仕事始めでやっと PC 起動できました。
いろいろ書くことがあるけど、まずは大みそかにツイッターで書いたことの補足。
年末年始は子供も冬休みで PC に向かえません。
で、大晦日の日にツイッターで「年越しそば」について書いたら、ちょっと(本当にちょっと)反響がありました。
そいじゃ、詳細をここにまとめておきますかね。
「年越しそばって何なのか」という話。
大晦日になぜ年越しそばを食べるのか?
・金細工職人が仕事の後にそば粉を練って金粉を集めたことから、「金が集まるように」という願掛け。
・そばは切れやすいことから、今年の悪いことを断ち切って来年が良くなるように、という願掛け。
・年越しはもうすぐ(そば)、という言葉遊び。
・そばのように細く長く生きられるように、という長寿の願掛け。
などなど、諸説あります。
まぁ、どれもある意味正しいのでしょう。
でも、一番大切な理由は「ソバが簡単に食べられたから」だと思います。
江戸には蕎麦屋・そばの屋台が非常に多く、3800軒ほどあったという調査結果が残っています。
今の東京では、コンビニが5000軒弱。
江戸は人口100万人、東京の昼間人口は1500万人。
「人口当たりの数」では、蕎麦屋はコンビニよりずっと多かったのです。
ちなみに、東京の歯医者は1万軒。コンビニの倍近くあります。話には関係ないけど。
さて、なんでそんなに蕎麦屋が多いかと言えば、江戸では「外食する」ことが奨励されたため。
当時は食事を作るには火を焚く必要があります。
しかし多くの人が住んでいた長屋の一軒分は狭く、土間は十分なスペースがありません。
万が一、周囲に火が燃え移れば火事になります。
長屋が密集した江戸では失火すれば大火事になるのは必至で、「出来るだけ火を焚かない」ことが奨励されたのです。
#炊事ができない程度、暖を取ったりお湯を沸かす程度の火は使われた。
このため、江戸には多くの食べ物屋があったのですが、特に安かったソバは人気があり、たくさん店があったのです。
赤穂浪士も討ち入り前にそばを食べていますし、落語の「時そば」など、蕎麦屋を舞台とした話も多いです。
余談になるけど、「外食が当たり前だった」というの重要ね。
家で料理作れることが「家庭的」なんていうのは、ここ100年程度の話に過ぎません。
#家が密集していない江戸以外では、各家庭で料理もします。
でも、いまよりずっと簡素だし、隣近所でおかずを交換したりもしたので、毎食毎食の料理を全部作る必要もなかった。
「料理できる女性が家庭的」は、西洋文化の影響にすぎないよ。
話はがらりと変わります。
江戸時代は、物を購入する際に「つけ払い」にするのは珍しいことではありませんでした。
店主とある程度顔なじみになれば、つけ払いが効くようになります。
お金は、月末にまとめて払います。
普通は自分から払いに行くのですが、貧乏人が多い江戸のことですから、払いに行かないで逃げようとする人もいます。
(にもかかわらず、店はそれほど多くないため、同じ店にまた買い物に行ったりもします)
あまりつけが溜まると、店側から取り立てに来ます。
そして、年末には取り立てが厳しくなります。何事も年をまたぐ、というのを基本的に嫌う風習があったためです。
大店の使用人にとっては、大晦日の取り立ては大変な仕事でした。
のらりくらりとお金を払わないで逃げ続けてきた人に、何としてもお金を貰わねばなりません。
何人もの相手に対し、集金に回ります。
「年をまたぐ」のを嫌うのは借金している側も同じで、基本的には何とかお金を工面して払おうとするのですが、ここでも逃げようとする人もいます。
毎月末の集金よりも激しい丁々発止が繰り広げられたようです。
取り立ては、大抵日没後にも続きます。
当時は日が変わるのは「日の出」の時なので、日没後もまだ大晦日なのです。
#だから、深夜0時に「あけましておめでとう」というのも当時の感覚ではおかしい。
「年明け」は、「夜明け」と同時です。
寒い中、やっと集金を終えて帰ってきた使用人に、大店の主人は労をねぎらって暖かいそばを出したそうです。
当時の蕎麦屋は夜遅く(と言っても、当時のことなので夜10時程度)まで営業している場合も多く、そうしたところから出前を取ることも出来ました。
これが「年越しそば」の起源。
年越しそばを食べる、というのは、やっと年内の仕事を片付け、安心して年を越せるようになった、という意味があるのです。
本来商家にしか関係なかったはずですが、一般庶民にもこの習慣が広がります。
と同時に、本来の意図を知らない人向けに、「それらしい」説明が出回り始めます。
…つまり、最初に書いた縁起担ぎなどの話です。
江戸時代にはすでにこれらの説が流布しているし、その説を信じて食べる人も多かったのだから、縁起担ぎ説が間違えているというわけでもありません。
でも、そもそも蕎麦屋が多くなかったら、「年越しだからそば食べよう」と言っても食べられなかったのが江戸庶民。
自分で料理することはできないんだからね。
うどん屋が多かったらうどんになっていただろうし、握り飯屋が多ければ握り飯になっていたでしょう。
#小麦や米は肥えた土地でないと作れないけど、蕎麦は痩せた土地でも作れます。
これが蕎麦屋が多かった理由なので、うどんや握り飯にはなり得なかっただろうけど。
年越しそばの説明としては諸説あるけど、「ソバが簡単に食べられたから」という基本は忘れてはならないと思うのです。
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