目次
01日 ページ4つ
04日 「迷路のねずみ」動画公開
06日 新記事投入と、「ニコ動」話のつづき
09日 家族旅行に行ってきました。
14日 田谷の洞窟
15日 長男誕生日
17日 追悼・富田倫生
18日 終戦と父の命日と
22日 国立科学博物館
23日 チューリングのチェスプログラム
26日 田谷の洞窟再訪
28日 IBM407
29日 次女発熱
TX-0 の「迷路のネズミ」の遊び方を書いた。
テレビゲームの歴史に興味がある人には、ぜひ遊んでほしいゲームだった。
でも、遊び方が結構複雑で、何が面白いのか気づくまでに時間がかかる。
遊び方ページでは、遊びのポイントと、複雑な TX-0 の操作方法の両方をまとめた。
…なにぶん、プログラマーがプログラマーのために作ったゲームなので、コンピューターの知識がないと操作するのも難しいかもしれない。
日記の方にすっかり書きそびれていたが、少し前に「80年代の画面表示技術」を書いた。
こちらは、実はずっと以前から書きたかったもの。
一応、今年の正月に書きたいという意思表明をしているので、新年の抱負を夏にやっと果たしたことになる…のかな (^^;
こちらは、実は3本だて。
先にリンクしたのが、基礎技術編。
実は、7月15日がファミコン・SG-1000 の30周年だった、と聞いて一気に書いたもの。
書きたいと思っていても、そういうきっかけがないとなかなか書くことができない。
これも、実は3回くらい、書いては全部消して、を繰り返していたのだけどね。
その繰り返しで「入り込んだらややこしくなる脇道」が理解できて来たから、一気に書き上げられただけで。
それでも、書き進めるうちにずいぶんややこしくなったのでした。
最初は画面技術をざっくり書くだけのつもりだったのに、一部のゲームが使った技法とかにも踏み込んじゃったから。
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別年同日の日記
16年 Microsoft Office 発売日 (1989)
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相変わらず TX-0 の話です。すみません。
「迷路のねずみ」の説明がややこしいので、これは動画でも作らんと仕方ないな、と思って作ってみた。
そして、YouTube のものを、「迷路のねずみ」説明ページに埋め込んだ。
文字だけで説明するよりも、ずっとわかりやすくなったと思う。
ところで、YouTube もニコニコもそれほど見ない。
だからシステムがよくわかっていない。
わかっていないなりに、一応勉強してからアップロードした。
郷に入れば郷に従え、だから、礼儀作法は守らないと。
(勉強不足で守れていない、という批判があれば教えてください。修正できるならいたします。)
ニコニコは時々見て、質問などがあれば返信すること、と書かれているページがあったので、翌日見に行ってみる。
コメントは残念ながら「おお」という一つしかなかったが、思ったより多くの人に見られていた。
夕方上げて、翌朝…公開から12時間で300人くらいだったかな。
誰かがタグをつけてくれていた。
タグに関しては、一応調べて付けたのだが、不慣れでよくわからなかった。適切なタグを付けてくれる人がいるならばありがたい。
しかし「世界の新着動画完走組」ってどういう意味だろう。
…調べてみたら、ニコニコ生放送に「世界の新着動画」というのがあるらしい。
生放送自体一切見たことないのだが、投稿された動画をみんなに見てもらい、生放送なので途中途中で「続きを見るか」とアンケートをとるらしい。
で、半数以上が「見たい」と答えなければ、そこで打ち切り。
このシステムで最後まで視聴されたものが「完走組」のタグをもらえるのだとか。
このタグがついた動画は、あるていど品質が保証されていることになる。
…はじめて作った動画だが、なんか名誉なことらしい。ありがたい限り。
夜になり追記
ニコニコのシステムがわかっていないなりにいじっていたら、「世界の新着動画」の録画を見ることができた。
その場で流れたコメントは、アップした動画には反映されないようだ。でも、反応が見られてよかった。
で、日曜(つまり今日)の夜(5時~7時)に、1週間分の「完走組」をまとめて再放映するのを知った。
この時も、ふたたび審査がある。最後まで見られなかったからと言って名誉剥奪、ということはないが、やっぱ見てほしい。
僕もリアルタイムに見たかったが、子供たちの夜ご飯の時間に2時間も時間をとるわけにいかない。
後で確認したら、最初の「世界の新着動画」の録画は見られなくなっており、かわりに「完走組」まとめ放送が見られるようになっていた。
もう自分が関われない状況で、最後まで見てもらえるのかドキドキしながら録画を見る。
…無事最後まで見てもらえたようだ。ほっとした。
いろいろ調べていて知ったが、そもそも「世界の新着動画」は、その日の新着投稿から「ランダムに」選んで審査する仕組みらしい。
なので、取り上げられた時点で運が良かったことになる。
気に入ってくれた人もすでに数人いるようだし、何かまた動画を作るのも面白いかな、とは思う。
でも、今はネタがないなぁ。
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別年同日の日記
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50年代の画面表示技術を公開しました。
名前の通り、先日公開した80年代の画面表示技術と対になっています。
80年代がラスタースキャン技術の話で、50年代がベクタースキャン技術の話。
もっとも、50年代と言いながら60年代も含まれるし、80年代 ATARI ゲームの話まで入っています。
いつか画面表示技術の話をまとめたい、と思っていたのですが、これでやっと形にできました。
ついでに、2日前に書いた話の続き。
ニコニコ動画をたいして使ったこともないのに、せっかく動画作ったのでアップしてみたら、「世界の新着動画完走組」というタグがついてびっくり…と言う話でした。
「名誉なことらしい」とはわかったのだけど、知れば知るほど…初心者がこんなもの貰っていいの?
