目次
01日 おかしな言語仕様
04日 ジョン・ネイピアの命日
06日 花見とサクラ
06日 ジョン・スカリーの誕生日
07日 オーレ・キアク・クリスチャンセンの誕生日
09日 ジョン・エッカートの誕生日(1919)
20日 フェルディナント・ブラウンの命日(1918)
20日 誕生日ウィーク
21日 ゲームボーイの発売日
27日 相模湖リゾート プレジャーフォレスト
エイプリルフールなので、と断ったうえで。
プログラム言語は厳密であいまいなところがない、と思われがちだけど、そんなことは無い。
人間が作ったのだから、非常に曖昧で、おかしな規則を含んでいることがある。
そんな例をいくつか書き出してみよう。
C言語と、その影響をうけた数多くの言語(現代のほとんどの言語!)では、10 進数で 0 を書くことができない。
0 なんて、非常に当たり前に使うものだ。そして、C言語は10進数で数字を表記できる。
でも、0 を10進数で書くことはできない。
言語なので、まず語句を識別する。
そして、この語句の先頭が数字で始まっていると、何らかの数値と見なす。
ここで、1-9 の数字で始まっている場合は、10進数と見なされる。
0 から始まっている場合は複雑で、続く文字を見る。
この文字が x なら 16進数。
C言語では使えないが、一部言語では bで2進数も扱える。
これらの規則に合わない場合は、8進数だ。
そう、0 から始まって、他の規則に合わない場合… 単に 0 と書いた場合は、それは10進数の 0 ではなく、8進数の 0 なのだ。
混乱するから数値はすべて 10進数で表記、とか考えている人は要注意。
知らず知らずのうちに、8進数が混ざっている。
そういう言語仕様なのだから仕方がない。
混乱してバグが出ないように祈っておこう。
同じく C 言語では、改行が意味を持たない。
古いタイプの言語…FORTRAN や BASIC では、文の区切りは改行で、非常に重要だ。
C 言語では改行はただのスペースと同じで、区切りは ; を使う。
この考え方はその後の多くの言語(HTML なども)に受け継がれている。
でも、C と一緒に使う「プリプロセッサ」は、改行を認識する。
命令の有効範囲は改行まで、と言うものがほとんどだ。
どうしても長く書きたくて改行が邪魔になるときは、行の最後に \ を入れることになっている。
\ は、その次の文字に特別な意味を与える、という C 言語での表記方法で、行の最後にこれを書くことによって、続く改行の意味を打ち消している。
ところで、C が進化して C++ になった時、改行を活用する命令が追加された。
// で始まる「行コメント」で、このコメントは、改行によって終了する。
じゃぁ、// で始まる行の最後に \ を書くとどうなるのか。
// はコメントなので、その内部の \ を認識してはならない。その一方、\ に続く改行は無視されなくてはならない。
改行は意味を持たないはずの C 言語に、便利だろうと思って改行を区切りとする命令を追加してしまったがゆえに、非常に困ったことになった。
でも、// でコメント、というのは今でも多くの言語に受け継がれている。
大昔、Apple が Mac (68k) 用に発売していた C++ では、マニュアルのかなり最初の方のページで「既知のバグ」として、わざわざこの件に言及していた。
C++ の仕様の穴であり、Apple のあずかり知ったことではない、と言わずにはいられなかったのだろう。
この機能を使ってはならない。何が起こるかはわからない。
どんな言語でも、「0文字の文字列」は表現できると思う。いわゆるヌル文字列だ。
正規表現もまた、文字列で表現される。そして、ヌル正規表現と言うのも存在し得る。
perl だと、ヌル正規表現によって文字列を分割すると、文字を1文字単位でバラバラにできることが知られている。
ヌル正規表現は、活用すると便利なものなのだ。
でも、Javascript では、この便利な正規表現がつかえない。
Javascript では /~/ で正規表現を書くが、 ヌル正規表現のつもりで // とすると C++ 由来の行コメントとなってしまい、以降の命令を無視してしまうのだ。
sed 由来の書き方と C++ 由来の書き方を混ぜてしまったがゆえにこうなった。
混ぜるな危険! である。
同じような問題は SQL でも発生する。
SQL は、大抵は別の言語の中から呼び出され、ユーザーからは見えない部分でデータを保持するのに使用される。
この時、言語によって SQL の命令の中に数値が埋め込まれたりする。
ところで、「ある数の符号を逆にしたい」ことはよくある。
当たり前の話だけど、変数の前に - をつければ、符号は逆になる。
ところが、すでにマイナスの数だと -- となってしまうことがある。そして、これは SQL ではコメントを意味する。
このため、符号を逆にしようと思ったらコメントが発生してエラーになる、と言うことが起こりうる。
注意しなくてはならない。
その昔、FORTRAN の時代にはパンチカードでプログラムを作った。
パンチカードは80文字しか文字を記録できず、文は必ず80文字以内に書かなくてはならない。
何より、パンチカードは高価だった。
そこで、文字を詰め込んで書いても良い言語仕様だった。
スペース区切りなどいらない。単語を連続して書いても、単語として認識できる綴りであれば問題はない。
それどころか、語句の途中にスペースを入れても構わない。スペースは単に無視して処理されるのだ。
(ただし、文字列定数内のスペースは正しく保持される)
DO 100 I=1,10
WRITE (*,*) I
100 CONTINUE
では、上のプログラムと、次のプログラムは同じものか。
DO 100 I=1.10
WRITE (*,*) I
100 CONTINUE
…残念ながら違う。
何が違うかと言うと、1行目の , (カンマ)が . (ピリオド)に変わっている。
でも、文法エラーにはならず、実行できる。
上のプログラムは、1 ~ 10 の数字を印字するものだ。
下のプログラムは 0 と表示して終わってしまう。
DO 100 I=1,10 は、100行目までの間を繰り返す、その際に I を 1 から 10 まで変化させる、と言う命令だ。
でも、DO 100 I=1.10 は、 DO100I という名前の変数に、 1.10 という実数を代入している。
古い FORTRAN では、変数は1文字目によって「型」が決まり、宣言なしに使用できた。
Integer の I から、Number の N まで… I J K L M N で始まる名前は整数、それ以外は実数。
変数名は6文字までの長さで、初期値は 0、または 0.0 だった。
何とも運の悪いことに、DO100I は6文字の名前の変数であり、実数を代入できた。
だから、1.10 を入れてもエラーにはならない。
そして、I を使用しても、単に初期値の 0 が使われるだけで、こちらもエラーにならない。
これは、計算機言語の設計の話になると、必ず出てくる例だ。
FORTRAN は、その言語仕様上、文法ミスの検出が難しかった。
もちろん、今の FORTRAN では言語仕様も拡張されていて、このような書き方は推奨されない。
でも、互換性のために今でもこの書き方はできるらしい。
lisp では、t nil で真偽を示す。
lisp にどっぷりはまった lisp プログラマは、日常会話でも YES / NO の意味で t nil を使うという。
そして、lisp プログラマはコーヒーを飲めない、という状態が発生する。
アメリカでは、何か飲み物、と言えば普通はコーヒーなので、飲み物がいるかと尋ねられるときは、「Would you like a coffee?」だ。
ここで「t」と答えると、相手はなんと紅茶を持ってきてくれてしまう。
