今日は ENIAC の公開日(1946)。
ENIAC は、戦時中の軍事機密として作成が開始されました。
そのため、完成してから公開までに時間がかかっており、公開は入念なリハーサルが行われたうえで、行われました。
ENIAC が完成したのは1945年の秋でした。
完成の報を受け、陸軍では「ENIAC の能力を見るために」当時の科学者たちを悩ませていた問題を用意します。
当時、原爆よりも強力な「水素爆弾」が考案されていたのですが、その内部状態の計算が出来ていなかったのです。
科学者たちの考えた方式で思ったような成果が出せるのかどうか、これが ENIAC に与えられた最初の計算でした。
この、非常に複雑な数式が ENIAC にプログラムされます。
プログラムが完成し、科学者・陸軍関係者が ENIAC の視察に訪れたのが1945年の12月。
結果は「考案した方式では、想定した結果にならない」でした。
これにより、水素爆弾の設計は見直されます。
ENIAC が無ければ、そのまま計画が進み、水爆の完成は遅れていたでしょう。
この頃、同時に ENIAC の完成・公開式典が計画されていました。
水爆の内部状態シミュレーションは…結果がよければ式典に使用されたのでしょうが、使わないことになりました。
公開式典では弾道計算シミュレーションの実演が行われることになり、新たなプログラムが作成されます。
しかし、このプログラムがうまく動作せず、プログラマたちは頭を悩ませます。
ENIAC のプログラマは、6人の女性でした。
6人の女性は、非常に数学の成績が優秀で、戦時中に弾道計算を行うために集められていました。
最初は、微分解析機などを使って弾道計算をすることが仕事でした。
そして、彼女たちは、ENIAC のプログラムを作ることを命じられます。
しかし、ENIAC の動作を示す資料は一切なく、あるのは複雑な回路図と、エンジニアと自由に話せる機会だけでした。
この頃、まだ ENIAC は完成しておらず、実機で試すこともできません。
そんな状態から ENIAC の動作を理解し、与えられた数式をプログラムする方法を考えなくてはならなかったのです。
ENIAC は、多数の計算回路の集合体です。
個々の回路は、掛け算だけ、足し算だけ、引き算だけ…などを行うように作られています。
プログラムは、この回路間を「結線」することで行われます。
結線により計算手順を示し、場合によっては複数の結果のうち、条件に適合したものだけを次の計算に使ったりするのです。
数式を与えられたとき、その数式を表現するために、どのような結線を行えばよいか。
これは、非常に難しい問題でした。
「結線を変えられれば自由な計算を行えるはずだ」という設計は間違えていないのですが、それがどんなに複雑なことになるかまでは考慮されていなかったのです。
彼女たちは EANIC のプログラム方法を自分たちで見つけ出し、複雑な数式もプログラムできるようになっていました。
完成後最初の計算である、水爆の内部状態遷移も彼女たちがプログラムしたものです。
しかし、それよりも簡単なはずの「弾道計算」はうまく動きませんでした。
公開式典はすでに日付が決められており、それまでにプログラムを完成させなくてはなりません。
恐らくは、世界初のデスマーチ・プロジェクトです。
彼女たちはこの問題にかかりきりで、何日も昼も夜も、何が悪いのか考え続けました。
式典の数日前、プログラマの一人である、エリザベス・ホリバートンは真夜中に目を覚まします。
何が悪いか、夢の中でひらめいたのです。
条件によって ON にならなくてはならないスイッチが、特定条件下では OFF のままでした。
これが計算を台無しにしていたのです。
#この話、デスマーチ経験のあるプログラマなら思い当たるはず。
頭を悩ませていると、夢の中にまでその問題が現れるものです。
そして、夢の中では「あたりまえ」だと思っていたことが邪魔せず、解決方法がひらめくことがあります。
そして、完成式典は 1946年の今日、2月14日に行われました。
世紀の大発明を公開する式典は非常に豪華なもので、晩餐会つきでした。
晩餐会のメニューは、ロブスターのビスキュイ(クリームスープ)、フィレミニヨンステーキ、サーモンステーキなどを含む5品だったそうです。
基調演説は、科学アカデミー会長で、原爆開発のマンハッタン計画にも一役買った、フランク・ジュウェットでした。
この完成式典は「完成」を伝えるためだけのものでした。
しかし、その衝撃は世界中に伝わり、ソ連からも「一台売ってくれ」と注文が来たそうです。
#この注文は断られました。
アメリカに敵対する国に軍事上優位な装置は渡せない…というわけでもなく、「ENIAC は量産品ではなく、1台しかない」ことが主な理由です。
ENIAC の開発資金を提供した陸軍に納入されたのは、その数か月後。
余りにも巨大なので壁に穴を空け、まとまった回路ごとに分割して運び出され、陸軍に納入されました。
ENIAC の本格的な稼働はその後。
最初の計算は、設計し直された水爆の内部状態計算でした。
ところで、この完成式典を挟んだ数か月…水爆の最初の設計が正しくない、と示した時から、陸軍に納入されるまでの期間が後に争点となります。
ENIAC の特許が申請されたのは、1947年の6月26日。
アメリカでは特許申請は「公に使用されてから1年以内」と決められていました。
申請は、公の使用とは陸軍への納入である、と考えて、期限に間に合うように行われています。
しかし、後に ENIAC の特許を無効にしようと別のコンピューター会社が起こした訴訟では、「公の使用は、最初の水爆計算の 1945年12月である」と判断されました。
つまり、ENIAC の特許は申請期限を半年も過ぎており、無効。
この裁判の中で、ABC マシンが「ENIAC に先行して作成されたコンピューターである」という主張が行われています。
(先行する類似発明があると、特許は無効となります)
ABC マシンは ENIAC とは明らかに違ううえ、完成していません。
そのため、裁判ではこの件は判断されておらず、ABC が世界最初のコンピューターだとは判断されていません。
しかし、ENIAC の特許が認められなかった = ABC が最初と認められた、と主張する書籍が後に作られ、ABC が世界初である、と誤解が広まっています。
最後に、バレンタインデーらしい話を…
ENIAC のプログラマ6名が、マニュアルもない状態でプログラムを作らなくてはならなかった、という話を途中で書きました。
彼女たちは、参考に、エンジニアと自由に話をする機会を与えられました。
恐らくは、仕事のために何度も何度も、エンジニアに質問をしたことでしょう。
そのうちに仲良くなるエンジニアがいるのは当然のことです。
全員がエンジニアと交際していました。
そして、結局3組のカップルが結婚しています。
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