今日はポール・バランの誕生日(1926)。
…この人も知りませんでした。
「今日は何の日」のネタが無いかな、と探していて知る人多数。
偉そうな記事を書いているのに、実際には非常に無知で恐れ入ります。
もっとも、ポール・バランに関しては知らなかったのも道理で、非常に重要な研究をしていたにもかかわらず、その研究は結局日の目を見ていません。
彼は、エッカート・モークリー社(同名の ENIAC 設計者が設立し、後にレミントン・ランド社に合併され、UNIVAC I を設計した)に入社したコンピューター学者です。
後に転職して、ヒューズ・エアクラフト(億万長者のハワード・ヒューズの持つ航空機会社)に入社します。
そしてさらに転職。航空機の知識も持ち、コンピューターの知識を持つ彼は、米空軍のシンクタンクであったランド研究所にスカウトされます。
1961年、彼は空軍からの依頼で「核攻撃に会っても停止しないコンピューターネットワーク」の研究を行います。
空軍は SAGE という「核攻撃に備えた」レーダーネットワークを持っていました。
(1958年から構築開始)
このネットワーク自体を破壊される、ということを恐れたのかもしれません。
この報告書をまとめたのが翌 1962年です。
報告書に書いた内容は、大体次の通り。
・中央コンピューターは設けず、複数のコンピューターが分散・協調動作する。
・通信経路は近くのコンピューター同士を結ぶ形で複数用意し、状況に応じて適宜使用される。
・データは小さな単位に分割して送り、それぞれが独立に複数の通信経路を経由し、受け取った側で再構築する。
何のことを言っているか、今の我々なら容易に想像がつきます。
しかし、当時はこの考え方は新しすぎました。
なにせ、1台のコンピューターが非常に高価で、通信線1本を準備するのにも大変な費用が掛かったのです。
1964年には一般の雑誌にも要約が発表されます。
しかし、そのまま忘れ去られることになりました。
同じような問題は、アメリカとは独立してイギリスでも研究されていました。
ただし、こちらでは「多数のコンピューターを結ぶ際に、最も安く回線を引くにはどうすればよいか」という問題として。
当時のコンピューターを通信させるには、「中央コンピューター」を用意するのが普通です。
このコンピューターと、各端末を回線で結びます。端末が 100台あれば、回線は 100本必要です。
その上で、端末 A と端末 B でデータを送受信したければ、A から中央コンピューターを経由して、 B と接続を行います。
中央コンピューターに関係のないデータの送受信でも、中央コンピューターが監視するため、速度低下にもつながります。
これは大変な事でした。
もっと安く回線を用意できないものでしょうか?
無駄に中央コンピューターの速度を低下させない方法は無いのでしょうか?
イギリスのドナルド・デービスは、この問題に答えを出しました。
・中央コンピューターは設けず、複数のコンピューターが分散・協調動作する。
・通信経路は近くのコンピューター同士を結ぶ形で複数用意し、状況に応じて適宜使用される。
・データは小さな単位に分割して送り、それぞれが独立に複数の通信経路を経由し、受け取った側で再構築する。
全く異なる問題を考えていたのですが、ポール・バランと結論は同じでした。
デービスは、最後の「小さな単位」をパケットと呼びました。現在のパケット通信の語源。
この論文の発表は、1968年でした。
ポールバランの報告書からわずか6年後。
でも、この6年でコンピューター技術は大きく進んでおり、依然として先進的ではあるものの、「実現可能な技術」になりつつありました。
アメリカでの、ARPANET …現在のインターネットの前身が計画されたのは 1966年でした。
ただし、この時点では、どうすれば大規模ネットワークが作れるのかわからず、問題が山積みでした。
1968年、デービスの論文に解決方法を見出し、ARPANET の計画が急に進み始めます。
最初のシステムが稼働し始めたのは 1969年12月でした。
ただ、ARPANET に触れた人の中で、いくらかの人は、ポールバランが 1964年に雑誌発表した論文も見ていたらしいのね。
ここから、「ARPANET は核攻撃に耐えられるネットワークとして実験が始まった」という都市伝説が興ります。
今でも、この話を信じている人は結構多いのではないかな。
たしかに、システムのアイデアはほぼ同じものでした。
でも、別々の問題への対処を考えた結果、同じような結論に達しただけです。
同じテーマの日記(最近の一覧)
関連ページ
アラン・チューリング命日(1954)、ドナルド・デービス誕生日(1924)【日記 16/06/07】
別年同日の日記
申し訳ありませんが、現在意見投稿をできない状態にしています。 |