今日は芸夢狂人さんの誕生日(1953)。
本名は鈴木孝成さん。本名よりもペンネームの方が有名です。
「げいむきょうじん」と読まれることが多いのですが、本人の意図としては「げいむきよと」なのだそうです。
8bit パソコンの黎明期に現れ、主に PC-8001 で、次々に出来の良いゲームを発表しました。
最初は秋葉原の九十九電機から発売されていましたが、後に工学社から出ていた雑誌、I/Oの投稿に転じます。
九十九は買取だったので「売っておしまい」でしたが、I/Oは印税だったので、ずっと儲かったから、というのが理由だそうです。
ペンネームを使い始めたのは投稿し始めてから。
しかし、あまりにもハイペースで投稿し、同時に2作掲載されたりする際には、別のペンネームを使います。
PC-8001 以外で発表する際にも別のペンネームを使ったそうです。
つまり、「芸夢狂人」の作成したゲームは有名なのですが、実際に作ったものはもっと多い!
初期の PC ゲームは、すべてを一人で作り上げることが珍しくありませんでした。
「芸夢狂人」さんは、そうしたスタープログラマの先駆けでした。
今でもゲーム業界で活躍する多くのプログラマが、彼のように有名になることを夢見てゲームを作っていたのです。
しかし、芸夢狂人さんは当時医大生で医者になる勉強のために、ある時突然引退宣言を出します(1981)。
その後、当時小さな会社だったエニックスが「ゲームホビープログラムコンテスト」を開催します(1982)。
広く一般に開かれたコンテストでしたが、当時パソコン雑誌にプログラム投稿をしていた人は誘いがかかりました。
I/O からは中村光一、月刊アスキーからは、すでに「森田オセロ」で有名だった森田和郎が参加していました。
森田さんが最優秀プログラム賞、中村さんが優秀プログラム賞を受賞しています。
また、当時フリーライターをしていた堀井雄二は、このコンテストの取材に訪れ、自作のゲームを投稿します。こちらも入選。
余談になりますが、2年後に森田さんが作った「森田和郎の将棋」(1984)を遊んで、作曲家でゲーム好きの すぎやまこういち さんが感想を書いたアンケートはがきを返しています。
この縁で、堀井雄二シナリオ、中村光一プログラム、すぎやまこういち 作曲で、ドラゴンクエスト(1986)が作られるわけです。
(これに加えて、当時すでに人気漫画家だった鳥山明が画像のデザインを行った。ものすごい布陣だった。)
話を戻します。
引退宣言を出していた芸夢狂人さんは1回目のコンテストには不参加。
2回目のコンテストには参加し、見事入賞しています。
後に、エニックスの人から「自主的な参加が無かったら参加要請を出していただろう」と聞いたそうです。
エニックスとしては、パソコンゲーム界の超有名人である芸夢狂人さんがコンテストに参加していないのは画龍点睛を欠く思いだったのでしょう。
その後、エニックスのいくつかのゲームのプログラムをしていますが、その頃のゲーム作成は、すでに分業制。
全てを一人でやるのが好きだった芸夢狂人さんはこれが苦痛だったそうで、再びゲーム業界から引退します。
その後、ちゃんと医者になって開業医をやっていたようなのですが、その医院も2011年に閉院。
現在の様子は氏のホームページで伺うことができます。
…ざっと書いてみましたが、ほとんど「みんながこれで燃えた! PC-8001・PC-6001」のインタビューの要約です。
他にあまり情報が無いようで、Wikipedia の情報もほとんどこれだけだし。
僕個人の思い出を書けば、PC-8001 は周囲に持っている人が居なかったので、芸夢狂人さんのゲームは1つも遊んだことないのです。
さらに言えば、I/O も購読していなかったので、直接記事を読んだこともない。
非常に残念なことではあります。
しかし、それでも芸夢狂人、という名前は知っていました。
それほど有名だったのです。
名前のインパクトがあったからよく覚えている、というのもあるかもしれませんが(笑)
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