目次
05日 まだ続くおたふく
09日 づつ について
11日 こんにちわ
13日 強力な武器
19日 三連休
26日 理系と工学系
27日 続・理系と工学系
3回もおたふくかぜ関連の日記を書いて、次で「治りました」のつもりだった。
でも、そう簡単に終わらなかった。
先週木曜に発症した次女も、日曜日には熱が引き、火曜日には腫れもひいてきた。
この様子なら水曜日にお医者さんに治癒証明をもらって、保育園にいけるな…と思ったのだが。
水曜日の明け方、次女がうめくので目を覚まして(次女は僕の隣に寝ている)布団を掛けてやるが、なんだか体が熱い。
朝、次女が起きたところで熱を測ると、38度越え。
ほおを触ってみる。
…腫れていた右ほほの腫れは引いた。しかし、今度は左が腫れている。
左右が順番に腫れて長引くことがある、とは知っていたし、長男も2度熱を出した。
しかし、ここまで見事に再発されるとは思わなかった。
すでに体に抵抗は付いているのだろうか…
早く治ってくれれば良いな、と思いつつ、今日木曜日はまだ熱が高い。
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別年同日の日記
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当サイトの各ページの一番下では、一行掲示板がつけてあり、誤字脱字などの指摘を受け付けている。
自分は結構そそっかしく、がさつなので、十分に確認しないまま文章を公開してしまうことがある。
そうすると、誤字脱字がたくさんある。あとで自分で読み直しても気づくくらいだから、他人から見ればもっとあるだろう。
というわけで、気づいたら教えてね、という他力本願スタイルをとっているのである。
もちろん、誤字脱字のような「些細な」事ではなく、書いている内容が根本的に違う、という指摘もありがたい。
そして、本日平方根の求め方のページで、以下のような指摘をいただいた。
【えへへ】 1つづつ⇒1つずつ (2012-07-09 14:15:41)
これはおそらく誤字の指摘だろう、と判断した。指摘をいただけることは非常にありがたい。
しかし、これには少し悩んでしまった。自分の知る限りでは、「1つづつ」は間違いではないはず、だからだ。
僕は好んで「づつ」の表現を使う。特に明確な理由はなく、なんとなく好みだから、というだけの理由だが。
なんとなくなので、「ずつ」を排除しているわけでもない。いま、自分のサイト内を google で検索したら、「ずつ」が含まれるページが40、「づつ」が含まれるページが225あった。
もっとも、自分が正しいと言い張る自信はない。気になるので調べてみた。
まず、旧仮名遣いでは「づつ」が一般的なようだ。
一説には、「づつ」の語源が、「1つ、2つ」と「つ」を重ねる意味だから、だそうだ。
これが「ずつ」になったのは、戦後間もない昭和21年に、内閣訓令で「現代かなづかい」を定めたため。
人によって賛否はあろうが、この「現代かなづかい」は非常に意義の深かったものだと考える。
これ以前は、「話し言葉と書き言葉」は明確に違うものだった。
違うがゆえに、「書き言葉」を習得するのは難しく、読み書きが出来ない人がそれなりに存在した。
話し言葉では「ず」と「づ」は同じように聞こえるのに、書き言葉では正しく書き分けなくてはいけない。
…これを簡便化するために、基本的に「ず」を使うことに定めた。
これによって、明治ごろから始まっていた「文言一致運動」(文…書き言葉と、言…話し言葉を一致させよう、という運動)は完成を見る。
しかし、大胆な改革には犠牲を伴う。
原則として「づ」を使わない、というのは少し乱暴すぎた。
極端な話、小説を書くのに時代感を演出するための旧仮名遣い、というものすら許されない。
そもそも、「現代かなづかい」の訓令文面自体が矛盾を持っている。
かなづかいの基本的な規則として、「現代語音にもとづいて整理する」ことを定めているのだ。
「現代語音」つまり、話し言葉をそのまま書くべきだ、として、同じ音の場合、例えば「ず」と「づ」がある場合は、原則として「ず」を使う、としている。
しかし、その文面に「もとづいて」が出てくる、という矛盾がある。
もちろん、擁護も可能だ。原則として、と言っているのだから、例外もある。
「現代かなづかい」では、2語が複合して出来た言葉において、後ろの言葉の頭が「濁音になる」場合は、もとの字を使うことにしている。
なので、「もとづいて」が「もと」と「つく」の複合語だ、と考えれば矛盾はない。
しかし、その場合は新たな矛盾が生まれる。
「現代語音」とわざわざ言っているのは、過去における単語の成り立ちなどは考慮せず、現代的に一語であると認められているものは一語として考える、と言う意味だ。
「もとづく」は、現代において一語だ。これが複合語だ、という主張は、「現代語音」を重視した考えと矛盾してしまう。
いずれにしても、「現代語音にもとづいて整理する」という文面は矛盾が生じていることになる。
そんなわけで批判も多く、昭和21年に出された「現代かなづかい」は、昭和61年に廃止されている。
とはいえ、文章を書く際の指針は必要なので、新たに「現代仮名遣い」が制定される。
ただし、現代かなづかいと違い、たった一つの方法が正しく、他は間違い、というような決め付けを行わない。
具体的には「ず」と書くことが薦められている部分でも「づ」を使っても構わない。
また、適用範囲も、現代かなづかいでは「広く各方面にこの使用を勧め」「徹底する」としていたのに対し、主に公共性が高い文章に適用し、小説などは除外することが明確にされた。
ちなみに、外来語も適用外である。
何よりも、「現代かなづかい」以前に使われていた「歴史的かなづかい」を尊重し、理解を深めることが有用であるとされた。
そう、今となっては、「語源に対して正しい表記」を行うことが間違いではなくなったのだ。
これで小説も自由に書ける。
chassisを、「シャーシ」とあらわそうが「シャシー」とあらわそうがどちらも間違いではない。
Babbageを「バベジ」と書こうが「バベッジ」と書こうがどちらも間違いではない。
「づつ」だろうが「ずつ」だろうが問題ない。
そして、最初の問題に立ち返る。
自分は「づつ」という表記が好きだ。なんとなく好きだっただけだが、今回調べて「1つ、2つの つ を重ねたもの」と知ったので、なおさらこれが正しい表記だと確信した。
それが、「歴史的かなづかいを尊重する」ということだろう。
とはいえ、「ずつ」のほうが「現代仮名遣い」においては本則である。「づつ」を使っても構わない、というだけで、自分がマイナーであることは忘れてはならない。
