目次
04日 訃報(1/5)
04日 訃報(2/5)
04日 訃報(3/5)
04日 訃報(4/5)
04日 訃報(5/5)
21日 訃報
8月28日の深夜10時46分、父が他界しました。
82歳でした。
以前は会社経営していましたが、老齢になり、不況も重なり、数年前に会社を畳んでいました。
その後、一時的に同居していたこともありますが、ここ数年は基本的に長兄と同居していました。
会社を辞めた頃から、多少元気が無い気はしていました。
しかし、高齢だし、仕事を失って生活に張りがなくなったせいだろう、程度に思っていました。
ここ1年ほどは特に元気が無く、何かの折に家族が集まっても、少し顔を出すだけで床に伏せっていたりしました。
本人が病院嫌いだから、お医者さんに見てもらうように言っても行こうとしない、ということもありましたが、3ヶ月ほど前から明らかに食欲も減退し、やっとのことで説得して、7月15日、病院に連れて行ったそうです。
そして、食道に腫瘍が見つかりました。
食欲の減退は、腫瘍により食道が狭窄し、食べたものが喉を通らないためでした。
僕が連絡を受けたのは7月25日。父の誕生日(7月20日)の少し後。
腫瘍で物が食べられないから、と点滴生活に入っていました。
長兄からの伝え聞きですが、お医者さんが言うには、悪性腫瘍の可能性もあり得る、とのこと。
言葉を選んで「悪性腫瘍」なんていっていますが、つまりは癌だということです。
それも、お医者さんが検査結果も出る前に警告しているのだから、可能性が高いから覚悟しておけということなのでしょう。
父の誕生日の祝いをまだ言っていなかったことが気になっていたのですが、お祝いする雰囲気ではなくなりました。
もっとも、誕生日時点で既に入院していたわけで、誕生日当日に連絡していてもお祝いする雰囲気ではなかったでしょうが。
検査結果が出たら連絡もらう、ということで、このときは一端電話を切ります。
が、なかなか検査結果の話が来ないので、28日にこちらから連絡。
29日にお見舞いに行きます。
想像していたよりずっと元気で安心しました。
母が言うには、こっそりお菓子を買ってきてくれ、おにぎりを買ってきてくれとねだるので困っているとのこと。
栄養点滴はベッドに寝ている時間も長いですし、目も悪く、耳も遠いので寝たままできる娯楽も無く、暇をもてあましている様子。
数日後、食道癌だという診断結果が出ました。
高齢で抗癌剤治療は体力が持たないだろう、ということで、放射線治療が検討されます。
ただ、そうなると治療は長期化します。
本人に長期治療を納得させるためには、告知が前提条件、とお医者さんに言われます。
長期治療ということは、つまり治療を生活の一部とする、ということです。
本人、点滴だけで食べられないことが非常に辛いようなので、ステント治療を先に行う、という提案が出ます。
入院してから、兄弟が交代で(お互い暇な時に)お見舞いに行っていたのですが、治療方針の説明を行うというので全員(兄弟6人のうち、遠方に住む長女を除いた5人)が集まります。
父はみんなが集まったことに非常に上機嫌で、「金は俺が出すから、みんなで食事でもしてこいよ」なんて笑っていました。
人数が集まると、一人では気づかないこともいろいろ気づきます。
通り一遍の治療方針説明だけでなく、いろいろな質問が出ました。
ステントは金網だが、癌が増殖して金網を回り込んで再狭窄する可能性は?
…説明では金網とよく言われるが、実際にはその周りにフィルムがあり、広がりすぎるのをおさえている。これが同時に、癌が金網を飲み込むのを防いでいる。
金属製のステントを入れて、放射線治療に影響は無いの?
…放射線が反射され少し効果が落ちるが、ストレスを軽減することで回復力をあげる効果もあり、一長一短。
抗癌剤を併用しない、という決定に反対するわけではないが、併用したほうが治療効果は高い?
…効果が高すぎて、一気に癌が消滅して食道に穴が開く危険性がある。隣は気道なので、食べたものが肺に入るようなことがあると呼吸困難を起こし危険。
放射線治療の治療期間は?
…放射線治療は、毎日5分続けて最長で6週間。一生に許される被爆量の関係で、それ以降は継続できない。
では、その治療期間で癌が消えない場合は?
