化粧坂の一里塚を越えてすぐのところに、広重が絵に描いた地点があります。
…というか、「ここの風景を絵に描いた」と主張する看板が立っていました(写真の右端)。たしかに、高麗山が道の右に控える形の風景は、広重の絵と同じです。
広重の絵は、大磯の入り口付近を描いています。大磯は化粧坂の終わりあたりから始まっていたはずなので、ここが絵の地点というのは少し早い気もしますが…
もっとも、先に書いたように大磯宿は少しづつ京都方向にずれていっているようです。化粧坂の一里塚も「大磯宿内」とされていたようですので、昔はここら辺が宿の始まりだったとしてもおかしくないのかもしれません。
広重の描く大磯は大雨です。サブタイトルに「虎が雨」とついています。これは、旧暦5月末に降る雨のこと。
吾妻鏡によると、旧暦5月28日は曽我兄弟が敵を討ちとり、十郎祐成が死んだ日です(五郎時致は翌日処刑)。当日は雨で、これは大磯の虎が泣いていたのだ…というのが「虎が雨」の由来。
大磯で雨、というそれだけの絵ですが、その裏にはこれだけのストーリーが隠されていた…というのは、歩く直前に調べて知ったのですが。
さて…大磯あたりまで来ると、田舎なのでそれほど見ておきたいところもありません。まぁ、観光するつもりならそれなりにいろいろあるのですが、歩くことが目的の中心なので寄り道までして観光しようとは思わないのです。
そんなわけで、相変わらず馬鹿話ばかりしながら1時間ほど歩きます。
自動車道と生活道路がなぜか平走している道の途中、2つの道を隔てる土手に一里塚を発見。こちらが本当の十七里目です。
隣には説明看板が立っており、当時の一里塚は200mほど江戸寄りにあった…とのこと。そのあたりは現在車道になってしまったので、土手のあるあたりに再建したようです。
この一里塚からわずかのところに、「相模総社 六所神社」なるものを発見。相模総社?
「総社って何だ? 相模の一ノ宮なら寒川神社のはずだけど」と僕。
「総社ってくらいだから、幕府か何かが偉いって決めたんじゃないの?」と妻。
神社には位があります。上から順に、一ノ宮、二ノ宮、三ノ宮…となっています。じゃぁ、総社ってなんだろう。
後で調べたところ、総社というのはその地域の有力な神様を全部まとめて祀っているのだそうです。六所という名前も、一ノ宮から六ノ宮までの六ヶ所をまとめてあるから。まとめてあるので、一ヶ所行けばすべてに行った御利益があります。
簡単に言うなら、一番偉いのが一ノ宮で、一番強いのが総社 (^^; 一応相模の国に住んでいるので寒川神社は初詣とかに行くのですが、六所神社はまったく知りませんでした。
さて、その後も特に問題も無く歩きつづけます。また45分ほど進んだところで、再び一里塚発見。どうもここら辺は旧跡を保存してあるらしいです。
この一里塚が「押切坂」の入り口となります。ここは急な下り坂。この坂を下って少し進むと、いよいよ小田原市に入ります。
小田原に入ったのは11時過ぎ。でも、まだまだ小田原宿までは遠いです。ここからしばらくは、左手に海を見ながら歩きます。
小田原に入ってすぐの前羽町あたりでは、小さなマンホールにメダカの絵が描いてあってかわいいです。ほかに公開している人がいるので特に書いていませんが、結構マンホールを撮影しながら歩いているんです。
…って言うようなこと以外は、特にこれといったことも無く歩きつづけます。そのまま40分。「一里塚」という名前のバス停を発見します。
「地名が一里塚ってことは、この周辺に一里塚があるはずだ」と探してみると…説明看板を発見。
日本語と英語で書かれた説明を読んでみると、英語では東海道が「Old Tokaido Highway」と訳されています。Highwayなんだ…。微妙にイメージと違いますが、妙に納得しました。