このネタ、いくらでも続けられそう (^^;
でも、すぐに思い出せたのはこのくらい。
あとで追記するかも。
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今日はジョン・ネイピアの命日(1617)。
生まれは1550年なのだけど、誕生日は不明。
ずっと以前に、歯車のページで「ネイピアの計算棒」として取り上げている道具を作った人です。
該当ページを書いたのは、今からもう17年も前。
当時はこの道具のこともネイピアのことも知らず、科学館でやっていたイベントで見かけて面白かったので記事を書いた、と言う程度でした。
ネイピアは16世紀の数学者…と過去には書いたのですが、当時の学者が皆そうであったように、貴族で領主でもありました。
そして、これも当時の学者としては当たり前なことに、占星術師で天文学者で物理学者でした。
そんなにたくさんの知識を持っていてすごい、と言うのではなく、当時はこれらの学問は切り分けられてなかったのですね。
占星術を行うには毎日の惑星の運行を記録してあることが大切だったので、天文の観察は必須でした。
たくさんの観察記録を元に、天体の動きを数式で解き明かす…やはり数学者で物理学者で占星術師のケプラーによって、天体の動きが解明されたのは1619年。ネイピアの死後のことです。
さらに、ケプラーの友人で、同じように占星術師で錬金術師でもあったアイザック・ニュートンが、天体の動きだけでなく万物に働く力としてまとめ上げ、後にニュートン力学と呼ばれる物理学の基礎を作り上げていきます。
…話が少し横道にそれましたが、当時は占星術や錬金術は重要な学問の一分野だったし、それを研究するのは決しておかしなことではなかったのです。
さて、話をネイピアに戻しましょう。
彼はなかなか良い領主だったようです。
肥料の改良などを研究し、彼の領土に住む農民に対し伝えたりしています。
また、外敵から領土を守るための軍事兵器の研究などもしています。
まぁ、領土を守るのは当然のことですし、税収を上げるためにも農業の改良は必要です。
そう考えると、領民のことを考えていたというよりは、彼の利益になるからそうしただけなのですが、ただ税率をあげて利益を搾り取るよりもずっと良いやり方です。
彼は、物事を単純化し、誰でも扱えるようにし、普遍化することに深い興味があったようです。
農業の改良も、一部の「頭の良い農民」「ベテランの農民」だけが多くの収穫を得られるだけではなく、その技術の普遍化を狙っていたのでしょう。
そして、これは彼の中心的な研究分野であった数学でも発揮されます。
難しい掛け算を、ただの足し算に変えてしまう魔法の道具。それが「ネイピアの計算棒」(ネイピアの骨、とも呼ばれます)でした。
彼の業績はこれにとどまりません。
彼の生きていた時代は、大航海時代でもあります。
そして、彼は占星術師でした。
この二つのことは無縁ではありません。
占星術師は星の観察が仕事ですし、船乗りたちは星を観測して現在位置を知ります。
星の観察で現在位置を求めるには、多くの桁数の数値を扱う必要がありました。
そして、計算を間違うことは遭難、死を意味します。
#当時は小数点の考案前で、精度を上げる=桁数を増やす、と言うことでした。
大きな桁数で計算したのちに、適当な母数で割ることで最終的な値を求めます。
ネイピア自身、天文学者で数学者ですから、大きな数との格闘の苦労は知っていました。
そこで、この大きな数を小さくしてしまう、という方法を考案します。
これが、対数の発見でした。
先に書いたようにまだ小数点は発見されていませんから、対数は整数の比(分数)で表されます。
現在の対数とはずいぶん異なりますが、大きな数を小さくするだけでなく、掛け算を足し算に変えてしまう(計算棒と同じように!)という、魔法のような方法でした。
先に、天文学者のケプラーの話を出しました。
ケプラーの師匠はティコ・ブラーエという人で、彼は膨大な惑星の位置の観察記録を残しています。
ケプラーは、この記録を元に運動法則を解き明かしました。
ネイピアは、対数があれば天体観測が簡単になる、というアイディアを、ティコに対して披露しています。
これが 1594年の話で、その時にはすでに対数のアイディアを持っていたことになります。
しかし、対数を扱いやすくするためには、あらかじめ対数を計算した「対数表」が必要でした。
この表を作るのが難事業で、対数の発表は20年後、1614年となっています。一般には、この年が「対数が発見された年」とされています。
その後、イギリスの数学者、ヘンリー・ブリッグスがネイピアと共に対数の研究を行い、改良がおこなわれます。
ネイピアの対数は独特の式によって分数で計算されたもので、今の対数のような「底」の概念などはありませんでした。
そして、表は分数で表現されていました。
これを、10 を底とした「常用対数」に改めます。10進法を使っている場合、この方が使いやすいためです。
ところが、これでは表を分数で表現しにくくなり、対数表の記述が難しくなります。
そこで…ここで初めて「小数点」と言う概念が考案されます。
先に、当時は小数点の考案前、と書きましたが、小数点はネイピア晩年の考案なのです。
ブリッグスは、老いたネイピアに変わり、常用対数表を完成させます。
しかし、完成はネイピアの死後でした。
ネイピアの計算棒は、掛け算を足し算に変えるものでしたが、足し算の計算は人間が行う必要がありました。
後にシッカルトが、足し算部分を自動化する機械を考案しますが、これは現存していません。
難しい技術を単純化し、普遍化するという意味では、シッカルトはネイピアの意思を継いだのでしょう。
そして、「計算を自動化する機械」は、現在ではコンピューターとして我々の手元にあります。
これもまた、ネイピアがいなくては作り出されなかった機械かもしれません。
対数分野では、常用対数より後に、非常に扱いやすい「自然対数」が考案されます。
自然対数は、常用対数以前にネイピアが考えていたオリジナルの対数の概念をさらに推し進めたものでした。
この自然対数の底 e = 2.71828.... は、現在ではネイピア数と呼ばれています。
計算尺はネイピアが考案したものではありませんが、対数の性質を利用して、掛け算を簡易に行うための道具です。
ネイピアの死の直後、1620年には原型となる「対数尺」が発明され、1632年にその後普及する物と同じ「計算尺」が作られています。
歯車計算機が作られた後も、計算尺には利点も多かったために1970年代まで使い続けられていました。
電子計算機の普及まで、350年も使われ続けた「計算機」だと言っていいでしょう。
そして、分数に変わる「小さな数を表現する方法」として考案された小数点は、現代では我々は何も意識せずに使っています。
10進数の延長上にあるためわかりやすく、小学校入学前の子供でも理解できます。
これもまた、ネイピアの考案によるものなのです。
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ジョン・ネイピア 命日(1617)【日記 15/04/04】
別年同日の日記
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毎年恒例、高校友人との花見に出席。
今年は横浜市児童遊園。昔はここでやっていたが、最近別の場所になっていたので、古巣に戻った感じ。
子供が風邪ひいた、と言う直前キャンセルが2家庭。
結果として、僕と同窓の知人の家族、そして元部活顧問の先生夫妻の、3組だけの出席になった。
少し寂しいが、久しぶりに会ってゆっくり話ができた。
子供たちも楽しかったようだ。
家に帰ってから、長女の質問。
「お花見っていうけど、花は沢山あるのに、なんで桜じゃないといけないの?」
なかなか良い質問だ。
これに答えられる大人はどれほどいるだろうか?