…完全に消えなかったとしても、癌が減れば食事を再開する、という目的は達成できる。その後は抗癌剤単体で使って根治する方針になるだろう。
などなど。
ただ、ステントを入れる前提条件として気道の内視鏡検査が必要とのこと。
食道を広げたら気道がふさがって呼吸困難、では意味が無いためです。
また、食道の周囲には気道、肺、心臓などが集まっているため、放射線治療の途中で炎症を起こして中断する可能性がある、という説明もありました。
8月8日、再び兄弟全員集まり、父を交えて告知と治療方針の説明が行われます。
耳が遠いので、まずは概要を大きな文字で書いて、読んでもらっておきました。
父は、さすがに多少のショックはあったようですが、治療できるのなら頑張ろう、と前向き。
ただ、細かな治療方針に関しては、急にいろいろな話が出てきたので混乱しており、今後も繰り返し説明することに。
でも、こんな時でも「せっかくみんな集まったんだから写真撮っとけ」とか「金は出すから食事していけ」とか、周囲への気遣いを忘れません。
(残念ながら、このとき誰もカメラを持っておらず、集合写真は撮れませんでした。病気が治ったら快気祝いにまた集まるだろうから、その時には集合写真を撮ろうよ、と伝えます)
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癌の告知から数日、ステント治療は無理であることがわかりました。
気道が思った以上に狭くなっていたためです。
癌が大きくなって狭窄を起こしていることは間違いありませんが、気道側まで癌が突き抜けてしまっているのかは不明。
あとは、放射線治療で早めに癌が小さくなってくれれば、との思いで放射線治療を開始します。
これが、8月初旬の話。
ところが、この頃から再び体調が悪化。
微熱が続いたり、肺炎を起こしたりで治療が中断したままになります。
とはいえ、結構元気で会話もできます。
見舞いに行くと、病院生活の四方山話が出ます。
寝たきりにならないように歩行リハビリをして、年齢からは考えられないくらい丈夫だとリハビリ士にほめられたとか、向かいのベッドの人は誰も見舞いに来てくれないのに、俺は子供たちが次々来てくれて幸せだとか…
退屈な病院暮らしの中でもそれなりにいろんなことを考える毎日を送っているようです。
家が近いこともあり、頻繁に見舞いに行っていたら「仕事は大丈夫なのか」と逆に心配されてしまいました。
病気はいつか治るんだから、そんなに見舞いに来ないでいいよ、とも言われます。
8月21日、お見舞いに行って子供とキャンプに行ってくると報告した時は、子供に楽しい夏の思い出を作ってやりなさい、と朗らかでした。
ところが、キャンプから帰った23日、留守番電話に容態が悪い、という連絡が入っています。
留守電に気づいた時は既に深夜だったので連絡が取れず、翌朝再び連絡をくれた時には僕は子供を保育園に連れて行っているところで…
とにかく判ったのは、容態が悪くて酸素マスクをつけている、ということ。
容態が悪くて面会謝絶なのか、お見舞いに行ってよいのかわかりません。
やっと昼頃に連絡がついて、お見舞いは大丈夫ということなので慌てて病院へ。
思った以上に元気でした。
酸素マスクで声が聞き取りにくいのですが、十分に会話できます。
このとき見舞いに来ていた妹と母によれば、昨日はもっと苦しそうで、会話なんて出来なかった、とのこと。
ただ、酸素は最大濃度にしているそうですが、それでも息苦しそうではあります。
しゃべったり体を動かして苦しくなることを避けるため、できるだけ寝ているように言うのですが、近くに人がいると話が気になって仕方がない様子で身を乗り出してきます。
酸素飽和度のチェッカーによる数値は、89。
通常の状態を 100 としたもので、93 を下回ると苦しいはず、と看護婦さんの説明。
また、時々痰がからんでむせます。
自分で出せる元気がないので吸引するのですが、これが非常に痛いらしいのです。
お医者さんが来て、説明してくれます。
気道が狭くなっているため呼吸困難だが、癌が大きくなったのか、炎症を起こしているのかは不明、とのこと。
ただ、急な呼吸困難なので炎症を疑っているようで、炎症を抑える薬を投与していきたい、とのこと。
また、全身の苦痛を取り除くため、徐々にモルヒネを使って行きたい、とも言われます。
この際、今の状態だとモルヒネで眠ったような状態になると、目を覚まさなくなる可能性も説明されます。
このときは男の兄弟が僕以外におらず、僕がモルヒネ使用の許可を出します。
(後で長兄に事後承諾を受けようとしたところ、長兄も既に使用許可を出していたそうですが)
翌日25日。
仕事で外出していたのですが、仕事先で妹からのメールを受けます。
意識が混濁した状態になった、とのこと。
モルヒネも使用していますし、仕方が無いことでしょう。
26日、仕事の合間を縫って病院に行きます。
