今日はロバート・ノイスの誕生日(1927)。
アラン・シュガートの命日でもあります(2006)。
シュガートは、ハードディスクの開発者であり、今のハードディスクや、ハードディスクと同じインターフェイスを使用する SSD に影響を残しています。
シュガートについては誕生日の時に詳しく書いたので、今日はノイスの方を書きましょう。
ロバート・ノイスは…SSD はもちろん、現在のパソコンすべてに影響を与えています。
彼は集積回路(IC)を発明し、世界で初めての集積回路製造会社であるフェアチャイルド・セミコンダクター社を創業し、さらにはそこを飛び出してインテル社を設立し、世界初の CPU である 4004 の開発を監督したのです。
また、その影響力の強さから「シリコンバレーの市長」と呼ばれていました。
(注:シリコンバレーは地域を意味する俗称で「市」ではない。そのため市長は存在しない)
スティーブ・ジョブズは、ノイスを尊敬しており、彼を目標としていました。
#ノイスは「集積回路」の生産に関する特許を取っていますが、ジャック・キルビーが6か月早く、別の方法について集積回路の特許を出願していました。
それぞれの方法は違うため、現在は二人が集積回路の発明者とされています。
元々、ノイスはシリコンバレーにある、ショックレー研究所の一員でした。
ショックレーは、トランジスタを発明し、ノーベル賞を受賞した発明家・物理学者です。
ただ、彼は「天才」ではあるのですが、人を気遣える性格ではありませんでした。
彼の名前を関した研究所があるのも、彼が組織の中で他の人となじむことができず、飛び出して独立したためです。
そして、それは研究所の所長になっても一緒でした。
すぐに部下を疑い、非能をなじり、すべてを自分の支配下に置こうとするのです。
ある時、彼はシリコン基板上に半導体を生成する技術…今でいう集積回路の研究を、上手くいかないから打ち切ることに決定します。
しかし、研究中の部下は、あと少しでこの技術が完成しそうだったことを知っていました。
そして、この「打ち切り」に反発して研究所を辞めるのです。
この時に飛び出したのが8人。「8人の反逆者」と呼ばれています。
ノイスはこのうちの一人でした。
ノイスは仲間と共に、フェアチャイルド・カメラ社の社長、シャーマン・フェアチャイルドに面会し、出資を頼みました。
フェアチャイルドはノイスのプレゼンテーションにほれ込み、フェアチャイルド・セミコンダクターを設立します(1957)。
そして、フェアチャイルド・セミコンダクターは、世界で最初の IC の製造に成功します。
ノイスらは「技術者として」会社を成長させたいと考えていました。
じっくりと研究を行い、革新的な新技術を作り出したかったのです。
しかし、フェアチャイルドは「出資者として」利益を追求したいと考えていました。
ある程度の研究は必要ですが、目標と締切が必要でした。
驚くような新技術よりも、すぐに金になる技術の方が重要でした。
このため、会社の運営方針について意見が対立。
ノイスは、また会社を飛び出し、インテル社を設立します(1968)。
インテルは、半導体メモリーを作る会社でした。
当時はまだメモリと言えばコア・メモリが主流。
そもそも、コンピューターが「非常に高価な機械」です。
この頃、「小さいし安価」で人気のあったコンピューター、PDP-8 シリーズはトランジスタで作られています(1965)。
しかし、IC が安くなると、IC を組み合わせて作られるようになります。
当時の IC は、主によく使う「論理回路」を集積したものだけでした。
メモリは、まだコアメモリが使われていました。
インテルはここに目を付けました。
論理部分が IC に置き変えられていく中で、メモリも IC で提供すれば、絶対に買ってもらえます。
…という目算で、会社設立後に研究を開始しています。
会社が出来たからすぐに製品出荷を、とはいきません。
会社設立間もない、1969年の6月に、日本のビジコン社…インテル側からすれば「聞いたこともない会社」から、技術者が商談にやってきます。
日本の技術者は英語が非常に下手で要領を得ないものでしたが、つまりは電卓用の IC を作って欲しい、とのことのようです。
インテルはまだ最初の製品となる IC を開発中でしたが、すでに生産設備は整っていました。
(倒産した IC 生産工場を、設備付きのままで借りていました)
主力商品の生産が始まるまで、生産設備を貸すことに問題はありません。インテルは生産を快諾しました。
…しかし、「生産担当」は、コミュニケーションがうまくいかなかったための勘違いでした。
紆余曲折ありましたが、これで生み出されたのが、世界初の CPU である 4004 でした。
「ロジック回路ではなく、メモリ回路を作る」という目標で設立されたインテル社は、当時もっとも複雑なロジック回路を生み出してしまったのです。
RAM の生産を予定していたのに、非常に複雑なロジック回路を作ることになった。
この予定外の事態に、当時社長だったロバート・ノイスは、直接プロジェクト監督を行っています。
4004を作ったビジコン側の技術者…嶋正利さんは、著書「わが青春の4004」の中で、インテル社の思い出を語っています。
インテルは、社員が楽しんで仕事が出来るように気遣っている会社でした。
恐らくは、ノイスの理想…ショックレー研究所や、フェアチャイルド社での社員の扱いへの反発があったのでしょう。
インテルでは、仕事上の「上司や部下」の関係はあっても、人間としては対等である、という考えでした。
社員みんなでピクニックに行ったとき、ゴードン・ムーア(当時副社長)が肉を焼いてみんなに振る舞っていた…という写真が、嶋さんの書籍の中に載っています。
また、ロバート・ノイスが嶋さんに車を貸してくれたので、その車(当時の日本人からすれば、乗るだけで緊張するような高級車!)の前で記念撮影している写真もあります。
#ゴードン・ムーアは、ショックレー研究所時代からノイスと行動を共にしてきた人。
「半導体は 18か月ごとに性能が倍になる」という、ムーアの法則の提唱者としても有名。
ただし、実際には彼はそのように言ってはいない。
シリコンバレーは、元々ヒューレット・パッカード社が創立したこときっかけに作られた…とされていることが多いです。
しかし、実際にはヒューレット・パッカード社が高性能な測定器を作っていたため、ショックレーが近くに研究所を構え、その近くにフェアチャイルド、インテルなど、大きな集積回路製造会社が次々と創設されたことに始まっています。
#だから「シリコン」なのです。
ヒューレットパッカードやショックレー研は、半導体を使用してはいましたが、「シリコン基板」ではありませんでした。
つまり、シリコンバレーが形作られる過程で、ノイスの影響は非常に強いのです。
そしてインテル以降は、「従業員を大切にする」ことが、シリコンバレーの多くの企業の社風となりました。
ロバート・ノイスは、集積回路を発明し、フェアチャイルド社・インテル社を創業し、世界初の CPU 開発の監督をし、周辺一帯を世界的な最先端企業の集まる地にしただけでなく、「人間らしく働ける」会社が当たり前である地域にした…
これが、彼が「シリコンバレーの市長」と呼ばれる理由であり、ジョブズが起業家として目標にしていた理由でもあります。
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