今日はチキンラーメンの誕生日。
誕生日? まぁ、発売された日と言うことね。
#パピコンクリッカーを作った Tiny野郎さんは今日が誕生日だそうだ。
同じ誕生日の人を探していたようなので、誕生日と表現してみた。
5か月ほど前にカップヌードルミュージアムに遊びに行っていて、そこでは当然チキンラーメンの発売以降の、日清を中心に他社の製品も含め、インスタントラーメンの歴史を展示していました。
戦後の食糧難の時に、安藤百福さんが誰でもすぐ作って食べられるラーメンを開発しようとした話や、てんぷらをヒントに製法を考案する話なんかは結構有名。
他社にまねされたときに粗悪品もかなり出回り、「製法がわからないから粗悪品ができるんだ」と、特許を取っていた製法を無償公開してしまった、というのはミュージアムで知った。
ただし特許を使用するには「日本ラーメン工業協会」に加盟して品質を保証しなくてはならない。この協会の会長は百福さんがやっており、加盟料は払う必要がある。
でも、これで類似品も含めて品質が安定し、「インスタントラーメン」の需要がさらに広がる。
結果としてちゃんと日清は儲かるようになっている。素晴らしい。
と、僕のページで書くのだから、受け売りの話で終わらそうとは思っていない。
僕が子供の頃にはじめて「自分で作れる料理」のレパートリーを持ったのは、インスタントラーメンだと思う。
これ、非常に微妙な問題で、パンを焼いて食べる、程度はその前からやっていた。
どこから料理と見做すかの境界で、当時の僕は「ガスコンロを使う」ことが大事だと思ったのね。
ちなみに、具は入っていないので包丁は使わない(笑)
でも、小学生には十分な料理に思えたのですよ。
プログラマは料理ができなくてはならない、と説いたのは元アスキー編集長の遠藤諭。
優れたプログラマは人に邪魔されない深夜に仕事をするものだし、その際に腹が減ったらちゃっちゃと自分一人分の料理をこしらえられなくてはならない、というのがその理由だった。
今ならコンビニがあるから買ってくれば済む話だが、それは多分真意ではない。
料理と言うのは科学実験であり、そこにはアルゴリズムも、探求心も存在する。だから、料理もできない奴は良いプログラムは組めない、ということだと僕は理解している。
もちろん、優れたプログラマで料理ができない人だって多数いる。
でもそれは、知識が足りないだけ。優れたプログラマは、最初のきっかけがあれば後は勝手に調べて学習するので、料理を始めるきっかけさえあれば必ずおいしいものが作れるようになるはず。
逆もまた真で、ありあわせの材料でおいしい料理を作れる人はプログラマの素養があると思っている。
こちらもまた、知識を持たないといけないけど、「料理する」ことに比べると「プログラムする」のはハードルが高いね。
料理にアルゴリズムが伴う、というのは、なにも料理するときに限らない。
1950年代の MIT ハッカーたちが、中華料理店に通い、メニューに書いてある謎の記号(漢字)と料理の素材・料理法などの関連性に気付き、「甘酢苦瓜」を注文した…と言う話を過去に書いた。
自分で料理はしていないが、素材と料理方法を組み合わせれば料理ができるはずだ、と推察し、実際に料理人にその指示を出して作ってもらった、というのは面白いエピソードだと思っている。
料理が自分で出来る人でも、素材と料理法の組み合わせを実験してみることがある。
思い切った実験の結果、マズくて食えないものができることもある。でも、そこで「確実にマズイ組み合わせ」を覚えたら、以降はそれを避ければよいだけだ。
実は、まずい料理を作るのは、料理の腕を確実に上げる。その積み重ねをやった人は、おいしい料理を作れるようになる。
ハワイ伝統料理を食べた時は、立場が逆転していた。
僕はお客さんで、何が出てくるかわからない。出てきたのは得体のしれないもので、周囲の人がみなまずそうに食べている。
その状況ですら、料理を知っていれば出来ることがある。
伝統料理がマズいはずがない。マズいと感じるなら、何かが間違っているんだ。
単体で食べたらまずいのを、別の料理を一緒に食べるとおいしくなるのを発見した。
この時は、ハワイ料理に対する知識も経験もなくても、料理に対する知識と「探求心」で正しい方法を見つけ出したことになる。
逆に、一般においしいと思われているものですら受け入れられない人もいる。
ドライカレーに干しぶどう、酢豚にパイナップル、鶏肉のオレンジジュース煮、生ハムメロン。
大抵肉とフルーツは、適切に合わせるとうまいのだけど、拒否反応を示す人は多い。
好き嫌いは個人の自由だけど、なぜそれが一般に「おいしい」とされるのかが理解できないのであれば、その人の理解力はその程度であり、プログラマーとしての素養もそれほどない、と思っている。
#理解したうえで自分が嫌いな理由を論理立てて言える人ならその限りではない。
大切なのは論理体系が構築できることだからだ。
食べるというのは日常で最も大切な行為の一つで、大切だからこそ保守的になるのが普通のようだ。
多くの国では、伝統料理が大切にされ、その形を崩さないことを良しとする。
じゃがいもやトマトが新大陸からもたらされても、人々はなかなか食べようとしなかった、というのには、そうした側面もあるかと思う。
しかし、日本人は食を「冒険」と捉えるのが好きらしい。
変わったものを食べたがる。外国の料理を取り入れ、伝統料理にも新食材を取り入れ、世界中どこの国にもない新しいものを作り出してしまったりする。
#この意味では、トマトを食べたイタリア人も食の冒険が好きだったようだ。
チキンラーメンは世界最初の「インスタント食品」だけど、日本人はそれに拒否反応を示さず、むしろ好奇の目を持って「食べてみたい」と受け入れた。
その後もボンカレーなどを含めて多くの「すぐ食べられる」食品が出てきたが、それほど拒否反応は無い。
インスタント食品が日本から出てきて世界に広まっているのは、こういう国民性とも無縁ではないように思う。
#もちろん今でも「体に悪そう」と拒否反応を持つ人もいるが、それは個人の好みであり、自由だ。
(納豆が嫌い、というのとそれほど変わらない話だと思っている)
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