ただし、「ずつ」が本則なのは公共性が高い文章の場合だけ。
このページは、僕が好きなように書いているだけで、公共性の高い文章には該当しない。(と思う)
多様性を認められる社会というのは、成熟した社会だと思う。
「現代かなづかい」は、統一することを主眼としていて、多様性は認めていなかった。
戦後、日本に余裕なんてなかった時期に定められたのだから、これはこれで構わないと思う。
しかし、「現代仮名遣い」は、多様性を認めていて、ルールを逸脱することを許容している。
もっとも、言葉はインターフェイスでもあるので、大きな逸脱は良いことではない。
それでも、逸脱を許容する…つまりは多様性を認めているのは、社会が成熟したのだと思う。
今回、調査中に何度も目にしたのが「この表記が正しく、こちらは間違い」という内容の文章。
多くは、廃止された「現代かなづかい」を根拠としたものだ。
実のところ、「現代かなづかい」以前には明確な基準はなかったので、間違いは存在しなかった。
そして、「現代仮名遣い」では、指針を示しているが逸脱を間違いとはしていない。
長い日本語の歴史で、「現代かなづかい」が効力をもった40年だけが、やたらと「間違い」を指摘される異常な時代であった、ということだ。
せっかく文章を書いて間違いだといわれると、気持ちが萎縮してしまう。
今は、こんな些細なことで間違いだといえる根拠はなくなった。
萎縮することはない。みんな、もっとおおらかに文章を書いてよいと思う。
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別年同日の日記
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昨日の続き、かな。
昨日の日記、「日記」であるにもかかわらず、最初に書いてから若干修正しています。
一度「正書法について」の記述を入れたのだけど、原文を見つけられないままに書いたので勘違いしていて、後で削除しました。つまりは、現在公開しているのは元に近いもの。
ただし、いろいろ調べるうちに知ったことを追記したりはしています。
1日以内の改変、ということでお許しを。
昔から、なにかの表記などについて「間違い」だと言うのが嫌いでした。
まぁ、本当に本人もタイプミスしたり、勘違いしている「間違い」はあるのだけど、そうでない場合は間違いにはそれなりの理由があるはず。
特に言葉は生きているものなので、どんどん変化します。
どこかの時点での常識を固定して、それから外れるものを「間違い」だとすることには、非常に違和感を感じます。
一時期問題にされた「ら抜き言葉」も、「こちらきつねうどんになります」も、間違いではない、と言うのが僕の考え。
どちらも論理的に考えて、おかしいところがないから。
「現代仮名遣い」では、稲妻を「いなずま」とするのを本則としながら、「いなづま」も間違いではない、としています。
同様に「世界中」は「せかいじゅう」だけど、「中(ちゅう)」が付いているのだから「せかいぢゅう」でも間違いではありません。
「ず」「づ」の「じ」「ぢ」の表記ゆれは、原則として自由なのです。
ただし、これはいずれも「ず」「じ」が本則。歴史的な意義がある場合には「づ」「ぢ」でも構わない、という解釈。
だから、歴史的に「ず」のところに「づ」を使うのは間違い、となります。
わからないときは「ず」を使ったほうが無難なようです。
さて、今回のタイトルは「こんにちわ」。
現代仮名遣いでは、「は」と「わ」の表記ゆれは、「ず」「づ」の表記ゆれほど寛容ではないようです。
「現代かなづかい」は、音をそのまま表記する、という立場を取ったにもかかわらず、助詞の「わ」の発音は、「は」と書くことに決めました。
これは、歴史的にそうしてきたからです。歴史はこの際考えず、音を表記しよう、と決めたにもかかわらず、そうなのです。
「現代仮名遣い」でも、そのまま引き継いでいます。
現代仮名遣いは、音を直接表記するのには無理があった、と認めているので、現状に即した方法を使っています。
そして、これに関しては「わ と書いても間違いではない」とはしていません。
さらに、例として「こんにちは」が挙がっています。
ということは、「こんにちわ」は完全アウト。
でも、僕としてはこの表記は許容すべきで、間違いだなどという人がいたら張り倒したくなります。
根拠の1番目として、この表記を使う人が多いこと。
言葉は生きていますから、使っている人が多い表記は、許容されるべき。
根拠の2番目として、おそらく誰よりも正しい日本語を使っている人が、この表記を使ったのを知っているため。
中学生のころ、ボーイスカウトに入隊していました。
で、1986年の日本ジャンボリーに参加しました。
ジャンボリーと言うのは、ボーイスカウトの大会…というか、お祭りです。
日本全国からスカウトが集まって、1箇所でキャンプをします。
1箇所で、といっても、すごい人数が参加するので、周りは知らない人だらけ。
一応、全体としてどんなことがあったのか、内部で配布される新聞まで作られます。
そして、現在の皇太子殿下、当時はまだ「ひろのみや様」だったけど、ジャンボリーに視察に来ました。
皇太子殿下は登山が趣味なので、ボーイスカウト関連の式典にはよく呼ばれていました。
で、当時の新聞記事。もちろんすでに持っていないので記憶で概要のみ。
とある団のキャンプサイトを訪れた皇太子。
そのキャンプサイトの入り口には、ベニヤ板でゲートが作ってあり、訪れた人がメッセージを書けるようになっていました。
だれかの「こんにちは」というメッセージの横に、皇太子も「こんにちわ」と言うメッセージを残しました。
これだけの内容の記事。
新聞には、この手書きメッセージの写真もありました。
当時の僕にとっては、これは衝撃的でした。
学校の国語で「こんにちは」が正しいと習った覚えがあるのに、非常に偉い人が「こんにちわ」と書くなんて…
逆だったら、単に「ものをわかってない奴が書いた、間違ったメッセージに対して、ちゃんとわかっている人が正しい表記で訂正した」と感じたでしょう。
しかし、誰よりも日本を、国語を愛しているであろう人が、学校では間違いだと教えている表記法を使ったのです。
キャンプ後、家に帰ってから、気になっていろいろ調べました。
当時は今みたいにインターネットなんてないし、答えは見つかりませんでしたが…
かろうじてわかったのは、「こんにちわ」も良く使われる表記で、間違いではないと言うこと。
これ以降、自分としては「こんにちわ」は非常に正しい表記となりました。
