今日が誕生日のキム・ポレーゼさんが、オバマ大統領のイノベーション諮問委員会メンバーだった、ということで、以前から書きたかったことを、つらつらと。
えーと、先に書いておくけど、基本的にはネタです。
それなりに真面目に考えているのだけど、真面目に受け取られると困るかも。
もう1年ほど前、オバマ大統領が米国民に「すべての国民にプログラムを学んでほしい」と語りかけました。
これにはいくつか意味があると思っています。
製造業はもうアジアの国の安い人件費で作られてしまうと太刀打ちできない。
プログラムも、インドあたりで開発するのが増えている。
でも、ちょっとしたアイディアでいろんなものを組み合わせて、新しいものを作り出すこと…
あえて枯れた技術の水平思考とか言っちゃいますけど、そういうものは、「いろんなもの」をすでに持っている国が強い。
つまりは、アメリカはそういう分野で生き残っていかないといけない。
iPhone は良い例で、部品は安いものを使っているし、技術は既存の物ばかりだけど、うまく組み合わせて成功している。
でも、「組み合わせる」には、つなぎとめる何かが必要。
お団子でいえば、突き通す「串」がいるんです。
プログラムって、こういう時に団子の串になれます。
昔、アスキーから、いろんな分野の一線で働いている人がコンピューターをどう使っているか、というインタビュー本が出ていました。持ってないのだけど。
その本の宣伝で、たしかこんなことが書かれていたのです。
第一線の研究者はコンピューターを使っているかもしれないが、コンピューターは主役ではない。
でも、団子の串を名乗るくらいの資格はある、のではないか。
主役は団子ね。でも、串が無いとまとまらないし、食べづらい。
非常に名文句だと思います。そして、そのコンピューターを見事に「串」として振る舞わせるには、プログラムが不可欠です。
つまりは、「すべての人がプログラムできるように」は、決して高いレベルのプログラムを求めているのではなくて、「必要な時に貫き通せる串くらいもっておきなよ」という意味合い、かと思います。
また別の解釈。
アラン・ケイは、コンピュータープログラムの学習をすることで、子供たちに科学的思考が芽生える、と考えています。
今は、高度に科学的な思考を出来る人と言うのは、世界人口の 5% もいないかもしれない。
でも、コンピューターで教育を行えば、500年後には 95% が科学的な思考を身に着けるだろう、と。
なんだか突拍子もない話ですが、500年前には、文字を読める人は全人口の 1% 程度でした。
でも、今は多くの人が文字を読めます。じゃぁ、今は 5% しか科学的思考ができなかったとしても、500年後には…
という、それなりに根拠のある話。
ケイは、このために「プログラムができる」ことが重要だと考えていますが、これは決して、プログラムを作ることが目的ではありません。
ある程度「出来る」能力があれば、やらなくてもいい。でも、その能力は絶対別のところで役に立つ。
僕としては、オバマさんの意図はこちらではないかな、と考えています。
全員をプログラマーにして、アメリカを IT 産業しかない国にしたいわけではない。
でも、科学的な思考が身に付けば、それはどんな業種でも必ず役に立ちます。
科学的思考っていうと、科学知識と混同されそうだけど、そうではないのね。
たとえ話をしましょう。
僕が通っていた大学で、特別な入試がありました。
高校の成績は不問。いわゆる通常科目の試験もやらない。
ただ「科学的思考」を持ち合わせているかどうかのみを見る試験でした。
出題時に、2つのバナナが配られます。
1つは今朝買って来た新鮮なバナナ。もう1つは、3日前に買ってきて置いておいた古いバナナ。
この2つを食べ比べ、どちらが甘いか、その甘くなった理由はなぜか、自分で考えて教授の前で話をしなさい、というのが問題でした。
サークルの後輩の女性が、この試験を受験したのですが、彼女の答えは以下のようなものだったそうです。
甘いのは古い方。
新鮮なバナナには少し酸味を感じた。これが、古いほうが「甘い」と感じる原因ではないか。
柑橘類など酸味があるものは香りが強いことも多いし、お寿司を作るときには結構お酢を入れても酸っぱくならない。
香りが強いというのは蒸発しやすいということだし、寿司飯を作る際もウチワで仰いで蒸発させている。
ということは、酸味は蒸発しやすいのではないか。3日前のバナナは酸味が蒸発して消えてしまい、結果として甘くなったのだと思う。
…彼女、試験終了後にすぐに事典で答えを調べ、間違っていたので不合格だと確信したそうです。