妹と姉がいました。
このときも意識は無く、目はうつろな感じでした。
寝苦しいのか、時々手足を動かしています。
25日はもっとグッタリしていていて、動かなかったそうです。
また1日あけて、28日。
仕事は忙しかったのですが、週末に入る前にもう一度お見舞いに行っておこうと思い、時間はわずかしかありませんでしたが病院へ。
夕方5時と見舞いには遅い時間だったこともあり、他に誰もいませんでした。
父は目を開けてはいますが、うつろな状態。モルヒネが効いているのでしょう。
誰と会話できるわけでもなく手持ち無沙汰ですが、なんとなく10分ほどその場にいます。
酸素飽和度のチェッカーを見てみようと思いましたが、センサーが外れていて数値が出ていませんでした。
センサー自体は、常に付けていないとならない性質のものではなく、測定の際にだけつければよい、と聞いていましたが、今の状態の父が自分で外すこともなさそうなので、誰が外したのかな、と思うと同時に、数値が見れないことを多少残念に思いました。
しばらく待っても誰も来ないようなので、ベッド脇のメモ用紙に
「様子を見に来ました PM5:00 また月曜に来ます」
と書置きして帰ります。
父に、というよりは、この後見舞いに来るであろう誰かに宛てて。
車まで来て、メールが来ていたことに気づきます。
妻から「義姉さんより電話有。バイタルが下っており、今夜危ないかも知れないそうです」という内容でした。
時間を見ると、病院に入る前には届いていたらしい。
しまった、病室に入る前にメールに気づいていれば…とは思いましたが、どちらにせよ子供を保育園に迎えに行かなくてはなりませんので、そろそろ帰らなくてはなりません。
見ていたとしても、何も出来ませんし、同じことだった、と思います。
詳しい話を聞きたかったので、夜7時ごろ長兄に電話しました。
看護婦さんが言うには、今夜危ないかも、という同じ内容。
ただ、他の兄弟にも連絡は入れたことなどは判りました。
自分は子供がいるのでまだ病院に行けませんが、たとえ深夜でも、異変が起こったら連絡をもらう約束をします。
子供を寝かしつけ、深夜の連絡に備えて準備をしていると、10時40分ごろ電話が来ました。
呼吸が止まった、とのこと。
すぐに自転車で病院に駆けつけます。
距離が近いので車を使ってもあまり時間が変わらないことと、必要であれば妻が子供たちを連れて自動車で移動する必要があるためです。
呼吸が止まった、と連絡をもらったので、もう間に合わないことは判っていました。
自転車で夜の街を疾走しながら、夕方にあったのだから、死に目に会えなかったわけではない、と自分に言い聞かせます。
病室に入ると、北海道に住む長姉以外は、兄弟全員揃っていました。もちろん母もいます。
10時46分に死亡が確認された、と聞かされます。
次姉と妹は目を赤くして静かに泣いていました。
まだ次兄の配偶者(義次姉)が来ていません。(次兄だけ、先に電車できたらしい)
待つあいだ、しばらく思い出話となります。
次姉によれば、父は生前「おれは目を閉じてから死ぬんだ」と言っていたそうです。
これは、戦争で目を開けたまま死んだ人をたくさん見てきた記憶から。
そして、意識が混濁しても開けていた目は、死んだ時に自分から閉じたのだそうです。
そういえばお父さんが赤い花好きだって知ってた? と妹。
お見舞いにヒペリカム(主に赤い実を観賞用にする植物)を買って来たら、この花は好きだ、と言っていたのだとか。
父は庭弄りは趣味でしたが、特にどんな花が好きだとか言うことは余りなかったので、初耳です。
#もっとも、この後家に帰って妻に話したところ、
「お義父さんの好きな花は、朱色と薄紫。大輪のものよりも、小さな花がたくさん咲く、房やスプレー状のものが好き」と明確な答え。ヒペリカムはこの指摘に確かに適合します。
妻も園芸好きなので、父がうちの庭においていった植物を見るだけで大体好みが判るそうです。
母が言うには、看護婦さんは「深夜11時から1時」と時間を予測していたそうです。
10時46分、というのはそれより少し早いけど、さすがに専門家なんだねぇ、とみな感心します。
しばらくして、義次姉と子供が到着しました。
これで、来られる人は全員来た、ということで、看護婦さんを呼びます。
体を拭いて、服を着替えさせるというので一端病室を出ます。
深夜の病院です。他に寝ている患者さんもいるので、談話スペースに静かに移動します。
…談話スペースの椅子が全部埋まってしまいました。駆けつけた人間だけで、16人いました。
その後、体を拭き清めたので、死化粧をします、と看護婦さんが呼びにきてくれ、母、次姉、妹が化粧をしにいきました。
終わったというので見に行くと、土気色になりかけていた顔に赤みが差し、開いていた口が閉じられ、穏やかに寝ているようになっています。
葬儀社の手配など、病院に任せていましたが、しばらく後にお迎えが来ます。