昨日調べた知識で補強するなら、「現代仮名遣い」は、公共性が高い文章での表記を定めただけのものだから、ベニア板に書かれたメッセージがどう表記されても問題はありません。
#奇しくも、「現代仮名遣い」が告示されたのは昭和61年7月1日。
皇太子が「こんにちわ」と書いたのは、昭和61年8月2~6日のどこか。
7月1日以前なら、「広く使用を薦め、徹底する」とした「現代かなづかい」から見て、間違いだったかもね。
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別年同日の日記
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誰しも、すごいおもちゃを手に入れたときに、無意味に弄り回してしまった思い出があるだろう。
最近だと、スマホを入手して一日中いじっている人は多い。
必要でいじっている(もしくは、全く無駄な行為を続けている)場合には、日がたってもいじる頻度は変わらない。
でも、最初の環境設定とかにこだわっていたなら、やがて落ち着いていじらなくなる。
子供がおもちゃを入手したときも同じ。
最初は意味もなく持ち歩いたり、ベッドの中にまで持って入ったりする。
でも、そのうち「本来の」遊びかたしかしなくなり、やがてはそれすらも飽きる。
うちの長男が、掛け算に興味を持った。
小学校2年生で掛け算を習うのは、夏休み明けの2学期から。
しかし、興味を持って複数桁同士の掛け算を筆算でやる方法まで覚えてしまった。
(まだうっかりミスで間違えることも多いけど、方法としてはちゃんと習得している)
これが、長男にとっては面白いらしい。
無意味に2桁かける3桁程度の問題を作り出しては、解き続けている。
で、数問終了すると、「丸付けしてー」と持ってくる。自分ではあっているか判断できないのだ。
あっていれば喜ぶし、間違いがあれば悔しがる。どっちにしろ、また続ける。
どんな分野でも、専門家が自分の道具のことを「武器」と呼ぶことがある。
難敵に挑むために、使いこなした、勝手のわかった武器を持つことは重要だ。
そして、数学者は数式や、数の特性についての知識を「武器」とする。
…と聞いたことがあるので(僕は数学者じゃないから実際のところは知らない)、算数ページでも「武器」という言葉を使ったりした。
ただ、自分の感覚としては、武器と呼べるのは、多少高度な数学知識のことだった。
でも、今の長男を見ていると、足し算引き算しか知らなかった子供には、掛け算も使っていて楽しい「武器」なのだなぁ、と思う。
長男は、しばらく前に「割り算も教えて」と言ってきた。
割り算は掛け算よりずっと難しいから、まだ教えない、と言ったのだが、一週間くらい毎日「教えて」と言い続けてきた。
根負けして教えてあげた。単純に割り算のやり方を教えるだけではなく、「なぜ難しいと言ったか」が理解できるように説明した。
長男は、掛け算も出来ないうちには無理だ、ということは理解できたようだ。
と同時に、割り算の深遠な世界を覗いて、恐れながらも面白がっていた。
大人にとっては、四則演算は基礎のようなものだ。
割り算は「掛け算の反対の操作」だと言う程度に了解している。
でも、割り算は、本当はもっと深遠なものだ。
掛け算は有限回の操作で終了することがわかっているし、この操作回数を計算前に見積もることも出来る。
しかし、割り算は何回の操作で終わるのか見積もれないし、場合によっては無限に終了しない。
たとえは唐突だが、CPU MC68000 では、16bit 足し算命令は 4クロックで終了した。
16bit 掛け算は 70クロック以下で、非常に時間がかかった。
これが、割り算になると 158クロック以下、となる。割り算がいかに「大変な処理」かがわかるだろう。
たとえば、SH2 はすべての命令を 1クロックでこなした。足し算はもちろん 1クロックだし、掛け算すら 1クロックだ。
(実際には3クロックだが、パイプラインがあるので1クロックごとに1命令が終了する。
ちなみに、実は掛け算は2~4クロック必要だが、実行中 CPU の他の動作が停止するため、見た目上1クロックになっている)
そんな SH2 でも、割り算は 1クロックでは完了しない。割り算に関しては「1ステップ分の実行」命令しかなく、これを「割り算終了」を示すフラグを見ながら繰り返す必要があった。
MC68000 も SH2 も、今となっては「昔の CPU」だ。
でも、今の CPU でもそれほど事情は変わっていない。
つまり、割り算と言うのは、電子計算機にとっても簡単なものではないのだ。
何でそんなに難しいのか、というのは、書くと長いから書かない。
興味を持った人は、自分でいろいろ考えてみると面白いんじゃないかな。
「0除算例外」や「丸め誤差」というのは一つの手がかりだと思う。
掛け算にはそうした厄介なものはないのに、なぜ割り算にはあるのかね。
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別年同日の日記
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三連休だし、海の日だし、海でもいこうかな、と考えた。
三連休前の平日、子供たちがテレビを見ていた。「しまじろう の わぉ」。
(話の本筋とは関係ないが、大人の鑑賞に堪えうる面白い番組。
編集に手間を掛けて、くだらないことを本気でやっている。
1コーナー2~3分の映像をつないで作っている感じで、飽きさせない。
もっとも、予算がないのだろう、コーナーの再放送は非常に多い。)
さて、アニメコーナーの次回予告が「ワクワク!しおひがり」だった。
ここで長女から質問。「しおひがりって、なにー」。
長女は2年前に潮干狩りをしている。もっとも、3歳前だったので記憶がないようだ。
海行こうと思っているけど、潮干狩りができるところと、水で遊べるところどちらがいい? と聞いたら、「しおひがり」と全員一致の答え。
というわけで、三連休は八景島に行くことに決定。
土曜日は雨の予報だった。
祝日の月曜日に行って、疲れてしまうと翌日差し障るだろう。
というわけで必然的に、日曜日に行こう、と子供には言っておいた。
ところが…当日、朝から妻の調子が悪い。なんだかつらそう。
原因不明だが頭が痛い、と朝から寝込んでいる。
9時には家を出るつもりだったが、10時になっても調子は戻らない。
長女は早く行きたいと言う。
僕と子供だけで出かけるかな、と妻に打診するが「それはさびしい」との答え。