でも、結果は合格。
これ「知識」があれば、バナナが追熟することを答えて終わりでしょう。
でも、おそらくそれだけでは不合格。知識を問う問題ではありませんから。
自分の持っている知識を組み合わせて、「もっともらしい説明」を考え出せるかどうか。
これが「科学的思考」です。
#注意:決して知識が不要だというわけではないよ。
彼女の答えがそうであるように、知識が間違っていれば間違った結論にたどり着いてしまう。
でも、知識なんて本を見れば載っているんです。それを「正しく」組み合わせられる能力の方が、ずっと重要。
ここでは、断片知識をつなぎ合わせて一つの形にしている。
…そう、やっぱり「団子の串」を持っていることが重要なのです。
プログラムを作る練習をすると、こうした思考能力が身に付く。
アラン・ケイがプログラムに求めているのは、そうした部分です。
さて、先の入試の例で、「教授の前で答える」というのも、実は科学的思考を見るうえでも重要でした。
これ、プレゼン能力を見ているのですね。
プレゼンと言っても、よどみなく、はきはきと喋れとか、そういうことではない。そんなのは練習すれば身に付く技術に過ぎない。
相手が何を理解していて、何を理解していないか。自分の考えをどのように順序立てて説明すれば、相手に伝わりやすいか。
ということは、常に「相手に伝わりやすい」ことを考えなくてはならない。
「自分の考えを知っている自分」でありながら「自分の考えを知らない他人」の目線も持っていなくてはならないのです。
「他人の目で見る」というのは、「わかったつもりの物でも、逆の方向から、全く知らないものとして見てみる」ということでもあります。
たとえば、「色の三原色は、赤・青・黄色である」というのは、多くの人が知っていること。
じゃぁ、「三原色」という言葉は、常識として説明いらずで使っていい…かな?
「パソコンでは赤・青・緑 (RGB) だよ」と知っている人もいるでしょう。ということは、先の言葉は必ずしも正しくないのです。
これが「減色混合」と「加色混合」の三原色だ、と知っている人もいるかもしれません。
じゃぁ、「減色混合の三原色」なら使っていい?
…いや、たぶん人には伝わりにくくなるでしょう。減色混合って言われてわかる人は少ない。
「三原色(赤・青・黄)」と補足した方が、よりわかりやすいかもしれない。
話の文脈によっては、「三原色」自体を疑わないといけない場合もあります。
人間の目の中には「赤・青・黄色」に反応する神経があります。(本当はちょっと違うのだけど、そう考えてください)
たとえば、緑色は、周波数の近い青と黄色が同時に刺激されることで「緑」だと知ることができます。
でも、黄色と青の色が「混ざった」ものがあったら、やっぱり同時に刺激される。この時「緑」と区別がつかなくなります。
だから、青と黄色を混ぜると緑になる、と言われる。
でも、これは「人間にはそう見える」というだけで、青と黄色を混ぜても、それは「混ざった青と黄色」に過ぎないのです。
人間とは違う仕組みで色を見る…たとえば昆虫なんかには、緑には見えないかもしれない。
これをちゃんと理解していないと、三原色と言い出した時点でおかしい、ということだってあり得る。
…と、こういうのが、「わかったつもりでも逆から見る」ということ。
説明するうえで、自分では当たり前だと思っていることでも、いちいち「人に伝わるか」を考えて、伝わりにくそうなら伝える方法を工夫しないといけない。
ここでも、知識を問いたいわけではありません。
すぐに「ほかの人はどう思っているかな?」「他の見方はできないかな?」と、目線を切り替えられることが重要。
さて、話をプログラムに戻すと、実は「目線の切り替え」ができない人が作ったプログラムは、バグだらけで動きません。
自分の作りたい処理を作っただけではだめだから。
処理を作ったら、それが「どんな極端な状況でも正しく動くか」を検証しないといけない。
検証すると、結構うまくいかない特殊例が見つかるものです。
そうしたら、再び別の方法を考える。その方法をまた検証する。
プログラムを作る際には、こうした「目線の切り替え」が連続して起こります。
最初は大変なのだけど、慣れるとどんな時でもすぐに目線が切り替えられるようになる。
これがまた、科学的思考に役立つのです。
#こういう話、過去にも書きましたね。
さて、ここからは、ネタと言うか与太話。
アメリカでは、コンピューター産業に力を入れたいので、皆がプログラマーになるようにする。
それはいいと思うんですよ。
じゃぁ、日本も同じようにプログラマーを目指させる?