この日は、一端実家へ。父も早く家に帰りたがっていましたから。
遺体を安置し、線香を供えます。
そのまま、葬儀社の人と今後の相談をします。
大筋が決まり、細かな詰めは明日、ということで打ち合わせが終わったのが深夜3時半でした。
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家に帰って寝たのが4時半過ぎ。いつもなら起きる時間です。
(子供を寝かしつけるのと一緒に寝て、早起きして家事をするのです)
長女が起き出し、「おとーさん おーきーてー」と僕を起こしたのが6時半。
「おとーさん ごはん つくってー」というので朝ごはんを作っていると、長男と妻も起きてきました。
さて、この日は子供たちも懐いている、妻の大学時代の友人である、かおるさんが遊びに来る予定。
部屋を適当に片付けつつ、いろいろと準備をします。
片付けていたら、その様子で察したのか、長男が
「かおるさん いつ来るの?」と聞いて来ました。
なんて勘が鋭いんだ。
黙っていても意味は無いので、全て明かします。
まず、かおるさんが今日遊びに来るよ、という子供の喜ぶ話題から。
そして、子供たちも何度かお見舞いに行っていたが、おじいちゃんは病気で入院していたこと、病気を治そうと頑張っていたのだけど、難しい病気で治らなかったこと、そして、昨日の夜死んでしまったので、お父さんはおじいちゃんの家に行って、いろいろな仕事をしてこないといけないこと。
お父さんは、お母さんに車でおじいちゃんの家まで送ってもらうから、子供たちもおじいちゃんに最後の挨拶をしていきなさい。
その後は、かおるさんを駅まで車で迎えに行って、今日はかおるさんと一日遊んでもらいなさい。
…かおるさんには、この時点で父の訃報は伝えていません。
妻一人で1日中3人の子供の相手をするのは無理だし、かおるさんに訃報を伝えたら、きっと遠慮して来てくれなくなるので、ほぼ騙まし討ち状態。
長男、長女ともお線香をお供えして手を合わせましたが、どの程度意味を理解しているかは不明。
長男は、ペットのハムスターが死んだ時は意味を理解したので、「死」というものは判っていると思います。
ただ、ハムスターはよく見ていたけど、おじいちゃんは年に3回くらいしか会わなかったからね…
長女は、「おじいちゃんにバイバイしてね」というと、「バイバイ」と手を振ったあと…「ぼく おうちかえる!」
つまり、バイバイとは家に帰ること、という認識なのでした。
かおるさんも待たせているので、妻と子供たちはここで帰宅。
ふたたび兄弟が集合し、昨日(というか、今朝未明)に葬儀屋と相談した内容を確認します。
ここで、妹と次姉が、日程を一日後ろにずらせないかと提案。
この日が既に土曜日ですが、日曜日に通夜、月曜日に告別式、という日程にしていました。
しかし、朝になってこの日程を周囲に伝えようとして…会社は土曜日だから伝えられない、ということに気づいたのでした。
せめて月曜日が通夜であれば、月曜朝に会社に伝え、夜の通夜に列席してもらえるかもしれません。
…なによりも、妹の気持ちの整理がまだついておらず、お別れするのが辛い、という気持ちが最大の理由のようでした。
しかし、喪主でもある長兄は、すでに親戚にも日程を伝え、会社にも休みを申請した後でした。
今から日程を変えると、かなり予定が狂います。
お互いの気持ちはわかるが、どうしてよいかわからず、しばし膠着状態。
で、僕のほうから提案。
日程変更したとして、大阪の親戚は新幹線のチケット取るのも難しくないだろうから、まだ何とかなるでしょう。
北海道の長姉は、すでに飛行機のチケットを取ったと言っているので、こちらで余分に一泊してもらうことになるかもしれません。
近所の友人などは、申し訳ないが連絡の手間さえかければ変更は可能でしょう。
あとは、葬儀社のほうで既に式場の手配などを行っているので、これが変更可能かどうか。
変更するかしないか、ではなく、変更できるかどうかを葬儀社に問い合わせて、可能だったらその条件を見てから再び検討してはどうだろう?
この提案で、長兄も「それなら、まず葬儀社に聞いてみよう」と言ってくれます。
聞いた結果は「不可能ではないが、やめたほうがよい。過去の例では、大抵連絡不十分で当初日程で来てしまう人が出て、せっかくのお式にケチがつくことになる」でした。
一応、参考に日程を変えた場合に開いている式場も探してくれました。
その場合、より広い式場になり、値段も上がるそうです。
この結果を受け、今度は義次兄から提案。
月曜が通夜になれば、連絡はしやすい一方、平日なのでこれない人も出て、参加者は同程度だと思われる。
だとすれば、式場が広くなると閑散とした雰囲気になり、さびしい式になってしまう。
連絡不十分になりやすい、ということも含め、当初日程のままのほうが、よい式になるのではないか?
