-31 06:19:31) |