世界の新着動画、と言う生放送は、毎日7時間半やっているらしい。
30分か1時間刻みで、ジャンルごとにその日の投稿動画をランダムに放送する。
で、1分ごとにアンケートを集計して、結果が悪いと打ち切られる。
生放送だけど録画を後で見られるようになっていたのでみたら、それはもう、ばっさばっさと打ち切られる。
大抵は最初の1分目で打ち切り。良くても2分。
3分行ったら、かなり興味を持たれているということだと思う。こうなると最後まで行けるのかもしれない?
(全部見たわけではないのでよくわからないけど)
平均1分半とすれば、7時間半で 300 本の動画を流すことができる。
これに対し、最後まで「完走」できるのは、多い日で4本、0本の日もある。
平均2本とすれば、完走は 150本に1本の栄誉と言うことになる。
でも、これは「ランダムに選ばれて」放送されるのだ。
実際には、選ばれもしなかった動画がもっとたくさんある。
現在の総動画数が、9602956 本だそうだ。
「世界の新着動画完走組」と言うタグ(自動で付けられるし、ユーザーはつけられない)が付いた動画は、7134 件あった。
1346本に1本しか選ばれない、と言うことになる。
まぁ、この制度が始まる前の投稿など、選ばれようのない動画も含んだ数字だけど、貴重な栄誉だということはよくわかった。
翌日追記
「週間世界の完走動画」というのもある。
週に一度、完走組だけを集め、その中からランダムに放映するものだそうだ。
…?
1週間分でも、「ランダム」を入れないといけないほど多い?
先日分は、37本放映されたようだ。
一週間に、これ以上は「完走」していることになるので、一日5本以上は完走が存在することになる。
どうも、「完走」タグは、すでにタグが上限いっぱいだったりするとつかないようで、タグで検索した僕の調査方法が間違えていることになる。
僕の動画、運よく「週刊」でも紹介され、完走した。
完走は37本中18本あったらしい。
そして、完走するとつく、という「完走動画完走」タグはついていなかった。
調べても、同じときに放映された動画で、このタグが付いているものはなかった。
どうもよくわからん。システムがバグ含みなのかな?
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別年同日の日記
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8日、9日で家族旅行に行ってきました。
えーと、詳細は今年は旅行ページに近日中に書こうと思います。
いままで家族旅行は日記扱いだったけど、最近 WEB サイト復活プロジェクト推進中(?)なので。
それはさておき、今回旅行中に初めて「ツイート」ってもんをしてみました。
ツイッターはじめて2か月程度なのですが、いろんなしがらみで、外出中にツイートしたことは一度もなかったのです。
…朝子供が起きる前とか、そういう時には可能。
でも、子供の面倒見ながらツイッターとかできない、とよくわかりました。
でも、昼ご飯前に軽食を食べに入った店で、「これは面白い」と思った写真を1件送りました。
その後は忙しくて、帰宅まで一切ツイッターにアクセスせず。
先ほど帰宅してみてみたら…RPG なら、混乱して数ターン動けない状態。
すげーせつない ウルトラマンのテーマパークにて pic.twitter.com/RbVCPuEdaI
— wizforest (@wizforest) August 9, 2013
えーと、リツイート数が千超えてる。
非公式RTもかなりの数に上るようだ。
「ジャミラ」って言葉検索しみてたら、リツイートやメンションでなく、いろいろ話題にされている。
すでに自分の手を離れているものなので、何を言っても仕方がない話なのだけど…
・怪獣の絵がシュールだ、と言うネタではないです。
・ジャミラが懐かしい。よく服被って遊んだ、と言うネタでもないです。
・水が弱点のジャミラだから、水は控えてね、というネタでもないです。
・ジャミラは可愛そうな怪獣(理由は後で)なのに、こんなところでネタにするのは不謹慎、という意図でもないです。
本来ジャミラは人間で、宇宙開発の犠牲となり、水がない星に不時着します。
そして、水なしで何とか生き延びようとした結果、怪獣になります。
彼は(いろいろあって)地球で暴れ、退治されます。
でも、彼だってなりたくて怪獣になったわけではないのです。水さえあれば…
その、水のない苦しみを知っている彼が「節水」を訴えかけているのが せつない という話です。
「節水」の2文字だけで涙が出てきます。絶対守らねば、と思います。
節水を呼びかけるのに、これほど適役の人選を僕は他に知りません。
でも、この節水ステッカーを貼ってあった遊園地では「本日は非常に熱いので、熱中症に気を付けてください」と繰り返し放送していたよ。
こまめに水分をとること。それは、無駄な水ではないから、そこで「節水」は持ち出さない。
命を守るために使う水は、ジャミラも喜んでくれると思うよ。
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別年同日の日記
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大船からバスでないと行けないようなところ、横浜市側の田谷に、仏教洞窟がある。
修行僧が掘り進めて作られた洞窟で、全長 1km ほどあるそうだ。
(崩れたりしては入れない部分も多く、人が入れる部分は500mほど)
子供のころは、自転車で行けるほど近所に住んでいたため、夏の暑い日などに友人と遊びに行った。
中は「地底」なので、温度が通年 16度ほど。井戸の中に入るようなものなので、湧き水も多い。