諸説あるし、僕の知っているのも一説に過ぎないが、自分の日記に書いたことは無かったようなので書き留めておこう。
座るときに、「あぐらをかく」ことがある。
馬に乗る場所を「くら」という。
これらの言葉の「くら」とは、座ることを意味する。
また、単に一時的に座るだけでなく、長い時間とどまる意味合いもある。
「くらす」(暮らす)といえば、同じ場所に長期滞在して日々を送ることだ。
ここで、サクラとは花の名前ではなく、木の名前だ。
「さ」という名前の神様が来て、そこに居座る木。
日本の古代信仰では、神様が木に宿ることは多い。
というか、依代(よりしろ)と呼ばれる、一時的に乗り移るものがないと、神様は人前に来ることができない。
神様は見えないが、依代に憑依することで、人前に姿を現すことができるのだ。
正月に飾る門松も、冬でも青々として元気な松を、神様(この場合は年神様)の依代とするものだ。
さて、「さ」の神様は、農業の神だ。
「さ」は古い発音で、現代では「た」、つまり「田」を意味する。
正月に来る年神様と違い、農業の始まるころにやってくる。つまり、春になるまで来ない。
「さ」が「さくら」にやってきたとき、さくらは「さ来」(咲く)。
昔の人は、自然の変化に敏感だった。
さくらが盛大に咲いた年は、稲が豊作になりやすいと経験則で知っていた。
現代の科学でいえば、サクラが咲くのは春先からの積算温度と関係がある。
蕾ができる前年の秋と、春先からの気候が共に穏やかであれば、そのまま穏やかな気候が続くと期待される。つまり、稲の発育にもよく、豊作となる。
「桜が綺麗に咲けば豊作」というのは、科学的にも正しいものとなる。
人々は「さ」の神様にお祈りをすれば、もっと綺麗にさくだろう、と期待した。
そして、桜が咲く季節というのは、寒い冬が終わって、しかしまだ本格的に農業は始まらない、一息つける頃だ。
ここに、神様にお願いをする…とともに、皆が楽しむ「祭り」がおこる。
祭りでは、今年の豊作を祈願して、神様にお酒と肴をふるまう。
ちなみに、酒は古語では「き」と言った。今でも、神様に献上する酒を「お神酒」(おみき)と呼ぶ。
「き」の中でも、「さ」に献上するものは特別に「さき」と呼んだが、後に音が変化して「さけ」(酒)となっている。
そして、「な」はおかずの意味だ。
酒にあわせる「な」を「サカナ」と呼ぶ。
古代の日本では一番重要なおかずは、良質な動物性たんぱくの取れる、魚だった。
だから、「サカナ」には大抵、魚が使われる。今では発音まで同じになっている。
重要なおかず、と言う意味で、昔は魚のことを「マナ」(真ナ)と呼び、これを調理する台を「マナ板」と呼んだ。
また、マナ以外のナ(副菜)には、大抵野草や野菜が使われる。今でも「菜(な)」と言えば、食べられる植物の意味となる。
日本の古い宗教では、お供え物は、供えた人々がお祭り(お祈り)をしている間に神様がいただく。
そして、終わった時にまだ残っていた分に関しては、祭りの参加者が残らず食べることになっている。
神様が残したのは、皆に分け与えるためなので、残すのは神様の好意を無にし、機嫌を損ねる行為となる。
#余談だけど、これ、墓参りなどでもマナーです。お墓にお供え置きっぱなしで帰る人がいるけど、野犬の餌になってしまうので必ず食べるか、持ち帰りましょう。
お供えは「上げる」、つまり目上の方(ここでは神様)に対して献上するものだ。
しかし、神様はそれをあえて残し、皆に分配する。こちらは「下げる」ものだ。
ここで、お供え物を「ササゲル」(捧げる)という言葉が生まれる。「さ」の神様に対し一旦献上して、「さげる」ことが前提となっている。
そして、おさがりを皆でいただくのだが、ここでいう「皆」には、神様も含まれる。
お祈りをしている間は、陳情受付と陳情者、というビジネス関係だ。
でも、ビジネスタイムが終わったら無礼講。
関係者みんなで酒を飲んで仲良くなる、というのは現在でも続く日本人の仕事のやり方だ。
そこで、満開の桜の下で、皆でご馳走を食べながら酒を飲むことになる。
この酒宴は、神様も一緒にいるものなので、神様に満足してもらえれば大成功だ。
余興なども出し合い、笑い合えれば一番良いものとなる。
ちなみに、食べ物は力の源だ。
神様が食べたものを皆で一緒にたべる、ということは、神様の力を皆に授けることでもある。
稲を豊作にする力を持つ神様の力を皆ももらい、これから農業を開始する。
これは、非常に重要な儀式でもあった。
古代の人々にとって、神様は神頼みするような存在でも、天罰を与えるような存在でもなかった。
力を借りることはできるが、その力をちゃんと使えるかどうかは、自分次第。
神様がいても努力は必要。でも努力しても及ばない部分(天候など)だけは、神様に頼むしかない。
天は自ら助くる者を助くのだ。
以上が花見の起源についての一説だ。
さ来(咲く)、さ下げる(捧げる)、さけ(酒)、さかな(魚)…
など、花見に限らず、この神様がいかに信仰の対象だったかよくわかる言葉が残っている。
漢字も違うし、こじつけじゃないかって?
田神(さがみ)信仰は漢字の伝来よりも古いもので、そこで生まれた日本語の古語に、後から中国語の意味に従って漢字をこじつけたのだ。
だから、「こじつけ」ではあるが、その関係は逆となる。
音が近いものが元々近い意味で、漢字が違うのは後からこじつけたからだ。
ちなみに、この行事の後、旧歴5月ごろから農業が本格的に始まる。
この月は「さつき」(「さ」の神様がいる月)と呼ばれる。
「さ」の神様は、桜に来た時には花を咲かせて知らせ、その後は葉を茂らせる。
農業が終わり、冬になるころには帰ってしまうので、葉は全部落ちる。
「さ」の神様は、農業のない時期は山にいる。
人々との仕事が終わり、自分の世界に帰った神様は畏れ多い存在だ。近寄ってはならない。
(冬山は厳しく、遭難することがあるための戒めでもあるだろう)
「さ」の神様の支配する領域を「さかい」(さ界)と呼び、現代では「境」、領域を隔てるラインの意味となる。
間違えて入らないように、物理的に境を区切るものを「さく」(柵)と呼ぶ。
恐らく、日本人はもともと桜が好きだったのだろう。
数ある花の中で、農業と密接に結びつく花はいくつかあるが、特に桜が好まれて神様にされ、神様であるがゆえにますます好きになった。
いつしか信仰は廃れたが、春に花見をする習慣だけは残り、今でも受け継がれている。
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今日はジョン・スカリーの誕生日(1939)
アップル・コンピューターの元社長です。
ジョン・スカリーは、ペプシ・コーラの社長でした。
アイディア豊富な人で、コカ・コーラに対して敵意丸出しの比較 TV-CM を次々と作ります。
コカ・コーラのルートトラック(配送車)を、ペプシのマークの入った大型コンボイが追い抜く、というイメージ CM が有名。
当時大人気だったマイケル・ジャクソンを CM に起用したのもスカリーの時代。
また、「ペプシ・チャレンジ」という、コカ・コーラとペプシをブラインドテストで飲み比べ、おいしいほうを教えてもらう、というテストを街角で行い、その様子をそのまま CM として使用しました。
これは日本でも同じ手法の CM が放映され、話題になりましたね。
これらの CM が話題を呼び、結果的にペプシはコカ・コーラを抜いて、No.1 コーラ企業となります。
全米一の大企業の社長となったスカリーは、そのまま悠々自適の人生を送れる…はずでした。
彼の手腕に期待する企業から、社長をお願いしたい、という依頼が数多く彼の元に寄せられていました。
しかし、彼は全てを断っていました。
そんなある日、スカリーも信頼している超一流のヘッドハンターから、「シリコンバレーにあるコンピューター企業が、最高経営責任者を探している」という情報が寄せられます。
友人でもあり、超一流と認める彼が薦めるのであれば、とスカリーは「ちょっと話をするだけ」の約束で、その企業を訪れます。それがアップル・コンピューターでした。
1度だけの約束が何度か訪問を行い、3日ごとに電話で会談をし、新製品の開発チームの紹介まで受け…
スカリーは、アップルに心惹かれるようになっていました。
