おしゃべりを楽しもう
前回に引き続き、アラン・ケイの話をしましょう。
よく、アラン・ケイのことを「天才」のように扱っている記事があるのですが、前回、そして今回の内容を読んでもらえればわかるように、彼自身は決して「天才」等というものではありません。
ただ、技術が成熟し、いろいろなことが出来るようになっていた。そして、それらを繋ぎあわせられる幸運な位置にケイがいた・・・
彼自身も子供の時にテレビの有名クイズ番組で「天才少年」と言われたり、決して頭が悪いわけではないのですが、時代の流れなくして彼の功績はあり得なかった、と言うことです。
今回はまず、その時代の空気から話をはじめましょうか。
目次
このころの世の中
1960年代後半から1970年代、大学生を中心とした「ヒッピームーブメント」という運動がありました。アメリカが繁栄し、同時に軍事色を強めていく中で、それに反対する学生達の運動です。
繁栄によって蓄積した富を他人に分け与え、争いはせず、組織を作らず、「個人」としてみんなが仲良く生きていく。「Love and Peace」が合言葉となったこの運動は、やがて大きなカウンターカルチャーとなって各方面に影響を与えていきます。
そんななかで、マーシャル・マクルーハンの提唱した「メディア論」が曲解して考えられるようになります。
彼は、メディア論を表した著書、「グーテンベルグの銀河系」の中で、「マスメディアの発達で、地球は狭くなり、地域による違いがなくなった」ことを嘆いています。文化の違いが消されてしまい、画一化することに警鐘を鳴らしたのです。
しかし、みんなが仲良く生きることをよしとするヒッピームーブメントでは、「地域の違いがなくなった」ことを歓迎しました。文化の違いだとか、深いことは考えずに、みんなが同じ立場に立てるなら良いじゃないか、ということです。
かくして、マクルーハンは意図せずしてヒッピームーブメントの「教祖」の一人に据えられました。
メディア論の内容に付いてはまたの機会に譲りますが、メディア論において「コンピューター」は、マスメディアに変わる新しいメディアとして位置づけられていました。
ヒッピームーブメントでは、マスメディアは抵抗すべき巨大勢力です。また、コンピューターは国が作った戦争兵器であり、これまた抵抗すべきものです。
しかし、このころには一部の学生はコンピューターを自由に使えるようになっていました。ならばどうするか。
神のようなコンピューターを無力化して、人民の手に引きずり下ろしましょうか。そして、マスメディア以上のメディアを作り上げて、みんなで楽しい社会を作りましょう。
パロアルトへ
ユタ大学大学院を卒業したケイは、やがて Xerox社のパロアルト・リサーチセンター(PARC)に招かれます。
当時、Xerox 社はオフィスで使用するコンピューターの技術開発を行っていました。コンピューターの時代がすぐにやって来て、主力商品であるコピー機が売れなくなることを危惧していたのです。
PARC では、ARPA (高等研究計画局)で NLS 開発を推進したロバート・テイラーが開発指揮を行っていました。彼はコンピューターネットワークの作成計画「ARPA-NET」の提案を最後に、Xerox に移籍していました。
ケイは、ここで FLEX の技術を活かし、さらに使いやすいコンピューターの研究をすることになります。
FLEX の研究から、彼は「使いやすいシステム」のアイディアが湧いていました・・・
ボール紙で作られたイメージモックアップ。 左側の表紙の上に置かれているのは、電卓。 |
プラズマディスプレイを使って薄い本のようにしたコンピューターに、スケッチパッドのようなポインティングデバイス。さらに NLS のようなウィンドウシステムを備え、LOGO のように使いやすい言語をつコンピューターです。
これは、コンピューターと呼ぶよりは、「未来の本」でした。ケイは、このアイディアに「DynaBook」という名前をつけます。これは LOGO のように子供でも扱え、教科書にも、スケッチブックにもなるものでした。
ケイの描いた、ダイナブックを使う子供たちのイメージイラスト |
ダイナブックの実現には、5点の問題を克服する必要がありました。
1. どこでも持ち運べるほど小さいこと
2. 使いやすい入力装置があること
3. 見やすい画面があること
4. 直感的に操作できること
