今日はテレビの父、高柳健次郎の命日(1990)。
1926年に「イ」の文字の送受信に成功した、というのが有名な話。
最大視聴率だった、というネタ、好きだわ。
80年代の画面技術で、走査線について書きました。
ブラウン管に電子銃でビームを当て、電磁石によって横に向かってビームを動かします。
さらに、縦方向にも少しづつ動かしていきます。すると、ビームが平面を覆い尽くします。
あとは、ビームを強弱させれば光の強さが変わります。白黒テレビの出来上がり。
…受像機側はこれでいいんですよ。
問題は、撮影側。
ビームが動くのと同期するように、対象物を「左上から横方向に」「少しづつ下方向に」撮影しないといけない。
じつは、この原理は1884年には発明されていて、開発者の名前を取って「ニプコー円盤」と呼ばれています。
受光素子の前を、大きな円盤で覆います。円盤の縁の近くギリギリでおおわれるようにし、縁に多数の穴を開けます。
円盤を回すと、受光素子の前を、穴が多数通り過ぎていきます。
この時、穴は左から右に通り過ぎ、1個が過ぎるとすぐ次の穴が左から現れるようにします。
そして、穴の位置はだんだん下に下がっていきます。
…これで、撮影側の走査線を作ることができます。
じつはこれは、受信機側にも同じ装置を使うことができて、ブラウン管がなくてもライトの光を使って、スクリーンに光を映し出せます。
こうやって、送信側も受信側も「機械式」でテレビを作った例は、高柳健次郎の前にもありました。
しかし、送信側はともかく、受信側に大きくて可動部分が多い方式を使うのは現実的ではない。
家庭に普及させるには、小型化と、可動部分を少なくすることが必須でした。
そこで、受信側はブラウン管を使い、見事に映像を送ったのが 1926年のこと。
「イ」と書いた雲母板(透明な板)の後ろから光を当てて撮影していました。
送信先は、すぐ隣にある受像機で、電線で接続されています。
でも、これがテレビ放送の第一歩。
その後、1933年にアメリカのツヴォルキンが、撮影側も電子化する方法を発明。
これをすぐに高柳も取り入れることで、走査線の数と、1秒間のコマ数を飛躍的に増やします。
ちなみに、走査線が増えれば画像は綺麗になるし、コマ数が増えれば動きが綺麗になります。
1937年には走査線 441本、毎秒30枚の方式を完成。これをほぼそのまま使用する形で、1939年には実験放送が始まっています。
しかし同年、後に第2次世界大戦と呼ばれる戦争が起こり、1941年に日本も参戦。
このため研究は中止され、電波技術に詳しかった高柳もレーダーの研究などを行います。
一方、アメリカでは1941年にはテレビ放送が実用化されます。
高柳は1946年に弟子と共にビクターに入社、テレビの研究が再開します。
1948年、再度実験放送の開始。
1953年にやっと本放送が始まりますが、この年にアメリカではカラー放送の規格が成立しています。
日本のカラー放送は 1960年開始です。
1959年、高柳は世界初のビデオ・テープレコーダーを開発しています。
当初はもちろん放送機材としての利用でしたが、後に高柳のいたビクターで家庭用に改良され、VHS規格となります。
また、静岡県の浜松で生まれ、東京で勉強したのちは浜松に戻って教員をしていた高柳の教え子には、浜松ホトニクス(カミオカンデでニュートリノが発するわずかな光を捉えた受光管を作った会社)の創業者などがいます。
最後に、「テレビ」の話ではありますが、それはそのまま「パソコンモニタ」に流用されています。
だから、これはパソコンの歴史の話でもある。
世界初のラスタースキャンディスプレイを備えたシステムは、安価に入手できる市販のテレビを利用しました。
Apple II もテレビ用の NTSC 信号を前提としたカラー回路を備えています。後にパソコンは専用のディスプレイを使うようになっていきますが、最初はテレビなのです。
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