(最下層には溜まって川になっている)
今年の夏の頭は非常に気温が高かった。
その際に子供に洞窟の話をして、行ってみたら面白いかもね、などと言っていた。
ただ、自分の記憶では、内部は暗くて結構怖い。次女などは怖くて嫌がるかもな、と思っていた。
昨日家族で買い物に行き、いつもと違うコースを使ったため、たまたま近くを通った。
急に「そういえば、田谷の洞窟行ってみよう」と思いだし、入る。
僕は30年ぶりくらい。家族はもちろん始めて。
怖かったら抱っこしてあげるよ…と次女に言っていたのだが、30年前と違って蛍光灯で照らされていた。
昔はすべて蝋燭の明かりだったから、影が揺らめいて怖かったのにな。
仏教の洞窟だということもあり、壁面には仏像や羅漢などが彫られている。
蝋燭明りでこれらを見ると、子供心に結構怖かったのだ。
仏教的な壁画など、子供には意味が分からないだろうが、ひとつづつ解説しながら進む。
もっとも、子供は暗い洞窟を探検するのが面白いようで、あまり聞いていない。それもまたよし。
鼓をもった天女が天井に彫られていた。羽が生えているため、最初は鶴かと思ったが、鼓に気づいたら天女と判った。
(洞内写真撮影禁止だったので、見たい人は自分で行ってください)
天女は、西洋のエンジェル・キューピッドが伝わったものだ。西洋ではトランペットを持つが、東洋では横笛などを持つ。西洋では羽で飛ぶが、東洋では霊力で飛ぶ。
今調べたところ、日本でも羽をもつ天女の絵はいたるところで見かけるようだ。ここにあるのもそうしたものの一つなのだろう。
土産として、30年前の自分が欲しかった「般若絵心経扇子」がまだ売っていた。
般若心経を、字を読めない人向けにすべて絵で描いたもの。
…といっても、絵を見て読めるかと言うと、そんなことはない。
般若心境を知らないと読めないし、知っていても横のフリガナを読まないとわからないかも。
まぁ、堅苦しいお経をふざけた絵に置き換えて、笑って楽しむためのものだ。
江戸庶民の「粋」。
30年前は、欲しいけど買ってどうするのか、と自問して買わなかった。
そして、やはり今回も買わなかった。
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別年同日の日記
15年 Windows10 へのアップグレードで POPfile が動かなくなったら
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8月15日は長男の9歳の誕生日なので、昨日のうちにバーベキューをやった。
えーと、まず長女次女の通う保育園の夏休みの話からしよう。
13日から15日までの休みに入り、13日の朝には「どこか連れて行け」とねだられる。
ここで妻と相談。
先日家族旅行に行き、夕食にバーベキューを食べた。子供たちは「また家でやりたい」と言っている。
これを長男の誕生日祝いでやろうと思うが、そうすると多分寝るのが遅くなるし、ケーキも食べられない。
…というわけで、スケジュールを以下のように組む。
・13日にバーベキューのための買い出し、兼セブンイレブンのポケモンスタンプラリー。
・14日にバーベキューと花火。
・15日は後片付けと軽い誕生日祝い。そしてケーキを食べる
ポケモンスタンプラリーは毎年行っていたが、今年はまだだったので。
昨日は昼から庭でバーベキュー。
普段は駐車スペースの後ろに自転車を停めているが、自転車を庭のあちこちに分散して場所を開け、車も少し前に出すと十分バーベキューの出来るスペースが確保できる。
これで、車の後部ドアを開け、後部座席をたたむと調理台も確保できる。
カーオーディオで子供向けの曲などをかけ、楽しみながら食事。
食べ終わってか小学校のプールに行き、夜はまたバーベキュー。
肉好きの長男は喜んでいたし、長女もモリモリ食べた。次女は途中で飽きたらしい。
夜は花火。1セット一気に使い切る。
去年まで次女が怖がったりして大騒ぎだったのが、今年は平和に遊べた。
今朝になり、みんな起きるなり「お腹空いた―」。
次女など、お腹空いてお腹痛い、と泣き出すほど。
肉は消化が良いので、たらふく食べても翌朝には空腹らしい。
今日は後ほどケーキを買いに行く予定。
サーティーワンのアイスケーキを食べたい、との要望。
先日、僕の誕生日で普通のケーキ食べたばかりだからね。
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別年同日の日記
15年 Windows10 へのアップグレードで Chrome が動かなくなったが
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16日、富田倫生氏が亡くなったらしい。
えーと、最初にはっきり言っておこう。僕は彼がどんな人か、何も知らない。
にもかかわらず訃報に反応し、日記に記すには訳がある。
富田氏は、「パソコン創世記」と言う本を書いている。
本と言って良いのかな。僕は「電子書籍版」を購入した。当時まだ「電子書籍」なんて言葉を知っている人も少なく、PDF も今ほど普及していなかった。
パソコン創世記は、もともとは書籍だったそうだ。彼がライターとして独立して最初に書いた書籍。
しかし、言っては悪いが、それほどたいした内容ではない。
でも、最初の仕事って本人には思入れがあるものだ。
彼は、書籍のパソコン創世記を「第1部」として、新たな取材によって書き上げた内容を「第2部」として、新たな「パソコン創世記」を Mac 用の CD-ROMで出版する。
この第2部が秀逸。
NEC がどうやって「国民機」を作り上げていったのか、綿密な取材によって、テクニカルな面でも、人間ドラマとしても読んでいて楽しい内容になっている。