しかし、ペプシの社長の座は、捨ててしまうには惜しすぎます。
これを棄てる見返りとして、十分なものがもらえるのであれば…と、彼はほとんど無理難題ともいえる要求を出します。
前渡し契約金100万ドル、年棒に100万ドル、うまくいかなくても退職金100万ドル、アップルのオプションストック(株式)を35万株、それと、アップル本社近く、北カリフォルニアの半島部に、現在住んでいるのと同程度の自宅を用意しろ、と言うものでした。
この条件を全て呑む、と言う返事と共に、ジョブズは挑戦的な言葉を彼につきつけます。
「残りの余生を砂糖水を売って暮らしたいですか? それとも、世界を変えるチャンスに賭けますか?」
そして、スカリーはペプシを辞任し、アップルの社長に就任します。
スカリー以前のアップルは、成長の一途をたどる企業で、非常に自由な社風でした。
しかし、スカリー就任時のアップルは、Apple// の売り上げを IBM-PC に奪われ、続く AppleIII の開発には失敗し、社運をかけた新商品「Lisa」も全然売れない、と言う状況でした。
スカリーは次々と経営陣を解雇し、経営体制を完全に入れ替えます。
さらに、パートタイマーを400人解雇します。
しかし、これは「支出を抑える」ための策です。
どんなに支出を抑えても、収入が上がらなくては仕方がありません。
ちょうど、完成を控えた新商品…これは、スカリーが説得されているときから紹介されていました…がありました。
ジョブズとスカリーは、この新商品に社運をかけることにし、膨大な予算で TV-CM を作成、全米のテレビ番組の中で視聴率が一番高い(そのため CM 放映料も一番高い)スーパーボールの中で放映を行います。
これが有名な「1984年は、"1984年"にはならない」という、Macintosh の発表予告 CM でした。
1回だけ放映した CM のために、160万ドルがつぎ込まれたと言います。
#Mac 発表は 1984年。1948年に書かれた「1984年」というディストピア小説が話題となった年でもありました。
小説の 1984年、当時話題だったから読んだけど、題名で話題になっただけで面白くはないです…
スカリーの社長としての対外的なデビューは、この Mac の発表会。
コンピューターが音声合成で自己紹介を行い、グラフィックを使って操作可能…という、それまでのコンピューターとは全く違う「ユーザーフレンドリー」な演出は非常に注目されます。
アップル・コンピューター社長、ジョン・スカリーの華々しいデビューでした。
しかし Mac は売れませんでした。発表会こそ華々しかったものの、現実に入手し、使ってみようとすると非常に使いにくい…使い物にならないマシンだったのです。
にもかかわらず、ジョブズ率いる Mac 開発チームは社内で偉そうにし、優遇されていました。
「古い製品」をまだ改良し続けている Apple// 開発チームは、いわれもなく「無能のごくつぶし」呼ばわりされていました。
しかしこの当時、現実には Apple の売り上げの7割が Apple// によるものでした。
Apple の創業メンバーであり、Apple// の責任者だったスティーブン・ウォズニアクは、この状況に反発して退社します。
#Apple I と Apple// の設計はウォズによるもの。大失敗だった AppleIII は別人の設計。
Apple//はウォズの退社により、今後の展開は無くなりました。
Mac は、消費者からそっぽを向かれました。
その前に発売していた Lisa は、開発責任者だったジョブズの陰謀で「失敗は無かったことに」されて、いつの間にか生産が停止していました。
…問題を起こしているすべての原因は、ジョブズにありました。
ここでスカリーは、社内の混乱の原因がジョブズにあることを指摘します。
この時点では、ジョブズはスカリーを招いた人間であり、スカリーにも遠慮があったようです。
しかし、ジョブズはこれに反発。自分が招いたスカリーを失脚させようと裏工作を開始します。
…が、発覚。お家騒動ともいえるアップル社内の内紛劇に発展します。
最終的に、スカリーは自分とジョブズ以外の役員に「どちらかを残して、もう片方を追放せよ」と決断を迫ります。
結果、追放されたのはジョブズでした。
ジョブズは、Mac は完全な商品で、変更する必要は一切ない、と言い張っていました。
しかし、スカリーはジョブズ追放の直後に改良を始めます。
まずは、単純にメモリを4倍に増やしました。次に、拡張性をもたせ、最後に CPU をパワーアップします。
これで「使い物にならない」原因が解消され、Mac は人気商品になります。
しかし、この改良は「コンピューターが使えない人へ」と作られた Mac を、ただのコンピューターにしてしまう行為でした。
スカリーには、ジョブズのような強烈なビジョン…コンピューターがどうあるべきか、と言う考えはありませんでした。
しかし、それでは今後ブレなくアップル社を牽引できません。スカリーは「ナレッジナビゲーター」という…夢物語ともいえるコンピューター像を示し、未来社会をイメージする短編映画を作ります。
そして、その頃開発が始まっていた新商品、Newton に「ナレッジナビゲーター」のイメージを重ね合わせます。
まだ新製品で1円ももうけを出していない Newton には、莫大な予算がつぎ込まれました。
その一方で、売れている Mac 開発チームの予算は削減されます。
これに対し、Mac 開発の責任者であった(そして、Newton の開発許可を与えた重役でもあった)ジャン=ルイ・ガセーが反発。
スカリーはガセーを追放し、その後 Mac の開発は混乱をきたすことになります。
…Mac に、Apple//と同じ道を歩ませてしまったのです。
Newton はアイディアは悪くないのですが、発売時点で大きすぎる夢を詰め込んだ機械でした。
現実的には、使い物になりませんでした。
しかし、「デスクトップコンピューターを小型化したもの」ではなく、「持ち歩く情報端末」として、後の多くの機械に指針を与えています。
スカリーはこの後、売れている Mac に注力せず、売れもしない Newton に予算をつぎ込むことで業績を悪化した、という責任を問われ、退任に追い込まれます。
最終的に彼は、Apple// にとどめを刺し、アップルに残っていた創業メンバーを追い出し、Mac を混乱させ、Newton を失敗作とし、「ナレッジナビゲーター」という夢物語で業界をミスリードしただけでした。
しかし、彼がいなければアップルはもっと早く倒産していた、とも思います。
彼の経営手腕があったから、もうほとんど死にかけていた企業を延命させ、低空飛行ながらも生きながらえる会社に出来たのでしょう。
アップルの復活は、この数年後にジョブズが呼び戻されるまで待たねばなりません。
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今日は、オーレ・キアク・クリスチャンセンの誕生日(1891)
LEGO社の創始者ですね。
木工職人で、子供向けおもちゃを作っているうちに「凸凹があって組み合わせられる積み木」というアイディアに至ります。
1949年には、この積み木を元に、プラスチック製の LEGO ブロックを発売。
当時のデンマークの子供のおもちゃは木製が普通であり、自然のぬくもりが発育にも必要だとされていたため、「子供向けにプラスチックを使うなんて」と批判されて全然売れません。
それでも、木製ブロックよりもしっかりと接続して形を作れるブロックは良いものである、と言う信念から、プラスチック製のブロックを作り続けます。
…というと信念の人でカッコイイ感じだけど、木製のブロックも並行して販売しており、そちらの収益で会社を保っていました。
1958年には、現在の LEGO ブロックの形が完成します。
(それ以前のブロックと互換性がありますが、結合力が強くなりました)
オーレ・キアクは 1958年に死去します。
なので、彼の話としてはここまでで終わりになってしまうのですが、もう少し続けましょう。
1960年、倉庫の火災で、木製玩具の在庫を焼失します。
これを機に、LEGO ブロックは完全にプラスチック製一本に絞られます。
