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02-17 クリストファー・レイサム・ショールズ 命日(1890)
02-17 手相うらない ちょっとみせて 発表(1995)
今日は、クリストファー・レイサム・ショールズの命日(1890)。
PCをお使いの方は手元をご覧ください。
その、QWERTY配列キーボードを考案した人です。
実は3日前のバレンタインデーが彼の誕生日(1819)だったのですが、ENIACの公開日、という大ネタもあったので命日の紹介となりました。
彼は新聞編集者で、多数の新聞の編集長を務めています。
同時に、郵便局長・税関・土木事業局理事などの公職も歴任。
恐らくは、とても事務仕事が多かったでしょうし、とても多忙だったでしょう。
そんな中で、ペンを使って手で書くよりも早い筆記具を研究し始めます。
当初はピアノの鍵盤のような形状だったようです。
それが改良されて現在のQWERTYになっていく過程に関しては、Wikipediaを読んだ方が、僕が書くよりずっとわかりやすそうです。
1882 年には現在とほぼ同じ配列のタイプライターが完成します。
この発明はレミントン社に持ち込まれ、商品化されます。
このレミントン社、吸収合併の歴史の繰り返しもあり、簡単には説明できません。
これもWikipediaを見てもらったほうが良さそう。
レミントン社は後にレミントン・ランドとなり、ENIAC を作成したエッカートとモークリーを迎え入れ、UNIVAC I を作り出します。
世界初の商用コンピューターでした。
もちろん、このコンピューターはQWERTY配列のキーボードで操作することが可能でした。
さて、一足飛びにコンピューターの話に入る前に、タイプライターの進化をざっと書いておきましょう。
話はモールス信号の実用化まで遡ります。
当初は、通信士が通信文をモールスに変換して送信し、受信側の通信士が元の通信文に戻していました。
しかし、これでは訓練された人員が両側に必要です。
訓練なしに文字を送れるように、「文字」を直接送れるようにした「テレプリンタ」がすぐに開発されます。
ピアノ状のキーボードを使い、押したキーに対応した文字が相手側で印刷される、という仕組みでした。
タイプライターは、当初はこのキーボード配列を流用し、後には独自に使いやすいキーボードを考案して作成されたものです。
タイプライターの発明時点では、キーを押すことで直接活字が動き、紙に印字する機構になっていました。
紙に活字を叩きつける必要があるので、結構力がいります。
人差し指で押すキーと小指で押すキーでは、力が違うのでインクの濃淡があり読みづらい、等の問題もありました。
少しして、キーボードは単に「スイッチの集まり」になり、電気の力で活字を打ち付ける方式が登場します。
電動タイプライタです。
こうなると、キーボートと印刷機が目の前にある、というだけで、テレプリンターシステムと何ら変わりのないものになります。
実際、遠隔地と結ばれた電動タイプは「テレタイプ」と呼ばれ、すぐにテレプリンタを置き変え始めます。
電動タイプには、入力したキーを紙テープに記録できる機種が作られ始めます。
この紙テープを「再生」すると、先の入力と同じように印字ができます。
タイプライターでは、間にカーボン紙を挟んだ複数枚の紙を使って、同じ文章内容の「複写」を作ることができました。
とはいえ、複写するときには特に強くキーを押す必要がありましたし、せいぜい2~3枚を同時に作成するのがやっとでした。
#カーボン紙で作られるコピーを「カーボンコピー」、略して CC と呼びます。
電子メールで同時に複数人数に送る際の CC: 欄はこの意味です。
念のため書いておくと、当時はコピー機の開発以前です。
紙テープによる再生は、カーボン紙を使わずに、同じ文面のコピーを可能にしました。
これなら、何枚でも同じ文面の書類を作ることができます。
紙テープの利点はそれだけにとどまりません。
タイプライターで1ページの書類を入力していると、当然「入力ミス」も発生します。
そんな場合はホワイトで消して修正するか、そのページを最初から入力し直すしかありません。
しかし、紙テープなら「間違えたところをハサミで切り取り、糊で繋ぎ合わせる」という編集が可能なのです。
紙テープが多少ツギハギになったところで、大切な「書類」にはその跡は残りません。
これは、書類作成事務を大きく変える大発明でした。
コンピューターが登場するのは、この紙テープタイプの普及後です。
「現代的な意味で」最初のコンピューターである EDSAC では、すでにタイプライターが活用されています。
…と言っても、電動タイプライタの印字部分を出力に使用できた、というだけです。
キーボード部分は一切接続されておらず、入力機器としては使用できません。
EDSAC では電話のダイヤルが取り付けられていて、0~9の数字が入力できました。
電動タイプライタの印字部分だけとか、電話のダイヤル部分だけとか、寄せ集め感満載です。
EDSACは大学が研究のために作ったもので、それほど潤沢な予算があったわけではありません。