僕はこの、最初の電子書籍版(エキスパンドブック版)パソコン創世記を買った。
その後しばらくたってから WEB ページの作成を始めたのだが、「古いパソコンの歴史」を中心に据えたページ作りに、少なからず影響を与えている。
僕のページには、NEC のコンピューターの話はほとんど出てこない。
これには2つの理由があり、1つは僕が天邪鬼で、メジャーすぎた NEC のマシンを避けてパソコンを使ってきたため。
語ろうにも、よく知らないから語れないのだ。
もう一つは、NEC のマシンの歴史をまとめるのであれば「パソコン創世記」にかなうわけがないからだ。
今となっては、違うまとめかたもできるかもしれない。
でも、少なくとも WEB ページ作成初期は、かなわないから避けようと思っていた。
この電子書籍を作るツール、「エキスパンドブック」と言ったが、当時としては非常に安かった。
当時、このようなソフト(オーサリングソフトと呼ばれた)は10万円を超えるのが普通だった。
エキスパンドブックは、3万6千円だった。
あまりに安かったので、自分も購入して何冊か本を作ってみた。
主に友人と行った旅行の記録などで、友人に配布して喜んでもらったりした。
後に WEB が普及すると、わざわざこんな専用ツールがなくても、電子化した文章を多くの人に読んでもらえるようになった。
富田氏も、この頃に青空文庫を立ち上げている。
実は、青空文庫以前にも「著作権の切れた文章を電子化する」プロジェクトは存在している。
X68000 のディスクマガジン、電脳倶楽部上では著作権の存在しない文書を「パブリックドメインドキュメント」、略して PDD と呼び、読者に電子化を広く呼び掛けていた。
PDD は、ディスクマガジンが発表の場だったため、「いつでも手に入る」ものではなかった。
将来的にはデータベース化して、だれでも気軽に入手できるようにしたい、という構想はあったが、青空文庫が先に実現したことになる。
もっとも、PDD は初期の青空文庫でも活用されている。
電脳倶楽部の活動は、ちゃんと青空文庫に引き継がれているのだ。
いい機会なので昔話。もう、余り追悼文ではない。
当サイト立ち上げ時(1996年)に、影響を与えているものが4つある。
1つは上に書いた通り「パソコン創世記」。国内のパソコンの歴史がよくまとめられている。
1つは「ハッカーズ」。アメリカのホビーコンピューティングの歴史がよくまとめられている。
1つは「林檎百科」。Apple と GUI を使用したパソコンの歴史(NeXT 登場あたりまで)がよくまとめられている。
以上の3つの書籍は、Old Good COMPUTER! の強い方向付けになるとともに、これらの書籍にかなうわけがないから、書く内容を「斜に構える」ように導いている。
もう一つは、すでに消滅した WEB サイトの「ナミ通」。
1995年ごろ、僕はインターネットに接続できる環境にはいなかった。というか、パソコンマニアでもそちらの方が普通だった。
当時は大企業に勤めていたが、企業内 LAN はあった。そして、別の部署の、見ず知らずの人が「週間ナミ通」というページを勝手に社内で(自分のMacで)公開していて、それを楽しみに見ていた。
他にも同様のことをしている人が数人いたが、自分のプロフィールなどを書いているだけで、面白くもなんともなかった。
これは、後で「ネットのページは(当時)ほとんどそういうものだった」と知る。
しかし、ナミ通は面白かった。筆者の「好きなこと」を4つのカテゴリに分け、毎週短い記事で趣味の話を書いていた。
プロフィールに「好きなこと」を単語で並べられても面白くないが、趣味丸出しで語り出せば面白いのだ、とこの時知った。
その後、ナミ通の作者さんは会社を辞め、ネット上に公開の場をうつした。
僕もネットを始めようと思っていたころなので、これをきっかけにネットを始めた。
そして、真似して「4つのカテゴリで好きなことを書く」ページを立ち上げた。
それが「魔法使いの森」で、Old Good COMPUTER!、社会の歯車、森の生活、男の料理の4コーナーで作っていた。
この4コーナーは、実は意図して「微妙に話題がかぶる」ようにしてある。
バベジの話題は、OldGood と歯車の両方で取り上げた。
キャンプ道具の使い方などは、歯車と森の生活の両方で取り上げた。
キャンプ料理なども書いて、森の生活と男の料理の両方で、と言う考えもあったが、これは結局やっていない。
つまるところ、興味が4つに分かれているように見せて、実は全部つながっている、という演出をしたかったのだ。
ちなみに、ナミ通には「足元を見る!」と言うコーナーがあった。
ドキリとさせられるタイトルだが、作者さんがスニーカー好きで、街でいいスニーカーをはいている人を見つけたら、取材させてもらって写真を掲載するコーナーだった。
「社会の歯車」というコーナータイトルは、この影響を受けて付けたものだ。
ちなみに、ナミ通の作者さんは、真鍋 奈見江さんと言います。
ポストペットのキャラクターデザインした人ね。
会社を辞めたのも、ポストペットを作成する会社に移るためだったのでした。
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別年同日の日記
申し訳ありませんが、現在意見投稿をできない状態にしています。 |
ツイッターで、仲良くしていただいている方が、お爺様が広島原爆で遺体回収をしたときの話をしていました。
それに触発されて、自分も亡き父の話を思い出し、ツイッターでつぶやきました。
以下、つぶやいたことをまとめておきます。
なお、後で気づいた誤字などは修正しています(笑)
◆終戦の日は過ぎたけど、今は亡き、戦争に行った父が語った話でも、とつとつと呟いてみようか。