今日はやめて明日にしよう、と長女に打診するが、行きたいと泣き始める。
今日は別の場所に行こう、と話をしても泣き止まず…が、しばらく泣いたら気が済んだのか、「今日は別の場所でもいい」と言ってくれた。
すると今度は、「どこ行くの? 早く行こう」となる。
すでに時間は11時近い。今出ると、昼が外食になるだろう。
そこで、「早めに昼ごはんを食べて、その後出かける」と決める。
すぐに昼ごはん(焼きそばにした)を作り、11時45分ごろには食事開始。寝ていた妻も起きてくる。
少し落ち着いたようなので、近所なら一緒にいこう、ということになる。
4月にピューロランド行ったとき、長女は「また、ふわふわやりたい」と言っていた。(ふわふわ=エアトランポリンのことね)
実は、車で15分ほどのところに、ふわふわを常設しているところがある。そこに行こう。
本郷台駅前の「あーすぷらざ」の5階には、子供向けの展示施設がある。
子供向けなのに、未就学児童は無料、大人は結構高い入場料(450円)をとられる。
小中学生は100円。
ここに、ふわふわがある。
入れ替え制で1回6分だが、待てば何度でも入れる。
通常は1回5分程度で300円取られるのだから、激安だ。
ほかにもいろいろな施設がある。
長男は、4~5歳の頃に何度か来ているが、次女は初めて。
にもかかわらず、なぜか次女が「ここ、まえに来て面白かったー っていったとこ」と言っていた。
すぐ飽きて帰るだろう、と思っていたが、夕食の時間まで遊んでしまい、夜は外食。
さて、翌日。約束どおり朝から八景島へ。
八景島の駐車場から、遊園地までは遠い。結構歩いてやっと遊園地へ。
まずは、子供向けの遊園地スペースに行ってみる。
…チケット売り場がない。以前は園内各所にあったのに、1箇所に集中させたらしい。
妻が今来た道を買いに戻る。
親子券を2枚。これ1枚で、親子2人で5つの乗り物に乗れる。4歳未満は無料なので、まだ3歳の次女も一緒に乗れる。
まずは長女のリクエストでメリーゴーランドへ。
終わったときには11時過ぎ。
以前に潮干狩りをしたところは、メリーゴーランドのすぐ近くだ。
移動する前に、一度海で遊ぶことにする。
実は、この日の干潮は12時半ごろ。潮干狩りしたいなら今がチャンスだ、というのもある。
この時期に来て、貝はそれほどないだろうと思ってはいた。
しかし、見事に、まったくない。
それでも岩を転がすと、蟹が出てくる。これだけでも子供たちには十分楽しかったようだ。
それに、中身はなくても、貝殻を集めるだけでも楽しい。
30分ほど遊び、後でまたくることにしてご飯を食べよう、というと素直に従ってくれた。
フードコートに移動して昼ごはん。
昼時になってしまい、買うのに時間がかかった。やっと席に戻ったら、次女は寝てしまっていた。
でも、長女のリクエストのラーメンと、長男のリクエストのカレーは食べられた。
(最近の長男は、子供向けではなく大人向けを欲しがる。背伸びしたい年齢なのだろう。この日も、大人向けの量が多くて辛いカレーを、9割程度食べた)
フードコートを出たとたんに次女が起きる。
まだぜんぜん遊んでいないが、長女がお土産を見たいと言う。
フードコードの前から、土産物屋が目的方向に向かって並んでいる。ちょうどいいので見ながら進む。
315円のメモ帳を欲しがるので購入。小さな6種類の紙が20枚づつ、120枚になっている。
長女は、最近「おてがみ」を書くのが好きで、こういうかわいい文具に興味がある。
次女は別の種類のメモ帳。こちらは、メモ帳だけど「折り紙」が出来るようになっている。
(小学校の女の子が好きそうな、お手紙で折り紙して渡すようなやつだ。折るとイルカやペンギンが出来上がるようになっている)
長男は…欲しいのがない、といって保留。
もっとも、あとで次女と同じタイプ、別の柄のメモ帳を買った。
(長男は折り紙好き)
昼ごはんを食べていない次女のために、2時ごろにはやめにおやつ。
そして、2時半ごろに「シーパラダイスタワー」に乗る。
乗り物といっても、事実上は観覧車のような「展望塔」だ。
これで、園の全域が見渡せるので、次にどこに行くか考えられる。
以前は長女が「お船乗りたい」と言って、遊覧船に乗ったっけ。
長男・長女が、すぐ近くに広場があることを発見し、「あの広場行きたい」という。
以前もそういう流れだった。2年経っても子供は変わっていない。
降りたら広場に移動。そこでしばらく遊ぶ。
この日は風が非常に強かった。
広場の前は海。海からの強い風が、ずっと吹いている。
ふと後ろを見ると、シーパラダイスタワーが止まっている。
強風の場合は営業を中止する場合がある、と乗ったときに言っていたが、その後止まったようだ。
しばらく遊んでから、「オクトパス」へ。
これ、2年前に長男が乗りたがったが、身長が足りなくて乗れなかったやつだ。
あの時、「身長が伸びたら乗せてやる」と約束した。
長男に乗りたいか聞いてみると「乗る!」と二つ返事。
でも、どういうものかはわかっていない様子。
あえて乗らずに、1度動きを見てみる。
結構怖そうだとわかり、ビビル長男。
これは親子券は使えない乗り物なので、乗るなら長男一人で、と説明して、乗るか聞いてみた。
しばらく悩んで出した結論は、「やっぱ乗る」。
怖くても乗ってみた長男。最初は緊張していたが、途中からは余裕が出てきて楽しめたようだ。
長女も乗りたがったが、身長がたりない。
2年前の長男と同じく、今度きたときに身長が足りていたら乗せてあげる、と約束。
そして、2年前と同じく「オクトパスに似ているよ」とドランケンバレルへ。
…ドランケンバレルの前に、レッドバロンに乗りたがった。そのようにする。
そして、ドランケンバレル、最後にピーターパン。
これで乗り物券終了。
長男と長女は楽しんでいたのだが、次女は「ちょっと楽しかった」と小声で言う。
これは、楽しいといっている長男・長女に気を使って同じ意見を言っているな、と思ったので「本当は怖かった?」と聞いてみると、「ちょっと楽しかったけど、いっぱい怖かった」。
最後に、もう一度海へ。
時間は4時半。この日の満潮時刻です。
「さっき水がなかったところに水がある」と、長男長女大騒ぎ。
もうこの後帰るから、と、靴を脱いでくるぶしまでつかる事を許可します。
くるぶしまで許可すれば、ひざまでは濡れるからね。
次女は「ねむい」そうで、海に入ろうとはしません。
寝てもいいよ、と抱きかかえて横にしてやるも、風が強すぎて気になって眠れない。
やがて、浜辺近くの草地を走り回って遊んでいました。
これで遊びは終了。
帰り道で外食し、家に帰ったのは9時でした。
(子供たちがファミレスで土産で遊び始め、1時間半も居てしまった)