だから、使えそうな民生品を流用して作った、という、それだけの理由でしょう。
ところで、先にリンクした Wikipedia のQWERTY配列のページでは、EDSAC にテレタイプが接続されていて、QWERTY配列だったことが書かれています。
テレタイプがプリンタとして接続されていたのは、上に書かれている通り本当です。
しかし、キーボードは使用されていないので、QWERTYであることは無関係です。
#Wikipedia の記述は資料に基づいたものなので、資料に誤りがあるのかと思います。
#僕が勘違いしていました。記事の最後(15行くらい後)に訂正の追記を行います。
UNIVAC I がQWERTYで操作できた、というのは先に書いた通りです。
もっとも、こちらも基本的には EDSAC と同じで、紙テープの作成用と印字用、というのが中心的な使われ方。
それでも、キーボード部分が入力インターフェイスとして使えるように、UNIVAC I に接続されていたようです。
UNIVAC I は商用の、事務などにも使用されたコンピューターなので、文字の扱いも重視されていたようです。
(これ以前のコンピューターは主に科学計算用でした)
UNIVAC I 以前のすべてのコンピューターを調べたわけではありませんが、おそらくは UNIVAC I 以前にはQWERTYキーボードで操作できたコンピューターは無いのではないかと思います。
クリストファー・レイサム・ショールズがQWERTY配列を考え、レミントン社が権利を買い取り、普及させた。
そして、レミントン・ランド社になって、自社製のキーボードをコンピューターにも接続した。
どうやら、現在QWERTYキーボードがコンピューターに接続されているのは、こういう理由のようです。
2015.2.25 追記
上記、「資料に誤りがあるかと」と書いたところ、資料の著者の方から意図の説明がありました。
僕がちゃんと読み解けていなかった部分もありましたので、お詫びの上訂正し、解説します。
Wikipedia を改めて確認したところ、「インターフェイスとして用いた」という記述のみで、接続されているとは書いていませんでした。
これを読んで「EDSAC では接続はされていなかったはずだけどな」と思ってしまったのが僕の勘違いです。
EDSAC では、キーボードは接続されてはいなかったが、インターフェイスとして利用はされていた、というのが事実です。
実のところ、EDSAC に「接続された」タイプライタと同種のタイプライタが、別の用途で利用されていたこと自体は知っていました。
当初はその話も書いていたのですが、それは「EDSACの話」であり、この日記のテーマである「QWERTY」から外れすぎると考えて削除していました。
以下に詳細を書きます。
(EDSAC の話に偏ってしまいますが、不正確な記事の訂正のためですのでご了承ください)
EDSAC の命令コードは、1文字で表されます。
現代的に言えば、アセンブラのニーモニックです。
ニーモニックですから、コンピューターが理解できるバイナリコードに変換(アセンブル)しなくてはなりません。
しかし、EDSAC ではこのバイナリコードとして、テレタイプで文字をタイプした際に紙テープに記録されるコードをそのまま採用していました。
また、テレタイプで数値を入力すると、それはそのまま2進数表現となる文字コードになっていました。
1桁のみの2進数なので、BCD表記となりますが、BCDから2進表現への変換は、イニシャルオーダー(紙テープを読み込むためのプログラム)で解消されました。
つまり、アセンブリ言語で書かれたプログラムをタイプライターで紙テープにパンチすると、EDSAC で実行可能なプログラムとなったのです。
「インターフェイス」という言葉をどのような意味に捉えるかにもよりますが、これはQWERTYキーボードをインターフェイスとして利用してはいます。
ただし、紙テープの穿孔機としての利用であり、コンピューターに働きかけることはできません。
現代で考えるようなキーボード利用の方法とは、かなり性質の異なるものです。
いずれにせよ、Wikipedia の記述がおかしい、というのは僕の早合点でしたので、お詫びしたうえで訂正します。
2018.6.18
上の追記の指摘をくださった先生が、キーボードの成立過程を解説したページを作っていました。
面白いのでリンクしておきます。
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関連ページ
クリストファー・レイサム・ショールズの誕生日(1819)【日記 16/02/14】
別年同日の日記
申し訳ありませんが、現在意見投稿をできない状態にしています。 【あきよし】 補足ありがとうございます。ご本人からの解説で痛み入ります。元文献を読まずに違うのではないかと書いたことは軽率でした。お詫びいたします。 一応紙テープのことは知っていたのですが、本文が長くなりすぎることを避けて書いていませんでした。 ただ、結果的に誤りを書いてしまったことになるので、本文修正いたします。 (2015-02-25 09:14:54) 【安岡孝一】 『The Preparation of Programs for an Electronic Digital Computer』(Addison-Sesley 1951)を読む限りでは、EDSACにはCreed Model 47を改造したキーボードが繋がっていたようです。ただし、電気的にではなく、もちろん紙テープを介してですけどね。 (2015-02-23 21:09:53) |
