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02-06 1日30品目
02-06 「間違っている」は間違っている
妻は相変わらず風邪気味なので、朝ごはんを作っていてふと思った。
納豆と味噌汁の朝ごはん。
たとえば味噌汁の具が、豆腐と油揚げでも不自然は無いだろう。
おかずで、冷奴に醤油かけてもいいや。箸休めに五目豆なんかがあってもいい。
豆腐は大豆を茹でて絞った汁(豆乳)に、にがりを加えて固めたもの。
油揚げは、豆腐を薄く切って大豆油で揚げたもの。
味噌も醤油も大豆を発酵させたもの。納豆も大豆を発酵させたもの。
こんなに大豆ばっかでいったい何品目に数えられるのか。
発酵したものなどは違う品目と数えるのは知っているのだけど。
大豆が日本の食生活に欠かせない、というのは昔から言われることなんだけど、大豆とお米だけあれば十分バラエティ豊かな食事ができそうだ。
日本人の知恵にいまさらながら感心。
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仕事をしているときにBGMにFM横浜をかけていることが多い。
今日の夕方やっていた番組で「若者言葉は許せる?許せない?」というテーマで意見を募集していた。
許せる派の意見は「別に言葉は生きてるんだから良いじゃん」とか「若者同士が遊びで使っているのに目くじら立てなくても…」とか、寛容な意見が多い。
それに対し、許せない派は「らぬき言葉」などの具体例を上げ、理論的に間違っていると攻撃しているものが多かった。
…ちょっと聞いていただけなら、感情問題で「まぁまぁ、いいじゃない」と言っている許せる派と、理論武装して攻撃する「許せない派」では、許せない派が優勢のようだ。
しかし、感情というのはどうしようもないが、理論というのは理論によって簡単に崩されてしまうという事実を忘れているような意見が多く、見苦しい。
ら抜き言葉、以前から問題になっているんですけど、これって「乱れ」ではなくて日本語の特性のような…
1928年出版の「標準日本文法」という本には、すでに「らを省略して用ゐる」という用例が出ているそうです。
ということは、よく主張されるような「最近の言葉の乱れ」ではなく、1928年にはこの使われ方がすでに当たり前だったということ。
それに、たとえば「見る」に対して「見られる」がどういう関係にあるか? と考えてみるのも面白いです。
「見られる」は、尊敬語でもあるし、可能性を示しているとも取れます。
ぜんぜん違うこの二つの言葉が一緒でいいの? って考えたとき、可能性を「見れる」で示すのもあながち間違いとは言えないのです。
あと、よくファミレスのウェイトレスなんかの使う言い回し、「〜でよろしかったでしょうか」や「こちら〜になります」。
これも、意味が解らん、日本語が乱れていると怒る人がいるのだけど、その人は見識が甘い。
というか、僕も以前は見識の甘い人間だったのだけど(笑)、これは方言なんだそうだ。
それも、方言での丁寧語。方言なら違う地方の人間でも多少はわかるかもしれないけど、普段使わない丁寧語になってくると他の地方の人にはそのニュアンスが伝わりにくい。
まぁ、実際には「方言が元と思われる」だけで、いつのまにかその地方以外の人も使い、イントネーションなども異なる独自の「ウェイトレス語」になりつつあるのだけど。
ってなわけで、理論武装して「その日本語は間違っている」と言っている人は、おおかた間違っている。
それがどんな言葉であろうとも、それなりに広まって使われているということは、それだけのバックグラウンドがある「正しい」用法なのだ。
そうでない言葉は、一時的に流行してもすぐに消え去る。だって、それは言葉ではなくて遊びなのだから。
「チョベリバ」とかって、今誰も言わないよね。
遊びを大真面目に捉えて怒っているんだとしたら、その人は心が狭いだけです。
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