5. 強力なパワーを持つこと
目標は、8歳の子供が気軽に楽しめ、子供にも買い与えられるほど安価であることです。
しかし、さすがにハードウェアをそんなに小さくするのは何年も先の話です。とりあえずケイは、「LOGOのように使いやすい言語」の部分を研究します。
つまり、コンピューターのプログラムというのは具体性がないから分かりにくいのです。LOGO では、「タートルに命令する」という具体性をもって、この問題を解決していました。
しかし、タートルだけが相手では出来ることが限られています。そこで、命令できるものを、いろいろな物(オブジェクト)にまで拡大しましょう。また、それぞれのオブジェクトは、SIMULA のような「アクター」として捕らえれば、細かな動作に気を使わないでも、命令を出すだけでプログラムが作れます。
このような方針で、ケイは言語仕様をまとめました。そして、完成すると休暇を取り、旅行にでます。
旅行から帰ると、隣の席の同僚が「面白そうだから作ってみた」と、BASIC で書かれた、新しい言語のプロトタイプを見せてきました。
それは、新しいアイディアを使って 3+4 を計算するだけのプログラムでした。しかし、この言語が正しく言語として動作することが確認されたのです。1972年10月のことでした。
こうしてでき上がったのが、「Smalltalk」というオブジェクト指向言語です。
Smalltalk とは、「おしゃべり」というような意味をもちます。おしゃべりを楽しむようにコンピューターを楽しめる。そんな言語を目指して名付けられています。
Alto
ケイがこのような研究を進めているとき、PARC の研究者達は一つの問題に突き当たっていました。
当時、BSD UNIX によって組み上げられた ARPA-NET はすでに実用段階に入っており、ARPA-NET に接続していなければ、最新の情報を得られないという状態でした。ARPA-NET への接続が、仕事の上でどうしても必要なのです。
しかし、ARPA-NET に接続するためには、BSD UNIX を動かすための PDP-11 が必要でした。
しかし、Xerox は、PDP-11 の対抗機種として、シグマ7を発売していました。Xerox に勤務する以上、ライバル機種を買ってくれ、とは言えません。
悩んだ技術者達は、一つの結論を出しました。
ARPA-NET に接続することを前提として、1からマシンを作ってしまうことにしたのです。そして、そのマシンが十分に「次世代のオフィス製品」となりうるものであれば、それは PARC の研究内容とも合致するものになります。
こうして、初めて最初からネットワークに繋ぐことを前提としたコンピューターが設計されました。
そのため、従来のものよりもずっと扱いやすく、性能の良いネットワーク接続方式も考えられました。この方式は、20世紀初頭の物理学で「光を伝播する性質がある」と考えられていた仮想物質、「エーテル(Ether)」の名を取って、「イーサネット(Ether-Net)」と名付けられました。
そして、マシンは、1973年2月に完成し、研究所のある地名「PaloAlto」にちなみ、「Alto」と名付けられます。
Alto は 256 キロメモリ、2.5Mbyte ディスク、書類1ページと同じサイズの縦型白黒ビットマップディスプレイを備えた、高性能機でした。
ただ、ケイが思い描いたように、スケッチパッドのようなポインティングデバイスはつけられず、NLS に倣ってマウス・キーボード・和音キーボードがつながるようになっていました。
左:ビットマップディスプレイを利用して漢字を表示している。 和音キーボードは標準装備ではない。 机に見える部分が実は本体。 上:Alto のディスクメディア。今は亡きDEC 製。非常に巨大だが容量は2.5Mbyte。 |
Alto には、早速 Smalltalk が搭載されます。ここでは、Smalltalk は言語であると同時に OS であり、作業環境でもありました。NLS のウィンドウシステムをさらに進化させた「オーバーラッピング・マルチウィンドウ」をもち、自分で作ったフォントでテキストを表示することや、LOGO のようなグラフィック機能もありました。
そして、Alto の、Smalltalk による拡張が始まったのです。Smalltalk はプログラムの作りやすいシステムでしたから、Alto の持つ機能はどんどん増えていきました。