これで全員が納得。
意見は多少食い違っても、よい式で父を送りたい、という思いは皆同じです。
明日の通夜の準備もあるので、家の遠い次兄家族が帰り、ついで次姉家族も帰ります。
葬儀社の人が来るまで、僕は少し仮眠。
…1時間ほどで葬儀社の方が来ました。打ち合わせを続けます。
葬儀社の中には、お任せパックを用意するようなところも多いとのことでしたが、この会社の場合はそういうことはしていないそうです。
お任せパックだと、手軽ではあるが後で後悔することも多いから。
故人にしてあげられる最後のこととして、すべて納得した上で望んだほうがよい、という考え方のようです。
打ち合わせられる内容は多岐に渡ります。
祭壇を飾る花の種類の大まかな指定、なんてことまで出来ます。
洋花で、父が好きだったという赤と紫を中心にそろえてもらうことにしました。
祭壇を豪華にするよりも、その周りに飾られる供花を増やしたほうが値段の割りに見栄えがする、というアドバイスもあったので、従うことにします。
打ち合わせ終了後、妹夫婦も帰り、残されたのは僕だけ。
妻に連絡を取り、タイミングを見て迎えに来てもらうことにします。
打ち合わせの結果、手伝いをしてくれる人が1日目、2日目とも4人、のべ8人必要、とわかったので兄は電話で手配を始めます。
遺影用の写真が必要なので、僕はこちらの作業。
デジカメで取った写真が入っているフォルダを片っ端から眺め、父が大きく写っている写真を手当たり次第にピックアップ。
…父は照れ屋で写真に写りたがらなかったため、顔の小さな集合写真程度しかありません。
それでも、多くの写真を探して、6枚のスナップ写真を選び出すことが出来ました。
どの写真も、明るすぎたり暗すぎたり、一長一短。
でも、葬儀社はこの道のプロですから、なんとかしてくれるはず。
(自分でも、時間さえあれば Photoshop で加工できますけどね)
技術には疎い長兄に、表情さえよければ加工できるはずだから、6枚の中で表情だけで優先順位をつけておいて、あとは葬儀社と相談してくれ、と託します。
これで事前準備は終了。
お礼も兼ね、かおるさんも交えて夕食へ。
かおるさんはこの日、長男の誕生日プレゼントを持ってきてくれたそうなので、COCO'S へ食事へ。
COCO'S って、誕生日の子にはケーキとプレゼントくれるんだよね。長女の誕生日に確認済み。
およそ半月遅れ、2回目の誕生祝です。
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通夜の日。
通夜というのは夜やるものだと思っていたら、遺族は4時間前から準備があるのでした。
礼服はあるのですが、数珠は持っていません。
また、使えると思っていた革靴が加水分解していたことに気づきます。
…葬儀場に向かう前に、仏具屋、靴屋をはしごします。
直前に慌てているのもよくないのだけど、葬式っていうのは常に急なもので。
うちの子供は5歳以下で、まだ参加は無理だろう、と思っていたのですが、あえて連れて行くことにします。
従兄弟と遊んでいれば何とかなるかも、という妻の淡い期待です。
買い物があったので家を早く出ましたが、早すぎたようです。
式場についても誰もいませんでした。
祭壇すら、まだ準備中だというのでとりあえず控え室へ。
しばらくたってから見ると、立派な祭壇でした。
結局、供花が18個、供物も3個集まっていました。あわせて10個もあれば立派なお式だ、と葬儀社の方は言っていましたから、豪華な部類なのでしょう。
供花は指定どおり赤・紫を中心にまとめられていましたが「お義父さんが好きだった色とは微妙に違うね」と妻。
まぁ、そこは言葉で微妙なニュアンスを伝えるのは無理なので、心を尽くしたということでOKでしょう。
そのうち長兄が父の遺体と一緒に到着し、他の兄弟も集まり、やがて納棺式が始まりました。
子供たちも、まだ興味深々でおとなしいです。納棺式に参加することにします。
まず死水を取ります。列席した全員が綿に含んだ水を遺体の口につけるのですが…なにぶん、人数が多すぎます。
うちの子供たちも参加して、母と子供、孫までで総勢23名。なかなか終わりません。
つづいて、また全員で体を拭いて清めます。
(遺体の保存のためにドライアイスで冷やしてあったため、手が触れたらすごく冷たかった…)
続いて、父の遺体に改めて死化粧が施されます。最後の髭剃りも。
次兄の「…へぇ、ひげそるんだ」発言に、周囲にもちょっと笑いが。
その後、また遺族全員で死装束を着させます。
最後に、死装束の「意味」を説明してくれて、遺族男性の手で納棺。
遺族男性のみなのは、一応力仕事なのと、持ち上げる都合で人数が多すぎると作業できないから。別に男尊女卑ではありません。
納棺時に一緒に入れたもの。
酒(200ml紙パック)、タバコ1箱、蕎麦(乾麺)、お守り、千羽鶴(作りかけ)、よく着ていたセーター。
食道癌が死亡原因でタバコと酒というのもどうかと思いましたが、あの世に病気は無いそうなので、好きなものを思い切り楽しんでもよいのではないでしょうか。
蕎麦は好きで、入院してから飲食禁止になって食べたがっていたので。
お守りは、入院してから妹が買ってきたものです。
千羽鶴は、同居の長兄の次女が人知れず作っていたらしい。
セーターは、よく来ていたのを覚えていますが…