伝聞なので間違いもあるかもしれない。特に、当時の軍組織など、僕が詳しくないので間違えている可能性大。
◆最初に書いておきますが、父は二度とあのような戦争を起こしてはならない、と言っていました。
戦争は父の青春時代に重なるので、楽しかった思い出はあるけど、それが戦争の美化になってはならない。
◆父は、戦争が暗黒の時代だったように語られることを嫌っていました。
美化してはならないが、暗黒にしてもいけない。どちらも事実を捻じ曲げているから。
戦時下でも人は結婚もすれば子供も生まれる。当たり前の話だけど、悲しみばかりでなく喜びもちゃんとあった。
◆父は兵器学校に通っており、卒業後志願して戦場へ行った。祖母(父の母)には猛反対されたそうだ。
長男なので戦って家族を守るのだ、という使命感も強かったようだ。
兵器技術を学んでいるので、20歳未満だったが士官で、兵器管理・整備の後方支援部隊に配属されたそうだ。
◆部下よりも年少であるので反発を持たれやすかったが、士官なのでタバコが支給される。
未成年でタバコを吸う習慣をがなく、反発する部下にタバコを分け与えた。
また、部下と言えども年長者を殴るのは「怖かった」ので、暴力も振るわなかったそうだ。
これで部下に慕われるようになる。
◆そのうち、単に分けるだけでなく一緒に吸いながら話をして打ち解けるようになり、タバコを覚えたとのこと。
当時は男としてタバコを吸えなくては馬鹿にされたから、とのこと。父はヘビースモーカーでした。
数年前に鬼籍に入りましたが、死因は食道がん。
◆整備されていない双眼鏡をのぞいていると、光軸があっていないために頭が痛くなる。
父は双眼鏡整備が得意で、悩みを持つ上官を見つけると、すぐに整備したそうだ。これで、上官のウケもよかったらしい。
父は光学製品もすきで、カメラや双眼鏡を大事にしていました。
◆日本軍は当時の国際法で禁じられていた毒ガス(マスタードガス)を使用していた。
戦争にもルールがあるが、戦時下ではそのルールを破る判断もあり得る、と父は言っていた。
敵の侵攻ルートを察知すると、自軍を避難させ、そこに毒ガスをまく。朝まくと昼頃に揮発して効果を発揮したらしい。
◆毒ガスも兵器なので、兵器管理部隊の管理物だった。
話は前後するが、国際法違反なので終戦直後に夜中に運び出して海洋投棄したらしい。
この仕事自体秘密なので、夜中に急に起こされて手伝ったと言っていた。
(水で分解される毒なので心配ないらしい)
◆部下に慕われ、上官にもウケが良く、後方支援部隊なので命の危険もない。
これで、父の軍隊生活はずいぶんと楽しかった模様。
もちろん娯楽など少ないが、毎日就寝前のわずかな自由時間に、仲間と話をするのが楽しみだったそうだ。
◆ある日、仲間と家族の話をしていて、その場の全員が長男だということがわかった。
当時は6人くらいの兄弟は普通で、長男ばかりが集まるなんて偶然はあり得ない。
兵器管理は後方支援部隊。前線にはいかないので、長男ばかりがあつめられたらしい。
◆当時は長男が家督を継ぐ。家督を継ぐというのは、資産だけでなく、家族を世話をする責任も継ぐことになる。
長男が死んだら、家族が路頭に迷う。だから、長男は前線には送られなかったようだ。
(ただし、父は戦争初期に志願している。末期はこんな余裕はなかったかも)
◆逆に、玉砕覚悟で戦わねばならない前線には、五男や六男が送られていたようだ。
戦争が終わった後、厳しい状況で家族が食っていくには、人が多すぎない方が良い。
誰かが死ななくてはいけない戦いなら、その死が残される人間を助けることになるように、という判断が働いているようだ。
◆人を死地に送る判断に「やさしさ」など存在しない。
それでも、無作為に若者を死地に向かわせていたわけではない。
誰かが命を捨てなくてはならない時、遺された者の生活を担保しようという意思は、少なからず存在していたのだろう。
◆最後の方の話、死んでいった人間に申し訳ないので、戦後も絶対に口外しなかった、と父は言っていた。
聞いたのは戦後50年を過ぎてからだし、家族でなかったら話さなかっただろう。
しかし、戦争の悲惨さを伝えるためには、こういうことも記憶にとどめないといけないと思う。
以下、数時間後に追記
政治的要素も入るコムヅカシイ話で、ツイッターなどでなく日記で書こうかな、と思ったけど、ツイッターにしました。理由は2つ。
1つ目は、ツイッターでの会話に感化されて思い出した話だから。これは最初に書いたね。
もう1つは、語り始めると本当に深くなり、同時に政治的にきな臭くなる話だから。
最初に書いた通り、もう70年も前の戦争は、美化されたり暗くされたりしがちで、正しく伝えることは難しい。
ましてや、僕は伝聞で書いているだけだ。僕自身が戦争を知らないのに、偉そうなことを言うつもりはない。
それなら、140文字の制約のせいにして、細かな部分を切り捨てたほうが書きやすい。
そう、ツイッターは「制約する道具」として使わせてもらったが、最初から日記にまとめるつもりだった。
(実は、最後のツイートの後に「この内容を日記にまとめて置きます」ツイートをしている。
最後の書き込みの1分後に、日記にまとめて公開したのだ)
父が生きていたら、この話を口外するなと言い続けていると思う。
戦死者遺族にとっては、長男なら(つまりは生まれによって)安全が保障されたとか、神経が逆撫でされる話だと思う。
この話を世に出したことについて、気分を害した方がいたら僕が叱責を受けます。
でも、直接戦争に行った世代の話と言うのは、できうる限り残しておかないといけないと思うのです。
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時々日記に登場する、JAMSTEC に努める妻の知人から、上野にある国立科学発物館で開催中の「深海」展のチケットをいただいた。