次女は疲れで翌日熱を出しましたが、「楽しかったから またいこうね」だそうです。
同じテーマの日記(最近の一覧)
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世の中は文系と理系に分かれる、と考えている人が多いのだが、その考えはおかしい、という指摘も昔からされ続けている。
つまるところ、文系と理系に大別するのがおかしいと思っている人が多数だが、他によい方法が思いつかない、と言うところなのだろう。
文系だから数式わかんない、とか、理系だから英語わかんない、とか言う人がいるから「その分類はおかしい」と言われることになる。
文系に分類される学問であっても、経済学などは数式を多用する。理系は論文を読むことが多いので、英語の能力は必須だ。
つまり、「文系だから数式わかんない」とか、「理系だから英語わかんない」はおかしくて、単に「頭悪いから~わからない」だけ。自分のことを頭悪いと思いたくないから、別の理由を立てているのだ。
理系は実験や試行に基づいて、フィードバックを繰り返しながら法則を見つけていく学問。
フィードバックや実験が繰り返せない場合は、基本的には文系と言うことになる。
経済学が文系なのはこのため。それでも、過去の資料を基に仮説を立て、その仮説を数値実験で検証して発展してきたので、数式を多用する。
同様の学問に、地震学がある。おいそれと実験できないため、過去の資料を基に仮設を立て、その仮説を数値実験で検証するしかない点で同じ。
ただし、経済には人心が絡んでくるので、同じ条件で必ずしも同じ結果を得られるとは限らない。地震学は、同じ条件をそろえれば同じ結果を得られるだろうと推測される。
(地震はどこで起きるかわからないため、同じ条件で起こることはないとしても)
この、「再現性」が理系と文系を分けている。
さて、今日の日記タイトルは「理系と工学系」。
数年前から、このことをどこかに書きたくて仕方がなかった。
…が、たいした話ではないので書いていなかった。ごく当たり前の話、だと思ってきたからだ。
でも、どうも当たり前ではないようなので、書く。
一般に、工学系は「理系」の一部だと思われている。まぁ、仮設を立て、検証して、精度を高めていく、というアプローチは類似なので一部とみなすことに問題はないだろう。
しかし、似て非なるものであるのも事実だ。一部であるのは認めた上で、一緒だと考えるのは間違いだ。
以下、理系を工学系と純粋な理論を扱う理系にわけて考える。
「理系」と書いた場合は、純粋理論のほうだ。
理系では、事象を観測して、多くの事象をシンプルに説明できる方法を探すことが重要視される。
例えば元素発見の歴史がそうだ。
その昔、人々は「元素」の存在に気づいた。これこそが、世の中を構築する最小単位、と考えた。
しかし、元素は100以上存在した。これは「シンプル」ではない。もっと小さな単位があるに違いない。
調べると、元素は電子と原子核から成っていることがわかった。原子核は、陽子と中性子から成っていることがわかった。
これこそ最小単位に違いない、と考え調べると、陽子や中性子の仲間がたくさん見つかった。シンプルではない。もっと小さな単位があるに違いない。
そして人々は「クォーク」を発見した。クォークはたった6種類しか存在せず、しかもそれらは2つづつ、3対になっていた。非常にシンプルだ。
…が、同じく6種類のレプトンと、6種類のゲージ粒子(先日話題になったヒッグス粒子などの仲間)なども見つかった。
全部で18個。3×2を基本とする6個を、3セットで18。これをシンプルとみなすかどうか、難しいところだ。
以降は余談になってしまうが、ノーベル賞学者の南部博士などは、これら18個の「素粒子」を、仮想的な「弦」の振動の違いだと説明した。
その説明だと、18個の素粒子は、「弦」の振動が違うだけで、実態は同じものだと言うことになり非常にシンプルに説明できる。(これを超弦理論という)
しかし、科学的にはまだ検証できていないし、今後も検証不可能だ、と指摘されている。
先に書いたが「再現性」は、理系と文系を別ける重要な基準のひとつだ。検証できない超弦理論は、面白い研究だがまだ「理系」には仲間入りさせられていない。
工学系では、大事なのは「実現すること」だ。どんな高尚なことを言っていても、絵に描いた餅では仕方がない。
理系の人間が何をいっても、みんなの生活は豊かにならない。
工学系の人が実現するから、豊かになるのだ。
よく、「チューリングマシンとは、現代のコンピューターのこと」だと言われる。
でも、これは間違っている。
チューリングマシンは理系の人間の想像上の産物なので、機能上の制限がない。
現代的に言えば、無限のメモリと、無限に速い CPU を持っている。
でも、そんなことは出来ないので、工学系の人間は「小さなメモリと、遅い CPU」のコンピューターを作った。
出来ることから手をつけて、メモリを増やし、CPU を速くしてきた。
テッド・ネルソンが Xanadu を提唱しても、これは理系の人間が夢見る理想郷だった。
ティム・バーナーズ・リーは、その機能のほんの一部分、すぐに実現できそうな部分だけを切り出して、World Wide Web を作り出した。これは工学系の仕事だ。
理系の人間が考えたものを、実際に作成する…「実装する」だけでも、非常に高度な工夫を要する場合がある。
もちろん、理系と工学系は厳密に別けられるものではない。自分で考えながら、創意工夫して作り上げたものは、他者が真似できないようなものとなるだろう。
そして、このような実装上の創意工夫には、「特許」という特権が与えられる。
理系にはそのような特権は存在していない。
それだけ工学系の仕事は重要である、ということでもある。
理系がシンプルさを求めるのは、そうすることで応用が利くからだ。
シンプルであれば、全容を理解するのも簡単だ。
ニュートンは万有引力の法則を見出した。この法則は非常にシンプルだった。
しかし、何かが少し違っていた。ニュートンの法則どおり計算すると、冥王星の軌道は少しずれてしまう。
まだ見つかっていない未知の惑星があり、その影響だ、という主張もある。
しかし、アインシュタインは「引力が伝わるのに時間がかかる」という概念を持ち込んだ。
太陽から遠く離れた冥王星では、太陽の引力の影響を受けるのにも時間がかかるため、ニュートンの法則では計算しきれないのだ。
でも、この新たな発見により、ニュートンの法則を書き換えよう、とはならない。
重力の伝達速度が無視できるほど「近い」環境では、ニュートンの法則は十分に成り立っている。
