2013年08月18日の日記です


終戦と父の命日と  2013-08-18 12:24:52  その他

ツイッターで、仲良くしていただいている方が、お爺様が広島原爆で遺体回収をしたときの話をしていました。


それに触発されて、自分も亡き父の話を思い出し、ツイッターでつぶやきました。

以下、つぶやいたことをまとめておきます。


なお、後で気づいた誤字などは修正しています(笑)



終戦の日は過ぎたけど、今は亡き、戦争に行った父が語った話でも、とつとつと呟いてみようか。

伝聞なので間違いもあるかもしれない。特に、当時の軍組織など、僕が詳しくないので間違えている可能性大。


最初に書いておきますが、父は二度とあのような戦争を起こしてはならない、と言っていました。

戦争は父の青春時代に重なるので、楽しかった思い出はあるけど、それが戦争の美化になってはならない。


父は、戦争が暗黒の時代だったように語られることを嫌っていました。

美化してはならないが、暗黒にしてもいけない。どちらも事実を捻じ曲げているから。

戦時下でも人は結婚もすれば子供も生まれる。当たり前の話だけど、悲しみばかりでなく喜びもちゃんとあった。


父は兵器学校に通っており、卒業後志願して戦場へ行った。祖母(父の母)には猛反対されたそうだ。

長男なので戦って家族を守るのだ、という使命感も強かったようだ。

兵器技術を学んでいるので、20歳未満だったが士官で、兵器管理・整備の後方支援部隊に配属されたそうだ。


部下よりも年少であるので反発を持たれやすかったが、士官なのでタバコが支給される。

未成年でタバコを吸う習慣をがなく、反発する部下にタバコを分け与えた。

また、部下と言えども年長者を殴るのは「怖かった」ので、暴力も振るわなかったそうだ。

これで部下に慕われるようになる。


そのうち、単に分けるだけでなく一緒に吸いながら話をして打ち解けるようになり、タバコを覚えたとのこと。

当時は男としてタバコを吸えなくては馬鹿にされたから、とのこと。父はヘビースモーカーでした。

数年前に鬼籍に入りましたが、死因は食道がん。


整備されていない双眼鏡をのぞいていると、光軸があっていないために頭が痛くなる。

父は双眼鏡整備が得意で、悩みを持つ上官を見つけると、すぐに整備したそうだ。これで、上官のウケもよかったらしい。

父は光学製品もすきで、カメラや双眼鏡を大事にしていました。


日本軍は当時の国際法で禁じられていた毒ガス(マスタードガス)を使用していた。

戦争にもルールがあるが、戦時下ではそのルールを破る判断もあり得る、と父は言っていた。

敵の侵攻ルートを察知すると、自軍を避難させ、そこに毒ガスをまく。朝まくと昼頃に揮発して効果を発揮したらしい。


毒ガスも兵器なので、兵器管理部隊の管理物だった。

話は前後するが、国際法違反なので終戦直後に夜中に運び出して海洋投棄したらしい。

この仕事自体秘密なので、夜中に急に起こされて手伝ったと言っていた。

(水で分解される毒なので心配ないらしい)


部下に慕われ、上官にもウケが良く、後方支援部隊なので命の危険もない。

これで、父の軍隊生活はずいぶんと楽しかった模様。

もちろん娯楽など少ないが、毎日就寝前のわずかな自由時間に、仲間と話をするのが楽しみだったそうだ。


ある日、仲間と家族の話をしていて、その場の全員が長男だということがわかった。

当時は6人くらいの兄弟は普通で、長男ばかりが集まるなんて偶然はあり得ない。

兵器管理は後方支援部隊。前線にはいかないので、長男ばかりがあつめられたらしい。


当時は長男が家督を継ぐ。家督を継ぐというのは、資産だけでなく、家族を世話をする責任も継ぐことになる。

長男が死んだら、家族が路頭に迷う。だから、長男は前線には送られなかったようだ。

(ただし、父は戦争初期に志願している。末期はこんな余裕はなかったかも)


逆に、玉砕覚悟で戦わねばならない前線には、五男や六男が送られていたようだ。

戦争が終わった後、厳しい状況で家族が食っていくには、人が多すぎない方が良い。

誰かが死ななくてはいけない戦いなら、その死が残される人間を助けることになるように、という判断が働いているようだ。


人を死地に送る判断に「やさしさ」など存在しない。

それでも、無作為に若者を死地に向かわせていたわけではない。

誰かが命を捨てなくてはならない時、遺された者の生活を担保しようという意思は、少なからず存在していたのだろう。


最後の方の話、死んでいった人間に申し訳ないので、戦後も絶対に口外しなかった、と父は言っていた。

聞いたのは戦後50年を過ぎてからだし、家族でなかったら話さなかっただろう。

しかし、戦争の悲惨さを伝えるためには、こういうことも記憶にとどめないといけないと思う。


以下、数時間後に追記


政治的要素も入るコムヅカシイ話で、ツイッターなどでなく日記で書こうかな、と思ったけど、ツイッターにしました。理由は2つ。


1つ目は、ツイッターでの会話に感化されて思い出した話だから。これは最初に書いたね。


もう1つは、語り始めると本当に深くなり、同時に政治的にきな臭くなる話だから。

最初に書いた通り、もう70年も前の戦争は、美化されたり暗くされたりしがちで、正しく伝えることは難しい。

ましてや、僕は伝聞で書いているだけだ。僕自身が戦争を知らないのに、偉そうなことを言うつもりはない。


それなら、140文字の制約のせいにして、細かな部分を切り捨てたほうが書きやすい。

そう、ツイッターは「制約する道具」として使わせてもらったが、最初から日記にまとめるつもりだった。


(実は、最後のツイートの後に「この内容を日記にまとめて置きます」ツイートをしている

 最後の書き込みの1分後に、日記にまとめて公開したのだ)


父が生きていたら、この話を口外するなと言い続けていると思う。

戦死者遺族にとっては、長男なら(つまりは生まれによって)安全が保障されたとか、神経が逆撫でされる話だと思う。


この話を世に出したことについて、気分を害した方がいたら僕が叱責を受けます。

でも、直接戦争に行った世代の話と言うのは、できうる限り残しておかないといけないと思うのです。



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