開催前にいただいていたが、昨日やっと家族で見に行く。
平日だというのにすごい混雑。
保育園の子2人はあまりの人込みで、途中から「つまらない。早く出たい。」と言い出す。
小学生の長男はそれなりに興味深く見ているが、混雑で思うように見られないのは多少面倒なようだ。
つまらないと言うには多少訳があり、展示の内容の多くが見たことのあるものだから。
協力しているのは JAMSTEC と新江ノ島水族館、それにすみだ水族館のようだ。
元々 JAMSTEC の本拠地と江の水は立地が近いせいもあり、仲が良い。江の水にも深海コーナーとかがあったりする。
そして、家からは上野に行くよりも、JAMSTEC や江の水に行く方が近い。
結果として、展示内容の多くはすでに見たことのあるものだった。
僕は過去に数回科博に言っているが、どういうわけか「コンピューターの歴史」コーナーを見られていなかった。
このサイトのページ構成を見てもらってもわかるように、一番の興味分野にもかかわらず、なぜか行くたびに展示入れ替え中だったり、企画展の都合で閉鎖中だったり、見られなかったのだ。
今回初めて見ることができた。
実は、深海展よりも僕にとってはこちらがメイン。
科学技術の発展コーナー。
コンピューターだけでなく、伊能忠敬の使った道具や、和式時計、からくり人形もある。
子供たちにこれが何であるか解説。
学芸員ではないが、近くにいた親子もなんとなく解説をきいている。
お父さん、こういうの語り始めると熱いよ~(笑)
しばらく前にスプライン曲線の歴史について書いたのだが、技術の発展コーナーの片隅に、なんの説明もないまま、製図用具(スプラインと呼ばれる道具)が展示されていた。
…といっても、製図用具そのものではなく、展示用にアクリル板で作られた「イメージ」だけどね。
これでも十分。あとで記事に写真追加しておこう。
高柳博士が最初にテレビの実験を行った機械の復元も置いてあり、数時間ごとにデモを行っていた。
これも写真を撮ってきたので、あとで「80年代の画面技術」の走査線の話のところに追加しよう。
しかし、この実験装置、存在は知っていたけど「ビデオみたいに決められた表示を出すだけ」だと思っていた。
撮影側もちゃんと再現してあって、手などを出せばちゃんと動画として写る。素晴らしい。
タイガー計算機や計算尺については、僕が子供に熱く語っているのでボランティアの人が寄ってきた。
触ってもよいタイガー計算機や計算尺もあり、日によっては出せるのだけど、今日は都合が悪くて出せない、と謝られた。
それはちょっと残念だけど、いろいろ突っ込んだ質問をしてみた。
…ボランティアなので、突っ込んだことになるとわからないとのことだった (^^;;
リレー計算機や真空管計算機については、もう言わずもがな。
と言っても、実際ここらへんになるといじったことがあるわけでもなく、それほど語れない。
ただ原理を教えられるのみ。
というわけで、楽しい科博見学でした…が、特別展と常設展示見て1日じゃ足りないね。
科博はちょっとしたテーマパークなので、1日じゃ回りきれない。また行きたいところ。
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いささか旧聞に属することだが、昨年は「アラン・チューリング生誕100年」のお祭りだったらしい。
僕のページ、古いコンピューターとか扱っているし、チューリングももちろん重要人物なのだけど、昨年までは「死に体」だったので、こういう細かな話題を追いかけていなかった。
今年の春になり、次女が無事保育園の「3歳児クラス」になり、手がかからなくなったから WEB 更新を復活した、と言う感じなので…
先日までに書いている「迷路のねずみ」からの流れで、古いテレビゲームの歴史を洗い出してみよう、と思った。
テレビゲームではないが、最初はバベジだ。「機械が人間の相手をしてゲームができる」なんて考え始めたのは彼だから。
もっとも、彼もケンペレンのチェス人形を見て、「これはインチキだけど、本当に作れるのでは?」と思ったのだけど。
#人間の遊び相手になる機械、というテーマは非常に古く遡れる。
極論すれば、原人の子供が遊んだらしい木製の人形が遺跡から発掘されている。
多分、その人形を相手に「ごっこ遊び」でもしたのだろう。
人間の遊びの相手をできる機械、の始祖である。
チューリングもチェスの研究をしている。
で、調べたら先に書いた「生誕100年」の話に突き当たった。
チェスは研究だけだと思ったら、コンピューターのプログラムまで作っていたそうだ。
ただ、当時のコンピューターでは容量も足りず、実際には動かせなかった。
しかし、生誕100年記念で、実際にプログラムされたそうだ。
そして、カスパロフ(世界初の、「コンピューターに負けたチェスチャンピオン」ですよ!)と対戦して、チューリングのプログラムはたった16手で敗れ去った。
カスパロフは、非常に弱いプログラムを称賛したそうだ。
「なんでも最初の一歩は大変なのだ」と。
…さすがチャンピオン。非常に紳士な態度だ。
僕も、8行ほど上で「コンピューターに負けたチャンピオン」と書いて笑いを取ろうとしたのを改めよう。
彼の名誉のために言っておけば、彼はコンピューターが「試合(6回勝負)の最初から最後まで、同じアルゴリズム」だと信じていた。
しかし、プログラマー側は、1試合ごとにアルゴリズム変更をしていた。
彼はコンピューターが次々と予想もしない手を繰り出してくるのに戸惑い、最後は「バグのせいで」とんでもない変則的な手を打ったことで混乱する。
コンピューターは何か、自分でも気づかないようなすごいものを見通しているのではなかろうか?
