「後少し」と言いながら蒲田から歩きつづけて40分、ついに多摩川にたどり着きます。
多摩川と言えばタマちゃん。タマちゃんといえばスカパーのCM。歩きつづけることから来る妙なハイテンションで、夫婦で CM ソングを歌っている。はたから見たら不気味な二人だろう。
そんな多摩川の手前(というか上空)から川崎方面を眺めたのが、広重の描く「川崎」です。川が目印なので現在の位置もわかりやすい :-)
多摩川は江戸時代は六郷と呼ばれていたそうで、現在も「六郷土手」という地名に名残を残しています。江戸初期には橋がかかっていたそうですが、1688年の洪水で流されて以降は渡し舟だけだったとか。
広重の絵には富士山が描かれているのですが…と周囲を見ると、今でもビルの谷間にはっきりと富士山が見えます。ただし、方向は絵とずいぶん違い、川の上流方向。構図を考えて、多少位置を変えて描いたのでしょうね。
13時50分、長い橋を渡り、いよいよ神奈川に入ります。万歩計はだいたい 19300歩。
さて…僕は「初日は川崎あたりまで行けば良いかな」と思ってスタートしました。しかし、終わりにして帰るにはまだずいぶん早い時間です。「どうする?」と妻に聞くと「もっと歩こうよ」との答え。徒歩の旅はまだまだ続きます。
ひたすら歩くこと、1時間。生麦のあたりまできました。結構足が疲れています。時間も15時になったし、どこかでちょっとおやつでも…
と思っても、ここらへんは工業地帯で休めるような店はありません。ずいぶん前に「マクドナルドまで2.5Km」という看板があったのですが、いつまでたってもそれらしい店は無いし。
3時20分、万歩計は 28000歩で「ジョナサン」があったので入ります。場所は「キリンビアビレッジ」の目の前。あぁ、キリンビアビレッジも行ってみたい…と思いつつ、今行く気は全然なし。今から工場見学しても、ちっとも歩けませんし (^^;
食べたのは、チョコシフォンケーキ(480円)とチョコバナナソフト(480円)。それぞれ+200円でコーヒー付きのセットにしました。
ジョナサンはファミレスですがコーヒーの味には定評がありますし、外が寒いので少し暖かいものが欲しい。
休みながら「やっぱ脚半欲しいよな」…などと言っていると、妻がテーピング用のテープ(スポーツ用のテープ)を取り出し、ふくらはぎに一周、ジーンズの上から腿に一周巻きつけました。
僕もやりたいけど、脛毛にテープを張るのは痛そうなので (^^; 靴下の上に一周。しかし、これは靴下がすぐにずり落ちてしまい無意味でした…
出発は 16時20分。日が暮れかけていました。疲れていたとはいえ、1時間も休んでしまうとは…。しかし、後少しで神奈川です。頑張りましょう。
このあたりで話していた、どうでもいいこと。
宿について
品川宿は東京の端にあって、歓楽街にもなっていた。川崎宿は六郷が増水した時には、船待ち宿としても利用された。神奈川は女性や老人の最初に泊まる宿だったし、戸塚は男性が最初に泊まる宿だった。
そういう宿はそれなりに客が泊まるから良いのだが、その狭間にある保土ヶ谷とかは儲かったのだろうか? 他にもそういう宿はいっぱいあったのではないだろうか?
「宿としては儲からなくても、休憩処で稼いだ宿もあるんじゃない?」と妻。「それに、後半になれば個人差で泊まる宿がバラけるだろうし」
「おとまりは よいほどがやと留女 とっつかまえては はなさざりけり」なんて狂歌もあったらしい。
留女(客引きの女)が無理やり捕まえて泊まってけと離さない、という歌。そういうことがあるくらいなので、保土ヶ谷などはやはり経営が苦しかったのだろう。
この歌は「保土ヶ谷」が「戸塚前」であることを歌に詠み込んでいるという、非常に出来の良い歌。出来がよいからこそ、数百年経っても残っているのだろうが。この後、「いろは歌」や言葉遊びの話になっていく。
入鉄砲に出女
東海道を旅するものは、1日目に男なら戸塚まで、女だったら神奈川までが目標だった。
女性は身だしなみを整えると歩きにくくなってしまうのも理由の一つだと思うが、この「身だしなみ」は、女性が逃げられないようにする目的もあったのではないか?
江戸時代は大名は妻子を江戸に住まわせないといけなかった。これは幕府に人質を差し出していると言うことだ。人質が逃げることを恐れた幕府は、関所でも女性を厳しく取り調べた。(江戸に鉄砲が入ることと、江戸から女が出ることを厳しく取り締まったため「入鉄砲に出女」という言葉が残っている)
身だしなみと言うのもある程度幕府が決めていける種類のものではある。わざと女が動きにくい格好を定めた可能性はあるだろう。
伊勢講
東海道を旅する目的の多くは「伊勢参り」だったわけだが、別にみんなが宗教熱心だったわけではない。
当時は理由無く旅行したりすることは禁じられていたが、「伊勢参り」は旅行するのに十分な理由とされていた。そこで、伊勢参りの名目で旅行を楽しんだだけだ。
旅行には非常に金がかかった。一般庶民は気軽に旅行に出れるものではないし、伊勢から遠く離れた東北地方ではなおさらだ。そういうところでは、よく「伊勢講」が作られた。
伊勢講は、みんなで毎年お金を積み立て、そのお金で代表者一名を伊勢に送るためのもの。代表者はくじ引きで決め、残されたものは「土産話」を心待ちにして残る。
選ばれたものはみんなの金で伊勢参りに行くわけで、手ぶらでは帰れない。どこかの町で新しい技術を身に付けたり、自分の村には無い農作物の種を手に入れたりして帰ることも多く、戻るまでに2〜3年かかることも多かった。こうなると、「伊勢参り」は観光などではなく、村の将来を背負った悲壮な旅となってくる。
しかし旅が長引けばそれだけ金もかかる。途中で金が無くなってのたれ死んだり、住み込みで職人の家で働き始めてそのまま結婚してしまい、村に帰れなくなるなどのことも多かったようだ。