今日は、祝一平さんの命日(1999)
知る人ぞ知る、ですね。
パソコン雑誌 Oh!X のライターをやっていて、人気があった方でした。
後に有限会社満開製作所を設立、X68000 用のディスクマガジン「電脳倶楽部」を刊行しています。
1988年5月創刊です。一応、日本で最初のディスクマガジンとされています。
ディスクマガジンと言うのは当時新しい概念で、MSX 用の「ディスクステーション」が有名でした。
こちらはコンパイルが発行していたもので、1988年7月創刊。
2か月しか違わないから、真似したとは思わない。
ディスク搭載のコンピューターが増えて、そこで雑誌形式のものを作ろう…というアイディアは、誰もが思いついたのでしょう。
#追記:情報頂きました。
1983年には DiskFM/DiskPC などが鈴木技研から発行されていた、とのこと。
そういう先行例もあるので、ディスクステーションも含めて「新しいアイディア」ではなかったようです。
他にも多数出ていたようですが、月刊ではなかったこと、電脳倶楽部の発行開始時にはすでに廃刊していたこと、などから電脳倶楽部は「日本初」を名乗っていたようです。
ディスクステーションは、MSX向けのゲーム情報誌の形を取っていました。
新作ゲームの体験版とか、非常に古いゲームを丸ごととか、すごい簡単なミニゲームとか、ゲームだらけ。
電脳倶楽部は、投稿中心のパソコン雑誌でした。
投稿プログラムなどもあり、アルゴリズムの解説などもあります。
X68k の画像フォーマット形式としてよく使われた、PIC などは、電脳倶楽部で発表されたものです。
また、「著作権が無いデータを電子化する」という活動を始め、古い小説や、日本国憲法全文、英語辞書などのデータが発表されていました。
これ、いくつかは現在の「青空文庫」に引き継がれ、収録されています。
実は、僕が Oh!X を読み始めた時には、祝一平氏の「最も人気があった」時期は過ぎており、あまり活躍を知りません。
友人が電脳倶楽部を購入しており、フリーソフトでほしいものなどがあった際にはコピーしてもらっていました。
…いや、正直に言えば、電脳倶楽部自体、ある程度コピーさせてもらっていました。
電脳倶楽部は、コピープロテクト掛けない方針を貫いていましたから。
#データは壊れるから、まずバックアップを取りましょう、と毎号書いてあった。
大学1年の時、大学祭のために作ったゲームを「電脳倶楽部に投稿しなよ」という友達の勧めで投稿します。
電脳倶楽部は年間購読契約をするもので、読者には必ず会員番号が割り当てられます。
投稿にも会員番号が必要だったのですが、友人の会員番号で投稿しました。
この際、学祭に出したバージョンより面データを大幅に減らしました。
ディスク雑誌なので、大きなデータを使えない制約…もあるのですが、それよりも「フルバージョンは販売したい」と思ったためです。
たいして出来が良いゲームでもないのに、金を取ろうなんて思い上がったもんです (^^;;
電脳倶楽部では、どうやら「会員以外からの初投稿」だったようなのですが、ゲームを掲載してくれました。
それだけでなく、「販売するのであれば武尊からどうか」という話を頂きました。
電脳倶楽部は年間購読契約が必要だった、と先に書きましたが、1号づつの販売も出来るように、当時ブラザー工業が展開していたソフトウェアの自動販売機「武尊」での販売を始める予定でした。
ブラザーの方でも、販売するソフトを増やしたくて探していたのです。
ただ、この時点では「法人しか相手にしない」とのことで、満開製作所が間に入ってくれました。
#その後、武尊は同人ソフトにも門戸を開きました。
この時点でも、事実上の「同人」第1号だったわけです。
武尊で販売したい、というお話を頂いたときに、満開製作所から呼び出されて祝一平氏にもお会いしました。
冬の寒い日だったと思います。夕ご飯をご馳走になりました。
それだけでなく、電脳倶楽部の採用者や、読者プレゼントのみでもらえる様々なグッズを、まとめていただきました。