この不安で彼の思考は無茶苦茶になり、冷静なら勝てる試合を「投了」してしまった。
つまり、彼はコンピューターに負けたのではない。プログラマーとの心理戦と、ちょっとしたトラブルに負けたのだ。
それはさておき、いろいろとチューリングのチェス研究を調べたのだが、最終的にテレビゲームの歴史では使わないことにしました。
でも、せっかく調べたので書いておきます。
彼が作ったプログラムについて。
チューリングは、マンチェスター markI のプログラムを実際作成しています。
なので、それ用の記法とかつかっているのかな…? とおもったら、そんなことはありませんでした。
いろいろなところで「プログラム」と言われているのだけど、アルゴリズムを書いただけ。
しかも、前提として「コンピューターはコマの動かし方はわかっている」「ルールも熟知しており、違反はしない」などの条件の下で「どのコマを、どのように動かすべきか」を決定するものです。
えーと、実際にチェスができるプログラムが作られたのは 1965年ごろですが、最初のころは「ルールを教える」だけで苦労した模様。
そして、肝心のアルゴリズムがこちらで公開されていました。
10ページありますが、解説なども含むので実際のアルゴリズム部分はわずか。
詳細に読み込んでいませんが、「取れる」コマを点数化し、自分の手番だけでなく相手の動きも読み、自分の点数と相手の点数の差が一番大きいものを採用する…
と、今でも使われる「min-max法」に相当することを言っているようです。α-β狩りは無しのブルートフォースアタック。(まぁ、相手の手番までしか読まないのでそれほど量は多くないですが)
完全なプログラムの形式で示されているのであれば作ってみようかとも思ったのですが、「基本のチェスプログラム」をほとんど作らなくてはならないようなので、ちょっとパス。
興味がある人は、パラメーターなどをチューリングの定めたものに合わせて作ってみてください。
ゲームの歴史で調べたのは、バベジの夢をチューリングが引き継いだ形になっているから。
でも、チューリングの研究は、ここで行き止まり。
バベジは、チェスは難しすぎると気づき、マルバツに研究対象を変えている。
テレビゲームの初期には、マルバツが2つも作られている。
だから、テレビゲームはバベジの影響を受けてはいるけど、チューリングの影響はない、ということになる。
実際には一連の流れで、マルバツがまともに動き始めたらすぐチェスの研究が始まっている。
この際には、チューリングの研究も多分参照されていると思う。
でも、チェス研究はテレビゲームの最初期から見ると「ずいぶんと後」(1965年に、やっと満足のいくプログラムが完成している)だし、話がややこしくなるから思い切って割愛。
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別年同日の日記
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長男は今年から夏休みの課題に「自由研究」が入った。
…でた、自由研究。何をやってもよい、というあいまい過ぎるテーマが故に、何をやってよいのかわからない。
僕自身子供のころにずいぶん困った覚えもあるし、長男は今年が初めてなので、夏休みの最初から少しヒントを与えて置いた。
…自由に遊んでいてもいいから、「楽しかった、面白そう」と思うことだけは覚えておきなさい。
そして、8月に入ったころに、もう一段階ヒントを出す。
…「楽しかった、面白そう」と思うことで、もっとやってみたいことをやってみなさい。
これで、いくつか「やってみたいテーマ」を決めて予備実験をしたりしていた。
でも、子供は実験の難しさを知らないから「やったらできるのだろう」と思っているが、そんなに簡単ではない。
いくつか決めてみたテーマは、やってみたらうまくいかなかったり、難しすぎて手におえなかったり。
先日見た科学博物館も気になったようだが、難しすぎてなにを研究してよいかわからない、と言う。
それで、最後に長男が選んだテーマが、「田谷の洞窟」だった。
というわけで、先日行った田谷の洞窟を再訪。
あらかじめ住職さんに電話で面会予約を入れてある。
「お客さん来るかもしれないから」ということで、受付でそのままお話を聞かしてもらった。
長男は、あらかじめ12個の質問を考えてきていた。
答えやすい質問もあれば、住職さんが悩み、結局わからないものもあった。
たとえば、
・工期は鎌倉時代から江戸時代の800年間。休み休み行われたので、800年間ずっと掘っているわけではない。
・工事に携わった人数は不明。修行僧だけでなく、近所の農民なども手伝っているため、見当もつかない。
・鎌倉時代から洞窟を作っているが、寺ができたのは室町時代。
などなど。
全く予想外のものもあった。
洞窟内を歩いたとき、「下がって言ったら川があった」ので、川は地下にあるのだと思っていた。
そこで、長男は「地下何メートルくらいまで掘っているのですか?」と言う質問を用意していた。
しかし、基本的に洞窟は「上へ」作られているので地下部分はないそうだ。
洞窟の入り口から、少しづつ上に行くようにコースが設定されていて、最後に急に降りるので地下に行ったように思えるらしい。
僕からも質問した。
昔はロウソクの明かりだけだったように思えるのですが、と聞いたら、そんなことはないらしい。
ただ、昔はもっと暗い蛍光灯が、今よりも少ない本数ついていただけ。だから、ずっと暗かったのは事実。
あまり明るくすると雰囲気がでないのだけど、安全第一なので今は少し明るめにしているのだそうだ。
気になっていた「羽の生えた天女」についても聞いた。
あれは、天女ではなく、仏様の一人らしい。天女とよく間違えられるけど、もともと羽が生えた姿で描かれるものなんですよ、とのこと。
…いろいろ勉強になった。
明治時代に寺の由来を書いた書物が失われてしまったそうだ。
(住職さんは言っていなかったが、おそらく廃仏毀釈運動による被害)
その書物には洞窟についての説明なども載っていたはずなのだけど、とのこと。
お寺では洞窟について歴史研究家の方が調査し、まとめた本も販売していたので、それを買ってきた。
今のところ、これが一番まとまった資料だという。まだ読んでいない。
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別年同日の日記
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Twitter でシャープ公式アカウントがこんなのつぶやいてた。
#なんか強そうな画像貼れ ←弊社にはじめてコンピュータを搬入するところ。1960年 pic.twitter.com/ioT31KVU4j
— SHARP シャープ株式会社 (@SHARP_JP) August 28, 2013
強いかどうかと言うより、僕としては機種が気になった。
1960年当時だと、コンピューターは非常に巨大、かつ繊細な機器だ。
しかし、写真に写っているものは「箱」に収められているようだし、これだけで完成しているような印象を受ける。
とすると、DEC のミニコンピューターかな?