「このセーター、あんたのよ」と母に言われます。
僕が高校生のころ、母が買ってきたのだけど、僕が全然着ないのでその後父が着ていたのだとか。
そんなの、全然覚えていません。
これで納棺式は終了です。
線香を供え、控え室に戻ります。
だんだんと親戚が集まってきました。
うちの子は、飽きてきて走り回っています。
親戚もたくさんいます。兄弟の配偶者の弟、とかのレベルになると、誰だかよくわかりません。
知っている顔だと、話をしたり、お茶の準備をしたり…それなりに忙しくすごします。
通夜開始。
うちの子は完全に飽きているし、1時間も座っていられるわけが無いので、最初から妻と控え室に残ることにします。
(それでも、式の途中に時々叫び声が聞こえていました)
焼香など、形式どおりに進むので詳細は割愛。
土曜日の連絡になったので友人たちはメールを見ていないかな…と思っていたのですが、みんな来てくれていてびっくり。
小学校の友人4名、高校の友人・恩師3名、仕事上の友人1名。
遠くてこれなかった大学の友人や仕事上の友人も、翌日の葬儀の際に弔電をくれていました。
(これで、期待していた…期待以上の知り合いを全て網羅)
通夜の後は会食。
食べることも供養のうちです。
うちの長女、珍しいものがたくさんあるので、ひたすら食い続けて…吐きました。
こういうハプニングも、まぁご愛嬌。
本来の「通夜」の意味どおり、兄弟数名はそのまま夜を明かします。久しぶりに兄弟揃っての昔話が、結構楽しかったそうです。
僕は子供たちもいる都合上帰りましたが、できることなら寝ずの番に加わりたかった。
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冒頭から読む場合はこちら。
告別式。
台風が来て、朝からすごい雨でした。
昨夜も雨は降っていましたが、これは葬式らしい涙雨。
この日ほどの暴風雨は、もう涙雨のレベルではない。
もっとも、当家の冠婚葬祭に赤道直下からの大物ゲストは欠かせないのかもしれません。
この日も実際の式の1時間半前に集合していましたが、特に早く来てやることもなし。
遅刻者などがいないように、あらかじめ早く時間が設定してあるのでしょうね。
うちは、長男、長女を保育園に預けてからの参加です。
平日とあって、親戚以外の出席者は1名だけ。
でも、親戚だけでも50名近い人数でした。これで十分。
ひととおりの読経・お焼香が終わった後、いよいよ献花に入ります。
祭壇を飾ってあった供花を棺に入れます。
親戚の人数が多いので、てきぱきと…全員が入れても、まだ花は大量に余っています。
遺族や特に親しかった人などは2度、3度と花を入れます。
大阪の親戚は「最後に飲みなさい」と酒をどんどん遺体周辺にふりかけ、涙ながらに周囲の笑いを誘います。
「最後だから、お父さん触っとこう」と兄弟がぺたぺたと顔に触ります。
僕もほほに触れました。冷たくはなっていますが、結構軟らかい。
見舞いに行ったときにはいつも握手をしていたので、もう一度握手したい気持ちになりましたが、それは叶いません。
「最後にお父さんのおでこにキスしていい?」
との妹の発言で、周囲に笑いが。
「じゃぁ、わたしも」と次姉、長姉。
「お母さんもしときなよ」と妹。私はいい、という母に「最後のキスがお母さん以外じゃ駄目だよ」と迫ります。
でも、母のキスの後に「やっぱほっぺたにもしておこう」と妹。両頬にキスをします。
「小さい頃、お父さんに(頬へのキスを)よくやられたよね」「ひげが痛かった」
と次姉、長姉の思い出話に、また笑いが起こります。
泣き笑いの中、遺族男性の手で蓋が閉められ、出棺となります。
遺族が笑いながら見送る告別式って、幸せなことなのだと思う。
この後は車で火葬場まで移動です。
参列者にはマイクロバスが用意されていますが、僕は自家用車です。
終了時刻が微妙なので、場合によっては妻が車で子供たちを保育園に迎えに行くために。
車の中で妻が思い出します。
「そういえば、次女のお食い初めまだやってなかった」
次女は4ヶ月になったばかり。お盆の頃に100日だったので、お盆に家族が集まった席でお食い初めを、と考えていました。
でも、父の入院があってすっかり忘れたままに…
お食い初めというのは、親戚一堂の前で、初めてのご飯を食べる(ふりをする)儀式です。
大抵は海のものと山のもの、豪華な食事が用意されます。
…あるじゃん、この後。喪主である長兄の許しが出たら、そこでやらせてもらうことにしよう。
火葬場。
全員が揃ったところで遺体が火葬場に入れられ、その前で焼香が行われます。
その後は控え室へ。50人もいると、控え室はギュウギュウでした。おそらく、こんなに多くの人が参列することは少ないのでしょう。
1時間ほどで火葬は終わります、昔は3時間くらいかかった覚えあるけど、今の炉は高性能らしい。
つづいて骨上げとなります。
…箸が長いステンレスだ。木と竹ではないんだ。
人数が多いためか、それともここではそういうシステムなのか、2人づつ2組になって、4人づつ骨上げを行います。
(通常、火葬後の骨を、木と竹など材質の違う箸で、二人一組になって骨壷に入れる。このことから、不揃いの箸を一組にして使ったり、箸を使って2人で1つの物を持ったりすることは縁起が悪いとされる)
非常に立派で大きな骨が残っています。
リハビリ士に丈夫だといわれた、と自慢していたことが思い出されます。
