今日は任天堂の設立日。
といっても、会社としての任天堂が登録された日、と言ったほうがよいでしょうか。
1947年の今日、任天堂の前身となる「株式会社丸福」が登記されています。
先日亡くなった山内溥氏は、任天堂の3代目社長。創業者の山内房治郎は、溥氏の曽祖父にあたります。
山内房治郎商店の創業は 1889年。
「テレビゲームの会社」だと思っているアメリカ人なんかは、この創業年をみるとかなり驚くようです。
(まだ白人とインディアンが戦っていた頃ですよ。)
トランプが日本に渡来したのは、16世紀、安土桃山時代とされています。
現在のトランプとは違い、4種類のマークそれぞれが、12枚でした。
トランプは英語で「カード」ですが、ポルトガル語では「カルタ」。
この「かるた」は地方にも広まり、いろいろな亜種が作られました。
だんだん賭博にも使われるようになり、18世紀末(江戸時代)の寛政の改革で売買が禁止されています。
ここで、亜種も多いかるたを明示するために「4種程度の図柄と12枚程度の連続数字」をもつ札を禁止したようです。
そこで、数字をなくして「図柄のみ」にした花札が誕生します。
数字を無くしたとはいっても図柄は季節感を取り入れ、12か月を意味します。
また、同じ季節には4種類の札があり、「動物がいる」「短冊がある」などの共通性をもたせ、区別できるようにしていました。
…つまり、花札は禁令を逃れながらも、今までのかるたと同じように遊べます。
もちろん、これもすぐに取り締まりの対象となり、19世紀初頭の1816年には禁止令が出されているようです。
その後も幾たびか禁止令がだされ、現在残っている最後の禁止令は 1831年だそうです。
つまり、何度禁止してもなくならないくらい普及していた、ということですね。
明治維新がおこり、江戸時代の制度が見直される中で、花札に対する禁令は 1886年に解除されます。
そして、先に書いたように山内房治郎氏は 1889年に山内房治郎商店を創業。
元々山内房治郎氏は木版工芸家でした。
まだ浮世絵も重要な娯楽として残っている時代ですし、木版工芸家はそれほど珍しくない職業です。
おそらくは、禁令があった時代にも花札を作っていて、作成ノウハウがあったのではないでしょうか。
禁令が解かれたので堂々と売るために商店を創業した、と言うことだと思います。
禁令があったころ、花札を売る店には天狗の面が飾られていたそうです。
これは花札の「花」と天狗の「鼻」をかけた符丁。現存する一番古い花札メーカー「大石天狗堂」は天狗のマークを使用しています。
そして、任天堂は「大統領印」を掲げます。
…多分、アメリカ人は鼻がでかい、ということで天狗と同じ意味ですよね。
ただ、単にアメリカ人なのではなく「大統領」としたのは、花札業界で一番になってやる、という気概だったのではないかと思います。
#大石天狗堂も、商品の一つとして「リンカーン」という花札を作っています。大統領とリンカーンのどちらが先に発売されたかは不明。
また、任天堂も「丸福天狗」という花札を作っています。
そして、事実任天堂の大統領印花札は大阪近辺の賭場で圧倒的な支持を得ます。
今のアメリカのカジノでもそうですが、金がかかった真剣勝負では、一度プレイヤーが触った札は破棄しなくてはなりません。
イカサマのために、なにか細工をされる可能性があるためです。
賭場で支持を得た、ということは、安定して売れ続けるルートを開拓したということになります。
これで任天堂は安定した経営基盤を手に入れます。
1907年には国内では製造されてなかったトランプ製造を始め、多くの花札屋が地域展開しかしていなかったのに、全国販売を開始します。
山内房治郎氏には男の子がおらず、婿養子を迎えました。
金田積良…婿養子となって山内積良が2代目の社長となります。
1929年に、山内房治郎商店を会社化し、合名会社山内任天堂とします。合名会社っていうのは、結局個人商店と変わらない会社形態。
1947年には山内任天堂が製造した花札を販売する会社「株式会社丸福」を創立します。
ちなみに、丸福は山内家の屋号(個人で商売を行う際の会社名のようなもの)。
創立は9月23日だったのですが、会社登記は今日、11月20日。
これが後の「任天堂株式会社」となるため、任天堂の設立日は今日、と言うことになっています。
山内積良氏は、山内房治郎氏の興した任天堂の商売基盤を固め、全国規模の安定した会社にしました。
山内積良氏もまた、男の子がいませんでした。先代と同じように婿養子を迎えます。
稲葉鹿之丞…婿養子となって山内鹿之丞と長女の間に、1927年に男の子が生まれました。任天堂創業以来初めての男の子です。
山内積良氏は、3代目を山内鹿之丞氏に譲るつもりでした。しかし、鹿之丞氏、近所の女性と駆け落ちして、いなくなってしまいます。
山内積良氏は、孫となる男の子を引き取り、育てます。いなくなった鹿之丞氏はともかく、長女からも引き離したのはなにか事情がありそうにも思えますが、家庭の事情は詮索しないでおきます (^^;
この男の子が山内博、後の3代目社長です。
お金持ちの家でおじいちゃんに甘やかされ、大切に育てられています。
でも、「花札屋のボン」と言われるのは大嫌いだったそうです。
1949年、山内積良氏が急逝。病床で後継者を遺言しようとするのを制止し、山内博氏は「任天堂で働く山内家の者は自分以外に必要ない」と提案します。
山内積良氏はこれを承諾。遺言により、任天堂から親族を排除し、山内博氏が3代目社長となります。
#親族を追い出すなんて非情…というような意見もあるのですが、それは的外れなように思います。
まだ家長制度の概念が残るこの時代、一族の長は「親族が困ったらいつでも金を貸せるように」しておくことが何よりも重要です。
戦後すぐの激動の時代、親族に囲まれるしがらみの中で判断が鈍れば、会社はすぐ倒産するでしょう。
それよりは、思う存分経営に腕を振るえる環境を整備し、親族にいつ頼られても大丈夫なように会社を維持する、と言う判断があったからこそ、山内積良氏もこれを承諾したのだと思います。
1951年には丸福と山内任天堂を合併させ、株式会社山内とします。これにより2つに分かれていた山内家の家業は1つにまとまります。
さらにこの後、会社名は「株式会社丸福かるた販売」「任天堂かるた株式会社」「任天堂骨牌株式会社」とコロコロ変わり、1962年に株式上場、1963年に会社名を「任天堂株式会社」となります。
ここにやっと、現在皆が知っている「任天堂」が出来上がるわけです。
もっとも、会社の名前が今と同じになっただけで、テレビゲーム会社になるまでにはまだ時間がかかります。
この後のことは、山内溥氏が亡くなった時の追悼記事に書いた通りです。
#博が溥になるのは50歳の時。
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