そして、シンプルであるがゆえに、アインシュタインの提唱する「重力の伝達速度」を考慮した計算に発展させることも可能なのだ。
普段はシンプルな理論を使用し、それが使えない局面では「ちょっと改変して」応用する。これはシンプルであるがゆえに出来ることだ。
工学系は、「信頼性」を重視する。十分に動く、という指標の値だ。
部品を組み合わせる際に、個々の部品の誤差を十分に考慮し、誤差が多数の部品の間で蓄積しないように、打ち消すように働くように考える。
こうすれば、信頼性は向上する。
すでに動作している、という実績があれば、なにより大きな「信頼性」として評価される。
そして、信頼性があるものが存在すれば、よほどの理由がない限り一から作り直そう、とは考えない。
その結果、工学系の人間が作ったものは、つぎはぎになることがある。
古いものに新機能を追加し、とにかく「動く」ことを求める。
絵に描いた餅よりも、多少まずくても食える餅のほうがずっと意味があるのだ。
理系はしばしば「端」を嫌う。水の分子の挙動を説明するのであれば、コップの中央を相手にし、ガラス面に接していたり、空気に接している「端」部分は考えない。
ソートアルゴリズムを考えるのであれば、データが大量に並ぶ中での挙動を考え、データの開始地点のことを考えない。
それは、「端」が特異点だからだ。連続部分は微分可能でも、折れた部分は微分できないからだ。
特別な処理が必要なところを考えると、どんどん説明が「シンプル」から遠ざかる。
理系にはこれが許せない。
しかし、現実には端はいくらでも出てくる。これを無視しては何も作れない。
工学系の人間は、「端の処理」をどのように行うか、常に考え続けている。
複雑につぎはぎしたシステムと言うのは、端だらけで、シンプルさからは遠く離れている。
理系にはこれが許せない。一から作り直したほうがましだ、と、信頼性のあるものをわざわざ壊し、作り直そうとする。
出来上がったものは、理系が言うには「今までの問題点を克服したもの」だ。
しかし、工学系から見ると、「信頼性のまったくない代物」にすぎない。
自分はソフトウェアのプログラマーだ。
純粋な理系か、といえば、そうではない。工学系に属するだろう。
大学では、情報科学を専攻していた。これは「コンピューターサイエンス」ではあるが、基礎学問であり、純粋な理系だった。
さて、その目で見ると、プログラマーでも理系の人間と、工学系の人間がいる。会社の社風としても違う。
Microsoft は工学系だ。信頼性は非常に高いし、過去との互換性を大切に考えている。
「まったく新しいもの」を作るよりも「よりよいもの」を作ることが得意。
バグが報告されれば、すぐに解消しようとする。ユーザーの要望も出来る限り聞こうとする。
結果、細かく手を入れすぎた、つぎはぎだらけのシステムを作り続けている。
これはニーズにこたえてのことなので、個人的には嫌いじゃない。誰かがやらないといけないことだ。
そして、これをキッチリと出来る会社は、いまのところマイクロソフト以外に見出せない。
Google は理系だ。シンプルで先進的なシステムを作り続けている。
Google 検索が登場したときは、そのシンプルで強力な理論に驚愕した。
Google Map では「AJAX」という新たな概念を定着させてしまったし、GMail では、それまであった POP3 か IMAP4 か、という議論を別の方法で終結させてしまった。
しかし、過去との互換性はしばしば切り捨てられる。バグが報告されてもほったらかしだ。
WEB サービスでは過去との互換性のなさは致命的ではないが、Android においては、そろそろ互換性問題に苦しみ始めている。
新たな概念を提唱してくれるのが好きで、サービスもたくさん使わせてもらっているが、互換性問題で時々不安になる。
Apple は…工学系か理系か、というよりは「アート系」なんだろうな。
この議論での枠組みからはずれるから、割愛。
(まぁ、シンプルさを好むと言う意味では理系なんでしょうが)
Linux コミュニティは、確固とした方針のない「コミュニティ」なので、どちらとも言えず。
全く新たしい概念を持ち出せるほど理系ではない。キッチリ信頼性を出せるほど工学系ではない。
そういう意味で、ポテンシャル自体が低い。適材適所で使ってはいるけれど。
この中でも、新たな実験に挑む人々もいるし(Xen などは、キッチリとした理論で新たな世界を見せてくれた)、互換性を保つことに腐心する人もいる(ext2~ext4 は、過去との互換性を保ちながら先進的な機能を取り入れようとがんばっている)。
理系の人間が「証明」を求めるのは、複雑な問題をシンプルに解き明かすことで、あらたな「応用」が見つかる場合があるからだ。
難しい問題ほど、応用が広がることが多い。
誰も解けない難しい問題と言うのは、じつは広い知識を持ち合わせていないと解けない問題であることが多いためだ。
結果、証明が出たときには、非常に広い範囲を縦横無尽に駆使したものとなっていて、別々に考えられていた問題が実は類似していた、などの新発見に繋がることとなる。
長い間数学者を苦しめた「地図の4色塗りわけ問題」は、1975年に一応の解決を見ている。
しかし、この方法はシンプルなものではなかった。
考えられる限りの地図(実際には、数学の一分野である「グラフ理論」でいうところの、グラフ)をかき集め、コンピューターを使って、モンテカルロ法(いわゆる「ランダム」)で、塗りわけが成功するまで塗ってみた、というだけだ。
結果、すべての地図は塗り別けられた。だから4色あれば地図を塗るのには十分、と言う結論だった。
これを聞いて、「なるほど、そんな方法があったか」と感心する人間は、工学系だ。
とにかく、証明を与えよ、と言う問いに対して、巧妙なテクニックを使って証明を出して見せた。
課題に対して結果は出しているし、実用上はこれで問題ないはずだ。
これを聞いて、「そんなの証明じゃない」と違和感をもった人間は、理系だ。
4色塗り別け問題に特化したプログラムで力技でやって見せただけなら、証明とはいえない。
証明はシンプルで応用が利くから美しいのだ。
実は、「考えられる限りの地図」の部分には漏れがあって、後に指摘されたりしている。
しかし、その場合はもれていた地図を塗ってみて、「やはり塗れました」というだけ。
理系らしい証明では、シンプルであるがゆえに、問題点が指摘されると致命的になることが多い。
フェルマーの最終定理を証明したワイルズは、証明提出後に1箇所の誤りを指摘された。
わずかな誤りだったので、「すぐに修正できる」と考えたが、なかなか修正方法が見つからず、毎日考えているのにどうしようもない。