さらに、1963年にはプラスチックの材質が現在と同じ ABS 樹脂に切り替わり、1969年にはサイズが2倍(体積比8倍)であるにもかかわらず LEGO ブロックと接続性のある低年齢向けブロック「デュプロ」が発売になります。
1982年、上級者向けに歯車などを組み合わせる「テクニック」シリーズが確立します。(これ以前から複雑なブロックを使う「エキスパートビルダー」はあった)
1983年、デュプロよりさらに低年齢向けに「プリモ」発売。ブロックと言うより積み木に近いのですが、ちゃんとデュプロと接続できますし、つまりは LEGO ブロックと一緒に遊べます。
1986年、テクニックをコンピューターで扱える「テクニック・コンピューター・コントロール」が発売。後に発展して「LEGO LOGO」、さらには「MIND STORM」になっています。
細かな話をするともっとあるだろうけど、ここでの話の流れは、対象年齢層をどのように広げてきたか、です。
LEGO ブロックは、6歳から~12歳くらいのおもちゃ。
でも、デュプロは3歳からだし、プリモは1歳から遊べます。
一方で、テクニックや MIND STORM は、大人でも真剣に遊べるおもちゃです。
LEGO ブロックが大人の使用に耐えうるのは、工学的に美しいため。
LEGO GEOMETRY (レゴ幾何学)と名付けられているようですが、各部位のサイズが、厳密に一致するように作られています。
ブロックの「上側」には凸があり、基本的に空っぽの「下側」に食い込んで、ブロックを保持します。
最初期の LEGO ブロックには、側面の板しかなく、保持力は弱かったようです。
しかし、かなり早い段階で裏側に「パイプ」を用意する構造となり、側面だけでなく、このパイプも凸部の隙間にはまるようになります。
ちょうど、すべての「凸」を、側面とパイプで両側から抱えた状態。
これがLEGOブロックの保持力の高さを作り出していて、かつては特許技術でした。
…過去形なのは、すでに特許は切れているため。
今ではこれを真似して、LEGOの互換品ブロックも作られています。
LEGO 社としては、LEGO の「見た目」を立体商標とすることで類似品を防ごうとしていますが、登録の認可状況はは国ごとに異なり、類似品を防ぎきれない状況。
まぁ、類似品の話は余談。話を続けましょう。
この裏面のパイプ、四角く並んだ4つの凸の中央にはまるように作ってあります。
パイプの外周が、凸の四角に内接する、ということ。
そして、このパイプの「内周」は、凸がちょうど中にハマるサイズになっています。
これにより、通常の接続だけでなく、凸を斜めに半分だけずらした位置でも接続できます。
そして、凸のサイズと、レゴの人形(ミニフィグ)の手のサイズは同じ。
ミニフィグの手は、わざと少し出っ張って作られています。ここにブロックの裏のパイプをはめると、「ブロックを持っている」ように出来るのです。
これ、遊びの幅を広げるうえで重要。
さらに、ミニフィグの手の内径は、レゴブロックの「旗竿」などに使われているパーツがちょうどハマるサイズ。
さっきまでブロックに接続され、地面に挿さっていた「旗」を、人形が手にもって持ち上げる、というような遊び方ができます。
いろいろな個所で、サイズをあわせているからできること。
今は凸を中心に話をしましたが、凸と凸の隙間サイズも、いろいろな部分で使われています。
たとえば、一番「薄い」ブロックの厚みは、この隙間の厚み。
だから、普通に接続するのではなく、隙間に薄いブロックを「立てる」ことができます。
立てると、凸部の方向(上側)を90度違う方向に向けることができます。
そして、隙間も含めて凸1つ分のサイズが、レゴブロックでは「基本サイズ」として扱われます。
標準の、2×4に凸が並んでいるブロックを「2x4 ブロック」と呼んだりするわけです。
ブロックと同じように、レゴ・テクニックで使用される車軸のような特殊部品も、凸何個分、と言う長さで作られていますので、同じように凸何個分かで「長さ4の車軸」なんて呼ばれます。
テクニックでは、この車軸を通すための穴の開いたブロック、と言うものが存在します。
この穴のサイズ、実は凸と同じ大きさ。つまりは、ブロック裏のパイプの穴と同じ大きさです。
テクニックには歯車も出てきますが、この歯車の直径も、凸何個分、と言うサイズに合わせてあります。
だから、ブロック同士を組み合わせた位置で、ちょうど歯車がかみ合うのです。
テクニックシリーズはLEGOブロックよりずっと後に作られたものですが、最初に正確な「基準サイズ」を定めておいたからこそ、テクニックの歯車のような、精巧な組み合わせが可能となっているのです。
先に書きましたが、LEGO ブロックには、低年齢向けのデュプロ、さらに低年齢向けのプリモと言うシリーズもあります。
デュプロはブロックの大きさはかなり違うのですが、正確に「2倍」に作ってあるため、LEGOブロックと組み合わせることが可能です。
さらに、プリモはデュプロの2倍。これもデュプロと組み合わせられます。
(LEGO ブロックとプリモを直接組み合わせることはできません)
ここら辺の、サイズが違っても接続できる仕組みは非常に巧妙で面白いのですが、余りに長くなるので、解説はまた別の機会に。
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今日はジョン・エッカートの誕生日(1919)。
世界最初のコンピューター、ENIACを作った人です。
モークリーのアイディアに対し、回路を設計したのがエッカートでした。
その後、2人はエッカート・モークリー社を作って、2進法コンピューター BINAC を作ります。
でも、商業的には失敗。
技術的には 10進数で計算を行った ENIAC よりも、2進数の BINAC の方が優れています。
しかし、普通の人々は 10進数で計算をしたい、という当たり前のことにこれで気づきます。
商業的な失敗で資金難となったエッカート・モークリー社は、事務機器メーカーに資金援助を頼みます。
最初に頼みに行った IBM には断られ、次に訪問したレミントンランドがこれを快諾。レミントンランドに買収され、コンピューターの開発が続けられます。
ここで作った、二進化十進(BCD:10進数1桁ごとに区切って、2進数で計算する方式)コンピューター、UNIVAC I は 1951年に発売。1号機はアメリカ国勢調査局に納入されました。
翌1952年のアメリカ大統領選挙では、レミントンランドがテレビ番組の CBS NEWS に働きかけ、開票待ち時間の「余興」として、どちらが勝利するかを予想しました。
事前の専門家予想では、勝負は五分五分、どちらの候補が勝ってもおかしくない、というものでした。
UNIVAC I には、あらかじめ過去の大統領選のデータにより傾向を予測し、わずかなデータがあれば最終結果を予想できる、というプログラムが読み込まれていました。
そして、開票1%時点で、その開票結果が入力されます。
すると… UNIVAC I は 531人の投票人の内、438人がアイゼンハワーに投票する、という予測をはじき出します。
これはあまりにも専門家の意見とかけ離れていました。
プログラムの予測式を立てた学者ですら、結果を信じられませんでした。
予測式のミスが疑われ、プログラムが調べなおされます。
その結果、1桁間違った数値データが見つかりました。そのデータを修正した新たなプログラムで新たに予測を行うも…やはり、438人がアイゼンハワーに投票する、と言う同じ結果。
結局、CBS NEWS のキャスターは、「UNIVAC I は8対7でアイゼンハワーの勝利と予測」と伝えます。
その数時間後、すべての開票が終わると、アイゼンハワーの得票は 442票でした。
予測と、たった4票しか違いません。
あまりの衝撃的な結果に、CBS NEWS のキャスターは、当初の予測があまりに衝撃的だったため詳細を隠していた、と言う事実と共に詳細を公表、謝罪します。
これは人々に、どんな宣伝よりも強烈な印象を残しました。
コンピューターを適切に使えば、わずかなデータから、人間の予想よりもはるかに正確な予測を可能とする!