参列者全員が骨上げを終わったところで、職員が丁重に説明。
「故人の方、非常に体が丈夫でいらしたようで、このままでは全ての骨が骨壷に入りません。
失礼して、すでに入っているお骨を整理させていただきたいと思うのですが、よろしいですか?」
誰も何も言わないので、長兄がお願いします、とだけいうと、骨壷の中央にステンレス箸を突き立てます。そしてぐりぐりぐりっ…とかき混ぜる。
これで、骨が砕けて半分くらいの容積になりました。せっかく綺麗な骨を拾ったのに、いいのかな。
「では、続けて残ったお骨を、説明しながら収めさせていただきます」
この骨は大腿骨です、腰骨の一部です、背骨です、腕の一部です、手の指です…と説明しながら骨壷へ。
残った細かな灰もざらざらと骨壷に納めますが、骨壷の蓋のほうにいくつかの骨があらかじめ取ってあります。
「最後に、これが喉仏です。座禅して合掌している人の形に見えます。
そして、下あご、頭蓋骨を入れさせていただきます。」
そして、遺品のめがねを骨の上に乗せ、骨壷に蓋をしてからテープで蓋に封をしました。
位牌は喪主である兄が持ち、母が遺骨を、妹が遺影を持って帰途につきます。
初七日・精進落し。
場所を料理店、鎌倉御代川にうつします。
すでに宴席が整っていました。
まずは繰上げ初七日法要。初七日は、本来命日を1日目と数えて7日後に行うものですが、今では葬式の後に続けてやってしまうことが多いそうです。親戚一同が1週間後にもう一度集まるのは大変だから。
料理、座席は人数分ぴったりに揃っています。葬儀社の人が、火葬場で人数を確認して1時間前には人数の連絡を入れてあるのです。
でも、一つ困ったことが。うちの次女(4ヶ月)を寝かせるために、座布団もう一つ欲しいな…。
仲居さんに「子供を寝かせたいので、座布団一枚いただけませんか?」と言うと、「少々お待ちください」と、2枚の座布団と、なにやら熊のプーさんが描かれたバッグを持ってきました。
なにやらひらりひらりと座布団2枚をひっくり返しながら繋げて敷き、プーさんバッグの中から子供用のシーツ、枕、タオルケットを取り出し、即席の簡易ベビーベッドが完成します。
そこまでは期待していなかったのに、高級料理店だけあって、さすがによいサービスだ。
しかも、妻が「すごい! 座布団敷く作法があんなにしっかりしてるの、はじめてみた」と驚いています。
僕は作法なんて知りませんでしたが、座布団は相手の前で両面を見せ、二つ折りにして、それから敷くものなのだそうです。そうすることで、座布団の中に毒針や刀などを仕込んではいないことを証明するのだとか。
さすがです。でも、妻が作法を知っていたからよかったのですが、作法知らなかったら「なんかひらひらやってて、なかなか敷いてくれないなー、なんだろうなー」で終わりでした。作法というのは面倒くささと紙一重。
全員揃ったところで、繰り上げ初七日の法要開始。
お坊さんが、ここはお料理屋さんで焼香はできないので、と、代表して長兄に線香を供えるように促します。
そして、読経。
…列席者はただ合掌しているだけです。
僕はお坊さんのすぐ近くだったので、読経している経典を覗き見て、「あぁ、言葉だけじゃなくて、ちゃんと楽譜になっているんだな」とか、「なかなかリズミカルでいいノリだなぁ」とか、そんなこと考えていました。
宗教にとって、音楽って非常に大事です。
初七日の法要が終わったことで、形式上忌が弱まります。
そこで、忌中は絶っていた肉・魚を食べてもよいことになります。
これが精進落しの会席。すでに並んでいた料理は、このためのものです。
親戚(母の弟)の献杯の辞で、宴席開始。
ここまで来たら忌が弱まったのだから、多少のお祝いも許されるだろう、ということで長兄に相談です。
「もしよかったら、次女のお食い初めやりたいんだけど。お盆にやりたかったのだけど、お父さんの入院でそれどころじゃなかったからね。」
急な話なので最初理解されませんでしたが、お食い初めだから親戚が集まっていたほうがよい、豪華な食事があったほうがよいことを説明したら
「じゃぁ今やっちゃいなよ…あ、でも、こういう席でやっても良い物なのかな?」と長兄。
死者を弔う場所だからこそ、新たな命をつなぐ儀式は供養になると思う、と僕なりの考えを披露。
「じゃぁ、せっかくだから親戚の前で発表してからやんなよ」
というわけで、隅でこそこそとやろうと思っていたことを、次女を抱きかかえて前に立って、大々的に発表。
11人目の孫で、今4ヶ月なので、お食い初めをやりまーす。と言ったら、拍手喝采。
急に思いついたので、カメラを持っていませんでした。
次兄が車にある、というので持ってきてくれます。
お食い初めに必要な石(歯固め石)は、さっきよさそうな石を拾ってきました。
本来氏神様に借りるものですが、この際何でも良いです。最後に氏神様に奉納することで良しとさせてもらいましょう。
多分、こんなに多くの親戚に囲まれてお食い初めをする子というのは珍しいのではないか、と思います。
親戚で酒を酌み交わす人もいて、思い出話に花が咲き、やがて終了時刻となりました。
式で祭壇を飾っていたお供物が、小分けしてビニール袋に入れられてお土産になっています。
遠方から来ていて重いからいらない、と辞退する人には無理強いせず、しかし供養だから食べてください、と皆に呼びかけ…
