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50年代の画面表示技術

少し前に、ファミコン・SG-1000・MSX 30周年だというので80年代の画面表示技術をまとめました。

では、調子に乗って50年代も行ってみましょう。


Whirlwindのことを書いた際の日記に書いていますが、どこかで「画面表示の歴史」を書くつもりだったのです。

でも、調べてみると話が大きすぎて、まとまりきらない。


80年代を抜き出したのは、ファミコン30周年というちょうど良いタイミングだったため。

今回は、そこで書けなかった「画面表示黎明期」の話を書こうと思います。


80年代技術では、テレビの父高柳健次郎氏を追悼しました。

今回は、先日亡くなったダグラス・エンゲルバートを追悼します。

コンピューターと画面の話では、彼を外すわけにはいかないからね。


目次

80年代の画面表示技術(別ページ)

MSXの画面について(別ページ)

ファミコンの画面について(別ページ)

ウィリアムス管メモリ

Whirlwind I

NLS

その後のベクタースキャン

おまけ


ウィリアムス管メモリ

大きな勘違いをしていました。
EDSAC は後にウィリアムス管メモリを搭載…と書いたのですが、これ、大間違いです。

重要な間違いをしたので、修正をしますが「旧版」を残します。この注記は古い版にのみ残します。

画面表示の話なのに、いきなりメモリの話から始めます。


最初のコンピューターとされている ENIAC には、画面表示なんてありませんでした。

計算結果は、結果表示のランプから読み取ります。


この後 EDVAC が設計され、軍の機密にも関わらず、完成前に概要が発表されてしまいます。

(ここらへん、人間ドラマが絡みます。以前の記事参照)


EDVAC の概要を受け、世界中でコンピューターの開発競争が始まります。

1948年6月に Baby Mark I が稼働したのを皮切りに、1949年の4月には Manchester Mark I が、5月には EDSAC が、8月には EDVAC が稼働します。


Baby と Manchester は、どちらもイギリスのマンチェスター大学によるもの。
Baby で小規模な実験を行い、それを元に実用となる Manchester を設計した。

ところで、当時は、メモリをどのように実現するかが重要でした。


EDVAC は技術的に安定していた「水銀遅延管メモリ」で作成します。

Baby と Manchester では、当時の最新技術だった「ウィリアムス管メモリ」を使用しています。


EDSAC は、既に安定していた水銀遅延管をメインメモリにしましたが、後にウィリアムス管も取り付けられます。


この、ウィリアムス管とは、ブラウン管を改良したメモリのことなのです。




80年代の画面表示技術で、ブラウン管の構造は説明しました。

テレビの場合は、定期的に水平方向・垂直方向にビームを動かすことで「走査線」を作っていました。


ウィリアムス管メモリウィリアムス管では、水平・垂直方向共に、任意の位置にビームを撃つことができます。

1度ビームを撃つと、その位置が「帯電」して、2度目のビームで電子が追い出されるかどうかでメモリ内容を調べます。


ブラウン管とほぼ同じ絵だが、赤い部分に帯電させるための絶縁膜がある。
すでに帯電している状態でさらに電荷を与えれば、電荷は追い出されるので、それを検知すればメモリ内容がわかる。


これにより、任意のビットにアクセスできる、「ランダムアクセス」がウィリアムス管の特徴でした。


…メモリとして使いだけなら、単に任意の位置にビームを撃てれば良いだけのはずです。

しかし、ウィリアムス管には通常、ブラウン管と同じように、表面に蛍光体が塗ってあります。

ビームを撃った箇所が光る、と言うことになります。


この、メモリの内容が「見える」というのもウィリアムス管の特徴です。

まだ、計算部・メモリ部共に信頼性の低かった黎明期のコンピューターでは、問題が出た時に目で見て確認できるのは有用でした。


1952 年には、EDSAC のウィリアムス管を表示装置として使用する、「OXO」というプログラムが作成されています。

メモリ装置を表示装置として「流用」するという方法でしたが、コンピューターがブラウン管(厳密には違うとしても)上に画像を表示したのは、これが最初です。


OXO は世界最初のテレビゲームの一つですが、詳細は近いうちに書きましょう。


Whirlwind I

EDSAC と同じ1949年、 Whirlwind I (以下 WWI)が完成しています。

WWI は高速なフライトシミュレータを実現するために作られたコンピューターでした。


このため、当時普通だった「タイプライターによる結果印字」ではなく、出力用のディスプレイが当初から予定されていました。


この時使用されたディスプレイも、縦横の位置を指定し、そこにビームを照射する方式です。

つまり、ウィリアムス管メモリと変わらないことになります。


ただ、メモリとして使用するわけではないので、ウィリアムス管よりも「自由に」絵を描くことができました。


テレビのように、走査線によって画像を作る方法を「ラスタースキャン」と呼びます。

これに対し、任意の位置を示し、そこに光の点を表示することで画面を作る方法を「ベクタースキャン」と呼びます。


WWI では、ディスプレイの研究が進み、途中で改造も行われています。


APTで描いた3D形状当初(左画像)は、128x128 の解像度で、点をうつことしかできませんでした。


中期は、2048x2048 に飛躍的に解像度が上がりました。できることは、やはり点をうつだけです。


後期(右画像)になり、2点を結ぶ「線」を描く機能と、直線で「文字」を描く機能が追加されました。


WWI では、ベクタースキャンディスプレイと共に、ライトペンも開発されています。

ベクタースキャンが表示した「光の点」を感知し、ペンが何に触れているかを認識する装置です。


これにより、画面上に表示した物体に触れ、操作を行うということが可能になりました。


WWI はこの後発展し、 TX-0 、TX-2 、そして PDP-1 になります。

全ての機種に、ベクタースキャンディスプレイは搭載されています。


TX-0 では、511x511 で点をうつだけ。

TX-2 は、1024x1024 で線も引けたようなのですが、資料不足で詳細不明です。

PDP-1 も、1024x1024 で点をうつだけでした。


この書き方だと誤解を招きそうだが、PDP-1 は TX-0 の後継機。
TX-2 は後継機のない行き止まりだが、サザーランドがスケッチパッドを作り、「コンピューターグラフィックス」という学問分野を創設する。
サザーランドの教え子だったアラン・ケイは、その後グラフィカルなコンピューター Alto を作成した。
そして、Alto が Lisa/Macintosh を産み、Windows へと繋がり、現在の世の中がある。
TX-2 は後継機のない絶滅マシンだが、現代に精神は残っているのかもしれない。

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(ページ作成 2013-08-06)
(最終更新 2013-08-28)
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