これにより、UNIVAC I の売れ行きに弾みが付きます。
事務機器として普及した最初の機械となり、最終的には、47台が販売されました。
#当時、コンピューターと言うのは「1台限り」で作られるのがほとんどで、大量生産品ではありませんでした。
軍事用だったコンピューターが民生品となり、世の中を変え始める。
…その最初の一歩でした。
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今日はフェルディナント・ブラウンの命日(1918年)。(→誕生日は1850年6月6日)
ブラウン管を発明した人です。
…あ、もしかしてブラウン管をご存じない方もいる?
現在のテレビなどでは主に液晶ディスプレイが使われていますが、こうしたディスプレイの元祖。
ほんの20年前まではディスプレイと言えばブラウン管でした。
パソコンの CRT、って言い方も聞いたことある人いるんじゃないかな。
CRT = cathode ray tube、日本語では「陰極線管」と呼びますが、ブラウン管を原理に従って命名するとこうなります。
日本では発明者の名前を取って「ブラウン管」と呼ぶのが普通でした。
さて、ブラウン管以前から、陰極線管と言うものは存在しました。
陰極とは、電池のマイナス極のこと。マイナス極から出ている、光線のようなものが「陰極線」です。
今では、正体が電子だとわかったために「電子線」とも呼ばれます。
陰極線管としては、クルックス管が有名です。
1875年ごろに、クルックスによって発明されたものです。クルックスはこの管を使って実験を行い、陰極線が磁場によって曲げられることを発見しました。
これを改良し、蛍光物質を塗って陰極線の到達点をわかりやすいようにして、電磁石によって磁場を変化させられるようにしたのが、ブラウン管です。
回路中にオシロスコープを接続すると、見えない電気の変化が磁場の変化となり、それが陰極線を曲げることで、目で見えるようになります。
これが、世界最初のオシロスコープです。1897年の発明でした。
後に、アナログコンピューター(回路と電流により、物理現象をシミュレートする)が作られた際には、動作を確認するためにオシロスコープが接続される場合が多くありました。
アナログコンピューターの多くは弾道を計算する…つまりは「放物線を描く」ものでしたが、これを応用して世界最初のテレビゲーム(ミサイルでターゲットを狙うゲームやTennis for Two)が作られています。
世界初のデジタルコンピューターと呼ばれる ENIAC は、アナログコンピューターと原理が違うため、オシロスコープは接続されませんでした。
その後、2進法を採用した EDSAC では、動作状態の確認のために3本のオシロスコープが接続されます。
このうち1本はメモリ内容を表示していたため、これを使って図形を描く遊びや、マルバツゲームなどが作られています。
さらに Whirlwind I では、最初から「高速に図形を描画する」ことを目的としてオシロスコープが接続されます。
図形描画が目的だったので、図形描画用の命令もあります。命令と言っても、座標を決めて点を打つだけですけど。
(後に専用の命令ではなく一般的な I/O の一部とされ、線を描く、文字を描くなどの方法も用意されました)
オシロスコープはいわゆる「ベクタースキャン」でしたが、NLS ではオシロスコープ出力をビデオカメラで撮影することで、普通のテレビのような「ラスタースキャン」に変換する方法を取ります。
多数の端末で画面を共有する前提であれば、普通に市販されているテレビの方が安価なためです。
これ以降、ラスタースキャンのディスプレイが増えます。
現在あなたが使用しているコンピューターも、おそらくブラウン管から液晶や有機ELに変わってはいるでしょうが、ラスタースキャンで画面を描画しています。
さて、話を少し巻き戻します。
ブラウン管を表示機器だけでなく、メモリに利用しようとした時代もありました。
それがウィリアムス管メモリ。
ブラウン管に図形が描画されているのは、蛍光物質に電子が当たるからです。
これを言い換えれば、蛍光物質が、静電気を「帯電している」ことになります。
この静電気を検出できれば、メモリとして使用できます。
検出は簡単で、同じ個所にもう一度、少しだけ電子を当てるだけ。
以前に帯電していなければ、その個所は新たに帯電するだけで何も起きません。
すでに帯電していると、容量を超えた電子が外に追い出されるため、外側に用意した電極に電流が流れます。
真空管で記憶装置を作ると、1ビットの記憶に大きな回路が必要でした。
(1ビット覚えるのに、真空管が最低2本は必要です。実際は技術的な都合でもっと増えます)
しかし、ウィリアムス管では、1つの装置でで何ビットも記憶できます。
画面上の「1ドット」が、1ビットに相当しますからね。
この方法の問題点は静電気がやがて自然放電してしまうことでした。
そのため、放電する前に読み取り、再度書き込む(リフレッシュする)必要があります。
このために CPU のパワーを浪費するのは無駄ですし、「放電する前に」と言う制限があるため、リフレッシュ速度の問題であまり容量を上げられません。
CPU パワーの浪費問題は専用の回路を作ることで解消できましたが、そうすると今度は「専用回路が動いていない時しか CPU がアクセスできない」ために、動作速度が落ちました。
そんなわけで、実用化される前にコアメモリが登場し、ウィリアムス管は実験段階で消えて行ってしまったのです。
さて、ブラウンには、ブラウン管以外にも非常に大きな功績があります。
まず、ブラウン管以前の発明。「半導体」は、彼の発見により電気回路に利用されることになりました。
電気を流すものを導体、流さないものを不導体と言います。
「半導体」は、定義的にはこの中間のもの。…なのですが、わざわざ「半導体」と言うときにはもっと有用な、特別な性質を持ったものを言います。
彼の発見した、世界で最初の半導体は、鉱石によるダイオード。電気のプラスとマイナスの向きによって、電流を通したり通さなかったりする、不思議な性質を持っていました。
この発見が 1874年のこと。
これを利用して、無線電信を検波(チューニング)する方法発明するのが 1898年。ブラウン管の翌年です。
後にこの検波器を利用して、マルコーニが無線通信を発展させます。
#わかる人のために書いておけば、いわゆる鉱石ラジオなどに使われる、鉱石検波器ですね。
ブラウンは、無線電信の開発に寄与した功績を認められ、1909年にマルコーニと共にノーベル物理学賞を受賞しています。
今でもラジオやテレビの受信機、WiFi や携帯電波に至るまで、基本的に同じ仕組みの回路が使用されています。
彼の死後ですが、このダイオードに追加の針を立てると、電流で電流を制御できることが発見されます。
(1947年、トランジスタの発明)
電流で電流を制御できれば、論理回路が作れます。
発見前は物理的な動作の伴うリレー回路か、サイズも消費電力も大きな真空管が使われていましたが、トランジスタはサイズも電力も小さく、完全に電気的に動くものでした。
この発見により、コンピューターの小型化が始まります。
今でも、半導体回路で作られるコンピューターの基本構造は変わっていません。
半導体とブラウン管、そして無線通信。
コンピューターの発展は彼の死後の話ですが、いずれも現代のコンピューターにとって非常に重要な技術でした。
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昨日から、我が家では誕生日ウィーク。
次女の誕生日が来週の月曜日(5歳)。
というわけで、昨日は誕生日プレゼントを買いにおもちゃ屋さんへ。
…行く前からわかっていたことなのだけど、欲しいと希望のおもちゃ、現在大人気でどこにも売っていない。
売ってそうな店を数か所回ったけど見当たらない。
でも、途中で入ったマクドナルドでアイカツのおもちゃを貰って、大喜び。
結局、誕生日プレゼントは後日に必ず買う、と言う約束で、昨日は安いおもちゃ(200円の「花のぬいぐるみ」)を購入。
今日は、誕生日ケーキを予約してあるので、夕方に受け取りに行く予定。
先日予約の際には、名前をひらがなで、フルネームで書いて、とお店の人に自分で訴えていた。
(お店の人に「ちゃん」は付ける? と聞かれて「つけて!」とも。最近ひらがなが読めるようになり、名前が書いてあることがうれしい)
で、誕生日当日の明日は、リクエストに従ってご馳走を作る予定。
パスタサラダと、フライドポテトと、ポテトサラダ。
…付け添えばっかでメインディッシュがないんだけど?