さて、20年たちました。
そろそろ書いても良いかな、と思います。
1995年の2月…日程は正確に覚えていないけど、カレンダーを調べると多分2月の17日と18日。
幕張でAOUエキスポが行われました。
AOUエクスポって、業務用ゲーム機の展示・商談会ね。
17日はビジネスデーで招待客のみ。18日は一般入場も可能で、ゲームファンが集まる日でした。
僕が会社員になって初めて作ったゲームが、一般に初お披露目する機会でした。
追記2023.03.27
これを書いた当時、確認手段がなかったのですが、今は当時の業界紙「ゲームマシン」が、公式に公開されています。
上の記述が急に気になって調べたところ、日程は 22~23日でした。
2日目の一般客向けの配慮で、金土にしていると思ったのだけど、両方平日。記憶違いだったみたい。
しかし、開催を伝える記事のすぐ隣には、招待客のみのはずの1日目に一般客が入っていたので、ゆっくり商談ができないという不満を伝える記事が…
そのゲーム機が、「手相うらない ちょっとみせて」。
名前の通り占い機です。
ゲーム好きの人からは「なんだ、占いか」なんて言われそう。
でもこのゲーム、当時の占いゲームの常識を塗り替える大ヒットでした。
半年後くらいには、同じAOUでデビューした、同じ分野の機械が社会現象になるほどの大ヒットとなったため陰に隠れてしまいましたけどね。
#日記冒頭の写真は店舗向けの宣伝チラシ。
クリックすると全体が見られます。
僕がプログラマーとしてセガ・エンタープライゼスに入社したのは、1994年の4月。
当時はセガは新人研修に時間をかけていて、1週間ほど店舗営業を経験し、2週間ほど工場での作業を経験し、それから部署に配属になりました。
僕の配属された部署は第1AM研究開発部。俗にいう「AM1研」ですね。
部署に配属されてからも、しばらくは新人研修、ってことで雑用をいろいろやります。
よくロケテストでお世話になる店舗を廻って、単に遊ぶ場所としてのゲームセンターではなく「客層の違い」を見たりとか、ゲームのアイディアを書いて提出したりとか。
さらに、プログラム課に配属されて、それぞれに「先輩社員」が付けられます。
最初はその先輩に教えてもらえ、ということ。
最初の仕事は、プログラムではなく仕事に使う道具作りだったように思います。
JAMMA ハーネス…ゲーム基板とゲーム筐体を接続するケーブルの作成。
開発の際には、開発用基板を机の上に置き、筐体は机の横に置きますから、「基盤が筐体に内蔵される」際の一般的なケーブルでは短すぎるのです。
今は新JAMMA ってやつがあるけど、この頃はまだ旧 JAMMA 規格ね。
56ピンのコネクタで筐体とゲーム基板を接続します。この56のピンの延長ケーブルを作るので、両側合計 100か所ほどの接点をハンダ付けしなくてはなりません。
こんな作業をしている間に、課長からはプログラムの簡単な課題も出されたりもします。
どうも、技量を推し量られたようで、配属プロジェクトが決まります。
で、僕が配属されたのが、先に書いた手相占いゲーム。
他の同期は、当時発売前だった ST-V のゲームなどに割り振られていました。
アクションゲームが好きで入社したので、占いへの配属は多少不満もありました。
使用ボードは、すでに旧式となりつつある System32 。こちらも、最新ボードを使ってみたい気持ちがありました。
しかし、「仕事なのだから何を割り振られても全力でやる」と最初に考えていたので、とにかく良いものを作ろう、と気持ちを切り替えます。
この割り振り、後で知ったのですが、僕が一番実力がある、と認められてのものだったようです。
大きなプロジェクトでは、新人は「雑用のデータ整理」などが主な仕事なのですが、占いはプログラマー二人だったため、雑用仕事もこなしつつ、プログラムをかなり書く必要がありました。
また、System32 はアセンブラで作成する必要があり、Cだけでなくアセンブラも使えた僕なら…と割り振られたようです。
この時は知らなかったけど、非常に名誉なことでした。
この時に一緒にプログラムを作ったA先輩は、面倒見が良くて気さくで、人の輪の中心になるような人でした。
後にA先輩が退社するまで、いろいろとお世話になることになります。
手相占いは、A先輩が主に占いロジックや、周辺機器との I/O などの「複雑な部分」を担当。
ユーザー入力や画面表示など、ゲームの見た目を占める大部分は僕に任されました。
これ、A先輩としては「複雑な部分は新人では荷が重かろう」と考えたようなのですが、ゲームらしい部分を多数任されたので、作っていて非常に楽しいものでした。
この話、結構長いので少しづつ区切って出します。
続きは後日。
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