品川  2003/1/15 10:40  「川崎」まで9.8Km

今回の旅の装備として、広重の浮世絵の解説ページを zaurus にダウンロードして持っていきました。

品川駅が近づいてきたので、zaurus を取り出して広重の絵を確認しておきます。そうすれば、どこで写真撮影するかわかるかもしれないし。

えーと、ここは品川駅をすぎた先の商店街のあたりだな。妻と付き合っていた頃に、一度この周辺に遊びにきているのでちょっとは知っています。


品川駅をすぎ、京急の踏切を渡ります。…少し歩いて気付きます。なんか道違うな。

昔、妻とここを歩いたときも同じミスをした覚えがあります (^^; というわけで、本来の道に戻る「抜け道」も覚えていてそちらへ。えーと、1番最初に見える踏み切りは無視して、次の踏み切りで線路を越えてください、と読者の方々には注意しておきます。

品川の「お休み処」商店街に入って少し歩くと、「お休み処」があります。これは商店街の人が旧東海道を散策する人のために用意してある無料施設で、中で無料でお茶が飲めます。

以前に来た時は、ここで品川周辺の旧街道史跡のガイドマップなどを配っていたので、それを見れば広重の絵の地点がどこだかわかるだろうと期待していたのですが…ガイドマップは、現在配布していませんでした。


そういえば、そのガイドマップを見たのも「東海道を歩いてみたい」と思ったきっかけのひとつになっていたかも

「お休み処」到着が、10時40分。万歩計は 9100歩を示しています。お休み処にはいろいろな資料が置いてあったので、妻が品川宿の位置を特定できる情報が無いか調べようとします。そのあいだ、僕はとりあえず「お休み処」自体の写真をとろうと外へ。

すると、目の前に公園。あぁ、そういえばこんな公園もあったよな…と何気なく公園に近づくと、何か書いてあります。どうやら、この公園は、江戸時代の護岸工事の名残を残すようで… これだ!

広重「品川」現在の「品川」



現在の写真、トラックの停まっている左にあるのが「品海公園」で、江戸時代の護岸工事の名残があるのだそうです。広重の絵では海に突き出すように家が建っていますので、ここに護岸があったと考えればまさにこの地点なのでしょう。

ちなみに、品海公園には、現代になってから作り直されたコンクリート製の「一里塚」があります。日本橋より二里だそうです。…広重の絵には一里塚はかかれていませんので、もし当時からここに一里塚があったのだとしたら、推論は間違っていると言うことになります (^^;


hatさんのページコラムによれば、品川の一里塚は1752年の段階で「宿入口に有れど今はなし」だったそうです。広重が旅をしたのは1832年なので、一里塚は絵に描かれていなくて正解。さらにいえば、一里塚があったとすればそれは宿の入り口だった、と言うことで上の写真はまさに「ビンゴ」。

まだ一生懸命「品川宿」の位置を調べていた妻に「どうやらそれらしいところがあったので写真とって来た」と伝え、再び出発します。

品川の商店街は旧街道沿いに作られているので、いろいろな史跡もあります。本陣(大名が泊まった宿)跡などは、現在公園になっています。


品川宿を抜けて1時間ほど、そろそろ昼です。3時間も歩いているので、足も疲れてきました。

どこかで昼ご飯を食べよう…と妻と話していると、大森にデニーズを発見。入ります。12時ジャスト、万歩計は 13000歩。

昼飯は大森のデニーズで旅の記録を書くときは食べたものの写真も撮るようにしているのですが、あまりに腹が減っていたので出てきてすぐに食べてしまい、撮り忘れに気付いたのはほとんど食べ終わってから…

ちなみに、食べたのは僕がハンバーグランチ780円、妻がラザニアランチ780円でした。食べ終わって出発したのが 12時40分。

少し休んだの足の疲れも回復しました。妻が「ちょっとペースが速い」というので、ここから後はゆっくり歩くことにします。


1時ごろには、昔勤めていた蒲田近辺を通過します。蒲田までくれば川崎はすぐそこ、次の駅です。元気が出ました。

蒲田の踏み切りの向こうは歩道も広くなり、非常に歩きやすいです。しかし、川崎は案外遠い…よく考えてみたら、「次の駅」というのは急行の場合の話で、途中には何駅かあるのです。蒲田で働いていたのはずいぶん昔の話なので、いつも使っていた急行電車の記憶しか残っていませんでした…


歩いている間、話をする以外にやることは無いのでずっとおしゃべりをしています。内容はどうでも良いようなことばかりですが、こんなことを話していました。

箱根駅伝について

箱根駅伝ってすごいねぇ、箱根まで5時間でいっちゃうんだよね、と言う話から、飛脚の話へ。そもそも「駅伝」というのは、飛脚が駅(中継地点)で次の飛脚に荷物を託していったことから始まっている。

東海道は江戸時代から日本の大動脈だったわけで、箱根駅伝は当時の飛脚の「再現」となる。

飛脚は3日くらいで江戸から京都まで行ったはずだけど、速度によっても料金が違って、あまり速いのは庶民は使えなかったはず。


後で調べたら、継飛脚(幕府公用:東海道を90時間)、大名飛脚(各大名が設置)、町飛脚(商人が開始:東海道を6日間)の3つがあるそうで、庶民は町飛脚しか使えません。「料金が高くて」と言うわけではないようです。

飛脚制度について

飛脚は、宿場町で「荷」を広げる。旅人は宿場についたら、まずその荷を見に行って、自分当ての物が無いか探す。

もし、誰も受け取らない荷物があった場合は、「先の宿場町に行ってしまったのかも」ということで、荷物は先送りされた。そんな方式なので、どこまで届けるかを最初に決めることは出来ず、料金は受け取り払い。

旅人の装備について

昔の旅人は「脚半」を巻いているわけだが、あれは何のためだろう?

足に鬱血すると「疲れ」を感じるわけで、この場合は地面に座って足を投げ出し、上半身に血が戻りやすくすると回復する。また、本来心臓の力だけでは足から血を戻すことは出来ないが、歩くときの足の筋肉の動きがポンプの役割を果たし、戻すことが出来る。脚半はそれを手助けするのではないか?

妻も陸上経験者なので、「足の筋肉にテープを巻けば長距離が楽になる」事などは知っていたが、理由は不明。ぜひ検証したい気はする。


後で調べたら、脚半はやはり鬱血を防ぐ目的と、山歩きなどの際に草で足を怪我しないようにする目的があるようです。

(ページ作成 2003-01-16)
(最終更新 2006-04-17)

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