テキスト処理システム「ブラボー」、電子メールシステム「ローレル」、ドローイングシステム「マークアップ」等々。
さらに、Smalltalk 自身の機能も、Smalltalk によって拡張されます。それは同時に、OS を使いやすくし、開発環境をさらに整えることも意味していました。
こうして、「誰にでも使える、強力な環境」が次第に整えられていったのです。
Alto のディスプレイと、印刷されたテキスト。 画面とそっくり同じイメージが印刷されている。 これは、当時としては画期的な技術だった。 |
Xerox 社はオフィス製品を作る会社ですから、当然プリンターも用意されました。これは、Xerox 社の持つコピー機の技術を応用したもので、レーザープリンタと呼ばれました。
このプリンタの性能は素晴らしいもので、従来のプリンタのようなカーボンインクのかすれた印字ではなく、活字印刷のような優れた出力を得られるのです。
もちろん、Alto が書類サイズのビットマップディスプレイを持つことを利用し、画面通りの印刷を得るための機能も作られます。
このために、Alto の画面表示には新しい機能が追加されました。それまで普通のコンピューターと同じように黒地に白で文字が表示されていたのに、紙に印刷した書類のように、白地に黒で表示する機能が付いたのです。
こうして、使いやすくなった Alto は、さらに多くの人間に解放されました。使いやすさを実証するために、子供向けのコンピューター教育クラスまで作られました。
その結果、それぞれの人間の持つ興味にしたがって、多くのソフトウェアが作られました。
アニメ作成ソフト「SHAZAM」、音楽演奏ソフト「TWANG」、譜面作成ソフト「OPUS」・・・さらに、名付けられてもいない数多くのグラフィックソフト、電気回路設計ソフト、ゲームなど、Smalltalk が本当に「誰にでも気軽にプログラムが出来る」ソフトであることが実証されていったのです。
ケイは、Alto を意味するためにもまた、新しい造語を作っています。
それが「ワークステーション」という言葉でした。彼はネットワークを電車の線路にたとえ、そこにつながった端末を、「駅」と例えたのです。
仕事に使うためのステーション。パーソナルコンピューターが「個人で使う」ためのコンピューターであるならば、ワークステーションは「仕事のために協調できる」コンピューターでした。
彼は言葉遊びが好きで、いろいろな「新造語」を作っています。
「パーソナルコンピューター」「ワークステーション」「ダイナブック」「パラダイム・シフト」「コンピューター・リタラシー」・・・等々。
彼の作った言葉は、今では彼の意図を外れたところでも使われています。
たとえば、この後の「ワークステーション」は、お世辞にも仕事に使うコンピューターのことではありませんでしたし、「ダイナブック」に至っては、ただ小さいだけのコンピューターの商品名にされてしまいました。
ケイの作成した論文は、論文ではなく詩である、という人もいるくらいに単語の使い方にこだわって書かれています。言葉遊びが根っから好きなのです。Smalltalk 、という言語名自体、語ることの好きな彼らしいネーミングです。
Xerox 社は、 Alto の完成後もこれを市販しようとはしませんでした。それは、まだまだコンピューターの時代がすぐには来ないことがわかったからです。少なくとも、Alto を売らなければコンピューター社会の到来を遅らせることが出来ます。
しかし、Alto を売ってしまえば、ペーパーレスオフィスが実現される。それは、コピー機を主力とするメーカーにとっては自分の首を絞める行為です。
ずっと後に、Star という名前で Alto を商品化しましたが、それも実験的な「未来オフィス」を作成するためのもので、あまり本気で売ろうとはしていなかったようです。
Xerox のこのような態度は、PARC の研究者達を失望させました。
そして、Alto の研究チームの何人かが Apple 社に移籍し、Macintosh を開発することになります。
最後に、Xerox の Alto 開発チームが合言葉にしていた言葉を紹介しましょう。
未来を予言する最良の方法は、未来を作ってしまうことだ
そう、確かに Alto は未来であり、今のパソコン社会はここから始まっているのです。