一度は諦めかけたそうだが、結局、1年後に修正方法を思いつき最終的な証明にいたった。
シンプルであると言うことは、誤りが見つかったときに修正しにくい、と言うことでもある。
理系と工学系、世間一般から見ると同じ「理系」の枠組みだけど、結構相容れない。
向いている方向が違うからね。でも、協力し合えれば最大の力が出せる、ということも、両者ともわかっている。(わかっている人が多い、と思いたい)
「はやぶさ」なんかは、見事なタッグでした。理系と工学系が一致団結しないと、あそこまでの離れ業は生まれません。
#この話、翌日の追記があります。
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調子に乗って昨日の話の続き。
大筋を書いたら、些細な話を書きたくなったので。
主にプログラムの話。
プログラムは、現実に何かを作るという意味で工学系だ。
その意味では、すべてのプログラマは工学系に属している。
一方、プログラムの基になる「アルゴリズム」は、純粋に論理のみの存在で、理系の範疇だ。
アルゴリズムから考案してプログラムを行うプログラマは、理系の範疇でもある、といえる。
すべてのプログラマがアルゴリズムを考案するわけではない。
仕様書にしたがって、実装部分だけを担当するようなプログラマもいる。
#注:実際には、アルゴリズムを考案する人を「プログラマ」、実装を行う人を「コーダー」と呼ぶ。
しかし、現在ではこの2つの仕事を分割して考えることは少ないため、まとめてプログラマと呼ばれる。
たとえば、ソートを行うプログラムを考えるとする。
一番単純なのは、「バブルソート」と呼ばれるアルゴリズムだ。
バブルソートでは、「すでにソートが終了している」リストのなかに、新たなデータを挿入することでソートが行われる。
最初は、ソートが終了しているリストは存在しない。1つ目のデータは、必然的に「1番目」に置かれる。これでも、ソートが完了したリストとなる。
2番目のデータは、1番目のデータの、上か下に置かれるだろう。3番目のデータは、すでに存在する2つのデータの上か、中央か、下に置かれる。
仮に、「データの小さいもの」を1番上に置くことにして、新たなデータは「下から順に」既存データと比較を行うことで、挿入位置を探すものとする。
すると、アルゴリズムは
1. 一番下のデータを読み出す。
2. 読み出したデータと新たなデータと比較する。
3. 読み出したデータのほうが大きな場合、一つ上のデータを読み出し、2に戻る。
4. 読み出したデータのほうが小さな場合、比較したデータの下に新たなデータを置く。
「理系的には」これでよい。
しかし、実装するとなると問題が生じる。
すでにあるリストのどのデータよりも小さかった場合、3 の部分で「一つ上」を読み出すことが出来なくなる。
このような場合、「端の処理」を行わなくてはならない。
データの位置を検討し、1番上ならば終了する、というのは、良く使われる方法だ。
また、4 で「下に新たなデータを置く」と言っているが、これは実装時に問題が生じる。
一つ下にデータを置いてしまうと、それまで存在していたデータが上書きされてしまうのだ。
なので、事前に「下のデータを、順次ずらす」という処理が加わらなくてはならない。
これらを考慮すると、次のようになる。
1. 一番下のデータを読み出す。
2. 読み出したデータと新たなデータと比較する。
3. 読み出したデータのほうが大きな場合、
3a 読み出したデータが一番上なら、すべてのデータを順次ずらし、一番上に新たなデータを置き、終了。
3b 一番上でないなら、1つ上のデータを読み出し、2に戻る。
4. 3 で読み出したデータのほうが小さな場合、比較したデータの下を順次ずらし、一つ下に新たなデータを置く。
これでプログラムは動作する。工学系的にはこれでよい。
しかし、データを置く部分が 3a と 4 の2箇所に分かれていたり、「一番上」という端でしか意味のない処理を、毎回 3a で行っていたりと、無駄の多いアルゴリズムになっている。
ちょっと優れたプログラマなら、すぐに改良点を思いつくだろう。
「データの比較」と「データをずらす」が別に行われていることに無駄がある。
比較のためにデータを読み出しているのだから、条件によって「一つ下に」書き込んでしまえばよい。
そうすれば、データの比較と、ずらす処理を最小手順で行えるし、プログラムもすっきりする。
1. 一番下のデータを読み出す。
2. 読み出したデータと新たなデータと比較する。
3. 読み出したデータのほうが大きな場合、読み出したデータを、一つ下に書き込む。
3a 読み出したデータが一番上なら、一番上に新たなデータを置き、終了。
3b 一番上でないなら、1つ上のデータを読み出し、2に戻る。
4. 3 で読み出したデータのほうが小さな場合、一つ下に新たなデータを置く。
先のアルゴリズムを整理しただけで、それほど違うプログラムにはなっていない。
しかし、こうした細かな改良は、プログラムの動作速度を上げる。
しかし、これは実装上のテクニックの問題だ。
実は、アルゴリズムを見直せばもっとよくなる。
アルゴリズム上は、新たなデータを置く条件が「一番上に到達したとき」と「小さなデータを見つけたとき」の2つになっているのがよくない。これをまとめるとよりよくなる。
そこで、「すでにソートされたデータのリスト」を見直す。
これを、最初に空の状態から始めたのがよくなかった。ありえないほど小さなデータ… -999999 とかを最初にひとつだけ、入れておけばよかったのだ。
これだけの工夫で、「一番上に到達したとき」は、自然に「小さなデータを見つけたとき」の処理でカバーされることになる。
1. 一番下のデータを読み出す。
2. 読み出したデータと新たなデータと比較する。
3. 読み出したデータのほうが大きな場合、読み出したデータを、一つ下に書き込み、2に戻る
4. 読み出したデータのほうが小さな場合、一つ下に新たなデータを置く。
実装上のテクニックでごちゃごちゃと追加した処理が、すっきりと整理され、最初に考案したアルゴリズムに近くなった。
出来上がった結果には、最初に入れた「ありえないほど小さなデータ」が先頭に入っている。
なので、使うときには、最初のデータを取り除かないといけない。
工学系な思考をするプログラマは、細かなテクニックを駆使してプログラムを実装しようとするが、理系の思考をするプログラマは、アルゴリズムを根本から見直して問題を解決しようとする。
この違い、わかっていただけるだろうか?
