2月8日深夜。明日は東海道を歩こう…と決めて寝床についたのですが、窓の外の天気が気になってよく眠れませんでした。
というのも、雨がだんだん強くなっているのがわかっていたから。天気予報では8日夕方から雨、9日朝には止んでいるとのことだったのですが、降り始めたのは深夜になってからでした。予報よりも少し遅れている?
もし朝になっても雨が降っていたら歩くのはやめようと考えていたのですが、それが気になってよく眠れなかったのです。
2月9日早朝。雨は止んでいました。まだ道は濡れていますが、気温は今までで一番暖かく、歩くには良い日和です。
電車に乗る前にマクドナルドで朝食をとり、前回中断した平塚駅までついたときには午前8時ちょうどになっていました。
江戸時代の平塚宿は、現在の平塚駅よりも大磯寄りにありました。そして、広重が描いた平塚は、平塚の一番大磯寄りの場所から見た風景です。
つまり、絵の「平塚」と現在の「平塚」はずいぶん離れているんです。まずは絵の地点まで移動。これだけで30分も歩きましたけど。
広重の絵では、道の手前の方に木や石の標識が立っています。これが平塚宿の端を表すものだそうです。そして、写真をとった地点はまさにそのあたり。…富士山が山の向こうに隠れているので、微妙に位置が違うのでしょうけど。
この山、高麗山(こまやま)といいます。この山には高来神社(たかくじんじゃ)があります。ここら辺一体の地名を、唐ヶ原(もろこしがはら)と言うんだそうです。
実は高麗山という地名は前回から気付いていて、「高麗(韓国の古い名称)と関係あるのかな?」というのは話題になっていました。それがさらに高来、唐とくればいよいよ確定的なわけで…
「やっぱ、韓国からここら辺に流れ着いた人でもいるのかね?」と妻に言います。
「え? でも、日本海側じゃないじゃん」と、すかさず反論が返ってきます。そういえばそうだな…そこまで考えていなかった (^^;
まぁ、実際のところどうかはよくわからないけど、なんか関係はありそうな気がします。
高麗山の横を回り込むように進み、10分も歩くと化粧坂(けわいざか)に入ります。
ここは、江戸時代よりも昔、鎌倉時代には大磯の中心地だったあたりなんだそうです。…平塚の端から10分で大磯の中心ってことは、この2つの宿は事実上つながっていたということですね。あまりにも近すぎるから、平塚も大磯もだんだん町が離れる方向に移動しているようです。
さて、この化粧坂、鎌倉時代に大磯にいた「虎」という名前の女性が化粧をしたという井戸があることで知られます。
虎は曽我物語に登場する人物です。
曽我物語は、曽我十郎祐成(すけなり)と曽我五郎時致(ときむね)の兄弟が、父親の敵を討つまでの話です。敵は、時の権力者 源頼朝の重臣 工藤祐経(すけつね)。
虎はその話に出てくる白拍子(芸達者で位の高い遊女)です。十郎祐成に想いを寄せているのですが、十郎祐成は知らないふりをしつづけます。頼朝の重臣を殺そうというのですから、失敗しても成功しても自分は死ぬ覚悟なのです。
結局、十郎祐成、五郎時致の兄弟は仇討に成功はしますが、その後殺されます。虎は嘆き悲しみ、出家して尼僧となり、この悲劇話をみなに語り継ぎます。
この虎が晩年高麗山に篭り住んだという話もあります。
曽我物語は、江戸の末期に忠臣蔵が人気となるまでは一番人気のある仇討話でした。江戸時代の人であれば、誰でも知っていたと考えてもよいくらいだそうです。
東海道の名所として、化粧坂の地名が残っているのもそうした理由によるものでしょう。
そして、右の写真が話題の化粧井戸です。化粧坂に入ってすぐのところにあります。
すぐ後ろは民家です。玄関マットが干してあったりするくらい、日常生活に溶け込んでいます (^^; ちなみに、化粧井戸は現在は完全に枯れ井戸です。
化粧井戸のすぐ先には、一里塚跡があります。道の両側に、ここに一里塚があったことを示す標識が…って、右には「十六里」、左には「壱拾七里」って書いてあるんですけど (^^;
面白いのでここには左の写真を載せておきますが、本当はここは十六里目です。