無造作にとっていく人、缶詰の品定めをする人、高級フルーツを狙う人、それぞれです。
余った分は、とりあえず僕が家に持って帰ることにしました。
後日また集まるでしょうから、缶詰はその時分けます。フルーツは傷むものだからうちで食べさせてもらいます。
式次第が遅れることも無く、子供たちを保育園に迎えに行くのに丁度良い時間でした。
僕は多少飲んだので妻に運転してもらって…夫婦揃って喪服で保育園に行ったので、先生に驚かれましたけどね。
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訃報が続きます。
9月16日、父方の祖母が他界しました。百歳でした。
通夜が19日、告別式が20日に行われました。
子供の頃は、毎年正月には祖母の家に集まっていました。
しかし、20年ほど前からは「もう年だから、人が集まるのは疲れる」と祖母が言ったため、集まらなくなっていました。
最後に会った記憶は、確か15年位前。
戦死した祖父(当然あったことが無い)の50回忌法要でした。
僕の子供も妻も、祖母には当然あったことが無いので、僕だけの参加。
実は、祖母が「もう、数日しかもたないと思う」という連絡が入ったのは、まだ父が入院中の8月初旬。
父が癌であることはわかり、しかし詳細な状況はわからないまま、「あぁ、(親より先に死ぬ)親不孝にはならないでよかった」と心の中で思ったものです。
しかし、祖母はそれから1ヶ月近くもち、父は容態が急変して先に他界しました。
そのような「心の準備」はあったとしても、やはり訃報というものは突然やってきます。
祖母の家は千葉の松戸。JR船橋駅から東武線に乗り換えて沿線です。
泊まるところを確保しようとホテルを探すと…
連休の始まりで、船橋はディズニーランドからそう遠くないところ。
ホテルは全部埋まっています。
兄に「ホテル取れた?」と聞くと、少し離れた本八幡にとった、とのこと。
調べたらまだ空き部屋があったので、同じホテルにしました。
実は、兄弟のうち4人が同じホテル。
今回、立場としては、ただの「親戚」なので、列席しただけです。
なので、詳しい話は省きます。
自分が面白かったことだけ、四方山話で。
祭壇周囲の幕の色。青白でした。
後で気になって携帯で調べたら、青白幕(浅葱幕、というのが正式な名前)は鯨幕(黒白の幕)より歴史が古いんですね。
「神様が来る場所である」ことを示すために昔から青白の幕を張るそうです。弔慶どちらにでも使われたとか。
これが、江戸時代には「高貴な色」として青の変わりに黒が使われるようになり、その後江戸末期から明示にかけての西洋文化の流入で「黒=死の色」となって、弔事にのみ使われるようになったとか。
で、弔慶両用だった鯨幕が弔事専用になってしまったため、慶事用に作られたのが紅白幕。歴史が一番浅く、正式名称も「紅白幕」です。
これが、白黒の鯨幕よりも…なんというか、軽やかで清潔感があり、非常にいい感じです。
重たい空気になりがちな葬儀が、必ずしもそれだけにはならない感じがしました。
ただ、仏式の葬式で「神様が来ている場所」なのはどうなのだろう?(神仏習合だけどね)
初めて知ったので、家に帰ってから妻に話したところ、青白の幕を葬式に使う地域があることは知っていたとか。でも、歴史は知らなかったそうです。
で、ついでに「鯨幕は、鯨尺が由来ではないの?」と妻。
僕は白黒の色が鯨のようだから、だと思っていました。
妻によれば(注:ここに書く上で裏づけ調査もしましたが)、鯨尺というのは、着物を作るための物差し。
着物の身頃として必要な長さは一尺ですが、縫い代を考えて二寸長く作ってあります。
で、鯨幕は、その一尺二寸の反物を、そのまま縫い合わせただけ(必要以上の加工をしていない)だから「鯨」なのではないか、というのが妻の説。
初めて聞いた説ですが、それなりの信憑性があります。
現代人の多くが「鯨尺」を知らないため、白黒が鯨なのだろう、程度に考えている可能性もありますし、きっと、語源なんて一つではないのです。
というわけで、一説としてここに書いておきます。
(この説に従うのであれば、色が何色であっても鯨幕と呼んでよいことになる。実際、江戸以前は浅葱幕しかなかったわけで、それが「鯨幕」と呼ばれていたかもしれない)
天気図では台風が来ていましたが、遠い海上を北上していきました。
なので天気は晴れ。
「今回は台風来なかったね」と妹に言うと、「あれはお姉ちゃんのせい」だそうです。
お姉ちゃんとは、北海道の長姉のこと。
自身の結婚式も雨(これは僕は忘れていた)で、妹の結婚式にも、父の葬儀にも参加したが、今回は参加しなかったので台風が逸れたのだ、ということ。
父の骨は、骨壷に収まらないほど立派でした。
さすがに、祖母は多くの骨が火葬時に砕けてしまったようで、拾えたのは僅かでした。
しかし、死ぬ1ヶ月前まで、非常に元気だったといいます。
2年前には脳梗塞で入院したそうですが、半年ほどで完全に回復して、お医者さんも年齢のわりに元気だ、と驚いていたとか。
それでも、百歳にもなると当然のことながら、体が弱っていたのでしょう。
死因も老衰。なんの病気でもありません。
葬儀にも多くの孫・ひ孫が列席し、堂々の大往生でした。
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