これ、投稿が採用されても、1点づつしかもらえないもの。
まとめてもらえたのはおそらく貴重なので、まだ置いてあります。
でもね、このグッズが全部バカバカしいんだ。
「エッチな鉛筆セット」とかね。HB~8Hで、「ちょっとH♡」とか「すごくH♡」とか書いてあるの。
逆さまにアスキーコード表が印刷されたTシャツと言うのもあります。
逆さまになっているからこそ、自分が下を向けばアスキーコード表を読める。
アスキーコード表が裏に印刷されたカードカレンダーももらいました。
クレジットカードサイズで、カレンダーとして使えなくなっても、アスキーコードが便利で持ち歩いてた。
あ、ひとつだけ、今はもうないグッズもあります。
「おいしすぎて…コーヒー中毒」という名前の飴。
これは、満開製作所のオリジナルではなく、当時の北海道のメーカーが作っていたもの。
パッケージに描かれた顔の絵が不気味で、さらに商品名が「中毒」。インパクト大でした。
でも、飴を置いとくわけにもいかないので、全部食べちゃった。
祝一平氏に会ったときはまだ大学1年でしたが、「将来プログラマーになるの?」と聞かれました。
なれればなりたい、というようなことを答えたと思います。そしたら、「C言語は勉強しといた方がいいよ」と言われました。
販売してもらったゲーム、Comet は BASIC で作っていたのね。
実際、BASIC では限界を感じていたし、そこからコンバータでCにしてコンパイルしていたので、Cもなんとなく見ていた。
#BASIC コンバータの限界で、意図しない動作をすることがあった。
その時は、Cになったソースを見て、何が起きているか理解して、回避する様に BASIC プログラムを変えた。
すぐにCの勉強を始め…挫折します。
なんだか、妙に回りくどくて面倒くさかった。アセンブラの方がよほど簡単だ、と思った。
それで 68k のアセンブラで1本ゲームを作るのですが、ゲームを作ると「アセンブラで全部作るのは大変だ」と思い始めた。
これで、Cとアセンブラを組み合わせ、適材適所で使う、というのを覚えます。
一度アセンブラを理解してからCに戻ったら、Cがどういう意図で作られているかもわかったし、「アセンブラで最適化されやすい」記述方法なんかも理解できるようになりました。
もちろん、実際に仕事を始めてからはCの知識は非常に役立ちました。
冒頭に添付してある写真は、祝一平氏の名刺です。
祝一平ってペンネームだから、本名の名刺ももらっている。でも、ここは有名な名前の方で。
文字しかないすごく簡素な名刺だけど、ちゃんと遊び心が入っている。
\満開製作所\電脳倶楽部編集長\
祝一平
と書いてある。
これ、MS-DOS 的なツリー構造表記で「所属」を表現しているのね。
DOS では、ディレクトリ表現にバックスラッシュ(\)を使いました。
日本語の文字コードでは、バックスラッシュではなく¥になってしまうのだけど。
今なら PC UNIX が浸透しているし、URL でも見慣れているので / で書くのかもしれない。
でも、当時は MS-DOS の方が遥かに知られていて、でもパソコン自体が一般的でない趣味。
パソコン好きな人はニヤリとするし、そうでない人には全く意味がわからず、それでいて違和感がない。
ちょっとひねった表記方法でした。
先日、僕の名刺の裏の絵を公開したのですが、表面の「所属」部分は、祝一平氏の名刺のアイディアを真似させてもらっています。
ただし、所属ではなく「属性」として、C++風に多重継承している。
(僕の名前) : 代表取締役, プログラマ
としてあるのね。
そんなところも真似させてもらうくらいには、影響受けてます。
そんなわけで、祝一平氏は1度会っただけの人ですが、僕に影響を与えた人物です。
亡くなったと知ったのは、不義理なことに1回忌を過ぎてからでした。
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