今日は、サミュエル・モールスの誕生日(1791)
職業は、画家です。
画家としても結構高名なのですが、今日取り上げるのは画家としてではありません。
彼の名前は、むしろ画家としての活動とは別に考えだした発明品として残っています。
モールス信号です。
モールスは早熟な天才で、14歳で大学に入学しています。
イタリアのボルタが電池を発明(1800)した頃で、電気学が急に発達し始めていました。
モールスも、電気学を学びますが、その学費を稼ぐために、画家としての活動を始めています。
絵を描くだけでなく、彫像なども作りました。
卒業後は両親の反対を押し切ってイギリスに留学、画家としての頭角を現し始めます。
展覧会で金賞を受賞したり、批評家に絶賛されたり。
アメリカで米国デザインアカデミー(現在の、米国アカデミー博物館)の設立に尽力し、その初代学長にもなっています(1826)。
その前年、モールスが画家としての仕事で出張中に、彼の妻が危篤に陥りました。
彼の元に駅馬車(当時の最も早い郵便システム)で手紙が届けられ、彼もすぐに家に帰ったのですが、帰宅は妻の埋葬後となりました。
モールスは、この事件をきっかけに、「郵便よりも早い連絡手段」を考え始めます。
事件の5年前、1820年に、電流が磁界を発生させることが発見されていました。
彼が学んでいた電気学は「電磁気学」となって発展していました。
1832年、モールスは船旅の最中に、電磁気学に詳しい、チャールズ・トーマス・ジャクソンと出会います。
彼は、前年にジョセフ・ヘンリー博士が発明した「電磁石」の話をモールスにします。
モールスも電気学を学んでいましたし、電気と磁気の関係が発見された(1820)ことは知っていました。
しかし、それを強くし、電磁石として使う方法が発見されたことを知り、連絡手段に使えそうだと思いつきます。
ジャクソンとモールスは、船旅の間に「電信機」の詳細をまとめました。
電磁石によって鉄板が動き、その動きを紙テープに記録します。
このテープに、点と線で符号化された「コード」を記録することで、文章を伝達するのです。
ただし、この時点では「単語をコード化する」アイディアでした。
どんな単語をあらかじめ準備しておけばよいのか、あらゆる単語を想定してコードを割り振る、という作業は難航します。
この問題は、1838年になって共同研究者のアルフレッド・ヴェイルが「文字単位でコード化する」ことを思いついて解決します。
この際に、文字の使用頻度などを調査し、一番良く使われる E には短い符号を、あまり使われない Q などには長い符号を…と割り振って、モールス信号と呼ばれるものが完成します。
#実際には、この初期のものをベースにさらに改良され、現在のモールス信号になります。
話が前後しますが、文字単位のコード化に移行する前年まで、モールスの電信機は、すぐ近くにしか信号を送ることができませんでした。
コードを最大に伸ばしても、せいぜい2マイル…歩いても1時間、馬なら5分程度で走れる距離です。
この時点では、モールスの電信機はあまり遠くまで信号を送ることができませんでした。
電気は通信に使われる電気コードの抵抗を受け、あまり距離が長くなると届かなくなってしまうのです。
これも、電磁石の発明者であるヘンリー博士が考案した第2の発明、「リレー装置」によって解決します。
ヘンリー博士も、電気コードが長くなると電気が通らなくなることに気付いていました。
そこで、電気が届く範囲の遠方にある「スイッチ」を、電気で操作することを思いついたのです。
スイッチのもっとも簡単なものは、ばねのようにしなやかな鉄板があれば作れます。
鉄板を押せば接点にくっつき、電気が流れます。離すとばねのように戻り、スイッチが切れます。
これは鉄板ですから、接点の下に電磁石を用意して、引きつけることができます。
これが、電気で操作可能なスイッチ、「リレー装置」です。
スイッチが入れば、電気が流れます。これは別回路ですから、そこからまた2マイル程度は電気が流れます。
そして、またスイッチを動かします。これを繰り返せば、理論上は無限に遠くの装置を操作できます。
「電気」は2マイルしか届かなくても、その電気による「信号」は、はるか遠方に届くのです。
ヘンリー博士は、この装置の特許を申請しませんでした。
彼は、科学の発展のために、発明は広く使われるべきだという主張を持っていたため、モールスの電信機にも無料で特許を使用させているだけでなく、技術的な助言なども行っています。