ハッカーズ、という古典的なノンフィクションがある。
この中には、コンピュータープログラムが大好きで、プログラムばかりしている人々が登場する。
大抵は、驚くような優れたアルゴリズムを考案し、エレガントに問題を解決する人々だが、一人「風変わりな」ハッカーが登場する。
彼は、バグが生じたときに、バグの根本原因を突き止めようとはしない。
代わりに、バグがどのように生じているかを調べ、そのバグの影響を打ち消すようなプログラムを追加する。
「ハッカーズ」の著作者は理系の人間ではないため、彼のことを「風変わりだ」とは感じていても、なぜそう感じるのかを正しく説明できないような記述になっている。
つまり、他のハッカーは理系なのに、彼は工学系なのだ。
結局、プログラムというのは正しく結果を出せればそれでよい。…そう考えるならば、バグを打ち消すプログラムを作ったって問題はない。
しかし、それでは「端の処理」だらけになり、どこかでバグが噴出する可能性がある。
「ハッカーズ」の時代は、プログラマの多くが理系だった。
彼のように工学系が多少入っていたとしても、それは「風変わりな」ことだった。
現代では、プログラマの数は非常に増えている。
工学系のプログラマは山ほどいる。数式が全く理解できない、「自称文系」なプログラマだって珍しくない。
アルゴリズムの工夫が出来る、理系プログラマのほうが珍しいだろう。
さて、以前から「魔法使いの森」にリンクしてくれているページの中で、2ch の次のようなスレッドがある。
(リンク先はアーカイブ保存サイト)
ここで、岩田さんとナージャ・ジベリのどちらがすごいか、というような話も出ているのだが、岩田さんは「理系」プログラマで、ジベリは「工学系」プログラマのように思える。
#どちらの方のプログラムも、実際に読んだことはないので言い切れないけど。
岩田さんの言うところの「バグの出ないプログラム手法」というのも、出来るだけ「端」が生じないアルゴリズムを考案する、ということに尽きるように思う。
#自分もゲーム業界にいたのでわかるけど、定番になっている手法だけでもいくつもあります。
だから、「岩田さんがそんな手法を編み出した」のではなく、「知っている人は知っている手法を、ちゃんと知っている」ということ。
ゲーム業界にいても知らない人は少なくないので、ちゃんと知っているのは評価されるポイントです。
だから、アドベンチャーゲームには応用できない。アドベンチャーゲームは「条件判断」の塊で、つまるところ端だらけだからね。
開発が難航して、仕様変更を繰り返したためにつぎはぎだらけになったプログラムを「いちからつくり直していいのでしたら半年で」というのも、端だらけだとバグが出やすいため。
実際のところ、プログラム時間の大半は「バグの修正」に費やされる。
潜在的にバグが出やすいプログラムを使い続けるよりも、一から作り直したほうがはやく作れるのはそのため。
きわめてまっとうな主張しかしていないのだが、2ch で議論していたかたがたはプログラマでないか、プログラマでも「工学系」の方が多いようで、言葉を正しく理解できずに、過大評価してしまっているように見える。
オブジェクト指向の世界…だけでもないが、プログラム手法として、MVC 分離、という概念がある。
もとは SmallTalk で使われていた概念だ。
MVC は、Model View Control の頭文字。
Model は、数値モデル、内部的なアルゴリズムのこと。
View は表示、出力。Control は入力。
つまり、入出力と内部アルゴリズムは分離しておけよ、ってこと。
入力や出力は、環境に依存する。
また、使いやすさをもとめて、仕様変更が行われやすい部分でもある。
しかし、内部アルゴリズムは案外変わらない。
なので、これらを別々に考えてプログラムしていれば、プログラムの変更時にバグを生じにくい。
でも、この考え方自体が「理系」のものだ。
だって、考えの基本にあるのが、「アルゴリズムをシンプルに保ち続けよう」ということなのだもの。
岩田さんの言う、「バグの出にくい作り方」のひとつは、これではないかと思う。
#詳しく説明すると、それだけで長いので割愛。
勘違いされたくないが、理系の方法が良い、というのではない。
アルゴリズムを練り直すと良いものが出来る「可能性」はあるが、ダメになる可能性だってある。
すでにあるものは出来るだけいじらない、という、工学系の思考方法も重要なのだ。
結局は、バランスの問題。
Intel は、CPU の設計を「交互に」おこなうことでバランスを取っている。
ある世代では、全面的に設計を見直して、パフォーマンスを向上させる。その代わり、新機能はあまり追加しない。
次の世代では、細かな改良を施すとともに、新機能などを導入する。その代わりに、根本的な見直しは行わない。
全面的に改良を行った CPU は、数値上は素晴らしいパフォーマンスを出すのだが、深刻なバグが出たりもする。
しかし、こうしたうまいバランスの取り方が出来ないと、長い間トップランナーで居続けることは出来ないのだろう。
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