…と思って調べたが、DEC が商業的に成功した PDP-8 を作るのは 1965年だった。
最初は「横倒しにして運んでいる」ように見えた。当時のコンピューターは、大抵縦長だからだ。
でも、よく見ると板にあけられた(おそらく排熱のための)スリットは、この状態で正しそうだ。
横長でこの大きさだと、これは制御卓部分で、コンピューター本体は別に存在するのかもしれない。
運んでいる荷物の一番手前の部分、箱の上側に、斜めになっている部品が見える。
これ、パンチカードを納める読み取り機だな、とわかる。
#知らない人がこの写真見ても思わないだろうけど、特徴のある形状なのです。
となると、その奥にあるのはプリンタか。
排熱のスリットがあるのだから、写真手前が、実際に使うときには「奥」になるのだろうな。
パンチカードを使うのなら IBM だろう、と思って IBM の当時のコンピューターを調べる。
当時なら IBM 709 か、と思ったけど制御パネルは縦型のようだ。写真のものとは違う。
709 のもとになった 704 も調べたが、こちらも違うようだ。
しかし、こういう写真は大抵「制御パネル」や「本体」ばかりで、パンチカード読み取り機やプリンタと言う周辺機器は写真が少ない。
じゃぁ、と考えて「IBM パンチカード読み取り機」で写真検索してみる。
すると、どうもそれっぽい写真が見つかる。写真の元ページを見に行くと、どうやら IBM 407 タビュレーターと書いてある。
そうか! タビューレータか!
コンピューターだと思って探していたからわからなかった。
さすがに背面から撮った写真は見つけられなかったが、左の写真など、横のパネルの開閉部分など同じだとわかる。
多分、シャープ(写真には「~電機」と書いてあるが、これはシャープの昔の企業名、早川電機だろう)に運び込まれたのは IBM 407 で間違いないと思われる。
#この写真はPaulさんのページから引用。個人で IBM650 持っているって…すごい趣味だ。
(リンク先では、もっと大きな元サイズの画像が見られる)
全体像としてはこちらの写真がわかりやすい。
シャープさんの写真とは正反対の位置から写したものなので、同じものであるとわかりにくいけど。
タビュレータは、パンチカードを読み取り、作表(テーブル化、つまり「タビュレート」)する機械。
407 の場合、作表の前段階として集計作業ができるので「会計機」とも呼ばれる。
左端に、パンチカードの束を置く場所がある。シャープの写真では、手前にあった部分だ。
置いたパンチカードは一枚づつ読み取られる。
装置上中央には、プリンタがある。ここで読み取ったデータを直接プリントアウトしたり、もしくは集計した結果をプリントアウトしたりできる。
右端横側にはハンドルが付いている。
この部分、引き出しのようになっていて、開けることができる。
引き出しを開けた状態が、この写真だ。
407 会計機は非常に高機能だったので、どのような作業を行うか、ここの配線を変えることでプログラムできた。
線(コード)を配するため、「コーディング」と呼んだ。
このプログラム方法は、ENIAC などと同じだと思っていい。
#詳細な2つの写真は、コロンビア大学より引用。こちらもリンク先で大きな画像が見られる。
407 会計機は、僕のページにたびたび出てくる書籍「ハッカーズ」の冒頭に出てくる機械だ。
「ハッカーズ」は初期のコンピューターハッカーの生活に迫ったドキュメンタリーだが、最初に扱うマシンはコンピューターではなく、この 407会計機だ。
当時はコンピューターは何百万ドルもするもので、一般人は触ることすら許されなかった。
というか、407も触ることは許されなかったのだが、704本体ほど厳重な管理はされていなかったため、ハッカーたちが夜中に忍び込んで、勝手に「遊んだ」様子が描かれている。
ちなみに、うちにある「ハッカーズ」は第3版第5刷だが、非常に誤記が多い。
407は、話をしている最中に急に「704」と名前が変わったりする。
先に書いた通り、IBM 704 コンピューターと言うものが実際にあるし、704 は 407 を周辺機器として使えるように設計してある。
英語原文を読んでみたところ、「407」の名称は1回だけ使われ、以降はすべて「it」だった。
日本語で「それ」が多いとわかりにくいため、訳者がわかりやすく、すべてを「407号」と書こうとしたようだ。しかし、間違えて途中から「704号」になり、余計に混乱させている。
#そもそも、「407」は機械の型番であり、個体を識別する「407号」ではないのだが。
407 はコンピューターではないが、IBM 704 コンピューターの重要な周辺機器だった。
だから、シャープ公式氏のいう「コンピューター搬入中」は間違いではない、と思う。
もしかしたら、704/709 は導入しておらず、407 だけの可能性もある。
それでも、ノイマン式ではなく、計算式にも制限がある(データ集計しかできない)というだけで、自動計算機(広い意味でのコンピューター)ではある。
なかなか面白い写真を見せてもらった。ありがとうございます。
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月曜日から、次女が微熱を出していた。
次女が保育園休むならわたしも、と長女も休み。長男はもともと夏休み中。
かくして、今週は子供が皆家にいる。
熱はあってもまったく元気。
他に症状もないので、病院には行かない。というか、この程度ではいけない。
仕事もあるし、なにより会社の決算をしなくてはならないのだが、はかどらない。
長男も、自由研究を仕上げなくてはならないのだが、気が入らないようだ。
火曜の夕方、熱が上がった。39.4度。
本人もつらそうなので熱冷ましをのむ。
水曜は朝から熱が低めだったが、夕方また発熱。38.6度。
そして、水を飲んでも喉が痛いという。
これは…自分も覚えがある症状だ。
熱はあっても元気で、3日ほどたってから喉が痛い。
ヘルパンギーナの疑い。今年は大流行している。
すぐ病院へ。
症状をきいて、先生も「あぁ」とすぐ思い当たったようす。
しかし喉を見て、「夏風邪」と断定をさけた。
夜中の2時に次女がめざめ、僕を起こした。
39.2度の熱があったので薬をのみ、いまやっと寝付いたところ。
少し目やにが出ている。
プール熱かもしれないな。
症状にてるし。
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