これで、やっと電信装置が完成します。
情報を瞬時に送れるというのは大発明で、モールスの電信機と、その電信機を使うためのモールス信号は世界中で使われ始めます。
1849年時点では、アメリカに20の電信会社があり、その電信線の総延長は12000マイルに達しました。
1852年にはイギリス海峡を渡る海底ケーブルが埋設され、ロンドン・パリ間の電信も始まります。
1854年、モールスの電信機の特許が成立します。電信を使う世界中の会社は、モールスに特許使用料を支払うようになりました。
もっとも、モールスは特許料が支払われなかったとしても、相手を訴えなかったそうです。
ヘンリー博士の影響もあったのかもしれませんが…彼自身、画家としての地位もあり非常に裕福だったため、お金にこだわらなかったようです。
1856年。モールスは、小さな電信会社を集め、「ウェスタンユニオン」を設立します。そして、世界中に電信ケーブルを埋設していきます。
1858年には大西洋横断ケーブル、1861年には、アメリカ大陸横断ケーブルが完成します。
しかし、1865年には大西洋横断ケーブルが障害を起こし、使えなくなります。
すぐに別のケーブルの埋設を始めますが、2/3が埋設された時点で事故を起こし、使えなくなります。
結局、翌年最初のケーブルを引き揚げ、修復が行われました。
その頃から太平洋横断ケーブルの埋設が始まりますが、1868年までかかる難工事となっています。
1871年、モールスの偉業をたたえる像がニューヨークのセントラルパークで披露されます。
モールスは、ここから世界中に電信で「Farewell」(丁寧な別れの挨拶)を送ります。
そして、1872年4月2日モールスは81歳で死去しています。
信号線埋設などで多額の私財を投げだし、慈善活動などにも多額の寄付をしていたそうですが、遺産は50万ドル。
現在の日本円にして、10億円程度でした。
現在でも、モールス信号は使用されています。
長・単・無だけの組み合わせで表現できるため、電気信号だけでなく、音や光でも情報を伝達できるためです。
モールスの死後、無線通信が普及し、そこでもモールス信号が使われます。
無線通信の発明者であるマルコーニが、船の救難信号を国際的に定めようと提案し、CQD という符号を提案。採択されます。
しかしそのわずか2年後、1906年には、船の救難信号として「SOS」が国際的に使用されることが決定されます。
これは、単にモールス信号で「わかりやすい」組み合わせを拾っただけです。
・・・---・・・が SOS の組み合わせになります。
1912年、タイタニック号が、マルコーニ式の電信機では世界最初の「SOS」を打電します。
この際には、CQD と交互に打たれました。
1999年、船の遭難信号としては、SOS は廃止となり、国際的に GMDSS と呼ばれる仕組みに移行しました。
このシステムでは、GPS や通信衛星も使用し、即座に救助が行えるような信号を自動発信します。
しかし、これは「船の遭難信号として」モールス信号は使われなくなった、というだけで、モールス信号が不要になったわけではありません。
電気の ON / OFF で情報を伝達する、という考え方は、この後テレタイプに受け継がれ、ASCII コードの制定に繋がっていきます。
もちろん現在も、コンピューターは電気の ON / OFF で動いていますし、通信はモールスが埋設したのと同じように、海底ケーブルによって世界中を繋いでいます。
その意味で、150年も前の彼の時代を想像するのは難しくありません。
ここ20年で起きたような「情報革命」が、全く同じような筋書きで、彼の時代にも起こったのです。
モールスの電信機が特許を取得してから、世界中に電信網がいきわたるまで、やはり20年程度。
ただ一つ違うのが、これが世界で最初の「電気通信革命」だったことです。
彼のやったことのインパクトは、インターネットの普及よりもはるかに大きかったでしょう。
余談:
モールス信号で Farewell …
とあるゲームのエンディング音楽の中で使われていたような。
多分、エンディングだから Farewell にしただけで、モールスの1871年のメッセージとは無関係と思うのだけど…
そのうち作曲者に聞いてみよう。
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