ケーキとご馳走を別の日にしているのは、ご馳走だしたら腹いっぱい食べて、ケーキ入らないから。
で、次の金曜日は長女の誕生日(7歳)。
やはり金曜日にご馳走を作り、土曜日にケーキの予定。
#ケーキは買いに行かないといけないので休みの日に。
誕生日プレゼントは昨日探したが…というか、実は見つからなかったのは長女の欲しがっているもので、次女は「同じものがいい」と言うリクエスト。
ネットの調査で、どうやらメーカーの予想以上の大人気で、在庫があっという間に尽き、再生産スケジュールを慌ててくんだが6月まで出荷できないらしいとわかっている。
次女が200円のおもちゃを買ったので、長女もなんか欲しいというのだが、欲しいレベルのものは、それがお誕生日プレゼントになってしまうような高いもの。
結局迷って、昨年の誕生日プレゼントだった「アクアビーズアート」の補充ビーズを購入。
これだって200円よりはずっと高いのだが、次女と一緒に使う約束で許可。
次女は4月から小学校に上がり、早く帰ってきて「遊ぶ人がいない」とつまらなそう。
2年前の CATV 再放送を DVD-R に焼いてあった「カードキャプターさくら」を見始め、第二次ブーム中。
当面のプレゼントとして、週末の誕生日までに劇場版 DVD でも買うか。
(プレゼントは 3000円以内、と決めているのだが、DVD ならみんなで楽しめる…というか、僕も見たいのでプレゼントの金額に算入しない)
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今日はゲームボーイの発売日(1989)。
ちょうど25周年です。
今でこそ携帯ゲーム機は普通のものですが、当初は「なにも家の外でテレビゲームしなくてもいいじゃん」的な雰囲気がありました。
当時僕はボーイスカウトやっていましたが、キャンプに持ってきた後輩がいて、一人で黙々と遊んでるんですね。
せっかく大勢いるのだから、多人数で遊べることやればいいのに。
当初は家庭用ゲーム機に発売しているタイトルの類似が多かった、というのも、「わざわざ外でやらないでも」という雰囲気を出していた理由に思います。
キラータイトルだったテトリスだって、当初は「パズルゲーム」で、じっくり遊ぶゲームでした。
(大ブームを起こしたセガの業務用のテトリスは、これを「アクションゲーム」に大胆に作り変えていたのがすごかったのですが、PC/ファミコン/ゲームボーイとも、パズルゲームでした)
電車移動中にわずかな時間で遊べるゲーム…倉庫番とか、ひらめけば3分でクリアできるタイプのゲームが増えたのは、ずっと後の話。
それだって、まだ「わざわざ外で遊ばないでも」と言う雰囲気で、本当にゲームボーイが真価を発揮したのは、ポケモン以降のように思います。
僕自身は、テレビ業界に就職していた兄から古いものを貰って、「家で」遊んでいました。
テレビ業界は1~2時間の待ち時間が多く、そのくらいまとまった時間があるとちょうどよい暇つぶしになる、というので業界で流行ったのだとか。
兄も周囲が買ったので買ったようなのですが、待ち時間が暇なのは出演者側の話。
演出側の兄は忙しくて遊ぶ暇もなく、僕が貰い受けたのです。
でも…やっぱ、あまり遊んだ覚えないのですね。
ゲーム屋でも、売れなかったソフトが投げ売りになっていることがあり、そうしたものを数本買いましたが。
ポケモンに関しては、当時僕自身がゲーム業界に就職しており、仲の良かった同僚から「変なゲームがあって面白そうなのだが、一人で遊んでも面白くないらしいから」と勧められて遊び始めました。
ポケモンは発売後たいしてうれず、ブームになるのは半年くらいたってから。
でも、この半年くらい、10位には入らないけど20位以内にはいる、というような売れ方を続けていたのですね。「変なゲーム」と評していたのは、この売れ方のことでした。
そんなわけで、ポケモンをブーム前に目を付けて遊んでいた、と言うのは自慢の一つですが、僕に進めた友達が「飽きた」といってすぐ投げ出したため、交換などの面白さをちゃんと楽しめないまま途中で投げ出しました。
#関係ないけど、原案者の田尻さんには仕事の関係で1度だけお会いしたことがある。わずか数分話をしただけだけど。
大学時代にバイトしていた会社でゲームボーイのソフト制作にちょっとだけ関係しました。
もっとも、ゲーム作成の周辺ツールを作成しただけ。プログラムはやっていません。
…だから、発売されたそのゲームに僕の名前が出ていても、あのバグだらけのプログラムは僕のせいじゃありません。
だいたい、スタッフロールに名前が入っていたのだって、発売して(バグだらけだから)値崩れして、投げ売りになっているゲームを買ってから知ったのだから。
で、そのころの記憶を元に過去に書いた日記、いまだに人気があるのでリンクしときます。
あと、ゲームボーイの生みの親の話。
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次女、長女の誕生日を相次いで迎え、春で暖かくなったことに加え、G.W.の人混みを避けて早めにどこかに遊びに行きたい…
で、表題の通り、さがみ湖リゾート プレジャーフォレスト、という遊園地に行ってきました。
神奈川ローカルな遊園地ですね。
関東近郊ならまだしも、他の地域の方は全く知らなさそう。
僕の子供の頃は相模湖ピクニックランド、と言う名称でしたが、2008年にそれまでの運営会社から富士急グループに売却されれ、名称変更になっています。
とても楽しい遊園地でした。
ただ、遊園地としては…悪く言えば古臭い、昔ながらの遊園地です。
しかも、敷地も狭い上に、ほとんどが山の斜面です。
なぜこんなに悪い条件なのに楽しめるのか?
