2015年01月05日の日記です


年越しそばの起源  2015-01-05 17:32:51  その他

仕事始めでやっと PC 起動できました。


いろいろ書くことがあるけど、まずは大みそかにツイッターで書いたことの補足。




年末年始は子供も冬休みで PC に向かえません。

で、大晦日の日にツイッターで「年越しそば」について書いたら、ちょっと(本当にちょっと)反響がありました。


そいじゃ、詳細をここにまとめておきますかね。

「年越しそばって何なのか」という話。




大晦日になぜ年越しそばを食べるのか?


・金細工職人が仕事の後にそば粉を練って金粉を集めたことから、「金が集まるように」という願掛け。

・そばは切れやすいことから、今年の悪いことを断ち切って来年が良くなるように、という願掛け。

・年越しはもうすぐ(そば)、という言葉遊び。

・そばのように細く長く生きられるように、という長寿の願掛け。


などなど、諸説あります。

まぁ、どれもある意味正しいのでしょう。


でも、一番大切な理由は「ソバが簡単に食べられたから」だと思います。



江戸には蕎麦屋・そばの屋台が非常に多く、3800軒ほどあったという調査結果が残っています。


今の東京では、コンビニが5000軒弱


江戸は人口100万人、東京の昼間人口は1500万人

「人口当たりの数」では、蕎麦屋はコンビニよりずっと多かったのです。


ちなみに、東京の歯医者は1万軒。コンビニの倍近くあります。話には関係ないけど。




さて、なんでそんなに蕎麦屋が多いかと言えば、江戸では「外食する」ことが奨励されたため。


当時は食事を作るには火を焚く必要があります。

しかし多くの人が住んでいた長屋の一軒分は狭く、土間は十分なスペースがありません。


万が一、周囲に火が燃え移れば火事になります。

長屋が密集した江戸では失火すれば大火事になるのは必至で、「出来るだけ火を焚かない」ことが奨励されたのです。


#炊事ができない程度、暖を取ったりお湯を沸かす程度の火は使われた。



このため、江戸には多くの食べ物屋があったのですが、特に安かったソバは人気があり、たくさん店があったのです。

赤穂浪士も討ち入り前にそばを食べていますし、落語の「時そば」など、蕎麦屋を舞台とした話も多いです。



余談になるけど、「外食が当たり前だった」というの重要ね。

家で料理作れることが「家庭的」なんていうのは、ここ100年程度の話に過ぎません。


#家が密集していない江戸以外では、各家庭で料理もします。

 でも、いまよりずっと簡素だし、隣近所でおかずを交換したりもしたので、毎食毎食の料理を全部作る必要もなかった。

 「料理できる女性が家庭的」は、西洋文化の影響にすぎないよ。




話はがらりと変わります。


江戸時代は、物を購入する際に「つけ払い」にするのは珍しいことではありませんでした。

店主とある程度顔なじみになれば、つけ払いが効くようになります。


お金は、月末にまとめて払います。

普通は自分から払いに行くのですが、貧乏人が多い江戸のことですから、払いに行かないで逃げようとする人もいます。

(にもかかわらず、店はそれほど多くないため、同じ店にまた買い物に行ったりもします)


あまりつけが溜まると、店側から取り立てに来ます。

そして、年末には取り立てが厳しくなります。何事も年をまたぐ、というのを基本的に嫌う風習があったためです。



大店の使用人にとっては、大晦日の取り立ては大変な仕事でした。

のらりくらりとお金を払わないで逃げ続けてきた人に、何としてもお金を貰わねばなりません。


何人もの相手に対し、集金に回ります。

「年をまたぐ」のを嫌うのは借金している側も同じで、基本的には何とかお金を工面して払おうとするのですが、ここでも逃げようとする人もいます。

毎月末の集金よりも激しい丁々発止が繰り広げられたようです。



取り立ては、大抵日没後にも続きます。

当時は日が変わるのは「日の出」の時なので、日没後もまだ大晦日なのです。


#だから、深夜0時に「あけましておめでとう」というのも当時の感覚ではおかしい。

 「年明け」は、「夜明け」と同時です。




寒い中、やっと集金を終えて帰ってきた使用人に、大店の主人は労をねぎらって暖かいそばを出したそうです。


当時の蕎麦屋は夜遅く(と言っても、当時のことなので夜10時程度)まで営業している場合も多く、そうしたところから出前を取ることも出来ました。


これが「年越しそば」の起源。


年越しそばを食べる、というのは、やっと年内の仕事を片付け、安心して年を越せるようになった、という意味があるのです。



本来商家にしか関係なかったはずですが、一般庶民にもこの習慣が広がります。

と同時に、本来の意図を知らない人向けに、「それらしい」説明が出回り始めます。


…つまり、最初に書いた縁起担ぎなどの話です。

江戸時代にはすでにこれらの説が流布しているし、その説を信じて食べる人も多かったのだから、縁起担ぎ説が間違えているというわけでもありません。



でも、そもそも蕎麦屋が多くなかったら、「年越しだからそば食べよう」と言っても食べられなかったのが江戸庶民。

自分で料理することはできないんだからね。


うどん屋が多かったらうどんになっていただろうし、握り飯屋が多ければ握り飯になっていたでしょう。


#小麦や米は肥えた土地でないと作れないけど、蕎麦は痩せた土地でも作れます

 これが蕎麦屋が多かった理由なので、うどんや握り飯にはなり得なかっただろうけど。



年越しそばの説明としては諸説あるけど、「ソバが簡単に食べられたから」という基本は忘れてはならないと思うのです。




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