それじゃぁ、アメリカに遅れを取るだけで、あまり意味がないように思います。
実のところ、プログラマー教育まではしていませんでしたが、アメリカでは「プレゼン能力」を磨くような授業はすでにさかん。
ある程度の科学的思考能力があるのを前提に、全員がプログラムできるように、と言っているのですね。
日本の場合、残念ながらアメリカよりも科学的思考能力がある人が少ないように思います。
今からこの分野で追いかけても、アメリカに勝てないかもしれない。
やるなというわけではなくて、やってもいいのだけど、別の方法で科学的思考が身に付くように考えてみるのもいいのではないかな。
…で、思うわけですよ。
プレゼン能力と言うのが一つのキーワードです。誰にでも伝わる、伝える能力。
これ、日本が世界的に非常に強い分野がありますよね。クールジャパンとか言われて、世界的にも人気があります。
というわけで、アメリカが「全国民がプログラムできるように」と言うのであれば、日本では「全国民が漫画を描けるように」ってやればいいんじゃないかな。
もちろん、「伝える能力を磨く」のが狙いですから、ただ絵が描ければよいのではないです。
むしろ、絵は下手でもいいから、みんなが面白いと言ってくれる内容で勝負。
僕はちっとも絵が描けないので、本気でこんな政策打ち出されたら大変なのですけど、僕レベルでもアメリカ人から見れば「絵がうまい」部類のようです。
子供の頃に真似して描いていたので、スヌーピーとウッドストックのイラストくらいは描ける。
(常に同じポーズのイラストで、顔だけだけど)
ドラえもんの絵描き歌だって、他の国の人から見ると「絵が描ける」レベルであることは多いです。
日本人、この分野では確実に国民のレベルが高い。年配の方でも、絵手紙とか趣味教室で人気高いし。
嘘だと思うなら、アランケイが書いた顔の絵を見てみるといい。
ちなみに彼、コンピューター関連で有名だけど、ジャズが好きで演奏家になりたかった…という「アーティスト」だからね。
#5秒程度で描いた絵をいろいろ言うのも申し訳ないのですが。
彼の過去の論文には、もっと上手な絵が載っています。時間があれば上手に描けるのでしょう。
#2017.6.26 追記
後で知りましたが、「上手な」方のイラストは、ケイのものではなく、依頼して他の人に書いてもらったんだそうです。
だから、やっぱりケイは絵が下手な模様…
でも、絵が描ける、というだけでは「イラスト」であって漫画ではない。
漫画として、なにかお話を伝えられるレベルにしようと思ったら、たぶんすごく頭を使わなくてはならない。
この部分で「頭を使って、工夫する」ことが何よりも重要です。
ある程度人に読んでもらって、面白いと言ってもらえる「漫画」を描こうと思ったら、かなり高いプレゼン能力が身に付くのではないかな。
そして、それはとりもなおさず「科学的思考」に密接しているわけで、絶対に他の分野でも役に立つ。
なによりも、「実際に自分の手で何かを作り出す」ということは、新しい視点をもたらせてくれます。
それを繰り返し行うことで、より良いものを作れるように繰り返し考える癖が付きます。
これ、アメリカが「プログラム」で狙っているのと同じ効果、だと思います。
だから、目指すものが漫画であってもよいはず。
アメリカは「輸出産業」としてのプログラムも見越しているわけですが、現在「クールジャパン」戦略によって、漫画は重要な輸出品でもあります。
描く人が増えて底辺が広がれば、その中から次世代を担う人も出てくるでしょう。
なによりも、政府が「国民全員が漫画を描けるように」なんて言い出したら、諸外国から「crazy...」ってため息が聞こえてきそうです。いや、褒め言葉として。
クールだ、っていうんなら、それくらいのことやらなくちゃ、存在感を示せないのではないかな。
これ、結構悪くない戦略なのではないかと思うのですが、どうでしょう?
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