楽しんでいる最中から疑問に思い始め、帰り道で妻と話をしているうちに、一定の答えにたどり着きました。
まず、前提条件として、30年前の遊園地は今とはかなり違うものでした。
観覧車やカルーセル(メリーゴーランド)が目を引く派手な遊具。それも、今ほど大きくないのが普通です。
メリーゴーランドの延長として、アームにつけられた座席が上下しながら回ったり、上から長い鎖でつながれたブランコが回ったりするものもあります。
それでも、基本的にクルクル回るものが中心。
疾走感を楽しむものとしてジェットコースターがありましたが、これも今よりずっとおとなしいし、ちいさなもの。
…と、つい「大型の乗り物」を先に紹介してしまうのが、すでに現代風の遊園地の影響。
こうしたものは、昔の遊園地ではやはり花形ではあったけど、それほど多くはありません。
それよりも、巨大迷路とか、お化け屋敷とか、ビックリハウス(部屋に入って椅子に座ると、この椅子が縦にクルクル回る…ような錯覚を起こす)とか、変わり自転車とか、決して大規模ではないけれど楽しい、見世物小屋的なものが沢山ありました。
プレジャーフォレストは、こうした30年前の遊園地の雰囲気をそのまま残していました。
ジェットコースターなんてありませんし、最大の乗り物は山の頂上に建てられた観覧車。
鏡の迷路や、木造5階建て(!)の迷路などもあります。
地面にタイルで描かれた迷路模様も含め、迷路は力を入れているみたい。
園内最大のアトラクションは、一風変わったアスレチックの「ピカソのたまご」。
アスレチックなので危険を伴う、と、最初は説明を受けないと入れない決まりです。
でも、コースは少しづつ分割され、園内にちりばめられている状態。
途中で抜けて別の遊びを始めてもいいし、また途中から入ってもいい。
非常にゆるい感じで、これがアトラクションなのかどうかもわからないくらい。
事実、園内に入った人はこれを無料で楽しめます。
普通の遊園地はアトラクションは別料金なのに。
「ピカソのたまご」は過去にぐりんぱでも遊んでいるのですが、あちらはお金を取られました。
お金を取られるので、途中から入られないように、全体を柵で囲っています。
そして、以前書いたのですが、現在拡張されてコースが長くなっています。
これが…疲れたからちょっと休憩しておやつ食べにいこう、とかやりにくいために、やっていて途中から飽きはじめます。いわゆる「中だるみ」がある状態。
最初からユルイ感じに構成され、好きなように途中で抜け、途中から入れるプレジャーフォレストの方が楽しめます。
もう一つ、プレジャーフォレストでは、スタンプラリーが豊富なようです。
子供向けの簡単なものも、大人向けの難易度の高いものもあります。遊びに行ったら、是非ひとつチャレンジしてみるといいでしょう。
最初に「敷地も狭いし」と書きましたが、それは遊園地としての話。
プレジャーフォレストは、キャンプ場やバーベキュー場、屋外ステージやドッグランなどもある複合施設で、スタンプラリーの際にはそれらの敷地にスタンプが隠されることもあるようです。
広大な敷地に隠されたスタンプを探す、というのは、隠し場所がわかっていても楽しめますし、隠し場所が暗号などで隠されている場合、予想した場所に見事にあった場合など、嬉しいものです。
迷路、アスレチック、スタンプラリー…
プレジャーフォレストが力を入れているアトラクションを並べてみると、最近の遊園地との違いが見えてきます。
ジェットコースターやバイキングなど、いわゆる絶叫マシンは、「めまい」を楽しむものです。
めまいは、遊びの4分類の一つとされるもの。
これに対し、プレジャーフォレストは「競争」を目指した遊園地です。
競争もまた、遊びの4分類の一つ。
ここでの「競争」は、他の参加者相手の物ではありません。
参加者間の競争となると、身体能力の優れるものや頭の良いものが勝ってしまうだけで、誰もが楽しめるものではない。
迷路も、アスレチックも、スタンプラリーも、最初の競争相手は「設置者」です。
アスレチックを見事クリアした、迷路を抜けた、スタンプを見つけ出したなどは、設置者の挑戦に打ち勝った、ということ。これは競争です。
でも、競争はそれで終わりではありません。
たとえば木造5階建て迷路である「からくり砦」。
ぐりんぱの「ココドコ」の原型となった迷路なのですが、名前の通り、壁に見えるところがドアだったり、ドアに見えるけど壁だったりと、ただの迷路ではありません。
#問題点として、混んでいると他の参加者が見つけた仕掛けが見えてしまうと思います。
僕が行ったときはそれほど混んでいなかったために楽しめました。
ココドコにはからくりがなく、全体がアスレチックのような造りになっていますが、たぶんこの点を改良したもの。
さて、こうしたからくりは、「壁か通路か」試行錯誤で確かめるのが楽しい一方、理解してしまうと楽しみが減ってしまいます。
じゃぁ、からくり砦は一度しか楽しめないのか? といえば、そんなことはありません。
ココドコと同じように、同じ迷路の中に2つのコース(押すべきスタンプ)が用意され、2回は入るように促されています。
ここで「競争」を活かした仕掛けがあります。
1度目は、試行錯誤を含むので非常に時間がかかりますが、2度目はまっすぐゴールへ向かうことができます。
そして、「1度目の自分の速度を超えた」ことに満足できるのです。
1回目は設置者との競争、2回目は1回目の自分との競争です。
もちろん、友達と来ていれば、友人との競争も発生するでしょうし、楽しみ方は人次第。
…楽しみ方を強制されない、と言うのは非常に高度な遊びです。
参加者が、それぞれのルールで自由に楽しんでいいのです。
ここら辺が、ジェットコースターなどの「めまい」を楽しむ遊具との違い。
スタンプラリーもまた、同じような構成がみられます。
複数のスタンプラリーがあり、園内にヒントやターゲットがちりばめられています。
しかし、複数に同時に参加する人は、おそらくいないでしょう。
一つのラリーが終わって、もし別の物に参加したとして…もう一度、広い園内を走り回らないといけない。
からくり砦が2回違う楽しみ方ができたように、スタンプラリーも参加する種類によって、同じ園内をまわるだけなのに新鮮に楽しめるのです。
巨大な遊具を購入する予算がなくても、スタンプが10種類くらいあればよいだけ。非常に低予算なのに、参加者は十分楽しめます。
ただし、問題作成やコース設定にはノウハウが必要なはず。誰でも真似できる、と言うものでは無さそうです。
最初に30年前の遊園地は今とは違った…と書きだしましたが、たぶんこの流れを作り出したのは横浜ドリームランド。
開園時に世界一の観覧車を作り、しかもこの観覧車はゴンドラが固定されておらず、回転に伴ってレールを滑り落ちることがある、という「絶叫マシン」でした、
その後も、日本初の宙返りコースターや、日本初のバイキングを導入します。
大型機器を投入することで集客する、という方式を最初に出した遊園地だと思いますが、思ったように集客できず経営が悪化。後に閉園となります。
(経営悪化の根本原因は他にあるのですが、そこは割愛)
今では大型遊具が遊園地の顔となっていますが、プレジャーフォレストはそうした競争に乗らずに生き残ってきた、稀有な存在のようです。
もっとも、競争に乗らなかったというより、資金や斜面だらけと言う立地の問題で大型遊具を導入できなかっただけのようでもあります。
最初に書いたように、富士急グループに売却されたのは経営悪化していたため。
しかし、富士急ハイランドを持つ同グループの元、遊園地経営のノウハウが投入され、今のような楽しい場所になったようです。
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